Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆紀元前に大帝国を築いた 英雄アレクサンドロス大王の墓は、何処へ消えた?

2019-09-30 04:41:06 | Weblog



チンギス・ハンやモーツァルトなど、墓のありかが特定されていない歴史上の人物は意外に多いが、アレクサンドロス3世(大王)もその一人である。

*宴席で急死した英雄の「死因」は?  
マケドニアの王アレクサンドロスは、紀元前334年に軍を率いて東征に出ると、アケメネス朝ペルシアを征服し、南はエジプト、東はインダス川にまで及ぶ大帝国を築いた。
その領土は更に広がるかに思われたが、紀元前323年6月、バビロンに滞在していたアレクサンドロスは、高熱をはっして床についた。それでも精力的にアラビア遠征の策を練り、臣下たちに指示を出し続けたが、快復することなく32歳の若さで急死した。宴席で急に具合が悪くなったことから、杯に毒を盛られたのではと噂されたが、現在ではマラリアのような病気だったと考えられている。

*「後継者争い」に利用された埋葬  
アレクサンドロスの遺体は、故国マケドニアに運ばれ、そこで葬られるはずだった。その為に、黄金の板で覆った豪華な葬送用の馬車も造られた。ところが遺体はその馬車に乗せられたまま行き先を変えると、部将のプトレマイオスによってエジプトへと運ばれたのである。
これは、アレクサンドロスを葬る者こそが、後継者として認められると考えられていたからである。そもそもアレクサンドロスは、後継者を定めていなかった。誰を跡継ぎにするか尋ねられた時は、「最も優れた者に」と答え、臨終の床では「全ての友人が後継者争いに加わることだろう」と語ったという。その言葉のように、有力な部将たちは、アレクサンドロスが死ぬと互いに争うようになった。

*アレクサンドリアに壮麗な墓所が築かれたが.....  
アレクサンドロスの帝国から生まれ、最も大きな国となったのが、セレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトが、アレクサンドロスの遺体を手に入れたのは、前述のようにエジプトを支配するプトレマイオスだった。そしてプトレマイオスは、エジプトの都市アレクサンドリアを自分の国の都とすると、ここにアレクサンドロスの壮麗な墓所を建てたのである。
アレクサンドロスは、征服した各地に自分の名を冠した都市を置いたが、その中で最も大きく最も繁栄したのが、紀元前332年にエジプトのナイル川河口に築いたアレクサンドリアである。墓所は、王族の屋敷や神殿、公園などが並ぶ東港の「宮殿地区」と呼ばれる。 紀元前30年にプトレマイオス朝がローマ帝国に滅ぼされ、アレクサンドリアがローマ領となっても繁栄ぶりは変わらず、初代皇帝のアウグストゥスや軍人皇帝カラカラなどローマの歴代皇帝がアレクサンドリアにやって来て墓所に足を運んだという。ところが、215年にカラカラ帝が参拝したという記録を最後として、墓所は記述から姿を消し、その100年後には、あった場所さえ不明になってしまったのである。

*都市の繁栄と騒乱、そして地質と津波によって消えた墓  
これは、都市アレクサンドリアが辿った時代の変遷によるものであろう。アレクサンドリアはヘレニズム文化の中心であるだけでなく、東地中海、紅海、インド洋を結ぶ貿易の拠点で、軍事上の要衝でもあった為、多くの勢力がこの地を得ようとし、幾度も争奪の舞台となった。
しかも3世紀以降、地震と津波が頻発し、365年に発生した地震では、都市全体が沈降。
更に764年1月の地震では、津波により都市が破壊的な打撃を受けてしまう。そうした中で大王の墓所も、水中に沈むか地中に埋没してしまったと考えられる。更に8世紀になると、エジプトがイスラム勢力の支配下に入った為、アレクサンドロスの墓のありかは人々の意識から消え、全く分からなくなったのである。
近代に入っても、古代の港一帯は軍事施設になっていた為発掘が許されなかったり、水質が汚濁して海中の調査ができなかったりという事情が続いた。 しかし現代では、アレクサンドリアで大規模な発掘調査が行われるようになった。特に水中考古学の発展により、海底から沈没船や彫刻、壺などの多くの遺物が相次いで引き上げられ、古代の港の様子も明らかになりつつある。 またギリシア北部のかつてのマケドニアの地でも、アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世のものではないかと思われる人骨や、母オリンピアスが埋葬されたのではないかと思われる墳墓が発見され、大きな話題となった。アレクサンドロス大王の墓が発見される日も、そう遠くないかも知れない。

         
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◆平安京への遷都を行なったミカド 桓武天皇が築いた「将軍塚」は、国家の異変を知らせている?

2019-09-29 04:15:11 | Weblog

延暦13(794)年に桓武天皇が都を平安京に遷したことは、いうまでもない事実だ。
その移築の際、桓武天皇は都の守り神として将軍塚を築いた。直径約20㍍、高さ約2㍍の将軍塚が、京都市東山区長楽寺山の頂上に今も残っている。
将軍塚のある長楽寺山の頂上は、桓武天皇が平安京に都を遷す決意をした場所でもある。
平安京遷都に先立って、桓武天皇は延暦3(784)年に都を奈良から京都の南方にある長岡に遷したものの、延暦4(785)年の早良親王の憤死事件や、その怨霊に纏わる騒動などが続いていた。そんな時、和気清麻呂が桓武天皇を長楽寺山の頂上に誘った。頂上からは京都盆地が一望に見渡せる。その景色を眺めながら、「この地こそ都に相応しい」と進言したのである。 桓武天皇は、和気清麻呂の勧めに従い、この地に都を遷すことを決意。新都を鎮護する為に、都を一望に見渡せる長楽寺山の頂上に、甲冑と弓矢で武装した高さ2.5㍍の土人形を都の方角に向けて埋め、将軍塚としたのである。
『源平盛衰記』に、桓武天皇は、土像を埋める際、「必ずこの京の守護神となり給え。もし未来にこの都を他所へ移すことがあれば、固く王城を守り、その人を罰せよ」と宣明を下したという記述がある。 そのような縁からか、天下に何か異変が起きると、将軍塚がまるで怒っているかのように鳴動(音を立てて揺れる)するのだという。 その鳴動の事実は『源平盛衰記』や『太平記』に記されている。たとえば、保元元(1156)年7月8日に将軍塚が絶え間なく鳴動すると、その2日後には保元の乱が起きた。 治承3(1179)年7月7日には急に南風が吹いたかと思うと、辺りが闇に包まれ、塚が3度に渡って鳴動したとされ、この時の鳴動は諸国に鳴り響くほど大きなものだったという。程なくして大地震が起こり、翌年には源頼朝が挙兵して5年に及ぶ源平の争乱(治承・寿永の乱)が始まっている。
更に、貞和5(1349)年2月に将軍塚が鳴動した翌日には、清水寺本堂や阿弥陀堂などが全焼する火災が起こり、慶長3(1589)年8月には、豊臣秀吉の死去を告げるかのような鳴動があった。 近年では、太平洋戦争中に鳴動したという。
1200年以上の時を経て今も都を守り続けているこの塚が、この先、鳴動しないことを祈るばかりである。

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◆平安の妖怪ハンター 源頼政、正体不明の魔物を射る!

2019-09-28 04:01:03 | Weblog




射落とされた魔物を祀り、京都二条城に鎮座する鵺大明神

平安時代末期の仁平年間(1151~1154)、近衛天皇の時代に、御所の上空に毎夜、黒い雲が渦巻き、不気味な鳴き声が響き渡っていた。
その恐ろしさに近衛天皇は震え上がり、気を失ってしまうこともしばしばだった。
高僧や貴僧に命じて、大法や秘法を修めさせても効果がない。困った朝廷は、公卿を集めて詮議した結果、源頼政に魔物退治を命じたのだ。頼政は、当時、兵庫頭を務めており、武芸に優れていた上、歌人としても多くの歌を残す平安時代の武将だった。何より彼は酒呑童子という妖を退治したことで有名な源頼光の血を引く者であった。
しかし、その頼政ですら、その使命を聞いた時、一度は「目に見えない変化のもの(=鵺)を退治するなど、聞いたことがない」と辞退したという。成功すれば良いが、もし失敗すれば切腹も覚悟しなければならない命令であった。しかし、天皇からの命を拒むこともできず、結局、頼政は引き受けることになった。
いざ、退治に向かう時、頼政は神事で使う破魔の鏑矢を用意し、御所へむかった。魔物が現われたのは丑三つ時のことである。上空が暗くなり、何者かが黒雲の中でうごめいている気配がする。頼政は、矢を弓につがえ、「南八幡大菩薩」と念じながら矢を放った。その直後、甲高い悲鳴が上がったかと思うと、何かがドゥと落ちて来た。すぐさま家来の猪早太が落ちて来たものを押さえつけ、続けざまに刀で九度刺した。仕留めた魔物は、体の大きさが五尺(1.5㍍あまり)ほどもあり、頭は猿、胴体は狸、尻尾は蛇、手足は虎に似ていたという。

*二度目の魔物退治も見事に成功!  
こうして見事魔物を退治し、大役を果たし終えた頼政であったが、災厄は再び訪れた。『平家物語』によると、応保の頃(1161~1163)の二条天皇の時代に、再び御所の上空に魔物が現われた。この時も、退治役として頼政が選ばれた。しかも、今度は以前の魔物に比べ狡猾だった。魔物は一度「ヒヒ」と鳴いたものの、それっきり全く鳴かないのだ。周囲は真っ暗闇で、何処に魔物がいるのかも全く分からない。
その時、頼政はひらめいた。先ず、頼政は大鏑の矢を弓につがえて、先ほど声が聞こえた方に向けて放つ。大鏑が音を立てながら上空へ飛んで行くと、その音に驚いた魔物が「ヒヒ」と鳴いた。頼政はその一瞬を逃さず、小さな鏑矢を声がした方へと放った。矢は見事に命中し、魔物を射落としたのである。 頼政の魔物退治が真実だったのかどうかは分からない。 しかし、京都市下京区の神明神社は、頼政が魔物退治に出向く際に願掛けの為に参拝した社とされており、毎年9月の祭礼時には、頼政が奉納したといわれる魔物退治の矢尻が公開される。また、二条城近くの児童公園には、矢尻を洗ったという鵺池があり、その脇には鵺を祀る鵺大明神という祠が伝わる。

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                      とんでもない能力を持った「超人」にまつわる伝説


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菜根譚 後集56項

2019-09-27 15:04:43 | Weblog


ゼラニウム(天竺葵、 Geranium) Pelargonium 育ちの良さ 尊敬


自老視少、可以消奔馳角逐之心。
自瘁視栄、可以絶紛華靡麗之念。

老より少を視れば、以て奔馳角逐の心を消すべし。
瘁より栄を視れば、以て紛華靡麗の念を絶つべし。


「立場をかえてものを見る」
老人になった時の気持ちで若い人たちを見ると、
駆け回り追い争っている功名心を消すことができる。
また、落ちぶれた時の気持ちになって華やかな生活を見ると、
その上辺だけの賑やかで派手な生活を求める心を絶つことができる。


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菜根譚 後集55項

2019-09-26 09:36:53 | Weblog

世人只縁認得我字太真。 故多種種嗜好、種種煩悩。 前人云、不複知有我、安知物為貴。
又云、知身不是我、煩悩更何侵。 真破的之言也。

世人は、只我の字を認め得ること太だ真なるに縁るのみ。 故に、種々の嗜好、種々の煩悩多し。
前人云う、「複我有るを知らず、安んぞ物を貴しと為すを知らんや」と。
又云う、「身は是れ我ならずと知らば、煩悩も更に何ぞ侵さんや」と。 真に破的の言なり。


「自我を捨て去る」
世間の人は、ただ自我と云うものが本当にあると云うことを大そう大事にしている。
だから、自我の対象となる色々な嗜好や煩悩が多くなって来る。
古人の詩にも「本来自我などと云うものがあると云うことは分らない。
それなのにどうして物が貴いなどと云うことを知ることができようか」と書いている。
また、「この肉身も本来我ではないと云うことが分れば、煩悩などもどうしてこの身を侵すことができようか」と言っている。 これは本当に真実を看破した言葉である。


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◆保元の乱に敗れて讃岐に流された 日本史上、最も恐れられて来た「崇徳院の怨霊」の物語

2019-09-26 04:28:46 | Weblog



平将門、菅原道真など、人々に祟りを成したという怨霊は数多い。
中でも日本の歴史を通じて最も畏怖されて来たのが、平安時代末期の「崇徳院」である。
崇徳院は鳥羽天皇の第一皇子で、5歳にして即位した天皇である。しかし、出生から、既に悲劇の宿命を背負わされていた人でもあった。
実は崇徳院は、鳥羽天皇の父(崇徳上皇の祖父)の白河上皇が鳥羽天皇の妃・待賢門院璋子と通じて儲けた子だと噂されていた。その為父帝も崇徳院に冷たく、白河上皇が亡くなるや、崇徳院を天皇の座から下ろし、異母弟の近衛天皇を立て、近衛天皇が早世すると、崇徳院とは腹違いの弟にあたる後白河天皇を立てたのである。これでは崇徳院が自身の血脈に皇位を伝える機会を奪われてしまう。遂に保元元(1156)年、崇徳院は、我が子を皇位に就けようと目論んで保元の乱を起こすも失敗。讃岐国に流された。 政治の表舞台を離れ、配流生活を送る崇徳院は、やがて極楽往生を願って写経に専念するようになる。そして、戦死者の供養にと仕上げた「五部大乗経」を京の寺に納めてほしいと差し出した。そこには、都に戻れないのなら、せめて自分の手跡くらいは残したいという切実な思いが込められていた。 ところが、後白河天皇は「呪詛が込められているのではないか」と崇徳院の願いを拒否。 切なる願いを拒絶された崇徳院は怒り狂い、自ら舌を噛み切ると、その血で大乗経に「日本国の大魔縁となりて人の世を呪う」「この経を魔道に回向す」と書き記したのである。
かくして、日本に仇を成す怨霊へと転じた崇徳院は、髪、爪を伸ばし続け、生きながら天狗のような姿になったという。 そして日本を呪い続けたまま、8年後の長寛2(1164)年に亡くなった。

*その怨念は没後800年を経ても続いているーーー  
崇徳院の火葬の際、紫色の煙が固まってジッと谷底を動かなかったという。
また、遺骸を納めた棺から血が流れて台石を真っ赤に染め、火葬の煙は都の方角に流れて行ったという。この怪異が合図であったかのように、京都では不幸と凶事が相次いだ。後白河天皇の子・二条天皇が23歳で病死。更に後白河天皇の愛妾、孫の六条院(享年3歳)、更に、保元の乱で後白河天皇方についた者などが次々と亡くなって行った。災いは後白河天皇の周りだけに止まらない。都の3分の1を焼失する大火が起こり、大極殿以下8省を焼失。更に飢饉が続き、世は源平争乱の時代へと向かって行く。 いつしか人々は、これらを全て崇徳院の祟りだと噂するようになった。
近世になっても、江戸幕府が崇徳院の700回忌を行ない、その慰霊をしていることから、その怨念の強さはおして知るべしであろう。 更に幕末に於いて孝明天皇は、讃岐から崇徳院の霊を京へと戻し、京都に白峯神宮を創建を命じ、その後間もなく没した。
続く明治天皇は創建に当たって、「皇車に射向い葬る陸奥出羽の賊徒を速やかに鎮め天下安穏に護りたまえ」と宣命し、戊辰戦争の終結を祈願している。
こうして約700年ぶりに都へと帰還した崇徳院はようやく怒りを鎮めたかに見えた。
だが、昭和39(1964)年、白峯神宮で催された没後800年祭に於いて、本殿が突如出火焼失したばかりか、神社が雷雨に襲われたという。
その怨念は、現代になった今も渦巻いているのであろうか。

     


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                      背筋も凍るーーー 今なお消えない「呪い」の伝説


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◆美濃の地にそびえ立った山城 斎藤道三亡き後の、岐阜城主の相次ぐ非業の死

2019-09-25 03:52:01 | Weblog


斎藤道三


岐阜城(旧・稲葉山城)

美濃の蝮と呼ばれた戦国武将・斎藤道三は、美濃国の守護土岐頼芸の家臣でありながら、頼芸から美濃を奪った人物である。
京都妙覚寺出身の還俗僧という身から、土岐氏の三奉行の1人にまで出世した父の跡を継いだ道三は、天文4(1535)年に土岐頼芸を担いで、美濃国守護土岐頼武を追放し、美濃国土岐家の実権を握った。更に天文21(1552)年には守護に祭り上げた頼芸を追放し、美濃国を手中にした。この道三が居城としたのが、もともと稲葉山城(現在の岐阜城)である。道三は金華山周辺の地形に目をつけ、当時荒廃していた古城を大々的に改修。堅固な山城へと変貌させた。 長良川の流れと、標高336㍍の金華山の天険に守られた岐阜城は、難攻不落で、攻め込んで来た尾張の織田軍を数次に渡り敗走させている。道三はこの城に10年間住んだ後、近くの鷺山城へ移った。この移転は、道三が長男の義龍に家督を譲った為である。

*息子に追い詰められ、道三が敗死して後.....  
ところが、道三と義龍の折り合いは悪く、弘治元(1555)年11月、岐阜城を去った道三に対して、義龍は義絶を突きつけ、挙兵。親と子の骨肉の争いとなった長良川の戦いで、道三は敗死へと追い込まれてしまう。 かくして蝮と恐れられた道三は無念の死を遂げるが、岐阜城に纏わる負の連鎖が始まるのは、この後のこと。
この後、慶長(1600)年の廃城までに義龍を含めて9人が岐阜城の城主を務めたが、そのうちの8人が次々に若くして命を落としているのだ。 先ず、道三を討った義龍は5年後の永禄4(1561)年、35歳の若さで病死。義龍の跡を継いだ城主は長男の龍興だが、永禄10(1567)年に岐阜城を信長に奪われた後、刀禰山に於ける織田軍との戦いで戦死した。享年25歳だった。次の城主は龍興から城を奪った織田信長であるが、彼が本能寺の変で無念の死を遂げたのは誰もが知るところだ。 天正4(1576)年より岐阜城を任されていた信長の嫡男・信忠も、本能寺の変に際して妙覚寺で自刃した。 5人目の城主は信長の三男・信孝だが、柴田勝家と組んで秀吉に対抗したが敗れ、秀吉に自刃を強要され、天正11(1583)年に26歳で命を落とした。 信孝の後、岐阜城の主は池田恒興の長男・元助となるが、元助は天正12(1584)年、父と共に小牧・長久手の戦いに参加するも、26歳で戦死。これを受けて元助の弟・輝政が城主となったが、彼のみが若くして世を去る悲劇を免れた。
その後に岐阜城に入ったのは、秀吉の甥・羽柴秀勝である。だが、彼も運命からは逃れられず、23歳で病死する。最後の城主は、織田秀信である。織田信忠の長男で信長の嫡孫にあたる人物だが、関ケ原の戦いで西軍に与し、東軍の攻撃を受けて降伏。剃髪の後高野山で病死した。26歳であった。岐阜城が廃されたのは、この直後のことである。
死と隣り合わせの戦国乱世とはいえ、こうした悲業の連鎖には、何か見えない力を感じざるを得ない。やはり手塩にかけた岐阜城を誰にも渡すまいとする道三の怨念が城主となった者たちの運命を狂わせた結果なのだろうか?


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◆未曽有の海難事故 不沈といわれた豪華客船を沈めたのは、ある者の怒りだった?

2019-09-21 04:49:12 | Weblog

1912年4月14日深夜、イギリスからアメリカのニューヨークに向けて初の航海に出た豪華客船タイタニック号が、大西洋で氷山に激突して浸水。翌日未明に沈没した。
2000名以上の乗客を抱えながら命綱の救命ボートが20隻しかないなど幾つもの不幸な出来事が重なり、1500名以上が亡くなるという前代未聞の悲劇となった。初の航海で沈み、而も多くの乗客が命を落とすという空前の大惨事。その為事故の後、原因に関して数々の逸話が生まれた。経営難の会社が仕組んだという説の他、空恐ろしい伝説も囁かれた。ミイラの呪いによって沈没させられたというものである。

*何故タイタニック号に「呪いのミイラ」が積まれていたのか  
実際、タイタニック号には「呪いのミイラ」と恐れられたミイラが積まれていたのである。
このミイラはアメン・ラーの神殿で発掘された紀元前2世紀頃のテーベにいた女性のミイラである。アメンホテプ4世が信仰した女預言者だったとも、王女であったともいう。しかしその女性は、若い時に奇病にかかって亡くなり、ミイラにされて埋葬されたという。 ところがこのミイラ、ただのミイラではなかった。 『汝が眠りに落ちし虚脱から目覚めよ。さらば、汝のひと睨みが、汝に抗うもの全てに勝利する』という呪いの言葉が刻まれた護符が添えられていたのだ。そのため発掘以来、まるでこの呪いが発動するかの如く、ミイラの周辺では奇奇怪怪な出来事が続いていた。
このミイラが永い眠りから覚めて歴史に登場するのは、1910年のことである。この年、イギリスの学者がエジプトの商人から王女のミイラを購入した。するとその商人は3日後、原因不明の熱病で急死。更に学者も3日後、狩りをしていた際に銃が暴発して片腕を失った。その友人2人も、イギリスに帰国する船中で熱病にかかり急死、王女の棺の荷造りをした使用人も変死したのである。 次にこのミイラを手に入れた女性も、家に棺を運び込むや、家中のガラスが突然粉々に砕け、彼女自身も原因不明の奇病にかかってしまう。 続いて棺を譲り受けたイギリス人も家族が交通事故に遭い、屋敷も火災で焼失してしまう。そこで恐れをなしたイギリス人が大英博物館に寄贈した。
ところが、ミイラの呪いは鎮まることを知らなかった。博物館に陳列された棺から夜な夜なすすり泣きが聞こえると噂された。更にミイラの写真を撮った人物がピストル自殺したり、ミイラが納められた棺に手を触れた夜警の子供が奇病にかかったりと、呪いの連鎖はどこまでも続いたのである。
さすがの大英博物館も困惑していたところ、ニューヨークの博物館が引き取ってくれることになり、ミイラはニューヨークに運ばれる為、タイタニック号に積み込まれていたのである。

*スミス船長の「我を失った行動」の原因も.....  
だがそのタイタニック号でも、何らかの力が働いたとしか考えられないような奇妙な出来事が起こっていた。 いつもは冷静沈着なスミス船長がまるで別人になったかのように唐突に進路を変え急スピード、急な減速などで暴走した挙句、警告も無視したが故に結果的に氷山と衝突してしまったのだ。いつもの船長ならば考えられない行動だった為、ミイラの呪いとしか考えられないと人々は噂した。

*「ミイラショー」に熱中していた当時の人々  
実は人々がミイラの呪いを殊更恐れたのは、呪いを受ける理由い身に覚えがあったからかも知れない。当時のヨーロッパでは、ミイラの解体ショーが人気を博していた。ミイラを棺から取り出して包帯を解き、巻き込んである財宝などを分配するショーで大変人気があったという。 見世物にする為ミイラを盗掘し、遺体を解体するという冒涜.....。ミイラを何千年の眠りから起こしてしまった罪悪感からか、このミイラの呪いの噂は今も信じられている。
タイタニック号と共に大西洋に沈んだミイラは、その後、引き揚げられ、大英博物館に戻ったと言われる。それが第一エジプト展示室に置かれている第22542号の棺と言われ、今も妖しい雰囲気を漂わせている。

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菜根譚 後集49項

2019-09-20 16:02:20 | Weblog




秋明菊(貴船菊、Japanese anemone) Anemone hupehensis 儚い恋 恋の苦しみ

人情、聴鴬啼則喜、聞蛙鳴則厭。
見花則思培之、遇草則欲去之。
倶是以形気用事。
若以性天視之、何者非自鳴其天機、非自暢其生意也。

人の情は、鴬の啼くを聴かば則ち喜び、 蛙の鳴くを聞かば則ち厭。
花を見ば則ち之を培わんことを思い、 草に遇わば則ち之を去らんことを欲す。
倶に是れ形気を以て事を用るのみ。
若し性天を以て之を視ば、何者か自ら其の天機を鳴らすに非ざらん、
自ら其の生意を暢ぶるに非ざらんや。


「天然の妙機に目を開く」
人の心は、ウグイスが美しい声で鳴くのを聞くと喜び、 カエルが騒がしく鳴くのを聞くと厭に思う。 また、美しい花を見るとそれを栽培しようと思い、 雑草のようなつまらないものが目に入ると、それを抜き取りたく思う。
このように思うのは、いずれも物事の表面的なもので良いか悪いかを判断しただけである。
もし、それらのものの内面的なものを見たなら、どれが自らそれ自身、その天性の妙なる声を鳴らさないものがあろうか。
また、どれがそれ自身、万物を生成させる働きをしないものがあろうか。


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◆日本三大山城・岩村城 甥である織田信長に殺された、女城主・おつやの方の怨念

2019-09-20 04:47:17 | Weblog


おつやの方


岩村城址


霧を生じさせて城を守ったという「霧ヶ井」

岐阜県恵那市に、日本三大山城の一つに数えられる岩村城がある。
標高717㍍に位置し、本丸周辺の壮大な石垣の遺構がまるで遺跡を思わせることから、東洋のマチュピチュとも呼ばれる。
岩村城は、標高が高い故に霧が生じやすく、しばしば霧によって城の姿が隠された。
この城にある霧ヶ井は、城内秘蔵の大蛇の骨を投げ入れると、霧を発生させて城を覆ったという。
敵が襲って来た時は、霧で城の姿を隠し、城を守ったのである。
こうした逸話から、岩村城は別名「霧ヶ城」とも呼ばれている。
その岩村城には、無念の死を遂げた城主の呪いで、織田信長が命を落としたという伝説がある。
呪いをかけたのは、信長の叔母にあたるおつやである。おつやは、岩村城の城主遠山景任の妻だったが、夫を元亀3(1572)年8月に失った後、城主として城を預かっていた。彼女はまだ若く、美しい女性だったという。 おつやは信長の五男・御坊丸を養子に迎え、対武田の最前線にあって岩村城を守っていたが、元亀3(1572)年10月、そこへ武田軍が攻め寄せる。攻め手は信玄の家臣・秋山信友(虎繁)率いる3000の軍勢であった。 岩村城のHPによると、迎撃態勢を整える岩村城に対し、信友が送って来た使者が驚くべき降伏条件を提示する。何と、「おつやが信友と結婚して城を明け渡し、御坊丸を2人の養子にして家督を譲れ」というのである。 おつやは大いに悩んだ。 援軍到来が見込めない状況下、城を守り抜くことは難しい上、城下町は武田軍に荒らされて放題だ。このままでは家臣も領民も守ることはできない。遂におつやは決心し、信友との結婚を承諾したのである。

*「織田家を一代で滅ぼしつくす」ーーー  呪いの言葉が現実に!  
信友とおつやの結婚により、岩村城は無血開城した。家来たちも血を流すことなく、平和裏に戦は終わったのだ。しかし、おつやには一つ誤算があった。信友が御坊丸を人質として甲府に送ってしまったのである。これを知った信長は激怒した。東美濃の重要拠点である岩村城をアッサリ武田方に奪われた上、息子まで人質にされてしまったのだから、無理もない。 その怒りが一気に噴き出したのが、天正3(1575)年5月の長篠の戦いだった。
これにより武田勝頼の軍が敗退すると、パワーバランスは一気に織田方へと傾き、その勢いに乗って、同年6月、信長が嫡子・信忠を大将とする大軍を岩村城へ向けたのである。岩村城は半年近くの籠城に耐えたが、10月、遂に陥落。信友とおつやは捕らえられ、逆さ磔にされて殺された。
最期に及んで、おつやは泣き叫び、「叔母である者に、この非道の仕打ちは何事か!」と信長をなじり、「我が怨念によって織田家を一代にして滅ぼしつくす」と呪いを吐いて果てたという。
信長が本能寺の変で命を落としたのは、それから7年後のことである。その後、織田家が辿った運命は、誰もが知るところである。

                   日本史ミステリー
                      背筋も凍るーーー今なお消えない「呪い」の伝説


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菜根譚 後集48項

2019-09-19 04:57:36 | Weblog


萩(Bush clover) Lespedeza spp. 思案 内気 柔軟な精神


身如不繋之舟。一任流行坎止。 心似既灰之木。何妨刀割香塗。

身は繋がざるの舟の如し。
一に流行坎止するに任す。
心は既に灰となれるの木に似たり。
何ぞ刀割香塗を妨げん。

「ままならぬ世に生きるには」
この身体は、あたかも繋がれていない捨て小舟のようなものである。
流れて行くも、難処の穴に止まるのも、全く任せきりである。
また、この心は、すでに焼かれて灰のように冷め切った生気のない木に似ている。
どうして刀で切られたり香を塗られたりすることに抵抗できようか(このように身体や心は自分の思い通りにならないものであるから、それに拘泥せずに自然に任せなさい)。


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◆イエスを売った裏切り者 キリスト教史を覆す!「裏切者ユダ」による福音書

2019-09-18 05:13:52 | Weblog


最後の晩餐  向かって左から5人目、銀貨の入った袋を持つのがユダとされる


新約聖書によると、イエス・キリストは12使徒の1人、イスカリオテのユダに裏切られ、死に追いやられたとある。 その証拠となっているのが、新約聖書に収録される「マタイによる福音書」や「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」などに書かれている記述だ。

*イエスを売り渡した裏切り者のユダ  
例えば、「マタイによる福音書」では、イスカリオテのユダが、イエスが過越の祭の2日前に「あなた方も知っている通り、2日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられる為に引き渡される」と自ら予言したとある。そして、その予言通り、2日後に、後に最後の晩餐として知られる食事をした後に、ゲッセマネの園にて祈りを捧げたところへ、ユダと共に現れたイエスに反感を抱くユダヤ人たちに捕らえられる。そしてユダヤ教指導者の裁判と、ローマのユダヤ総督の尋問の末に翌日、十字架に磔けられてしまうのである。
ユダの裏切りの逸話の部分には、イエスを激しく憎むユダヤ教の祭司長たちのところへユダが赴き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と尋ねたことや、使徒たちと共にいる中で、ユダが近づいて接吻をした人物がイエスだと官憲に知らせる手筈になっていたことなどが、事細かに記されている。 その後ユダはイエス捕縛後に罪を自覚し、イエスの助命を願い出るも拒否され、自責の念に苛まれて自殺して果てている。だが以後その存在はキリスト教徒にとって忌むべきものとなり、悪魔のごとく憎まれる存在となった。

*エジプトで見つかった「ユダの福音書」  
ユダの裏切りの理由についてはこれまで、「悪魔に取り憑かれた為」「イエスをユダヤ独立運動の旗手と捉えていたものの、一向に武装蜂起に踏み切らないイエスに業を煮やした為」などと言われて来た。 しかし近年、ユダは裏切り者どころか、イエスの最も誠実な友人であり、弟子だったという説が浮上して来た。イエスを官憲に引き渡したのも、裏切りではなく、イエスの指示に従っただけだというのである。 この新説が誕生した切欠は、1970年代にエジプト中部のミニヤ県に於いて、パピルス写本の「ユダの福音書」が発見されたことだった。発見者も発見地も正確には特定されていないが、2世紀に編まれたものに間違いないとされる。「ユダの福音書」が発見されたのはこれが初めてで、研究者のチームが4年あまりの歳月をかけて修復と翻訳を行なった結果、驚くべき内容が明らかになった。

*「ユダの福音書」ーーーその衝撃的な内容  
そこには、12使徒の中でもユダがイエスから特別扱いをされる選ばれた弟子だったことや、イエスがユダに自分を引き渡すよう求めたことなどがシッカリと記載されていたのだ。これが事実であれば、イエスの受難と十字架は、イエス自身が何らかの意図を持って描いたシナリオとなる。 何よりユダは裏切り者ではなく、ユダ自身も大きな代償を払うことになる重要な役割をイエスから託された人物だったということになる。 この新説は何を意味するのか? 「失われたキリスト教宗派」の著者バート・アーマンは、「もしユダがイエスを裏切っていなかったら、キリスト教徒の見方は今とは違ったものになっていただろう」と述べている。 キリスト教の歴史が始まってからずっと、キリスト教徒は、イエスはユダの裏切りによってユダヤ人に殺されたと信じており、あくまでユダは裏切りの象徴だったからだ。
このように、「ユダの福音書」の記述に則ると、キリスト教の歴史が大きく揺らいでしまう。その為、この書がこれまで人々の目に触れなかったのは、黎明期のキリスト教会によって糾弾され、歴史から消されたからだと推測されている。


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                          ロマンあふれる「伝説」のミステリー


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◆歴史上最も悪名高い独裁者ヒトラーが密かに開発していた「秘密兵器」とは?

2019-09-17 04:39:05 | Weblog


アドルフ・ヒトラー


ヒトラー率いるドイツのナチス軍は、秘密裏にUFOを製造しており、第2次大戦の終わりまでに、少なくとも完全に飛べるハウニブー型円盤を2機は保有していたという。そのUFOを使って、ニューヨークとロンドンを襲撃する計画があったのだそうだ。


ナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラーは、史上最悪の独裁者の1人として悪名高い人物である。しかし、その人物像と業績は有名だが、同時に謎の多い人物でもある。 ヒトラーあ、1945年4月30日、ベルリンの総統本部の地下室で、口径6.35㍉のワルサーPPK拳銃で頭を撃って自殺したとされている。その後、遺体は部下の手によってガソリンをかけて焼かれ、地中に埋められた。

*「ヒトラーの死」が疑問視され続けた理由  
しかし、これはあくまで部下の証言に過ぎず、証拠は何一つ残っていなかった。2000年にロシアがヒトラーの頭蓋骨を公開したが、ヒトラーの頭蓋骨の穴は3~4cmもあり、ヒトラーが使ったとされる拳銃の銃口とは全く一致しなかった。
更に、2009年には、米コネチカット大学がヒトラーの頭蓋骨をDNA鑑定した結果、実は女性のものだったという驚くべき事実が判明している。
つまり、ヒトラーは自殺していなかった可能性も浮上してくるのである。 実際、ヒトラーの死については、終戦直後から疑問視する声が多く上がっており、ヒトラーは他人を身代わりにして国外逃亡したのではないか、という噂が流れていた。スターリンすらヒトラーの自殺を信じず、戦後暫くヒトラーの行方を探るよう命じていたという。

*脅威の技術力で、米ソを震撼させていたナチス  
こうしたヒトラー逃亡説が生まれた背景には、ナチスが持っていた、当時世界最先端の技術力がある。 当時のドイツが既に1930年代から米ソに先駆けて世界初実用ジェット機や弾道ミサイル「V2ロケット」の開発に着手していたことは有名だ。
第2次世界大戦では、イギリスやフランス、ベルギー、オランダなどに対して発射されている。 ドイツの卓越した科学技術力を脅威と感じていた米ソは、終戦後、ナチスの優秀な科学者の争奪戦を行なった。アメリカはV2ロケットを開発したヴェルナー・フォン・ブラウン博士を亡命させると、ミサイルと宇宙ロケットの開発に着手させ、人類初の月面着陸を成功させたアポロ11号のサターンVロケットを開発した。
一方ソ連も、ドイツから多くの技術者を連行して、ロケット技術の輸入に努めた。そして1961年、ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行を、アメリカに先んじて成功させたのである。

*ヒトラーを逃亡させた乗り物は、何と.....  
こうした技術力の高さは、驚くべき伝説を生む。何と、ナチスはUFOの開発にも取り組んでいたというのだ。 その開発は、既にかなりの完成を見ており、1944年にロンドンのテムズ川上空に姿を現わし、ニューヨークタイムズで報じられた直径6mのUFOは、ナチスが作ったものだという説もある。 「絶対に明かされない世界の未解決ファイル99」(ダニエル・スミス著、日経ナショナル・ジオグラフィック社)によると、このUFOは垂直離着陸を可能とし、高速での低空飛行も可能だったという。
このUFO伝説が本当だとすれば、追い詰められたヒトラーを逃がすことは、差ほど難しくなかったかも知れない。





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菜根譚 後集45項

2019-09-16 04:28:26 | Weblog

 

春日気象繁華、
令人心神駘蕩。
不若秋日雲白風清、蘭芳桂馥、水天一色、上下空明、 使人神骨倶清也。

春日の気象は繁華にして、人の心神をして駘蕩ならしむるも、
秋日の、雲白く風清く、蘭芳しく桂馥い、 水天一色に、上下空明にして、
人の神骨をして倶に清らかならしむるに若かざるなり。


「春の景色と秋の景色」
春の日の気候は、万物を茂らせ華やかにし、人の心も長閑でゆったりとなるようにさせるが、
それは、秋の日の様子が、雲は白く風は清く、蘭は芳しく、木犀は匂い、水も空も同じ色となり、
上空の月が澄んだ水中に明るく映って、人の心も身体も両方とも清々しくさせるのには到底及ばない。


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◆三成に過ぎたるものと歌われた城 関ケ原で敗れた後ーーー石田一族の怨念が渦巻く城

2019-09-16 04:20:11 | Weblog


石田三成


佐和山城址


石田三成が居城としていた佐和山城は、琵琶湖の東岸で中山道と北国街道が合流する交通の要衝にあり、「三成に過ぎたるもの」と流行り歌になったほどの名城だった。
だが慶長5(1600)年9月15日の関ケ原の戦いで三成率いる西軍が敗れると、佐和山城は東軍の軍勢に包囲される。城を守っていた三成の父である正継と兄の正澄は、「開城して切腹すれば城内の者たちの命は助ける」という家康の勧告を受け、これに応じようとしていた。
ところが17日、この交渉を知らずに功を焦った徳川方の軍勢が、城内の警戒が緩んだのを好機と見て突入を開始してしまう。最初に水の手口門を破ったのは田中吉政の軍で、それに続いて大手口からなだれ込んだのは小早川秀秋の軍だった。特に小早川秀秋は、関ケ原の戦いの最中に東軍へ寝返って、西軍崩壊の切欠を作った人物である。彼の他にもこの城攻めには朽木元綱、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保と小早川の寝返りに呼応した武将たちが加わっている。彼らの寝返りが、東軍の勝因となったわけだが、徳川方の中では彼らはあくまで「寝返って来たよそ者」であった。
そうした立場を挽回するべく、必死の猛攻を仕掛けたのだ。 結果、佐和山城は間もなく陥落。石田一族は武士として格式ある切腹をできずに乱戦の中で敗死したとされる。 天守が炎上すると、城中の女たちも城の前にある鳥居本の断崖から谷に身を投げ、阿鼻叫喚の世界が繰り広げられた。死にきれない女のうめき声、泣き声が、三日三晩続いたという。

*佐和山城に入った武将たちの悲惨なその後  
以来、雨の降る夜は谷から女たちのすすり泣く声が聞こえるようになる。こうして、この谷は女郎谷と呼ばれるようになった。 落城の翌年、三成の佐和山城は井伊直政に与えられた。
しかし間もなく、直政は関ケ原の戦いで負った傷がもとで死亡。この死は城内に籠っていた兵士たちと女郎谷の女たちの怨霊の祟りと噂された。 祟りのせいとは限らないが、佐和山攻めに加わった将たちのその後も芳しくない。佐和山城に最初に踏み込んだ田中吉政は、筑後に封じられ、四男の忠政が跡を継いだが、嗣子がなかった為改易となった。小早川秀秋は、その功績を家康に認められて備前岡山の領主となった。だが、その2年後にこれも嗣子がないまま急死した。酒食に溺れたとも、西軍の将・大谷吉継の亡霊に取り憑かれて狂死したとも伝えられている。また、小川祐忠、赤座直保は戦後所領を没収されている。井伊家は新たに彦根城を築いて佐和山を去ったが、この時佐和山城の建物は取り払われ、彦根城をはじめとする建築物の部材となった。
この時代、破却した城の資材を他の場で用いることはよく行なわれており、佐和山城も徹底して破壊された上で、姿を消した。


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