華厳宗・大本山 東大寺
真言密教・京都 醍醐寺 国宝 薬師如来および両脇侍像
鎌倉時代は武家政権の成立に伴い、宗教も従来の貴族を中心に信仰された天台宗・真言宗や南都(奈良)諸宗の顕密仏教(旧仏教)に代わって、法然の浄土宗や栄西の臨済宗など「鎌倉新仏教」と呼ばれる新しい仏教が中心になった、というのがこれまでの通説だ。
ところが、近年、この通説には疑問符がつけられ、多くの学者・研究者から、鎌倉時代に入っても仏教界の中心は鎌倉新仏教ではなく南都諸宗や密教の旧仏教だった、と指摘されるようになった。
たとえば、旧仏教の華厳宗は鎌倉時代には明恵が戒律を尊重し、真言と華厳の融合による厳密(華厳密教)によって華厳宗を復興している。
また、律宗も真言密教を学んだ叡尊(思円)が戒律を重んじ真言律宗の祖となった。弟子の忍性も貧民や病人の救済・治療などの社会事業を行い、多くの人から崇められ、幕府に密着しながら布教を続けた。
このように旧仏教の多くは、優れた僧侶によって改革が行われ、復興を果たしていたのである。
一方、鎌倉新仏教は、千葉大学名誉教授の田中久夫氏によれば、「浄土宗・臨済宗などという教団単位の見方ができるようになるのは、それらの教団がある程度発展してから後のことである。従って早く見ても、南北朝時代以降の現象である」(田中久夫著『鎌倉仏教』講談社学術文庫)といわれる。
日本史最後の謎 コラム まだまだあるナゾ
『後醍醐天皇によって樹立された建武政権は数年後に崩壊したが、その原因の一つとして所領問題があげられて来た。しかし、近年、新たな見方も唱えられている。』
元弘3(1333)年、得宗の北条高時が自刃し鎌倉幕府が滅ぶと、隠岐島に流されていた後醍醐天皇が京都に戻り、新政権が誕生した。日本史に名高い「建武の新政」である。天皇親政を目指した建武政権は次々と諸政策を発表し、天皇に全ての権限が集中する独裁体制を目指した。
ところが、建武2(1335)年、高時の子・北条時行が挙兵し鎌倉を占拠する(中先代の乱)と、足利尊氏がその鎮定の為に京都から東下した。尊氏は弟・直義と合流して反乱軍を破り鎌倉を奪回したが、帰京しようとしなかった。その後、尊氏は後醍醐の上洛命令も拒否し、建武政権に叛旗を翻した。尊氏のこの行動について南朝の重臣・北畠親房は自著の「神皇正統記」の中で「高氏(尊氏)のぞむ所達せずして、謀叛をおこすよし聞えし」と記し、謀反であると述べている。また、有名な軍記物「太平記」も尊氏を後醍醐に反旗を翻して北朝を盛り立てた人物として描いている。これらの歴史書や軍記物によって尊氏は後世、「逆臣」「国賊」として歴史に名を刻むことになった。 しかし、朝敵となった足利軍は強かった。新田義貞を総大将とする政府の追討軍を竹ノ下の戦いで破り、更に、翌3(1336)年、楠木正成を大将とする政府軍を湊川の戦いで破った。こうして、建武政権は僅か数年で崩壊し、吉野に逃れた後醍醐は南朝を樹立する。後醍醐の南朝と尊氏が擁立した光明天皇の北朝という2つの朝廷が並立する南北朝時代が始まる。
*新政権は当知行安堵を基本方針にしていた
建武政権が崩壊した原因については、尊氏が反旗を翻し後醍醐と決別したことが大きな原因であることは間違いない。 しかし、その尊氏に地方の武士らが従ったことも、建武政権崩壊の原因として看過することはできないだろう。地方の武士らは何故後醍醐ではなく朝敵となった尊氏に従ったのか。その大きな理由として、これまで指摘されて来たのが所領問題だ。 元弘3年6月、帰京した後醍醐は「今次の戦乱(元弘の役)で奪われた所領を旧主に返還し、以後の土地の所有権の変更は後醍醐の自身の裁断によって初めて確認される」という宣旨(天皇の命を伝える文書)を発布した。また、訴訟・申請の裁断は綸旨(天皇の意思を伝達する文書)によるべきことを強調した(綸旨絶対主義)。後醍醐が発布した宣旨は「個別安堵法」(所領個別安堵法、旧領回復令)と呼ばれるが、歴史学者の佐藤進一氏によれば、「実際には遥か昔に失った旧領にまで適用されて、大変な混乱を引き起こした」(佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論社)という。 その訳は、「全国的な旧領回復ブームが巻き起こった。こうなると、それまで平穏かつ公然と所領支配を続けて来た人々は、いつ旧領主に所領を奪われるかも知れない。綸旨が絶対である以上、危険を未然に防ぐ道はただ一つ、彼が一歩先に当知行安堵(事実的支配者の確認)の綸旨を獲得することである」(佐藤氏 前掲書)というわけで、安堵の訴人が京都に殺到したのだ。当知行安堵を求めた訴人の多くは、後醍醐の倒幕命令に応じて幕府軍と戦った地方武士らである。彼らが当知行安堵を求めた根拠は、鎌倉幕府3代執権・北条泰時が制定した「御成敗式目」(貞永式目)にある。その第8条は、土地は20年間継続して支配すれば、その土地は実際の支配者の所有に帰すると定め、本領安堵を保障していたからだ。つまり、第8条は御家人の社会では「不動の法」だったのである。しかし、佐藤氏によれば「新政府の法廷がこれを認めた形跡はない」(前掲書)という。「一所懸命」を信条とする武士にとって本領安堵は死活問題であり、それを破棄しようとする新政権には期待できず、後醍醐を見限ったというわけだ。 ところが、近年、個別安堵法については別の見方も唱えられている、福岡大学人文学部教授の森茂暁氏は、元弘3年の宣旨を護良親王が発給した所領関係の令旨(皇太子及び三后の命令・意思などを伝達する文書)の破棄と解し、「『個別安堵法』なるものはおそらく存在しなかった」(森茂暁著『建武政権』講談社学術文庫)と見る。森氏によれば、新政府の樹立後、所領の安堵を求めた全国の地頭・名主クラスの者たちが続々と法廷へ詰めかけたが、「彼らの要請に対して政府は当知行安堵を基本方針として、これを貫いている」とし「建武政権は当初から当知行地安堵の大原則を掲げていた」(前掲書)と述べている。 新政権が当知安堵を基本方針としていたならば、所領問題は政権崩壊の原因とは必ずしも言えなくなる。やはり、建武政権崩壊の原因は尊氏の離反にあったのだろうか。
日本史最後の謎
武士が覇権を握った鎌倉・室町時代の謎 3-5
日本軍は当初、初めてぶつかるモンゴル軍に苦戦したのは確かなようだが、モンゴル軍上陸後の赤坂及び鳥飼潟の戦いといった会戦が始まると、日本軍は地の利も生かして奮戦し、モンゴル軍に損害を与え、敗走させている。
『モンゴル帝国(元)の大軍が2度に渡って日本に襲来した元寇は、いずれも神風によって撃退されたと言われて来たが、近年、この定説は大きく揺らいでいる。』
平成23(2011)年、長崎県の鷹島沖の海底で元寇船の残骸が発見された。鎌倉中期にモンゴル帝国(元)が日本へ来攻した元寇の研究はこれまで文献史料が中心だったが、元寇船の残骸の発見によって新たな研究成果が期待されている。その一方で、文部科学省は中学校の学習指導要領の改訂によって元寇という表記を「モンゴルの襲来(元寇)」とすることを告示したが、翌月、「元寇(モンゴル帝国の襲来)」に修正して「元寇」を元に戻した。
その理由として「歴史学のより一般的な用語に合わせた」「モンゴル帝国の拡大によるユーラシア全体の結びつきを学ぶ狙いがある」などが伝えられている。高校の教科書では「蒙古襲来」という表記も見られ、元寇には様々な呼び方があるが、モンゴルでは「蒙古」と呼ばれることを好まないといわれている。
ところで、鷹島沖で沈没した元寇船の残骸が発見されたように、モンゴル(元)軍は文永11(1274)年と弘安4(1281)年の2度に渡って襲来し、日本軍と戦った。前者は「文永の役」、後者は「弘安の役」と呼ばれている。 2度の戦いとも「神風」と呼ばれる大風(暴風)が吹き、モンゴルの多くの軍船が大破してモンゴル軍が撤退した、というのがこれまでの定説だった。
しかし、近年、この定説は大きく揺らいでいる。現在では、文永の役の時に大風は吹かなかったとする見方が有力だ。また、弘安の役の時は大風は吹いたものの、モンゴル軍が撤退したのは大風のせいではなかったとも言われている。 果して、2度に渡るモンゴル軍の襲来と撤退の原因は何であったのだろうか。
順に見て行くことにしよう。 文永の役は、モンゴルのフビライ(世祖)が日本を属国とする為に約4万の軍船を襲来させたことに始まる、というのがこれまでの定説だ。モンゴル軍は文永11年10月19日夜から20日にかけて博多湾に上陸し、御家人を中心とした日本軍と激戦を繰り広げた。モンゴル軍は戦略や兵器では日本軍を上回り、圧倒的に優位にあったが、翌日、モンゴル軍は志賀島に1艘の船を残して撤退した。モンゴル軍は戦況を有利に進めていたのに、何故撤退したのか。その謎の答えとして今日まで伝えられて来たのが、前述した神風、則ち大風、暴風がモンゴルの軍船を壊滅させたというわけである。しかし、くまもと文学・歴史館館長の服部英雄氏は、「大風によって蒙古の大軍が一晩で姿を消した。そんな話はどこにも書かれていなかった」(服部英雄著『蒙古襲来』山川出版社)とされ、その史実を示す史料の存在を否定している。
では、何故こうした話が広まったのだろうか。服部氏によれば、鎌倉時代の史料「八幡愚童訓」に記された、夜中に筥(箱)崎の神が現われて蒙古兵を散々に痛めつけたという話が元になったという、そして、「八幡愚童訓」が史実とされたことによって、「逆に歴史像が曲げられた」(前掲書)とされる。服部氏はまた、公卿・広橋兼仲の日記「勘仲記」などの史料から、モンゴル軍は1日で帰国していないとも指摘しており、「一日で帰るような外国侵略戦争はそもそも有り得ない」(前掲書)と述べている。大風については気象学の見地からも、モンゴル軍が襲来したといわれる10月20日(陰暦)頃は現代の11月26日頃にあたり、この時期は日本ではもう台風の季節ではなく暴風雨が吹くことはないという指摘もある。玄界灘ではこの時期に強い季節風が吹くのは珍しくないという反論もあるが、獨協大学経済学部教授の新井孝重氏は「急激に発達した低気圧によって、予期せぬ荒天と突風に見舞われた可能性はある」(新井孝重著『戦争の日本史7 蒙古襲来』吉川弘文館)としながらも、「モンゴル軍が撤退する直接の原因になったとは考え難い」(同書)と述べている。
ちなみに、モンゴルの正史である「元史」にも暴風によって撤退したとは記されていない。では大風がなかったとしたら、モンゴル軍は何故撤退したのだろうか。 新井氏はモンゴル軍の第1遠征(文永合戦)の目的について、「日本の支配層を交渉のテーブルに引きずり出せばよい。その為の軍事的衝突・恐怖をあたえればそれで十分だった」とし、「長期占領の用意をしていた、という形跡は認められない」という。そして、「撤退は予定通りのもので、帰還中に突風に吹かれた」(以上、前掲書)という見方を支持している。
*弘安の役では実際に大風があった
弘安の役は、南宋を滅ぼしたモンゴル帝国(元)が弘安4年6月過ぎから約14万の大軍で九州北部に押し寄せたが、日本軍に上陸を阻止されている間に再び神風が吹き、モンゴル軍は大損害を受けて撤退した、というのがこれまでの定説だ。そして、この神風を吹かせたのが八幡大菩薩だと信じられて来た。前述の「八幡愚童訓」によると、石清水八幡宮(京都市)で夷狄降伏の祈祷が行われ、高僧の叡尊が祈祷を続けていると、突然、幡(柱にかけた布)が揺れ、パタッと音を出した。参列者の誰もが、八幡大菩薩が祈願を聞き入れてくれた印だと信じた。数日後、西国から早馬が着いて、叡尊祈願の日に大風によってモンゴル軍が滅亡したことを伝えたというのだ。この時の神風については、教科書でも暴風雨があったことを記しており、7月31日から閏7月1日にかけて大風が吹いたと見られている。 しかし、服部氏は「蒙古襲来絵詞」(合戦で戦功をあげた御家人・竹崎季長を描いた絵巻)に台風のシーンがないことをあげ、「鎌倉幕府御家人には、神風が吹いたから決着が付いたという意識は全く無かった」とされ、季長にすれば「自分たち御家人が獅子奮闘の働きで蒙古を倒した」(前掲書)という思いだったと述べている。服部氏によれば、大風によって莫大な被害を受けたのは鷹島にいた江南軍(旧南宋兵が主体)であり、「我々が思い込んでいた『嵐に次々に船が沈んで行く』光景は、鷹島沖の不運な老朽船・10数隻を除いては、無かった」(前掲書)とされる。
そして、モンゴル軍が撤退した原因を食糧不足や日本軍の猛攻にあるという。 新井氏は壱岐島沖の海上で江南軍の到着を待っていた東路軍(モンゴルと高麗の連合軍)について、「蒸し風呂のような船内は、兵たちの体力をドンドン弱めて行った。また食料の腐敗や栄養の偏り、更には兵糧切れと水事情の悪化が進み、人々の不健康な状態は酷くなる一方であった」(前掲書)とし、艦隊全体に蔓延した伝染病によって3000余人もの死者が出たと述べている。新井氏はまた、江南軍の艦隊に乗船していた人々が鍬や鍬を携えていたとし、「ほとんどの兵員の実態は軍人ではなく農民であり、遠征の目的は兵として戦うより移住・植民にあったのかも知れない」(前掲書)と推測している。この他にもモンゴル軍の撤退について、近年、高麗や大越(ベトナム)などで起きたモンゴル帝国に対する抵抗運動を原因とする説も唱えられている。
神風を原因とするこれまでの定説は最早否定されたといっていいだろう。
日本史最後の謎
武士が覇権を握った鎌倉・室町時代の謎
承久の乱の遠因となった実朝暗殺の現場といわれる石段と大銀杏(神奈川県鎌倉市)。
大銀杏は平成22(2010)年3月に倒れ、幹は元の場所の横に移され、元の場所の根から若木が出て来るよう処置されている。
『後鳥羽上皇は朝権の回復を期して挙兵するが、幕府軍によって鎮圧された。その敗因について諸説唱えられて来たが、果して真因は何であったのだろうか』
承久元(1219)年、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内で鎌倉幕府3代将軍・源実朝が暗殺された事件は、それだけでも大事件であったが、更に、幕府崩壊の危機をもたらす内乱の始まりでもあった。その内乱とは、後鳥羽上皇が幕府討滅を決意して兵を挙げ、2代執権・北条義時が率いる幕府軍と戦った承久の乱だ。この内乱は皇室にとっての一大政変という意味で、明治時代後半から承久の変という呼び方もされるようになった。承久の乱は学校の授業や教科書などでも見聞きしていると思うが、内乱が何故起きたのか、そして後鳥羽上皇の挙兵が何故失敗したのか、不明な部分が多いといわれる。そこで、先ず内乱の経緯を振り返ってみよう。... 実朝の死後、母・北条政子と義時(政子の弟)は、次の将軍に後鳥羽上皇の息子を迎えようとして京都に使者を送った。 しかし、上皇は幕府の申し入れを拒んだ上に、寵姫・伊賀局の所領の地頭を免職・廃止するよう要求した。 義時はこれを拒否し、摂関家の九条道家の子・三寅(後の4代将軍・頼経)を次期将軍に迎えることにした。すると、承久3(1221)年、後鳥羽上皇は諸国の兵1700余騎を招集し、親幕派貴族の西園寺公経・実氏父子を逮捕・拘禁し、上皇の命に従わなかった京都守護・伊賀光季を襲って殺害した。また、義時追討の為に諸国の守護・地頭に馳せ参じるよう全国に宣旨(天皇の命令を伝える文書の一種)を発布したが、鎌倉から幕府軍が進軍すると圧倒的な兵力を前に京方軍(官軍)は敗北し、乱はあえなく鎮圧された。乱後、後鳥羽は所領を没収された上、隠岐島に流され、遂に京へ帰ることなく生涯を終えた。 後鳥羽はかねてから朝権の回復を期していた。そこで、文武に秀でて多趣味な後鳥羽は、蹴鞠や和歌を通じて実朝と親しくなり、幕府を朝廷の中に取り込もうとした。しかし、その朝権回復のキーマンだった実朝が暗殺されたのだ。日本大学文理学部教授の関幸彦氏によれば、「実朝の死は、後鳥羽院にとっても文化による王朝の優位に伴う武威の包摂化という目論見に狂いを生じさせた」(関幸彦著『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』吉川弘文館)とし、「武力への傾きを強めたのは、実朝の死がギア・チェンジとなった」(同書)と述べている。
*両軍の武士に見られた意識の差
関氏によれば、実朝の死によって朝幕関係の第1幕は終わり、承久の乱に向けての第2幕が始まったという。しかし、後鳥羽の挙兵は幕府軍に返り討ちに遭う形で鎮圧されてしまったが、その敗因については古くから後鳥羽個人の資質にあると指摘されて来た。承久の乱の顛末を記した「承久記」は、後鳥羽が「よこしまに武芸を好み」戦乱を起こしたことを原因とする。また、江戸中期の朱子学者・安積澹泊は自著「大日本史賛藪」の中で後鳥羽の不徳や時勢に暗かったこと、兵力の差が敗因だったとし、江戸後期の歴史家・頼山陽も自書「日本政記」の中で後鳥羽の戦略・謀略の欠如を敗因にあげている。後鳥羽の資質に関して、その見通しの甘さを伝える次の様な話もある。 義時追討の宣旨を発布する前、後鳥羽が京方に味方した幕府御家人・三浦胤義に、宣旨によってどのくらいの御家人が集まるかと問うと、胤義は「天の君の仰せに日本国の武士がどうして背くことがあるでしょうか」と答え、兄で鎌倉幕府の重鎮・義村も味方になるといった。後鳥羽は大いに喜んだが、義村は幕府に駆けつけ忠誠を誓っている。 このように、京かたに馳せ参じる兵が思いのほか少なかったのが後鳥羽の誤算であり、挙兵に失敗した原因だと見る向きが多い。諸国から集まった兵の質も低く、烏合の衆だったとも言われている。 前出の関氏も京方の軍勢が急ごしらえであったとし、「在京御家人、西面、公卿近臣といったそれぞれが戦闘状態に入ったとしても、危機を克服できない」(前掲書)とされる。そして、関氏が指摘するのが戦う目的であり、戦闘に参加した武士と自己の利益代表との関係性である。関氏によれば、「東国武士の場合、明瞭に幕府(鎌倉殿)だった。敗北した場合の負の遺産の大きさを考えた時、負けられない戦い」だったが、「官軍側は守るべきものが何であったのか、高邁な院側の理想だったのか。或いは反北条という怨念による結合だったのか。いずれにしても結集させる意識に少なからず差があった」(前掲書)と述べている。
日本史最後の謎
武士が覇権を握った鎌倉・室町時代の謎 3-3
秋明菊の綿毛
ニ
斉明盛服、非礼不動、所以脩身也、去讒遠色、賤貨而貴德、所以勧賢也、尊其位重其祿、同其好悪、所以勧親親也、官盛任使、所以勧大臣也、忠信重禄、所以勧士也、時使薄斂、所以勧百姓也、日省月試、既稟稱事、所以勧百工也、送往迎来、嘉善而矜不能、所以柔遠人也、継絶世、 拳廃国、治乱持危、朝聘以時、厚往而薄来、所以懷諸候也、
凡為天下国家、有九経、所以行之者一也、
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斉明盛服して、礼に非ざれば動かざるは、身を修むる所以なり。 讒を去り色を遠ざけて、貨を賎しみて徳を貴ぶは、 賢を勧むる所以なり。 其の位を尊くし其の禄を重くし、其の好悪を同じくするは、親(親しむこと)を親しむを勧むる所以なり。 官盛んにして任使せしむるは、大臣を勧むる所以なり。 忠信にして禄を重くするは、士を勧むる所以なり。 時に使いて斂(おさ)むるは、百姓を勧むる所以なり。 日に省み月に試みて、既稟事に称(かな)うは、百工を勧むる所以なり。 往くを送り来るを迎え、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわ)れむは、 遠人を柔らぐる所以なり。 絶世を継ぎ、廃国を挙げ、乱れたるを治め危うきを持し、 朝聘(ちょうへい)は時を以てせしめ、往くを厚くして来たるを薄くするは、諸候を懐くる所以なり。
凡そ天下国家を為むるに、九経有り。 之を行う所以の者は一(いつ)なり。
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(では、九経をそれぞれに全うするにはどうすればよいか。) 潔斎して身を清め立派な礼服を身に付け、何事も礼の定めに適う様に行動すると、それが我が身を修めるということになる。 讒言を退け女色を遠ざけ、貨財を軽く観て人の徳を尊重して行くと、 それが賢人を励ますことになる。 その位を高くし俸禄を多くして、好むこと憎むことを共に分かち合う様にすると、それが肉親を励ますことになる。 官職が備わって、それぞれに権威を持ち、それを大臣が自由に任命して働かせる様にすると、それが大臣を励ますことになる。 真心から対応して、その俸禄を重くして行くと、それが士人たちを励ますことになる。 公務の使役は(農事を妨げない)農閑期だけにし、(国の費用を節約して)納税を少なくすると、それが万民を励ますことになる。 日ごと月ごとにその工作を点検し、仕事ぶりに応じた扶持米を与える様にすること、それが諸々の工人たちを励ますことになる。 遠いくにへ帰って行く時は鄭重に送り出し、やって来た時は鄭重に迎え入れ、(中国の文化を身に付けた)立派な人物は褒め称え、駄目な人物には思いやって優しくすると、それが遠い異国の人々を和らげることになる。 世継ぎの絶えた国は後継ぎを立ててやり、滅びた国はまた興してやり、乱れた国は治まる様に、傾いた国は立ち直る様にして、諸侯が自分で朝廷に出向く朝の礼と、重臣を派遣する聘の礼とを(混乱のない様に)一定の時に行わせ、こちらからの(賜り物や宴会)の施しは手厚くし、向こうからの貢物は軽くさせると云うことにすると、それが諸侯たちを懐け従えることになる。
すべて天下や国や家を上手く治めて行くのには、(この様に)九経つまり九つの原則と云うものがある。しかし、それらを実践する為の根本はと云えば、ただ一つである。
2代将軍・源頼家が北条時政に幽閉された修禅寺(静岡県伊豆市)
北条泰時
北条義時
北条時政
『鎌倉幕府は将軍独裁政治の後執権政治の時代に入ったといわれる。しかし、その成立時期はいつなのか、今だ謎とされている。』
鎌倉幕府の政治体制は、将軍独裁政治・執権政治・得宗専制政治の3段階でとらえられることが多い。しかし、これら3つの政治体制の成立時期、則ち、その政治の始まりの時期については諸説あり、定かでない部分がある。 第1段階の将軍独裁政治の始まりは鎌倉幕府の成立時期とされ、建久3(1192)年が通説になっていた。しかし、近年、幕府の成立時期が見直され、現在では1192年説を否定する学者・研究者も少なくない。 第3段階の得宗専制政治は、北条氏の家督である得宗個人が最高権力者となった体制をいうが、この成立時についても説が分かれている。鎌倉幕府の成立時期及び得宗専制政治の始まりの検証には、それだけ多くの紙幅を割くことになる為、ここでは将軍独裁政治の後を引き継ぎ、後の得宗専制政治へと移行して行く執権政治の成立時期について検討して行くことにしたい。 執権の国語としての意味は「政治の実権を握ること、またはその人」であり、鎌倉幕府の場合、執権と聞いて多くの人が直ぐに頭に浮かべるのは北条氏だろう。しかし、具体的に、北条氏の誰の時代に執権政治が成立したのかと問われると、答えに窮するのではないだろうか。実際、学者や研究者の間でも説が分かれており、以下、順にそれらの説を見て行くことにしよう。 第1の説は、北条時政が政所別当(長官)になった建仁3(1203)年と見る。時政は頼朝の義父(北条政子の父)で、初代執権とされる幕府創業期の実力者だ、正治元(1199)年、頼朝が亡くなり、建仁2(1202)年には長男の頼家が将軍になったが、時政は頼家の後ろ盾になっていた比企能員の一族を滅ぼし(比企の乱)、頼家を伊豆・修禅寺に幽閉して弟の実朝を将軍に立てた。こうして時政は実朝の後見として幕府の実権を握り、実朝に代わって自分一人だけが署名する下知状を用いて政務を執行した。鎌倉幕府の歴史を伝える「吾妻鏡」は時政の地位を「執権」と記している。
*執権政治の始まりは泰時の時代か
第2の説は北条義時が政所別当になった元久2(1205)年と見る。義時は時政の子で、2代執権として姉・政子と共に幕府を取り仕切った。義時と政子は、父・時政が実朝を廃して平賀朝雅を将軍に立てようとしていることを知り、時政を幕府から追放した。「吾妻鏡」は義時が執権のことを奉った(継承した)と記している。 第3の説は、義時が和田義盛を討ち、政所別当を兼ねた建保元(1213)年と見る。義盛は鎌倉幕府の初代侍所別当だったが、義時の謀計にかかって北条氏と戦い、一族は全滅した(和田合戦)。義時は一般政務と財政事務を司る政所と御家人を組織し統制する侍所の両方の別当になったことで、その地位を確固たるものとした。 以上のぞれぞれの説にあげられた時期は、鎌倉幕府の政治体制が新たなる局面に入る節目にあたり、いずれも執権政治の成立時期と見ることができそうだ。しかし、歴史学者の五味文彦氏は「時政・義時の『執権』とは、将軍の執事或いは後見のことであり、理非決断の権限はあくまでも将軍や政子にあった。泰時以後に於いて初めて理非決断の権限を有する執権が成立した」(五味文彦著『大系日本の歴史5 鎌倉と京』小学館)とされる。泰時は義時の子で、3代執権として武家の法典である御成敗式目(貞永式目)を制定したことで知られる。その泰時は、嘉禄元(1225)年、政子の死後、評定所という新たな政治の場を創設した。泰時は有力御家人の中から評定衆を選び、評定所に於いて執権主催の評定会議を開き、ここで訴訟の理非の決断をはじめとする幕府の重要事項を決定して行った。 しかし、五味氏は評定所には「もはや将軍の占める座はなく、将軍の理非決断権は将軍から執権主催の評定に遷された」(前掲書)と述べている。 ということで、現在では泰時による評定所の設置を執権政治の始まりと見る説が有力である。
日本史最後の謎
武士が覇権を握った鎌倉・室町時代の謎
平成25(2013)年、京都・高山寺に伝わる国宝『鳥獣戯画』(正式名「鳥獣人物戯画」)の4年に渡る大規模修理が終了した。その結果、全4巻のうちの甲巻が元は2巻からなっていたことや、甲巻の中盤と後半の絵の順序が入れ替わっていたことなどが新たに判明した。
しかし、どんなストーリーなのか、また、いつ、誰が何の為に描いたのかも依然として不明であり、鳥獣戯画は謎を秘めたままの絵巻物なのだ。...
日本史最後の謎
コラム まだまだあるナゾ
『源義経は平氏の滅亡に戦功をたてたが、頼朝からの称賛はなく、二人の関係は悪化した。
頼朝が義経追討を決意した理由は何だったのだろうか』
日本史の英雄の一人、源義経は文治5(1189)年閏4月30日、奥州の衣川館で藤原泰衡の軍勢に襲われ自害した。泰衡に義経を討つよう圧力をかけたのは源頼朝であり、義経は異母兄弟によって追討された。 頼朝が義経を執拗なまでに追いかけて首を取ろうとした原因について、かつては頼朝が義経の名声に嫉妬した、或いは兵法家としての能力に恐れを抱いたからだと言われたことがあった。また、有名な腰越状(義経が、現在の鎌倉市腰越にある満福寺で書いたといわれる頼朝宛ての弁明書)を大江広元が取り次がなかったことが原因だとも言われた。 しかし、これらの説はみな義経の死後、日本国民の間に広まった「判官びいき」によるものとされ、現在では頼朝の義経追討の原因と考える人は少ない。 そこで指摘されて来たのが、頼朝と義経を巧みに操った後白河法皇の存在だ。歴史学者の石井進氏によれば、頼朝と義経の仲に微妙な空気が漂い始めた原因は「後白河法皇とその側近たちの権謀術策にあった、といって過言ではない。自ら独自の武力を持たない法皇にとって、武士たちを互いに対立させ、牽制し合わせながら、彼らを手玉にとって行くのはその伝統的政策なのであった」(石井進著『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社)とされる。 では、具体的に法皇はどのようにして頼朝と義経を手玉にとったのか。また、二人の間に微妙な空気が漂い始めたのはいつのことなのだろうか。その時期について、石井氏は元暦元(1184)年2月の「一ノ谷の戦い」の後から翌年正月の間と見る。 その間の頼朝と義経の動向を見てみよう。同年6月、頼朝は一族の任官を朝廷に申請し、弟の範頼(義経の兄)以下を国司に任官させた。しかし、その中に義経は含まれず、義経に大きな不満が残ったとされる。すると、8月、義経は頼朝の推挙なしで法皇から検非違使・左衛門少将に任官された。義経は任官を拝受したが、それはまさに義経の心を見透かした法皇の妙手だった。その後も法皇の義経に対する厚遇は続き、10月、義経は遂に院内の昇殿が許された。 しかし、この義経の栄達は「鎌倉の頼朝を強く刺激することになった」(石井氏前掲書)。石井氏によれば、頼朝の基本的方針は御家人武士の賞罰の権限を独占することにあるとし、「京都朝廷に対しても、『御家人の勲功は一切、頼朝が調査し、申請したところに従って行賞されたい』旨を強く申し入れてあった」(前掲書)という。 それにも関わらず、義経は頼朝の命令に背いて推挙なしで法皇からの任官を喜んで受けてしまったのだから、「頼朝に対する正面からの挑戦と受け取られたのもやむを得ない」(石井氏前掲書)だろう。
*壇ノ浦の戦い後に亀裂が生じた?
翌年、義経は源氏の総司令官として屋島の戦い・壇ノ浦の戦いに連勝し、平氏を全滅させて京に凱旋した。しかし、待っていたのは戦功に対する頼朝からの称賛ではなく、厳しい追及だった。その内容は、 ①頼朝の推挙なしに朝廷から任官された東国武士の処罰 ②義経に代わって畿内近国の成敗(裁断)を行う「鎌倉殿御使」の派遣 ③宝剣紛失の責任追及 というものであった。 頼朝と義経の仲に亀裂が生じた時期を、この壇ノ浦の戦い後とする説もある。歴史学者の五味文彦氏は「義経への頼朝の心証を決定的に悪くさせたのは、追討活動に際しての義経の『自尊』(自分勝手な成敗)に対する梶原景時からの訴えであった」(五味文彦著『源義経』岩波新書)という。 景時は頼朝の側近であり、景時から讒訴を受けた頼朝は、義経の側に仕えていた田代信綱に使者を派遣い、今後、関東(頼朝)に忠を尽くす武士は義経に従わないよう命じている。 しかし、明治大学教授の上杉和彦氏は「ここに至って、頼朝と義経の対立は決定的になったかに見えるが、しかしながら頼朝は依然として『義経の追討』を考えてはいなかった」(上杉和彦著『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館)という。上杉氏によれば、「義経がそのまま在京を続け、頼朝との敵対関係を持つことなく後白河直属の武士として活動を続けたならば、頼朝は当面そのような義経の立場を容認或いは少なくとも黙認し、その結果、後の義経の運命は大きく変わっていたかも知れない」(前掲書)とされる。 そして上杉氏は、壇ノ浦の合戦で捕らえた平宗盛父子を護送し鎌倉に向かった義経が結局、頼朝に面会できず腰越を去った直後に、「鎌倉に恨みのある者は、私について来い」と言い放ったという『吾妻鏡』の記述に着目し、「これが事実であるならば、この時点で、義経と頼朝の対決は避けられないものとなった」(前掲書)と述べている。
日本史最後の謎 武士が覇権を握った鎌倉・室町時代の謎
カランコエ(Kalanchoe) Kalanchoe blossfeldiana 幸福を告げる たくさんの小さな思い出
山居胸次清洒、触物皆有佳思。
見孤雲野鶴、而起超絶之想、遇石澗流泉、而動澡雪之思。
撫老檜寒梅、而勁節挺立、侶沙鷗麋鹿、而機心頓忘。
若一走入塵寰、無論物不相関、即此身亦属贅旒夷。
山居せば、胸次清洒にして、物に触れば皆佳思有り。
孤雲野鶴を見ては、超絶の想いを起し、 石澗流泉に遇いては、澡雪の思いを動かす。
老檜寒梅を撫しては、勁節挺立し、 沙鷗麋鹿を侶としては、機心頓に忘れる。
若し一たび塵寰に走り入らば、物の相関せざるに論無く、 即ち此の身も亦贅旒に属す。
「俗世に在れば自由を失う」
俗世間を離れて深山に住んでいると、胸中は清々しく澄んで、
そこで触れるものは全て素晴らしい趣がある。
たとえば、一片の雲や野の鶴を見るにつけても、世俗を超越した思いが起こり、
奇岩の多い谷川や流れる泉に遭遇すれば、心が洗い清められる思いがする。
また、檜の老木や寒中の梅を愛でていると、真っ直ぐな生き方が自覚され、
水辺の鷗や群がる鹿などを友とすると、殊更な企みの心も直ぐに忘れてしまう。
しかし、もし一旦、元の雑踏する世俗の町中に身を投じてしまうと、
関わりのないことはもちろんのこと、この身は直ちに自由の利かない流れに巻き込まれてしまう。
平重盛
善徳寺(栃木県足利市)境内にある平重盛の墓といわれる供養塔
『平氏(平家)は壇ノ浦の戦いで滅んだとされるが、強大な権勢を誇った平氏一門が衰退し滅亡にいたるまでには、様々な要因があったとされる。』
平清盛の権勢が強大となり、一家や一門の昇進が相次ぎ栄達が重なり、清盛は太政大臣まで登り詰めた。承安元(1171)年には、清盛の妻・時子の弟・平時忠が権中納言に任じられた。その時忠は平氏の隆盛を誇り、「この一門ではない人は、皆、人ではない」と言ったという(平家物語)。まさに「奢れる平家」だが、周知のように元暦2(文治元年。1185)年、平家は壇ノ浦で滅亡する。その原因について、源氏軍を率いた源義経の巧みな戦法が挙げられており、たとえば平氏軍の兵船を操舵する水手・楫取りなどを射殺し、兵船を統御できなくしたとも伝えられている。 また、平氏軍は唐船に要人が乗っているように見せかけて源氏軍を誘う作戦(要人は兵船に乗船させていた)をとったが、平氏の有力家人・田口成良の裏切りによって作戦が漏洩したことを敗因とする説もある。 更には、潮流の変化や両軍の戦力の差、平氏の総帥・平宗盛の資質などが勝敗の行方を決したとも指摘されている。 しかし、これらの指摘は壇ノ浦の戦いに於ける平氏の敗因(源氏の勝因)ではあるが、隆盛を極めた平氏一門の滅亡の根本的な原因ではない。言い換えれば、平氏の滅亡(衰退)は壇ノ浦の戦い以前から始まっていたのだ。では平氏は何故衰退し、滅亡したのか。かつては平氏が貴族化し弱体化したことが原因とされたが、現在ではほとんど支持されていない。
*家人と「かり武者」の対立が原因だった
平家滅亡の原因として古くから指摘されているのが、清盛や子の重盛の死である。父子の死は重盛の方が先であったので、重盛の死の方から見て行くことにしよう。 重盛は清盛の嫡男であり、保元・平治の乱で戦功を挙げ、累進して従二位内大臣まで昇進。「小松内府」と称した。『平家物語』には仏教に造詣が深く、文武に秀でた人物として描かれている。温厚な性質で、清盛と朝廷が対立すると間に入って和解に努めた。治承元(1177)年、藤原成親ら後白河法皇の近臣が平氏討伐を企て失敗した「鹿ケ谷事件」の際、重盛は成親の助命や後白河法皇への攻撃を停止するよう清盛に主張したといわれ、周囲から清盛の後継者として目されていた。しかし、治承3(1179)年7月、重盛は父に先立ち病死した。重盛がいなくなったことで、清盛の暴走を諫める者がいなくなり、以後、平氏は滅亡へと向かったという。事実、同年11月、清盛は後白河を幽閉し院政を停止するというクーデターを行い、軍事独裁政治を始めた(治承3年政変)。その2年後の治承5(養和元。1181)年、清盛は没した。重盛に続いて一門を統率する精神的支柱を失ったことで、平氏の衰退が始まり滅亡への道を歩み出したというのだ。 平氏の滅亡については、当時、全国に広まった大飢饉を原因とする説もある。養和元(1181)から寿永元(1182)年にかけて続いた旱魃によって大凶作が発生し、たくさんの餓死者が出た。平氏は諸国の荘園から苛酷な取り立てを行い、平氏から人心は離れて行った。 また、京への食糧供給源であった北陸で反乱が発生し、京の兵糧不足が深刻化した。 平氏一門は寿永2(1183)年、都落ちを余儀なくされたが、その際、後白河は平氏一門を見限り、密かに比叡山に身を隠してしまった。この後白河の脱出によって平氏を正当化する王権が失われ、滅亡の原因になったともいわれている。
こうした諸説がある中、京都大学大学院教授・元木泰雄氏は清盛の死去や西国に於ける大飢饉なども平氏滅亡の一因として皆無ではないとするが、「急激な権力の増大が、平氏の権力や組織に内在する様々な矛盾を激発させて、平氏は劇的な滅亡に追い込まれて行った」(元木泰雄著『敗者の日本史5 治承・寿永の内乱と平氏』 吉川弘文館)とされる。 その要因の一つとして元木氏があげているのが、「かり武者」だ。平氏の軍事体制は「平氏の恩恵を受け忠節を尽くす、僅かだが精強な『家人』と、強制的に動員された為に戦意も低い多くの『かり武者』」からなるが、「『かり武者』の動員に依存する面が強かった」(前掲書)という。 そして、「家人と『かり武者』との対立を解消できなかったことが、内乱の一因ともなり、多くの武士の離反を招くことにもなった」(前掲書)と元木氏は述べている。 つまり、平家滅亡の要因の一つは内部にあったといえよう。
日本史最後の謎
天皇制が確立した律令国家と院政の謎 2-6
喜寂厭喧者、往往避人以求静。
不知意在無人、便成我相、心着於静、便是動根。
如何到得人我一視、動静両忘的境界。
寂を喜び喧を厭う者は、往々、人を避けて以て静を求む。
意、人無きに在らば、便ち我相を成し、 心、静に着さば、便ち是れ動根なるを知らず。
如何ぞ、人我は一と視、 動静も両つながら忘るるの境界に到り得んや。
「靜も動も共に忘れる」
静けさを喜び騒がしさを嫌う者は、
往々にして殊更に人を避けて静けさを求めようとするものである。
たとえば、自分の気持ちが他人に対して関心を持っていなければ、
却って逆に自我と云う意識が生じ、
また心の静寂に執着すれば、
却って逆に、それが心を動揺させる原因になると云うことが分らない。
このようなことでは、どうして他人と自分を同一に見、
動も靜も共に忘れると云う悟りの境地に到達することができようか。
デンマークカクタス(蝦蛄葉サボテン、 Christmas cactus) Schlumbergera truncata
美しい眺め 愛される喜び 一時の美 冒険 波乱万丈
把握未定、宜絶迹塵囂。
使此心不見可欲而不乱、以澄吾静体。
操持既堅、又当混迹風塵。
使此心見可欲而亦不乱、以養吾円機。
把握すること未だ定まらずば、宜しく迹を塵囂に絶つべし。
此の心をして欲すべきを見ずして、乱れざらしめ、以て吾が静体を澄ます。
操持すること既に堅くば、又当に迹を風塵に混ずべし。
此の心をして欲すべきを見るも亦乱れざらしめ、以て吾が円機を養う。
「世俗から脱却する」
自己の心をしっかりと自分のものとすることがまだ出来なかったならば、
自分自身を騒がしい俗世間から断ち切るのが良い。
そして自分の心をして、欲しいものを見ないようにして乱れさせないで、
それによって自己の本来の清静な本体を澄ますようにする。
これに対して、自分の心を堅く保つことができるようなら、
自分自身を俗塵の巷に投げ込んでも良い。
そうして自分の心をして、欲しいものを見ても乱れないようにし、
それによって俗世間に捉われない自由自在な働きを養うようにする。
アメリカの戦車部隊を指揮し、第2次世界大戦では1944年のノルマンディー上陸作戦を成功させたジョージ・パットンは、M46戦車の愛称にその名が冠される名将である。
「大胆不敵」を旨とし、敵の後方に果敢に回り込んで攻撃するスタイルを好む好戦型の軍人だったという。
*誰もが認めていたパットンの並外れた直観力
そうしたパットンが多くの部下に慕われた理由は、一見無謀とも思える大胆な作戦も、彼が指揮すると、その優れた直観力が発揮され、一転して成功へと導かれるからである。 この直観力はパットンだけの特別なもので、彼と共に戦った者は皆、その直観力を信頼していた。 実は、パットンによると、彼は何度も軍人として生まれ変わった為、世界各地の戦場を熟知しており、それが直観力を大いに助けたという。
彼曰く、紀元前3世紀には、カルタゴの将軍ハンニバルとしてローマと第2次ポエニ戦争を戦ったという。ハンニバルは、イベリア半島のカルタゴ・ノヴァからアルプス越えを敢行し、カンナエの戦いでは、現在も戦術の手本とされる両翼包囲戦術を用いて5万のローマ軍を壊滅させている。またカエサルがローマに君臨していた頃は、パットンはローマ軍の100人隊長であり、ナポレオンがヨーロッパを席巻していた時は、その配下として活躍した元帥ミュラと一緒に戦ったと語っている。
*ヨーロッパの地理を知り尽くしていた理由
この為、パットンはアメリカの軍人でありながら、ヨーロッパの土地に慣れていたというのだ。実際、初めて訪れた土地であるにも関わらず、パットンはその土地の地理に詳しく、道案内は全く不要だった。運転士に自ら道を教えることまであったともいう。 繰り返された転生によって身につけたパットンの直観力は、戦術面で大いに役立ったが、皮肉にも自らの死に関しても予知してしまった。第2次世界大戦が連合国の勝利に終わり、ドイツ軍が降伏した1945年5月、1度母国アメリカへ引き揚げたパットンは、占領下のドイツを統治する為第15軍司令官としてドイツへ赴任することになった。この時、彼は子供たちに、「私はヨーロッパで死ぬはずだから、そうしたら、(アメリカに遺体を運ぶのではなく)そこに埋葬してほしい」と話したという。
するとその言葉通り、赴任して半年あまり、パットンは交通事故に遭って首の骨を折り、同年12月21日、息を引き取った。 とはいえ、パットンは輪廻転生を繰り返して来たことを告白している。もしかするとパットンは誰か優秀な軍人に転生し、活躍の時を待っているのかも知れない。
世界史ミステリー
身も凍る「狂気と怪奇」のミステリー
オンコ(アララギ、一位、Japanese yew) Taxus cuspidata 高尚 悲哀 悲しみ
心無其心。
何有於観。
釈氏曰観心者、重増其障。
物本一物。
何待於斉。
荘生曰斉物者、自剖其同。
心に其の心無し。
何ぞ観有らん。
釈氏の心を観ずと曰うは、重ねて其の障を増すなり。
物は本は一物なり。
何ぞ斉しくするを待たん。
荘生の物を斉しくすと曰うは、自ら其の同を剖くなり。
「平地に波乱を起こす」
心の中に本来妄心はない。
であるから、どうして殊更に心を観ずる必要があろうか。
それなのに、仏教で心を見極めなさいなどと言うのは、
更に心中に妄想を増すばかりである。
万物は元々一体である。
であるから、どうして物を斉しくすると言う必要があろうか。
それなのに、荘周が万物を斉しく見るなどと言うのは、
元々同じであるものを自分から無理に区別するようなものである。
200年間所在不明だったフランスの画家ジャックルイ・ダビッド作のナポレオン肖像画がニューヨークで発見され、修復されたもの。
ホテル・デ・サンヴァリッドの地下にあるナポレオンの墓
フランスの英雄ナポレオンは、1815年、ワーテルローの戦いでイギリス、プロイセン、オランダの連合軍に敗れ、南大西洋に浮かぶ絶海の孤島セント・ヘレナに流され、6年後の1821年、胃がんの為に51歳の人生を終えたと伝えられる。
しかし、セント・ヘレナで死んだのは、本当にナポレオンだったのか?
突拍子もない話であるが「ナポレオンは密かに島から脱出しており、セント・ヘレナ島で死んだのは影武者だった」という噂があるのだ。
*消えたナポレオンの影武者
実はナポレオンには、顔も体つきもソックリな影武者がいた。フランソワ・E・ロボという人物だ。 ナポレオンがセント・ヘレナ島へ幽閉された後、ミューズ川に近い故郷のバレイクル村に戻り、農民として妹と暮らしていた。そうした彼のもとに、1818年にナポレオンの随員の1人、グールゴー男爵がやって来た。男爵はセント・ヘレナ島からパリへと戻り、その2か月後、バレイクル村に1台の立派な馬車に乗ってやって来て、ロボの家を訪ねた。するとその年の秋、ロボと妹は村から忽然と姿を消した。2人の行く先は誰も分からなかったが、妹は後にトゥールという町で暮らしているのが発見された。彼女は面識のない医者から郵送で仕送りを受けて、快適に暮らしていたという。しかし、兄のロボの行方については「遠い国へ航海に出た」と言うだけで、彼女も詳しくは知らなかった。以後、ロボの姿を見た者は誰もいない。
*「ナポレオンの息子」が瀕死の際に、駆けつけた人物
ロボが姿を消した後の1818年の暮れのある日、イタリアのヴェローナの町に、レパールと名乗る身なりの好いフランス人が現われ、宝石と眼鏡を扱う小さな店を開いた。
しかし、商売は番頭として雇ったぺトルッチに任せきりだったという。レパールは非常にナポレオンに似ていたので、ぺトルッチはレパールのことを、冗談まじりに「皇帝」と呼んでいたそうだ。 1823年8月22日午後、1人の男が店を訪れ、レパールに手紙を渡した。それを読んだレパールは血相を変え、2時間後には馬車に乗り込み、何処かへと出かけて行った。この時、レパールはぺトルッチに1通の手紙を渡し、「自分が3か月以内に戻らない場合は、フランス王に送ってくれ」と言い残したという。 それから2週間ほど経った9月4日の夜11時過ぎのウィーン。ハプスブルク家の王宮であるシェーンブルン宮殿に、塀を乗り越えて侵入しようとした男が、衛兵によって射殺された。 その宮殿内では、ナポレオンの息子ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトが猩紅熱で瀕死の状態にあったという。ナポレオンの失脚後、皇后マリー・ルイーズは息子を連れて実家に戻っていたのだ。
翌日、フランス大使館が死体の引き渡しを求めて来たが、宮殿側はこれを拒否。侵入者の遺体は、何故か宮殿内に葬られた。 結局ぺトルッチのもとには、3か月経っても、レパールは戻らなかった。ぺトルッチはレパールに命じられたようにフランス王にレパールの手紙を送ったところ、多額の報酬が与えられたという。
*胃がんで死んだはずのナポレオンの腸に残る「銃弾の痕跡」
一方、セント・ヘレナ島での幽閉生活を送ったナポレオンは、死を迎える前頃から、自分の過去について思い出せなくなったり、急に庭仕事に興味を持ったり、言動が粗野になったりしていたという。まるで別人にでもなったかのように.....。
バレイクル村に残るロボの記録には、「1771年この村に生まれ・・・・・セント・ヘレナ・・・・・にて死す」と記されている。死の日付は何故か判読できない。 ここから、セント・ヘレナ島で影武者のロボと入れ替わったナポレオンは、レパールと名乗り、ヴェローナに潜伏。愛息の急報を聞きつけてオーストリアに急行するも、宮殿に侵入しようとしたところを射殺された、というストーリーが浮かび上がって来る。
最早歴史的役割を終えたナポレオンが、最期に見たのはどのような風景だったのか。
世界史ミステリー
誰にも裏の顔がある 「あの歴史上の大人物」が隠していたミステリー