Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

社会インフラを急速に進めた 度量衡、車軌、文字の統一

2018-04-30 04:10:23 | Weblog

◆地道な社会インフラを整備
 郡県制により、中国大陸を強大な中央集権国家へと変貌させた始皇帝は、紀元前221年、次の事業として度量衡、車軌、文字の統一を計った。度量衡と云うものは流通、交易や税の徴収などに於いて非常に重要な意味を持っている。また、道路が土であった時代、車軌道の幅が様々だと轍は多数に及び、交通がマヒしてしまう。互いに争っていた戦国七国の間では、度量衡の単位や車馬の轍の幅、文字の形はもちろん異なり、統一国家としては不便であり、統一が急がれた。この事業により、尺寸(長さ)、石斤両(重さ)、斗升(容積)の尺度、小篆や隷書と云う文字が統一規格となった。しかし、これらは七国で使われていたものを平均して新たな規格を作ったのではなく、秦が旧来使っていたものを踏襲したのであった。そしてこの規格統一はこの年に一気に実施されたものではなく、戦国時代から秦の占領地に於いて徐々に定着されて行ったものであった。また、この新規格の使用者は、一般庶民ではなく官吏であり、工人であった。つまり新規格を管理する者と製品を作る者であり、度量衡の規格は厳しく管理され、違反を犯すと厳しい処罰を受けた。

◆4度の暗殺の危機も乗り切ったが..... 絶対者も天命には適わなかった
 始皇帝はまた、秦を基準に貨幣の統一も行おうとした。当時、斉や燕の東方諸国ではナイフ形の刀銭、黄河中流域の諸国では鍬形の布銭、南方の楚では卵形の蟻鼻銭など、重量、形状を異にする様々な貨幣が使われていた。秦は、半両銭と呼ばれる中央に四角い穴の開いた円形の貨幣を統一貨幣にし、二世皇帝の時に大量発行したのである。

 秦の公式文字となった小篆は、周の太史が考案した大篆を李斯が改良したものだとされている。小篆は統一された国家の象徴として様々な公的証明書に用いられたが、事務処理を行う地方の官吏にとって複雑な形であり、書くのが困難であった。これにより小篆は簡素化され、後の時代まで使われる隷書が誕生するのである。

 ペルシャ帝国の王の道やローマ帝国の街道など、古代帝国に於いて道路網の整備とは非常に重要なものであった。それは、軍隊の移動、物品の流通を迅速なものにした。秦では都咸陽から放射状に馳道と云う国有道路が整備された。この馳道は三車線に分かれ、中央は皇帝専用であり、それ以外の車馬はその両側を走った。

 始皇帝が天下を統一する100年以上も前、秦が一躍強国の一つになったのは、商鞅が行った富国強兵を基礎としている。商鞅は商鞅変法と言われる国政改革を断行するが、その一環で商鞅方升と呼ばれる升を作り、既に度量衡の統一は行われていた。始皇帝は、変法以来秦で用いられていたこの単位を受け継ぎ、全国に布告する。

*画像
    「大篆」と呼ばれた石鼓文。
    まだ、文字を揃えてきれいに書くと言った文化がなかった時代。
    ちなみに、この頃の日本は縄文~弥生時代だった。

    「廿六年詔権量銘」全文
    始皇帝26年(紀元前221年)、度量衡や文字の統一を行なった秦は、
    その証明文を小篆を用いて度量衡の標準器の本体や証明用の銅板に刻んだ。

      


                 秦の始皇帝 最強研究
                      史上最も偉大で 最も嫌われた皇帝の真実!


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毘沙門天 多くの役職を兼務する武人天部の代表格

2018-04-30 04:07:11 | Weblog

「上杉謙信の旗印にもなった鰐の神」
 毘沙門天は、最も多くの役職に就いている天部かも知れない。
彼は東西南北の四方位を守護する四天王の一人、多聞天と同一人物で、四天王とは別に十二天の一人にも数えられ、日本では七福神の一人と云うことにもなっているからだ。
そんな毘沙門天には、武者としての性格と、福徳の守護者としての性格があり、嶮しい表情の像で描かれることが多いが、武器を手にせず、
恰幅の良い男性の姿で描かれることもある。また、片手に戟(矛)などの武器を持ち、片手の掌には小さな仏塔を乗せた姿で表わされることも多い。
毘沙門天こと多聞天は、四天王や十二天としても、北方を守護するとされる。これは、毘沙門天の前身たるインド神話のクべーラ(クンビーラ)神が、インド北部のヒマラヤで信仰されていたことに由来する。
このクべーラ神は、数多くの夜叉をその配下に従えていたと謂われるが、元は、ガンジス河の鰐の神様だった。
日本では上杉謙信が毘沙門天を旗印にしていたことで有名だが、なるほど鰐の化身とは強そうだ。
暖かい地方の生き物と思われる鰐が北方の山岳地帯の守護者と云うのも不思議だが、クべーラはブラフマー(梵天)にその地を守る様命じられたと謂われ、仏教説話でもその役割が引き継がれた。
また、日本では、毘沙門天は、地域によっては、航海の守護者の金比羅とも同一視される。金比羅とはクンビーラと云う本来の音と、鰐の化身と云う性格を引き継いでいる。
そんな毘沙門天は、同時に財産や富の守護者とも見なされる様になった。
これは、仏教の世界観で彼が守る須弥山(しゅみせん)北方の蔵には、たくさんの財宝があると謂われる為である。

               

                      「天使」と「悪魔」がよくわかる本


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マタ・ハリ (1876~1917)天性の美貌を武器に暗躍した二十世紀最大の女スパイ

2018-04-29 04:31:00 | Weblog

「踊り子からスパイへの華麗なる転身」
 二十世紀最大の女スパイ、マタ・ハリ(マレー語で「昼間の月」の意味)、その類稀なる美貌で男たちの目を眩ませ、その裏ではドイツのスパイとして暗躍した。
東洋のジャワから来た踊り子と云う触れ込みでパリにデビューしたマタ・ハリだが、実際は一八七六年に生まれたオランダ人で、本名はマルガレータ・ヘルトロイダ・ツェレと云った。十八歳の時に、軍人と結婚して赴いたジャワでの経験を活かし、現地仕込みの妖艶な踊りをパリで披露したのだ。マタ・ハリは、その肢体と美貌で、ヨーロッパ中でたちまち売れっ子となった
マタ・ハリは貴族や高官など上流階級の男たちとの情事に耽っていたが、第一次世界大戦勃発後は、その美貌を武器にスパイ網の一員となる。
彼女が活躍したのは二年間に過ぎなかったが、一九一七年、ある暗号文を傍受したフランスは、H21号と云う暗号名のドイツのスパイが、予てから目を付けていたマタ・ハリだと察知し、遂に彼女を逮捕。
同年の十月に、銃殺の刑に処した。

ただ一説に因ると、マタ・ハリはスパイではなかったとも言う。
彼女がドイツやフランスの要人たちと多数の関係を持っていた為に、疑われたに過ぎないのだと言うのだ。
また、マタ・ハリはフランスのスパイに勧誘され、それを知ったドイツが偽情報を流して彼女を逮捕させた。そして、フランスも逮捕後にその事に気づきながら、戦意を鼓舞する為に彼女をスケープゴードに仕立てたと云う説もある様だ。

果たして、真実はどうだったのだろうか。
しかし、マタ・ハリが美し過ぎた故に、男たちに目を付けられたと云う事は、あながち否定はできないだろう。

             

                       世界の「美女と悪女」がよくわかる本


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日本は如何にして日本になったのか?大和朝廷はどのようにして成立した?

2018-04-28 04:15:56 | Weblog

◆日本が日本になるまで
 前章では、日本が大陸に仕掛けた戦争について解説した。
本章では、根本に立ち返り、現在の私たちが暮らしている日本が現在の形を成すまでを見て行こう。
日本は建国から現在まで、一貫して「万世一系」の天皇家を戴いている大変珍しい国である。
先ずは、天皇を中心とする大和朝廷は日本を統べる勢力に成長するまで解説したい。
2~3世紀に存在したと思われる卑弥呼の邪馬台国については、既に記した通りだ。266年、中国を統一した晋国に倭国の使者が朝貢したと云う記録を最後に、倭国に関する記述は中国の書物から姿を消す。恐らく、その頃の中国は異民族の侵入や内乱で波乱続きで、東アジアでの影響力が弱まり、日本から使者を送ることが少なくなったものと考えられる。再び登場するのは、413年の『梁書』倭伝に於ける「倭王讃」の朝貢だ。150年もの空白期間を経て、日本は大きく変わっていた。大和朝廷が成立し、統一国家が作られていたのである。王の陵墓、古墳も数多く作られ、有名な『前方後円墳』も誕生していた。

◆前方後円墳と大和朝廷
 急に統一国家ができたことには、朝鮮半島の情勢が関係している。4世紀の朝鮮半島、中国北東部には「白村江の戦い」の頁でも登場した高句麗が、巨大国家として君臨していた。291年に「八王の乱」が起きて中国が混乱すると、高句麗が中国直轄領の楽浪郡・帯方郡を駆逐して、朝鮮半島の北半分を掌中に収めてしまったのだ。この動きに触発されて半島南部の国々も統一国家建設を急ぎ、4世紀中頃には「百済」と「新羅」が建国されている。恐らく、日本列島でも小国の統廃合が進んだと考えられる。
また日本では3世紀後半以後、近畿中部から瀬戸内海沿岸にかけて大規模な古墳が造られるようになり、墓の形式も画一化して行く。このことも、同時期に広域に及ぶ政治連合・大和朝廷が成立したことを示している。巨大古墳は、奈良盆地(大和地方)や河内に多く造られたことから、大和朝廷は近畿を基盤として、大王(天皇)を中心とした豪族の連合政権として発展したと考えられる。

◆大和朝廷と高句麗の激突
 日本で実在が有力視されている最も古い天皇は第10代の崇神天皇であり、王朝を作ったのも恐らく彼だろうと謂われている。
初代天皇は神武天皇だが、その業績は崇神天皇のものだと云うのが定説である。2代から9代までの天皇は、『古事記』や『日本書紀』にも詳細が書かれておらず、「欠史八代」と呼ばれる。
前方後円墳の分布は、北東南部から九州南部にまで広がっていることから、大和朝廷の勢力範囲も東西に伸びて行ったと推測できる。実は朝鮮半島南部にも前方後円墳が実在する。日本と韓国の歴史問題に発展しかねないことから、学校で教えられることはないが、日本の王の墓が半島南部にあると云うことは、日本が何らかの影響力を行使していたことは間違いないだろう。
これは中国吉林省にある「広開土王碑」の碑文からも知ることができる。高句麗の王・好太王の死から1年後、彼の子である長寿王は、彼の功績を称える目的で、碑を建立した。4つの面に1800余の文字が刻まれているのだが、そこに日本と高句麗が激突した様子が刻まれている。「百済・新羅は元々高句麗の属民であり、以前から高句麗に朝貢していた。しかし、倭国は391年から海を渡って百済を破り、新羅を征服した」
「399年、百済は先年の誓いを破って、倭と和通した為、広開土王は百済を討つ為に、平壌に向かう。その際、新羅の使者が『多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗の救援をお願いしたい』と願い出たので、広開土王は救援することにした」「400年、5万の大軍で新羅を救援し新羅の王都を占領していた倭軍を追い払うことに成功した。更に、倭軍を追撃し、任那・加羅に追ったが、逆を突かれて新羅の王都を占領された」「倭が帯方地方に侵入した為、これを撃退して大敗させた」
碑に刻まれたことを信用するならば、日本は新羅や百済には勝利したが、高句麗に退けられたと云うことになる。

◆倭国統一の上表文
 話を元に戻そう。『晋書』によると、南北朝時代に入っていた中国に、5人の天皇が朝貢していたと謂う。
5人とは「讃・珍・済・興・武」のことで、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇だと特定されているが、讃と珍は様々な説があり判然としていない。何故こんなややこしいことが起こるかと云うと、日本では初代の神武天皇から45代の聖武天皇までは、中国風の諡号(貴人の死後に与えられる名前)がなかった為だ。和風の諡号では、雄略天皇は「オホハツセノワカタケ」。允恭天皇は「ヲアサヅマワクゴノスクネ」と云う具合であった。46代の孝謙天皇の時代になって、臣下の淡海三船がそれまでの天皇の名前を後付けで中国風にしたのである。雄略天皇が倭国王となった、順帝の昇明2(478)年、宋に使者を派遣して上表文を奉呈。その上表文から、当時の大和朝廷の支配範囲を知ることができる。『宋書』倭国伝によると「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を制すること66国、渡りて海北を平ぐること95国」とある。雄略天皇は東国の毛人の国々だけでなく、対馬海峡の先の朝鮮の国々まで、大和朝廷の威光が届いていると自称していたのだ。最後の遣使では、宋の皇帝に「開府儀同三司」などの称号を求めた。三司とは宋の大臣である大尉、司徒、司空に匹敵する役職で、周辺諸国では高句麗の長寿王など数人しか認められていなかった。その高句麗に対抗して求めたものであったが、結局認められなかった。
そして478年の遣使を最後に、日本は中国との交流を断つ。これは、日本が中国の冊封体制から抜け、独立国となったことを意味する。ここからは、実質的な最高権力の座こそ移り変わるが、天皇を戴く独立国・日本としての歩みが現在まで続いて行くことになる。(画像・代表的な前方後円墳・仁徳陵古墳の空中写真、好太王陵の近くに位置する好太王碑、歴代天皇の肖像画「歴代尊影」の一部)

          

                     教科書には載っていない 「日本の戦争史」


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帝釈天 生まれの地インド以来、庶民に愛された乱暴者

2018-04-27 04:15:03 | Weblog



天部の中でも、梵天以上に広く崇拝されていると云えるのが帝釈天だ。
十二天の中の一人として数えられる場合は、東方を象徴するとされている。
その外見は、梵天と一対でほぼ同様の姿で描かれることもあるが、
梵天が創造主とされるのに対し、帝釈天は武者と云う性格も持つ為、白い像に跨って独鉾杵または、三鉾杵を手にした武人の姿で表わされることも多い。頭は、兜を被っているか、丸くまげを結っているのが一般的だ。
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「梵天と並ぶ天部の筆頭格」
 帝釈天は、元はインド神話の雷神インドラである。
勇猛果敢な武人として恐れられていたが、武神でありながら、雷と雨を操ることから、人々に作物の恵みをもたらす神としても敬われ、慕われる様になって行った。
そんなインドラこと帝釈天は、仏陀が悟りを開いた時、その側にずっと付き従い、以後もその説法の場には必ず同席していたと謂われる。
インドラはかつて、神々の軍勢を率いて鬼神アスラ(阿修羅)の一族と戦いを繰り返していた。この図式は、両者が共に仏教説話のキャラクターになってからも引き継がれている。アスラの王は、仏に帰依した帝釈天に敗れて折伏され、配下の阿修羅王になったと云う。
帝釈天は、仏教の世界観では世界の中心に位置する須弥山の頂上にある喜見城に座して、東西南北の四方を守護する四天王や、阿修羅王他の八部衆を従えている。
ちなみに、十二支と十干の組み合わせに因る東洋古来の暦法で、六十日に一度の庚申の日は、日本では、帝釈天の縁日とされている。
その由来は道教の民間信仰からであり、この日は体内に住む「三尸(さんし)」の虫が、眠っている間に天帝に自分の悪事を告げてしまうとされていた。これを避ける目的で、庚申の日は眠らずにお祭りをする習慣が生まれ、後に帝釈天が天帝と同一視される様になった為、庚申の日が帝釈天の日となったのである。
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「天部最強の武人は、元不良?」
 さて、勇猛果敢な暴れん坊だったインドラは、好色で酒好きでもあった。
しかしそんな彼は、古代インドの抒情詩『リグ・ヴェータ』に記された神の中でも、最も庶民に人気のある神だったとも言われる。
インドラに纏わる逸話としては、悪鬼ヴリトラが雨を降らせる「雲の牛」を奪ったせいで、地上が干ばつに見舞われたので、神酒ソーマを飲んで景気づけをしてヴリトラを成敗した話が特に有名だ。
他にも、貴人の妻を寝取ったりするなど、蛮勇のエピソードには事欠かない。こうした性格は、彼我仏法に帰依して帝釈天と呼ばれる様になって以降も、引き継がれた。
先に、梵天がいるのは二十七天の中でも色界の下層だと述べたが、
帝釈天のいる場所である欲界忉利天(よくかいとうりてん)は、もっと地上に近く、下から二番目の位置に当たる。
帝釈天は、まだまだ俗世の欲が残った天部でいらっしゃると云うわけだ。

こう述べると偉くなさそうだが、寧ろ、些か偉過ぎて敬遠されている梵天ことブラフマーに対し、帝釈天は広く庶民に愛されて来たとも云える。

日本での帝釈天信仰の名所と云えば、東京・柴又の経栄山題経寺だろう。
ご存知、映画『男はつらいよ』シリーズのフーテンの寅さんが産湯を浸かった寺である。テキヤの寅さんはまさに浮浪の民、渡世人だった。
梵天や他の仏では畏れ多いが、帝釈天なら親しみが持てる、と云う思いだったとしてもおかしくない。

東洋では孔子の高弟で、元侠客の子路、「三国志」の豪傑・張飛、「西遊記」の孫悟空、牛若丸に敗れた弁慶坊など、元暴れん坊が改悛して聖者や貴人の家来になったと云うキャラクターが非常によく愛されているが、帝釈天は、まさにその典型だったのかも知れない。

              

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フアナ (1479~1555)夫を愛するがゆえに狂女と化した幻の女王

2018-04-27 04:11:59 | Weblog

スペイン王国カルロス1世の生母フアナは、夫の女性問題に苦しみながらも愛を捨て切れず、狂気の世界へと逃避した。本来ならばスペインの初代国王と呼ばれるはずだったが、父親から治療不能と判断され、幽閉されてしまう。その結果、形式的には王位継承者として扱われたものの、いわば、幻の女王となってしまった。

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「移り気な夫フィリップとの結婚生活」
 フアナは、カスティーリャ女王イザベル1世と、隣国アラゴンのフェルナンド2世との間に次女として生まれた。
結婚相手は、ハプスブルグ家の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の子であり、ブルゴーニュ公でもあるフィリップである。
結婚前のフアナを「その輝きは、暗い夜を明るく照らした」と詩人が詠むほどに、彼女の美貌は広く知られていたが、結婚相手のフィリップもまた、その容姿端麗さには貴婦人の誰もが憧れると評判だった。
だが、フアナはブルゴーニュの宮殿で、夫のこの容姿に悩まされることになる。
結婚当初は彼女の美しさに夢中になっていた為に収まっていたフリップの浮気癖が、復活してしまったからだ。フアナは夫を訪ねて来る女性に嫉妬しては、益々フィリップに疎まれる様になって行く。
異国に嫁ぎ、自分の深い愛に対して気まぐれな愛しか返してくれない夫に、彼女の心は深く傷ついて行った。
そんな時、兄と姉の死に因って、カスティーリャの王位継承権がフアナに決まった。その為、彼女は結婚後初めての帰国を果たす。そして、
王位継承の記念式典を終えるとフィリップだけがブルゴーニュに戻り、
彼女は暫く故国に残った。
その間に、夫に会いたいと嘆き、物思いに耽る彼女を見て、母イサベル1世は恐れを抱く。それは少女時代、自分の母が精神を患った時に見たのと同じ表情を娘の顔に見たからだった。

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「ひたむきな愛情ゆえに狂気の世界へ」
 一五〇四年、母イサベル1世の死で、フアナに王位継承の時が訪れる。
統治の為にはカスティーリャ在住が条件となる為、帰国して王位を継ぐ彼女にフィリップは同行した。彼は、夫である自分にも王座を得るチャンスがあると知り、思い出した様にフアナに愛を囁いたりしたが、この時既に、彼女には精神異常の兆しがあった。カスティーリャへの旅の同行者に夫の愛人が何人もいたのだから、幾ら自分に愛を告げられても不安な心理から抜けられないのも当然だった。
フィリップは、そんな妻の精神状態を理由に統治権の全権移譲を申し出るが、父のアラゴン王フェルナンド2世がまだ健在だった為、彼が摂政としてアラゴンと合わせて統治を行なうことになった。
ところが、フアナにとっては思いがけない事態が発生する。
帰国後僅か二か月でフィリップが急死したのだ。ある意味、これでもう夫の浮気の不安はないわけだから、彼女は正気を取り戻してもいいはずだった。しかし、フアナの愛は余りにも深く、逆に一気に狂気へと突っ走ってしまう。それは、フィリップの遺体への執着と云う形で表われる。
彼女は、フィリップの遺体を、母と同じグラナダの地に埋葬すると称して、棺を乗せた馬車をカスティーリャの荒野に走らせたのだった。

父王のフェルナンド2世は、この奇行を知ってアラゴンから駆けつけるが、娘の姿を見てすべてが手遅れであることを知る。
彼は已む無くフアナの幽閉を決意し、直ぐに実行に移した。それでも、父は娘からカスティーリャの王位を剥奪はしなかった。
一五一六年に自分が没するまで、アラゴンの王、カスティーリャの摂政として両国を統治し続けたのである。
フェルナンドの死後は、フアナとフィリップの息子カルロス1世が、アラゴンとカスティーリャ統一のスペイン初代国王となった。
フアナはそれも知らず、一五五五年に七十五歳で没するまでの四十六年間を、幽閉されたままで過ごしたと云う。

              


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カランコロンと響く下駄の音 灯籠に導かれ毎夜訪れる美女 幽霊と人の純愛 「牡丹灯籠」

2018-04-26 04:42:11 | Weblog

◆中国の物語を日本風にアレンジして大ヒット
 牡丹灯籠は、江戸末期の噺家・三遊亭圓朝によって、文久年間(1861~1864年)に創作されている。本所柳島(現在の墨田区)の旗本の娘お露が、浪人の新三郎に恋をするも病死し、更に女中のお米も後を追う。しかし、お盆を迎えた夜、新三郎のもとに、牡丹灯籠を手にしたお米に連れられたお露が、駒下駄を鳴らしながらやって来る。二人は愛し合い逢瀬を重ねるが、やがてお露が幽霊であることが判明。新三郎は新幡随院のお札を貼ってお露を拒んだが、遂にお露の侵入を許して悶死する。
原典は中国の明代に編纂された怪談集『剪灯新話』に収録された『牡丹燈記』で、浅井了意も『伽婢子』で翻案している。更に圓朝によって仇討ちなどの要素が加わり、全13章の長編となった。既に幽霊と云えば足が無いことが定着していた時代、逆に幽霊が「カランコロン」と下駄の音をさせると云う意表を突く表現が、新鮮な恐怖をもたらした。
この『怪談牡丹灯籠』が、明治25(1892)年に、三代目河竹新七により『怪異談牡丹灯籠』として歌舞伎演目となり、五代目尾上菊五郎によって上演された。「怪談」ではなく「怪異談」となっているのは、縁起の良い七文字に変更した為だと言う。
お岩やお菊の様な怨恨ではなく、累(かさね)の様な因果でもなく、幽霊になってでもただ愛する男に会いたいと云う一途な物語が多くの人の心を捉えた。

                  

                        江戸・東京 魔界地図帖


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中国を創った始皇帝の統一事業 強力な中央集権体制を狙う 郡県制を実施して地方の独立性を排除

2018-04-25 04:02:28 | Weblog

◆封建制こそ波乱の芽!
 春秋戦国時代と云う長きに渡り戦乱の世となった中国を統一した始皇帝は、全国に郡県制を布く。郡県制とは、封建制に対する統治の方式であり、中央集権的な直接支配の体制である。
天下を挙げて泥沼のような戦争に苦しんで来たのは、諸侯や諸王が存在した為であり、平和を求めるならば封国を設けないと云う趣旨のもと、始皇帝は中央集権の基礎を固めて行く。全国を36の郡に分け、郡ごとに守・尉・監が置かれた。守は郡の長官、尉は守の補佐で軍事を担当。監は監御史とも呼ばれ、一般には監察官とされているが、具体的な職掌については分かっていない。また、36の郡が具体的に何処と何処を指すのかは議論の分かれる所であり、諸説ある。
ともかく、これら36郡それぞれの下に幾つかの県を従属させることで郡県制が確立される。郡、県と呼ばれるものは春秋時代の中期頃から各諸侯国に於いて設けられていて、中央集権的な強力な国家への脱皮を図っていたが、天下統一に伴い中国全土に施行されるのはもちろん秦が初めてである、この郡県制こそ、制度改革の中でも取り分け枢要な位置を占め、重要な歴史的意味を担うものであることは間違いない。ちなみに、天下統一に功績のあった将軍たちの名が、統一を境にほとんど歴史から消えてしまっているのは、この郡県制によるところが大きい。かつての封建制であれば、彼らは諸侯として地方に封じられ、その地で代々歴史に記録されるのが通例であった。しかし、郡県制に於いては地方の長官と軍吏とは明確に分かれる。彼らが得たのは多大な褒章のみで、民衆の一人として余生を過ごしたと考えられる。

◆功臣を諸侯に封じる制度が春秋戦国時代の幕開け
             天下統一を確実にするための制度
 春秋戦国の前時代、周の時代には封建制がとられていた。
周王は一族や諸侯に対し、主君への忠誠や軍役の対価として、世襲によって受け継がれる封土と云う土地を与えた。しかし、この制度は地方分権的であったので、次第に地方の力が強くなり、各諸侯が覇権を争う春秋戦国時代へのきっかけとなるのである。

 郡県制を施行する際、多くの郡臣たちは諸王子たちを遠方の地に王として封ずる封建制との併用を訴えた。唯一それに反対したのが李斯であった。曰く「周王朝は王子や一族に分封したが、やがて疎遠となり各地で戦争となった。諸侯を置くのは良くない」。始皇帝はこの意見を採用し郡県制を進めて行くのである。

 郡、県は、始皇帝により成立したものではない。県は春秋時代の中期から主として辺境地帯や新たに獲得された土地に設けられ、中央の直接支配を受ける直轄地となった。戦国時代になると、獲得した領土や国境地帯に侵略に備えて郡が設けられるようになる。天下を目指した秦は各国を滅ぼす過程で次々と郡を設けて行った。

 郡県制により全国が36の郡に分けられたが、それが具体的に何処を指すのかについての定説はなく、郡の数は40とも48とも言われている。36郡とは、秦の聖数とされる6の二乗数であることや、古代の人々が一つのまとまりを表すのに好んで36と云う数を用いた習慣に由来しているのではないだろうか。

     

                  秦の始皇帝 最強研究
                      史上最も偉大で 最も嫌われた皇帝の真実!


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補江総白猿伝  「唐代伝奇」

2018-04-24 03:57:19 | Weblog

時は六朝の梁の時代のこと。
平南将軍の藺欽が南方遠征に派遣された時に、別将の欧陽紇も同様に南方の長楽の地を占領し、異民族の居住地を次々に平定して行った。
ところで彼には美人の妻がおり、その妻も遠征に帯同していたのである。
土地の者はそれを知って、「この地には美女をさらう神が居ります。くれぐれも注意なさって下さい。」と忠告した。欧陽紇は忠告に従って妻に対する警護を固めたが、ある明け方に一陣の怪風が吹いたかと思うと、その時には妻は既にさらわれていた。

欧陽紇は血眼になって方々へ妻を捜し回り、数か月後にある山を捜索することにした。彼は兵士を引き連れてその山を登って行く。
すると岩窟の入り口が見つかった。
その岩窟の門の前で、女たちが歌い合ったり笑い合ったりしていた。
女たちの話を聞くと、この岩窟は白猿神の住処であり、女たちは皆彼にさらわれて来たのだと言う。欧陽紇の妻もやはり同じ様に白猿神にさらわれたのであった。
彼は岩窟に忍び込み妻との再会を果たした。
ただ白猿神は不思議な力を持っており、正面から戦いを挑めば百人がかりでも倒せない。
彼は妻や女たちと相談して策略を練る。
そして十日後の再会を約して、白猿神が戻って来ないうちに引き上げた。

十日後、欧陽紇は女たちに言われていた通りに美酒と麻、そして犬を用意して再び岩窟の入り口へとやって来た。
先ず女たちは酒を花の下に置き、犬を辺りに放した。
そして麻を寄り合わせて数本の太い紐を作った。
白猿神は犬の肉と酒が大好きで、酔っぱらうと絹の紐で自分の体を寝台に縛り付けさせ、これを引きちぎって起き上がると云う力自慢をするのだと言う。だから今回は白猿神の力で解けないぐらいの太さのひもで縛り付けてしまおうと考えたのである。そして女たちは欧陽紇に岩の陰に隠れる様に指示をした。

すると白い衣を纏い、美しい顎ヒゲを伸ばした男が、杖を着いて女たちを従えながらやって来た。これこそが白猿神の変化した姿である。
彼は犬が走り回っているのを見つけると、立所に捕まえてその肉を引き裂き、ムシャムシャと食べ始めた。
満腹になると今度は女たちに酒を勧められる。
数斗飲んだ所でフラフラになると、やはり女たちが介添えをして岩窟へと去って行った。
ひとしきり笑い声がしたかと思うと、女たちが岩窟から出て来て欧陽紇を手招きした。

そこで彼は部下と共に武器を手に取って入ってみると、正体を現した白猿神が寝台に手足を縛られ、ジタバタともがいていた。
欧陽紇と部下がその体を剣で斬りつけても、鉄か岩を打っている様に傷ひとつ付かない。しかしヘソの下を刺すと、血が一気に吹き出て来た。
白猿神は、「わしはお前にではなく、天に殺されたのだ。それにお前の妻はわしの子を身籠もっておる。だがその子を殺すでないぞ。偉大な君主に出会って一族を繁栄させるであろうからな!」と捨て台詞を残して絶命した。

岩窟の中には白猿神の残した珍奇な宝物で溢れ返っていた。
さらわれた女も三十人を数え、連れ去られてから十年経っている女もいた。だが容色の衰えた女は何処かに連れ去られ、二度と姿を現すことが無かったと言う。
白猿神は平素、人間の姿形をして木簡を読んだり剣の修業に励んだりしていた。夜は女たちと酒を飲んで遊びに耽り、怖い者無しであった。
しかしある時、溜息をついて「わしは山の神に訴えられた。いずれ死刑を宣告されるだろう。」と女たちに溢した。
更に一か月前には「わしは千歳になるのに子供が無かったが、今になって子供が出来た。きっと死期が近付いたのだ。」と涙を流して悲しんだと言う。

欧陽紇は白猿神の宝物を積み込み、女たちを引き連れて帰って行った。
そして女たちをそれぞれ里に帰してやった。
一年後に彼の妻は男の子を出産したが、その容貌はかの白猿神にソックリであった。これが欧陽詢(おうようじゅん)である。
その後欧陽紇は陳の武帝(陳覇先)に誅殺された。
欧陽詢は父の友人・江総に匿われて難を逃れた。
彼は成人してから書道家・学者として有名となり、隋に仕えた。
また、友人の李淵が唐王朝を立てると今度は唐に降り、高祖・太宗の二代に仕えた。


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葉限  「唐代伝奇」

2018-04-23 04:35:21 | Weblog

時は秦・漢の頃のこと。
南方の異民族の居住地に呉と云う洞主(洞は唐代に貴州や広西の少数民族の居住地域を指した語)がおり、人々から呉洞と呼ばれていた。
彼には二人の妻がいたが、そのうちの片方は早くに亡くなり、後に葉限(しょうげん)と云う娘が残された。
葉限は賢明な娘で、砂金を探し当てるのが上手かったので、父から可愛がられた。しかし父の呉洞が亡くなると、彼女は継母から虐められる様になった。毎日山に薪を取りに行かされ、川に水汲みに行かされたのである。

ある日葉限は川で、ヒレが赤く金色の目をした魚を捕まえた。
あまりに珍しい魚であったので、彼女はこの魚を池の中に放して飼うことにした。葉限はいつも自分の食物の余りを魚に与え、彼女が池に来ると、その魚は必ず寄って来て岸に頭を出した。
継母はその様子を見て、自分も魚に食物を与えてみるのだが、魚は一度も姿を現さなかった。
そこで継母は葉限を遠くに使いに出させ、葉限が留守の間に彼女の着物を着込み、池にやって来た。果たして魚は葉限が来たと勘違いして頭を出した。継母は隠し持っていた刀を取り出して、その瞬間に魚を斬り殺してしまった。元々魚の体長は二寸(約六センチ)であったが、その頃には成長して一丈(約三メートル)もの大魚になっていたのだ。

継母はその魚肉を食べたが、大変な美味であった。
彼女は魚の骨を汚泥の中に隠した。
何日かして、葉限は使いから帰って来ると早速池に向かったが、
いくら呼んでも魚が出て来ない。
魚が殺されたことを悟ると、葉限は嘆き悲しんだ。
そうすると突然、天から粗末な衣を身につけた神仙が舞い降りて来て娘を慰めた。「泣くのはおやめなさい。お前の母があの魚を殺したのだ。魚の骨は汚泥の下にあるから、その骨を見つけ出して部屋に持ち帰りなさい。そして欲しい物があったらその骨に祈ると良い。何でも望みがかなえられるだろう。」

葉限は神仙に言われた通りに魚の骨を持ち帰った。
骨に祈ったところ、本当に宝石や衣装など、欲しい物が出てきたのである。

さて、洞の節句の日がやって来ると、継母とその実の娘はお祭りに出掛けた。葉限は庭木の番を言いつけられていたが、骨に祈って翡翠の羽衣と金の靴を出して貰い、それらを身に付けてお祭りに出掛けた。
しかし祭りの場で継母たちに姿を見られてしまったので、慌てて家に引き返した。その時に金の靴の片方を落としてしまい、洞の人がそれを拾った。継母もその後すぐに家に戻ってみたが、葉限は庭で眠りこけていたので、他人の空似であろうと思いこんだ。

葉限たちの住む洞の隣に陀汗(だかん)と云う島国があり、
強大な軍事力でもって付近の島々を支配していた。
葉限の靴を拾った洞人は、その靴を陀汗の人に売ったが、その靴が回りまわって陀汗の王の手に入った。
金の靴は毛の様に軽く、石を踏んでも音がしない。
更に不思議なことに、国中の婦人に履かせてみたが、一人としてピッタリと履ける者が無かった。
陀汗王は「怪しげな靴だ!」と怒り、金の靴を売った洞人を捕らえて拷問したが、入手経路が分からない。

そこで陀汗王は自ら葉限たちの洞に向かい、家臣に金の靴の持ち主を捜索させた。家臣は懸命の捜索の結果、葉限が靴の持ち主であると突き止めた。果たして彼女に金の靴を履かせてみると、大きさがピッタリであった。葉限は翡翠の羽衣と金の靴を身に付けて陀汗王に目通りし、事の次第を説明した。
陀汗王は彼女の天女の様な美貌に惚れ込み、かの魚の骨と葉限を国に連れ帰り、彼女を第一夫人とした。継母と娘は石打ちの刑で処刑されたが、
洞の人たちに因って塚に葬られた。
後にこの塚で祭祀を行い、女の子が欲しいと祈願すれば、
必ず女の子を授かったと云う。

陀汗王は欲に駆られ、何回も骨に祈願して宝石を出させたが、
一年もすると効力がなくなってしまった。
そこで王は骨を多くの金や真珠とともに海辺近くに葬った。

後に徴側・徴弐の姉妹が反乱を起こした時に、徴姉妹は交趾(現在のベトナム)の現地人で、後漢の光武帝の時代に反乱を起こして王となったが(馬援によって討伐された)、これを掘り出して軍資金にしようとした。
しかし、ある晩に、魚の骨は金や真珠と共に大きな波にさらわれ、海中深くに沈んでしまった。


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悪さをするわけではなくただ首が伸びる ろくろッ首と離魂病

2018-04-22 02:27:48 | Weblog

 原仁右衛門は越前国敦賀(福井県敦賀市)の人で、私(橘南谿)は永年の間懇意にしている。
この仁右衛門が用事があって、数ヶ月の間京都へ行っていた留守の出来事だった。妻女のお千代さんは、二歳になる岩助と云う子どもと下女の三人暮らしとなったが、主人が留守で淋しいと言って、もう一人、二十六、七歳の下女を雇い入れて留守を守ることになった。寛政元年(1789)十月のことである。
ある夜更け、臨時に雇い入れた下女が、しきりに呻くので、妻女は眼を覚まし、その下女が昼間、痰の絡む癖があったのを思い出し、眠っていて痰が絡んで苦しんでいるのか、と心配になった。
子どもを抱きかかえて有明行灯に火を入れ、下女の寝ている次の間の障子を開けると、下女の枕元に置かれた小屏風の下方に、何か丸いものが動いている。何だろうと有明行灯を振り向けて見ると、下女の引っ詰め髪の下の首が、屏風の上に向かって一、二尺(30~60㌢)づつ登って行っては落ち、また登って行っては落ちる様が見られた。妻女は肝を潰し、今にも気を失いかけたが、子どもを抱いていた為、気を強く持ち、そのまま暫く無言のまま居座っていた。その首は何度となく屏風に取り付いて登っては落ちる動きを繰り返していたが、遂に屏風を超えて中に入った。するとまた下女は呻き始めた。妻女は下女を起こすこともできぬまま、障子を閉め、また寝床に入り、布団を被って夜の明けるまで慄えていた。夜の明けるのを待ちかねて、自分の実家の大坂屋へ、もう一人の下女を使いに出し、兄の長三郎に来てもらって、昨夜の出来事を話し、他のことにかこつけて、その下女は解雇するよう計らってもらった。その下女は近くの町に住んでいる者なので、世間の評判にならぬよう、もう一人の以前から居る下女にも、この話は聞かせなかった。
妻女はその後、京都に移り住むことになったので、私は時かにその経緯を妻女から聞いた。夢幻ではなく実際にろくろッ首を見たのだと言うから、奇怪なこともあるものだ。後に、この事件をあれこれと考えてみたが、この下女は妖怪ではなく、病気だったのではあるまいか。痰の多い人は陽の気が頭に昇る為、その気が形をなして首の上に出たのであろう。離魂病の一種と考えられる。

 宝暦の頃(1751~1764)、神田佐柄木町(東京都千代田区神田司町二丁目)の裏店に、貸本屋をやって暮らしていた男が居たが、この男、不思議な幸運に恵まれた。
その頃、遠州気賀(静岡県浜松市北区)の近くに裕福な百姓がいた。田地も六十石余持ち、下男下女も抱えていた。娘が一人いて、この娘、十六の春も過ごし、器量よしであった。あちこちへ聟(むこ)の相談を持ちかけるのだが、いつまで経っても話がまとまらない。父母は嘆くのだが、実はその娘はろくろッ首であるとの噂が近在近郷に流れている為、誰も聟に成ろうと言う者がない。父や母はその噂を伝え聞いて、当の娘に尋ねてみたところ、「そう云えば、たまに山や河を見て廻る夢を見ます。そう云う時は私の首が抜けて出るのかしら」との返事であった。
さあ、いよいよろくろッ首娘の評判が高くなり、聟の来てはなく、富豪の家も断絶かと、父母は嘆き悲しんだ。
この娘の伯父は毎年江戸へ商いの為出て来るので、江戸でこの養子話をあちこちで持ちかけた。宿屋では退屈紛れの貸本屋を呼んだ。この貸本屋が年格好も良し、気に入ったので、話をしてみた。聟入りの支度も要らぬ、娘は器量よしで、と話を進めたところ、「そんなに良いこと尽くめでは、何か他に訳があるのでは?」との問いに、伯父も意を決して。「いや、別に仔細は無いのだが、ただろくろッ首と云うあらぬ評判が立った娘で.....」と打ち明けて話した。すると若者は、「ろくろッ首なんてあるわけありません、いえ、喩えろくろッ首だとしても怖がることはないでしょう。結構です、聟に成りましょう」と言い切った。
その貸本屋の若者は、それでも少しは迷ったのか、知人の森伊勢屋と云う古着屋の番頭に相談したところ、この森伊勢屋も、「喩えそんな病気があったとしても別にいいじゃないか。貸本屋で一生送るのと、どっちがいい?」と励ましたので、若者はいよいよ決意を固めた。伯父は大喜びで、衣類、脇差、荷駄などを調えてやり、同行して帰村した。養父母となった人も大いに歓迎、婚儀もめでたく済んで、その後ろくろッ首の怪異などなく、夫婦めでたく暮らしていると言う。
予(根岸鎮衛)はその後十年を経て、森伊勢屋の番頭から、この話を聞いた。

画像 飛頭蛮と書いて「ろくろくび」と読ませている
        『画図百鬼夜行 飛頭蛮』(国立国会図書館蔵)

  『北斎漫画 轆轤首』

  『狂歌百物語 離魂病』

  『列国怪談聞書帖 ろくろ首』

  『暁斎百図』(国立国会図書館蔵)

                 

                            江戸時代 怪奇事件ファイル


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中国を創った始皇帝の統一事業

2018-04-21 04:48:43 | Weblog

中国を統一した始皇帝は、数々の統一事業を行う。
それは国民の疲弊を招き、結果的に秦を滅亡させる要因になるのだが、
後世に遺したものもまた大きかった。
****************************************************************************...

たった2文字に込められた意味 統一の偉業を称え皇帝を号す

◆初めて皇帝を号す
 紀元前221年、東方の6王を抑え天下を統一した始皇帝の最初の仕事は、君主自身の称号を改めることであった。
統一時点での始皇帝の称号は、言うまでもなく「王」であったが、それは彼が秦王として代々受け継いで来た称号でしかない。その当時知られる限りの世界を統べる支配者になったのだから、それに相応しい称号がなければ為らぬ、と言うのである。
そこで始皇帝は大臣たちに「王」に代わる称号を案出するよう命じるのである。始皇帝の功績は、千里を支配した古の五帝の治世を超えるものであるから、大臣たちはそれに相応しい称号を探すことになった。そして古典の中から探し出した天皇、地皇、秦皇の称号から最も尊いものである秦皇と云う称号を提出した。
秦とは秦一、天や地の神々よりも上の天帝を指すのである。
しかし、始皇帝はこれを退けて、秦皇の皇の字と、上古の五帝の帝の字を合わせて「皇帝」とした。ここに見える「皇」とは、元々「王」に通じる文字だが、光り輝くと云う形容詞として用いられた。始皇帝は天の中心に存在する天帝に対して、自らは地上世界の中心に位置する権威を求め、あくまで「帝」の字にこだわり、これを修飾する言葉を探していたのだ。地上の「皇」と天の「帝」を組み合わせた皇帝と云う称号は、さしずめ、『天地を貫く王の中の王』と云う意味になろうか。
この「皇帝」の称号は、同時に採用された詔(命令)、朕(自称)と共に、以後2000年に渡り、中国に於ける最高君主を示す正式称号として、途絶えることなく使われ続けたのである。

◆王でも帝でも皇でもなく皇帝を号したのは何故か
 始皇帝だけが皇帝の名に相応しかった........

  秦が中国を統一した時代、当時の人々の意識の中に「皇.....帝.....王.....候」と連なる尊号の序列が存在した。周王朝の天子は「王」を称号としたが、周王朝の権威の失墜に伴い、春秋時代には南方の君主たちが「王」を自称するようになる。更に戦国時代には中原の諸侯国もすべて王を自称するようになるのである。

 有力君主の中には、始皇帝に先立ち「帝」を称する者が現れる。政(始皇帝)の曽祖父にあたる昭襄王と斉の湣王(びんおう)が、それぞれ西帝、東帝を称した。しかし、斉の湣王が僅か3日で帝号を称することを止め、ついて昭王も元の称号に戻した。帝号を称する実力はまだ具わらず、天下の信望を失うことを恐れた為と言われている。

 太古の中国を統治した五人の聖天子を「五帝」と呼ぶ。『史記』によれば五帝とは黄帝・顓頊・帝嚳・尭・舜とされるが伝説上のことである。政の功績は五帝の治めた四方千里よりも広いものであり、天下を統一した。そこで「帝」よりも上の、これもまた伝説上の三皇から「皇」の字をとり「皇帝」を自称したのである。

 皇帝となった政は諡(おくりな)を廃止し、自らを始皇帝、つまり一世皇帝と呼び、それ以後、二世皇帝、三世皇帝と呼ぶようにし、王朝の不滅を願い、千世、万世に至るまで無窮に伝えるよう命じた。従来であれば王の死後、生前の行いを考慮してそれに相応しい名を贈ることが慣習であったが、政はそれを謂われのないこととして禁じている。

        


                  秦の始皇帝 最強研究
                              史上最も偉大で 最も嫌われた皇帝の真実!


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日本人韓志和 ものがたり唐代伝奇 陳 舜臣

2018-04-21 04:45:10 | Weblog

同じ『杜陽雑編』の中に、もう一篇日本人の登場する話がある。

時代は穆宗の治世と云うから、八二一~八二四年で、日本は嵯峨天皇から淳和天皇にかけての平安期であった。
飛竜衛の衛士韓志和は、元倭国の人であったと書き始められている。
倭とは日本のことである。
古代日本は文字がなかったので、中国が名付けて選んだ「倭」の字を、日本自身でも用いていた。大化の改新頃から、対外的に倭を廃して「日本」の国号を使う様になった。
しかし、日本の使節は唐へ行っても、国号変更の事情について、あまりハッキリした説明はしなかった様だ。
『唐書』にも、日が出る所に近いのでそう呼んだと云う説と、
倭が日本と云う小国を合併して、その名が気に入ったので取り上げたと云う両説を紹介している。
唐末になっても、日本と云う正式の呼称の他、従来の「倭」も使われていたのに違いない。
この『杜陽雑編』と云う書物の中でも、前途の碁の名手の話では、「日本国王子」となっていて、ここでは「倭国人」と記している。

飛竜衛は近衛師団であり、衛士と云うからには将校であろう。
唐では外国人が官吏や軍人になるのは当然のことで、誰も怪しまないのである。日本から遣唐使で渡った人たちで、唐の役人になった人も居た。
阿倍仲麻呂がその名を晁衡(ちょうこう)と改めて、玄宗朝で秘書監にまで昇進したのは有名な史実である。藤原清河も、自分の名前をひっくり返して、河清と改名して唐の官界で昇進し、死後、第都督の位を追贈されている。
遣唐使は多い時で一航海六百名を数えたのであるから、その一行の随行員たちが、唐に着いた後そこに居ついて士官した例も、決して少なくないだろう。

時期的に云えば、この日本人韓志和は、最澄や空海に随行した人物かも知れない。韓志和には特技があった。
「彫木」に巧みであったと云うのだ。木を彫って、鸞・鶴・烏・鵲などを作るのだが、その作品はまるで生きている様に、物を突いたり、悲しげに鳴いたりした。腹の中にゼンマイをふじて仕込むので、それらの鳥は雲を凌いで飛び上がり、百尺ほどの高さを、一、二百まで飛んでから降りる。
「歩」は長さの単位で、一歩は約1.5メートルだから、韓志和の彫った鳥は三百メートルぐらいは飛んだのである。

この事を皇帝に言上した者がいて、韓志和の作品は「天覧」に供せられたが、彼は更に「見竜床」と云う物を制作して、皇帝に献上した。
これは高さ数尺の踏み台だが、その上に金銀や綾絹の飾りが施してある。
それを見るだけでは「竜」は現れない。踏み台の上にのぼると、竜の鱗や鬣、それに爪や牙までが、ありありと見えるのだ。
献上された時、皇帝がそこに足を乗せると、竜はノッソリと動き出し、雲雨を得た様な姿になった。
穆宗はあまり大胆ではない。唐も玄宗の後は、スケールの大きな帝王は出なかった。竜が動くのを見た穆宗は、「おそろしや、おそろしや・・・」と、慌てて台から降り、「これはおそろしいものじゃ。もうあっちへ持って行け!」と、左右の者に命じた。
ずい分だらしのない皇帝である。
韓志和はその場に平伏した。
皇帝のご機嫌を損じたなら、その場で打ち首、と云った時代である。
「臣は愚か者で御座いました。その為に陛下の御心を乱して奉り、申し訳御座いません。つきましては、他の拙い技をお目にかけ、至尊の耳目を楽しませ、それで死罪を償いたいと存じます」命の瀬戸際であるから、韓志和も必死であった。額に汗を滲ませていた。
この時、彼の脳裏に、長く離れた故国の山河が、かすめたかも知れない。
たたなづく青垣山。・・・うるわしのやまと!
だが、彼は己の技に自信があった。
思わぬ事で皇帝の機嫌を損じたが、それを技で挽回するのだ。
「ほう、それはどんな技じゃな?朕に見せてみぃ」と、皇帝は笑いながら言った。
韓志和は、あらかじめそれを用意して来たのである。
見竜床と並んで、彼の最高傑作の人一つであった「蠅虎子」。
これは一名蠅豹とも言い、蜘蛛の一種である。跳び上がって蠅を取る。
蠅取り蜘蛛とでも謂おうか。
彼は懐から桐の箱を取り出したが、その蠅虎子が中に入っていたのである。数は百や二百ではなかった。その色は赤かったが、丹砂を餌にしているからだと云う。丹砂とは水銀と硫黄の化合物である。即ち鉱物だが、中国では鉱物こそ仙界の食べ物であるとされていた。
人間は普通植物か動物を食べる。植物はいつかは枯れるし、動物もいつかは死ぬものなのだ。有限の生命を持つ物だが、そんなのを食べるから、人間の生命も限りがあるのである。枯れもしなければ死にもしないのは鉱物だから、これこそ不老不死の仙人の食べるに相応しいものではないか。
仙人の食料を餌にした蠅取り蜘蛛の群れは、韓志和の命令で五列に並び、
当時全中国に流行していた「涼州の舞」を舞った。
穆宗が室内オーケストラに演奏させると、蠅取り蜘蛛は、ちゃんとそれに合わせて踊るのだった。オペラのところでは、そう云えば蠅の唸り声めいた声を上げ、曲が終わると、みんなゾロゾロと箱の中に戻って行く。
どうやら彼らの中にも階級がある様だった。
韓志和は自分の手にその蠅取り蜘蛛を乗せたところ、大分遠くにいる蠅に踊りかかること、まるで鷹が雀を捕まえる様で、仕損じることがなかった。
穆宗はそれを見て、「些か観るべきところがあった」と褒めた。
「些か」と云う副詞が入っているのは、帝王のプライドが言わせたに違いない。生まれて初めて見る、不思議な技であるが、あまりそれに感心していては、皇帝の沽券に関わる。
もっと霊妙不可思議な物に、いつも接している様な顔をしなければ為らない。
皇帝は辛いのである。
褒めた以上、褒美を与えねばならない。色んな飾りを施した銀椀を下賜された。韓志和は宮殿から出ると、貰った褒美の品を、惜しげもなく、他人にくれてやった。褒美としては、銀椀は大した物ではない。帝王にプライドがあれば、韓志和にもプライドがある。己の技が、こんな物にしか値しないとは思わない。彼は自分で自分の技を、もっと高く買っている。
だから、それをばら撒いたのだ。

一年も経たぬうちに、韓志和は何処へ行ったのか、分らなくなった。
手先が器用で、プライドが高い。
考えてみれば、韓志和は日本的性格を間違いなく備えた人物ではないか。

同じ『杜陽雑編』に、宮殿の宝庫の黄金や珠玉が、蜘蛛になって宮中を飛び回った話が紹介されている。韓志和の話と続いているので、同じ物語の一部と見られる事もある様だ。しかし、この繋がりは弱く、恐らく別々の二つの物語であろう。


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ものがたり唐代伝奇 陳 舜臣  「日本人韓志和より」

2018-04-21 04:43:10 | Weblog

蘇鶚の『杜陽雑編』と云う本に、碁の上手な日本の王子が大中年間に来朝して、顧師言と云う碁の名人と対局した話を載せている。
大中年間と云えば、西暦八四七~八五九年であって、この間日本から正式の遣唐使は行っていない。

漢代の碁盤は十七道二八九路であったのが、唐代に十八道三二四路から現在の十九道三六一路に増やした。だから、大中年間の碁は現在のそれと全く同じのはずである。ただ中国の囲碁は、黒白交互に四子を四隅に置き、
これを四柱と称している。対局前に盤上に四つの石が置かれる点、日本とはちょっと違う。しかし、日本の碁でも、最初は四隅に石を打つことから始まるので、実質的には同じと言って良い。

さて、日本の王子は大そう強かったが、顧師言も唐のナンバー・ワンの面目にかけて、慎重に打ち、ようやくのことで勝った。
「顧先生は唐で何番目に強いのですか?」と日本の王子は聞いた。
「三番目です」と鴻臚卿は答えた。実は唐最高の名手なのだが、わざとそう言ったのだ。鴻臚卿は外国の使節を招待する責任者である。外国人には、風呂敷を広げる方が、外交上有効であると思っていたのかも知れない。日本の王子は、碁盤を仕舞いながら、溜息をついて、
「小国最高の棋士も、大国第三位の者に及ばぬのだなぁ・・・」と言った。

この物語は、小国を馬鹿にした様に見えるかも知れない。
しかし、大国の唐は、実はトップの棋士を以て、小国最高位の棋士と戦い、ようやく勝ったのである。第三位であると鴻臚卿が嘘をついたのも、接戦をしたので、ちょっとイイ恰好をし様としたのに違いない。

このエピソードは裏返して言えば、
ーーー小国ではあるが、日本も中々やるではないか。
と、褒めていると見て良い。


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カトリーヌ・ド・メディシス (1519~1589)サン・バルテルミーの虐殺を引き起こした女首謀者

2018-04-20 03:48:32 | Weblog

カトリーヌ・ド・メディシスが、イタリアのメディチ家からフランス王室に嫁いだ頃は、ルネサンスが最後の輝きを見せていた時代で、また、宗教改革で旧教と新教との対立が兆した時代でもあった。フィレンツェの金融業者として家を興し、芸術家のパトロンとして名を馳せ、遂にはローマ教皇を輩出するまでになったメディチの家系は、彼女の結婚に因ってヨーロッパ王家へと血脈が繋がったのである。...

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「異国の地で苛まれる」
 カトリーヌの結婚は、謂わば政略結婚だった。
フランスがイタリアの領土を狙った戦争が繰り返される中、フランスの第二王子とイタリアの名家令嬢との縁組は、フランスにとってもローマ教皇にとっても都合の良いことだったのだ。この時彼女は十四歳、相手のアンリ王子も同じ年だった。

カトリーヌの結婚はメディチ家の財力を背景に、多額の持参金や大勢の従者を連れた華やかなものだったが、結婚生活は決して幸せなものではなかった。幼い二人の結婚を危ぶんだフランス国王が、王子に年上女性の性教育係をつけたからだ。
王子はその女に夢中になり、二人の関係は第一王子の死去に因り、
彼がアンリ二世として王位に就いてからも続く。
夫婦の性生活は義務的なものとなり、子は儲けたものの一人の女として顧みられることの無かったカトリーヌの結婚生活は、王妃と云う身分とは裏腹の孤独なものだった。
彼女の慰めは、好きな神秘学や妖術を楽しむ為に集まって来る占星術師や預言者、妖術師たちとの交流しかなかった。

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「サン・バルテルミーの虐殺を引き起こす」
 カトリーヌがそんな孤独から解放されるのは、一五五九年、夫アンリの不慮の死に因ってだった。彼女の娘とスペイン国王フェリペ二世との結婚が決まった直後、十五歳になった長男がフランソワ二世として即位すると、
カトリーヌはその摂政となる。王妃と云う陰の存在から、政治の表舞台への登場を余儀なくされたわけだ。
ところが、フランソワ二世がスコットランド王室の血を受け継いだメアリー・スチュアートを妻に迎えると、これが宮廷に混乱を招く。
メアリーの叔父であるギーズ公が外戚として政治に口を出し始め、旧教派の彼は、当時宮廷にも進出していた新教派への弾圧を強めた為に、反ギーズ運動が起こったのだ。
これでは当然、政情は不安定にならざるを得なかったが、やがて、フランソワ二世が即位僅か一年で病死すると、カトリーヌは十歳の弟をシャルル九世として即位させ、ギーズ公から政治に口出しをする場を奪った。
だが、それでも新教派の勢いは止められなかった。
カトリーヌは、新教派と旧教派の対立を利用して権力を保とうとしたが、その効果が無いと判ると宥和策に転換する。
新教派であるブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルに、娘のマルグリットを嫁がせることにしたのだ。しかしこの陰で、新教派の指導者コリニー提督がシャルル九世に働きかけて、旧教国であるスペインとの戦争を画策しようとしていた。
カトリーヌはこれを察知すると、直ぐに提督を暗殺させようとしたが、結果的に怪我をさせるだけにとどまった。そうなると怖いのは、新教派に因る王室への報復である。そこで彼女は、マルグリットの結婚式当日、新教派貴族を一斉に襲わせると云う行動に出るが、結婚を祝う為にパリを訪れていた市民たちも例外ではなかった。
宮殿の庭は真っ赤な血に染まり、死者の数は三〇〇〇人にも及んだ。
また、王室への報復に力を得た旧教派の国民までもが新教派の家を襲うなど、一般庶民にまで波及した、この「サン・バルテルミーの虐殺」の被害者は、一説にはフランス全土で五万人とも云われる。
そして、カトリーヌはその切欠を作ったことから、悪女の代表格の様に言われることになった。
更に、夫のアンリをはじめ、息子たちが次々と早死にしたのは、カトリーヌの故郷であるイタリアの伝統とも云える毒薬を、彼女がフランスに持ち込んで使った結果ではないかと云う説も囁かれ、悪女説に益々拍車がかかって行った。

              


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