Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆井伊家の居城 彦根城の築城を支えた、哀しき「人柱」

2019-08-31 04:36:08 | Weblog


井伊直政


彦根城の見取図


白装束に身を包んだ若い娘が、城門前に置かれた白木の箱に納められ、やがて箱は担がれて、
本丸の地面に掘られた穴へ向かって行く。人柱の光景である。
この光景は、今から約400年前、彦根城の築城にあたり本当に見られたものかも知れない。
ご当地キャラ「ひこにゃん」でも知られる名城・彦根城は、この人柱の上に築かれたと言われているのだ。
徳川四天王の一人井伊直政は関ケ原の戦いの後、近江(滋賀県)に領地を加増された。
西国大名、特に大坂の豊臣家に対する備えとなる為である。 当初は石田三成の居城であった佐和山城を与えられたものの、彼は琵琶湖の畔の彦根山に新しい城の建設を計画する。
だが慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで受けた傷がもとで、直政は慶長7(1602)年に亡くなり、まだ12歳だった長男の直継(後の直勝)が井伊家当主の座を継いだ。
近隣の大名や家臣たちの協力を得て城造りが進められ、近くに廃城のまま残っていた大津城の資材を利用して天守が建てられることになる。 ところがいざ天守を天守台に据えようとすると、何故か上手く行かない。工事現場から「人柱を差し出せば、工事は進むはず」との声が上がった。
人柱とは、建築の強化の目的で、生きている人間を水底や土中に埋める人身御供である。 それを聞いたある家臣の娘が、自ら人柱になることを申し出た。その名をお菊という。直継はこれを認め、人柱の儀式が執り行われた。その後天守の工事は滞りなく進み、元和8(1622)年、彦根城は完成した。しかし娘の死を嘆くかの如く、井伊家の領内に於いて、菊の花は咲かなくなったと伝えられている。

*知られざる人柱の後日譚  
一方で彦根城の人柱には後日譚がある。実はお菊の入った箱は、途中で巧みにすり替えられ、お菊は密かに助け出されていたらしい。妄りに人の命を奪うことをよしとしなかった直継のはからいである。石垣の下で眠るはずだったお菊は穏やかな生涯を過したようだ。 かくして彦根城は、慶長11(1608)年に天守を含む本丸などの主郭部分が完成する。
その後、大坂の陣による中断を挟みながら工事が続けられ、寛永19(1642)年に、城下町を含む全ての工事が完了した。 しかし、残念ながら直継は、身体が弱く家中をまとめられないと、工事の途中で幕府からの命により異母弟の直孝に藩主の座を譲らされた。代わりに直継には3万石の与板藩が任せられ、本人も意外と長寿を保っている。


                      日本史ミステリー
                        激動の瞬間ーーー光と影が入り交じる伝説


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◆優雅で美しい白亜の城 ハプスブルク家のミラマーレ城で語られる「悲しい噂」

2019-08-30 04:29:15 | Weblog









イタリア北部のトリエステ郊外にあるミラマーレ城は、ゴシック様式やルネサンス様式、東洋建築などの粋が集められた白亜の美しい城である。アドリア海に面した場所に建っている為、海の青に城壁の城が映え、まるで絵画のようだ。

*兄である皇帝に疎まれ、隠棲する為の城を建てた  
この白亜の城を建設したのは、当時その地域を領有していたハプスブルク家のフェルディナント・マクシミリアン。 彼はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟である。
マクシミリアンは由緒あるハプスブルク家の一員として、海軍将校となり、1857年にロンバルディア=ヴェネツィア総督の任に就いた。しかし、有能な弟を皇帝は警戒し、マクシミリアンを解任すると、以後、どんな職も与えなかった。 失意のマクシミリアンは、兄を刺激しない為に、トリエステで静かに暮らさなくてはならなかった。その為に建てたのがミラマーレ城で、建設の動機からして陰鬱な未来を暗示させるものだった。こうしてマクシミリアンは、ベルギー王室から嫁いで来た妻シャルロットとこの城で暮らし始めたのである。

*非業の死を遂げたマクシミリアン  
しかしながら、マクシミリアンの穏やかな日々は長くは続かなかった。フランスのナポレオン3世が、彼をメキシコ皇帝として担ぎ出したからだ。当時のメキシコはスペインから独立したばかりだったが、実質支配はフランス軍によって行われていた。
しかし、軍隊の武力を背景にした支配では体裁が悪い。そこでナポレオン3世は、ハプスブルク家のマクシミリアンをメキシコ皇帝として推戴したのである。 異国の地に渡った彼を待っていたのは、フランス軍の裏切りだった。独立運動が活発化し、情勢が悪くなったフランス軍は、マクシミリアンを残して撤退してしまったのである。 この状況を何とか打開すべく各国に支援を求める目的で、妻シャルロットは一時帰国するが、それが二人の永遠の別れとなった。
結局、1867年、独立軍に捕らえられたマクシミリアンは処刑される。この報に接した妻シャルロットは精神を病み、以後、60年以上も城に幽閉されて生涯を送ったのである。

*城を愛用したハプスブルク家の人々を襲う悲劇  
主を失ったミラマーレ城はハプスブルク家の保養所となったが、以後、この城を愛用した人々は次々と不幸になった。 例えば、フランツ・ヨーゼフ1世の皇妃エリザベートは、息子のルドルフ皇太子が愛人と心中し、その10年後(1898年)ジュネーブのレマン湖の畔で無政府主義者によって暗殺された。
オーストリアの皇位継承者だったフランツ・フェルディナント大公は、1914年、ミラマーレにてドイツのヴィルヘルム2世を歓待した直後、妻と共に訪れたサラエボで暗殺された。この事件が第1次大戦の幕開けとなる。

*新たな持ち主にも、やはり呪いが発動  
その後、トリエステはハプスブルク家の手を離れてイタリア領となり、ミラマーレ城はイタリアの名族アオスタ家の所有となる。かくしてハプスブルク家はミラマーレ城に纏わる死の連鎖から解放されたが、代わってこのアオスタ家に不幸が襲い掛かった。 第2次世界大戦で東アフリカの駐屯軍司令官となったアオスタ公が、イギリス軍の捕虜となり、収容所でマラリアにかかって命を落としてしまうのだ。 このように、何故かミラマーレ城の魅力の虜になると、その先に不幸が待っている。
マクシミリアン以来続くミラマーレ城の呪いは、次に誰を襲うのだろうか。

      


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                         迷信か、それとも..... 「呪い」のミステリー


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菜根譚 後集22項

2019-08-24 17:53:56 | Weblog

 

松澗辺、携杖独行、立処雲生破衲。 竹窓下、枕書高臥、覚時月侵寒氈。

松澗の辺に、杖を携えて独行すれば、立つ処、雲は破衲に生ず。
竹窓の下に、書を枕として高臥すれば、覚むる時、月は寒氈を浸す。


「自然の中に生きる」
松の生えている谷川の辺りを、杖をつきながら独りで散歩すると、
立ち止まった処で、白雲が粗末な衣服に纏わり生ずる。
また、竹の茂る窓の下で、書物を枕にしてゆったり眠ると、
目が覚めた時には、明月が粗末な敷き物の上を照らしている。


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◆カトリックの信仰のよりどころ キリストの姿が映る「トリノの聖骸布」は、本物か偽物か?

2019-08-22 04:28:47 | Weblog



現在カトリック世界で最も神聖とされている聖骸布(イエスが処刑された時の遺品)の一つ「トリノの聖骸布」。
聖骸布は十字架で処刑されたキリストを包み、埋葬する際に使われた布である。縦4.4㍍、横1.9㍍の杉綾織の亜麻布で、布面には、血塗れの男性像と思しきシミが薄っすらとついている。
しかしヨーロッパ各地には聖骸布と主張する布が複数あることもあり、この聖骸布が本物なのか、初めて世に出た1350年代から今まで真偽論争が続いている。

*イエスの「最期」を物語る布  
トリノの聖骸布が歴史に登場したのは1353年のこと。 フランスのサヴォイア・リレー公がリレー教会で公開したのが始まりである。 リレー教会には多くの参拝客が押し寄せたが、既に偽物だと主張する人も現れている。聖骸布はその後、トリノ大聖堂に保管された。 そうした1898年、ある衝撃的な出来事が起こった。トリノの写真家がこの布を撮影したところ、ネガ上にイエスの姿が浮かび上がったのである。そこには、顎鬚をつけた顔がハッキリと映っていた。これはイエスの奇跡のパワーで映し出したものではないかと騒がれたが、そんなはずはないとする偽造説も絶えなかった。

*「布そのもの」は、いつの時代に作られたものか  
20世紀に入ると科学的なアプローチが可能になり、次々と新事実が明らかになる。
1969年の調査では、先ず亜麻布にメスが入れられた。 するとこの亜麻布は紀元前に中東で生産された布で、イエスの時代のユダヤ地方の縫い方であることが判明。
更に、この布の人物の血はAB型であることなども判明した。
おまけに胸と背の鞭打ちによる損傷、手首や足の釘の痕と見られる傷などが、聖書に記されたイエス処刑の状況と符合していたのである。
こうした鑑定からフランスの数学者デ・ゲール氏は、イエスの聖骸布である可能性が高いと結論づけた。

*「本物説」を覆す、科学的分析  
ところがこれで落着とは行かなかった。 1988年、この説と真っ向から対立する調査結果により、偽造説が飛び出す。 炭素年代測定を行なった結果、この布は1260~1390年の間のものと判明したのだ。つまり、布はイエスの時代より後世に作られた偽造と判ったのである。
しかし布に、顔料を塗った跡が無いにも関わらず、人体像や血の跡を残すなど、中世にはこれほどの偽造品を作る技術はなかったのではないかという謎も残された。

*作成したのはあの「天才画家」?  
そこで製作者と目されたのが、ルネサンス期に天才と称された、かのレオナルド・ダ・ヴィンチである。 リン・ピクネット、クライブ・プリンスの共著「トリノ聖骸布の謎」(白水社)では、これほどの偽造ができたのはダ・ヴィンチだけだったと書かれている。ダ・ヴィンチであれば、不可能と思えることも可能にしたのではないか、そんな想像も難くない。
こうして「トリノの聖骸布」は、偽物ではぼ落着したかと思われたが、2009年、ある新発見により、またもや事態は一変する。この布から「ナザレのイエス」や「処刑された」という文字が見つかったというのだ。発見者はローマ法王庁の歴史研究家というから、あながち眉唾ものとは片づけられない。もちろん後世の贋作者が書き入れた可能性も否定できないが、今では再び本物説が濃厚になっている。 果して、二転三転する真贋論争に決着がつく日はやって来るのだろうか。

 

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菜根譚 後集19項

2019-08-21 13:51:22 | Weblog


寒くなるまで咲き続ける紫陽花「霧島の恵」

損之又損、栽花種竹、儘交還烏有先生。 忘無可忘、焚香煮茗、総不問白衣童子。

之を損して又損し、花を栽え竹を植えて、儘く烏有先生に交還す。
忘るべき無きをも忘れ、香をを焚き茗を煮て、総て白衣の童子に問わず。


「徹底して捨て去る」
知恵を無くした上にも更に無くすようにし、花を植えたり竹を植えたりする自然に任せた生活をし、自分と云うものをすっかり烏有先生に任せてしまう。
また、忘れなければ為らないことも無いと云う思いまでも忘れ去り、香を焚いたりお茶を入れたりする自然に任せた生活をして、酒を贈ってくれる白衣の人など全く問題にしない。


*烏有先生 烏有「いずくんぞ有らんや」と訓じ、「無い」の意
*白衣の童子 白衣の使者のことで、酒を送り届けてくれる使いの者


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菜根譚 後集17項

2019-08-18 14:12:15 | Weblog


露草(Dayflower) Commelina communis 懐かしい関係

有浮雲富貴之風。
而不必岩棲穴処。
無膏肓泉石之癖。
而常自酔酒耽詩。
競逐聴人、而不謙尽酔。
括淡適己、而不誇独醒。
此釈氏所謂、不為法纏、不為空纏、身心両自在者。

富貴を浮雲とするの風有り。
而れども必ずしも岩棲穴処せず。
泉石を膏肓とするの癖無し。
而れども常に自から酒に酔い詩に耽る。
競逐は人に聴するも、而も尽くは酔うを嫌わず。
恬淡は己に適うも、而も独りにては醒むるを誇らず。
此れ釈氏の所謂、法に纏ぜられず、空に纏ぜられず、 身と心の両つながら自在なる者なり。


「中道を行く」
世俗の富貴を、浮き雲のように頼りにならない儚いものとする気風を持っている。
しかしながら必ずしも俗塵を厭い、岩穴のような世俗を離れた所にいようとはしない。
また、深山幽谷の美しい泉や石の様子を不治の病から抜け出せないほどに愛する癖はない。
しかしながら、いつも酒に酔い詩に耽って楽しむ風流心は持ち合わせている。
人と競って名誉や利益を追い求めることは、他の人に任せて自分は関知しないが、しかしまた、世の人がすべて名誉や利益に酔っているのを、全部が全部嫌うというわけではない。
また、心を静かに万事にあっさりしていることは、常に自分の意にかなっているが、しかしまた、世人がみな熱狂している中に、自分一人だけが冷静であることを誇ることはしない。
このような人こそ、仏教で謂うところの、実体があるとする考えに拘束されもしないし、実体がないとする考えに拘束されることもない、身も心も両方ともに自由自在な人である。


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菜根譚 後集8項

2019-08-09 13:37:47 | Weblog




スイートバジル(Basil) Ocimum basilicum 良い望み 何という幸運


人解読有字書、不解読無字書。 知弾有絃琴、不知弾無絃琴。 以迹用、不以神用、何以得琴書之趣。

人は有字の書を読むを解するも、無字の書を読むを解せず。
有絃の琴を弾ずるを知るも、無絃の琴を弾ずるを知らず。
迹を以て用い、神を以て用いずば、何を以て琴書の趣を得んや。


「無絃の琴を弾く」
世の人は、文字を用いて書いてある書物を読むことは知っているが、文字を用いていない書物を読むことは知らない。
また、絃が張ってある琴を弾くことは知っているが、 絃が張ってない琴を弾くことは知らない。
文字や絃と云う具体的なものがあればそれを信ずるが、 心と云うような抽象的なものは信じられないなら、 どうして琴や書が本当に語ろうとする心が理解できよう。


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カサブランカ Lilium Casa Blanca 高貴 純潔 壮大な美しさ

2019-08-04 04:08:22 | Weblog




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◆宝の地図をたどっても見つからない秘宝 「海賊キッドの財宝」は、いったい何処に埋まっている?

2019-08-04 04:01:46 | Weblog



歴史上最も有名な海賊が、キャプテン・キッドことウィリアム・キッドだ。
1883年に発表されたスティーブンソンの冒険小説「宝島」の中に出て来る「フリント船長の財宝」は、キッドの財宝をモデルにしているといわれ、エドガー・アラン・ポーの小説「黄金虫」(1843年)の中にも、キッドの財宝が登場する。
これらはあくまで小説の話だが、本当にキッドが莫大な価値の宝を隠していたという伝説がある。
根拠は、キッドが処刑される前日に書いた一通の手紙だ。

*財宝のありかを明かさぬまま処刑されたキッド  
キッドは、1701年5月23日に、ロンドンの海賊処刑場で縛り首の刑に処せられたのだが、その前日、英国下院議長宛てに、「私は西インド諸島で、10万ポンドにのぼる財宝を手に入れた。処刑を免除されるなら、財宝を政府に差し出す。財宝のありかに案内する」といった手紙を送っていたのである。 しかし、キッドの申し出は無視され、処刑は決行された。 彼の遺体はテムズ川に晒され、海賊行為に走る者たちへの見せしめとされた。こうしてキッドが持っていると記していた財宝のありかは、謎のまま残ったのである。

*キッドは本当に財宝を持っていたか?  
では、キッドは実際に莫大な財宝を隠していたのだろうか? これについては、疑問がある。
実は、キッドが略奪したことがハッキリしているのは、アルメニア船「ケダー・マーチャント号」と「メイドン号」の2船だけで、その他にはハッキリ海賊行為の事実はないのだ。
しかも、彼は略奪品を船員たちと分けている。 キッドが10万ポンド以上もの大金を所持していた可能性は高くないのだ。 海賊の代名詞としても語られるように、キッドは長く海賊として大暴れしていたようなイメージを持たれがちだが、活動期間も短く、しかも元々は海賊を一掃する為に送り込まれた船の責任者だったのだ。

*海賊キッドは、元々は「海賊を取り締まる責任者」だった  
キッドによる海賊討伐計画を立てたのは、ニューヨークの総督に任命されたベロモント伯爵と、海軍大臣や大法官を含む数人の政府メンバーで、そこには英国王ウィリアム3世自身も加わっていたという。 キッドは彼らから非公式な資金援助を受け、海賊船から奪った戦利品の60%の分け前を貰う約束をして船を出した。 残りはキッドに仕事を依頼した人物たちが山分けする計画で、ウィリアム3世も10%の分け前を貰うことになっていたという。
しかし、1年以上も大西洋とインド洋を航海したが、キッドの船は目ぼしい収穫を得ることはできず、分け前を全く受け取ることができない船員たちに不満が溜まって行った。
そして、遂に船員たちの不満が爆発し、結局、キッドは何処の国の船でも無差別に襲う海賊へと身を落としたのである。 しかし、キッドは僅か2船から略奪しただけで逮捕され、処刑された。彼の助命嘆願も無視された。その処刑の裏には、キッドの口から真相をバラされないようにする為の、国王をはじめとする影の首謀者たちの思惑があったという噂もある。

*発見された「キッド直筆の地図」  
ただ、1943年に、「ウィリアムとサラ・キッドの箱」という文字が彫り刻まれた箱が発見された。その中から、キッドの直筆で、島の緯度と経度が記され、財宝のありかが暗号化された地図が発見されたことで、キッドの財宝を眉唾と見て来た雰囲気が俄かに変わる。
その島はシナ海にあると記され、日本の南西諸島の「横当島」や、トカラ列島の「宝島」が有力だという説もあるが、キッドが東洋の海まで来た記録はない。他にもカリブ海を有力とする説や、北方のノヴァ・スコシア沖のオーク・アイランド島などが挙げられている。
多くのトレジャーハンターが探す中、今も見つかっていないキッドの財宝。果たして世界の何処に、今も眠っているのだろうか?

 

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菜根譚 前集214項

2019-08-03 19:52:25 | Weblog

不可乗喜而軽諾。 不可因酔而生嗔。 不可乗快而多事。不可因倦而鮮終。

喜びに乗じて諾を軽くすべからず。
酔いに因りて嗔を生ずべからず。
快に乗じて事多くすべからず。
倦に因りて終りを鮮なくすべからず。


「喜怒哀楽に流されず」
何か喜ばしいことがあるからと云って、それに乗って軽はずみな承諾を与えては行けない。
酒の酔いにまかせてむやみに怒っては行けない。
物事が順調に行っているからと云って、やたらと遣ることを広げては行けない。
もう飽きたからと云って、最後をいい加減にしては行けない。


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トマト(tomato) Solanum lycopersicum 完成美 感謝

2019-08-01 13:46:58 | Weblog






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◆戦場の奇跡「モンスの天使」 第一次大戦中の戦場に「天使」が現れ、イギリス軍を勝利に導いた!?

2019-08-01 04:22:29 | Weblog

戦場で、「もうこれまでか.....」と諦めかけた瞬間、人知を超えた奇跡が危機に瀕した兵士たちを救う.....。まるで映画やドラマのようなことが実際に起こった。 それが、第一次世界大戦中の1914年8月23日、ベルギーのモンスで起きたという奇跡である。
この日、イギリスとフランスの連合軍は、ベルギーのモンスでドイツ軍の総攻撃を受けてしまった。迫り来るドイツ軍は連合軍の3倍の戦力を有し、装備も連合国軍のものよりも遥かに充実していた。英仏連合軍の兵士は撤退もままならぬ状況となり、全滅を覚悟したという。

*天使の援軍がドイツ軍を追いやった  
ところが、この時、信じられない奇跡が起こる。中世の騎士さながらの甲冑をまとい、光に包まれた兵士の大軍が突如現われ、ドイツ軍へと弓矢を射かけたのである。
その兵士の大軍の姿はまるで天使のようだった。
この天使の援軍に驚き、ドイツ軍が動けなくなった隙に乗じて、モンスの英仏連合軍は無事に撤退することができたのである。 この奇跡は、帰国した兵の話などにより、1915年春くらいからイギリス国内で「モンスの天使」として広まり、国民の誰もが知る奇跡とされた。

*都市伝説あ、本当に起こった奇跡か  
ところが、この奇跡に真っ向から反論した人物がいた。作家のアーサー・マッケンである。
実は、このモンスの天使の奇跡は、彼が書いた短編小説「弓兵」と内容がソックリなのである。
しかも、この小説が出版されたのは、モンスの天使の噂が広まった1915年春で、時期的にもピッタリ符号する。もし、本当に奇跡が起こったならば、1914年秋くらいには噂になっていてもいいはずだ。奇跡だったのか、マッケンの主張通り、彼の小説をモチーフにした単なる都市伝説だったのか? 都市伝説として決着がつきそうになったが、モンスの天使の奇跡の証拠を挙げる人々もいる。
例えば、イギリス軍の旅団長ジャン・チャタリスの手紙である。これは、チャタリスが妻に宛てたもので、マッケンの小説が発刊される2週間前に書かれたものである。そこには、確かにモンスの天使の奇跡について書かれていた。チャタリスは総司令部の情報部長だったから、このような機密事項を知っていた可能性は高い。

*数々の確かな「天使の目撃談」  
また、戦場で兵士たちの看護にあたっていた看護師フィリス・キャンベルの証言もある。
彼女は、負傷した複数の兵士たちから、モンスの天使の話を聞いたという。
1915年の8月24日付けの「デーリーメール」紙には、実名の目撃者の記事がある。第1チェシャ連隊所属のロバート・クリーヴァー1等兵は、「確かにモンスの出現により、ドイツ兵が怯んだという。 当時は戦時下で、戦場の情報が直ぐに国民に知らされるわけではなかったから、多少のズレがあってもおかしくない。 或いは、この目撃談は、イギリス兵だけでなくドイツ兵からも寄せられた。1930年2月17日付けのロンドン「デーリーニューズ」紙の記事では、ドイツ帝国情報部元職員のフィリードリヒ・へルツェンヴェルト大佐の話として、兵士たちは確かに敵方にモンスの天使の援軍を見たという。

*「モンスの天使」の正体は.....  
ただし、この話には続きがある。大佐によると、確かに天使の援軍を見たが、それは、イギリス軍によって戦場の空に浮かぶ白い雲に映し出された映像トリックで、それにドイツ兵は動揺してしまったのだという。そして、イギリス軍はこの事実を知っていたが、敢えて兵士の士気を高める為に奇跡としたのだという。一度比定されたモンスの天使であるが、味方のみならず敵方からもその存在を認める証言者が現れたのだ。 戦場は、迷信といったものが入り込む余地などないように思えるが、戦闘の極限状態は、却って奇跡と繋がり易いのかも知れない。

*「モンスの天使」の存在を信じる人々が想う正体  
モンスの天使の正体は、ミカエルだったのではないかと言われている。
ミカエルは、四大天使の一人とされていて、甲冑に身をまとい、右手に剣、左手に秤を持っており、悪魔との戦いの時に最前線で指揮をとる最も偉大とされている天使。
ミカエルの他に、ジャンヌダルクやゲオルギウスだったのではないかと、諸説ある。

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