井伊直政
彦根城の見取図
白装束に身を包んだ若い娘が、城門前に置かれた白木の箱に納められ、やがて箱は担がれて、
本丸の地面に掘られた穴へ向かって行く。人柱の光景である。
この光景は、今から約400年前、彦根城の築城にあたり本当に見られたものかも知れない。
ご当地キャラ「ひこにゃん」でも知られる名城・彦根城は、この人柱の上に築かれたと言われているのだ。
徳川四天王の一人井伊直政は関ケ原の戦いの後、近江(滋賀県)に領地を加増された。
西国大名、特に大坂の豊臣家に対する備えとなる為である。 当初は石田三成の居城であった佐和山城を与えられたものの、彼は琵琶湖の畔の彦根山に新しい城の建設を計画する。
だが慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで受けた傷がもとで、直政は慶長7(1602)年に亡くなり、まだ12歳だった長男の直継(後の直勝)が井伊家当主の座を継いだ。
近隣の大名や家臣たちの協力を得て城造りが進められ、近くに廃城のまま残っていた大津城の資材を利用して天守が建てられることになる。 ところがいざ天守を天守台に据えようとすると、何故か上手く行かない。工事現場から「人柱を差し出せば、工事は進むはず」との声が上がった。
人柱とは、建築の強化の目的で、生きている人間を水底や土中に埋める人身御供である。 それを聞いたある家臣の娘が、自ら人柱になることを申し出た。その名をお菊という。直継はこれを認め、人柱の儀式が執り行われた。その後天守の工事は滞りなく進み、元和8(1622)年、彦根城は完成した。しかし娘の死を嘆くかの如く、井伊家の領内に於いて、菊の花は咲かなくなったと伝えられている。
*知られざる人柱の後日譚
一方で彦根城の人柱には後日譚がある。実はお菊の入った箱は、途中で巧みにすり替えられ、お菊は密かに助け出されていたらしい。妄りに人の命を奪うことをよしとしなかった直継のはからいである。石垣の下で眠るはずだったお菊は穏やかな生涯を過したようだ。 かくして彦根城は、慶長11(1608)年に天守を含む本丸などの主郭部分が完成する。
その後、大坂の陣による中断を挟みながら工事が続けられ、寛永19(1642)年に、城下町を含む全ての工事が完了した。 しかし、残念ながら直継は、身体が弱く家中をまとめられないと、工事の途中で幕府からの命により異母弟の直孝に藩主の座を譲らされた。代わりに直継には3万石の与板藩が任せられ、本人も意外と長寿を保っている。
日本史ミステリー
激動の瞬間ーーー光と影が入り交じる伝説