Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆実直な精神で大物たちはメロメロ 直江兼続は天下一の世渡り上手!?

2021-02-28 04:28:38 | Weblog

●主君に尽くす為には努力が必要
 直江兼続といえば、幼馴染であった上杉景勝にとことん尽くし、自国を守る為に主君の右腕として活躍した武将として有名である。しかし、戦国時代に於いて己の主君や国の利益だけを考えてそればかりに専心していては、絶対に生き残ることなど出来ない。力のある大名と手を組み、取り入り気に入られる努力もまた、武将の素養として必要不可欠なものであった。その点で兼続の行動には注目に値するものがある。彼流の世渡り術を詳しく見て行こう。
●秀吉も家康も認めた兼続の魅力とは
 兼続の信念といえば「忠孝」であり、常に「義」を重んじていたことがよく知られているが、それ故に豊臣家から何とか覇権を奪おうとする徳川家康を「不忠」「不義」と、考えていた。そして家康の上洛要請を無視し、武力を貯え、それを糾弾されると「直江状」を送りつけて家康を激怒させてしまう。その後、関ケ原の戦いで以前から親交のあった石田三成率いる西軍に味方をし、西軍が負けると、兼続は死を覚悟する。ただ主君の景勝の命だけは守ろうと上洛し、家康の面前で「責任は全て自分にあり、景勝は何も悪くない」ことを主張する。すると嘗て自分を愚弄した兼続を真の武士であると認めて、家康は許してしまう。その後、鷹狩りの得物をわざわざ送って来るほど、家康は兼続を気に入ってしまったのだ。そしてその結果として、減封にこそなったものの米沢の地で上杉家再生のチャンスを与えられたのである。秀吉に「最高の武将」と言わしめた兼続の渡世術とは、策を弄さず自らの信念に基づいて筋を通すということ、それに尽きるのであった。
●直江兼続のやたら怖い話
 筋を通すことに重きを置いた兼続だったからこそ、こんなエピソードもある。家臣が茶坊主を無礼討ちにし、兼続の元に遺族が嘆願しにやって来た際、何を言っても遺族は「殺された家族を返してくれ」と言い続けた。すると兼続は「そなたたちの願いを聞き入れよう。ただ死者を生き返らすには閻魔大王にお願いする必要があるので行って来なさい」と答えた。そして遺族の首を落とし「閻魔大王様、使いを出すので死人を返して下さい」という嘆願書を書いたというのだ。
筋を通し、見せしめ効果も利用して民をまとめるこのやり方も、兼続流渡世術であると言えるだろう。
●身分の高い大名にも容赦なし
 自らの信念を貫き通す兼続に、嫌われてしまった大名がいる。独眼竜と呼ばれた、奥羽きっての戦国大名・伊達政宗である。政宗は派手好き、且つ見栄っ張りで、妻は側室を含めて10人近くいたという。真面目で生涯一人の妻を愛した兼続は、反りが合わなかったのか、政宗のことを徹底的に嫌っていたという。或る時、江戸城で政宗とすれ違った兼続は、身分が高い政宗に対して会釈すらしなかったという。政宗がこれに怒ると、兼続は冷静に「これはご無礼致しました。これまで私は中納言殿とは戦場で相まみえる間柄だった故、戦場から逃げて行く後ろ姿しか拝見したことがなく、お顔を存じ上げませんでした」と答えたという。何という無礼な発言だろうか。自分より身分の高い人物にここまで嫌悪感を明らかに出来るのは、信念を貫き通す兼続らしいと言える。
 
 
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◆権力のままに部下を手荒く使った末に..... ストライキを起こされ失脚した服部半蔵

2021-02-24 04:04:30 | Weblog

●部下の反逆に遭い、リストラへ
 伊賀忍者の代表的存在として知られる服部半蔵。名はそのまま3代に渡って受け継がれたのだが、ここで紹介するのは3代目の服部半蔵のことである。3代目の半蔵は父親の死後、伊賀同心200人をそのまま受け継いだ。といってもあくまでも徳川家から指揮権を任されただけに過ぎなかった。だがボンボン育ちで世間知らずの半蔵は、彼らに自分の家の壁塗りをさせたり、自分の命令に逆らう者がいれば給料を差し引いたりと権力をかさにやりたい放題。その結果、伊賀同心200人とその家族、総勢1000人が2ヶ月に渡って寺に立てこもるという大規模なストライキを起こされてしまったのである。その為、半蔵は幕府から謹慎処分を喰らうこととなった。
●名誉挽回を図るが行方をくらまし.....
 部下の反逆に怒り心頭の半蔵は、ストライキの首謀者10名に死罪を通達。そのうち2名が逃亡するが、うち1名を見つけ出し斬殺してしまう。しかし、この斬り殺された人物が全くの人違いだったのだ!結局これが原因で半蔵は幕府からリストラされ、職を失ってしまった。その後、半蔵は名誉挽回を狙い大坂の役に参加するものの行方不明に。一説では、戦場から逃亡して75歳まで農民として生き続けたとか。部下を手荒く扱った為に、職も部下も失ってしまった半蔵。彼が寂しい晩年を過ごしたのは必然だったのかも知れない。


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◆江戸幕府を開いた武将の真の姿とは? 晩年の徳川家康は影武者だった?

2021-02-23 04:08:15 | Weblog

●家康は関ケ原の戦いで死んでいた!?
 「徳川家康は関ケ原の戦いで暗殺されており、以降家康として活躍していたのは家康の『影武者』だった」ーーー この奇想天外の異説は有名だ。
というのも、隆慶一郎の小説「影武者徳川家康」にて採られた説だからだ。後に漫画やドラマにもなったこの作品の影響から、「家康=影武者」説は多くの人の知るところとなった。
隆氏によると、関ケ原の戦い以降、家康とその息子・秀忠から同じ命令が発せられることが多々あったという。これは家康と秀忠が対立していた為であり、その原因が「家康=影武者」だったことにあるというのだ。また、家康が60歳を過ぎてから多くの子を残している点も疑わしいという。更に入れ替わりの時期は異なるものの、家康は影武者だったとする説は他にも存在する。

●「家康=影武者」を提唱する諸説
 一つは「駿府政事録」に記載された「幼少の時、又右衛門なる者に銭五貫を以て売られ、9歳の時から18~19歳まで駿府にいた」という家康のセリフに端を発する。つまり、「又右衛門なる者に銭五貫を以て売られ」た誰かが家康と入れ替わったと考えられるのだ。
もう一つは、家康は大坂夏の陣で戦死し、その1年間は小笠原秀政が家康を演じたというもの。根拠は秀政が夏の陣で死んだとされたことにあるという。「家康」は何人存在しているのか、謎は尽きない。

●諸説語られる徳川家康の影武者説
 1、桶狭間の戦いの数年後に不慮の死を遂げ、以降は影武者にすり替わる
 2、信長と戦うべく尾張へ侵攻中、阿部正豊に暗殺され、すり替わる
 3、関ケ原の戦いで暗殺され、以降は世良田次郎三郎とすり替わる
 4、大坂夏の陣で戦死。その後1年間は小笠原秀政が家康を演じる

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◆天下の家康に歯向かった直江兼続 家康を激怒させた直江状は実在しない?

2021-02-22 04:04:12 | Weblog
●家康の上洛命令を拒否
 直江兼続には様々な逸話が残っているが、中でも国内の最大勢力だった徳川家康を激怒させた「直江状」のエピソードは、兼続を語る上で欠かせないものとなっている。
秀吉の死後、家康は親豊臣派を取り込むなどして影響力を強化して行った。これに憤慨したのが上杉謙信の息子・景勝。彼は家康に対抗して軍備を増強し、これに伴い部下である兼続も家康に対抗する姿勢を見せるようになっていたのだ。兼続の動きを封じたい家康は景勝らの行動を非難すると同時に上洛を求めるが、兼続は拒否。その後、家康は会津征伐を開始するのだが、その切欠になったのが「直江状」である。兼続は家康に「武器を集めるのは茶碗を集めるようなもの」「上杉を疑う徳川にこそ企みがあるのでは」と挑発的な返答で切り返し、家康を大いに怒らせた。
●現存する「直江状」は後世の写し?
 ただ、この書状は東京大学附属図書館などに保存されているものの原本は残っていない。その為、この出来事は実在しなかったのではとさえ疑われている。実際、兼続が活躍した戦国から江戸の時代は偽書や怪文書が飛び交っており、信憑性には欠けると言わざるを得ない。だが、家康の家臣の日記にも上杉家から書簡が送られ、それに家康が激怒したことは事実として記されている。「直江状」自体の真偽は疑惑は残るが、兼続の度胸が並大抵でなかったことは確かなようだ。

直江兼続
 
直江状原本 長岡歴史博物館 所蔵
 
 
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◆化けて天下を掴んだ狸親父 徳川家康は自身の系図を書き換えた!?

2021-02-16 04:20:19 | Weblog

 

●したたかさは若い頃から
 その腹黒さと強かさから狸親父との異名を持つ徳川家康。表面上では化けて周囲の目を欺きつつ、内心では虎視眈々と逆転を狙う。そんな家康のイメージは老獪さが身に付いた晩年からのものだと考えられているが、実は若い頃にも自らの経歴を覆し、大きく化けたことがあった。
家康は三河の士豪の生まれであり、祖先についてはいまいちハッキリしない。彼は源氏の血筋でなければ就任できない征夷大将軍に就任している。何故、そんなことが可能だったのか?それは家康が若い頃に自分の系図を書き換えていたからだった!
●官位を得る為、源氏の氏族に変身
 1566年、三河統一を成し遂げた家康は織田信長との同盟を背景に戦国大名への道を歩み出していた。その年の暮れに家康は従五位下・三河守への官位認定と、松平から徳川への改称を申請した。だが、正親天皇は「先例がない為に公家にはできない」とこれを拒否。そこで家康は浄土宗の僧侶を通じて、関白の近衛前久に協力を仰ことに。すると、近衛家の家来でもあった京都吉田神社の神主が先例として利用できる古い記録を発見した。それは、源氏の新田氏系の得川氏の流れで藤原氏になった家があったということだった。神主がその場で書き写したものを、前久が清書し、朝廷に提出したところ天皇の許可が下ったという。

●知っておきたい用語
 『征夷大将軍』 鎌倉時代から江戸時代までは幕府の長という位置づけであり、天皇の勅令によって任命された。基本的には世襲制で、戦国時代は足利家が、江戸時代は徳川家が代々務めていた。

 『官位』 戦国時代から江戸時代にかけて、武士が任官または自称した。朝廷が取り決めるもののほか家康の三河守のように、領国を支配して認定されるケースもある。


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◆敗軍の将に余生があった? 石田三成は関ケ原後も生き延びていた?

2021-02-12 04:16:40 | Weblog
●各地に残る三成生存説
 関ケ原の戦いに敗れた西軍の総大将・石田三成は、京都の六条河原で斬首されたとされている。
ところが、このとき処刑されたのは影武者であり本当の三成は佐竹義宣に匿われて秋田に逃れたという説がある。三成は、八幡村にある帰命寺という寺に「知恩院から招いた名僧」として住まい、彼を慕う石田軍の残党がヒッソリとかの寺を訪れ続けていたとか。その話は自然と幕府の耳にも及び、佐竹家は噂を掻き消す為に、帰命寺の主僧は入寂した(亡くなった)と吹聴するのに努めたそうだ。
また別の説では、徳川家康の密命によって榊原康政の館林城に匿われていたとの語り伝えもある。
●判官びいきは日本人の特質?
更に、三成自身は処刑されたが、その遺児が各地で生存していたという伝承も諸説ある。
たとえば、三成の次男・重成は、関ケ原敗戦後に大坂城を脱して生き延び、杉山源吾と改名して津軽家に庇護されていた。また、重成とは別に次女の存在も伝えられており、彼女の孫娘(三成の曽孫にあたる)お振の方は徳川3代将軍・家光の側室になったとも、お振の方は家光との間に女児・千代姫をもうけ、三成のDMAは徳川家に入ったとされている。
かように三成生存説などが都市伝説のように唱え続けられているのは、敗者に同情する日本人の「判官びいき」の心情によるところが大きいと考えられる。

【補足】今更ながら石田三成の惨敗を運命づけた、人格的欠陥とは…
●管理統制志向が強く、何事にも厳格で、融通が利かない。
●嫌悪の情が激しく、一旦 嫌いになると歩み寄らない。
●場の空気が読めず、相手の気持ちに対する洞察力に欠ける。
●対症療法的発想から脱せられず、先を見越した行動が取れない。
●交渉事では完全勝利を目指し、妥協点を見いだそうとしない。
●何かに失敗しても自責で考える事はなく、他責で考える。
●思い込みが激しく、自負心が強いた為、方針の修正もしない。
【石田三成、柿、断る説】
関ケ原合戦に敗れた石田三成が、再起を期して戦場を離脱したが、戦運尽きて伊吹山で捕らえられ刑死される。刑執行前、三成は喉の渇きから護送役の役人に湯を望みましたが却下され、代わりに干し柿を差し出されるが、「(柿は)胆の毒だ」と断り、「これから他界するものが」と嘲笑される。すると三成は、「大志を遂げようとする者は、絶命するまで自分の命を大切にしなければならない。その気持ちは分かるまい」と述べた。



石田三成(龍潭寺所蔵)




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◆三成の遥か上を行った家康の知略 関ケ原の戦いは何故半日で終わった?

2021-02-05 04:12:15 | Weblog

 

●僅か6時間で終了した大決戦
 1600年9月15日、豊臣秀吉死後の政権を巡って、戦国史上最大の激戦・関ケ原の戦いが起きる。日本全国の大名を徳川派東軍と反徳川派の西軍に二分し、東西合わせて15万人以上もの大軍が激突したこの合戦は、誰もが長期戦になると予測した。ところがこの合戦は僅か1日、いや、厳密に言えばたったの6時間で決着がついたのである。「天下分け目の戦い」と呼ばれた大決戦は何故、たったの半日で勝敗が決したのだろうか?
●家康の見事な作戦勝ち
 西軍の石田三成は、籠城策をとって東軍を迎え討つ作戦を採ろうとしていた。三成は籠城した西軍を包囲する東軍の更に外側に籠城兵と後詰の兵を置くことによって、東軍を挟み撃ちにしようと考えたのである。それに対し家康は、三成を籠城させないよう関ケ原に誘き出す作戦に出た。家康は野戦が得意な反面、城攻めが苦手だったのだ。そして何よりも、籠城されて長期戦になることを家康は恐れた。畿内に散らばっている西軍が終結する可能性があり、東軍は圧倒的不利な立場に追いやられるのである。家康の策謀に見事引っ掛かった三成は関ケ原に布陣した末、僅か半日の戦闘で敗北してしまったのである。当代一の策謀家として知られる徳川家康の、完全なる作戦勝ちだったといえるだろう。


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◆たったひと言で信頼を失った男 失言で秀吉に嫌われた黒田官兵衛

2021-02-03 04:04:13 | Weblog

如水居士(黒田官兵衛) 崇福寺所蔵




●秀吉の下、功績を上げた名参謀
 織田信長、豊臣秀吉に仕え、名参謀として重宝された黒田官兵衛。だが、たったひと言の失言が、彼の運命を大きく変える。信長の下に仕えていた官兵衛は、信長から大いに気に入られ、その後に仕えた秀吉の下でも見事な働きぶりを見せて功績を上げていた。また、信長の重臣であった荒木村重が謀反を起こした際、捕らえられた官兵衛はそこで片足が不自由になるほどの酷い生活を強いられるが、それでも彼は寝返ることなく、救出後には秀吉の元へ戻ったという。そんな官兵衛の献身的な姿に感銘を受けた秀吉は、彼に絶大な信頼を寄せていた。
●誤解された励ましの言葉
 だが、これまで築いて来た秀吉からの信頼を官兵衛は自らの言葉で崩してしまう。その言葉が発されたのは、本能寺の変で信長の死の告知を受けた時、官兵衛は、主君の死を悲しみ号泣する秀吉に「これで御運が開けますぞ」と声をかけるが、こんな時に主君の死を利用せよという彼の発言はまさに場違いだった。「もし官兵衛が勢力を上げればきっと天下を狙うことだろうーーー」。こう思った秀吉は、これ以降、官兵衛の知謀を恐れるようになったという。主君を励ます為に発した言葉が、自らの信頼を一気に失墜させることになった官兵衛。彼はその後、幾ら功績を立てても評価されることはなく、結局、彼が秀吉から与えられたのはたった3万石であったという。
●黒田官兵衛の言葉
 『これはお前の為だ。乱心ではない』
官兵衛は晩年、家臣の心を息子の長政に向けさせる為、乱心を演義していた。その本音をこっそり長政に知らせた時の言葉。




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