Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

菜根譚 後集113項

2023-11-29 15:04:37 | Weblog


ハイビスカス

登高使人心曠、臨流使人意遠。
読書於雨雪之夜、使人神清、舒嘯於丘阜之嶺、使人興邁。


高きに登らば、人の心をして曠からしめ、流れに臨まば、
人の意をして遠からしむ。
書を雨雪の夜に読まば、人の神をして清からしめ、
嘯を丘阜の嶺に舒ぶれば、人の興をして邁ならしむ。


「自然の中で育む高遠な理想」
高い所で眺めると、人の心を広々させるし、
流れて止まない川を見下ろすと、
人の心を永遠なものにさせる。
書物を雨や雪の降る夜に読んでいると、
人の気持ちを澄んだものにさせるし、
小高い丘の頂でのんびりと詩を口ずさむと、
人の興趣を高遇なものにさせる。


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菜根譚 後集112項

2023-11-28 14:36:15 | Weblog


秋明菊の綿毛

雨余観山色、景象便覚新妍。
夜静聴鐘声、音響尤為清越。

雨余に山色を観ば、景象便ち新妍あるを覚ゆ。
夜静かに鐘声を聴かば、音響も清越と為す。



「風情が一段と冴え渡る時」
雨上がりに山の様子を見ると、その景色は新鮮な美しさがあるのが分る。
夜も更けて静かになって、時を知らせる鐘の音を聴くと、
その音色はこの上もなく澄んで清らかである。


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菜根譚 後集110項

2023-11-26 11:55:24 | Weblog


カランコエ

機息時、便有月到風来。不必苦海人世。
心遠処、自無車塵馬迹。何須痼疾丘山。

機息む時、便ち月到り風来たる有り、必ずしも苦海の人世にあらず。
心遠き処、自ずから車塵馬迹無し。何ぞ痼疾の丘山を須いん。
 

「世俗に在って世俗を忘れる」
何かを殊更に求める心の働きがなくなる時、
そこには月は清く輝き風も爽やかに吹いて来る。
この世は必ずしも苦しみの世界だとは限らない。
心が名誉や利益などの欲望から離れると、自然に車馬の騒がしさも感じられなくなる。
どうして長患いだと云って丘山の様な自然の中へ敢えて隠れる必要があろうか。


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菜根譚 後集106項

2023-11-22 14:25:56 | Weblog

写真の説明はありません。
クリスマスカクタス

山居胸次清洒、触物皆有佳思。
見孤雲野鶴、而起超絶之想、遇石澗流泉、而動澡雪之思。
撫老檜寒梅、而勁節挺立、侶沙鷗麋鹿、而機心頓忘。
若一走入塵寰、無論物不相関、即此身亦属贅旒夷。

山居せば、胸次清洒にして、物に触るれば皆佳思有り。
孤雲野鶴を見ては、超絶の想いを起し、石澗流泉に遇ては、
澡雪の思いを動かす。
老檜寒梅を撫しては、勁節挺立し、沙鷗麋鹿を侶としては、
機心頓に忘る。
若し一たび塵寰に走り入らば、物の相関せざるに論無く、
即ち此の身も亦贅旒に属す。
 

「俗世に在れば自由を失う」
俗世間を離れて深山に住んでいると、胸中は清々しく澄んで、
そこで触れるものはすべて素晴らしい趣がある。
たとえば、一片の雲や野の鶴を見るにつけても、世俗を超越した思いが起こり、
奇岩の多い谷川や流れる泉に遭遇すれば、心が洗い清められる思いがする。
また、檜の老木や寒中の梅を愛でていると、真っ直ぐな生き方が自覚され、
水辺の鷗や群がる鹿などを友とすると、殊更な企みの心も直ぐに忘れてしまう。
しかし、もし一旦、元の雑踏する世俗の町中に身を投じてしまうと、
関わりのないことはもちろんのこと、
この身は直ちに自由の利かない流れに巻き込まれてしまう。

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菜根譚 後集91項

2023-11-07 12:22:59 | Weblog


Wild strawberry

白氏云、不如放身心、冥然任天造。
晁氏云、不如収身心、凝然帰寂定。
放者流為猖狂、収者入於枯寂。
唯善操身心的、欛柄在手、収放自如。

白氏云う、「身心を放ちて、冥然として大造に任するに如ず」と。
晁氏云う、「身心を収めて、凝然として寂定に帰するに如ず」と。
放たば流れて猖狂と為り、収れば枯寂に入る。
唯善く身心を操もののみ、欛柄手に在り、収放自如たり。
 

「身と心の処し方」
白楽天は「身も心も自由に解き放って、
奥深く自然の為すがままに任せきるのに及ぶものはない」と言っている。
これに対して、晁補之は
「身と心の働きをできるだけ少なくして、集中して禅定に入るのに及ぶものはない」と言っている。
身心を解き放ってしまうと、それに流されて気違い沁みた行動になるし、
身心の働きを抑制し過ぎると、生命の枯れ果てた状態になってしまう。
ただ自己の身心をよく使いこなすことが出来る人だけが、
要点をシッカリ捉えて、収めるも放つも自由自在である。




 


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菜根譚 後集86項

2023-11-02 13:32:43 | Weblog

木の画像のようです

ザイフリボク、トキワサンザシの画像のようです

天地中万物、人倫万情、世界中万事、
以俗眼観、紛紛各異、以道眼観、種種是常。
何煩分別、何用取捨。

天地の中の万物、人倫の中の万情、世界の中の万事は、
俗眼を以て観ば、紛々として各おの異なるも、道眼を以て観ば、種々も是れ常なり。
何ぞ分別を煩わし、何ぞ取捨を用いんや。


「天地万物は常住不変」
天地の間にあるあらゆるもの、人間関係に於ける様々な感情、世間に於けるすべての出来事は、
これを世俗的な目で見れば、色々と入り乱れ異なっている様であるが、
もし悟りの目で見たならば、その様な色々なことも、結局はすべて常住不変の一つのことである。
だから、どうして無闇に区別をしたり、良いものは取り悪いものは捨てたりする必要があろうか。


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