Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆世界三大美食の1つ フランス料理がフランス発祥というのはウソ

2020-11-30 07:18:31 | Weblog


カトリーヌ・ド・メディシス(1519ー1589年)
絵は30代の頃のもの。


15世紀初頭のフランス王家の食事風景。
フォークやスプーンは見当たらず、
テーブル左端には手掴みで食べようとする人物も見られる。
(「ベリー公のいとも豪華な時祷書」より)

世界三大美食といえば、中華料理、トルコ料理、そしてフランス料理である。いずれも大帝国時代の宮廷料理に端を発し、周辺地域の料理を取り入れたり多くの料理人がその腕を競わせながら発展したという伝統と歴史ある料理だ。特にフランス料理は日本でも人気が高く、おしゃれなディナーを楽しみたいならフレンチを、と思う人も少なくないだろう。
ただ、現在のフランス料理はフランスで生まれたものではなく、元を辿ればイタリア料理にあるのだという。
遡ること16世紀、当時のフランス王国皇太子アンリ2世が、イタリア・フィレンツェの豪族メディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスを王妃として迎えたのが切欠だ。その頃のフランス料理というのは、火を通した食材を大皿に乗せ手掴みで食べるという非常にシンプルなもので、既に食の文化が花開いていたイタリアとは雲泥の差があった。そこでフランスに嫁ぐことになったカトリーヌは、自分のお抱えの料理人や給仕人、フォークやスプーンといった食器類、そして調理器具や調理方法を持ち込んだそうだ。それだけでなく、マカロンやアイスクリームといった菓子類も、甘いものを好んだというカトリーヌが持ち込んだものだという。こうしてイタリアから持ち込まれた料理の影響を受け、フランス料理は発展を遂げた。とはいえそれを享受出来たのは上流階級の人々に限られ、一般市民が口に出来るようになるには18世紀のフランス革命を待たなければならなかった。一品ずつ料理が運ばれて来る形式も、フランスの料理人がロシアの貴族に料理を提供する時、料理の味を損なわない為にロシアでの給仕法を取り入れて生まれたという。
今日の私たちの目の前に出される一皿には、様々な地域の食文化が詰まっているのである。


               教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                          伝統と起源のウソ

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆蒸気機関車を発明したのがスチーブンソンというのはウソ

2020-11-29 11:28:57 | Weblog
黒塗りの機体が大量の煙とともに線路を走る。このSLとも呼ばれる蒸気機関車は、電車が普及した今となってはあまり見られなくなったが、今でも観光地などで活躍しておりファンも多い。ところで、この蒸気機関車を発明したのは「ジョージ・スチーブンソン」だと思っている人もいるのではないだろうか。実は、スチーブンソンよりも先に蒸気機関車を発明した人物がいる。イギリス人のリチャード・トレビシックだ。
トレビシックは1802年に史上初の蒸気機関車を造り、1804年に「ぺナダレン号」が鉱石と乗客の輸送に成功した。スチーブンソンが有名なのは、彼が1825年に世界初の公共鉄道「ロコモーション号」を走らせたからである。トレビシックは引き続き蒸気機関車の発明に携わっていたが、1808年「キャッチ・ミー・フー・キャン号」の開発に失敗したのを最後に機関車開発から身を引いたそうだ。


1825年9月27日、英国のストックトンとダーリントン間(40キロメートル)に
開通した世界最初の公共鉄道用に「ロコモーション号」。

               教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                          伝説と起源のウソ

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆日清戦争をきっかけに不平等条約で決められた領事裁判権が撤廃されたというのはウソ

2020-11-28 09:51:24 | Weblog
明治政府の目標の1つに、幕末に結ばれた不平等条約の改善があった。中でも領事裁判権の撤廃は主権国家として独立する為には欠かせない課題で、歴代外相によって粘り強く交渉が続けられた。
領事裁判権とは、外国人の罪は外国領事が裁くという権利で、この権利のせいで難破船の外国人船長が日本人乗客のみを救助せずに溺死させたにも関わらず無罪となったノルマントン号事件が起きた。当然国内では条約改正論が過熱し、国中の関心事になったわけだ。
そんな日本の悲願達成に、1895年の日清戦争の勝利が影響を与えたと言われることがある。「眠れる獅子と恐れられた大国清に弱小国の日本が勝った。この出来事で日本は近代国家としての欧米諸国に認められ、領事裁判権の撤廃に繋がった」という筋書きだ。
だが、実は領事裁判権の撤廃は日清戦争前に達成されていた。つまり、戦争の勝利ではなく、外交官による交渉が不平等条約改正をもたらしたのだ。ただ、1894年、日清戦争の直前にイギリスとの改正交渉に成功して新条約を結んだが、条約が実施されたのは1899年からだった。その為、日清戦争の影響で条約が改正されたと勘違いされることになったのだろう。


ノルマントン号事件とは、1886年(明治19年)の10月24日、
イギリス船籍のノルマントン号が紀州沖で座礁・沈没。
当時のイギリス人船長は日本人乗客25人を誰一人救出せず、見殺しにした事件
(フランス人の画家ビコーが描いた『メンザレ号の救助』)。


               教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                          政治と事件のウソ




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆ヨーロッパが他地域より先進的だったというのはウソ

2020-11-27 07:10:41 | Weblog
近代日本人にとって、ヨーロッパは常に最先端を走る大文明圏で、文化・科学・法・経済などあらゆる分野でお手本にされ崇められた。現在の世界史の教科書を読んでも、大航海時代や産業革命期などを経験した西洋世界は、世界史上常に先進的だったような印象を受ける。しかし、我々が凄いと思っているヨーロッパは、ヨーロッパ人にとって都合好く解釈された産物であり、歴史的に見れば後進地だった時期の方が長かった。
特に中世は疫病の蔓延に因って大勢の人が死に、家畜も次々と倒れて行った悲惨な時期で、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2、約2000万から3000万人が死亡したと推定されている。一方でこの時期、イスラム諸国や中国周辺の国家は自己の文明を育み、インフラや識字率などの点で西洋文明より優位に立っていた。
そもそも、「ヨーロッパ」といってもルネサンスの舞台はイタリア、大航海時代を牽引したのはスペイン・ポルトガルと範囲はかなり限定的で、ヨーロッパ地域全体が進歩し続けていたわけではない。寧ろ、イタリアが近代国家として成立したのは日本と同じ時期だし、近代のスペインやポルトガルでは産業革命や自由貿易などは見られないなど、ヨーロッパでも近代化に苦戦している地域があった。「進んだヨーロッパ」といっても、地域的な境界は曖昧で、その上、宗教対立もあった為、とても歴史的にまとまった先進的な共同体として扱うことは出来ないのだ。
では何故ヨーロッパは先進的だというイメージが浸透しているのだろうか?それは世界史に、「工業化を遂げて他地域より優位に立ったヨーロッパ文明が歴史の主役として世界を動かす」という流れが貫かれているからだ。元々、史学はヨーロッパ人が自らの進歩を研究する学問としてスタートしている。日本に歴史学が導入された際、史料批判に基づく客観的な手法が重視されたが、西洋の歴史=日本が目指すべき目標として西洋研究が始まったこともあり、「進んだ西洋」が現在でも強調されているのだ。
現在では、西洋を軸に自国の歴史や世界史を研究する手法は見直されつつある。多様な社会変化の歴史を「西洋の優位」から見ていては視点が偏り判断を誤ることがあるからだ。
どのような世界史像を描き出すかについては世界的な取り組みが必要だが、研究が進めばいつか世界史の教科書がガラッと変わる時が来るかも知れない。


史料に基づいた実証的。科学的手法を歴史学に取り入れた、
18世紀の歴史学者レオポルト・フォン・ランケ。
日本にも彼が提唱した史料批判による歴史学が紹介された。


                教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                           政治と事件のウソ

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆古代ギリシャ・ローマが民主的だったというのはウソ

2020-11-25 08:51:22 | Weblog


衆愚政治を非難したアテナイの哲学者プラトン


18世紀のイギリスの歴史学者エドワード・ギボン。
五賢帝の時代を評価し「バスク・ロマーナ(ローマの平和」
という言葉を生み出した。


西洋の歴史を見ると、ルネサンスや新古典主義など、過去に理想を求めて社会は大きく変化し、新しい文化や技術を生み出して来たことが分かる。その理想とされたのが古代ギリシャ・ローマの時代だ。そこでは演劇や哲学、文学が発達し、ギリシャ時代は都市国家の1つアテナイで直接民主制が布かれ、帝政ローマ時代にはバスク・ロマーナと呼ばれる安定した社会が実現した。
こうした古代の文化は民主主義の原型として高く評価されることもあるが、実際にはギリシャ・ローマが民主的だったというのはウソで、不平等や非民主的な面も持ち合わせていた。アテナイの直接民主制は、自由人である市民の男性しか参加できず、総人口の3分の1は奴隷だった。戦争によって征服された土地の人間が奴隷となり、「話す道具」として市民に従事させられていたのだ。市民への政治的平等は徹底していたが、それ以外の人々はそうした恩恵を受けることはなかったようだ。寧ろ、直接民主制は扇動家や詭弁家に流されて政治が混乱することも多く、「衆愚政治」に陥ることから避けるべき政治体制だと見なされるようになって行った。
帝政ローマの時代になると、帝国内の全自由民に市民権が与えられ、一見すると開明的な政策が行われていた印象を受けるが、実際には度重なる領土拡大戦争によって経済は疲弊し、地域によっては重税が課せられることもあった。それでも民主制=衆愚政治という認識もあった為、一部の有力者による政治が認められており、市民の政治参加は限定的だった。今日のような民主主義の雛形のようなものがこの時代からあったとは言い難いだろう。

           
               教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                          政治と事件のウソ

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆サンタクロースの服が伝統的に赤いというのはウソ

2020-11-20 08:09:37 | Weblog



1年に1度、クリスマスにプレゼントを届けてくれるサンタクロース。サンタクロースといえば、立派な白ひげ、ふくよかな体型、プレゼントの入った大きな白い袋、そしてあの赤い衣装が特徴だろう。ところが、サンタクロースの衣装は赤と決まっているわけではないのである。
サンタクロースのモデルになったのは4世紀頃東ヨーロッパにいたとされる守護聖人・聖ニコラウスで、貧しい人々や冤罪の人々を助けた伝説が語り継がれて来た。現在のような姿の原型が現れたのは19世紀初めと歴史は意外に浅い。19世紀のクリスマスカードを見てみると、赤い服を着ているものもあるが、緑、紫、茶色など様々な色の服を着ているのが分かる。体型もスリムだったり、伝説に擬えた小人の姿だったりとまちまちだ(妖精と伝えられるところもある)。
赤い服のイメージに統一された切欠は、コカ・コーラ社の広告だった。1931年、コカ・コーラ社のクリスマスキャンペーンの為に描かれたのが、まさに今に通じる、豊かな白ひげに赤い服、コカ・コーラを片手に陽気に笑うサンタクロースの絵だったのである。当時の広告費に1000万㌦近くかけたとも言われ、その為、世界中に赤い服の陽気なサンタクロースのイメージが定着したのだと考えられている。「サンタクロースの赤い服の起源はコカ・コーラ社」と言われることもあるが、元から赤い服を着たサンタクロースはいて、各地で異なっていたサンタクロースのイメージを統一し定着させたに過ぎないので、この説もウソである。ちなみにイギリスでは今でも緑色のローブを着たサンタクロースもいるそうだ。
        
              教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                         伝統と起源のウソ
 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆参勤交代で庶民は土下座しなければならなかったというのはウソ

2020-11-19 08:07:21 | Weblog




江戸時代の大名は、国元と江戸を1年交代で往復する参勤交代が義務付けられていた。
時代劇でも長々とした大名行列はお馴染みの光景だ。よく「大名行列に出くわした庶民は道を譲って土下座しなければならなかった」と誤解されることが多いが、実際には土下座が必要だったのは徳川御三家のみで、他の大名の場合は行列を邪魔しない程度に道を譲り、頭を少し下げるだけで済んだ。土下座にしても、我々が知っているような頭を地面に擦り付けるタイプではなく、しゃがんで頭を伏せればそれで良かったようで、当時の様子を描いた絵を見るとその違いがよく分かる。また、大名行列を妨害して切り殺されるなんてことは滅多になく、怒鳴られるか殴られるかで済んだという。庶民を切ったら何らかの処罰を受けるか、自分に非が無いことを証明しなければいけなかった為、厄介事に巻き込まれないよう「切り捨て御免」は避けられていたのだ。
そもそも仰々しい行進は自国領民に威厳を示すことが目的だった為、人が多い町内を抜ければ行列は簡素化された。町内を通る時は人を雇って大規模な行列に見えるようにし、格式ばった衣服を身にまとって「威厳ある領主」を演出していたに過ぎないのだ。このように、大名行列には一般的に知られているよりも柔軟性があった。そうでなければ、産婆さんは行列を横切ってもお咎めなしという規定が盛り込まれることはなかっただろう。
『画像』
品川宿を通る大名行列の最後尾(歌川広重「品川 日之出」「東海道五十三次」)

大名行列に道を譲る庶民。時代劇で見るような土下座は行われていない。
                 (「徳川盛世録」 国会図書館所蔵)
       
              教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                                       政治と事件のウソ


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆破戒僧と手を組んだ大奥の暗部 寺院と大奥のイケない関係を強めたお美代

2020-11-18 09:00:01 | Weblog
●政略的に大奥に送り込まれた
 ことの起こりはお美代という美女が大奥へ奉公をしたことであった。そもそもお美代は、御家人・中野清茂の元へ奉公に出ていたのだが、清茂がそのあまりの美しさに「こいつを大奥へ送り込めば私も将軍様のお眼鏡に適って、出世が出来るはず」と考えて、大奥へ上げることになった。時の将軍は徳川家斉。彼は美人には必ず手を出す好色家として知られ、側室を16人、子供を50人儲けたほどの人物であるから、お美代も直ぐ目に止まり、3人の女児を儲ける。お美代が寵愛を受けた結果、清茂も思惑通り出世した。ただ、お美代の寵愛の恩恵を受けていた人物は清茂だけではなかった。それこそが、お美代の実父であり、法華宗智泉院の破戒僧である日啓であった。

●美形僧侶たちの接待!?
 というのも当時、大奥と寺院には強い繋がりがあった。大奥の女性たちは原則として外出を禁じられていたが、寺院への墓参りや祈祷という名目であれば外に出ることができ、寺院側も美形の僧侶を迎えに出して、様々な意味で接待を行なっていたのだ。日啓は大奥と良好な関係を築ければ、将軍家から恩恵に与れるし、お美代も大奥での地位が安泰になるということで、両者にとってメリットばかりだった。結果、日啓も出世を果たし、万事上手く行ったようにも思えたが、家斉が死ぬと、財政の引き締めが行なわれ、この悪しき風習はなくなってしまった。




                 学校で習った歴史はウソだらけ!?
                       日本史 大ウソ事典 「江戸」

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆あの遠山の金さんも、虎退治の加藤清正も..... 時代劇のヒーローも『痔』には勝てない!?

2020-11-17 09:13:07 | Weblog
●激痛に耐え切れず駕籠で登城
 現代でも痔に悩む人は多いが、それは江戸時代でも同じだったようだ。遠山の金さんこと遠山影元も痔に悩んだうちの一人。金さんは痔の痛みで馬に乗ることが出来なくなってしまった。その為、馬での登城が難しくなり、困った金さんは幕府に申請、特別に駕籠で登城する許しを得たという。
時代劇で知られる大岡忠相も痔だった。その苦しみは本人の日記にも綴られている。それによると1743年1月、激痛で目覚めた大岡は自分が痔で出血していることに気付いた。2日後に徳川家の近親を連れ墓参りに行く予定を控えていたが、悩んだ末に「今回の墓参りは見送りたい」と行事責任者に申し出る。だがその責任者は、「もう参加者の名簿が出来上がっているから」とそれを拒否。それでも地獄のような痛さには耐えられず、大岡は欠席してしまったという。


●下駄が原因で更に痔は悪化
 金さんや大岡忠相に負けぬほど酷い痔を患っていたのが、虎退治で知られる加藤清正だ。彼は一度トイレに入ると1時間は出て来なかったとか。更に厄介なのが、彼が潔癖症だったことである。その為1尺ほどある下駄を履いて長時間座り込んでいたのだが、それが原因で更に痔は悪化してしまった。
みんな時代劇ではヒーローとして扱われている有名人だが、悪に勝てても痔には適わなかったようである。彼らにとって一番の悪は痔だったのかも知れない。


遠山影元の晩年


大岡忠相


             
                学校で習った歴史はウソだらけ!?
                      日本史 大ウソ事典 「江戸」

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆長政への愛は偽りだった!? スパイとして暗躍した信長の妹・お市の方

2020-11-15 13:22:56 | Weblog



●悲劇を生み出した原因はお市!?
 織田家と浅井家の同盟を締結する為に結ばれた織田信長の妹・お市の方と浅井長政。二人は政略結婚ながら仲睦まじい夫婦生活を送っていたことで知られている。だが、1573年、長政は義兄の信長に攻められ、自害するという非業の最期を遂げた。信長と敵対していた朝倉家と浅井家が同盟を組んでいた為に起きた悲劇であるが、この長政の死はお市の方がもたらしたという説がある。
●強かなスパイ大作戦
 信長はお市の方を嫁がせる時に、朝倉家には手出ししないことを浅井家と約束していたが、1570年、朝倉討伐の為に進軍を開始。長政は板挟みの状況に陥るが、悩んだ挙げ句、朝倉の味方をすることに決め、背後から織田軍を急襲する為に動き出す。ここで動いたのがお市の方である。浅井・朝倉軍の織田軍挟撃作戦を知った彼女は、両端を縛った小豆袋を送ることでこれを信長に知らせたのだった。信長を袋の中の小豆に喩え、両端を結ぶことで挟み撃ちを表現したのだ。
それを見た信長はお市の方の意を察して、すぐさま京都に逃げ込んだ。人知れず情報を集め、意図だけを的確に伝える、まさにスパイの所業である。
このお市の方の働きがなければ、織田家はここで潰えていた可能性が高い。長政との円満な夫婦生活もスパイとしての自分を隠す為だったのかも知れない.....。
      
               学校で習った歴史はウソだらけ!?
                     日本史 大ウソ事典 「戦国」

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆へロデ大王がキリスト誕生を怖れて国中の幼児を虐殺したという話はウソ

2020-11-13 07:12:14 | Weblog
「新約聖書」によると、ユダヤの王へロデ大王は、ベツレヘムで救世主キリストが誕生したことを聞いて怯え、自分の地位が奪われる恐怖から彼の地にいる2歳以下の幼児の殺害を命じたとある。なんて無慈悲な王だろうと憤慨された方、この話はウソなので安心していただきたい。
へロデ大王による幼児虐殺の話は「新約聖書」の「マタイによる福音書」に記されている。だが、この福音書はユダヤ人に対してイエスがユダヤの王であることを説得することが目的である為、他の3つの福音書にはない記述もある。その為、虐殺の話も根拠に欠けるとして史実だったとはみなされていないのだ。身内を次々に手をかけるほど猜疑心が強かったというへロデ大王なら虐殺の話もそれらしく聞こえてしまうが、その一方で公共事業やエルサレム神殿の改築など、都市計画に力を入れて統治者としての責任も果していたようだ。


へロデ大王は港湾整備や要塞建設にも力を入れ、
現在でもその痕跡が残っている。


               教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                          政治と事件のウソ

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆マキャベリの「君主論」が君主制を推奨していたというのはウソ

2020-11-12 08:53:28 | Weblog
マキャベリの「君主論」は、君主が国を治める為にどうあるべきかを説いた政治学の論文だ。名前ぐらいは聞いたことがある人も多いと思うが、「目的の為なら手段を選ばなくていい」と言われる内容に気が引けて読むのは躊躇してしまうという人も少なくないだろう。君主制を特別扱いして民衆を軽視しているかのような記述に後味が悪くなったという人もいるかも知れない。だが、マキャベリが「君主論」を書いたのは君主制を推奨していたからではなく、君主に気に入られて就職することが目的だった。
マキャベリが生きた15世紀のフィレンツェは、もとは共和制国家で、彼自身も共和制支持者だった。優秀な外交官として活躍したマキャベリだが、政変によって前君主メディチ家が実権を握ると職務をクビになり、共和制支持者とみなされて政治の世界から締め出されてしまった。そこで、マキャベリは外交官時代の経験を基に、裏切りや冷徹さなど人間の負の面に目を向け、現実的な政策を探るよう君主に勧める「君主論」を書き上げて就職活動の武器にしたのだ。その内容はメディチ家当主にも高く評価され、マキャベリへの不信感を払拭させることに成功した。こうしてマキャベリは政治顧問として再び政治の世界に復帰し、見事に就職活動を乗り切ったのだ。
しかし、一連の節操の無い行動は新たな敵も作った。
共和制支持者からは裏切り者扱いされ、メディチ家が再びフィレンツェから追放されるとマキャベリも共に政権から追い出されることになったのだ。
その後は政界へ復帰することなく生涯を終えるという寂しい最期を迎えたマキャベリだが、彼がそうまでして政権に固執したのは、不安定なイタリア半島の政情を安定させたいという気持ちが強かったからだ。当時のイタリアは幾つもの小国に分かれて衝突を繰り返し、スペインやフランスなどによって国土が蹂躙されるという、とにかく不安定な社会だった。こうした混乱を何とか取り除きイタリア半島を統一したい。そうした想いからマキャベリは政権に身を置き続けようと必死になったのである。長い間非難された「君主論」だが、現在ではその政治哲学が再評価され、リーダーに求められる知識が詰まった教科書として世界中で読まれている。


「君主論」を記したマキャベリにちなんで
「目的の為なら手段を選ばなくていい」ことを
マキャベリズムと言うようになった。


             教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                        政治と事件のウソ

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆地動説を最初に唱えたのがコペルニクスというのはウソ

2020-11-09 07:20:37 | Weblog


16世紀に描かれた地動説の図

現在一般に通じる地動説は、16世紀にポーランドの天文学者コペルニクスによって提唱された天動説に相対する学説だと知られているが、実は地動説を最初に提唱したのはコペルニクスではない。コペルニクスより約2000年も前、古代ギリシャの天文学者アリスタルコスが初めて地動説を唱えたのだ。彼は著書「太陽および月の大きさと距離について」の中で、太陽と月と地球の距離を求め、太陽が地球より遥かに大きい星であることを発見した。そこから、「地球よりも大きい星が地球の周りを回ることは不自然だ」と考え、当時一般的だった天動説とは違う地動説を唱えたという。ただその計算式はあまりに正確さに欠けていた。
コペルニクスの業績はアリスタルコス地動説の再発見と惑星、恒星の距離の計算方式を明らかにしたことにあり、それ故に地動説の創始者と認識されるのだろう。この計算方式によって、現在の1年=365日という暦が出来上がったのである。


              
               教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                          行事・慣習のウソ

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆豊臣の重鎮・利家を支えた賢夫人 まつは夫の利家を尻に敷いていた?

2020-11-08 12:54:12 | Weblog

●正室として多くの嫡子を産んだ
 賢夫人の代表と言われるまつは、夫・前田利家とは従兄妹同士の間柄であった。4歳で前田家にもらわれると、まつは当時13歳の利家と一緒に育てられる。どこか姉さん女房のイメージが強いまつだが、実際は年下で、この頃は利家の妹のようなポジションだった。彼女が嫁いだのは数え12歳の時である。
その後は正室として、生涯、利家の側にあった。結婚翌年からの20数年間に2男9女を産む子だくさんで、子に恵まれなかった秀吉などにしてみたら羨ましいことこの上なかっただろう。

●誰もが認めるまつの聡明さ
 なかなか女性の見せ場が少ない時代、まつの場合は彼女の聡明さを示すエピソードには事欠かない。柴田勝家と共に秀吉と戦った賤ヶ岳の戦いの折、秀吉は戦線離脱した利家を追って府中城に踏み込む。胃の痛い想いで対面の時を待つ利家を尻目に、秀吉が最初に会いに行ったのは台所に居るまつだった。突然の訪問にもまつは動じなかった。丁寧に戦勝祝いを述べる。すると秀吉もさるもので、すかさず合戦が首尾よく運んだのは利家のお陰と話を合わせた。こうして利家は咎められるどころか、即座に旗下に組み込まれることになったのだった。
有名な「醍醐の花見」では、まつは秀吉の正室・高台院、淀君をはじめとした側室たちに続く6番目の席次を与えられる。この席上、淀殿と、同じく側室の松の丸殿が杯の順番を争う騒ぎがあった。この子供染みた争いの仲裁に入り、二人を諫めたのもまつである。

●夫と前田家の為に尽くした一生
 小牧・長久手の合戦の際、味方の城が寡兵で奮闘しているのに、利家は秀吉から自重を促され援軍を渋っていた。するとまつは、家臣を見殺しにするなと叱咤する。そして出陣にあたっては、もし城が陥落したら生きて還るな。自分も家族と共に自害して果てるからと重臣たちの前で演説、全軍の士気を高めた。
大した女丈夫ぶりで、こうして見ると、相当なカカア天下で利家を尻に敷いていたように思われる。が、彼女の行動論理の中心は、常に利家大事、お家大事であった。利家もそんなことは承知しており、だからこそ二人は長い年月の間に多くの子をなすほど仲睦まじい生活を送ったのだ。まつが利家にとって、得難い伴侶であったことだけは間違いないことである。


             
                学校で習った歴史はウソだらけ!?
                      日本史大ウソ事典 「戦国」

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆幕末の対外交渉で幕府が弱腰だったというのはウソ

2020-11-07 09:58:11 | Weblog


日米修好通商条約で幕府側の代表だった岩瀬忠震


アメリカ側代表タウンゼント・ハリス

これまで、幕末の幕府は外国の圧力に屈して弱腰になり日本に不利な条約を受け入れたとして非難されることが多かった。だが、近年は幕府の外交政策が見直され、実際には日本の自立を守る為、奮戦していたことが明らかにされている。
不平等条約と言われる日米修好通商条約には、外国人が日本で罪を犯しても日本人が日本の法律で裁くことが出来ないこと、関税を自国で設定できないことなどの条項が含まれており、これらの条件はアメリカには適用されなかった。一見すると確かに不平等な条約だが、武力的には幕府が圧倒的に不利だった為、現実的に考えれば条約の拒否はできなかった。また、当時の日本は権力が幕府や諸藩に分散していて全国どこでも通用する統一的な法体系がなく、領事裁判権が認められたのも仕方がないことではあった。
不平等条項ばかりが注目されるが、実は日本に有利な条項もあった。それが外交官以外の外国人は居留地から10里(約40㎞)以内しか移動できないという制限だ。この制限は、外国商人の産地での直接買い付けを阻止し、彼らが日本国内市場へ侵入するのを防ぐという大きな役割を果たした。開港した横浜では、商機を掴もうと日本人商人が集まり、外国商人相手に全国の産物を売りつけて利益をあげた。幕府側もこうした事態を予測していた為、外国人の移動制限条項に関しては最後まで折れなかったのである。逆に日本人がアメリカに行っても移動制限が課されることはなかったから、その点でも日本にとって有利な条項であることが分かる。
交渉役の幕府役人も、条約交渉の準備として西洋諸国に関する情報を集めていた為、アメリカ駐在大使ハリスの詭弁にも簡単には騙されなかった。アメリカは他国から領土を奪ったことがないという発言(実際はこの交渉の数年前にメキシコから領土を奪い取っている)や、貿易が両国に利益をもたらす(インドやアフリカ、中国では貿易によって成長段階の国内産業が破壊された)といった誘い言葉の嘘を見抜き、粘り強く交渉を続けたのである。




         
               教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                          政治と事件のウソ

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする