Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

アザレア ほほえみ ヾ(・∀・*)

2021-03-30 11:50:21 | Weblog

 


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◆突如巻き起こった謎の大騒動 ええじゃないかの乱舞 お札降りは誰の仕業?

2021-03-30 04:16:26 | Weblog

●怪奇現象・天からお札(ふだ)が降る
 1867年7月から翌年4月にかけて、東海道~畿内を中心に民衆たちの大乱舞が起こった。岩倉具視の『岩倉公実記』によると「神符が撒かれ、人々はヨイジャナイカ、エイジャナイカ、エイジャーナイカと叫んだ」とある。その様子を描いた錦絵には、空から降るお札を我先に取ろうとする人々が描かれているのだ。もちろん当時、飛行機やヘリコプターがあるわけでもなく、お札が自然に降って来るなど有り得ない。山の上から誰かばら撒いたと思われるが、それで人々の手元に上手く届くかは、甚だ疑問である。
●倒幕派が仕組んだ大イベント?
 最近の研究で有力視され始めているのが、「空から降って来たように見せかけて、誰かが人の目につきやすい場所に置いて行ったのではないか」とする説。では、誰が何の目的でお札を置いて行ったというのか?
後に、倒幕派の大江卓が「自分が札を造って撒いた」と申し出ている。本当に彼がやったかどうかは不明だが、彼のように幕府に不満を持つ人間の仕業である可能性は高いだろう。というのも、こうした大騒動は民衆に大きな動揺を与えたのだから。幕府にとっては決して好ましくない状況だ。事実この年の10月14日に大政奉還、翌1868年9月8日には年号が明治に改元された。ええじゃないか効果があったのか、倒幕派の狙いは成功しているのだ。


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◆日本で初めて外国人と結婚したのは..... 国際結婚のきっかけを作ったのは高杉晋作だった!?

2021-03-28 04:10:20 | Weblog

●イギリスへ出発!の予定が.....
 今や国際結婚は身近なものとなったが、日本で初めて外国人と結婚した人物は幕末にいた。その人の名は、南貞助。彼は留学先だったイギリスから妻として英国人女性を従え帰国した。日本に於ける国際結婚第1号の誕生である。その貞助のイギリスへ渡るきっかけを作ったのが、高杉晋作だったのだ。
晋作は1865年、イギリスを視察したいと藩に申し出た。
だが藩から旅費を貰い、密航の手配も終えていざ出発という時に、イギリス商人グラバーから「今は藩を離れるべきではない」とストップがかかってしまう。晋作は渋々諦めるが、イギリスへ行ける権利を放棄するのも勿体ない。そこで、従弟の貞助に声をかけたのである。
●国際結婚をした、その理由とは
 貞助は渡英後、勉学に励んだ。だが次第に学費などが間に合わなくなり、彼は仕方なく帰国する。だが貞助は数年後、再びイギリスへ。彼はその頃、日本民族とヨーロッパ人の優秀な血を混ぜるという「人種改良論」を唱えており、日英の混血児を得ようとしていたのだ。その時に出会い、妻としたのが英国人女性ライザ・ピットマンだったのである。もし、晋作が渡英の権利を貞助に譲っていなかったら、この結婚は有り得なかったはずだ。国際結婚カップルを生み出すきっかけを作ったのは、意外にも高杉晋作だったのである。


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Camellia japonica 港の曙

2021-03-27 11:27:03 | Weblog

 


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◆天然痘が原因で崩御したのは嘘だった.....!? 孝明天皇の死の裏には岩倉具視の影があった

2021-03-26 04:05:09 | Weblog

●健康だったはずの孝明天皇
 孝明天皇が即位したのは十二代将軍・徳川家慶の在位中のことである。即位時、天皇はまだ十六歳、政治経験が乏しいままに安政の大獄や桜田門外の変などが起きた動乱の時期を駆け抜けることとなる。また、公武合体運動の推進などを行ない、天皇として尽力した。天皇の多忙さに周囲は天皇の心労や体調を心配するが、天皇は至って健康だったという。そんな天皇が急な発熱で倒れたのは1866年のこと。原因は天然痘と発表される。直ぐに二十四時間体制での治療措置がとられ、その甲斐あってか天皇の症状は順調に回復し始めた.....が、病状は急変。そのまま帰らぬ人となってしまった。
●波紋を呼んだ天皇の急死
 あまりに急な出来事だっただけに、孝明天皇は何者かによって暗殺されたのではないかという暗殺説が囁かれたのも無理はないだろう。「いったい誰が、何の為に天皇を殺したのか」「天皇が死んで一番得する人物は、いったい誰なのか.....」、そこで一人の男に名前が浮かび上がる。後の王政復古の大号令で知られる男、岩倉具視だ。
岩倉具視は嘗て公武合体論者だったが、彼は世間が倒幕ムードになるとアッサリと尊皇攘夷に転向。これが結果的に孝明天皇との関係に決裂を招くこととなってしまったのだ。孝明天皇が在位されている限り出世することは難しい。そう考えた岩倉が天皇暗殺を企てた.....というのである。
●明治天皇へと替わって、岩倉は出世
 孝明天皇から明治天皇へ替わると岩倉は一躍出世。これは孝明天皇が在任していれば有り得ない展開だっただけに、更に岩倉具視による暗殺説を盛り上げることとなってしまったのだ。そんな天皇暗殺説が囁かれる岩倉だが、彼にはもう一つ疑いがかかっているものがある。天皇すり替え説だ。これは睦仁親王が明治天皇となられる際、別の者に差し替えられたというもの。それを示すように即位前と後で天皇はまるで違う人なのである。
たとえば、睦仁親王は天然痘を患っており顔面には天然痘特有の後遺症があったが、明治天皇の顔には見られない。また、虚弱体質だったという幼少時代に対し、即位後はといえば側近の者を相撲で投げ飛ばすこともあったとか。更に、「字が下手」「政務に無関心」「乗馬の記録がない」という睦仁親王に対し、明治天皇は真逆の要素を持っているのである。
●天皇はすり替えられていた!?
 それではいったい誰にすり替えられたのだろうか。その人の名は南朝の末裔である大室寅之輔。つまり北朝系の子孫である睦仁親王に代わり南朝の大室が即位したということだ。これにより北朝系に仕えていた徳川家や松平家は、天皇にとって逆賊になってしまった。これが新政府にとって江戸幕府勢力を一掃する口実となり戊辰戦争が起きたのである。
岩倉は天皇をすり替えることによって旧体制を完全に破壊することに成功した.....ということである。当時、人々は噂を耳にしては真相を確かめようとして来た。しかし、明治に入ると皇室のプライベートやスキャンダルを公言することはタブー化されてしまう。岩倉は周囲の追及を巧く免れたのである。


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◆姑・天璋院とバトルの日々..... 公武合体策の犠牲者となった和宮

2021-03-25 03:57:23 | Weblog

●将軍家茂の妻となる
 十四代将軍徳川家茂といえば、正室・皇女和宮のことを欠かすわけにはいかない。和宮は孝明天皇の妹で、母は権大納言橋本実久の娘である。1851年には、すでに有栖川宮熾仁親王との間で婚約が成立していたが、幕府の要請で、急遽和宮は将軍家茂と結婚することになる。幕府の権威が薄れ、朝廷の権威が増す中で、安藤信正ら幕閣は公武合体論を唱えたのである。天皇の姉妹が将軍と結婚するのは初めてのことだった。
●大奥&天璋院との対立
 1862年、家茂と和宮の婚儀が行われたが、その様子は歴代将軍のそれとは異なっていた。和宮は将軍より高い身分である内親王の地位で降嫁した為、和宮が主人で家茂が嫁を貰う客分という逆転した立場で行われたのである。ところが姑にあたる天璋院(篤姫)との初対面では、上座に座る天璋院に対して和宮には座布団もなかった。天璋院は和宮に対し、武家の作法に従うことを求めたのだ。
屈辱を覚えた和宮は、天璋院に対して徹底的に対抗。
江戸城内では将軍の正室を御台様と呼んだが、和宮はそれを拒否して和宮様と呼ばせた。更に、挨拶は家茂から和宮に言上させるなど、将軍家の慣例を悉く破ったのである。だが、他者への気遣いが巧かった家茂の機転で、やがて和宮と天璋院は和解したのである。
●皇女和宮の替え玉説
 和宮についてこんな仰天説がある。和宮は二人いて、大奥に入った彼女は替え玉だったというのだ。その根拠となったのが、家茂の墓が発掘調査された時に見つかった一束の頭髪である。調査結果によると、発見された頭髪は和宮と別人のものだということが分かった。ちなみに彼女がすり替わった理由は結婚を拒んだ為、直前に死亡した為など諸説ある。和宮が替え玉だったとすると、天璋院が彼女に冷たい態度で接したのも納得がいく。
天璋院の養父・近衛忠煕は和宮の兄・孝明天皇からの信任が厚く、孝明天皇の顧問として活躍していた。つまり、天皇家と近衛家は非常に近しい関係にあったのだ。和宮と天璋院が元々知り合いだった可能性は高い。本当の和宮を知っている天璋院は、もちろん彼女が別人であることに気付き、不遜な態度で接したのではないだろうか。


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◆孝を大事にした偉人の決断 高杉晋作が松陰の死後沈黙した理由とは?

2021-03-22 03:59:29 | Weblog

●放れ牛と評された高杉だったが.....
 鼻輪も通さぬ牛ーーー気性が激しく奔放な性格だった長州藩士・高杉晋作は、同志たちにこう呼ばれていた。十七歳で松下村塾に入門した彼は、やがて「事を議する時には先ず、晋作を呼んで決める」と、吉田松陰にも厚い信頼を寄せられる存在となる。1859年、松陰が処刑された後、門下生たちは次々と尊皇攘夷運動に身を投じた。もちろん高杉も尊皇攘夷思想の持ち主だったが、どういうわけか運動に参加しなかった。
●父と決別して奇兵隊を結成
 1859年3月、高杉の同門・久坂玄瑞の元に彼から一通の手紙が届く。その内容は「父から尊皇攘夷運動に参加することを戒められており、それに背けば不孝になる」というものだった。当時は孝を説く儒教の考えが一般的で、名門・高杉家の嫡男である彼が強い孝行心を持っていたのは当然である。
1860年、高杉は父の勧めに従って結婚し、藩士として平凡な人生を送ることで両親を安心させようとした。そんな彼の心を突き動かしたのは、長州藩を代表して訪れた上海の光景。アヘン戦争で敗れて以来、欧米列強の植民地と化した街を見て彼は思った。
「このまま幕府に政治を任せては日本も二の舞だ」
帰国するや父と決別した晋作は奇兵隊を結成。長州を倒幕派に統一させたのである。彼の決起の裏には親不孝の十字架を背負う覚悟があったのである。


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◆真面目一徹・吉田松陰の知られざる一面 獄中で密かに育んだ松陰たった一度の恋

2021-03-20 04:16:17 | Weblog

●人生でたった一度のメモリー
 高杉晋作や桂小五郎といった立役者を育てた吉田松陰。
生涯を語る中で、女性の名前が出て来ることはほとんどない。
ただ一人除いては。
松陰30年の人生に登場する唯一の女性は「高須久子」なる人物。二人が出会ったのは、師・佐久間象山と共にアメリカ密航計画に失敗して長州の野山獄に送られた時のこと。場所はもちろん獄中である。想いを通じ合わせた過程は定かでないが、互いの心情が込められた句が残っている。
『鴫(しぎ)立つて あと淋しさの 夜明けかな』
これは松陰が野山獄を出る時に、久子が詠んだ句だ。久子が松陰を慕っていたことがよく分かる。
●句から読み解く松陰の甘い恋心
 一方、松陰の気持ちはこれから数年後。安政の大獄によって幕府の元へ監送される直前、野山獄に再入獄した時の歌で明らかになっている。
『箱根山 越すとき汗の 出でやせん 君を思ひて ぬぐひ清めむ』
江戸へ向かう当日、久子が縫った手布巾を贈られた際に松陰が詠んだ句だ。何とも甘酸っぱい。
『一声を いかで忘れん ほととぎす』という久子の返しも、せつなさがいっぱいだ。
高須久子は明治に入ってからも、常に松陰のことを語っていたという。勉学一筋といった印象の松陰にも、こんな青春の日々があったのである。
【画像】
高須久子 1818年(文政1年)~1904年(明治37年) 享年88歳
高須家は毛利家に代々仕えた毛利家臣・杉原三家の1つで萩藩でも330石と言う高禄の名家である。 高杉晋作は遠縁にあたる。


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◆時代を先取った吉田松陰という男の教え 松陰の松下村塾はゆとり教育型だった

2021-03-19 04:17:39 | Weblog
●志が高ければ誰でも入門可能
 高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、そして山縣有朋.....。
幕末から明治にかけて日本の行く末を担った面々だが、彼らはみな吉田松陰主宰の松下村塾出身者である。
松下村塾は、松陰の叔父である玉木文之進が長州藩の萩、松本村に設立した私塾で、松陰自身もここで学んだ。後に塾頭になった松陰は、武士や町民など身分の隔てなく生徒を受け入れたという。「長門の国は僻地であるが、ここを世界の中心と思って励めば日本を動かすことができる」が信念である。
●詰め込み型ではなくゆとり方式
 近所の青二才をあれほど立派に育て上げたのだから、さぞかし厳しい詰め込み教育が行われていたのだろう.....と思いきや、それとは全くの逆。門下生の発想や自主性を大事にする教えだった。目下の門下生に対しても丁寧な物腰で接し、一方的に教えるのではなく意見を交わし合うのが松下村塾スタイル。入門希望者が訪ねた時には「自分もまだ、学んでいる身。教えることはできないが共に勉強しよう」と言葉をかけたとか。
1859年、松陰は「安政の大獄」に連座して処刑された為、松下村塾も閉鎖の憂き目を見る。だが門下生たちは、日本の将来を憂い自らの信念を貫いた師の志を受け継ぎ、日本を新時代へと導いた。
吉田松陰ーーー彼は今の時代に必要な人材育成のプロフェッショナルだったに違いない。
吉田松陰
 
世界遺産 松下村塾 幕末史に名を連ねる志士が集った伝説の私塾
 
 
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◆実は死んでいなかった維新三傑の一人 西郷隆盛は西南戦争後ロシアで生きていた?

2021-03-18 04:15:33 | Weblog

●隆盛像のモデルは別人だった!
 東京・上野公園の西郷隆盛像を見た夫人の糸子さんは「宿んし(うちの人)はこげんなお人じゃなかったこてえ」と驚いたという。それもそのはず、隆盛像のモデルとなった肖像画は西郷本人ではないのだ。これは西郷の死後に描かれたもので、弟・従道の目と、従弟・大山巌の顔つきをモデルにしたという。残念ながら西郷の肖像画はもとより、彼の写真は一枚も残っていない。当時は写真機が存在しており、幕末の偉人たちはその姿を写真に残しているのだが.....。維新後、明治天皇が自らの御真影と引き換えに、写真を送るように所望された時でさえ、彼はこれを拒否したという。何故、彼は自分の姿が世間の目に触れることを頑なに拒んだのだろうか?
●西郷家は隠密を生業にしていた!
 西郷家は元々隠密を生業とする家系で、彼の父・吉兵衛は島津斉彬の重臣である赤山靭負の御用達として情報収集を行なっていたという。そして彼も江戸にいた頃「お庭方」という職に就いており、情報収集や工作を任務として他藩の動向を探っていた。その仕事柄、西郷は自分の容貌や特徴が知られることを避けていたのかも知れない。
●西郷はロシアに渡っていた?
 そんな西郷に纏わる最大のミステリーが、西郷が死んだとされる西南戦争の後にある。何と西郷は死んでおらず、ロシアに渡って生き延びていたというのだ。
1891年、シベリア鉄道視察の後に来日することが決まっていたロシアの皇太子ニコライと一緒に、実は生きていた西郷隆盛が帰国するという噂が流れた。西郷の目的は「日本の政界を粛清する」こと。この噂を受けて明治天皇も冗談交じりではあるが、「それが事実なら西南戦争の論功行賞を取り消さなければならない」と述べた程で、当時はちょっとした騒ぎとなっている。そしてこの噂が一つの大事件を起こす。西郷復権を恐れた巡査・津田三蔵が、来日した皇太子ニコライを暗殺しようとしたのだ(大津事件)。津田は西郷が復権すると与えられた勲章を取り上げられると考え、事件を起こしたという。西郷がロシアに渡っていたという証拠は存在しない。だが、生存説一つで事件が起きるほどの影響力は、彼が唯一無二の存在であった証だろう。


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◆逃げ込んだ長州藩に利用された志士たち 脱藩後の中岡慎太郎は長州のスパイだった!?

2021-03-17 04:04:23 | Weblog

●長州藩へ集まる尊皇攘夷派
 1863年8月18日の政変以降、全国の諸大名が自藩の尊王攘夷志士を弾圧し始めたのに対し、長州藩だけは尊王攘夷を唱え続けた。その為、自藩を追われた志士たちは長州藩を目指すこととなった。中岡慎太郎もその一人。彼は土佐藩を脱藩し、長州藩に逃れて来た。すると中岡を受け入れた長州藩は、彼を京都などの各地に情勢探索、つまりスパイ活動をさせる為に潜伏させたのである。
中岡は先ず、1864年1月に京都へ渡る。
そこで高杉晋作と出会い、島津久光暗殺を画策するが果たせずに5月に長州藩に帰藩。そして6月に再び京都へ戻る。7月に入ると「禁門の変」が起こり、彼は脱藩志士らのまとめ役となって戦うが、敗れてまたも長州藩へ。8月にもまた京都へ向かい、10月に帰藩。すぐさま今度は鳥取へ出発し、11月にまた戻って来た。中岡は行ったり来たりの繰り返しで休む暇もなし。
●スパイ・中岡慎太郎は大忙し!
 このように苛酷な任務を強いられた中岡だが、自藩を抜け出し脱藩罪に問われている彼にとっては、罪が許されるまでの期間は自身を庇護してくれる長州藩に対して何も言えなかったのである。中岡だけではない。長州に逃げ込んだ他の浪人たちも同様だった。長州が他藩の尊王攘夷派を受け入れた狙いは、彼らの立場や心理を上手く利用し、スパイ活動を行わせることにあったと考えるのが自然なようだ。

●中岡慎太郎の言葉
 『涙を抱えて沈黙すべし』
捕らえられて処刑された故郷の同志を想い、中岡が土佐藩に残る友に宛てた手紙に書かれていた言葉。
【画像】
中岡慎太郎のガラス原版
慶応2年(1866年)11月京都にて撮影したとされる。近江屋事件が発生した1年前。カメラで写真を撮影する露出時間が短くなったのかと思われるような、左側が黒く潰されている。女性らしい着物を見え、京都の芸者なのか?それとも町娘か?何故、黒く潰したのかは様々な諸説があり明らかではない。


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君子蘭(受け咲き君子蘭) Clivia 誠実 貴い 情け深い

2021-03-16 14:47:44 | Weblog

クンシランは明治時代に初めて日本にやって来たのですが、その時に輸入されたクンシランが、clivia nobilis(クリビア・ノビリス)という品種でした。
この時日本語で「高貴」を意味する「nobilis」にちなんで、良い人格を持ち、博識である高貴な人のことを指す「君子」が和名に付けられたそうです。
現在、流通している品種はnobilis種ではなく、miniata種ですが、「クンシラン」と呼ばれるのはnobilis種が日本にやって来た時の名残です。

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◆フィクサー岩倉具視の権謀術数 「討幕の密勅」はニセモノだった!?

2021-03-14 04:36:23 | Weblog

●討幕の密勅に見られる疑問点
「討幕の密勅」は1867年10月13日に薩摩藩、14日には長州藩へ下された。内容は「賊臣・慶喜を討伐せよ」というもの。いずれも中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の三名の署名があった。
しかし、この密勅には幾つかの疑問点がある。先ず密勅の渡し方。薩長でそれぞれの藩士である大久保利通と広沢兵助が正親町三条の屋敷を訪れ、そこで直接手渡しされているのだが、この形式は極めて異例。たとえ密勅とはいえ詔書が一公家の私邸で渡されることは、普通あり得ないという。
●偽勅を支持した人物は誰なのか!?
疑問点はまだある。
この密勅には天皇の直筆はおろか、勅旨伝宣の奏者として連名している中山忠能らの花押も添えられていないのだ。通常、花押は本人が書くのが当然で、それがないのは明らかに不自然。而も、三名の署名の筆跡は全く同じだという。
これらの疑問点から、この密勅は宮中の倒幕急進派が天皇の許可を得ることなく「討幕の密勅」を起草し、両藩に渡したものだと考えられる。
そしてこの偽勅を支持した人物こそ、かの岩倉具視だ。
岩倉は当時、薩摩藩士・西郷隆盛と結び武力による政権奪取を唱えていた討幕派の中心人物。強引な手を使ってでも慶喜を討とうとした.....と考えるのは、決して突飛ではない。


【画像】 左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通


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我が家に春を告げる君子蘭

2021-03-13 06:23:19 | Weblog

 


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◆船中八策の原点を作った横井小楠とは? 船中八策を龍馬より先に唱えた人物がいた!

2021-03-13 04:24:23 | Weblog
●勝海舟と横井小楠により目を開かれる
 もともと龍馬は、ごく一般的な尊皇攘夷思想を抱いていたに過ぎなかった。それが熊本藩士の横井小楠と出会い、目を見開かされることになる。龍馬の師・勝海舟は西郷隆盛と横井の名を挙げて、「俺は今までに天下で恐ろしいものを二人見た」と言い残している。勝と横井の交流は深く、実際に龍馬は勝の使者として横井を何度も訪ねている。そこで、龍馬は横井に大きく影響を受けたのである。
●船中八策の原点、国是七条とは?
 熊本藩士にして越前藩主・松平慶永に招かれ、政治顧問になった横井は1860年「国是三論」を著し、諸外国の侵略に備えて海軍の侵攻による強兵、開国にに伴う対外貿易による富国などを唱えている。また、1862年には更に前身した「国是七条」を建白している。「国是七条」はその冒頭で、将軍が上洛して朝廷に無礼を詫び、尊皇の姿勢を明確にせよ、とある。そして参勤交代の中止と、諸侯の妻子の帰国を求めている。これは幕府の権威を否定しているといってよいだろう。更に、人材の発掘登用と彼らによる公議政治の実現を述べ、海軍の振興と国際貿易の必要性を説いている。その上で、徳川家を含む諸藩連合による新国家体制樹立を主張しているのだ。これは船中八策及び大政奉還に限りなく近い。まさに船中八策の原点といってよいだろう。
 
 
●知っておきたい人物 横井小楠
 熊本藩士。私塾「四時軒」を開き、龍馬をはじめ、志士たちの多くが訪問。
幕府の政事総裁職・松平慶永の政治顧問として、幕政改革にも関わる。
1869年、十津川郷士らにより暗殺された。


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