Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

討ち入り成功の為の費用 約9758万円 忠臣蔵を成功に導いた 赤穂藩家老のマネジメント能力

2017-07-31 11:50:33 | Weblog


*江戸城の中で起こった「松の廊下」の刃傷事件

主君思いの家臣が主君の仇を討った忠臣蔵の話は、映画やテレビドラマを通じて現代に語り継がれている。
この忠臣蔵は「忠孝」の物語として名高いが、その裏には家老・大石内蔵助の懸命な資金繰りがあった。そもそもは、
元禄14(1701)年3月14日、江戸城中「松の廊下」での刃傷事件に始まる。
この日、江戸城では朝廷からの勅使を迎えて儀式が行なわれることになっていた。
将軍・綱吉の生母である桂昌院に従一位と云う位を授ける儀式である。
勅使の接待役を務めたのは、赤穂藩(現・兵庫県)の殿様・浅野内匠頭。この浅野内匠頭が儀式の直前、「この間の遺恨を覚えているか」と叫びながら指導役を務めていた吉良上野介に斬りかかったのだ。
理由は諸説あり、浅野内匠頭に対して吉良上野介が予てから嫌がらせをしていた為とも、
塩の専売に関する秘密があった為だとも謂われている。
吉良上野介の命に別状はなかったが、母の大事な日にこの様な事件を起こされた綱吉は激怒。
浅野内匠頭は即日切腹を命じられ、赤穂藩も取り潰されることになった。
赤穂藩家老の大石内蔵助は、お家再興を働きかけるが叶わない。
家臣の間には、主君の仇を討つべきだとの声が高まって来る。そして元禄15(1702)年12月14日未明、大石内蔵助に率いられた四十七士が両国松坂町の吉良屋敷へ討ち入った。
2時間の激闘の末、吉良上野介の首を取った四十七士は主君の眠る高輪・泉岳寺まで凱旋し、墓前に首を供えた。
翌年2月、全員が名誉ある切腹を命ぜられ、四十七士は義士となった。
これが、忠臣蔵の話のあらましである。
そして赤穂藩取り潰しから討ち入りまでの資金を遣り繰りしたのが、家老の大石内蔵助だった。

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*徹底した予算管理で討ち入りプロジェクト完遂

討ち入りの2週間ほど前、大石内蔵助は浅野内匠頭の妻だった瑤泉院に「預置候金銀請払帳」と云う詳細な会計報告書を出している。この内容を中心に、討ち入りまでの費用を見てみよう。
大石内蔵助は先ず、紙くずになりかねない藩札(藩の中だけで通用する紙幣)を現金化した。
それと瑤泉院の化粧料(持参金)などが、取り潰しの時に赤穂藩にあったおカネである。総額は約690両(約9660万円)。これが、討ち入りまでのプロジェクトの予算である。ここからかなりの支出がある。浪士が移動する為の旅費が総計248両(約3472万円)。江戸での家賃が約70両(約980万円)。討入装備品が約12両(約168万円)。生活費に困った浪士への補助には約132両(約1848万円)を要している。こうした支出の総計が、約697両(約9758万円)。
7両(約98万円)ほど足りないが、これは大石内蔵助が自腹を切って埋め合わせたと謂う。
浪士の生活が成り立つ様に配慮しつつ、約1億円ほどの資金を適切に使って討ち入りに備えた。
この様な大石内蔵助の手腕がなければ、討ち入りは成功しなかっただろう。

      

       








                                                     おカネでわかる世界の事件史
                                                          なんて素敵な江戸ビンボー生活
                                                                   赤穂浪士の討ち入り費用





「Mayumiさんの投稿は面白い♡
民族的な差別意識がなく『 よいものよい♪ 』を貫かれている様で素敵で御座る‥(〃'▽'〃)♡
投稿心待ちにしております‥(*⌒人⌒*)カンシャ・カンシャ♪」

昨日、私に対しての返信コメント、或いは印象と云うか、普段から思っていることとして、こんなコメントをいただきました。
嬉しいなぁ~。
何せ私は男でも女であっても、噂話好き、政治や政治家、色んなこのご時世のこと等々を、
あたかも見識深き者を装い、軽薄な物言いの人物が大嫌いなのです。
たとえ、何処に行こうとも、必ず一人はそんな風な人がいます。
過ぎたこととは云え、浮かぶ顔って片手に余る数人はいますが、おそらくはロクなことには成ってはいまいと思う。
そんな怪しげな者らのことより大切なことは、心して自身を戒めて行くこと。
また、どんなに心細く、寂しくあろうと、絶対に付き合おうとはしないと決めてもいる。
ただ不可抗力で一緒の場に居なきゃならないとするなら、何と言われ様が、徹底して無視をする。
それと、対人は最初の一目でほとんど相性が決まってしまう。
何処の国の人とか民族だとか、関係なく話しができますし。
一番嫌なヤツが多いと思うのは、返す返すも日本人。

ネット上じゃ、民族を差別侮蔑するのを大得意とする、特に男のオバサンが多いです。
無能とか、寂しさも度を越せば、いい年をしながら本当にみっとも無いもの.....。
いただいたコメントじゃ、私にはいっさいそう云う汚点がないと云うこと。


 


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露草が咲く、清々しい朝となりました。(人∪`*)

2017-07-30 06:46:26 | Weblog

露草 Commelina communis 懐かしい関係

花言葉の「懐かしい関係」は、この植物の学名の基になった伯父と甥のコメリンが二人ともアムステルダム薬草園の園長だったことにちなむとも言われています。

古くから日本人に親しまれた露草(古名では「つきくさ(月草・鴨頭草)」)は、『万葉集』にも詠われています。
朝咲いた花が昼しぼむことから、儚さの象徴として詠まれたものが多いようです。

朝露に 咲きすさびたる つき草の 日くたつなへに 消ぬべく思ほゆ

朝咲き 夕は消ぬる つき草の 消ぬべき戀も 吾はするかも


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キューバの英雄カストロに隠し財産が!?

2017-07-30 05:46:02 | Weblog



米誌「フォーブス」は2006年に世界各国の君主・指導者の長者番付を発表している。
1位、サウジアラビアのアブドラ国王。総資産およそ2兆4150億円。2位、ブルネイ・ボルキア国王、およそ2兆3000億円。
3位、アラブ首長国連邦のハリファ大統領、およそ2兆1850億円。4位、アラブ首長国連邦ドバイのマクトム首長、およそ1兆6100億円。ここまでは、中東の石油王たちがズラリと並ぶ。
その後5位にリヒテンシュタイン公国のアダム2世。6位にモナコ公国のアルベール2世とヨーロッパの王族たち。

そして目を疑ったのが、7位だ。
キューバのフィデル・カストロ議長が、総資産およそ1035億円と長者番付に名前を連ねているではないか。
噂によるとカストロ議長はかのスイス銀行に口座を持ち、多額の隠し財産があるとも謂われているが、
当の本人は、「私の口座が海外にあって1㌦でも預けてあると証明するなら、議長を辞める」と語ったとか。
英雄の言うことを信じたいものだが。

             

            


                                                        おカネでわかる世界の事件史 Column

      

*この本は2013年3月に初版されたものです。


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加賀前田藩の参勤交代費用 総額5億7000万円以上 参勤交代で大名行列の費用は藩財政の5割を超えるのが普通

2017-07-29 13:35:24 | Weblog

 

*2000人以上の大名行列を190回も行なっていた加賀藩

一見華やかな大名行列として見られている参勤交代だが、その実、大変な裏事情があった様だ。
元々参勤交代の制度は、おカネを消費させ各藩の財力を削ぎ、幕府への反抗を抑える役割りもあった。
その為、当時の藩財政は、参勤の年は五~六割を参勤交代の費用で使い、二割位を江戸の生活費、残りの二割が国元での政治や生活の費用になっていた。

特に日本一の大藩である加賀藩の参勤交代は約2000人から4000人規模の大人数での移動となる。
それだけの大人数での移動に際し、莫大な経費が計上されていた。
加賀百万石に恥じない様な伝統と格式に裏付けされた華やかな大名行列は、沿道の庶民に藩と幕府の権威を示したのだった。
寛永12(1635)年~文久2(1862)年の227年間、加賀藩では参勤93回、交代97回の合計190回の大名行列が実施されている。行列は総距離120里(約480㌔)を、1日平均10里(40㌔)を行進した。所要日数は最短で6泊7日、最長で18泊19日の記録がある。平均的には12~13泊の旅程だった。宿泊場所も一度に2000人以上を宿泊させる場所など当時はなかった為、事前に予約し周囲の民家、寺なども宿泊場所としていた。また、川を渡る場合に氾濫などで足止めをされた時などは、予約していた宿泊所へ予約延期の連絡をしなければならない。ちなみに、参勤者2000人と馬200頭が12泊する為に支払わなければならない金額は約1億9950万円だった。

また金沢から北国下街道で江戸へ達するまでに、5m以上の川幅の河川が84流れており、その内38の河川には橋が架けられていなかった。例えば富士川の川銭に各24文(約500円)、川越え人足の肩車で渡る安部川で各64文(約1300円)、大井川では蓮台に乗って240文(約4800円)、善光寺の南を流れる犀川の川越えを47文とする記録がある。2000人渡れば9万4000文。馬は120文にして200頭だと2万4000文。合計11万8000文で、現在の通貨で直すと236万円の計算になる。川越え費用だけでも約8900万円である。

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*金沢名物の金箔伝統工芸品も参勤交代の進物用に作られた

参勤交代で江戸に着いても、将軍とその世子、奥方への献上品、老中をはじめとする幕府要人への贈答品が必要になる。
「御老中並びに御側衆などへの御進物判金百枚の御召上代、但し判金一枚は二拾二両二歩なり」とある。
判金とは大判・小判の事だが進物判金と断りがあるのは大判の事。大判は10両なので1両小判10枚分。
これは幕府の最高権力者への贈答品なので、市場に出回っている10両大判ではなく、特別に鋳造させた1枚が22両2歩。即ち22.5両の価値を持った特注大判である。この「判金百枚」は2250両になり、現在の1両=10万円に換算すると2億2500万円になる。この江戸時代の将軍並びに奥方様、或いは側近の重臣の方々への贈答品を献上する事の重大さを重んじた加賀藩は、自分の領地で貢物を製作する事を考えた。現在でも続いている金箔工芸、象嵌、蒔絵、漆器工芸に焼物陶芸など伝統工芸の数々は、その名残なのである。

画像・華麗な大名行列
   加賀前田藩の江戸屋敷の門(現在の東京大学赤門)

   

   





                                        おカネでわかる世界の事件史
                                             日本はおカネで出来ている、日本史の収支決算
                                                          加賀百万石前田藩の大名行列の費用


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西太后 (1835~1908年) 清(現・中国) 策謀の果てに権力の座を獲得した女暴君

2017-07-28 11:36:38 | Weblog


清の第9代皇帝・咸豊帝(文宗)の后にして、「中国3大悪女」の一人にも数えられる西太后。咸豊帝の没後、約50年に渡って清朝に君臨し続けた、独裁的な権力者である。

元々は中流家庭の出で、本名は「欄児」と云う。后選定制度で選ばれて後宮に上がったのだが、若い頃から権力への執着心が強く、1856年に男児を生んで、皇后に次ぐ地位にまで伸し上がる。そして、正室の慈安皇太后が「東太后」と称されていたのに対して「西太后」と呼ばれる様になったのだ。皇太子の出産後、西太后の野望は更に顕著となる。読み書きができる上に男勝りな性格から、咸豊帝を差し置いて、どんどん政治に口を出す様になって行く。そして1861年、咸豊帝が崩御すると、西太后は5歳の息子を同治帝として即位させ、幼い帝を操って政治の実験を握る「垂簾政治」を始めたのだ。咸豊帝は生前に西太后が権力を牛耳ることを案じ「幼帝の補佐として8人の大臣が必要である」との遺命を残したが、彼女は咸豊帝の弟・恭親王と手を組み、従来の大臣たちを処刑、或いは自害させた。その上、その恭親王に対しても更に謀を企て、後に追放に追いやっている。

18歳の若さで同治帝が崩御すると、今度は実の妹の子どもを、わずか3歳で光緒帝として即位させる。恐ろしいことに、西太后は光緒帝が成長して行くにつれて立場が覆されるのを恐れ、幼少の頃からまともな食事も与えず、わざと虚弱に育てたと伝えられているのだ。同時に、邪魔な東太后には毒を盛り、亡き者にしてしまう。そして、光緒帝の后には自分の姪を迎えさせ、帝が成人した後も実権を握り続けたのである。

西太后の権力への執着は死ぬまで続いた。1899年、秘密結社「義和団」による列国の侵略に対する排外運動、所謂「義和団事件」が起こると、西太后はこれを支持するが、諸外国の連合軍が北京に迫ると、光緒帝を連れて西安へ逃げ延びた。だが、その後も贅を尽くし、67歳の誕生日には、約15億円もの税金を費やした祝賀会を催したと云う。本来、人間にとってどうにもならない死期までも、彼女には不思議なタイミングで訪れている。光緒帝が崩御した翌日に、西太后も没しているのだ。だが、これも暗い噂はある。己の死期が近づいていることを悟った西太后が、自分が先に死ぬことで光緒帝に政権が移ることを疎み、帝に毒を盛って殺害したのではないか、と云うことだ。

光緒帝が亡くなるのを見届けた西太后は、当時まだ2歳だった光緒帝の甥・溥儀を宣統帝として擁立するも、その翌日、陰謀に塗れた74年の人生の幕を閉じたのである。

西太后亡き後、およそ300年続いた清朝は、1911年に起きた民主主義革命「辛亥革命」によって滅び、翌1912年には中国初の共和制政体、中華民国が成立する。
ところで、冒頭で西太后が「中流家庭の出」としたが、正確に言うと、彼女は満州民族の氏族の一つ、葉赫那拉氏の出身である。実は、葉赫那拉氏とは清朝の開祖ヌルハチの時代に反乱を起こし、皆殺しされた部族なのだ。自身が清朝を滅亡に招いた結末に、何らかの因果を感じずにはいられない。

(画像・西太后、光緒帝)

         

                                                       世界と日本の怪人物FILE
                                                              暴虐と狂気に魅入られた者たち





ギボウシ Hosta 落ち着き 沈静

もう直ぐ8月になろうかってとこなのに、庭の紫陽花や額紫陽花、隅田の花火がまだ盛りです。
ほかの花木や草花もそうだけれど、今年はマズマズ庭が上手く行きました。
それは、昨年の晩秋に、新しい春を夢見て、面倒かも知れない作業など一生懸命としておいたことが秘訣。
また、それは自然との共同作業みたいなところがあるけれど、想いと根気を楽しみとしたのは、
遣った者しか分からない喜びとなるんですね。ヽ(^‐^)/〃


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レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452~1519年)イタリア 万能の天才は「異端」の顔を隠していた?

2017-07-27 12:40:54 | Weblog


芸術家としてだけでなく、解剖学や地質学、土木工学、そして発明の分野でもその才能を発揮した万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ。2003年にアメリカで出版されその名を冠して大ベストセラーとなった本があった。『ダ・ヴィンチ・コード』だ。ダン・ブラウンの書いたこの冒険推理小説は、全世界で7000万部を突破。2006年にはトム・ハンクスの主演で映画化もされ、そちらも大ヒットした。
この作品では、ダ・ヴィンチが描いた宗教画の最高傑作『最後の晩餐』を、世界を揺るがす謎が秘められた絵として説明し、ヨーロッパ文化の底流を流れて来たキリスト教の異端思想や隠秘学の伝説を、鮮やかに浮き彫りにしている。もちろん作品はあくまでもフィクションであり、そのすべてが真実と云うわけではない。それでも、描かれた内容が不思議なほどのリアリティを以て読者に迫って来るのは、世界で最も有名な芸術家でありながら、謎めいた部分の多いダ・ヴィンチの存在が後押ししているからだと謂えよう。先にも触れた様に、ダ・ヴィンチは芸術面だけでなく、様々な分野に及ぶ才能を有した。ルネサンス期のイタリアを代表する「天才」である。それと同時に、彼には常に「神を冒涜する異端者」と云う疑惑が纏わり着いていた。

ダ・ヴィンチが異端視される例として、よく引き合いに出されるのが彼の手稿のほとんどが鏡文字(左右を反転した状態で書かれた文字)で記されていることだ。その理由としては、彼が左利きだった為と云う解釈が一般的だが、キリスト教では、左手は「邪悪の手」とされている。神に向かって十字を切る時に使うのは、「神の御手」である右手であり、左手を使えば、それは神への冒涜を意味するのである。また、ダ・ヴィンチは錬金術や科学に興味を持っており、自身の研究を隠す為に鏡文字を使ったとも謂われているが、教会にとって神の領域を侵す科学は、まさに「異端の思想」であった。それから、ダ・ヴィンチは菜食主義者であったと謂うが、ここにも異端の影が隠されている。ローマ・カトリック教会からすれば、神は人間をあらゆる動物の上に立つものとして創造したのだから、それを食べないことは神への不敬にあたる、と云う考えから、ルネサンス期のイタリアでは「菜食主義=異端」と見られていたのである。

更に、ダ・ヴィンチには「男色者」として逮捕された経歴もある。同性愛は異端の最たるもので、それだけで火炙りになる大罪だった。もちろん、いずれも当時の教会側から見た「異端」の疑惑であり、彼が本当にキリスト教に対しての異端の思想を持っていたのかどうかは分っていない。『最後の晩餐』を始め、『岩窟の聖母』や『洗礼者ヨハネ』など、ダ・ヴィンチは何作もの宗教画を描いているが、不思議なことに、ダ・ヴィンチ本人によるキリスト教に関する記述はほとんど残されていないのだ。それが単なる偶然によるものなのか、それとも、やはり他者には明かせない秘密の意図があったからなのかーーールネサンスの巨人の正体は、今も謎めいたベールに包まれたままである。

        

                                                   世界と日本の怪人物FILE
                                                           歴史上の偉人たちに隠された裏の顔

*画像
 レオナルド・ダ・ヴィンチ
  鏡文字が記された「ウィトルウィウス的人体図」
 最後の晩餐
 岩窟の聖母
 洗礼者ヨハネ


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菜根譚 前集130項

2017-07-26 09:05:12 | Weblog

害人之心不可有、防人之心不可無、此戒疎於慮也。
寧受人之欺、毋逆人之詐、此警傷於察也。
二語並在、精明而渾厚矣。

人を害するの心は有るべからず、人を防ぐの心は無なかるべからずとは、此れ慮るに疎きを戒むなり。
寧ろ人の欺を受くるも、人の詐を逆うること母れとは、此れ察に傷るるを警むるなり。
二語並に在せば、精明にして渾厚たり。

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「思慮は深く、騙されても騙さず」

『人に危害を加える心を持ってはいけないし、人から危害を加えられるのを防ぐ心掛けは持たなければいけない』と云う言葉は、
思慮に欠けた人を戒めたものである。
『寧ろ人から欺かれるようなことがあっても、敢えて人を偽らせるようなことをしてはいけない』と云う言葉は、
目先が利き過ぎて失敗してしまうような人を戒めたものである。
この二つの言葉を共に念頭においておけば、思慮は深く賢明になり、行為は大きく重々しいものになる。




茄子 Solanum melongena 慎ましい幸福 良い語らい 優美 希望 真実

「慎ましい幸福」「真実」「希望」と云う花言葉は、
花が咲けば必ず実が一つは生ると云う茄子の結実性の高さに由来して付けられたとされています。
「優美」は、茄子の花である紫色が高貴な色であることにちなんでいます。




このところは、朝晩が涼しくって、身体的にも精神的にもホント、楽ですよね。
色々遣りたいことがある、それはほんの些細なことだらけだけれど、とても張り切れています。ヽ(ゝc_,・*)ノ゙★゚+.゚ファィド+.゚☆




アルプスの少女ハイジ
https://www.youtube.com/watch?v=eVrbgE6Nj8M


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軍事には大要五あり。 『晋書 宣帝紀』

2017-07-24 15:10:16 | Weblog

よく戦わば戦うべし。
戦う能わざれば守るべし。
守る能わざれば走るべし。
余のニ事はただ降と死あるのみ。

人質を出して助命嘆願する公孫淵に対する司馬懿の返答で、
「戦には五つの原則がある。戦力が充分なら戦う。戦力不充分なら防御する。防御できないなら逃亡する。
残る二つは降伏と戦死だ。公孫淵は降伏しなかったのだから、討死あるのみ」と述べて、助命を拒否した。


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死せる孔明、生ける仲達を走らす 『蜀書 諸葛亮伝』

2017-07-23 05:54:33 | Weblog

秀でた人物は死後も生きている者を恐れさせると云うこと。
孔明は諸葛亮の字。仲達は司馬懿の字。
五丈原で魏の将軍、司馬懿との対戦中に病没した諸葛亮は、自分が死んだら、
それを敵に知られぬよう撤退せよとあらかじめ指示していた。
諸葛亮が送った使者に逆に諸葛亮の生活ぶりを聞き、死期が近いことを悟った司馬懿は退却した蜀の軍に諸葛亮の死を察し、
追撃したが、 蜀軍が旗を返し、鼓を鳴らして反撃の姿勢を見せたので、諸葛亮がまだ生きていると思い、
計略にかかることを恐れて追撃を止めた。その隙に蜀軍は渓谷に入り、そこで孔明の喪が発表された。
人々は死せる孔明、生ける仲達を走らすと噂し合い、ある者がこれを伝えると、司馬懿は苦笑して言った。
「吾はすなわち生きるを料りて、死するを料らざる故なり(生きている人間なら、わしも何とかできるが、死んだ相手ではどうしようもない)」




*画像 まだ孔明は生きているに違いないと逃げ出す司馬懿
    諸葛亮孔明の図
    五丈原の戦い(第5次北伐) 関連地図
    五丈原(陝西省)諸葛亮廟
    諸葛亮の墓 諸葛亮の遺言により、
          墳墓は棺が入るだけの小規模なもの


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一炊の夢  「枕中記」

2017-07-22 16:30:33 | Weblog





開元七年、道士の呂翁と云う者がおり、神仙の術を会得していた。邯鄲への道中、ある宿屋で休息をとった。
帽子を脱いで、帯を緩め、袋に寄りかかって座っていた。
間もなく、通りがかりの青年が見えた。これが盧生である。
粗末な短い上着を着て、青毛の若い馬に乗り、ちょうど畑に行く途中、宿屋で休憩をしたのである。呂翁と相席となり、暫く、談笑してとても楽しそうにしていたが、盧生は自分の身なりの貧しいのを見て、ため息をついて言った。
「男子としてこの世に生まれたのに、思うようにならず、この様に困窮しております」
呂翁が言った。「お前さんの体を見たところ、苦痛もなければ、病もない。愉快な話しもできる。なのに、困窮していると嘆くのは、どう云う訳じゃ?」
盧生が答えた。「私はいい加減に生きているに過ぎません。どうして楽しいなどと言えましょうか」

呂翁が、「これが楽しくないのなら、何が楽しい?」と聞くと、盧生は言った。
「男がこの世に生まれたからには、功績を挙げて名をあげ、外では将軍として、中では宰相として働き、贅沢な食事をし、優美な音楽を選んで聴き、一族は栄え、一家は豊かになる。そうなって初めて楽しいと言えましょう。私はもともと学問を志し、六芸の知識も豊富でした。その当時、自分では高官を得られると思っていました。今や壮年を過ぎたと云うのに、相も変わらず畑仕事に明け暮れております。これが困窮でなければ何だと言うのです!?」

言い終わると、目が朦朧としてきて、眠くなって来た。
この時、店の主人が黍を蒸していた。呂翁は自分の荷物から枕を取り出すと、盧生に差し出して言った。
「わしの枕を使いなさい。お前さんが望むような栄達をさせてやろう」

その枕は青磁でできていて、両端に穴が開いていた。盧生が枕に頭を乗せて横になると、その穴が段々大きく明るくなったのが見えた。そこで体を起して中に入ると、すぐに自分の家に着いた。

数ヶ月後、盧生は清河の崔氏の娘を娶った。妻は美しく、財産は益々増えたので、盧生は大いに喜んだ。これより、着る物、乗る物も日に日に豪華になり、翌年には進士に推挙され合格し、庶民の身分を脱し、校書郎と云う役職に就いた。勅命で渭南の県尉に任ぜられた。またすぐに、観察御史に移り、起居舎人という役職に替わった。三年後、同州の長官となり、また陝州の長官に移った。盧生は土木工事を好み、陝州の西から八十里に渡って、不通だったところに運河を掘って通した。地元の者は、便利になったので、石碑を建てて彼の徳を称えた。

この後、汴州に転任となり、河南道採訪使となったが、召されて、京兆の尹となった。この時、玄宗皇帝は蛮族を討ち、領土を広めた。ちょうど、吐蕃の悉抹邏と燭龍の莽布支が瓜州・沙州を攻め落として、節度使の王君毚が殺されたばかりで、黄河、湟水一帯の人々は大いに驚き恐れた。皇帝は将軍としての才能のある者を考えた末、遂に盧生を御史大夫中丞・河西道節度使に任命した。大いに異民族を破り、敵の首七千を斬り、領土を九百里広げ、三つの城塞を築き、要害とした。辺境の人々は居延山に石碑を建て功績を称えた。都へ戻ると論功行賞があり、皇帝の賞賜は非常に厚かった。吏部侍郎に転任となり、戸部尚書兼御史大夫に移った。当時、声望は高く、人々に慕われた。ところが、これが時の宰相に大いに忌み嫌われ、根拠のない噂を立てられ、端州の刺使に左遷となった。

三年で召し返されて、常侍となった。そして、幾らも経たないうちに、同中書門下平章事(宰相)となった。中書令(中書省の長官・宰相)の簫嵩・侍中(門下省の長官・宰相)の裴光庭と共に十年余りに渡って政治を執り行った。皇帝の政策や密命を一日に幾度も受け、良いことは進め、悪いことは止め、心を尽くして皇帝に仕えたので、優れた宰相と呼ばれた。しかし、同輩がこれを妬み、辺境の将軍と結託して謀反を企てていると、またしても誣告された。投獄の命令が下り、役人が部下を引き連れて門前まで押しかけて捕らえようとした。盧生はこの災難に恐れ驚き、妻子に言った。
「わしは山東に家があり、良い畑が五頃(約2900アール)もあり、飢えと寒さを凌ぐには十分であった。どうして苦労して官禄を欲しがったのだろうか。今となっては、短衣を着て、青毛の子馬に乗り、邯鄲の道を行こうと思っても、適わない・・・」
そして、刀を取って自ら首をかき切ろうとしたが、妻に救われ、死を免れた。この罪に関係した者は皆死罪となったが、盧生だけは宦官に助けられて、罪を減じられ、驩州に流罪となった。

数年後、皇帝は冤罪であったことを知り、再び救って中書令とした。燕国公に封じられ、皇帝の思し召しは格別であった。
五人の息子があり、倹、伝、位、倜、倚と云った。
皆、才能があり、器量を備えていた。倹は進士に合格し、考功員外となった。伝は侍御史となり、位は大常丞となり、倜は万年の県尉となった。倚は最も賢く、二十八歳にして左襄となった。姻戚はみな名望のある家柄ばかりであった。孫は十人余りいた。

盧生は二度辺境に左遷され、二度宰相となった。
中央に入ったり、地方に出たり、朝廷内を巡り回った。
五十年以上、位は高く勢いがあり、世に現れ出た。
性格は非常に贅沢で、遊びを好み、奥屋敷に入れた女たちは皆第一級の美人ばかりである。
これまでに、皇帝から賜った良い田畑、邸宅、美女、名馬などは数え切れないほどであった。

その後、段々と衰えて来て、度々辞職を願い出たが、許されなかった。
病気になると、皇帝に仕える宦官たちが次々に見舞いに訪れた。
名医や上等の薬も来ない物はなかった。
死が迫り、上奏した。
「私は、元々山東の一儒生に過ぎず、畑仕事を楽しみとしておりました。幸いにも陛下の恩寵にあずかり、官員として名を連ねることができました。身に余るお褒めを賜り、格別なご恩をいただき、外に出ては、節度使としての旗を持ち、中では宰相の地位に就きました。この様に内外を巡っておりますうちに、長い年月が経ちました。陛下の恩寵に感謝するばかりで、陛下をお導きする助けともならず、身に余る位にあって害を残し、薄氷を踏むような思いで、心配し、一日一日と恐れつつも、知らず知らずのうちに老いておりました。今、齢八十を超え、私の位は三公を極めました。最早寿命も尽き、筋骨共に老い、病は重く気力も衰え、最早死を待つばかりで御座います。顧みますに、何ら功績もなく、陛下のご聖徳に報いることもなく、虚しく大恩に叛いたまま、この御代を去ります。誠に心残りでなりません。ここに謹んで上奏文を奉り、謝罪する次第です」

皇帝が詔して言うには、「そなたは、優れた徳を以て、朕を輔佐し、出ては地方を鎮めて国を守り、入っては輔けて天下を太平に導いてくれた。二十余年の平和はそなたの力に因るものである。病を得たと知り、日々平癒せんことを願っておった。難治の病とあっては、まことに心配である。今、驃騎大将軍の高力士に命じて見舞わせる。しかと治療し、我がために自愛せよ。諦めず、快癒する希望を持つように」と。

しかし、この日の夕方、死んでしまった。

盧生は欠伸をして伸びをすると、目を覚ました。
見ると、自分の体は宿屋の中で横になっており、呂翁が傍らに座っていた。主人が蒸していた黍はまだ煮えておらず、元のままである。盧生は跳び起きると言った。
「夢だったのか?」
呂翁が盧生に向かって言った。
「人生の楽しみとはこんなものじゃ!」
盧生は暫く茫然としていたが、
「栄誉と恥辱の道、困窮と繁栄の運、得るもの失うものの道理、死と生の情理、すべて分りました。これは先生が私の欲念を抑えんと教えて下さったのですね。ありがたく教えをお受け致します」と礼を述べた。そして、頭を地につけて二度礼拝して立ち去った。

**************************************************************************

栄枯盛衰も、ひとときの夢の様に儚いものであることの喩え。「黄梁一炊の夢」「邯鄲の夢」とも言う。




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日本の湾岸戦争負担金 総額 1兆6900億円 アメリカより多く出していた戦争不参加の日本の巨額支出

2017-07-21 04:41:52 | Weblog

*戦費を負担した以外にも輸送船や掃海艇の派遣まで...

イラン・イラク戦争後、膨大な戦時債務を抱えたイラクは、原油を大量採掘して原油価格の値崩れを起こしたクウェートに対して、油田の領有権問題も絡み、1990年8月2日、侵攻を開始。8月8日併合を宣言した。
これに対しイラクへの即時撤退を求め、アメリカ軍を始めとする34カ国の多国籍軍は、1991年1月17日イラクへの攻撃を開始した。「砂漠の嵐作戦」によってイラク領内を空爆すると、2月24日イラク領内に進行する「砂漠の剣作戦」を展開。地上戦開始から僅か100時間後に、多国籍軍はクウェート市を解放。3月3日に暫定停戦協定が結ばれ、湾岸戦争は終結した。

この戦争の戦費は、アメリカ国防省の発表によると、610億㌦とされる。その内訳は、湾岸協力会議(GCC)加盟国が中心となったが、アメリカ、ドイツの70億㌦よりも日本の90億㌦の方が多いことに驚かされる。しかも日本は追加支援として40億㌦を支出。
つまり130億㌦も負担している。その割に、日本の国際貢献がほとんど評価されなかったのは、実に不思議である。

      

                                             おカネでわかる世界の事件史
                                                  財布の大きさで勝敗が決まる戦争・革命
                                                             湾岸戦争の各国負担金はいくら?

      






                                                      *この本は2013年3月初版されたものです。


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アーサー・コナン・ドイル (1859~1930年) イギリス 名探偵の生みの親は霊の存在を信じていた?

2017-07-20 13:51:36 | Weblog


世界一有名な名探偵シャーロック・ホームズの生みの親、それがアーサー・コナン・ドイルだ。
しかし、本人は人からそう言われることを嫌ったと云う。
ドイルにとって、ホームズ物語は生活の為に仕方なく執筆しているものであり、推理小説は文学として劣ったものと考えていたのだ。ドイルが作家としての自らを語る時、他の作品群、つまり恐怖や幻想を描いた作品を真っ先に上げていた程なのだ。
だが「作家」と云うアイデンティティ自体も、ドイルの中ではほんの一部に過ぎなかった。
彼が、自分の活動の中で最も価値があると考えていたのは、心霊学の普及活動だったのだ。「サー」の称号を持つドイルが、
実はスピリチュアリズムの信奉者だったのである。
元々ドイルは眼科の医師だった。1859年にスコットランドのエディンバラで生まれた彼は、エディンバラ大学で医学を学ぶ。
卒業後、1882年にはイギリス南部のポーツマスで眼科の診療所を開業するも、中々患者を得ることができず、暫くは開店休業の日々が続いた。そんな時代の暇つぶしとして書いた作品がホームズ物語だったわけだが、これが爆発的に当たったことでドイルは経済的に潤い、名士として社交界に出入りする様になる。
ところで、19世紀のロンドンの社交界では一つの新しい学問が大いに流行っていた。「心霊学」である。
心霊学とは、フランスの哲学者であるアラン・カルデックが、1857年に『霊の書』を出したことによって始まった学問で、ドイルが初めてこれに接したのは1886年のことだった。
ドイルは偶然『エドマンズ判事の回想録』と云うアメリカの書物を手に入れたのだが、そこにはニューヨーク州の最高裁の判事が自ら体験した交霊会での体験が書かれていた。
ドイルは当初、これを懐疑的に見ていた。だが、何か琴線に触れるものがあったのだろう。ドイルの著書『新しき啓示』の中で「その後、私は片っ端からスピリチュアリズム関係の本を読んで行った」と語っている。そして、遂に自分で交霊会を催すまでになるが、これは見事に失敗してしまう。その為、再び懐疑心が深まったものの、それでも完全拒否する気にはならず、遂には「英国心霊研究協会(SPR)」へ入会するに至る。
この頃からドイルは心霊学に強く傾倒して行くのだが、この間に偽造された妖精写真を「本物」と認めてしまった「コティングリー妖精事件」や、後に当事者が「インチキだった」と告白した「ハイズヴィル事件」をスピリチュアル肯定の証拠として認定する(ただし、後でその告白は本人によって撤回されている)など、度々勇み足の失敗を犯している。
しかし、ドイルにとってのスピリチュアリズムとは、信仰でも興味本位でもなく、列記とした科学であり、そしてこれを「退廃の極みにある」と考えていた世間に対して警鐘を鳴らせる唯一の手段だと考えていたのだ。

晩年、ドイルは欧米各国でスピリチュアリズムの啓蒙講演をして回り、死後の世界があることを説き続けた。そうしたドイルに、
人々はイエスの教えを伝え広めた使徒の姿と重ね、「心霊主義の聖パウロ」と云う名を奉ったのである。

(画像・ドイル、「コティングリー妖精事件」、ドイルの著作)

        

                                                  世界と日本の怪人物FILE
                                                          歴史上の偉人たちに隠された裏の顔






「きんつば」大好物!!! (*^〇^*)ノ


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菜根譚 前集129項

2017-07-19 05:37:07 | Weblog

吾身一小天地也。
使喜怒不愆、好悪有則、便是燮理的功夫。
天地一大父母也。
使民無怨咨、物無氛疹、亦是敦睦的気象。

吾が身は一の小天地なり。
喜怒をして愆らず、好悪をして則有らしめば、便ち是れ燮理の功夫なり。
天地は一の大父母なり。
民をして怨咨無く、物をして氛疹無からしめば、亦是れ敦睦の気象なり。

***************************************************************************

「世界の平和は身を修めることから」

この我が身は、一つの小さな世界である。
喜びや怒りの気持ちを誤ること無く、好き嫌いの気持ちを天地の法則に合うようにしたならば、
それがそのままこの身の調和を図る働きである。
また、この世界は、我が身を包容する大きな父母のようなものである。
全ての人に恨みや不幸が無く、万物をそれぞれ障害が無いようにしたならば、これもやはり世界の平和な姿である。






今日7月19日は私の誕生日。
いつかからか、記念日(祝祭日を含む)、誕生日などどうでもいいかナって想いになりました。
どうしたって、喩え誕生日など祝わなくとも、誰もが平等に年を取るのですから。
昔的に言えば、私はお婆さんの年齢。
けどなってみて思うのは、全然年寄りなどじゃないだろうってこと。
まだまだ遣れることや頑張れることがあるし、思考的には寧ろ楽になって来たことの方が多いのですから、
年を取るのも悪くはないですね。ε- (´ー`*)

She Elvis Costello
https://www.youtube.com/watch?v=O040xuq2FR0


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君に事えてその本を忘れざるは、天下の義士なり 『蜀書 関羽伝』

2017-07-18 14:41:13 | Weblog

曹操が関羽の忠節の固さに感動して言った言葉。
曹操は劉備を破って、関羽を捕らえたが、気に入って自分の配下にしようと下にも置かぬ厚遇をした。
だが関羽は、「私は劉備殿と共に死ぬことを誓った身。去らねばならない。しかし去るからには曹操殿のご好意に報いてからにしたい」 と、はっきり仕える意思がないことを告げた。
それを聞いた曹操は感に堪えぬように、「君主に仕えてその本分を忘れないのは、さすがに天下の義士だ」 と言ったという。

*三国志 『正史』に記された関羽の圧倒的な強さ
「白馬の戦い」に於いて、関羽のあまりの強さに、顔良を討ち取られた後、関羽を相手にしようとする袁紹軍の兵士はいなかったという。『正史』には、関羽の働きにより白馬の包囲が解かれたと書かれている。『演義』では、顔良を討ち取ったほか、延津で文醜を討ち取る場面が描かれているが、これは創作である。




*画像 立ち去る関羽を見送る曹操 『演義』
    一人で一万人に相当すると称された関羽 『正史』
    文醜を斬る関羽 『演義』


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戦争賠償金 総額 第一次世界大戦 100兆円 第二次世界大戦 7兆2000億円 第一次世界大戦の戦争賠償金は2010年に89年かかって完済

2017-07-17 04:03:45 | Weblog

*第一次世界大戦の賠償金はドイツのGNPの20年分

戦争の世紀と言われた20世紀。二度に渡る世界大戦で、敗北を喫したのがドイツである。
1914年6月28日、オーストリアの帝位継承者夫妻がボスニアの州都サラエボでセルビア人によって暗殺された。
オーストリアは、ドイツの支持を得て、7月28日セルビアに宣戦。列強は、ドイツ、オーストリアなどの同盟国側と、フランス、ロシア、イギリス、日本などの連合国側とに別れて戦うこととなった。
イタリアは、中立の後、連合国とロンドン秘密条約を結んで三国同盟を離れ、連合国側に立って参戦。やがて1917年、ドイツが無制限潜水艦作戦を始めると、中立を保っていたアメリカがドイツに宣戦布告。形成は連合国側に傾き、ドイツ皇帝はオランダに亡命し、ドイツは休戦条約を結び、大戦は終わった。
しかし、4年以上の長期戦となった第一次世界大戦の結果、連合国側は多額の対アメリカ向けの戦争債務を抱え込む。
この結果、ヴェルサイユ条約で勝者となった連合国側は、1921年のロンドン会議に於いて、敗戦国ドイツに対して、1320億金マルクの巨額な戦争賠償金を突きつけた。
1320億金マルクの戦争賠償金は、当時ドイツのGNP(国民総生産)の20年分に当たり、ドイツの支払い能力を遥かに越えるものだった。而もフランスはドイツの支払い不履行を理由に、1922年から23年にルール工業地帯を占領。ドイツ経済を、更に悪化させる原因となった。
これに対してアメリカは、1924年「ドーズプラン」を提案し、賠償金の支払いを1年に25億金マルクに抑制。
更に1929年「ヤングプラン」によって、賠償金総額を358億金マルク、而も59年間払いに緩和されたものの、世界恐慌が発生し、再びドイツの経済は破綻した。1931年の「フーバーモラトリアム」で1年延期が認められ、1932年のローザンヌ会議で賠償金残高を30億金マルクまで減額されたものの、翌33年に政権の座に就いたヒトラーは、一方的に賠償金の支払いを拒否。
**************************************************************************
*世界大戦の巨額な賠償金がナチスの台頭を許す

第一次世界大戦の巨額な戦争賠償金が、ひいてはナチスの台頭を招いたと言える。
1939年9月、ナチスドイツはポーランドに侵攻。イギリス、フランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
一時はヨーロッパを席巻する勢いを見せたドイツも短期決戦に失敗し、アメリカ、ソ連が連合国側が参戦すると、総攻撃の前に、1945年5月、ドイツ軍は無条件降伏する。第二次世界大戦後の賠償金は、ヴェルサイユ条約での苦い教訓と、冷戦の影響から、東西双方とも分断された同盟国の経済的な弱体化を恐れて、正式な講和条約を結ぶことはなかった。
ただしソ連に対しては賠償金200億㌦と生産設備や動産を支払うこととされたが、1953年、賠償金の支払いは停止された。
第二次世界大戦とその後の冷戦下でも支払いはおこなわれなかったが、東西統一後、再び債務利子の支払いを開始して、2010年、89年をかけてドイツは、すべての支払いを完了させた。




                                          おカネでわかる世界の事件史
                                               財布の大きさで勝敗が決まる戦争・革命
                                                            2回大戦に負けたドイツの賠償金


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