「イチイ」という名前の由来は、かつてイチイの木を用いて、冠位十二階で最も高い位階である正一位の人が使用する笏を作っていた為、正一位から「イチイ」になったという説と、イチイの木が他の木よりもはるかに緋色(赤色)であった為、「一番の緋色」から「一緋」となったという二つの説があるそうです。 また、「オンコ」という呼び方は、北海道など日本の東北地方以北での方言のようです。
千雲万水の間、中に一閑士あり、白日には青山に遊び、夜は巖下に帰って睡る、
倏爾として春秋を過ぎ、寂然として塵累無し、快きかな何の依る所ぞ、
静かなること秋江の如し。
- 寒山詩 (中国唐代の寒山の詩作品) -
何ものにも頼らず、秋の川の入江のように平静な気持ちになって生きられたなら、
確かに生き方としては最高であるに違いない。
しかし、普通の人間にとっては、言うは易く行なうは難し。
子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、
子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人也。
- 論語 衛霊公第十五の二十四 -
私は自分が他人からされたくないことは、自分も他人にせぬようにしたいと思いますと子貢がいうと、それは君にはできないと孔子は言ったという。
子貢は孔子の第一の弟子で、学問、知恵、才覚にかけては、先生よりも勝っているくらいだったが、それらは人間社会を対象に働かすものだから、当然自分と他人という対照的な立場に自身を置き、自己過信もしようし、自惚れもしようと孔子は考えたのである。
せっかくの気の利いた思いつきを、ぺちゃんこにされた子貢は、頭に来るのをグッと抑えて、それでは先生、今の私にできることを教えて下さいと言うと、それは思いやり(恕)だろう。自分の望まぬことは他人にするなと改めて孔子に言われ、心から己れを虚しくする心境に達したという。
相対性理論で知られる物理学者アルバート・アインシュタイン(1879~1955年)が1922年11月に講演のため来日し、東京の帝国ホテルに滞在した際、日本人の配達人にチップ代わりに渡した直筆メモ2枚が24日、エルサレムで競売にかけられ、計180万㌦(約2億円)で落札された。エルサレムの競売商ウィナーズによると、156万㌦(約1億7700万円)で落札された1枚、帝国ホテルの便箋(縦21㌢、横13㌢)にドイツ語で、「静かで質素な生活は、不安に襲われながら成功を追及するよりも多くの喜びをもたらす」と書かれている。24万㌦(約2700万円)で落札されたもう1枚は、「意志あるところに道は開ける」と記されている。
AFP通信によると、メモは、ドイツのハンブルクに住む配達人の親戚が出品。アインシュタインは来日直前、ノーベル物理学賞の授賞を知らされたばかりで、配達人にメモを渡す際、「もしあなたが幸運なら、このメモ書きはチップよりずっと価値が高くなる」と話したという。
2017年10月25日読売新聞夕刊
ノーベル賞賞金 総額2500万円「離婚を決めた妻への条件はノーベル賞の受賞と賞金」
ノーベル賞の受賞者は、賞金としておよそ1億円を受け取るが、大ていはおカネを研究費やその分野の発展の為に活用することが多い。しかし、栄えあるノーベル賞の賞金をそっくり離婚の為の慰謝料に回した人物がいる。天才理論物理学者のアルバート・アインシュタインである。彼は、最初の妻ミレーバと1903年に結婚し、子どもを儲けるが、やがて浮気が発覚するなどして別居してしまう。1916年、一般相対性理論を発表すると注目を集め、1921年にはノーベル物理学賞を受賞(ただし、受賞理由は相対性理論でなく「光電効果の発見」)。現在の日本円にして約2500万円の賞金を手にするが、それをミレーバに丸ごと渡してしまう。というのも、すでに1919年に離婚をしていたが、その離婚の条件が、「ノーベル賞をとったら、その賞金を譲る」と云うものだったのだ。業績から見てアインシュタインの受賞は確実と見られていたので、彼もそれを見越して離婚の条件を出したと云うわけだ。
賞金を受け取ったミレーバは、スイスのチューリッヒに瀟洒な家を買い、静かに暮らしたという。
子曰、君子不重則不威、
學則不固、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改。
- 論語 学而第一の八 -
また、曰く「過って改めざる、是を過ちという」と。
それでは過ちを改めるには、どんなふうにしたらよいか。
いつまでもこだわって、後悔したりしていたのでは、遂には委縮してしまうし、
過ちを過ちでないように見せかけたり、膏薬を貼ったりしたのでは、よりその過ちを大きくする恐れがある。間違っていたと気づいたら、ただちにその事を捨てて、新しい一歩を踏み出すのが一番。
自己に厳格でなければ為らないと共に、次の瞬間には脱出して良いとするのが東洋的考えの一つになろう。
子曰、不患人之不己知、患己不知人也。
- 論語 学而第一の十六 -
人間は理解し合うのが大切であっても、それがなかなか難しく、
自分自身を知ることさえ、骨の折れるものとするならば、
他人が知ってくれないことに不平を言うよりも、
自分が他人を知ることの少ない方を気にすべきである。
昔、この土地に住む狩人が大熊を見つけて追って行くと、
熊は湖に飛び込んで泳いで行ってしまった。
仕方なくボンヤリと見ていると、湖の中ほどまで泳いで行った熊が、
急に暴れたかと思うとブクブクと沈んで行った。
不思議に思い舟を出して見に行くと、大きなイトウが大熊の片手を口から出して死んでおった。
イトウの大きさは六十メートルもあったという。
このイトウは然別湖の主であると古老が伝えている。
飛鳥が尽きれば、良弓は蔵われる。
狡兎が死ねば、走犬は烹られる。
越王という人は、
患難を共にすることはできても、
楽しみを共にすることはできない。
あなたはどうして越を去らないのか。
- 宮城谷昌光「湖底の城 九巻 湖上の影」 -
飛ぶ鳥がいなくなると、良い弓も蔵に納められ、
逃げ足の速いウサギが死ぬと、よく走る猟犬は煮て喰われてしまいます。
敵国が滅びれば、いかに戦功のあった家臣でも邪魔になって殺されるという例えを出し、
越王は、共に戦う事はできても、安楽を共にする事はできない人であるから、
あなたも早く越を去るべきですよと范蠡は友人の大夫種にアドバイスを送りました。
大夫種は越王・句践に讒言をする者ありて、自殺をさせられます。
句践にしてみれば、己の治道を翳らせる障害物を撤去したことになります。
文治の頃(十二世紀末)の話じゃ。
兄の頼朝に追われた義経主従は、蝦夷に逃れ様としておった。
津軽の洞窟に馬を隠し、海峡を渡ろうとするのじゃが、肝心の舟がない。
途方に暮れている時、空の彼方から馬たちのいななきが聞こえて来たそうじゃ。「おお、我らが難渋を知って助けてくれるか」
ひらりと愛馬に跨り一行は静かな海の上空を飛んで行ったそうな。
ところが、一天俄かにかき曇り、海は激しく波立ち、濛々たる霧が辺りを包んだのじゃ。馬たちはすっかり怯えて立ち往生。これは悪霊の仕業に違いないと義経が、「おのれ悪霊、妖怪、義経と知ってのことか!正体を現せ!」
すると霧の中から二つの目が現われた。
馬上の義経は弓を引き絞るが、目は現われては消え、ひとところに止まらんかった。怯える馬を宥めつつ義経は心を静め、矢を番えて、ひょ~うと射た。
「ぎゃー!」凄まじい悲鳴と共に雲も霧も晴れ上がり、また元の静かな海に戻ったそうじゃ。
やがて義経らは無事蝦夷に到着したのじゃが、この時妖怪を射抜いた矢は、遥か先の矢越岬まで届いたと云うことじゃった。
***********************************************************************
☆義経が北海道の各地に足跡を残している
*北海道日高地方の平取町の小高い丘に、義経神社がある。
源九郎判官義経がこの神社の御神体だ。その設立は江戸時代にさかのぼる。1798年(寛政10年)、江戸幕府の探検家だった近藤重蔵が東蝦夷地調査の折に平取を訪れた時、この地に住むアイヌ達が「ハンガンカムイ」と呼んでいる英雄の存在を知った。「ハンガン=判官」「カムイ=神」から近藤は、アイヌが尊敬しているのは源義経であると考えた。
*義経がこの地を訪れ、アイヌ民族に農耕や舟の作り方、海上の操法、機織りの技術を指導したと、義経神社では、伝えられている。神社の隣には「義経資料館」もある。
*史書の中には、室町時代初期に青森近辺の豪族、松前広次は「九郎判官義経が渡りました蝦夷が島」と当時未開の北海道を紹介しているし、江戸時代初期の儒学者で徳川家康以下4代の将軍に使えた林羅山は、書籍の中で「義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種存す」としている。
*義経の足跡、滞在したとされる場所は、北海道では道南、日本海側を中心に実に120箇所以上になる。義経が初めて蝦夷地に上陸したとされるのは江差町。
*松前町光善寺には、「義経山」と刻まれた碑があり、この石碑の文字は、義経が矢尻で掘ったと言われている。
*1988年5月、日本海を望む岩内町スキー場ロッジの前斜面にある大きな石から、源氏の家紋の隠し掘り「笹りんどう」が発見された。
*札幌から支笏湖に向かう途中にあるラルマナイ川には滝があり、その近くで、1939年頃大量の砂金が発見された。
義経の財宝を求め、古文書を解読、探索していた人が発見した。
*稚内・宗谷岬に辿り着いた義経主従の姿はみすぼらしく、樺太への舟を懇願しても現地のアイヌは彼を義経だと信じなかった。怒った義経が傍らの岩を一刀のもとに切り、源氏の大将だった自分を証明した。それが今に残る「義経試し切りの岩」。アイヌの人々はこの岩を祀って、義経の無事を祈ったそうだ。一行はこの地を最後に北海道を離れる。
「灯台躑躅」は、枝分かれしている様子が昔夜間の明かりに用いた細い丸木三本を緒で結び合わせ、上下を広げて上に油皿を置き点火する結び灯台の脚部と似通っており、「満天星」は中国名に由来します。春に鈴蘭のような白い小さな花を咲かせますが、秋が深まって真っ赤に紅葉するのも美しいものです。
*人口の削減を狙っている?
1973年秋、人々は殺気立った顔でスーパーマーケットに行列を作っていた。
一様に目指すのはトイレットペーパーである。そうして、山のように積み上げられたトイレットペーパーは開店するやいなや一瞬で完売してしまったーーー。
日本中をパニックに陥れた、世に言うオイルショックである。
この年、第四次中東戦争の余波からアラブの産油国は原油価格を7割も引き上げることを決め、世界的に石油の価格は大暴騰した。それが発端となって「紙が無くなる」と云う噂が飛び交い、原油価格とは直接関係のないトイレットペーパーの買い占めと云う事態を招いてしまったのだ。
ところが、偶然か否か、こうした石油不足を、更に数十年後に石油が枯れ果ててしまうと予言した集団がいる。
科学者、経済学者などがメンバーにその名を連ねたローマクラブと呼ばれる研究機関である。
このローマクラブが、発表されている通りに環境問題を研究する識者の集団であれば何の問題もない。ところが彼らは、人類が生き残る術として秘かに人口削減計画の陰謀を企てているというのだ。
*人類の成長の限界を予想した報告書
イタリアのコンピューター関連会社で副社長をしていたアウレリオ・ペッチェイが、その財力を以って設立したのがローマクラブである。1968年にローマで活動を開始した彼らは、4年後に「成長の限界」と題した報告書を発表する。
そこに書かれた内容は実にセンセーショナルなもので、このまま人口増加や環境破壊が続いた場合に人類と地球が直面する可能性を様々なシミュレーションによって検証した。そして結論として、100年以内に人類の成長は限界に達すると警鐘を鳴らしたのである。
冒頭のオイルショックが発生したのはこの報告書があった翌年のことだった為、彼らの提言が一躍注目された。
しかも、創立者のペッチェイには、イギリスの哲学者であるバートランド・ラッセルの意思を受け継いでいると云う話がある。
このラッセルは、ペストのような細菌は人口増加に歯止めをかけられると説き、20世紀最悪の人物とまで言われた過激な人物なのだ。ペストといえば、14世紀にヨーロッパを中心に猛威を振るい、当時のヨーロッパの人口はおよそ3分の1まで激減させたと言われるウイルス性の感染症だ。ペッチェイや、彼の肝いりで創設されたローマクラブは、感染症のパンデミック(世界的な大流行)による人口の間引きも辞さないというのだろうか。
*組織の影響力は拡大している
現在、パンデミックの可能性が懸念されている感染症の一つがエボラ出血熱である。エボラ出血熱は1970年代後半からアフリカ大陸で何度となく大流行し、高熱に続く出血で多くの犠牲者を出している恐ろしい感染症だ。ただし、アフリカ以外の地域での発生はほとんどゼロに等しい。
もしもこの流行の背後に何らかの計画が存在していたら.....。
或いは飢餓、対立する民族間の泥沼の内戦などが、アフリカの人口にダメージを与える為の作為的なものだったとしたら.....。
考えるだけで背筋の寒くなる話である。
ローマクラブはこれまでに人類の将来に関する30以上のレポートを発表し、現在ではユネスコや世界各地のNGOと協力するまでに至っている。組織の力がここまで大きくなった今は、そうした活動の全てが表向きのものでないことを祈るばかりである。
*画像
ドイツで行われた平和賞授賞式の一場面
中央がローマクラブ創設者のペッチェイ。(1973年)
ローマクラブ所属者(上段左から)
元ソビエト大統領ゴルバチョフ
オランダ王女ベアトリクス
元インド首相マンモハン・シン
元ドイツ大統領ヴァイツゼッカー
(下段左)
ケニアの環境保護活動家ワンガリ・マータイ
ヨルダンの王族ハッサン・ビン・タラール
スペイン王ファン・カルロス1世
ブラジル元大統領カルドーゾ
本当に恐ろしい地下組織
独自の信念を持つ組織