Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆悪縁を絶ち切る霊木 縁切榎

2023-03-31 14:51:17 | Weblog
良縁ばかりに恵まれればいいが、なかなかそうはいかないもの。
悪縁を絶ち切りたいと願う人たちが集まるスポットが東京・板橋区にある。

★皇女たちも避けた縁切りの霊木
 板橋区の旧中山道沿いにある縁切榎は、
江戸時代から信仰を集める由緒ある縁切りスポットだ。

この榎は、旗本近藤家の下屋敷の北側にあったもので、
江戸後期の紀行文『遊歴雑記』によれば「樹の太さ五抱もあらん、
壱丈もあがりて大枝大股とわかれ、樹の高さ凡四・五丈、
根茎の四方へはびこる事、三・四間に及べり」という大木だったが、
現在は3代目の榎が、場所を少し変えて槻(つき)の木と共に並んでいる。

縁切り伝説の起こりについては、
榎が槻の木と並んでいる為、「エンツキ」=「縁尽き」と言われたという説や
所在地である「岩ノ坂」を「嫌な坂」とかけて縁切りにつなげたとする説などがある。

また、この榎は、江戸時代から中山道板橋宿の怪奇スポットとして知られていた。
この榎の下を嫁入りの行列が通ると必ず不縁になるという信仰が生まれ、
徳川家に降嫁した五十宮・楽宮の行列はここを避けて通り、
和宮が降嫁した際は榎を菰(こも)で包み、
その下を通って板橋本宿に入ったという伝承も残されている。

この縁切榎でお祈りをする時は、
境内のボックスの中にある朱印紙に願いを書き込み、
木の横にある祈願文を結ぶ場所に結ぶ。
また、榎の手前にある石にはめ込まれている初代の榎を削って、
持ち帰ることもできる。

ちなみに、縁切榎は他人との縁だけでなく、
お酒などの「もの」との縁にも御利益があり、
江戸時代は酒癖の悪い人に榎の樹皮を煎じて飲ませたという話も残されている。


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『魔界こぼれ話』 縁切榎だけではない 霊験あらたかな乳房榎
 板橋区の赤塚にある乳房榎は、
三遊亭圓朝の怪談噺「怪談乳房榎」のモデルとなった木だ。
絵師・菱川重信の妻・お関に惚れた磯貝浪江という浪人が、
お関を脅して関係を持ち、更に重信の財産を手に入れる為、重信を殺害。
乳の出なくなったお関の元へ重信の亡霊が現れ、
乳を出す不思議な榎があると教える。
その榎の乳で育った真与太郎が、浪江を討ち父の仇を取るという物語だ。
板橋区赤塚4丁目にある氷川神社の前には、今も「乳房大神」の碑が建っている。


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アウトドア、木の画像のようです
縁切榎
男女の悪縁切りをはじめ、断酒、難病治療など、
江戸時代から「縁を切りたい」という願いは後を絶たなかったようだ。

1人の画像のようです
『木曽街道板橋之駅』 渓斎英泉画 (国立国会図書館蔵)
江戸時代、縁切榎のあった板橋は宿場町として整備され、
「江戸四宿」のひとつに数えられるほど栄えていた。

アウトドア、木の画像のようです
縁切榎の幹
縁切榎の幹の部分は菰(こも)で覆われている。
その由来は、江戸時代に出された触書にあった
「不浄なものを莚(むしろ)で覆うこと」という内容が伝わったものとされている。

アウトドアの画像のようです
縁切榎神社
境内には、人々の「縁を切りたい」という願いが書かれた大量に絵馬が奉納されている。




                 江戸・東京 魔界地図帖
                     東京の魔界を訪ねる旅


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◆まぼろしのオスの三毛 「三毛猫の妖異」

2023-03-30 13:32:33 | Weblog

写真の説明はありません。
『たとえ尽の内』

写真の説明はありません。
『其のまま地口 猫飼好五十三疋』

写真の説明はありません。
『そめいろづくし』


紀州根来の西麓、坂本(和歌山県岩出市)の誠証寺の住持を、
私の兄(日解)が勤めていた。
その為、私はおりふし兄を訪ね、二、三日逗留するのが常であった。
この寺は当時、鼠が多く出て、仏具や器物を齧る為、兄は困って私に相談し、
鼠を殺すのは殺生の罪になるが、鼠を殺す為ではなく、
猫を飼うことで鼠が荒らすのを防ぐ為だから、
和歌山へ帰ったら牡猫を探して貰って来てほしい、との依頼があった。

私の下僕が心がけて探し、美しい牡猫を求めて来たので、これを持って坂本に行った。
住持は大喜びで、この牡猫を可愛がって飼うことにした。
そのせいか鼠の害は自然と鎮まったと言う。
その後、私はまた坂本へ出かけ、二、三日逗留し、夜になって酒など飲んで、
兄の住持と一緒の部屋で眠った。
すると夜中に住持がひどくうなされて呻き声を上げた。
私は驚いて住持を呼び起こしたので、住持は夢から覚めて正気になった。
その時、あの猫が住持の上から飛び降りるのを見たのである。
私は、その猫が上に登った為、夢でうなされたのかと思い、
そのまま眠ったのであったが、暁近く、今度は私がうなされ、
叫び声を上げたらしく、住持に呼び起こされた。
その時、私の胸の上から猫がまた飛び降りた。

次の夜もまた二人ともうなされた為、翌々日の晩、
二人で炉を囲んで酒を酌み交しながら、
「この猫が胸に登った為、二人ともうなされたのだろう。
夜、寝る前に別の部屋に紐でつないで、寝所に入らぬようにしましょう。
世間ではよく三毛猫の牡は珍しいが、妖異をなすとか申します」と言うと、
兄の住持も、「ふむ、なるほど。唐の書に金花猫と云う猫は妖をなす、とあるが、
この猫もその類かも知れん。よし、今夜は次の間に繋いでいこう」と言った。

猫は炉端にうずくまり、ジッと聞いている風であったが、
ふと立って走って出て行った。
住持も私も、その辺に居るだろうと思っていたが、
夜が更けても帰って来ない。
住持をはじめ、小僧や寺男らが名前を呼んで尋ね歩いたが、
何処へ行ったのか帰って来ることはなかった。
その後、遂に姿を見せなくなったと言う。
やはり妖猫であるが為、人語を解し、繋がれる前に故郷へ帰ったものか。
奇妙なことであった。




                       江戸時代 怪奇事件ファイル



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◆振袖が招いた未曾有の大火 本妙寺

2023-03-30 13:15:09 | Weblog
三大大火の筆頭「明暦の大火」をめぐり、少女が形見に残した振袖の怪異が伝わる。
焼かれようとした振袖は風に舞い、江戸を業火に包んだ。

★上野の花見に訪れたお菊が紫縮緬姿の美少年を見初める
 江戸の町を頻繁に襲った大火。中でも三大大火の筆頭に数えられるのが、
明暦3(1657)年1月18日からの「明暦の大火」だ。
本郷から麹町にかけて断続的に発生した火が南に広がり、
2日間に渡って江戸を焼き尽くした。
犠牲者数は『むさしあぶみ』『上杉年譜』など史料によって幅があるが、
4万人から10万人超。江戸城も天守閣はじめ大部分が焼け、
酉の丸を残すのみだった。

この未曾有の大火を引き起こしたのが、少女の怨念がこもった一枚の振袖__。
こんな話がいつしか広まり、「明暦の大火」は
「振袖火事」の別名で語られるようになる。
振袖の逸話にも諸説あるが、あらましは次の通りだ。

発端は大火の3年前、承応3(1654)年に遡る。
浅草の麺商・大増屋十右衛門の娘・お菊は、
母親や女中らと上野の山へ花見に出かけた。
そこで紫縮緬の着物を着た寺小姓らしき美少年を見初める。
思い恋患いにかかった娘の為に両親は寺小姓を探すが、行方は知れない。
そこで両親はせめてもの慰みにと、少年と同じ紫縮緬の振袖を作ってやった。
だがお菊は振袖との夫婦遊びに興じてますます衰弱し、
とうとう翌年の1月16日に17歳の短い生涯を終えた。

お菊の棺には振袖がかけられ、本郷丸山の本妙寺で弔われた。
振袖も亡骸と共に焼かれるはずだったが、そこは世の常。
住職はいつものように、振袖を古着屋に売り払ってしまう。

翌年の命日に本妙寺へ赴いたお菊の両親は、あの紫縮緬の振袖をかけた棺を目にした。
聞けば17歳の娘・お花が振袖を買い与えられた後、お菊と同じ日に死んだという。
更にその翌年の命日にも、17歳になる質屋の娘が同じように死んで本妙寺で弔われた。

娘たちの親の訴えで、住職もようやく振袖の因縁を知る。
そこで2日後の1月18日、大施餓鬼を修してこれを焼くことにした。
振袖の噂は瓦版で広まり、当日の本妙寺は見物に来た江戸っ子で黒山の人だかり。
人々が囃し立てる中、住職は振袖を火に投じた。
ところがその瞬間、一陣の突風が燃える振袖を宙に舞い上がらせた。
振袖の火は本堂に燃え移り、やがて業火となり江戸中を呑み込んだという。

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『魔界こぼれ話』 本当の火元は本妙寺ではない?
              諸説ある出火原因と死者の行方
 振袖の逸話は当時の火災の記録に見られず、
出火の主因は単に本妙寺の失火とされる。
ただしその南隣・阿部豊後守下屋敷台所が本当の火元、
あるいは由井正雪一派の政治的謀叛による放火、更に幕府の陰謀など、
他にも諸説喧しい。
一方、大火の夥しい死者は将軍家菩提寺の増上寺が弔い、
宗派に関係なく供養する為、無縁寺こと国豊山回向院が建てられた。
延宝3(1675)年建立の石像明暦大火横死者等供養碑は都指定文化財だ。


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アウトドアの画像のようです
本妙寺
明暦の大火があった当時は本郷丸山にあり、現在でも本郷5丁目付近に「本妙寺坂」という地名が残っている。明治43(1910)年に現在の豊島区へ移転した。

地図、、「本妙寺 江戸城 日本橋 増上寺」というテキストの画像のようです
『新祖江戸之圖』
明暦の大火直前となる、明暦2(1656)年頃の江戸を描いた図。
江戸の北西にあった本妙寺から出火した火事は、
江戸城天守閣・本丸・二の丸を焼失させ、更に南の増上寺まで被害を及ぼした。

イラストのようです
『むさしあぶみ 2巻』
浅井了意によって書かれた仮名草紙。
明暦の大火の際、牢獄からの罪人解放を集団脱走と誤解した役人によって
浅草門が閉ざされ、逃げ場を失った多くの住民が炎に巻かれる様子が描かれている。

記念碑、アウトドアの画像のようです
本妙寺にある明暦大火供養塔
現在まで、江戸・東京で最も死傷者が多かった火事として知られる明暦の大火。
当時、隅田川には千住大橋しか架けられておらず、
川向こうへ逃げられずに亡くなった人が多かったといわれる。




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信用第一 (*´ー`*)b

2023-03-29 13:20:16 | Weblog

花、自然の画像のようです
Camellia japonica 紅唐子

呂不韋は賈人の子だけあって、蓄財の考え方が違う。
先ず、信用という目に見えぬものを蓄え、それを財産にする。という認識がある。
信用は人と人とが共存し共栄するという考えがなければ成り立たない。
独裁者では分からぬことである。
そういう考えを推し進めて行けば、蓄財は、自分でするより、他人がしてくれる。

                  - 宮城谷昌光「奇貨居くべし 春風篇」 -


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菜根譚 前集99項

2023-03-29 13:12:37 | Weblog

 

澹泊之士、必為濃艶者所疑、検飾之人、多為放肆者所忌。
君子処此、固不可少変其操履、亦不可太露其鋒芒。

澹泊の士は、必ず濃艶なる者に疑われ、
検飾の人は、多くは放肆なる者に忌まる。
君子、此れ処するに、固より少しも其の操履を変ずべからず、
亦、太だしくは其の鋒芒を露わすべからず。


「節操は変えず、鋒芒は表わさず」
アッサリとして無欲な人は、
きっと派手で物に執着する人から疑われるものであり、
また正しく厳格な人は、
多くの場合勝手気ままな人から嫌われるものである。
だから君子と云うものは、これらに対処する時には、
当然、その主義主張を少しでも変えては為らないし、
また、その鋭い鉾先もあまり見せ過ぎては行けない。

✎____________________________


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◆手招きで領主を救った猫 豪徳寺

2023-03-28 12:17:36 | Weblog
豪徳寺は招き猫発祥の地として知られる。
世田谷の新しい領主となった井伊直孝は怪しげな猫に雷雨から守られ、
豪徳寺を井伊家の菩提所に定めた。

★井伊直孝を手招きで呼び止める「招福猫児」の縁起物が定着
 小田急小田原線の駅名にもなっている世田谷区の豪徳寺。
室町時代の文明12(1480)年、世田谷吉良氏5代の政忠が伯母の為に建立した弘徳院がその全身だ。その後、天正18(1590)年に焼失。

19世紀前半の地誌『新編武蔵風土記稿』によれば、
江戸時代に近江彦根藩2代藩主・井伊直孝が修復した。
やがて直孝が没するとその院号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み、
万治2(1659)年に豪徳寺と改名したという。

豪徳寺といえば、何をおいても招き猫の発祥地として有名。
奉納所に大量の招き猫が並んでいるのがお馴染みの光景だ。
猫との因縁を作って後の繁栄をもたらしたのも、やはり直孝。
それには次のような逸話がある。

ある年の夏、直孝は数人の郎党と共に鷹狩りに興じていた。
後の豪徳寺・弘徳院の門前を通りかかると、
一匹の猫が一行に向かって手招きをしている。
若侍が妖怪変化と見て斬り捨てようとしたが、
直孝は嗜めて招かれるまま門をくぐった。
すると間もなく俄かに空がかき曇り、辺りは激しい雷雨に見舞われたという。
直孝は猫の招きで危うく雷の直撃を逃れたとも伝えられる。
こうした縁で直孝は弘徳院を井伊家の菩提所として多くの田畑を寄進し、
寺は復興した。その立役者となった猫が死ぬと、住職は猫塚を作るとともに、
招福殿に猫観音を祀った。
更に「招福猫児」と名づけた猫の人形を縁起物として広めた。

後の近江彦根藩15代藩主であり、桜田門外の変で暗殺された大老・井伊直弼は
直孝の子孫。その墓も直孝と同じく、豪徳寺にある。

         ୨୧ ⑅ ୨୧ ⑅ ୨୧ ⑅ ୨୧ ⑅ ୨୧ ⑅ ୨୧ ⑅ ୨୧ ⑅ ୨୧ ⑅ ୨୧

猫の画像のようです
豪徳寺の招福猫児
招福殿の近くには、願いが成就したお礼として参拝者から数多くの招福猫児が
奉納されている。小判を持たず、右手を上げるのが豪徳寺の招き猫の特徴だ。

木、アウトドアの画像のようです
豪徳寺
井伊家の菩提寺としても知られる豪徳寺。
建立当初は臨済宗に属していたが、天正12(1584)年に曹洞宗に転じた。




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菜根譚 前集98項

2023-03-28 11:25:31 | Weblog

写真の説明はありません。

写真の説明はありません。
Camellia japonica Cinderella


此心常看得円満、天下自無欠陥之世界。
此心常放得寛平、天下自無険側之人情。

此の心、常に看得て円満ならば、天下自ずから欠陥の世界無からん。
此の心、常に放ち得て寛平ならば、天下自から険側の人情無からん。


「平常の心がけ」
自分の心を、いつも心がけて円満にするようにしておけば、
この人間の世界には自然に不備だと思う環境はなくなる。
また、自分の心を、いつも大らかにして広く公平にするようにしておけば、
この人間の世界には、自然にトゲトゲ拗けた心はなくなる。






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◆赤穂浪士が討ち取った吉良の首を洗った 泉岳寺

2023-03-25 15:19:31 | Weblog
討ち入り後、義士たちは吉良上野介の首級を洗い、浅野内匠頭の墓前に報告。
首洗いの井戸がある泉岳寺には、義士たちも眠っている。

★本懐を遂げた四十七士は亡き主君が眠る泉岳寺へ
 元禄14(1701)年、吉良上野介に斬りかかった浅野内匠頭は即刻切腹となり、
赤穂藩も取り潰しになった。
この1年10か月後、浅野家の家臣である大石内蔵助ら四十七士が吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ち取った。

「首洗い井戸」とは、討ち入り後、義士たちが吉良上野介の首級を洗った水を汲んだ井戸のことで、
首を落とした吉良邸と首を持ち帰った泉岳寺に存在している。
本懐を遂げた四十七士は、吉良上野介の首級を吉良邸の首洗い井戸で洗った。
そして、泉岳寺に行き、再び首洗いの井戸で洗い、浅野内匠頭の墓前に捧げたとされている。
その後、首級は泉岳寺の使僧が吉良邸に届けたという。

泉岳寺は浅野家の菩提寺で、現在の港区高輪にある曹洞宗の寺院。
慶長17(1612)年に徳川家康が門庵宗関を招いて外桜田に創建。
寛永18(1641)年の寛永の大火で焼失した為、現在の高輪の地に移転。
ところが復興が儘ならない様子を見て、
徳川家光が毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の5大名に命じ、再建させた。
この時から浅野家と泉岳寺の関わりが始まったとされる。

討ち入り後、義士たちは元禄16(1703)年に幕府の命で切腹。
遺骸は、主君・浅野内匠頭と同じく泉岳寺内の「赤穂義士墓地」に埋葬された。

他にも泉岳寺には、田村右京太夫邸の庭先で
切腹した浅野内匠頭の血がかかったと伝えられる「血染めの梅」「血染めの石」もある。
最年少の義士・大石主税ほか9人が
三田松平隠岐守の邸内にあったこの木の下で切腹したとされる「主税梅」などもあり、
事件を今に伝えている。
     

       ୨୧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・୨୧

写真の説明はありません。
「仮名手本忠臣蔵十一段目」
夜、義士たちが屋敷に討ち入りをする場面。
赤穂事件を題材にした演目として、人形浄瑠璃や歌舞伎で上演された。

アウトドア、木の画像のようです
首洗い井戸
吉良の首級を洗ったとされる井戸。
境内には「血染めの梅」「血染めの石」をはじめ、
赤穂義士記念館などもあり、義士の遺品なども見ることができる。




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◆人間に近づく猫たち 「猫の踊り・物いう猫」

2023-03-24 07:07:09 | Weblog

写真の説明はありません。
歌川国芳団扇絵「猫のけいこ」(1841年)


 いつぞや、予の祖母(稲垣侯夫人)が角筈(東京都新宿区)に住んでいた頃、
出入りの医師、高木伯仙と云う者が話したこと。
ーーー自分の生国は下総佐倉(千葉県佐倉市)だが、ある晩、父親の枕元で何やら音がした。
眼覚めてみると、そこに永い間飼っている猫が、首に手拭いを被って立ち上がり、
手をあげて招いているようで、まるで子どもが踊っている様であった。
父親は直ぐさま枕刀を取り、斬りつけようとしたが、猫は慌てて走って何処かへ行き、
それなり家に帰って来なくなった、と言う。

この話からも猫が踊りを踊ると云うことが出鱈目でないことが分かる。
また、同じく伯母に仕えて、後に鳥越の予(松浦静山)の屋敷に仕えている女の話だが、
伯母が飼っていた黒い老猫が、ある夜、その女の枕元で踊りを踊った。
女は布団を被って寝ていたが、後足で立って踊る足音がよく聞こえたそうである。
またその猫はいつも障子を開けていたと言うが、
猫がどうやって開けたのかは知らないと言っている。
 
寛政七年(1795)の春のことである。牛込山臥町(東京都新宿区山伏町)の某寺院で、
猫を可愛がって飼っていた。
庭に遊び下りて来た鳩を覗っている様を見た和尚が、声をかけて鳩を逃がしてやった。
すると、この猫が「残念じゃ」と物を言ったので、
和尚はビックリして、勝手の方へ逃げる猫を捕まえ、
小刀を手に「お前は畜生のくせに物を言うとは奇怪じゃ。化けて人をたぶらかすのか、
人語を発するのであれば、真っ直ぐに申せ。もし黙っているならば、
わしが殺生戒を破ってお前を殺すぞ」と叱りつけた。
すると猫が申すには「猫が物を言うのは、私に限りません。
十年も生きていれば、みんな物を言うのです。
それから先、十四、五年も経つと妖異ができるようになるが、
そんなに永く生きる猫がいないだけ........」と語った。
「なるほど、猫が物言うことは分かったが、
お前はまだ十歳も齢をとっていないではないか」と和尚が尋ねると、
「いえ、狐と交わって生まれた猫は、年は取らずとも物が言えます」と答える。
和尚は少し考えたが「.....ならば今日お前が物を言ったことを誰も聞いた者がいないから、
永年わしがお前を飼った以上、仕方が無い、
これまで通り、大人しくしておれ」と言って放すと、猫はお辞儀をして出て行った。
それ以後、その猫は何処へ行ったか、姿を見せない。---以上、寺の近所の人の話。


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◆珂碩上人を巡る奇譚の数々 浄真寺

2023-03-23 13:11:06 | Weblog

浄新寺には、開祖の珂碩(かせき)上人が起こした数々の怪異が伝わる。
亡霊を成仏させた礼に用意され、空を飛んだといわれる「亡者の飛茶釜」も名物だ。

★九品仏で親しまれる浄真寺 開祖・珂碩上人の怪異が伝わる
 東急大井町線で品川から神奈川へ向かうと、世田谷区を横切る途中で九品仏駅を通り過ぎる。
この一風変わった駅名の由来は、同駅を最寄りとする浄土宗の寺院・浄真寺。
9体の阿弥陀仏を安置し、九品仏の名で親しまれている。
この地にもともとあったのは、「鷺草伝説」が伝わる常磐姫の父・大平出羽守が居城とした奥沢城。
浄真寺の境内には常磐姫の逸話に因む「鷺草園」があり、毎度夏に鷺草が美しい花を咲かせる。

浄真寺っが創建されたのは延宝6(1678)年のこと。
開祖は江戸初期の僧・珂碩上人だ。
浄真寺にはこの珂碩上人を巡る怪異が幾つも伝えられている。
今も浄真寺に安置されている茶釜、「亡者の飛茶釜」もその一つだ。


宇治で茶を商っていた宮本仁左衛門の妻・お清が疱瘡を患い、醜い面相に変わり果てた。
宮本は妾を作ってお清を疎んじた挙句、宇治川から突き落として殺してしまう。
だがお清は怨霊となり、宮本と妾の子を疱瘡で苦しめた。
宮本は僧から伝え聞いた珂碩上人を頼って使者を江戸に送り、お清の怨念を解いてもらう。
宮本はその礼に茶釜を作らせるが、届ける前に消えてしまった。
宮本は不審に思いながら珂碩上人に訪ねると、囲炉裏に消えたはずの茶釜が。
聞くと茶釜は、一夜のうちに珂碩上人の元へ飛んで来たという。


また、浄真寺には「血の池の帷子(かたびら)」という逸話も伝わる。
難産で死んだ女が地獄で血の池に落ち、亡霊となって珂碩上人に苦しみを訴えた。
珂碩上人が得脱させてやると、女の亡霊は手水鉢に血染めの帷子を残して去ったそうだ。


アウトドアの画像のようです
九品仏浄真寺
境内の本堂には3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体、
合計9体の阿弥陀如来像が安置されている。


1人の画像のようです
お面かぶり
3年に一度、浄真寺の本堂と上品堂の間に渡された橋を菩薩面を被った僧が渡る仏教行事。
菩薩の耒迎を表している。




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菜根譚 前集93項

2023-03-23 13:04:25 | Weblog


ヤブツバキ系 朱月


声妓晩景従良、一世之胭花無碍。
貞婦白頭失守、半生之清苦倶非。
語云、看人只看後半截。真名言也。

声妓も晩景に従わば、一世の胭花も、碍げ無し。
貞婦も白頭に守りを失わば、半生の清苦は倶に非なり。
語に云う、「人を看るには、只後の半截を看よ」と。
真に名言なり。


「人の真価がわかる時」
若い頃は浮名を流した歌い女も、晩年に縁を得て良い夫に巡り会い、
一緒に生活をしたならば、浮名を流したそれまでの華やいだ生活も、一向に妨げにならない。
それに対し、貞節な婦人も、
白髪が目立ち始めるような年になって操を守ることができないような生活をすると、
それまで清い生活をして来た苦労も何の意味も無くなってしまう。
諺にも、「人の一生の評価をするには、ただ後の半生を見るだけでよい」と言っている。
本当に名言である。



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菜根譚 前集91項

2023-03-21 05:56:24 | Weblog

花、自然の画像のようです
デンドロビューム ギンギアナム シルコッキー


天薄我以福、吾厚吾徳以迓之。
天労我以形、吾逸吾心以補之。
天阨我以遇、吾亨吾道以通之。
天且奈我何哉。

天の我に薄くするに福を以ってせば、
吾は吾が徳を厚くして以って之を迓えん。
天の我を労するに形を以ってせば、
吾は吾が心を逸にして以って之を補わん。
天の我を阨するに遇を以ってせば、
吾は吾が道を亨らしめて以って之を通ぜしめん。
天も且つ我を奈何せんや。


「天命を超克する」
天が私に貧困と云う苦しい立場を与えてくれたら、
私はそれに対して、人に手厚く恩恵を施すことで対応しよう。
天が私に肉体を苦しめるような状況を与えてくれたら、
私はそれに対し、労苦を労苦と思わないような心を養って対応しよう。
天が私に苦難の境遇と云う状態を与えてくれたら、
私はわが道を曲げないでそれを天に通じさせよう。
だから、天でさえ私の生き方をどうすることができようか、
どうすることもできない。



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菜根譚 前集88項

2023-03-19 05:36:55 | Weblog

花、自然の画像のようです
リンカトレアンセ ミカワ クリスタル マジカル


静中念慮澄徹、見心之真体。
閑中気象従容、識心之真機。
淡中意趣冲夷、得心之真味。
観心証道、無如此三者。

静中の念慮澄徹ならば、心の真体を見る。
閑中の気象従容ならば、心の真機を識る。
淡中の意趣冲夷ならば、心の真味を得。
心を観じ、道を証するは、此の三者に如くは無し。


「心を観察する」
静かな場所で、考えが澄みきっていると、
心の本当のあり方を見ることができる。
暇な時に、気持ちがユッタリと落ち着いていると、
心の本当の働きを知ることができる。
アッサリとして、心がわだかまりなく穏やかであると、
心の本当の味わいが得られる。
心の鏡に写して自分の本心を見極め、
真実で偽りのない姿を悟るのは、
この三つの方法に及ぶものはない。



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◆祐天上人は怨霊の調伏でも活躍 祐天寺

2023-03-18 17:56:04 | Weblog

浄土宗の名刹として知られる祐天寺を開山した祐天上人は、
名声を嫌いながらも将軍家から尊信を受けた実力派。
怨霊に対しても力を発揮した。

★境内の「かさね塚」は累の霊を慰める供養塚
祐天寺は祐天上人の死後、弟子の祐海によって創建されたが、
開山は祐天上人とされる。

祐天上人は、若い頃、経典を覚えることができずに破門されるも、
身を寄せた成田山新勝寺で一念発起したという伝説が残されている。
晩年は奈良東大寺の大仏殿再建に関わったり、
増上寺の大僧正を務めたりと大きな功績を残した人物だ。
その一方、念仏の力で怨霊を成仏させたことでも知られている。

様々なエピソードが残っているが、最も有名なのは、累の物語だ。
下総(現在の茨城県)の羽生村に住む累は容姿も性格もあまり良くなかったが、
与右衛門は財産目当てで結婚した為、累に嫌気がさし、別の女を妻にしたいと考え始めた。
そして累は与右衛門に殺されてしまう。

その後、与右衛門は新しい妻を迎えたが、何故か迎えた妻は子を産むこともなく、
次々と死んで行く。遂に6番目の妻が女児を産み、菊と名付けたが、
やがて妻は死んでしまった。

すると、菊に累の怨霊が取り憑き、殺された怨みを語り、狂ったように暴れ回った。
この話を聞きつけた祐天上人は、怨霊と対峙し、累の霊を調伏させた。

鶴屋南北がこの話を歌舞伎演目『法懸松成田利剣(けさかけまつ なりたのりけん)』にし、
評判に。この作品の一部である『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』(通称『かさね』)は現在でもよく上演されている。
また、落語でも三遊亭圓朝の怪談噺『真景累ヶ淵』として人気を集め、有名になった。
祐天寺の境内にる「かさね塚」の碑は、歌舞伎関係者から寄贈されたもので、
茨城・法蔵寺の累一族の墓土を分け受けて祀ってある。
歌舞伎関係者は、累の演目を演じる前に必ず参拝するという。


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アウトドアの画像のようです
祐天寺
現在の本堂は、元々は常念仏堂として建立された堂宇を再建したもの。
本堂には祐天上人像が安置されている。

写真の説明はありません。
『祐天上人 累の解脱』 一陽斎豊国画
菊に取り憑いた怨霊・累を祐天上人が調伏している場面が描かれている。



                      江戸・東京 魔界地図帖
                          東京の魔界を訪ねる旅


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◆屋敷内の池の大がまが防災を約束 十番稲荷神社

2023-03-17 10:58:58 | Weblog

境内にある大蛙の石像は、元麻布にあった旗本の屋敷の「がま池」の大がまの伝説に由来。
その霊験はお札に込められ、今も授与されている。


★がま池は、今もその地に僅かに名残を留めている
 旧坂下町にあった末広神社と旧永坂町にあった竹長稲荷神社が戦災で焼失した為に合併、
十番稲荷神社と改称された。

この神社で有名なのは蛙。
「無事かえる」「遺失物がかえる」など「かえるお守り」として人気を集めているが、
もともとこの蛙は、防火、火傷に御利益があるとされていた。
これは、江戸時代、現在の元麻布にあった備中国成羽の五千石の旗本・山崎主税助治正の屋敷にあった「がま池」の大がま伝説に由来している。
この伝説には諸説あるが、東京都教育委員会の説明看板によると、屋敷内の夜回りをしていた家来が池の大がまに殺され、治正はがま退治を決意。するとその夜、大がまが白衣の老人となって現れ、罪を深く詫び、今後、屋敷の防災に尽くすと誓った。
やがて、文政の頃に火災が起き、治正の屋敷にまで火の手が迫ったが、
その時、大がまが現れ、池の水を噴きつけて類焼を防いだという。
治正の屋敷だけ火災を免れた為、人々はがまの御利益にあやかろうとお札を求め、
山崎家は「上」の字が書かれたお札を授けるようになった。
このお札は「上の字様」と呼ばれて火災や火傷のお守りとして人気を集めたという。

その後、お札は末広神社を通じて授与されるようになったが、戦火は一時中断。
昭和50年に「かえるお守り」として復活し、平成20年には「上」の字のお札も当時さながらに復刻された。

がま池はというと、かつて広さが約500坪あったが、現在では大部分が埋め立てに。その一部が僅かにマンション敷地内に残るだけになっている。
  


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写真の説明はありません。
蛙の石像
近年奉納された蛙の石像。
若侍に化けた蛙が、山崎家の姫を襲った非礼を詫びて屋敷の守護を誓ったという説もある。

寺院、アウトドアの画像のようです
十番稲荷神社
十番稲荷神社は、蛙の伝説の他に、七福神の「宝船」の社としても知られる。
神社正面鳥居の左側には、宝船の石像が祀ってある。


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