●停戦のチャンスは3度もあった!?
応仁・文明の乱は将軍家の継嗣争いをはじめ、室町時代管領・細川勝元と山名宗全の対立や、守護大名家の継嗣争いが複雑絡み合って起こったもの。京都を中心とした戦闘は次第に全国へと拡大、戦いは延々と続き、終戦を迎えたのは10年も後のことだった。実は、10年の間には何度か停戦のチャンスがあった。開戦の後、次期将軍に義政の子・義尚の就任が決まり、戦乱が起きた理由の一つでもある「将軍の継嗣争い」に決着がついたのである。だが義政には政治力がなかった為、戦いはそのまま続行することに。
1472年、また停戦のチャンスがやって来た。山名宗全が和平提案を申し出たのだ。だが東軍の一人が猛反発。室町幕府はたった一人の抵抗さえも抑えることができず戦闘は続くこととなる。
最後のチャンスは1473年。細川勝元と山名宗全が死亡し、将軍も義尚に変わった。しかし、またも守護大名らの反発を受け、和平交渉は失敗に終わってしまったのである。
応仁・文明の乱は将軍家の継嗣争いをはじめ、室町時代管領・細川勝元と山名宗全の対立や、守護大名家の継嗣争いが複雑絡み合って起こったもの。京都を中心とした戦闘は次第に全国へと拡大、戦いは延々と続き、終戦を迎えたのは10年も後のことだった。実は、10年の間には何度か停戦のチャンスがあった。開戦の後、次期将軍に義政の子・義尚の就任が決まり、戦乱が起きた理由の一つでもある「将軍の継嗣争い」に決着がついたのである。だが義政には政治力がなかった為、戦いはそのまま続行することに。
1472年、また停戦のチャンスがやって来た。山名宗全が和平提案を申し出たのだ。だが東軍の一人が猛反発。室町幕府はたった一人の抵抗さえも抑えることができず戦闘は続くこととなる。
最後のチャンスは1473年。細川勝元と山名宗全が死亡し、将軍も義尚に変わった。しかし、またも守護大名らの反発を受け、和平交渉は失敗に終わってしまったのである。
●目的を見失ったまま戦乱続行
このように応仁・文明の乱は、途中から戦う目的も曖昧になったまま収拾がつかなくなり、11年間もズルズルと戦い続けることになったのである。この余波で京都の民家はほとんど焼け、貴重な文化財も失われてしまった。将軍の継嗣争いから始まったこの戦いの一番の犠牲者は、実は何も関係の無い京都の民衆たちなのかも知れない。
このように応仁・文明の乱は、途中から戦う目的も曖昧になったまま収拾がつかなくなり、11年間もズルズルと戦い続けることになったのである。この余波で京都の民家はほとんど焼け、貴重な文化財も失われてしまった。将軍の継嗣争いから始まったこの戦いの一番の犠牲者は、実は何も関係の無い京都の民衆たちなのかも知れない。
学校で習った歴史はウソだらけ!?
日本史 大ウソ事典 「中世」
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