チンギス・ハンやモーツァルトなど、墓のありかが特定されていない歴史上の人物は意外に多いが、アレクサンドロス3世(大王)もその一人である。
*宴席で急死した英雄の「死因」は?
マケドニアの王アレクサンドロスは、紀元前334年に軍を率いて東征に出ると、アケメネス朝ペルシアを征服し、南はエジプト、東はインダス川にまで及ぶ大帝国を築いた。
その領土は更に広がるかに思われたが、紀元前323年6月、バビロンに滞在していたアレクサンドロスは、高熱をはっして床についた。それでも精力的にアラビア遠征の策を練り、臣下たちに指示を出し続けたが、快復することなく32歳の若さで急死した。宴席で急に具合が悪くなったことから、杯に毒を盛られたのではと噂されたが、現在ではマラリアのような病気だったと考えられている。
*「後継者争い」に利用された埋葬
アレクサンドロスの遺体は、故国マケドニアに運ばれ、そこで葬られるはずだった。その為に、黄金の板で覆った豪華な葬送用の馬車も造られた。ところが遺体はその馬車に乗せられたまま行き先を変えると、部将のプトレマイオスによってエジプトへと運ばれたのである。
これは、アレクサンドロスを葬る者こそが、後継者として認められると考えられていたからである。そもそもアレクサンドロスは、後継者を定めていなかった。誰を跡継ぎにするか尋ねられた時は、「最も優れた者に」と答え、臨終の床では「全ての友人が後継者争いに加わることだろう」と語ったという。その言葉のように、有力な部将たちは、アレクサンドロスが死ぬと互いに争うようになった。
*アレクサンドリアに壮麗な墓所が築かれたが.....
アレクサンドロスの帝国から生まれ、最も大きな国となったのが、セレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトが、アレクサンドロスの遺体を手に入れたのは、前述のようにエジプトを支配するプトレマイオスだった。そしてプトレマイオスは、エジプトの都市アレクサンドリアを自分の国の都とすると、ここにアレクサンドロスの壮麗な墓所を建てたのである。
アレクサンドロスは、征服した各地に自分の名を冠した都市を置いたが、その中で最も大きく最も繁栄したのが、紀元前332年にエジプトのナイル川河口に築いたアレクサンドリアである。墓所は、王族の屋敷や神殿、公園などが並ぶ東港の「宮殿地区」と呼ばれる。 紀元前30年にプトレマイオス朝がローマ帝国に滅ぼされ、アレクサンドリアがローマ領となっても繁栄ぶりは変わらず、初代皇帝のアウグストゥスや軍人皇帝カラカラなどローマの歴代皇帝がアレクサンドリアにやって来て墓所に足を運んだという。ところが、215年にカラカラ帝が参拝したという記録を最後として、墓所は記述から姿を消し、その100年後には、あった場所さえ不明になってしまったのである。
*都市の繁栄と騒乱、そして地質と津波によって消えた墓
これは、都市アレクサンドリアが辿った時代の変遷によるものであろう。アレクサンドリアはヘレニズム文化の中心であるだけでなく、東地中海、紅海、インド洋を結ぶ貿易の拠点で、軍事上の要衝でもあった為、多くの勢力がこの地を得ようとし、幾度も争奪の舞台となった。
しかも3世紀以降、地震と津波が頻発し、365年に発生した地震では、都市全体が沈降。
更に764年1月の地震では、津波により都市が破壊的な打撃を受けてしまう。そうした中で大王の墓所も、水中に沈むか地中に埋没してしまったと考えられる。更に8世紀になると、エジプトがイスラム勢力の支配下に入った為、アレクサンドロスの墓のありかは人々の意識から消え、全く分からなくなったのである。
近代に入っても、古代の港一帯は軍事施設になっていた為発掘が許されなかったり、水質が汚濁して海中の調査ができなかったりという事情が続いた。 しかし現代では、アレクサンドリアで大規模な発掘調査が行われるようになった。特に水中考古学の発展により、海底から沈没船や彫刻、壺などの多くの遺物が相次いで引き上げられ、古代の港の様子も明らかになりつつある。 またギリシア北部のかつてのマケドニアの地でも、アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世のものではないかと思われる人骨や、母オリンピアスが埋葬されたのではないかと思われる墳墓が発見され、大きな話題となった。アレクサンドロス大王の墓が発見される日も、そう遠くないかも知れない。
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