Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

ウリエル 過剰に過酷な炎の仕置き人

2018-05-31 04:15:15 | Weblog

「天使は優しいとは限らないーーー罪人には容赦しない懲罰者」
 旧約聖書正典に登場する三天使(ミカエル、ガブリエル、ラファエル)に次ぐ存在を、正典外の文献から求めた際、真っ先に名が挙がるのが、間違いなくこのウリエルである。
一般的には、三天使に彼を加えたこの四人を以て、最も偉大な「四大天使」と呼ぶ。当然、彼もまた「七人の大天使」や「御前の天使」に加えられることが多い。属する階位は、熾天使とも智天使とも大天使とも謂われる。
その名は「神の炎」を意味し、開いた掌に炎を携えた姿で描かれる。炎は人間への贈り物であり、愛の証しとも謂われる半面、彼我罪人を処罰する為の道具ともなる。
彼は地獄を捕りし切る役目も担っており、罪人の魂を永遠の業火で焼いたり舌で吊って炎で炙ると云った容赦の無さで、畏怖されてもいるのだ。この辺り、同僚のラファエルの優しげなイメージとは、実に対照的と謂えよう。
ラファエルの項で軽く触れた通り、人間ヤコブがある天使と格闘して、ほぼ互角に戦った挙句、関節を外されたと云う逸話が『創生記』にある。その天使の名は明確でないが、ウリエルだとする説が多い。また彼は、炎の剣でエデンの園を護衛する門番とも、ソドムとゴモラを滅ぼす為に遣わされた「破壊の天使」とも謂われる。これらの逸話や役職から、厳格で潔癖な気質が覗われる。
そんな彼は、実はカトリックでは、天使ではなく聖人と位置づけられる。七四五年の公会議で一時堕天使の烙印を押され、後に名誉回復が行なわれたものの、天使には復位されなかったのだ。
果たして当人は納得しているのだろうか?

                 「天使」と「悪魔」がよくわかる本 西方世界の天使


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エリザべート (1837~1898)漂泊の生活を送ったヨーロッパ1の美貌皇后

2018-05-30 04:15:11 | Weblog

十九世紀、オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の皇后エリザべートは、ヨーロッパ1の美貌と謳われた女性である。
しかし、その華やかな生活や輝く美貌とは裏腹に、宮廷内での孤独、最愛の皇太子の自殺と、彼女の内面は絶えず悲哀に満ちたものだったと謂う。その悲しみから逃れる様に放浪の旅を続けた彼女の最期もまた、悲劇的な結末を迎えることになる。...

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「オーストリア皇帝との結婚」
 エリザべートは、バイエルン公マクシミリアン二世の娘として生まれた。父のマクシミリアンは名門の生まれとは云え傍系であり、大学にも通ったリベラルな考えの持ち主。彼女は、そんな父の自由人としての気質をよく受け継ぎ、勉強や作法を学ぶよりは、木登りや魚釣りが好きな活発な娘だった。
彼女の人生が急展開するのは、姉の見合いに付き添ってからである。見合いの相手はハプスブルク家、オーストリア皇帝の後継者である、従兄のフランツだったが、あろうことかフランツが選んだのは見合い相手の姉ではなく、十五歳になる妹エリザべートだった。これには周囲の人々も驚いた。何故なら、当時の彼女は波打つ様な豊かな髪こそ持っていたが、やせぎすで容姿には特に取り柄がなく、優雅な物腰にも欠け、およそ皇妃には似つかわしくないと思われていたからだ。
フランツの求婚には当のエリザべートも、「皇帝を愛してはいますが、あの方が皇帝でなかったら良かったのに・・・・・」と当惑した。だが、フランツの目に狂いはなかった。一八五四年、花嫁のエリザべートは息を飲む程に美しく「バイエルンの薔薇」と謳われる程に成長していた。彼女は終生その美しさを保つ為に、ダイエットや美容に心を砕いたと云う。

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「孤独な生活と悲劇的な最期」
 フランツとの幸せな結婚生活の一方で、エリザべートが結婚前に抱いていた不安は的中する。彼女は、ウィーン宮廷の儀式ばった厳格な生活、姑ゾフィーの度重なる干渉、そして、公務で忙しい夫とのすれ違いの生活に、次第に孤独感を深め、心が蝕まれて行った。また、子どもを次々と儲けても、その子ども達を手元から奪われるに至り、体にも異変をきたした。
やがて彼女は転地療養と称し、旅から旅へ、漂泊の生活を送る様になる。中でも、ハンガリーに魅せられた彼女は現地の言葉を習得し、オーストリア・ハンガリー帝国体制となった際には、親交面で力を尽くしたと謂う。しかし、ウィーン宮廷にエリザべートの姿はなく、家族は別離の生活を余儀なくされていた。
そんな最中、彼女を更なる不幸が襲う。一八八九年、エリザべートの唯一の息子ルドルフ皇太子が心中事件を起こし、ピストル自殺を遂げてしまったのである。父と政治的に対立し、酒と女に溺れる荒んだ生活を送っていた皇太子は、自ら若い命を絶った。
息子の死に対するエリザべートの悲しみは一廉ではなかった。それ以降、彼女は不幸を呼び覚ますウィーンを毛嫌いし、漂泊の旅に拍車がかかって行った。だが、十九世紀末のヨーロッパは民族主義運動が高まり、王族の暗殺と云う不穏な空気を孕むものになっていた。そして、やがて彼女も、その波に飲み込まれることになる。
一八九八年の夏、スイスに滞在していたエリザべートは、九月十日、僅かな供を連れた散歩の途中、一人の男にヤスリで刺し殺される。犯人のイタリア人、ルイジ・ルケーニは無政府主義者だった。彼はエリザべート個人を狙ったのではなく、王族なら誰でも良かったのだ。だが、そんな彼が選んだのは皮肉なことに、心情的には共和制に近いエリザべートだった。
こうした悲劇性は、彼女の輝きを歴史の中に留めることとなった。今尚、彼女は悲劇の皇妃として多くの人々に愛され、映画や小説にも描かれている。

         

               世界の「美女と悪女」がよくわかる本 ヨーロッパの美女


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ヨシフ・スターリン (1879~1953)グルジア 粛清と弾圧の嵐を呼んだ共産主義の独裁者

2018-05-30 04:11:28 | Weblog

ソビエト連邦(現在のロシア)の共産主義を確立し、一九四一年の独ソ戦で自国を勝利へと導いた指導者スターリン。
生前、彼を称賛するポスターが町中に貼られ、彼の映画も製作された。
しかし、スターリンが残したとされる次の言葉に、彼の一面がよく表れている。
「一人一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない」。
そう、そこに見えるのは、大粛清と弾圧を容赦なくやってのけた「独裁者」の顔なのだ。
スターリン、本名ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリは、グルジア人の靴職人の息子として誕生する。彼は地元の神学校に進むが、当時のグルジアは「ツァーリ」(ロシア皇帝)に征服されていた為、グルジア文化を学ぶことを禁じられ、ロシア文化のみを教育される。その反発心からスターリンは共産主義に傾倒し、民族解放の革命の為なら、現金の強奪や暴動など、手段を選ばず行動して行く様になる。
やがて、彼はロシア革命を成功させたウラジミール・レーニンの下で、共産党の民族人民委員を務める。因みに、スターリンと云う名は「鋼鉄の人」と云う意味があり、レーニンが名づけたものだ。そして、一九ニ四年にレーニンが死ぬと、ライバルの政治家トロッキーやジノビエフらを退けて、党の全権を掌握。
ここから、スターリンの独裁者たる恐怖政治が幕を開けるのだった。先ず彼は、資本主義諸国に対抗する為、「富農撲滅」を宣言して、国内の工業化を目標とする5か年計画に着手する。
農業を国営化して、ソ連を世界最大の工業国にしようとしたのである。その為に、農民を集団化させて収穫物を徴収し、重労働を強いた。
刃向かう者は餓死か凍死するまで奴隷の如く働かせたのだ。こうした事態は極度の食糧不足を招き、密かに人肉を食用に売買する事件まで起きたが、スターリンは大量逮捕、虐殺の手を緩めることはなかった。彼は自分に対して批判的な人間を片っ端から消して行った。それが高じて起こった大粛清は一九三六年頃から激化し、一般人から知識人、軍人、司令官クラスの人物までが標的となった。
不当な逮捕や処刑、投獄などによる犠牲者は、七〇〇万人とも、ニ〇〇〇万人にも上るとも言われている。
そうして、多くの犠牲を払った結果、ソ連は工業化の礎を築くことに成功。そして独ソ不可侵条約を一方的に破ったドイツに反撃し、見事に勝利を収めたのである。
だが、第二次世界大戦が終わると、時代は共産主義国と資本主義の冷戦に突入して行く、そんな緊張した情勢の中で、一九五三年、スターリンは脳溢血で倒れ、七十四歳でこの世を去った。
彼の死後、後継者のフルシチョフはスターリンとは異なる政策を進め、彼が行なった粛清を批判した。
これにより、名実共に個人が権力を握る時代が終わったのだった。
スターリンの行なった「粛清」と云う名の大量虐殺は、人道的な観点から見れば、決して許されるものではない。しかし、歴史上の出来事を公平に歪みなく捉える為には、その時代の背景も考慮する必要がある。
結果として、誤った方向に走ってしまったものの、「ソ連を強い国にしたい」と云うスターリンの理念が評価に値するものであることは間違いないだろう。

         

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ウィンストン・チャーチル (1874~1965年)イギリス Vサインの魔術で勝利を呼んだイギリス首相

2018-05-29 04:24:46 | Weblog

ウィンストン・チャーチルの名は、第二次世界大戦でイギリスを勝利に導いた名宰相として世界史に刻まれている。
その指導力には傑出したものがあり、一九四〇年にイギリス首相に就任してからは国防相を兼任、陸海空の三軍を直接指導して、大きな功績を残した。
ナチス・ドイツの弾道ミサイル、V2ロケットに苦しめられたイギリス国民は、結果として彼らを救ったチャーチルを今でも深く尊敬している。ニ〇〇ニ年にイギリス国営放送のBBCが行なった「100名の最も偉大なイギリス人」の投票に於いて、エリザベス一世やシェイクスピアを押さえ、堂々の1位に輝いたことからも、その人気ぶりが分るだろう。
青年時代、チャーチルは士官学校を経て陸軍に入り、退役後は従軍記者として戦場を駆け回った。この時の経験が、第二次世界大戦での采配に生かされたことは間違いない。戦略家としての才能や軍事的なセンスにかけては、当時からすでに定評があったと云う。だが、この名軍師は、軍事や政治だけでは戦争に勝てないと云うことも熟知していた様だ。彼は宿敵ヒトラーとの対決に、何と占星術と魔術を用いていたのである。
第二次世界大戦は近代兵器の戦争であると共に、諜報戦でもあった。スパイによって収集される情報は、戦略を立てる上で欠かせないものだった。当然、イギリスも多くの諜報員をドイツに送り込んでいたが、彼らがもたらした情報のうち、ヒトラーが軍事作戦の助言を占星術師に求め、それを重用していると云う話にチャーチルは注目した。どうやら彼は、各種の情報に因って、ヒトラーは軍人としての才能は乏しいと云うことを見抜いていたらしい。また、ヒトラーの何かと縁起を担ぎたがる一面を知らせる報告もあり、これらを考え合わせると、ヒトラーが占星術を重用していると云う話も、あながち嘘ではないと判断したのだろう。
そこでチャーチルは、自らの陣営にも占星術師を迎え入れると云う驚くべき作戦に打って出た。「目には目を、占星術には占星術を」と云うわけである。
ただし、イギリス側の占星術師に期待されたのは戦況の予言ではない。ドイツ側の占星術師が、どの様な見立てをするかを予想することだった。敵の手の内が分れば、戦況は優位になる。連合軍の対ドイツ作戦は、こうして立てられたのだ。
また、チャーチルは勝利を意味する「Vサイン」を好んで使っていた。勝利への誓いとして、事あるごとにVサインをかざし、国民を鼓舞していたのだ。実はこれも、ヒトラーのオカルティズムに対抗したものと謂われている。
今では「ピースサイン」とも呼ばれ、写真撮影時のお決まりのポーズになっているが、元を正せば、チャーチルが強力な呪符である鍵十字の魔力に対抗する「カウンターマジック」として採用したと云うのだ。その助言を与えたのが二十世紀最大の魔術師クロウリーだと云う噂もあり、これが本当なら、第二次世界大戦は「魔術合戦」であったことにもなる。
「迷信」ですら、戦略の為に利用する柔軟性。
そこにチャーチルの真の強さがあったと謂えるだろう。

 

        
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殷(商)の紂王 (前1100年頃~没年不明)殷(現・中国)古代中国に悪名を轟かせた淫蕩君主

2018-05-29 04:18:27 | Weblog

殷王朝最後の王、第三十代の紂王。正式な名は「帝辛」と謂う。
頭が切れて弁舌に長け、腕力も優れていたと云うが、臣下に対する残虐な刑罰から、
「古代中国の暴君」の代表とされている。
紂王の残虐さは際立っていると謂える。
例えば「炮烙(ほうらく)の刑」。
これは、炭火の上に油を塗った銅の柱を渡し、その上を罪人に歩かせて、足を滑らせて火中に落ちる様を見物すると云うものだ。
紂王の粗暴ぶりを注意した叔父の比干に対しても、その場で殺し、その心臓を抉り出すと云う非道ぶり。
紂王を語る上で欠かせないのが、こちらも「悪女」として名を馳せた美女、妲己の存在だ。
紂王はこの后を溺愛し、常軌を逸する程に酒色に溺れる様になる。庭に離宮を造って、酒をはった池に裸の男女を泳がせ、周囲の木々には干し肉を吊るし、紂王と妲己はそれを見物しながら淫楽な日々を送った。この行為が、後に「酒池肉林」と云う言葉になったと謂う。
「道義を破る」と云う意のある「紂」の字を取った名は、紂王の生き様に倣って、王の死後に付けられたと云う説がある。
その最期は、周の武王の軍に敗れ、火中に身を投じて死んだと伝えられる。

    

          
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陳 舜臣 鄭成功 ~旋風に告げよ~

2018-05-28 04:19:42 | Weblog

ーーー台湾は中国の固有の領土である。我が父鄭芝竜は、これをオランダ人に貸したが、
いま本藩(鄭成功)はこの地を領有する必要を感じたので、返還を要求する。
この地は中国領であるから、オランダは当然中国に明け渡さねばならない。
本藩はオランダ東インド会社と戦うのは本意ではない。また会社の財産を略奪する意思もない。
私有財産は持ち帰ることを認める。
要するに、一刻も早く正当なる主人に土地を返還すべきであり、もしこれを拒否するに於いては、本藩は重大な決意を有するものである。
即ち、汝らオランダ人をことごとく殺してでも、正当な要求を貫徹するであろう。

オランダ側が、国姓爺(鄭成功)の台湾両城引き渡しを拒否したのは言うまでもないが、
遂に四十年のオランダによる支配が終わり、台湾に新しい時代が訪れた。

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鄭成功(中国名・森 日本名・福松)は父が漢人、母が日本人。
7歳で父の下、福建省に渡る。
何不自由なく育てられ、学問を重ねて行く上で、
父(貿易商・海賊)と反目し合うことが多くなって行く。
清朝に寝返った父を軽蔑し、自身は明朝復興に全身全霊を尽くすが、
無謀な北伐で大敗退をしてしまう。
鄭成功が何故その無謀さに挑んだか?
日本人の血が入っている限り、若い成功は頭目として、周りに説得力を持たす為に、
民族主義に走らなければならなかった。

惨敗に虚しさを覚え明朝復興も密かに断念。
その時には、成功の心中には『台湾』があったのだ。

ちなみに成功の母は、自分は息子の為にならきっと役に立てるはずと信じ、
長崎から夫の下に旅立った。
けど、夫は正妻とその子どもたちのみ連れ、清側に所謂亡命したことに失望をおぼえ、自害をしてしまいました。


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ラファエル 親切で気さくな旅人の守護者

2018-05-27 07:52:04 | Weblog

旧約聖書に名前が登場する、由緒ある天使の三人目。
ただし、ガブリエルの項で触れた様に、ラファエルはこの栄誉に与れない場合もある。と云うのは、他の二人の名を明かした『ダニエル書』と異なり、ラファエルの名が登場する『トビト書』の扱いが、宗派によって違うからである。カトリックと東方正教(=ロシア正教、若しくはギリシャ正教)では正典だが、プロテスタントやユダヤ教では外典扱い。この場合、ラファエルの地位は微妙に下落してしまうことになる。...

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「重要外典『トビト書』で主人公父子を助けて大活躍」
 とは云え、『トビト』が重要な文献の一つであることは、衆目の一致するところ、因って、ミカエルやガブリエルよりやや格落ちするとは云え、ラファエルが偉大な天使ランキングの上位に、常に位置していることは事実である。
彼の名は「四大天使」、「七人の大天使」、十二人の「御前の天使」の中に含まれているし、「力天使の長」、「第二天の支配者」とも謂われる(ただし、所属する位階は、熾天使、智天使、主天使、能天使の諸説がある)。オカルト・魔術の教義では、「太陽の天使」、「日曜の天使」などの肩書きも持つ。「神の薬」を意味するその名の通りの活躍を、『トビト書』での彼は見せている。
目の見えないトビトの息子であるトビアが父の命令で旅に出た際、ラファエルは人間に化身してトビアの道連れとなり、しばしば有用な助言で彼を助けた上、魚の内臓から処方した薬によって、トビトの視力をも回復させてやるのである。この物語が示している様に、ラファエルは治療者であると同時に、「若者の守護者」、「旅人の守護者」でもある。
その姿は、トビアとの旅に材を取った宗教画に、サンダルを履いて杖をつき、小箱を携え、水筒を提げ、ズダ袋などを背負った、如何にも旅人らしいスタイルでよく描かれる。ただし、本来、彼がトビアたちに正体を明かすのは、旅が終わった後のはず。だが、多くの絵画では何故かラファエルを、背に翼を生やした、あからさまな天使の姿で描いている。恐らく、一緒に居るトビアには翼は見えていない、と云う暗黙の約束事が、伝統的に成立しているのだろう。

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「近寄り難さとは無縁?親近感溢れる人間との交遊録」
 さて、旅の道連れと云えば、陽気で快活、そして親切な気質の持ち主が好ましいものだ。
ラファエルはまさに、そうした性格であるらしい。
以下、そのイメージを裏切らないエピソードを、幾つか紹介する。

先ずは、ミルトンの叙情詩『失楽園』から。
ここでのラファエルは、エデンの園にある「命の木」を守る役目を担っており、この楽園で暮らしていた頃のアダムやイヴと一緒に食卓を囲んで、その席で、サタンの危険について彼らに警告を発している。
結果的にこの警告は無駄に終わり、アダムたちは楽園から追放されてしまうのだが、それはもちろん、ラファエルの努力不足のせいではない。

次なる親切の対象は、方舟伝説で有名なノアだ。
『ノアの書』には、ラファエルが友好の証しとして、彼に医学書を授けたことが記されている。通常、ノアはラジエルから与えられた伝説の奇書、『ラジエルの書』から、方舟建造に必要な知識を得たとされるが、この医学書に関しても同様の伝承がある。このことから、実はこの二つの書物は同一なのではないか、と云う説もある。

更にラファエルは、ヤコブが天使と格闘した際(この天使が誰だったかについては諸説ある)、外れてしまった彼の関節を戻してやったり、また、高齢になってから割礼(ペニスの包皮の切除、ユダヤ教徒は通常、赤ん坊の頃に済ませている)を行なったアブラハムの激痛を和らげてやったりもしている。包茎手術のアフターケアまでしてくれるとは、何とも気さくな天使がいたものである。

      

      
                  「天使」と「悪魔」がよくわかる本 西方世界の天使


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アドルフ・ヒトラー (1889~1945) オーストリア 不思議な魔力を纏った狂気の独裁者

2018-05-26 04:23:11 | Weblog

現代史上、最も忌むべき存在である独裁者アドルフ・ヒトラー。
第2次世界大戦に於いて、ナチス・ドイツを率いてヨーロッパの国々を蹂躪し、ユダヤ人の大虐殺「ホロコースト」を主導したことを知らない者はいないだろう。ナチスの党員が、カーキ色の制服に身を包んで敬礼するあの独特の姿は、鍵十字の図柄と共に、人類の狂気を象徴するシンボルになっている。
一方、驚くべきことに、先の大戦が終わって60年以上経った今でも、ヒトラーのカリスマ性は色褪せずにいる。欧米では「ネオナチ」と呼ばれる集団が暗躍し、ヒトラーの著書である『我が闘争』は、20世紀の「裏」名著として読み継がれているのだ。ヨーロッパ、いや人類は、今だにヒトラーの呪縛から逃げられずにいると言えるだろう。
だが、そもそも一介の貧乏な絵描きに過ぎなかった男が、どうしてそれほどの力を得ることが出来たのだろうか。多くの史家は、ヒトラーの煽動者としての能力や、ゲッベルスを始めとする側近たちの巧みな演出にその理由を求めている。しかし、それだけのことで、世紀を跨いでも衰えない影響力を持ち続けることが出来るかは甚だ疑問だ。
ヒトラーが民衆の心を捉えた要因の一つとして、彼の際立った演説能力が挙げられる。拳を振り上げながら、或る時は力強く人々を鼓舞し、或る時はソフトに語りかけ、いつしか聴衆は彼の演説に心を奪われて行く---。
一部のオカルティストは、彼の演説には魔術的なトリックがあると主張しているが、実際にヒトラーは画家時代からオカルトに強い関心を持ち、当時の著名なオカルティストたちと交流を持っていた。
ヒトラーが師と仰いでいたエルンスト・プレシュは有名なオカルティストであるし、ナチス・ドイツの母体となったことで知られる「トゥーレ協会」は、神秘主義を標榜する秘密結社だ。
ヒトラーは協会やその会員たちから、オカルトの洗礼を受けていたのだ。
『我が闘争』のアドバイザーとされるカール・ハウスホーファーは東洋神秘主義の研究者で、彼もトゥーレ協会の会員の一人だ。
更に、ヒトラー演説術を授けたと云うエリック・ヤン・ハヌッセンは占星術師で、ヒトラーは彼から演説術だけでなく、人心を得る為の魔術、そして未来を予見する方法までも与えられたと謂われている。
実際、ヒトラーの軍事作戦は神がかり的な成功率で有名だった。
更には、10回以上も暗殺の危機に遭いながら、いずれも間一髪で難を避けているのだ。或る時などは、長時間の演説を何の理由も告げずに中止したこともあったが、その10分後、ヒトラーのいた演壇が大爆発に襲われている。演説中なら、もちろんヒトラーの命は失われていた。その突然の退去は、彼がまるで爆発を予知していたかの様だったと謂う。
また、ヒトラーは磔刑になったイエスの血を受けたと云う聖杯や、地底にあると云う王国シャンバラの叡智を追い求めていたとも囁かれている。
彼は自身が理想とする世界を築く為に、神秘の力を利用することまでも、具体的に考えていたと見られているのだ。
オカルティズムが生んだ恐るべき魔術師ーーーそれがヒトラーの正体かも知れない。

  

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ガブリエル 聖母に受胎を告げた神のメッセンジャー

2018-05-25 10:51:35 | Weblog

「神の英雄」と云う意味の名を持つガブリエルを語る上で、先ず欠かせないのは、ミカエル同様、旧約聖書に名前を明記されている天使の一人だと云うことだ。ラファエルの名が登場する『トビト書』を外典と見なせば、この栄誉を担うのは、ミカエル以外では唯一ガブリエルのみである。

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「天使のナンバー2は女性だった?」
 それだけにその存在は大きく、キリスト教に於いては「智天使の長」にして「第一天の支配者」とされ、オカルトや魔術の教義でも「一月の天使」、「月曜日の天使」「(天体の)月の天使」、「水瓶座の天使」など、多くの肩書きを持つ。
もう一つ、この天使の特筆すべき点は、一般に、男性もしくは両性具有とされる天使たちの中にあって、ただ一人、女性かも知れないと云うことである。「神の玉座の左側に立つ(若しくは座す)」と謂われていることが、その根拠の一つだが、他にも、聖母マリアの前にガブリエルが現われた際、当初、相手が男だと思って恐れ戦いたマリアが、やがて同性と悟って緊張を解いた、と云った逸話が、聖書の翻訳者、聖ヒエロニムスによって語られている。ただし、女性天使の存在に懐疑的、否定的な人々も、少なくない。故に、ここでは敢えて断定は避けるが、宗教画のガブリエルが、多くの場合、柔和で慈悲深そうな面差しを持ち、時には明確に女性として描かれているのは、事実である。

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「神に選ばれた人々にありがたいアドバイスを贈る」
 そんなガブリエルの主要な任務は、「預言」と「啓示」によって、神の意向を人々に伝えることである。最も有名な行いが、前述した聖母マリアへの「受胎告知」だ。
マリアは処女でありながらイエスと云う子を身籠ったわけだが、『ルカ伝』に因れば、これを事前に彼女に告知し、胎内の子が救世主となることを告げたのが、ガブリエルであった。
この場面は、「サタンと戦うミカエル」と並んで、頻繁に宗教画の画題とされるが、それらの中で、ガブリエルは大抵、純潔のシンボルである百合の花(百合は処女の女性器の隠喩でもある)を手にしている。これは時に、オリーブの小枝や、棕櫚の木に置き換えられたりもする。

ところで、受胎の際、マリアはまだ十四歳の乙女だったが、すでに老人であるヨセフと婚約していた。彼女の妊娠を知らされたヨセフが、幼な妻の素行に疑念を抱いていたのは、尤もであろう。思い悩んだ彼は離縁を考えたが、そんな彼の夢の中に天使が現れ、マリアを受け入れる様命じたと云う話が『マタイ伝』にある。この天使の名は明記されていないが、例えばこの場面を題材としたラ・トゥールの名画『聖ヨセフの夢』は、天使を女性として描いている。例の女性説と相まって、これもまた。ガブリエルの仕事として考えられていたことが覗える。

後に、いよいよイエスが誕生した時、それを賢者たちに知らせたのも、更に後年、ユダヤ王ヘロデの迫害が迫っていることをヨセフに警告し、エジプトへの逃走を促したのも、やはりガブリエルだった。
『ダニエル書』に於いては、ダニエルの見た幻視の謎解きをし、イエス生誕に先立っては、洗礼者ヨハネの到来も予告している。こうした活躍ぶりは、まさに「お告げの天使」と呼ぶに相応しい。
そんなガブリエルの性格は、ずっと後の、中世の時代になっても一貫している。
かの「オルレアンの乙女」ことジャンヌ・ダルクは、異端審問にかけられた際、王太子を助ける様自分に命じたのは、ガブリエルだったとも証言しているのだ。

マリアといい、ジャンヌと云い、女性の純潔=処女性と関係が深いガブリエルは、天国から子宮に導いた魂を、九ヶ月の妊娠期間中、指導するとも謂われている。

             

             

                       「天使」と「悪魔」がよくわかる本


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シモン・マグス (1世紀頃)サマリア(現・パレスチナ) キリスト教から敵視された異端の魔術師

2018-05-24 04:03:21 | Weblog

シモン・マグスは、古代キリスト教最大の異端、グノーシス派の生みの親とされている。
「マグス」とは名字ではなく、「魔術師」と云う意味の言葉で、自らを「ファウストゥス(祝福される者)」と名乗ったと云う記録からルネサンス期の「ファウスト」伝説の原型になったとも謂われる人物だ。
シモンはキリスト教の使徒たちと同時代に生まれ、『新約聖書』にも登場する。
サマリアで魔術師として活動し、多くの信者を集めていたシモンは、使徒パウロとヨハネが宣教の為にサマリアを訪れた際、彼らが自らの手で精霊を授ける場面を目の当たりにし、金でその力を買おうとした。
この行為をパウロに叱責されるのだが、このエピソードから、後に「聖職売買」を表わす「シモニア」と云う言葉が生まれたと云う。
シモンに纏わる記録は、他にも断片的に残されている。
例えば、石をパンに変える、岩を通り抜ける、空を飛ぶ、動物に姿を変えるーーーなど、様々な魔術を使う人物として描かれているのだ。
しかしその多くは、彼の教義を敵視したキリスト教側の記述であり、事実かどうかは、その実在の真偽からして判っていない、伝説的な魔術師なのである。

                   
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タイム Tymus vulgaris 勇気 積極的 行動力 活動的

2018-05-23 04:10:33 | Weblog

効能としてのタイムは、強い殺菌、防腐効果が挙げられ、古代エジプトでは死体を保存する際に使用したほか、古代ローマでは、葉を燻して聖堂などの浄化に用いていた。現在でも、解剖標本や植物標本の保存用や、紙の虫食い防止用として利用されています。

また、古代ギリシャやローマでは、勇気と品位の象徴として扱われていたことから、兵士たちは、戦いに赴く前にタイムの入った風呂に浸かり、その香りを身体に擦り付けて士気を高めました。そして、女たちは夫や恋人の武運を祈り、スカーフにタイムの刺繍をして贈ったといいます。


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ジョン・ディー 1527~1608年 イギリス 天使の言葉を解き明かした魔術博士

2018-05-22 04:25:43 | Weblog

魔術師や錬金術師、占星術師が多く活躍した中世ヨーロッパでは、そうした人々が宮廷に召し抱えられることも少なくなかった。
「エリザベス朝最大の魔術師」と呼ばれるジョン・ディーもその一人である。
ディーは一五ニ七年、イギリスのロンドン郊外にあるモートレイクで生まれた。幼い頃から秀才の誉れが高かった彼は、若干十五歳で名門ケンブリッジ大学に学ぶ。彼は一日のうち睡眠時間を四時間、食事の時間を二時間取る以外は、ひたすら学問に邁進した。
ディーが研究した分野は幅広く、取り分け神学、哲学、科学の分野に於いて熱心に研究を続けた。その中で錬金術とカバラに出会い、魔術的発想へと傾倒して行ったのだ。数学や占星術にも長けていた彼は、やがてその学識を認められて、イングランド王に召し抱えられることになる。
しかし、メアリ1世が即位すると、反逆罪の嫌疑をかけられ投獄されてしまう。その理由は、ディーがメアリの寿命が長くはないこと、妹のエリザベスが代わりに王位に就くことを予言していたからだ。
ディーは直ぐに釈放されたが、その後、予言通りにメアリ1世が病に倒れ、エリザベス1世が即位する。
この出来事から、エリザベス1世はディーに深い信頼を寄せ、宮廷占星術師として重用する様になった。そして、それと同時に彼自身の魔術研究もより本格化して行くのである。
一五八二年、ディーは、エドワード・ケリーと云う若い男を霊媒に、天使と交信して神の言葉を得る為の召喚魔術を行なっている。
ケリーが水晶玉を見つめると、ウリエルと名乗る天使が現れ、二人に様々ななお告げを下したと云う。天使との交流には「「エノク語」と云う独特の神秘的な言語が使用され、ディーはケリーを通じて、天使ウリエルが語った言葉をすべて記憶して行った。この時ディーが記録したエノク語の文書は、現在でも大英博物館に保存されており、二十世紀に誕生した魔術結社「ゴールデン・ドーン」の魔術体系にも取り入れられる。
天使との交流に成功し、ディーの魔術実験は順調に進んで行くかに見えた。しかし、ある時期から、天使の託宣に金儲けや詐欺を勧める様な、不審な内容のものが多くなって行く。
じつは、霊媒としてディーと協力関係にあったケリーは、元々文書偽造などの罪で有罪判決を受けたこともある前科持ちのならず者だったのだ。
ケリーが語る「天使の言葉」に疑いを抱いたディーは、やがてケリーと決別し、一人で研究を続けることになった。
その後、一六〇三年にジェームズ1世がイギリス国王に即位すると、
ディーの待遇は一変する。ジェームズ1世はオカルトの類いを嫌っていた為、怪しげな魔術に耽る奇異な人物として、ディーを再び王室へ迎え入れることはなかったと云う。それでも、ディーは霊能者を雇って研究を続けたが、晩年は目覚ましい成果を挙げることなく、貧困のうちに八十一歳の生涯を閉じた。
偉大な魔術師であり、学究の徒であったディーに対し、近年では、学者としての再評価も進んでおり、死後長い時間を経て、彼の功績はようやく世に認められることになったのである。

                   

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ミカエル 全天使に号令する神の御前のプリンス

2018-05-21 04:09:08 | Weblog

旧約聖書にハッキリとその名が明記されている三人の天使の一人で、
その名は、「神に似た者」と云う意味を持ち、しばしば「神と同等の者」とも解釈される。その事から分る通り、ミカエルはキリスト教のみならず、ユダヤ教、イスラム教に於いても偉大と見なされる。謂わば天使世界の重鎮である。...

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「人気・実力、すべてに於いて頂点に立つ」
 その存在の大きさは、背負った肩書きの多さにも、よく表われている。
多くの文献はミカエルを、「四大天使」、「七人の大天使」、
そして、十二人いると云う「神の御前の天使」の一人として挙げ、かつ、それらの筆頭格としている。
一般的にミカエルは「大天使」とされるが、「九階級」の中で最高の階位は熾天使(してんし)だ。よってミカエルは、熾天使でありながら、同時に、下位のクラスである力天使・大天使の長をも兼任していると謂われる。天上の七階層のうち「第四天の支配者」であり、また、「イスラムの守護者」でもある。そんなミカエルは、様々な外典・偽典にも頻繁に登場する。それら文献資料以外でも、彼が降臨して奇跡を行なうのを目撃したと云う民間伝承が、ヨーロッパの各地には数多く残っている。
彼の名を冠した教会、寺院、大聖堂、修道院などは、大ていはそうした土地の伝説に由来しているのである。このことは、庶民の間でのミカエルの人気の高さを示している。実際、中世期のカトリック教会が、加熱する天使信仰を危険視して、多くの天使を堕天使と認定し、彼らへの崇拝を禁じた時ですら、ミカエル崇拝に関してはこれを認め、寧ろ奨励をした。
熱狂的信者を多数持つミカエルを非難することには、さすがの教会の権威者たちも尻込みせざるを得なかったのだろう。
現在でもカトリック教会は、ミカエルより偉大な天使は存在しないとして、彼を「天使の王子」と呼んでいる。

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「悪魔軍団を撃退せよ!天使軍団のリーダー」
 大物だけに、ミカエルに関する資料は実に様々だが、それらをすべて信じるならば、彼は一人で膨大な量の役割りを背負っていることになる。
例えば、一般には「預言と啓示」はガブリエル、「治癒と癒し」はラファエルの担当とされているが、そうした仕事まで、ミカエルに託されてしまうことが少なくない。それはそれで、ミカエルの偉大さの証しではあろうが、ともすれば、彼に仕事を奪われた他の天使の立つ瀬がなくなってしまうので、ここでは敢えて、多くの文献が共通して述べている、ミカエル独自の役割りに絞って紹介したい。

キリスト教の宗教画で、定番となっている画題の一つに、「サタンと戦う聖ミカエル」がある。そこでのミカエルは、大てい、長い金髪の美貌の騎士として描かれ、背中に白い翼を生やした体を鎧に包んで、右手に剣、左手に魂の公正さを測る秤を構え、竜に化身したサタンを踏みつけている。
この画題が示す様に、神の摂理の代行者としてサタンと戦い、罰することこそが、ミカエルの最も主要な任務なのだ。事実、『黙示録』では、
サタンが他の堕天使(=悪魔)らを率いて神に反旗を翻した際、ミカエルは天使の軍勢を率いて、これを退けている。
他にも、『ユダの手紙』には、モーゼの遺体を巡ってサタンと争うミカエルが描かれているし、『ゼカリヤ書』にも、サタンと対決する「主の御使い」に関する記述がある。「主の御使い」がミカエルであると明記されていないが、この語は、同種の「ヤーウェ(ヤハウェ、エホヴァ)の天使」と並んで、聖書に頻出する。その何割かは、神自身が化身したものだとする説もあるが、伝統的には、ミカエルを指すと解釈される。
サタンにとっては、神よりも寧ろ、その忠臣たるミカエルこそが、毎回の様に野望を挫く、忌々しい宿敵と謂えるだろう。

               

                       「天使」と「悪魔」がよくわかる本


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日本最古の貨幣 富本銭 富本銭鋳造から300年で銅銭作りを止めてしまった日本

2018-05-20 03:55:45 | Weblog

「中々普及しない銅銭 国産貨幣は茨の道を歩む」
 日本で最初の公的な鋳造貨幣は「和同開珎」だと言われていた。
七〇八年、国内(現在の秩父地域)で初めて銅が算出されたことから、当時の朝廷は元号を「和銅」に改めると共に、この年に貨幣の鋳造を始めたのだ。しかし最近になって、和同開珎よりも前の七世紀後半に「富本銭(ふほんせん)」と呼ばれる貨幣が鋳造されていたことが分った。
ただ大昔の貨幣の中には、財産の象徴としてお墓に埋める為に作られた「まじない銭」と云うものがあり、富本銭はその一種だとも考えられている。いずれにせよ、そこまでの物品貨幣を使って生活に慣れていた当時の人々にとって、金属でできたおカネは馴染めず、中々普及しなかった。
和同開珎が鋳造されてから十世紀半ばくらいまで、度々銅銭が鋳造されたが(皇朝十二銭などと呼ばれる)、次第に原料となる銅が不足してしまい、質はどんどん悪くなった。人々から信頼も無くなり、使われなくなったのだった。
そして九五八年に銅銭が発行されたのを最後に、何と日本では公的な貨幣を作るのを止めてしまった。その後、本格的な貨幣作りがはじまるには、豊臣秀吉の時代になるのを待たなくてはならない。それまでの数百年は中国から輸入したおカネをずっと使っていたのだ。

 

                     おカネでわかる世界の事件史
                        日本の貨幣はいかに歩んできたのか①


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世界で最初の貨幣 タライガイ 物々交換で起こった不都合を解消する為に生まれた「おカネ」

2018-05-20 03:49:24 | Weblog

「古代中国で使われたのはタライガイを貨幣にしたおカネ」
 「おカネ」がなかった古代には、人々は欲しい物を手に入れる為に、物々交換をしていた。
山で採れた野菜や果物を海で獲れた魚と交換する、と云った様に物と物とを交換して必要な物を手に入れていたのである。
しかし、物々交換では欲しいものが一致しない場合があると云う難点があった。また、交換しようとした物が腐ったり、食べられなくなっていたりと、不都合な点が多々あったのである。
そこで物々交換に代わって誕生したのが「おカネ」である。
当初は、持ち運びしやすい、誰もが同じ価値を認める、と云った条件を持つ貝、布、石、穀物、砂金などがおカネとして使用されていた。これが紀元前一五〇〇年の頃のことである。
つまり「おカネ」と云う媒介物を通して、価値を交換させ始めたのである。これが、「世界におカネが生まれた日」と言っていいだろう。
漢字では「財」「貯」「貨(幣)」などおカネに関わる言葉が「貝」偏なのは最初のおカネが貝であった記憶が文字の中に組み込まれているからだと言われている。古代中国で使われたタライガイは代表的な物品貨幣である。

   

               おカネでわかる世界の事件史 世界におカネが生まれた日


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