Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆絶大な権力を握った蘇我氏のルーツは何処にあるのか?

2019-03-30 04:23:45 | Weblog

『蘇我馬子や蘇我入鹿で知られる古代の豪族・蘇我氏は6世紀に突然現れ、権力の拡大に成功する。蘇我氏が絶大な権力を持つに至った真の原因とは何だったのか』

古代の豪族・蘇我氏は6世紀に稲目が大臣に成ったあと権勢を誇るようになり、稲目の子・馬子は推古朝で聖徳太子(厩戸皇子)と共に政務を執り仕切った。馬子の子・蝦夷と子の入鹿の時代になると、その権力は天皇家を脅かすほど大きくなった。しかし、蝦夷・入鹿父子の専横が目立つようになり、皇極4(645)年、中大兄皇子や中臣鎌足らによって入鹿が暗殺されると、蝦夷も自殺して蘇我氏本宗家は滅んだ(乙巳の変)と伝えられている。 古代には蘇我氏の他にも物部氏や大伴氏など有力な豪族がいた。中でも物部氏は軍事力もあり、蘇我氏より古くから大和朝廷の中枢にあった。ところが、蘇我氏は6世紀に稲目が俄かに現れ、物部氏を滅ぼして大和朝廷の実権を握ってしまったのだ。何故、新興豪族の蘇我氏が物部氏や大伴氏という古くからの有力豪族を差し置いて絶大な権力を手にすることが出来たのか、古代史の謎の一つとされている。そして、その謎を解く一つの鍵とされて来たのが、蘇我氏の出自である。そこで、蘇我氏の権力の謎を解き明かすにあたり、先ず蘇我氏の出自、ルーツについて検証することにしよう。 「古事記」の孝元記によると、蘇我氏(臣)の始祖は蘇賀石河(石川)宿禰だとされる。石川宿禰は建内(武内)宿禰の子と記されているが、竹内宿禰は伝説上の人物であり、石川宿禰が蘇我氏の始祖とされている。石川宿禰の後の系譜は、満智(まち)ー韓子(からこ)ー高麗(こま・馬背)と続き、高麗の子が稲目だという。そして、昭和46(1971)年に古代史学者の門脇禎二氏が発表し、注目を浴びたのが蘇我氏のルーツを渡来人とする説(渡来人説)だ。門脇氏は応神天皇(第15代)の時代に日本(倭)に渡来した百済の高官・木満致(木刕満致)と蘇我満智を同一人物と見て、蘇我氏が百済からの渡来人だったと唱えたのである。

*石川宿禰という始祖名にも疑いが  渡来人説は、満智の後に続く韓子・高麗という名前が、如何にも朝鮮との関係を連想させる。また、蘇我氏が渡来系氏族と関係が深く、彼らを臣下にしていたことも渡来人説を裏付けるように思える。 しかし、渡来人説は、木満致(木刕満致)が渡来した年代について「日本書紀」(294年。414年とも)と朝鮮の史書「三国史記」百済本紀(475年)の間にかなり差があるほか、「三国史記」が「木満致(木刕満致)が南へ向かった」とするが、南を日本と解釈することに無理があるという指摘もある。 国際日本文化研究センター教授・倉本一宏氏は「百済の高官が倭国に亡命して、そのまま倭国で臣姓を賜わり、このように重要な職掌を担うというのも、極めて不自然である」(倉本一宏著『蘇我氏ー古代豪族の興亡』中公新書)という。 渡来人説とは別に蘇我氏が本拠地である河内国石川郡(大阪府)から発祥したとする説がある。その根拠の一つは、勅撰の歴史書である「日本三代実録」に蘇我石川宿禰が河内石川に生まれたと記されていること。 しかし、そもそも蘇我氏石川宿禰という名が疑わしいという指摘がある。蘇我氏は乙巳の変で本宗家が滅んだ後一族の蘇我倉氏が主流となり、後に石川氏と改姓した。歴史学者の遠山美都男氏は蘇我石川宿禰について「河内の石川地方を本拠とした枝族(蘇我倉家。後の石川朝臣)の祖先として作り出された名前と見られる」(遠山美都男著『大化改新』中公新書)とし、「稲目よりも前の蘇我氏の系譜というのは、稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蘇我本宗家から見て、謂わば分家筋に当たる蘇我倉家が作り出したものなのである」(前掲書)と述べている。 そこで、蘇我氏の発祥地・本拠地を大和国高市軍曽我(奈良県橿原市)とする説もある。その根拠の一つは、蘇我氏をはじめ葛城氏・阿部氏・平群氏・紀氏など臣姓を称する豪族が、出身地名を氏族名とするという共通の法則だ。つまり、蘇我氏も出身地の曽我を氏族名にしたというわけである。実際、この一帯には蘇我宗家の居所が所在し、蘇我氏の同族も本拠地としており、蘇我氏の本拠地に相応しく思える。しかし、この地が蘇我氏の発祥地だったという根拠は弱く、否定する声も少なくない。

*葛城氏と蘇我氏の密接な関係  蘇我氏の発祥地、出自を巡って諸説が唱えられている中、近年、注目されているのが葛城氏との関係だ。葛城氏も古代の有力な豪族で孝元天皇(第8代)の子孫と謂われ、大和国葛城地方を本拠地とした。5世紀の「倭の五王」の時代に活躍した豪族で、天皇家と並ぶ権勢を誇った。しかし、5世紀末に滅亡し、歴史から忽然と姿を消してしまった。葛城氏は「かずらき」氏ともいい、将軍として朝鮮に派遣された葛城襲津彦(かずらきそつひこ)を始祖とする。この襲津彦の娘・磐之姫が仁徳天皇(第16代)の皇后となり、履中(第17代)・反正(第18代)・允恭(第19代)の3天皇を生んだ。 こうして葛城氏は天皇(大王)家の外戚として権力を拡大して行ったが、安康天皇(第20代)が眉輪王に殺害された際、眉輪王が葛城円大臣(つぶらのおおみ)の家に逃げ込んだ。この為、安康の弟・雄略天皇(第21代)は円の家を兵で囲み、眉輪王と円らを焼き殺した。この事件後、葛城氏は没落し、以来、葛城氏の目立った活躍は伝えられていない。考古学的にも、5世紀末から葛城地方に大型前方鵬円墳は築造されなくなる。 前出の倉本氏は「ウヂ」という政治集団は6世紀に成立し、5世紀の段階ではまだ成立していないので、所謂、葛城氏を「葛城地方を地盤とした、必ずしも血縁に基づかない複数の集団(古墳群の分布から見ると五つか)の連合体」とし、葛城氏が歴史から忽然と姿を消したことについて、「何らかの葛城集団の後裔が存在して、『葛城氏』の氏族伝承や王統譜を作り上げ、それを『日本書紀』に定着させることに成功した」(前掲書)としている。 そして、「その集団こそが、蘇我氏である。つまり、蘇我氏は行き成り登場したのではなく、葛城集団の勢力の主要部分が独立したものであり、記紀に見える『葛城氏』とは、即ち蘇我氏が作り上げた祖先伝承だったのである」(前掲書)と述べている。 蘇我氏の出自が葛城氏(葛城集団)だったという説を裏付ける有名な話が、馬子の晩年の言動だ。「日本書紀」によると、推古32(624)年、馬子は推古天皇に「葛城県(かずらぎのあがた)は自分の本居(うぶすな)なので、私の領地として貰い受けたい」と願い出たとされる。この馬子の願いは推古天皇に聞き入れられなかったが、馬子は葛城臣馬子と称したとも謂われ、葛城が馬子の故郷であった可能性は高い。前出の遠山氏は葛城が馬子の生まれ故郷であるということは、子供が、その母親とその一族のもとで育てられたと考えられる当時であってみれば、馬子の生母即ち稲目の妻は、葛城地方を本拠にした首長一族の出身であったことになる」(前掲書)という。 更に遠山氏は、「稲目自身は、氏素性の知れない、或いは強力な背後勢力を持たない存在であった」として、稲目の妻を「5世紀代に複数存在した大王を出す集団との間に繰り返し姻戚関係を結んだ、後に葛城氏と呼ばれることになる有力首長の出身であった」とし、「稲目はこの女性と結婚することによって、5世紀代の大王の身内的存在であった葛城氏の血脈に連なることになり、自分の一族の中に葛城の血を取り込むことに成功した」(前掲書)と述べている。 結局、5世紀に突然現れたかに見えた蘇我氏は、古来の豪族・葛城氏と密接な関係にあり、葛城氏の権力を継承することに成功したというわけである。


蘇我馬子


蘇我入鹿が暗殺される場面


                                         日本史 最後の謎
                     ベールに包まれた神話と古代王権の謎 1-6


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◆「甲斐の虎」と呼ばれた戦国武将 武田信玄の戦略を支えていた「巫女集団」の存在

2019-03-29 04:22:50 | Weblog

戦国最強の武将とも謂われる武田信玄。その強さの秘密の一つは、情報の収集と伝達を重要視したことがある。 彼は「透波(すつぱ)」や「三ツ者(みつもの)」と呼ばれる忍びの集団をよく用いたとされるが、その中には愛らしい娘たちが、白い装束に身を包み巫女の活動に従事しながら、諜報で暗躍した「歩き巫女」の姿もあった。
ただし、「歩き巫女」は何も信玄の諜報集団に限った名称ではない。当時、活動の場を神社に固定せず各地を渡り歩いて、所属する神社の神威を広める女性たちが数多くあった。 歌舞伎の元祖ともされる出雲阿国もそうした側面を持った女性とされる。 巫女は特権により、関所を手形なしで通過でき、人で賑わう場所に現れては、白装束で祈祷や神託を伝え、神楽を舞うなどした。戦に駆り出される農民たちは、無事に帰ることができるか神託にすがり、有力な武士たちは酒宴に招いて巫女に夜伽の相手をさせることもあった。 それゆえ巫女は、敵地を探り、時には巧みに敵方に接近して、貴重な情報を入手する任務を遂行するのに、打って付けの存在であったのだ。

*兵士たちの士気を高め、勝利をもたらした  
伝えられるところによると、信玄配下の望月城主の望月信雅(信玄の甥にあたる)の妻千代女が、歩き巫女の頭を務めたと謂う。 千代女は夫・信雅が第四次川中島の戦いで戦死し(諸説あり)、独り身となって以降、信玄から歩き巫女の管理を託されたと謂う。千代女は、信濃の禰津の里に、歩き巫女を育てる施設を設け、戦で親を失ったり、生活難から捨てられた孤児たちを集めて、巫女としても忍びの者としても厳しく仕込んだ。その数は200人とも300人ともいわれている。 彼女たちは、険しい山道を通って、各地へ散って行った。そして時に命の危険に晒されながら、集めた情報を信玄に届けた。 他にも信玄は、各地へ出陣した際に、巫女たちを連れて行き、合戦の結果を占わせた。当時、その占いは必ず「勝ち」と出るようになっていて、士気を大いに高めた。また巫女たちの踊りは、緊張した兵士たちの気持ちを和らげ、彼女らは戦場に於けるアイドルのような役割も担っていたようだ。 歩き巫女が武田家で活躍した期間は、川中島の戦いから武田家が滅んだ天正10(1598)年まで、20年あまりしかなかったことになる。もしかすると、戦国時代の有名な事件の裏で、密かに歩き巫女が関係していた可能性もあるかも知れないが、スパイという公にはできない職務上、彼女たちの具体的な活動は一切、記録には残っていない。頭を務めていた千代女が主家滅亡後、どうなったのかも不明だ。 しかし禰津の里は、巫女の里として江戸時代も長く続いた。 こちらでは歩き巫女のことを「ノノウ」とも呼んでいる。 尚、同地から、真田家の領内まではそう離れていない。真田家も諜報活動に重きを置いていたことから、歩き巫女たちが武田家滅亡の後、真田昌幸に引き継がれた可能性も高い。




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◆ユグノー戦争を終結させた名君 アンリ4世の暗殺事件には、やはり黒幕と共犯者が?

2019-03-28 04:19:01 | Weblog

カペー朝、ヴァロワ朝、そしてブルボン朝と続いた歴代のフランス王朝の中で、最も国民に親しまれていて人気の高い国王が、16世紀末に即位したブルボン王朝の初代国王アンリ4世である。

*フランスで最も愛された王が、狂信者の刃に倒れる  当時のフランスでは、カトリック教徒とユグノーと言われる新教徒が対立し、血を地で洗う戦いが繰り広げられていた。 ブルボン家の出身で苦難の末に王座に就いたアンリ4世は、1598年にナントの勅令を出すと、「フランスの国教はカトリックだが、新教徒にも完全な信仰の自由を認める」と宣言した。これによって、双方の信仰が認められたことになり、長きに渡った内戦は終結したのである。 アンリ4世は疲弊した国土の回復に努め、産業を保護し、荒廃したパリの街を整備し、その功績と闊達な人柄で、広く人民にも愛された。ところが1610年5月、重臣の見舞いの為ルーブル宮を出た際、狂信的なカトリック教徒の男に襲われ、四輪馬車の外から右の頸動脈を一突きされて、命を落としたのである。

*黒幕説が囁かれることとなった理由  すぐさま取り押さえられた男は、自身の単独の犯行であることを主張したまま処刑された。だが、これにて一件落着とはならない。この暗殺事件には、陰で糸を引いた黒幕がいると囁かれた。その根拠は、当日の異様に手薄な警備である。国王の外出の際には必ず護衛に就くはずの衛兵隊がおらず、併走するはずの供回りの騎兵も、アンリ4世の馬車からずっと後方へ引き離されていた。而も、王の馬車が狭い路地に入ったところで、前方に1台の荷車がやって来た為、従者はそれを除けさせようとして王の側を離れてしまう。丁度その時現れた男が、馬車の外から王を刺したのである。だが、四輪馬車の外側から急所に狙いを定めるには難しい。王の行動やその場の状況を、あらかじめ事細かに把握していなければ出来ないことである。その為、王のごく身近にいた者が王の行動を計算しながら綿密に計画を練り、それを実行させたと考えられた。

*真っ先に疑いの目が向けられた人物はーーー  この事件の本当の犯人は、誰あろう、王妃のマリー・ド・メディシスだという噂が、早くからパリに流れた。 アンリ4世とマリーは、酷く仲が悪かった。マリーはイタリアの大富豪メディチ家の出身。メディチに莫大な借金をしていたアンリ4世は、マリーとの結婚によってそれが帳消しになり、而も持参金が手に入るというので結婚したのだ。 当時の王侯の婚姻は政略結婚が一般的であった為、国王が愛人を持つことに寛容であったが、アンリ4世はことに好色で大勢の愛人を抱え、一方のマリーは並外れて嫉妬深く、夫の行動に常に苛立っていたという。而もアンリ4世は、暗殺される直前に、マリーの王妃としての戴冠式を行なっている。これによって彼女は、王が不在だった場合や次期国王がまだ幼い場合に、摂政として統治権を手にすることが出来るようになった。そしてこの戴冠はマリーの強い希望によって実現したもので、あまりにタイミングが好過ぎた。 画してアンリ4世の死後、アンリ4世とマリーの息子がルイ13世として王位に就くと、マリーはその摂政として長く実験を握ることとなった。

*女たちの恨みを買っていたアンリ4世  また、前王妃のマルグリットも暗殺に加担していたという説もある。マルグリットは先の王家ヴァロワ家出身で、カトリーヌ・ド・メディシスとアンリ2世の娘。兄にはフランソワ2世とシャルル9世、アンジュー公アンリ(後のアンリ3世)がいる。アンリ4世にとっては王位に近づく政略結婚の相手だったが、アンリが王位に就くと、もう用は無いとばかりに離縁されていたのである。更に愛人のアンリエット・ダントーラまでが、計画に加わっていたという説さえある。アンリは多くの愛人の間を行き来し、蔑ろにされたアンリエットは恨みを抱いていたというのだ。つまり、復讐と同時に権力を握りたい王妃たる妻、復讐に燃える元王妃たる前妻、そして愛人によってアンリ4世は葬り去られたことになるが、果してどうだろう。

*憐れなアンリ4世の首の行方  時代は下って、19世紀のこと。サン・ドニ聖堂に葬られていたアンリの遺体から、首がなくなっていることが発見された。どうやらフランス革命の混乱の最中に、盗み出されたらしい。その後、アンリの首と思しきものが古美術商の間で売りに出され、持ち主の間を転々とした後、2010年、ポワンカレ大学の法医学チームが、これがアンリ4世の首であると発表したが、その首はまだ歴代国王の眠るサン・ドニ大聖堂へは戻っていない。国民に愛された王と謂えども、安らかに眠ることは中々出来ないようだ。


マリーの摂政就任を描いた「アンリ4世の神格化とマリーの摂政宣言」
                           (ルーベンス ルーブル美術館)


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◆第二次大戦中にアジア諸国で略奪 「旧日本軍の埋めた財宝」が、フィリピンで今なお探されている!

2019-03-26 04:07:31 | Weblog


マル福金貨、フィリピンで軍票(占領地で発行される紙幣)の代わりに用いられた金貨で、ルソン島に1万枚埋まっているとされる。


フィリピンのルソン島では、トレジャーハンターを中心に、地元の人までが、島の様々なところで財宝探しをしているという。ルソン島のあちこちに財宝が埋まっている、という伝説があるからだ。 その伝説で語られる財宝とは、第二次世界大戦中に日本軍が占領したアジアの国々から略奪した金塊や貴金属、宝石、文化財などのこと。
その量は、一説には金塊だけでも4000~6000㌧、総額1000億㌦以上にもなるという。日本軍は、アジア諸国で略奪したお宝を日本に送る為に、日本との中継地であるフィリピンのルソン島に集めていた。ところが、戦局の悪化によって制海権を奪われ、財宝を日本に送る手立てを失い、そのうちに米軍のフィリピン上陸を迎えたのである。この時、マニラに居たのが日本陸軍の第14方面軍で、司令官は山下奉文大将だった。山下大将は、昭和16(1941)年のマレー侵攻作戦の際に軍司令官を務めた人物である。イギリス軍を撃破しながらマレー半島を南下した後、予想外の速さでイギリス軍の拠点シンガポールを攻略し、「マレーの虎」と絶賛された名将だ。 山下大将は、アメリカ軍の上陸を前にして、マニラからルソン島中北部へと後退を開始。その際、膨大な量の財宝を、途中の様々な場所に埋めたと伝えられている。伝説の財宝は「山下財宝」と呼ばれて、ルソン島のみならずフィリピン全土で知られており、今尚財宝の存在をほとんどの人が信じているというのである。

*遂に発見された「黄金製の仏像」  では、山下財宝は本当に存在するのか?確かに世界の財宝伝説の多くは虚構であり、詐欺話も多い。しかし、山下伝説の場合、実際にその財宝の一部と思われるものが発見されたことがあるのだ。昭和45(1970)年12月、ルソン島中央部の都市バギオの北70㌔㍍のロー谷という場所で、ゴールデン・ブッダ(黄金製の仏像)と金の塊(インゴット)40本が発見されたのだ。発見者は有名なトレジャーハンターのロハスという人物。財宝が発見される少し前、彼のもとに元日本軍の工兵隊の軍曹がやって来て、ロー谷に巨大な地下壕があり、そこに財宝を埋めたと話し、地図まで渡したというのだ。そこでロハスが教えられた場所を掘ったところ、財宝が発見されたというわけだ。 残念ながら、ゴールデン・ブッダは、時の権力者のマルコス大統領に盗難品だと難癖をつけられ奪われてしまう。15日後に返還された際には真鍮製のものとすり替えられており、本物はその後行方不明となってしまった。 とはいえ、フィリピンでは実際に財宝が発見されたのだ。 山下財宝が実在する可能性は充分あり得る。もしかしたら、近い将来、莫大な財宝がルソン島の何処かで発見されるかも知れない。



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◆薩長同盟を仲介した明治維新の功労者 坂本龍馬を陰で操っていた存在とは

2019-03-25 03:48:38 | Weblog

幕末の志士にして薩長同盟の立役者である坂本龍馬。他にも日本初の株式会社「亀山社中」の設立や、第二次長州征伐に於ける活躍、明治政府の骨子を創った船中八策、更には、大政奉還の発案など、その生涯はほとんど伝説と化しているが、彼について密かに語られている伝説がもう一つある。
何と彼の活躍の裏には、秘密結社フリーメイソンの存在があったというのだ。フリーメイソンといえば社会的地位の高い人々が集まるイギリス発祥の世界的な秘密結社。世界を裏で操っているとも言われる存在だ。そのフリーメイソンと、当時はアジアの片隅の小国日本の一武士に過ぎなかった龍馬。どの様な繋がりがあったのだろうか。

龍馬に黒幕がいたことを示すのが、慶応元(1865)年の亀山社中設立後、その3か月後に7800挺もの銃を外国から仕入れた事実である。一介の武士にしか過ぎない龍馬が一人で大量の武器を短期間で入手するのはほぼ不可能だ。
それを主導した黒幕は、長崎のグラバー邸にその名を残す、武器商人のトーマス・グラバー。グラバーと龍馬は長崎の豪商小曾根英四郎の紹介で出会ったという。
このグラバーは薩長運動に加担し、長州藩士や薩摩藩士らの若者をヨーロッパに密航させている。龍馬は海外の知識や流通ルートを授けられたと謂われる。そして、このグラバーこそがフリーメイソンの会員だったのである。もちろん本人は公にはしていない。
長崎のグラバー邸には、コンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンのシンボルマークが入った石柱や石碑がある。もとは別の場所にあったものを昭和42(1967)年に移築したものだが、関わりがある為移されたのだろう。
更にグラバーの父はフリーメイソンが多いと言われる海軍関係者(イギリス海軍大尉)であったし、グラバーが上海に渡って入社した「ジャーディン・マセソン商会」もフリーメイソンの関わる会社であった。グラバーが会員でない方が不自然だ。
来日して長崎代理店「グラバー商会」を設立したグラバーの真の目的は、開港によるビジネス拡大にあった。その為には開港の拡大を渋る幕府を倒さねばならない。その計画を進める中で出会ったのが龍馬だったのである。グラバーは龍馬の人柄と自由な発想を見抜き、自らの描く討幕プランのキーマンになると確信。以降、グラバーがプロデューサー、龍馬がエージェントとして動き出したのである。
そして最大の活躍となったのが亀山社中の設立と薩長連合だ。
龍馬の動静は11月から半年程不明なのだが、この間龍馬は薩摩を訪れると共に長崎入りしてグラバーと密談したのだろう。
翌年5月に設立する亀山社中の結成についてや薩長同盟についての案を練ったと思われる。以降、龍馬は次々それらを実現して行くのである。

グラバーはフリーメイソンの秘密主義から龍馬との関わりを意図的に記録に残さなかったが、それでも後に「薩長の間にあった壁を壊したのが自分の一番の手柄」と語っている。


グラバー園の敷地内に残るフリーメイソンのシンボルマーク


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◆享保の改革を推進した八代将軍 徳川吉宗が将軍になれたのは血塗られた陰謀ゆえか?

2019-03-24 04:17:13 | Weblog

紀州藩主から将軍になった八代将軍徳川吉宗は、享保の改革を推進し、「徳川幕府の中興の祖」と称えられる名君である。
目安箱の設置や大岡忠相の登用といった業績から、温情ある為政者という印象を持っている人が多いだろう。だが吉宗が将軍になるまでの道程は、何とも血生臭い裏工作によるものだったとも謂われている。何故なら吉宗が紀州藩主、更に将軍に就任するにあたり、ライバルたちが都合よく次々に急死して行ったからである。不自然ともいえる偶然の裏には、吉宗の黒い野心がうごめいていたのではないだろうか。
そもそも紀州藩主徳川光貞の四男に生まれた吉宗は、将軍はおろか紀州藩主にさえ手の届かないはずの身の上だった。ところが父の隠居を受けて紀州藩主を継いでいた長兄の綱教が宝永2(1705)年5月、41歳の若さで亡くなると、同年8月には父の光貞、更に9月には兄の跡を継いだ三男の頼職(次兄は早世)が後継ぎを残さず病死してしまう。吉宗は4か月の間に父と兄2人を一挙に失い、図らずもその手に紀州藩主の座が転がり込んで来たのである。
老父はともかく兄2人の相次ぐ死について、当時から吉宗には不審の芽が剥けられていた節がある。少なくとも頼職の側近らは吉宗に疑惑を抱き、紀州藩主の医師を信用せず、幕府に医師の派遣を要請していたと謂われる。紀州城下でもこの不審死に纏わる噂が広まり、事件について口にしないようにとお達しが出たほど。これほど噂が流布したのは、やはり紀州藩主の連続死を人々も怪しんでいたからだろう。
血塗られた噂と共に紀州藩主になった吉宗だったが、その野心は紀州藩主に留まることなく、将軍後継争いにまで及んで行く。
正徳6(1716)年、8歳の七代将軍家継が危篤に陥った。これより前、家継の父の六代将軍家宣はこの事態を想定し、御三家の尾張の徳川吉通を後継に指名していた。だが家継危篤の時には、既に、指名されていた吉通ばかりか、その子五郎太もこの世の人ではなかったのである。特に吉通は饅頭を食べて血を吐いての頓死という暗殺としか思えない不審死を遂げており、その直後に3歳の五郎太も急死。こうして尾張家は後継レースから外れて行く。
あまりにも吉宗に都合の好過ぎるライバルの連続死という偶然も、ここまで重なれば不気味でさえある。吉宗による暗殺説が人の口にのぼるのも当然である。

*忍びの者に下された暗殺指令
 而も恐ろしいことに、吉宗はこれらの暗殺を実行する部隊を抱えていたと謂う。吉宗は幕府の御庭番(隠密)を創設したことでも知られるが、紀州藩主時代から「町廻目付」と呼ばれる密偵を活用していた。いち早く忍びとのコネクションを持ち、命を下していたのだ。吉通が悶死した際、尾張藩士・朝日重章の日記「鸚鵡籠中記」には、紀州藩の隠密らしき者が尾張藩邸の様子を窺っていたという記述もある。
なによりその後の吉宗の猛烈な政界工作を見ると、ライバルの暗殺説も現実味を増して来る。尾張家には吉通お弟の継友がおり、次代の有力候補であったが、吉宗は賺さず将軍継承に発言力を持つ大奥や水戸家、譜代を味方に取り込んで行った。そして、家宣の正室の天英院に取り入り、家宣の遺言として将軍就任を要請されるという離れ業までやってのけたのだ。継友は後に38歳の若さで疑惑の死を遂げている。
こうして見ると、吉宗が将軍になるまでのあまりに都合の好い展開には、後に御庭番となる隠密の影があったと仮定すると、全ての辻褄が合うのではないだろうか。

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◆仏教の受容を巡る蘇我氏と物部氏の論争はあったのか?

2019-03-23 03:54:50 | Weblog




「古代の有力豪族である蘇我氏と物部氏は仏教の信仰を巡って激しく対立した。この争いは『崇仏論争』と呼ばれるが、実は対立の原因は他にあったとされる。」

「日本書紀」によれば、欽明13(552)年、百済の聖明王から欽明天皇に仏像や経論が贈られ、天皇は仏教信仰を受け入れるべきか否か臣下に問うことにした。
すると、大臣(おおおみ)の蘇我稲目は「西隣の朝鮮諸国がみな礼拝しているのに、倭国だけが拒むわけには参りません」と答えて賛成した。
しかし、大連(おおむらじ)の物部尾輿と連の中臣鎌子が「我が国の王が蕃神(あたしくにのかみ・外国の神)を礼拝すれば、必ず国神(我が国古来の神)の怒りを受けるに違いありません」と猛烈に反対した。
そこで、天皇は受け入れを望んだ稲目にだけ個人的に仏教を信仰することを許した。稲目は小墾田(奈良県明日香村一帯)の家に仏像を安置して仏道を修め、向原の家を清めて寺にした。ところが、間もなく疫病が流行り、死者が出るようになった。尾輿と鎌子は疫病流行の原因が仏教信仰にあるとして、仏教を禁じるよう天皇に上奏した。天皇は尾輿と鎌子の上奏を聞き入れ、仏像を難波の堀江に投げ捨てるよう役人に命じ、寺も焼かせたと謂う。

仏教の日本伝来の年代については宣化3(538)年とする説が有力だが、いずれにしても6世紀の前半から中頃にかけて日本(倭)に仏教が齎されたことは間違いない。そして、上述のような仏教信仰を巡り稲目と尾輿・鎌子とが対立し、「崇仏論争」が始まったと謂うのがこれまでの通説だ。
崇仏論争の主役は崇仏派の蘇我氏と排仏(廃仏)派の物部氏で、論争は稲目・尾輿の子の代にまで引き継がれた。敏達13(584)年、稲目の子・馬子は自宅の東方に仏殿を建て、百済から齎された弥勒石像を安置して法会を行うなどして仏教の普及に努めた。
これに反発したのが尾輿の子・守屋で、同年、痘瘡(天然痘)が流行(馬子も罹患)と敏達天皇に訴えた。天皇が守屋や勝海の上奏に同意し仏教の禁止を命じると、守屋は自ら寺に出向いて塔を倒し、仏殿を焼いて仏像を難波の堀江に捨てさせた。また、馬子が育成した僧尼を捕らえて鞭打ちの刑に処した。
ところが、その後、天皇も守屋も痘瘡に罹患し、今度は逆に疫病流行の原因は仏の祟りだと噂されるようになった。すると、天皇は馬子の崇仏を認め、3人の僧尼を馬子のもとへ返した。

*実は物部氏も寺を造営していた
 敏達天皇が崩御し用明天皇の時代になっても、馬子(蘇我氏)と守屋(物部氏)の対立は続いた。用明2(587)年、天皇が病み、仏教へ帰依を表明してその可否を重臣らに協議させた。すると、馬子は支持したが、守屋と勝海は反対した、
しかし、用明天皇崩御後、馬子の守屋討滅が始まる。先ず、守屋が敏達の次の天皇にしようと企てた穴穂部皇子を殺害。次に守屋と組んでいた勝海も暗殺した。そして、守屋討滅の兵を挙げると、守屋が逃れていた渋川(渋河)の衣摺(大阪府東大阪市)を襲い、守屋を討った。物部氏は滅び、蘇我・物部両氏の対立は終わり、崇仏論争も決着がついた。

以上が崇仏論争の内容だが、近年、この従来の見方に異論が唱えられている。それは、蘇我氏と物部氏の対立は崇仏論争とは関係がなかったという指摘である。その根拠の一つが、渋川での仏教の普及。物部氏は排仏派と言われたが渡来人との交流もあり、実は物部氏の勢力圏である渋川では渡来系集団を中心に仏教が浸透していたのだ。また、物部氏の勢力圏には寺院跡の渋川廃寺(大阪府八尾市)や石上廃寺(奈良県天理市)があり、物部氏が寺を造営していたことも明らかになっている。

一方の蘇我氏も崇仏一辺倒ではなく祭祀も行っており、従来の神祇祭祀を否定していたわけではなかった。
国際日本文化研究センター教授・倉本一宏氏によれば、「蘇我氏が崇仏派の先頭に立ったとされるのは、『日本書紀』が何らかの『飛鳥寺系縁起』を原史料とした為」(倉本一宏『蘇我氏ー古代豪族の興亡』中公新書)だという。
飛鳥寺創建の由来を伝える「飛鳥寺縁起」では蘇我氏の仏教興隆に於ける役割と物部氏の「仏敵」としての存在が協調されており、「日本書紀」がこれを原史料としたのであれば、当然、蘇我氏は崇仏派、物部氏は排仏派として描かれるはずだ。
倉本氏はまた、蘇我氏が「配下に渡来系氏族を多く擁しており、大臣として倭国の外交を主導していたという立場によるのであろう。東アジア情勢の中での国際的な顧慮が働いたことになる」(前掲書)と述べている。

蘇我氏と物部氏の対立が崇仏論争が原因ではなかったとすると、では対立の真因は何であったのか。
倉本氏は「倭王権の主導権争い以外の何物でもない」(前掲書)という。
結局、物部氏が蘇我氏の崇仏に反対したのは、蘇我氏に政権の主導権を取られるのを阻止する為であり、両者の対立はあくまでも権力闘争だったのだ。

                日本史最後の謎
                   ベールに包まれた神話と古代王権の謎 1-5

 


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◆人魚の肉を食べて八百年生きた娘「八百比丘尼」

2019-03-21 04:20:05 | Weblog



人間の寿命は現代でも精々八十年ほどである。医学が未発達だった時代に於いては三十~四十歳くらいが寿命だったようだ。だが人間が八百年という途方もない年月を生きたという伝説がある。八百比丘尼(やおびくに)伝説である。
若狭国小浜(福井県)の空印寺に一人の尼僧が住んでいた。
その容貌は十五~六歳の少女のようでありながら、実は八百歳。そのことから「八百比丘尼」や、いつまでも若いままで肌が雪のように白い為「白比丘尼」とも呼ばれた。
伝承によると、この尼僧が超人的な長寿になったのは、人魚の肉を食べたからだと謂う。
八百比丘尼については幾つもの伝承がある。
林羅山の著作「本明神社考」には次のような話がある。
若狭の国に白比丘尼と称する者があった。その父がある時、山中で異人に会い、別世界に連れて行かれた。その異人は父にある物を与え、これは人魚の肉であり、これを食べれば老いることがない、と言った。父がそれを持って家に帰ったところ、白比丘尼が父の着物を取り、袖の中に忍ばせていた人魚の肉を食べてしまった。これによって白比丘尼は、長寿を得たとある。
しかし、周囲の者が皆亡くなっても娘は生き続けねばならない。百二十歳になった彼女は出家して全国を回り、やがて八百歳の時に小浜の洞窟で入定したと謂う。
一方、「捨推雑話」「笈埃随筆」では八百比丘尼は、小浜の高橋長者の娘とされている。
小浜の長者たちの集まりがあり、海辺に住む人の所で催すことになった。その日長者たちがふと炊事場を覗くと俎板(まないた)に少女のような生き物をのせて料理をしている。気味が悪いので皆が焼き物に箸を付けずにおくと、帰り際に土産に持たせてくれた。長者たちは土産の焼き物にも口を付けなかったが、それを長者の娘が知らずに食べてしまい、数百年も年を取らずに生きて八百比丘尼と呼ばれたと謂う。その後で、海辺の人とは竜宮城の人で、焼き物は人魚の肉であったと説明している。
現在も小浜市に残る空印寺は八百比丘尼が最後に住んだとされる寺で、門前に、八百比丘尼がそこで入定したとされる洞窟がある。八百比丘尼伝説にあやかり、今も健康と長寿を祈る人のお参りが絶えない。

              日本史ミステリー
                 コラム 日本を騒がせた超人伝説 其のニ 長寿伝説


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マーマレードブッシュ(Mamalade Bush) Streptosolen jamesonii 嫉妬

2019-03-20 04:27:54 | Weblog

 


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◆日本最古の古墳 大仙陵古墳は仁徳天皇陵なのか?

2019-03-19 04:07:21 | Weblog

『日本最大の古墳である大仙陵古墳は仁徳天皇陵と謂われて来たが、近年の調査・研究により仁徳天皇陵であることを否定する説が有力だとされる。』
 大阪府堺市にある墳丘長486㍍の日本最大の古墳(前方後円墳)は、嘗ては教科書に「仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)」として記載されていた。
ところが、近年の教科書には「大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)」または「大仙古墳(伝仁徳陵)」などと表記され、仁徳天皇陵であることを敢えて協調しなくなった。そして、被葬者についても第16代の仁徳天皇ではなく「5世紀のヤマト政権の大王」としている。そこで、近年の研究成果によって国(政府)も大仙陵古墳は仁徳陵ではないことを認めたのかと思いがちだが、これはあくまでも教科書の世界の話で、宮内庁の比定による被葬者は依然として仁徳天皇である。
では、大仙陵古墳の本当の被葬者は誰なのだろうか。
そもそも大仙陵古墳が仁徳陵と定められたのは、江戸時代まで遡る。江戸中・後期の国学者・本居宣長や江戸後期の尊王論者・蒲生君平などの学者らが調査・研究を行い、次々と古墳の被葬者を特定して行ったことが始まりだ。その調査・研究者が明治政府に受け継がれ、今日に至っているというわけである。
ところが、その後の調査・研究や文献との照合などから宮内庁の比定に誤りがあると指摘されるようになった。その典型例が第26代の継体天皇陵だ。宮内庁の比定によれば継体陵は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)になるが、学者・研究者らの調査によって現在では今城塚古墳(大阪府高槻市)こそが本当の継体陵だと見られている。同様に、大仙陵古墳についても学者・研究者らの間から疑問が呈され、その結果、教科書の表記も前述したように変わって来たのである。

*百舌鳥三陵の謎解きに挑む研究者
 大仙陵古墳は堺市の大阪湾岸に展開する百舌鳥古墳群の一つだ。この地域には日本最大の大仙陵古墳や上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵。墳丘長365㍍)・土師ニサンザイ古墳(墳丘長288㍍という巨大古墳をはじめ100基以上の古墳があった。その中で、というより日本全国に造られた古墳の中で最長・最大の古墳が大仙陵古墳であり、確かに古代の天皇(大王)陵に相応しく思える。しかし、仁徳が在位していたのが4世紀と伝えられているのに、古墳の形状や出土した円筒埴輪の形式などから推定すると、古墳の築造年代が5世紀であることが分かったのだ。
そこで、これまでに多くの学者・研究者らによって、大仙陵古墳を含む「百舌鳥三陵」と呼ばれる上石津ミサンザイ古墳・田出井山古墳(反正天皇陵)の3陵の被葬者を解明しようとする研究が行われて来た。しかし、その作業(謎解き)は難解で未だスッキリした解答が出て来ていないのが現状である。
そもそも3陵が、仁徳・履中(17代)・反正(18代)の天皇陵であると比定された根拠は「古事記」「日本書紀」「延喜式」(律令の施行細則を集成した法典。927年完成)の記述であり、3陵の記述によると確かにどれも百舌鳥古墳群の中にあることは間違いない。
そして、「延喜式」によると3陵の規模と位置関係は「中陵(なかのみささぎ)の仁徳陵が最大で中央にあり、「南陵(みなみのみささぎ)」の履中陵が次に大きく中陵の南にあり、「北陵(きたのみささぎ)」の反正陵が最小で中陵の北にあると謂う。
ところが、その後、上石津ミサンザイ古墳の方が大仙陵古墳より築造年代が古い古墳であることが分かった。また、田出井山古墳(墳丘長148㍍)が天皇陵にしてはあまりに小さ過ぎるという指摘もあった。更に、田出井山古墳の築造年代が反正の在位した時期よりかなり新しいことも判明した。
そこで、3陵を見直し、例えば、中陵を大仙陵古墳ではなく上石津ミサンザイ古墳と見る説もある。そして、南陵を上石津ミサンザイ古墳の直ぐ南にあった百舌鳥大塚山古墳(墳丘168㍍。都市開発で消滅)、北陵を大仙陵古墳とする。しかし、これでは中陵が最大という「延喜式」の記述に会わなくなる。
また、中陵と南陵は従来の説のままとし、北陵を田出井山古墳ではなく土師ニサンザイ古墳と見る説もある。しかし、土師ニサンザイ古墳は大仙陵古墳の南東にあり北陵とするには無理がある。更に、中陵を百舌鳥御廟山古墳(墳丘長203㍍)とする説もあるが、これだと南陵が上石津ミサンザイ古墳でよしとしても、北陵が大仙陵古墳となってしまい大きさが釣り合わない。
というように、この謎解きは解法の前提条件である「古事記」「日本書紀」「延喜式」の記述が果たしてどこまで正解なのかという問題があり、解答不能のようなところがあるのだ。結局、この謎を解明するには、宮内庁が禁じている学者や研究者による天皇陵古墳の立ち入り調査が望まれるが、その実現は難しく謎解きにはまだ時間がかかりそうだ。



                    日本史最後の謎
                       ベールに包まれた神話と古代王権の謎 1-4


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ハーデンべルギア(小町藤・Coral pea) Hardenbergiaviolacea 過去の愛 奇跡的な再会

2019-03-18 14:35:14 | Weblog

 


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桃源郷

2019-03-17 04:35:05 | Weblog



昔々、大きな川の側に、小さな村がありました。
その村に、黄と云う漁師が住んでいました。

ある日の事、黄は、ふと思いました。
「この川の水は、どんな所から流れて来るのだろうか?
よし、見に行こう!」

黄は仕事を止めて、川上の方へ舟を漕いで行きました。

何処までもどこまでも漕いで行くと、川幅は段々狭くなって行きます。
川底も段々浅くなって、舟はとうとう進めなくなりました。

「仕方がない。ここから先は歩いていくか。」

黄は木に舟を繋ぐと、そのままどんどん歩いて行きました。

するとやがて、目の前に広い桃の木の林が広がりました。
花は満開で、桃の良い香りが一面に流れています。
「ほう!こんな所があったのか。」
黄がそのまま川縁を歩いて行くと、
とうとう川の始まりのところに着きました。

その先は高い岩山で、岩の間から水がちょろちょろ流れています。
「ここが始まりの様だが、
どうせなら岩山の向う側も見て見たいなあ~。」

幸い小さな洞穴があったので、
黄は体を屈めて奥へ奥へと入って行きました。

長い間進んだ黄は、やっと出た向う側を見てビックリ。
目の前には広い野原が広がっていて、畑も湖も森も、
そして家もたくさんあります。
黄の姿を見つけた犬が、大きな声で吠えました。
その声で畑に居た人も家にいた人も、みんな黄の周りに集まりました。
そして一人の老人が、黄の前に進み出て言いました。

「私は、ここの村長です。
ここは桃源郷と言って、普通の人の知らない所です。
よくここまで、来る事が出来ましたな。
さあ、お疲れでしょう。私の家まで、おいで下さい。」

黄は、村長の後に着いて行きました。
村長は、色々な御馳走をしてくれました。

「ところで黄さん、この村の出来た訳を話しましょう。
昔、中国には、秦の始皇帝と云う王様がいた事は知っていますね。
我がままで、乱暴で、大勢の人を殺した酷い王様だったそうです。
その時に殺されそうになった人たちが、コッソリここに逃げて来たのです。そしてその人たちが、この村を作ったのです。
それが、私たちの先祖です。
ここには、喧嘩も争いもありません。
みんなが楽しく暮らしている、とても平和な村です。
ですから黄さん、あなたがここに来た事は、絶対に誰にも言わないで下さい。約束して下さい。お願いです!」

「はい。絶対に、誰にも言いません。」

黄は村長に、固い約束をして帰りました。

さて、自分の村に帰った黄ですが、あれ以来、
あの美しい平和な村が忘れられません。
そこで友だちと酒を飲みながら、遂に喋ってしまったのです。
するとその友だちが、また友だちに喋ったのです。

こうして桃源郷の噂は、役人にまで知られてしまいました。

「黄、お前は桃源郷と云う所に行ったそうだな。
俺を、そこに案内しろ!」

仕方なく黄は、役人を舟に乗せて川を上って行きました。

そして、あの美しい桃の林も通りました。

ところがどうした事か、何処まで行っても、
あの時の岩山も洞穴も見つからないのです。

「おかしいな!?道に迷うはずはないのだが・・・。」

それからも黄と役人は何度か桃源郷を目指しましたが、
桃源郷を見つける事は出来なかったそうです。

                    「世界昔ばなし 中国の昔ばなし」より


*中国の晋の時代、詩人の「陶淵明」という人が「桃花源記」を書いています。
それが桃源郷と言われるものです。
中国、湖南省常徳市の郊外にある桃源県の桃花源という村が、桃源郷のモデルとも言われています。

 

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◆大坂夏の陣で討ち死にした 豊臣の猛将「後藤又兵衛」の名を冠した桜が、今も咲き誇る

2019-03-16 04:41:41 | Weblog



 奈良県北部の宇陀市大宇陀区本郷に、樹齢300年ほどの枝垂れ桜がある。
NHKの大河ドラマに映像が使用されたこともあって知名度は高く、地元の人のみならず、畿内一円から多くの人が花見に訪れる全国有数の花見スポットとなっている。
この桜の名は「又兵衛桜」と謂う。又兵衛とは黒田孝高(如水)・長政父子に仕え、豊臣秀吉の九州征伐や文禄の役、関ケ原の戦いなどで武功を挙げた戦国時代の武将・後藤又兵衛のことである。
それにしても何故、後藤又兵衛の名前がついた枝垂れ桜が奈良の地にあるのか?
又兵衛は現在の兵庫県加西市で生まれ、黒田家に仕えた武将であり、後に長政と仲たがいして浪人となり、大坂の陣に際して豊臣方に加勢。夏の陣の道明寺の戦いで戦死している。その生涯に於いて、奈良県とは何の接点もないように思える。
しかし、実は又兵衛は、奈良県の宇陀市でその人生を終えたという伝説があるのだ。宇陀市に残る伝説によると、又兵衛は、大坂夏の陣で負傷したものの一命を取り止め、知人を頼って宇陀へ逃げ延びて来たと謂う。徳川との再選を夢見ていた又兵衛は、この地で傷を癒しながら挙兵の機会を待っていたが、徳川の世が盤石になったと知ると、僧となって「水貝」と名を改め、余生を送ったというのである。
又兵衛桜のある場所は、この地に何軒かある後藤姓を名乗る富農の屋敷地で、同区の薬師寺には又兵衛の墓も残っている。
又兵衛の墓と伝わる場所は、宇陀市大宇陀区の他にも、出生地とされる加西市をはじめ、姫路市、鳥取市、伊予市、松山市、中津氏など、各地に存在している。その中には、宇陀市と同様に、大坂の陣を生き延びた又兵衛がその地に辿り着き、その地で死亡したという説がもとになっているものも多いのだ。
例えば、大分県中津市も、大坂から逃げ延びた又兵衛がこの地でその後の人生を送ったとされる場所だ。又兵衛は同地に戻って妾宅に身を隠し、手習いなどを教えて生活したと謂う。
こうした伝説が残るのは、策略を弄して豊臣方の戦端を開き、強引に豊臣家を滅ぼした徳川への憤りや、死んだ秀頼や武将たちに対する哀惜の念を抱いた庶民たちの想いもあるのだろう。しかし、各地に又兵衛の伝説が残っている以上、本当に又兵衛は生き延びた可能性は捨て切れない。


               日本史ミステリー 「もし、本当だったら.....!」
                           あの有名人物のその後の伝説


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◆ハプスブルグ家を絶望させた オーストリア皇太子が心中した「マイヤーリンク事件」の裏側

2019-03-15 04:01:26 | Weblog

1889年1月30日、オーストリアのウィーン郊外のハプスブルグ家の狩猟館マイヤーリンクで、銃声が鳴り響いた。
オーストリア皇太子ルドルフと男爵令嬢マリー・ヴェッツェラがピストルで心中したのである。
この事件は「マイヤーリンク事件」として当時のヨーロッパを騒がせ、後にこの事件を題材として、フランス人作家クロード・アネが小説「うたかたの恋」を執筆。映画やドラマをはじめ、舞台化もされた。

*若き皇太子は何故女性と共に命を絶ったのか
 オーストリアの皇太子が何故心中したのか?その背景については、当時から「許されぬ恋を貫く為だった」「別れ話を切り出されたマリーが、皇太子を殺害した後で自殺した」など、様々な憶測が飛び交った。
ルドルフは1881年にベルギーの王女ステファニーと結婚。娘も誕生したが、性格の不一致から2人の仲は冷え切っていた。結婚5年目にしてルドルフが性病に感染すると、更に夫婦関係は悪化した。そして、ルドルフは1888年に下級貴族の娘マリー・ヴェッツェラと知り合う。当初はマリーが一方的にルドルフに夢中になっていたが、やがてルドルフもマリーに惹かれ、遂にはステファニーとの離婚を認めてもらう為の書簡をローマ教皇へ送るほどになった。しかし当然、ローマ教皇はこれを却下。而も不許可と回答した書簡を、ルドルフではなく父帝フランツ・ヨーゼフ1世に送った為、事情を知った皇帝は激怒した。やがてルドルフは鬱状態に悩むようになり、自殺願望を強めて行ったという。こうした経緯から、マイヤーリンク事件は、神経過敏で虚弱体質だったルドルフが、酒と女に溺れ、自殺願望に取りつかれた末の心中だったと結論付けられた。

*最後の皇后による証言で判明した「新事実」
 しかし、1983年、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇后ツィタが、ルドルフは暗殺されたと新聞に発表し、90年前の事件の結末に再びスポットライトが当てられた。
ツィタの主張によると、彼女の夫で最後の皇帝となったカール1世は、当時、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からルドルフが暗殺された証拠を見せられ、ルドルフの名誉回復を図るべく、真相解明を頼まれたが、第二次世界大戦などでそれが出来ず、発表が遅くなったというものだった。
ツィタによれば、2人が死んでいたマイヤーリンクの部屋の壁には、弾痕や血痕が多く残り、家具がひっくり返るなど激しく争った跡があったという。更に、ルドルフの遺体を見た皇帝の義妹のルートヴィ大公妃や母后エリザベートの兄ブルボン・パルマ公が、ルドルフの右手が破壊されていたようだと証言した。後者に至ってはサーベルで切り落とされたとされていたと語ったという。

*愛人との心中か、それとも政治的な暗殺か
 では、暗殺だとすれば、誰が何故ルドルフを殺したのか?
実は、ルドルフは母エリザベートにより自由主義思想の影響を強く受け、君主制やカトリック教会を痛烈に非難する記事を新聞に投稿するといった活動を行なっていた。その為、オーストリア貴族の多くを敵に回しており、父親である皇帝とも深い軋轢が生まれていた。
更に、国外にもルドルフを快く思わなかった人々がいた。当時のオーストリアはプロイセンによるドイツ統一戦争の中で普墺戦争に敗れた後、成立したドイツ帝国との和解を進めていた。しかしルドルフのドイツに対する不信は強く、父の親独方針にも反対していた。こうなると当時のドイツの宰相ビスマルクにとっても、邪魔な存在となっていたのだ。
このように状況証拠のみならず、他殺を窺わせるだけの周囲の人々の動機は確実に存在するのだ。果たしてルドルフとマリーの死は本当に心中だったのか?それとも暗殺だったのか?
事の真相は今も謎のままだが、ツィタ皇后の証言が進む中、2015年にまたも新たな発見があった。マリーが死ぬ前にウィーンの銀行に預けていた革の書類入れから、彼女の遺言が発見されたのだ。そこには「私は愛に逆らえない。生きているより死んだ方が幸せ」と綴られていた。
やはりその願い通り、2人は共に天国へと旅立ったのかも知れない。


1889年当時の狩猟用別邸マイヤーリンク


オーストリア・ハンガリー二重帝国皇太子ルドルフ(30歳)


17歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラ


                 世界史ミステリー その事件は仕組まれていた?
                            黒すぎる「陰謀」のミステリー


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◆唐の玄宗を惑わせた傾国の美女 山口県に伝わる「楊貴妃の墓」が示すもの

2019-03-12 03:55:57 | Weblog


山口県長門市油谷の二尊院に伝わる楊貴妃の墓

エジプトのクレオパトラ、日本の歌人・小野小町と共に世界三大美女の一人に数えられる唐の楊貴妃。唐王朝の名君・玄宗の第十八皇子の妃であったが、玄宗に見初められ寵愛された。
玄宗はことのほか楊貴妃を愛で、その結果、政に無関心になり、節度使・安禄山の反乱を招いてしまう。
東の洛陽を攻略され、いよいよ首都長安が危うくなると、玄宗は楊貴妃を伴って長安を脱出し、蜀へ逃れようとした。しかし途中、反乱の元凶を楊一族と見る近衛兵が馬嵬でボイコットを起こし、楊貴妃の処刑を要求する。玄宗は何とか命だけは助けたいと庇ったが、楊貴妃が一緒では護衛できないと主張する近衛兵を前に、泣く泣く楊貴妃に別れを告げたのである。
かくして楊貴妃は縊死を命じられ、三十八年の生涯を終えた。
その後、安禄山の乱が鎮まり、暫く経ってからのことである。玄宗は逃亡時、急ごしらえで築いた楊貴妃の墓を、せめて立派に改葬してやりたいと思い立った。そこで馬嵬に築かれた墓を掘り起こしてみたのだが、地中から出て来たのは、何故か楊貴妃が使っていた香袋だけだったのである。これは唐代の歴史を記した正史「新唐書」にある記事だから、信憑性は高い。
ここから、楊貴妃は刑の執行後に息を吹き返した、或いは、楊貴妃として処刑されたのは侍女で、本人はコッソリ逃げたなどの説が浮上して来たのである。
楊貴妃の処刑法は、布で絞めるものだったから、処刑人の手加減によっては蘇生出来たかも知れないし、玄宗の命で替え玉が処刑された可能性もある。

*楊貴妃の為に建てられた二尊院
 では、逃げ延びた楊貴妃はいったい何処へ行ったのだろうか?
逃亡先の一つとして挙げられているのが、何と日本である。
実は山口県長門市油谷町にある二尊院には、高さ1㍍50㌢ほどの五輪塔が楊貴妃の墓として伝わっているのだ。
確かに中国本土では、何時楊貴妃の生存が発覚するか分からない。そこで玄宗、或いは楊貴妃のお陰で権勢を欲しいままにした楊一族の誰かが、人脈を駆使して、楊貴妃を日本へ帰国する遣唐使船へ乗せたのだと謂う。遣唐使船で日本へやって来た楊貴妃は、本州近くで小舟に乗り換えた。そして、その小舟が辿り着いたのが山口県北西端の油谷町だった。ところが、せっかく漂着したにも係わらず楊貴妃は時を経ずして病にかかり、命を落としてしまった。それを哀れに思った人々が楊貴妃の為に建立したのが二尊院の墓だとされている。


                 日本史ミステリー 「もし、本当だったら.....!」
                         あの有名人物のその後のミステリー


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