◆地道な社会インフラを整備
郡県制により、中国大陸を強大な中央集権国家へと変貌させた始皇帝は、紀元前221年、次の事業として度量衡、車軌、文字の統一を計った。度量衡と云うものは流通、交易や税の徴収などに於いて非常に重要な意味を持っている。また、道路が土であった時代、車軌道の幅が様々だと轍は多数に及び、交通がマヒしてしまう。互いに争っていた戦国七国の間では、度量衡の単位や車馬の轍の幅、文字の形はもちろん異なり、統一国家としては不便であり、統一が急がれた。この事業により、尺寸(長さ)、石斤両(重さ)、斗升(容積)の尺度、小篆や隷書と云う文字が統一規格となった。しかし、これらは七国で使われていたものを平均して新たな規格を作ったのではなく、秦が旧来使っていたものを踏襲したのであった。そしてこの規格統一はこの年に一気に実施されたものではなく、戦国時代から秦の占領地に於いて徐々に定着されて行ったものであった。また、この新規格の使用者は、一般庶民ではなく官吏であり、工人であった。つまり新規格を管理する者と製品を作る者であり、度量衡の規格は厳しく管理され、違反を犯すと厳しい処罰を受けた。
◆4度の暗殺の危機も乗り切ったが..... 絶対者も天命には適わなかった
始皇帝はまた、秦を基準に貨幣の統一も行おうとした。当時、斉や燕の東方諸国ではナイフ形の刀銭、黄河中流域の諸国では鍬形の布銭、南方の楚では卵形の蟻鼻銭など、重量、形状を異にする様々な貨幣が使われていた。秦は、半両銭と呼ばれる中央に四角い穴の開いた円形の貨幣を統一貨幣にし、二世皇帝の時に大量発行したのである。
秦の公式文字となった小篆は、周の太史が考案した大篆を李斯が改良したものだとされている。小篆は統一された国家の象徴として様々な公的証明書に用いられたが、事務処理を行う地方の官吏にとって複雑な形であり、書くのが困難であった。これにより小篆は簡素化され、後の時代まで使われる隷書が誕生するのである。
ペルシャ帝国の王の道やローマ帝国の街道など、古代帝国に於いて道路網の整備とは非常に重要なものであった。それは、軍隊の移動、物品の流通を迅速なものにした。秦では都咸陽から放射状に馳道と云う国有道路が整備された。この馳道は三車線に分かれ、中央は皇帝専用であり、それ以外の車馬はその両側を走った。
始皇帝が天下を統一する100年以上も前、秦が一躍強国の一つになったのは、商鞅が行った富国強兵を基礎としている。商鞅は商鞅変法と言われる国政改革を断行するが、その一環で商鞅方升と呼ばれる升を作り、既に度量衡の統一は行われていた。始皇帝は、変法以来秦で用いられていたこの単位を受け継ぎ、全国に布告する。
*画像
「大篆」と呼ばれた石鼓文。
まだ、文字を揃えてきれいに書くと言った文化がなかった時代。
ちなみに、この頃の日本は縄文~弥生時代だった。
「廿六年詔権量銘」全文
始皇帝26年(紀元前221年)、度量衡や文字の統一を行なった秦は、
その証明文を小篆を用いて度量衡の標準器の本体や証明用の銅板に刻んだ。
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