Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆念願の来日を果たした僧 「鑑真=盲目」説は間違いだった?

2021-08-30 04:13:58 | Weblog

●渡航中の鑑真を襲った悲劇
 栄叡、普照と共に743年から何度も渡日を試みた鑑真。しかし、全ての渡日に失敗、そして5度目の渡航中には栄叡が病に倒れて亡くなってしまう。この栄叡の死のショックと、ピークに達した渡航での疲れのダブルパンチで、鑑真は両目の視力を失ってしまった.....というのがこれまでの通説。ところが最近、鑑真の視力は完全には失われておらず、物を見ることが出来たのではないか.....という新説が浮上した。証拠は、正倉院に伝わる鑑真書状の中にある。これは、鑑真の失明後に彼の弟子によって書かれたと言われて来た文書だが、筆跡がこれまで見つかった彼の弟子たちの筆跡と異なることが明らかになったのだ。更に言えば、最後に「鑑真」と記された署名部分は、かなり崩された文字であるが、尊敬する師の名前を崩して書くなど有り得ない。鑑真が書いたものだとすれば失明説が揺らぐことになる。
●不自然な運筆の跡
 更にその文字には、目に障害を持つ人特有の、不自然な力が加わった筆遣いが見られるという。弱いながらも若干の視力が残っていた可能性は高い。不自由ながらも残された視力で、鑑真は自分が生きていた証を後世に残したのである。


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◆石が示すものとはいったい? 飛鳥時代から残る謎の石造物の正体は?

2021-08-29 04:18:53 | Weblog



猿石



亀石



酒船石

●数多く残された石の遺跡
 奈良県明日香村には飛鳥時代の遺物が数多く残されているが、中でも目を引くのが石の遺跡である。「猿石」「亀石」など見かけに応じて名前がつけられているが、これらは何の為に存在していたのだろうか?
一説によると、猿のような動物をかたどった「猿石」に関しては、その軽妙な見かけから客人をもてなす為などと言われ、巨大な亀の様な形をした「亀石」は、それが置かれている川原寺の所領の四隅を示す石標と言われている。どちらにしても推測の域を出ないものだったが、近年これらの石造物は「水」に関係したものではないかという説が立てられている。
●正体を暴くキーワードは水か?
 飛鳥の人々は近くを流れる飛鳥川を中心に、水の制御も行なってたとされており、治水技術が進歩していた。水落遺跡の水時計の遺跡や噴水施設など石を使った遺跡も多く、謎の石造物もそれらと同様に水との関わりが示唆されているのだ。中でも注目されているのが、円形の窪みとそれらを繋ぐ溝が掘られた「酒船石」と言われる石である。以前は酒の醸造に使われたと思われて来たが、近くに呪術的な文様をした亀形の石槽が発見されたことから、占いや祭祀に使われていたのではないかと言われるようになった。いずれにしろ水に関連したものであることは間違いない。まだまだ謎が残る飛鳥の遺跡だが、水と結び付けることで答えが見つかるはずである。
 
 
  
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ダルマ檜扇(Leopard flower) Iris domestica  誠意 個性美

2021-08-28 07:58:42 | Weblog

 


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◆歴史書が明かす偽りの親族関係 兄弟ではなかった!? 天智天皇と天武天皇

2021-08-28 04:06:53 | Weblog


天智天皇


天武天皇

●輝かしい功績を持つ偉大なる兄弟
 大化の改新で大きな功績を残し、最大の功労者とも呼ばれた天智天皇。彼の死後、壬申の乱を経て弟の天武天皇が皇位を受け継いだ。この様に、これまで兄弟とされて来た二人だが、実際には実の兄弟ではなかったのではないかという説が浮上している。天智天皇と天武天皇が兄弟であることは『日本書紀』『古事記』で示されているが、他の歴史書に書かれた年齢を計算すると、矛盾が生じて来るのだ。たとえば『本朝皇胤紹運録』では、天武天皇は686年に65歳で亡くなったと記されている。そこから41年前の大化の改新時の彼の年齢を割り出すと、彼が24歳の時に大化の改新が起こっている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』によれば、兄であるはずの天智天皇は、その時20歳だったというのだ。弟の天武天皇を天智天皇が4歳も下回っている.....タイムパラドックスでも起きたのだろうか。
●天智天皇は二人いた?
 天智天皇には更なる憶測も飛び交っている。彼は626年に生まれたというのが通説であるが、前述の『上宮聖徳法王帝説』では614年となっている。その為、実は天智天皇は二人いたのではないかと言われているのだ。この説が真実なら、平安時代の歴史書『扶桑略記』で綴られた天智天皇暗殺説も、病死した天智と暗殺された天智の二人が存在していると考えれば有り得る話なのだが.....。


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背高泡立草(Canada goldenrod) Solidago canadensis 元気 生命力 唯我独尊

2021-08-25 14:53:26 | Weblog

 


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◆600年に隋に渡った使者がいた! 小野妹子は最初の遣隋使ではなかった!?

2021-08-17 03:46:03 | Weblog
●『隋書』に書かれたもう一人の遣隋使
 607年、遣隋使として隋へ渡った小野妹子。だが、彼より7年も前に隋へ派遣された人物がいた。妹子に渡航が記された『日本書紀』には600年の遣隋使の記録はない。だが、『隋書』の東夷伝倭国条によると、この、600年の遣隋使は隋の文帝に倭国の政治や風俗についての話を伝えたという。ところが文帝はそれを「義理のないもの」と評した。これを、蛮夷な国と侮辱されたと受け取った倭国は『日本書紀』への記録を見送ったというのだ。
●妹子が『日本書紀』に記載されたワケ
 その後、607年に小野妹子が隋へと渡る。当時、ヤマト政権は朝鮮南部に保持していた勢力基盤が危うく、隋は中国を統一して高句麗遠征を企んでいた。この情勢下で、ヤマト政権は隋と独立した国としての外交関係を結ぼうと考えた。この目的を果たす為の外交使節として選ばれたのが小野妹子だったのだ。彼は隋の皇帝・煬帝に国書を提出。そこに綴られた文言が煬帝を激怒させ、妹子は帰国することになるが、600年の遣隋使と違って彼は隋の使者を伴って帰国。隋は高句麗とヤマト政権が結束しないよう、良好な関係を結ぼうとしたのである。結果、友好の証として隋の使者を連れて帰って来た妹子は政権の期待に応えたことになる。この功績が評価され、『日本書紀』に初めての遣隋使として記録された.....というのが遣隋使を巡る真実なのだ。



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コスモス(ピンク) Cosmos bipinnatus 乙女の純潔

2021-08-16 13:32:28 | Weblog

 


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◆国書の紛失は故意? 小野妹子の大失態は「完全犯罪」だった!

2021-08-15 04:04:32 | Weblog

●日中外交に貢献した男
 飛鳥時代、遣隋使として隋に渡った小野妹子。彼は、長く危険な航海の末に隋へと辿り着き、先進国であった隋との外交関係を築いて進んだ文化を日本取り入れた人物であり、日本の歴史上に今尚名を残す偉人である。そんな妹子だが、隋の皇帝・煬帝から賜った国書を失くしてしまうという大失態を犯したことは、あまりにも知られていない。その理由は「帰国途中に百済の人々に襲われて国書を奪われてしまった」から。朝廷ではその失態に対して処罰を望む声は少なくなかったが、推古天皇は彼を赦した。本来であれば処罰されて然るべきなのに、何故、彼女は妹子を赦したのだろうか。
●国書は妹子が敢えて捨てた!?
 この事件の根本的な原因は、日本が隋に献呈した国書にあった。日本が「日の出のようにこれから栄華を極めようとしている」隋を「日が沈むように衰退して行く」ように喩えた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文面に、隋の煬帝は憤慨。他国を見下しながら外交を進める日本を非難した文章を小野妹子に手渡した。妹子はこの文章を見て思い悩む。隋の皇帝を怒らせてしまったことが明らかになれば、推古天皇の立場がないと考え、清水の舞台から飛び降りる気持ちでその国書を捨てたのだ。妹子が機転を利かせたことを察した推古天皇は、彼の不処分を決定。国書紛失事件は推古天皇と妹子による「完全犯罪」だったのである。


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◆徐福は日本に来たのか? 日本を訪れた伝説の薬師・徐福に迫る!

2021-08-14 04:25:01 | Weblog

●中国と日本に数々の伝説を残す徐福
 司馬遷が著した『史記』に登場する中国の薬師・徐福。不老不死の霊薬を探すと始皇帝に宣言し日本に降り立ったとされ、全国各地でその伝承が残っている。三重県の熊野をはじめ、徐福が上陸したとされる場所だけでも日本に何ヵ所もあり、稲作と医薬を伝えた伝説の人として神格視されている。一方、中国では実在の人物として認識されており、江蘇省には徐福が住んでいたと言われる徐阜村という村も存在する。そこには徐福の子孫と名乗る人もおり、徐福がそこに居た可能性は非常に高いと思われる。その為、日本には来ておらず、晩年をその村で暮らしたという説も浮上しているが、それでは、全国に残る徐福伝説の説明ができない。徐福は本当に日本に来ていたのだろうか?
●徐福は神格化されて神武天皇になった!?
 徐福が日本に来ていたことを表す大胆な仮説として、徐福=神武天皇説がある。『史記』の「徐福は豊かな土地を見つけてそこの王となった」という記述から、王を神武天皇と解釈する説である。徐福は中国を出る時、稲など五穀の種子と金銀・農耕器具・技術を持って出たと言われており、日本で徐福伝説が残る地には弥生時代の遺跡、もしくは水田跡が発見されている。稲作文化は弥生時代初期に大陸から伝わったとされるが、実はその伝承を狙ったのではないだろうか。日本の初代天皇が中国からの上陸者というのも、歴史ロマンとしては面白いかも知れない。

【画像】
佐賀県佐賀市諸富の徐福像
和歌山県新宮市徐福公園


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◆屍を乗り越えて奪い取った皇位 持統天皇の皇位継承は仕組まれたもの!?

2021-08-13 10:51:13 | Weblog

 

●円満になるよう仕向けたはずが.....
 天武天皇には10人の皇子がいたが、後継者候補となったのはそのうち2人だった。それは草壁皇子と大津皇子。年齢から考えると草壁皇子が有力だったが、彼は病弱さが難点。その点、大津皇子は文武両道で周囲の評判も高かった。天武天皇が悩んだ結果、選んだのは草壁皇子だったが、大津皇子を後ろ盾として政治に参加させ、禍根を残さぬように取り計らった。だが、天武天皇が死を迎えると、生前の思いも虚しく、皇位継承問題が巻き起こった。そして、死後1か月も経たないうちに大津皇子は謀反の疑いで逮捕。その翌日に処刑されてしまったのだ。
●謀反は冤罪!? 皇位は私のものよ!
 謀反の動機としては皇位を狙ったというのが第一に考えられるが、政治的に参加する権利は得ていた為、謀反を起こすメリットは少ない。それに、天武天皇の正妃・鵜野皇后の監視下では謀反は不可能に近かった。そこで巻き起こったのが冤罪説である。黒幕は草壁皇子の母である鵜野皇后。皇位を握れるだけの実力と人気がある大津皇子は、草壁皇子が皇位を継承するには邪魔な存在だった。謀反に見せかけて殺すことによって草壁皇子の地位を確実なものとしたのだ。だが、草壁皇子も即位前に死去。すると、鵜野皇女は自ら持統天皇として即位したのである。何という巡り合わせだろうか。この一連の出来事が偶然とは、とても考えられないものである。


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カーリーミント(縮緬薄荷)

2021-08-12 09:24:24 | Weblog

 


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ベリーズ アンド クリームミント

2021-08-10 13:36:29 | Weblog

 


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日々草(Madagascar periwinkle) Catharanthus roseus 楽しい思い出

2021-08-08 04:36:23 | Weblog

 


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Chocolate Mint

2021-08-07 11:58:04 | Weblog

 

 


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