Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

ソメイヨシノ 満開

2021-04-28 11:57:40 | Weblog

 


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エゾヤマザクラ 満開

2021-04-28 11:53:23 | Weblog

 

 


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ソメイヨシノ ( ^_^)o-o<※ ☆

2021-04-26 15:46:32 | Weblog

 


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エゾヤマザクラ (*^ワ^*)

2021-04-26 15:41:42 | Weblog

 


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◆実録!!! 戦国鬼嫁ここにあり 将軍の浮気を禁止した天下一の恐妻・お江与

2021-04-25 11:40:34 | Weblog

●一見穏やかな結婚生活のようだが.....
 織田信長の妹でありながら、後に対立する浅井家に嫁ぎ、結果的に浅井家を滅ぼしてしまったお市の方。嫁スパイの異名をとる彼女と浅井長政の間に生まれたお江与(小督)は母の逞しさを受け継ぎながら、なかなかに乱暴な性格の持ち主だったといわれている。豊臣秀吉に姉たちと共に養われていたお江与は、秀吉の外交戦略の一環として、家康の息子である秀忠に嫁ぐことになる。だがその後、秀吉と家康の対立が決定的なものとなり、遂に豊臣家が滅亡。家康の天下となってしまう。政略結婚で秀忠の元に嫁いだお江与だったが、3男5女を儲けるなど、その夫婦仲に一見問題はなかったように見える。
●凄い女は子育ても凄い!!
  お江与夫婦の内情は酷いものだったという。お江与は六歳上の秀忠に側室を置くことを許さなかった為、秀忠は鬼嫁から逃げるように外で浮気に勤しんでいたのだ。恵まれた夫婦生活を冷戦状態に変えたのは、お江与の歪んだ性格にほかならなかった。その後、子供が生まれ、母となってもお江与の性格は和らぐどころか、エスカレートして行った。三男である忠長は不義密通の子で、お江与が必要以上に溺愛した為、結果的に残忍な性格を持った人物に育ってしまったとする説もある。その性格が災いし、結局将軍にはなれなかったが、子育てすらお江与の傍若無人さが垣間見ることができるというわけである。


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                      日本史 大ウソ事典 「江戸」
 

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◆彼が「生類憐みの令」を公布したとは思えない! 幼少時代は賢かった! 学問を履き違えた綱吉

2021-04-23 08:21:11 | Weblog

●教育ママに尻を叩かれ成長
 五代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院は、京都堀川通西藪屋町・八百屋仁左衛門の娘で、三代将軍・家光の愛妾・お万の方の腰元として江戸城に上がった。おきゃんな下町っぽさが家光には新鮮だったようで、直ぐに手がついて中臈となり綱吉を産んだ。まさに、江戸っ子のシンデレラだ。ちなみに幕府の公的記録である『玉輿記』には、高貴な名門出身のお嬢様と紹介されている。
かねてより、父・家光は桂昌院に「綱吉は生まれつき賢い。良い師について聖賢の道(儒学)を学ばせれば役に立つ者になるだろう」と学問を勧めていた。その為、桂昌院は綱吉の尻を叩いては勉強させるという教育ママになった。一方、母親想いの綱吉は桂昌院の期待に応えようと学問に熱中した結果、長足の進歩を遂げたのである。彼は儒学の勉強に励み、病床にあっても書物を離さなかったという。
●すべてがパーフェクトだった綱吉
 二十歳頃になると、綱吉は自ら経書を家臣らに講じてみせるほどの実力をつけていた。また、祖先を崇拝する姿勢は並大抵ではなく、祖先の命日などには「孝経」を繰り返し暗唱したとか。更に、母・桂昌院への孝養の尽くし方は格別で、自ら母の食事の配膳を務めるほどだったという。
ところが将軍職に就いて七年後、綱吉は「生類憐みの令」を公布し、風紀を乱してしまう。どこかで彼は、学問を履き違えてしまったようである。
●知っておきたい用語 『湯島聖堂』
 儒教を極めた綱吉は、聖堂を上野から湯島に移転してその大成殿に孔子を祀った。これが湯島聖堂の始まりである。現在では、合格祈願に参拝する受験生が数多く見られる。


           
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Camellia japonica 草紙洗

2021-04-22 13:04:11 | Weblog

 


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Camellia japonica 限り

2021-04-20 06:00:51 | Weblog

 


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◆家綱のいい加減な答えで次期将軍が決定 五代将軍綱吉は適当に選ばれた!?

2021-04-18 04:29:37 | Weblog

●次期将軍をめぐる協議
 1680年、四代将軍・徳川家綱が体調を崩し、回復の兆しが見られぬ状態になる。そこで次期将軍をめぐり、大老の酒井忠清、御三家、老中が集まって協議がなされた。忠清は「鎌倉幕府の先例に倣って京都から有栖川宮幸仁親王を迎えて将軍に立てたい」と主張。これに対して、老中の堀田正俊は「徳川の血を引く方がいるのに京都から迎えるに及ばない」と反対した。
忠清が有栖川宮を担ぎ出したのは、宮を傀儡として権力の維持を図ろうとしたと思われる。正俊がこれに反対したのは、綱吉を擁して幕政に新風を吹き込もうとしたからである。
●「左様せい」で将軍が決定!
 権力を有する忠清は着々と宮将軍実現へ動いていた。そこで正俊は密かに病床の家綱の元へ綱吉を導き、綱吉の将軍相続を決定させたのである。以前から家綱は「そうせい様」とあだ名されるほど、政治には無関心で閣僚に任せっきりだった。正俊が綱吉を連れて訪れた時も朦朧とする中、口癖となっている口調で「左様せい」と正俊の進言を受け入れたのである。将軍の承認を得られては、如何に権勢を誇る忠清であっても逆転は不可能だ。
綱吉が将軍職に就くと、忠清は即座に大老職を追われた。そして、綱吉の側近として実権を握ったのは家綱の晩年に老中に就任したばかりの正俊だった。もちろん、将軍相続を決めた起死回生の策を高く評価された結果である。




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Camellia japonica 久留米乙女

2021-04-15 14:31:21 | Weblog

 


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◆春日局スカウト大作戦 美少年好きの家光が世継ぎを儲けた裏舞台

2021-04-15 04:23:50 | Weblog

 

●家光は同性愛者だった?
明治維新以降、キリスト教的な価値観が広まるまで、衆道ーーー即ち男色は広く一般的であった。古くは空海の時代から平安、鎌倉・室町、戦国、そして江戸と長らく続く嗜みの一つだった。織田信長と森蘭丸、武田信玄と高坂昌信など、戦国時代は特にお盛んだったようだ。そして、その「嗜み」は、将軍家も例外ではなかった。可能性が高いとされているのが、誰あろう三代将軍・家光である。
何故家光は同性愛に走ったのか?その答えは春日局にある。
彼女があまりにベッタリ世話を焼いた為、女性への興味を失ってしまったのだ。それでも、将軍である以上は世継ぎを儲けなければ為らない。その為、たとえ本人が望んでいないとしても、正室としてやんごとなき身分の女性を娶ることになる。彼女の名前は鷹司多孝子。父は内大臣、左大臣、関白などを歴任した鷹司信房である。ところがというか、案の定というか、嫁不足の離島の青年にとっては夢のような話でも、家光にとってこの婚姻は迷惑以外の何物でもなかったようだ。
●正室への非情な仕打ち
 もちろん、実質上の夫婦関係は一切なかったと言われている。孝子は結婚して直ぐに大奥から追放され、別宅での軟禁生活を強いられた。更に、家光が死去した際も、形見は金五十両と道具数点のみ。何もそこまで、と思うほど酷い扱いである。そんな家光に寵愛された重臣の代表格が堀田正盛だ。元々、関ケ原の戦い後に徳川家に臣従した堀田家だったが、継祖母である春日局の取りなしで家光の近習に取り立てられた正盛は、譜代大名の仲間入りを果たしている。家光が死去した際、同じく寵愛を受けていた阿部重次と共に殉死したことからも、家光との繋がりは相当強かったと考えられる。
●心変わりの相手には厳しい制裁
 酒井重澄もまた、家光の寵愛を受けた人物である。ところが彼は病気療養中に子供を四人も儲けてしまった。当然、それを知った家光が黙っているはずもない。問答無用で改易処分を受けた重澄は、1642年に食を断って亡くなった。実に恐ろしきは男の嫉妬である。とまあ、そんな状況だからして、世継ぎが産まれる気配がない。責任を感じた春日局の側室探しは、こうして始まったのである。
●胸を撫で下ろした春日局
 家光も別に、女が抱けないわけではない。がしかし、珍しく女性に興味を持っても、相手が無理矢理還俗させた尼僧だったりするものだから、春日局の心境や察するにあまりある。筋金入りの同性愛者である家光のお眼鏡に適う女性を探すのは、さぞや大変だったことだろう。
それでも、男装して近づいたとされるお振の方が千代姫を産んでからは家光も側室を寵愛するようになったという。そして、遂にお楽の方が家綱を出産する。お楽の方は彼女の継父が営む浅草の古着屋の店先にいる時に春日局にスカウトされ大奥入り。そこで家光の手がついて側室になったという人である。家光は中年になって初めて世継ぎを得たことに狂喜したというが、きっと春日局は喜ぶよりも先に胸を撫で下ろしたに違いない。
●徳川家光の豆知識 正室の子は家光ただ一人!
 将軍の正室から産まれた子が将軍になったのは、意外にも家光ただ一人。家康を除く将軍十四代中、側室の子が七名、養子が六名という内訳になっている。
       

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Rhododendron Keiskei

2021-04-13 12:33:47 | Weblog

 


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Camellia japonica 絵日傘

2021-04-13 12:30:06 | Weblog

 


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◆陰謀にまみれた女の一生 夫の愛妾を殺害した大奥の支配者・春日局

2021-04-10 04:17:19 | Weblog

●憎らしいあまり、夫の愛妾を殺害
 春日局といえば、三代将軍・徳川家光の乳母を務め、大奥の礎を築いた人物として有名である。そんな経歴に負けじと、性格も強く激しいものだったようだ。春日局は名を阿福といった。明智光秀の重臣・斎藤利三の娘であったことが災いし、世間の風は冷たかったという。そんな悪評を払拭する為、阿福は十七歳の時に小早川秀秋の家臣である稲葉正成の元に嫁ぐ。これで幸せな生活を送れると思いきや、正成は女癖が悪く、浮気してばかり。阿福が烈女として目覚めたのはこの時だった。1604年、突如として正成の愛妾を刺殺し、子供を連れて出奔してしまったのだ。
●次期将軍の乳母という栄えある地位
 正成の元を離れた阿福は、京都所司代が江戸城で乳母を募集していることを知り、早速面接を受けることに。公家の教養や過酷な人生を送って来た逞しさが評価され、見事合格、大奥入りを果たす。
阿福は乳母として竹千代(後の家光)に愛情を注いだ。次期将軍の乳母、それはこれまでの人生では考えられない地位だった。だがそんな中、竹千代の弟・国松が生まれる。
将軍・徳川秀忠は国松を大そう可愛がり、次期将軍の地位を譲るとまで噂された。これはマズイ、と感じた阿福は実力行使に出る。駿府城に向かい、徳川家康に直訴したのだ。それから程なく、家康の口から竹千代を後継者にという指示が下った。阿福の作戦は見事成功を収めたのである。
●大奥最強の女、降臨!
 竹千代が三代将軍・家光として将軍職に就くと、阿福も春日局と名を改め、江戸城内で権力を振るうようになった。
家光には早くから正室の鷹司孝子がいたが、二人の仲は非常に険悪であり、家光は春日局の言うことしか聞かなかった。男色傾向にあった家光が女に目覚めることが出来たのも、春日局が率先して側室を連れて来た為だとも言われ、最早、大奥内で春日局に反抗できる者は誰一人としていなかった。
一方、跡継ぎ争いに敗れた国松は徳川忠長として駿府他五十五万石を領有していたが、様々な奇行により1631年、甲斐国に飛ばされた。更に甲斐国も没収され、上野の高崎城に移された翌年、忠長は自害。この騒動も春日局が画策していたのだといわれる。
その後、春日局は1643年に死去。権謀術数に明け暮れた波乱の人生であった。


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Camellia japonica 王昭君

2021-04-09 04:55:58 | Weblog





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