Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

菜根譚 後集55項

2023-09-26 14:11:06 | Weblog


秋明菊(Japanese anemone) Anemone hupehensis 薄れゆく愛 忍耐

世人只縁認得我字太真。
故多種種嗜好、種種煩悩。
前人云、不複知有我、安知物為貴。
又云、知身不是我、煩悩更何侵。
真破的之言也。

世人は、只我の字を認め得ること太だ真なるに縁るのみ。
故に、種々の嗜好、種々の煩悩多し。
前人云う、「複我有るを知らず、安んぞ物を貴しと為すを知らんや」と。
又云う、「身は是れ我ならずと知らば、煩悩も更に何ぞ侵さんや」と。
真に破的の言なり。
 
「自我を捨て去る」
世間の人は、ただ自我と云うものが本当にあると云うことを大そう大事にしている。
だから、自我の対象となる色々な嗜好や煩悩が多くなって来る。
古人の詩にも「本来自我などと云うものがあると云うことは分らない。
それなのにどうして物が貴いなどと云うことを知ることができようか」と書いている。
また、「この肉身も本来我ではないと云うことが分れば、
煩悩などもどうしてこの身を侵すことができようか」と言っている。
これは本当に真実を看破した言葉である。






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆偉人なんて呼ばないで! 野口英世は自伝の過大評価に不満足!?

2023-09-26 13:58:20 | Weblog

写真の説明はありません。

★初の伝記も内容は作り話ばかり
細菌学研究の場に於いて、世界的にその名を知らしめた野口英世。
晩年、ニューヨークで暮らしていた彼の元に、日本からある本が送られて来たことがある。
その本の名は「発見王野口英世」。野口の生涯を綴った初の伝記であった。
だが、それを読んだ野口は「これは作り話だ」と一蹴。
何故ならその本は野口のことを完璧な人間として描いた、美談ばかりりの内容だったからであった。
野口が地位を得るまでには後ろめたい出来事もたくさんあった。
そういう側面を無かったことにして、聖人の様に描かれたことに不満を示したのだ。
このエピソードはグスタフ・エクスタインが書いた「Noguchi」という本に記されている。
     

       。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。


★日本を代表する偉人になった理由
そして、この様な描かれ方が野口を段々ステレオタイプな偉人として持ち上げて行く。
昭和初期、野口は教科書に取り上げられるようになり、子供たちにもその名前が知られるようになる。
貧しい生まれから努力を重ねて偉くなったということでウケが良かったのだろう。
戦争が終わると、それまでの偉人伝の中心的存在であった乃木大将や東郷元帥などの
軍事関係の人物が扱い辛くなり、代わりに台頭して来たのが他ならぬ野口だった。
そうして野口は美談ばかりを描かれたまま、
本人の意に反して日本で最も有名な偉人として持ち上げられてしまったのだ。
       


                            学校で習った歴史はウソだらけ!?
                                 日本史 大ウソ事典 近現代


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆偉大なる天才の情けない一面 言い訳がましく女好き 石川啄木ヘタレ伝説

2023-09-26 13:49:02 | Weblog

写真の説明はありません。

★もともと小ずるい性格だった!?
明治末期の浪漫派詩人・石川啄木。情感豊かな詩や歌で人々の心を掴んで来た彼だが、
私生活では数々の情けない逸話を残しているのをご存知だろうか?

先ずは中学時代。学期末試験で彼は隣りの席の友人とカンニングを図るが、先生に見つかり失敗。
ただでさえ成績が悪かった啄木はこの事件が元で退学勧告を受けることになった。
しかし、そんなのはまだ序の口。学生時代を終えた彼を襲ったのは借金地獄だった。
20歳の頃、文学の道に進む為、定職に就いていなかった啄木は米屋に借金をしていた。
そのとき啄木は借金が返せない理由を文章で説明したことがあり、用紙の長さ1㍍33㌢にも及んだという。
当時、借金をするのは珍しいことではなかったが、ちょっと言い訳がましいにも程がある。
      


      ✎______________



★女性のことに関して興味津々
啄木には女性関係の逸話も多い。22歳の時、短歌の添削を依頼されていた彼は、
依頼者の平山良子と名乗る女性に興味を持ち、妻が居る身ながらラブレターを送ったことがある。
だが、その平山氏は実は男性であり、啄木は見事に騙されてしまったのだ。
また、彼は16歳の頃から日記をつけていたのだが、
23歳の時に書いた日記にとんでもない内容が記されている。
人に見られてもいいようにローマ字で書かれたそれは、
何と自らのH体験記。浮いた噂はなかったが、女好きだったのは間違いなさそうである。
     


                           学校で習った歴史はウソだらけ!?
                                   日本史 大ウソ事典 近現代


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆吉良上野介が悪人だったというのはウソ

2023-09-24 11:44:54 | Weblog

写真の説明はありません。

毎年12月頃になると、必ずといっていいほど忠臣蔵が話題になる。
忠臣蔵は、侮辱された藩主の無念を晴らす為、
家臣の赤穂浪士が当事者の吉良上野介を討ち果たす忠義の物語だ。
これまで数え切れないほど映像化、書籍化された忠臣蔵だが、
吉良上野介は決まって嫌味な悪役で、討たれて当然であるかのように描かれる。
だが、三河国にあった領地では、悪人どころか名君として現在でも慕われているのだ。
吉良上野介こと吉良義央は幕府の儀式を司る旗本高家出身で、足利氏の流れをくむ名門中の名門である。
大名を虐めていたとか横柄だとかという記録があるが、
一方で領地経営に於いては治水事業や新田開発などの功績を残しており、
赤馬に乗って領内を見ながら領民の話に耳を傾けていたという逸話まで残っている。
その為、悪役として名高い吉良上野介も、領地の愛知県西尾市吉良町では現在でも人気が高いのだ。
  


                           教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                                 人物にまつわるウソ 「日本編」


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆「目には目を」のハンムラビ法典が復讐法というのはウソ

2023-09-24 11:35:58 | Weblog

写真の説明はありません。
ハンムラビ法典が記された石碑の上部 (ルーブル美術館所蔵)

「目には目を、歯には歯を」の条文で知られるハンムラビ法典。
紀元前18世紀に現在のイラク周辺を治めたバビロニアで発布された法典で、
「やられたらやり返せ」と復讐を認めているように解釈できる。
しかし、実際はその逆で、行き過ぎた復讐を阻止する為の条文だったと考えられている。

世間一般に広がっている「目には目を」という箇所は他の書物からの引用で、
実際の条文には「人もし、自由人の眼を傷つけたる時には、彼自身の眼も傷つけられるべし」とあり、
罪を犯した者はそれと同等の報いを受けると規定されている。
これを見る限り復讐を認めているとは言えないし、
別の条文には頬を打つくらいの軽い罪なら金銭による償いで十分だと記されている。
ただ、これは身分が対等の者同士の話で、
奴隷や下位者に対して罪を犯した場合は刑罰が軽く済むと決められており、
逆に奴隷が罪を犯せば重罪が科された。
それでも、平民は富者よりも安い医療費で済むなど一定の配慮もされていたようだ。
 
       


                          教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                                      政治と事件のウソ






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆ハロウィーンは村人を生け贄にする儀式?!

2023-09-24 11:23:27 | Weblog

写真の説明はありません。
ハロウィーンの発祥はケルト人


 毎年10月31日に行なわれるハロウィーンでは、仮面を被った子供たちが歌いながら家々を訪れては、
お菓子をねだって楽しむ。日本でもスッカリお馴染みになった。
最近では、この日に仮想パーティーで盛り上がる若者も増えている。
ところが、こんな微笑ましいお祭りが、
初めのうちは幽霊祓いの為の呪術的な儀式だったと云うのには驚かされる。

ハロウィーンは、紀元前5世紀にアイルランドに住んでいた
古代ケルト族が始めた「オール・ハローズ・イヴ」と云うお祭りが起源である。
夏が終わる日とされていた10月31日の晩に、ケルト人たちは暖炉の火を消し、
悪魔やお化け魔女の格好をし、騒がしい音をたてながら家の中や外を歩き回った。

人々は死んだ人の魂はあの世に行くまでの十二か月間、動物や人間に取り憑くと考えていた。
その動物や人間を探す10月31日には、自分たちが取り憑かれない様に奇妙な格好をしたり、
大きな音をたてたのだ。そして、村はずれのかがり火を焚いた場所に集まったケルト人たちは、
そこで儀式を行なった。
僧により、夏の収穫を太陽の神に感謝すると共に、幽霊を追い祓う為の祈願が行なわれた。
おまけに、すでに霊に取り憑かれたと思われる村人をかがり火に投げ込み、霊への見せしめにしたという。
その後、ローマ人がハロウィーンの習慣を取り入れたが、
紀元61年に人間を生け贄にすることが法律で禁じられた為、人形を使うようになったとされている。

ヨーロッパからアメリカにハロウィーンが伝わったのは、1840年代、
ジャガイモ飢饉でアメリカに逃れて来たアイルランドの移民たちによってである。
お化けカボチャの提灯を作る習慣もこの時持ち込まれた。
また、子供たちがお菓子をねだるのは、
9世紀のヨーロッパで行なわれていた「ソーリング」から来た習慣だといわれている。
当時のキリスト教徒は万聖節の日に、
ソールケーキと呼ばれるジャム付きの四角いビスケットを求めて家々を回り、
その代わりに亡くなった親類縁者の為に祈りを捧げた。
これが後にハロウィーンの習慣として残ったという。

楽しいハロウィーンが、元々人間を生け贄にする恐ろしい儀式だったとは何とも意外な話だ。
 
                          呪い あなたの知らない不気味な世界
                              -あなたも当事者かも知れないー
                                   習俗に秘められた魔の呪術




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆京都だけでも500人以上! 「平家物語」の誕生で琵琶法師ブーム発生?

2023-09-15 09:17:02 | Weblog

写真の説明はありません。

写真の説明はありません。


●蝉丸から始まった琵琶法師の歴史
 鎌倉時代、琵琶法師ブームが巻き起こった。
その引き金になったのが、かの有名な『平家物語』である。
琵琶の音に合わせて物語を吟じる琵琶法師が流行し、
15世紀中頃には、京都の市内だけでも500人以上も存在していたというから驚きだ。
そもそも、琵琶法師というものは宇多天皇の時、凡そ9世紀頃の蝉丸という人物から始まった。
蝉丸は醍醐天皇の孫で克明親王の第1王子でもある源博雅という人物に、
琵琶の秘曲である『流泉』と『啄木』を伝授したと伝えられている。
平安時代に入ると、琵琶法師たちは中国伝来の秘曲を奏でたり、即興で曲を弾くようになった。
貴族たちの詩歌の朗詠をする者もいたという。

●宮中からもお呼びがかかり......
 13世紀初頭に『平家物語』が成立すると、
琵琶法師は物語を琵琶で奏でながら語る平家語りとして庶民から親しまれる存在となり、
ネズミ色の衣服を着て市内を練り歩いたという。
そんな頃、一人の琵琶法師がいつものように市内を巡っていると、
彼の語る『平家物語』があまりに面白かったことから宮中に招かれ弾き語りをすることに。
それ以来、琵琶法師は公家たちからも愛され、しばしば彼らに招かれるようになったという。
このように琵琶法師は『平家物語』の誕生と共に多くの人々から愛されることで隆盛を極めて行き、
全国に一大ブームを巻き起こしたのである。
       

                         学校で習った歴史はウソだらけ!?
                               日本史 大ウソ事典 「中世」


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆四国統一を成し遂げた名家長宗我部家の「お家騒動」が生み出した、7人の怨霊

2023-09-15 09:02:31 | Weblog

写真の説明はありません。
長宗我部元親


土佐の国主である長宗我部元親は、天正13年(1585)年に四国統一を成し遂げた。
ところが四国の覇者となったその翌年、秀吉の攻撃を受けて降伏。土佐一国へ押し込められてしまう。
更に、豊臣秀吉に従って九州に出陣した際には、
長男の信親が豊後戸次川の戦いで討ち死にするという不幸にも見舞われた。
元親には4人の男子がいたが、次男の親和と三男の親忠は、
それぞれ讃岐の香川氏と土佐の津野氏の養子となっていた為、
四男の千熊丸に家督を継がせようと考え、評定を行なった。
これに異を唱えたのが、長宗我部一族の重臣、吉良親実と比江山親興である。
次男の親和は養子に出たものの、その香川氏が潰されて浪人の身となっていた為、
長幼の順からいっても親和を後継ぎにすべきだと進言したのである。
また元親は、亡き長男の信親の娘を千熊丸に娶らせようと考えていたが、
吉良と比江山は、叔父と姪の結婚は良くないと、これにも反対した。
千熊丸可愛さに目がくらんでいた元親は、酷く不機嫌になって評定の席を立ってしまった。
これに付け込んだのが、かねてから吉良親実と反目していた久武親信である。
親信は元親の歓心を買って自分の勢力を伸ばそうと、
「吉良親実と比江山親興をこのまま許しておいては御家の一大事を招きます」と
事あるごとに元親に讒言を行なった。
これを信じた元親は、天正16(1588)年、吉良親実と比江山親興に切腹を命じた。
憤激した親実は、「主家の衰運は明らかである」と腹を掻き切ると、腸を掴み出し投げつけて死んだという
更に、親実に従っていた7人の武士たちも次々に斬られて非業の死を遂げたのである。

*何処にでも現れる7人の怨霊
この後、長宗我部家の本拠である岡豊城下では無気味な出来事が次々に起こるようになった。
親実の屋敷跡や墓の辺りには、夜な夜な鬼火が現われ、
首のない武士たちが白馬を駆って疾走するようになった。
人々はこれを、憤死した親実と親興、そして親実に殉じた腹心の7人の祟りだと恐れ慄いた。
怪異は城内にも出現した。
月夜の晩には、吉良と比江山の旗印をつけた軍兵が城門から風のように城内に侵入し、
そのまま通り過ぎて行ったという。その為、見張りの兵たちまで気味が悪いと怯えるようになった。
いつしか怨霊は「7人みさき」と呼ばれるようになった。
「7人」というのは吉良一門の7人で、吉良のことは恐れて数に入れず、比江山も数えられていない。
「みさき」とは、人が死んでなる神で、怨霊のことだという。
7人みさきに遭遇した者は、その日から高熱を発して譫言を口走り、急死するという。

讒言をした久武親信の子どもたちも精神に異常をきたして次々に死んで行き、
親信の妻も悲嘆のあまり自害して果てた。
怨霊を恐れた人々は、吉良親実と比江山親興を神として祀り、その怒りを鎮めようとした。
高知市にある吉良神社は、吉良親実を祀った神社である。

だが、その後も土佐では、城下ばかりでなく農村や漁村にまで7人みさきが現われるようになった。
いつしか「7人みさきは人間を一人殺すと先頭の者が成仏できるが、
殺された者が加わる為に常に7人である」とも言われるようになり、今も恐怖の対象となっている。
 

                 
                    日本史ミステリー
                         背筋も凍る.....今なお消えない「呪い」の伝説




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食指が動く

2023-09-12 14:37:30 | Weblog

天亀】幻亀で元気に!! 新たな挑戦はじまる!!「すっぽん」が食べ ...


 
楚から鄭室に珍物が届いた。生きた大きなスッポンである。
(幽公→霊公)の即位を賀うものであった。
「かほどに、楚は思い遣りがある」霊公ははしゃぎスッポン料理を振る舞ってやろうと、
料理を司る宰夫に命じた。
 
この日、子家と子宋は連れ立って参内しようとしていた。
「やや、---」子宋は思わず破顔した。
子家は歩きながら、「どうしたのだ」と、訊いた。
「この指が動いたのです」
子宋は人差し指を突き出して「これは不思議な指でして、これが動いた時は、
必ず珍味にありつけたのです。今日は何かがありますよ」と言った。

配膳が始められた。やがて、子宋の顔だけが険しく霊公の方に向けられた。
子宋だけは、料理が配られなかったからである。
子宋はヌッと立ち、首座に背を向けて進み、宰夫を突き飛ばすと、
スッポンの入った青銅の鼎の中に指を入れ、
鼎が凹むのではないかと思われるほど強く食指を押し付けてから、
「あつもの」に浸したその指を、おもむろにひと舐めし、退室しようとした。

「無礼者!誅せ!」
侍臣が剣を取って走り出そうとした時に、子家が止めた。
後、子宋は子家の家を訪ね、犯逆をそそのかした。
子宋は子家が手を借してくれることを疑わなかったが、子家は慎重であった。

ーたとえ家畜でも、年をとれば殺すに忍びない、まして我が君を殺せようかー

子家の取り成しで子宋は人が変った様に、積極的に霊公に近づく様になっていた。
子宋は霊公の孤独な心に巧みに取り入ったと言える。
子宋は霊公暗殺の時機を伺っていたのだ。

六月二十八日、霊公は子宋によって殺される羽目となった。
が、鄭室の史官は子家の方にこそ落度があると云うことを示している。
歴史を記す者は、命がけで真実を表わさなければならない時がある。

                         宮城谷昌光「夏姫春秋」抜粋・参考
 

意味:食欲が起こる。
   転じて、ある物に対して欲望や興味が生じる。
  「食指」は人さし指のこと。




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集35項

2023-09-12 14:23:24 | Weblog


露草(day flower) Commelina communis 懐かしい関係

水流而境無声。得処喧見寂之趣。
山高而雲不碍。悟出有入無之機。

水流るるも境に声無し。喧に処りて寂を見るの趣を得ん。
山高きも雲碍げず。有を出でて無に入るの機を悟らん。


「喧騒の中にある静寂」
大河が満々と水をたたえて流れていても、その辺りでは水の音が少しも聞こえて来ない。
人もこの様な道理を理解すれば、騒がしい所にいても静けさを見出す心境を得られるであろう。
また、山がどんなに高くそびえていても、白雲が去来するのを妨げることはない。
人もこの様な道理を理解すれば、自在の世界にいても存在に左右されない。
無心に入る機会を悟ることができよう。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆天皇家を陰から守る 『八咫烏』

2023-09-09 12:32:44 | Weblog

写真の説明はありません。



★3本足のカラスのもう一つの姿
3本足のカラスとして描写されている八咫烏は、
現在も日本サッカー協会や陸上自衛隊中央情報隊などのシンボルマークに使われている。

日本神話では太陽の化身と考えられており、
神武東征の折には、神武天皇を熊野国から大和国へ道案内をした鳥として登場している。
また戦国時代には、織田信長を苦しめた雑賀衆の鈴木家が旗印と家紋にこの八咫烏を採用していた。
そして、日本で最も古い歴史を持つ秘密結社の名前も「八咫烏」という。
この結社は少なくとも3000年前から存在するとされており、天皇を守る為の活動を続けている。

王を守ると云う意味では、フリーメイソンと根幹は同じだ。
八咫烏のメンバーは警察や法律の壁を越え、闇夜のカラスのように暗躍しているのだ。
明治時代までは、天皇が行う神道儀式の手助けをするのが八咫烏の主な仕事だった。
ところが明治以降の天皇は国家元首となった為、
外交儀礼や民間行事にも時間を割かなければならなくなった。
かと云って、古来の儀式を疎かにするわけには行かないので、
重要行事以外の神事は八咫烏の人間が『裏天皇』となって執り行うようになったのである。

     ❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁

★法律上は存在していない人々
八咫烏のメンバーは出生時に戸籍に入れないことになっている。
その為、彼らには名前がなく、法律上では存在していないことになっている。
彼らはその一生を国体と神道の護持に捧げ、表に出るようなことはないが、
陽明学者で思想家の安岡正篤(1898~1983)は、
表に登場した数少ないメンバーの1人とされている。
安岡は伝統的な日本主義の大切さを主張し、政治家の近衛文麿や、思想家の北一輝などに影響を与えた。
北の思想は後に二・二六事件にも繋がっている。
また「平成」の元号の発案や玉音放送の加筆などにも関与している。
政財界や皇室から絶大な信頼を受けたことから、「昭和最大の黒幕」とも呼ばれた。

ちなみに、諸国を行脚する虚無僧は八咫烏のスパイだったと言われている。
彼らが諸国を巡り歩くことで、八咫烏は国内の動きを細かいところまで把握できたという。
メンバーの数は70人前後とされ、彼らは生まれた時から神道の儀式や陰陽道、迦波羅など、
八咫烏の一員として生きて行く為の知識を徹底的に叩き込まれる。
八咫烏の組織の中枢を担っているのは「十二烏」と呼ばれる12人のメンバーで、
その上に3人の「大烏」がいる。「三羽烏」と云う言葉は、ここから来ているという。
また、大烏は「金鵄」とも呼ばれており、彼らが造化三神(三神にして一神)に対応し、
「裏天皇」として神道儀式を執り行っているのだ。
     
★義満や信長の死に関わっている?
 裏天皇は天皇と同等の主権を保持していたとも言われているが、
八咫烏はただ神道の儀式を執り行っているわけではない。
明治以前は、天皇が国体に害を及ぼしそうな者を密かに誅殺することも少なくなかったという。
また天皇家に何かあった時は、天皇に成り代わるシステムも確立されていたと言われている。

過去には、「自分が天皇に成る」と野心を抱いた足利義満、
そして天皇家を自分の下に置こうとした織田信長が目的を果たす前に謎の死を遂げているが、
これらに八咫烏が関与した可能性もなかったとは言い切れない。

他の国の王家が栄えては滅びる中、天皇家だけが3000年もの年月を経て今も尚続いている。
これも、八咫烏が裏でしっかりサポートしていたお陰なのだろう。
      


                           本当に恐ろしい地下組織
                               日本国内に存在していた組織


 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆芥川龍之介 (1892~1927年) 東京都 自死を選んだ作家は 己の分身に怯えていた  

2023-09-08 11:10:52 | Weblog

写真の説明はありません。

近代文学の巨星、芥川龍之介。
知的かつ諧謔に満ちた作品を発表し、今尚多くのファンを持つ文豪の生涯は、
その名声とは裏腹に、決して安らかなものではなかった。

生後直ぐに母の発狂と云う悲劇に見舞われた龍之介は、幼い頃から秀才の片鱗を見せつつも、
怪談や妖異を事のほか好む青年に成長する。
そして、「自分もいずれは狂うのではないか」と云う不安に常に怯えていた。
その恐れに拍車をかけたのが「ドッペルゲンガー」の存在だった。
海外の文献から「姿を見たら死んでしまう。もう一人の自分」が居ることを知った龍之介は
これを激しく恐れ、その恐怖を『二つの手紙』と云う小説に描いた。

これは、ある夫婦がドッペルゲンガーの存在を信じ込み、
やがて破滅するまでを手記の体裁で語った異色の作だが、作中には妙なリアリティが横溢している。
例えば、友人と食事に出た時に、自分と自分の妻が仲睦まじく歩くのを目撃してしまうシーンでは、
第二の自分に恐れ慄く男の心理が、まるで彼自身の体験を反映しているかの様な筆致で描かれているのだ。

龍之介は三十五歳で自殺するが、作中の男の様に、
彼も死の予兆である「もう一人の自分」を見てしまったのだろうか.....。
      


                          世界と日本の怪人物FILE
                            歴史上の偉人たちに隠された裏の顔


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集31項

2023-09-08 11:02:05 | Weblog

嗜寂者、観白雲幽石而通玄、趨栄者、見清歌妙舞而忘倦。
唯自得之士、無喧寂、無栄枯、無往非自適之天。

寂を嗜む者は、白雲幽石を観て玄に通ずとし、
栄に趨る者は、清歌妙舞を見て倦むを忘る。
唯、自得の士のみ、喧寂無く、栄枯無く、
往くとして自適の天に非ざるは無し。
 

「悠々自適の境界」
世俗を離れて静寂だけを好む人は、山中の白い雲や趣のある石を見て、
これだけが玄妙な道に通じるものであると固執しており、
また、世俗間の華やかさだけを追い求める人は、
清らかな歌や妙なる舞を見て、
その様なものばかりに心を熱中させる。
ただ、道を体得した立派な人だけが、環境が騒がしいか静かであるかに関係なく、
また時期の栄枯盛衰にも捉われず、
いつ何処に身を置いたとしても、
自分の心にピッタリ適った自由自在な天地でないところは何処にもない。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆院政をしいた「治天の君」後白河法皇が「三十三間堂」を建立した信じがたい理由

2023-09-03 13:26:46 | Weblog

写真の説明はありません。
後白河法皇

写真の説明はありません。
三十三間堂


平安時代末期、保元・平治の乱を巧みに勝ち抜いた後白河法皇は、平清盛、木曽義仲、源義経、源頼朝らを利用して、30年以上もの長きに渡って院政をしき、朝廷内に隠然たる権力を保ち続けた。

法皇は、生涯を通じて寺院の造営にも熱心だった。
現在では観光スポットとしても名高い三十三間堂も、法皇が平清盛に命じて長寛2(1164)年に建てさせた仏堂である。かつて周囲は法住寺殿と呼ばれ、院政の場を兼ねる院御所であった。
この法住寺殿に隣接する千体御堂が三十三間堂である。
三十三間堂は、地上16㍍、奥行き22㍍、南北の長さは120㍍におよび、内部に千一体もの千手観音立像と二十八部衆立像および風神・雷神像、千手観音坐像が安置されている。
だが、三十三間堂というのは通称で、正式な名は「蓮華王院」という。
これは法皇の前世に於ける名前「蓮華坊」から取られており、創建の背景には不思議な出来事があったのだ。
   

   ✼••┈┈┈┈┈┈••✼✼••┈┈┈┈┈┈••✼


★夢に現れた僧が告げた法皇の前世
後白河法皇は、常日頃より頭痛に悩まされていて、どんな医師、薬師が施術を行なっても効果がなかった。
さしもの法皇も、これではなす術がない。
その頃、貴顕(身分が高く名声を持った高貴な人)の間では熊野への参詣が流行していた。
法皇も熊野に参詣に赴いた折、頭痛の治癒を祈願したところ、「因幡堂に参籠せよ」という託宣を得た。
因幡堂とは京の市中にある薬師参りで知られる寺である。
法皇はそこに籠って祈り、最後の満願の日になったところ、夢枕に、貴い様子の僧が現れた。
そして、法皇の前世は蓮華坊という名の熊野の僧侶であると語り、
「蓮華坊は全国行脚の修行をしたので、その功徳によって現世では帝位に就くまでの身分に生まれることができた。だが、前世のドクロが朽ちずに川の底に沈んでいる。それを柳の木が貫くようにして生えているので、風が吹く度にドクロに触れ、頭が痛くなるのだ」と告げたのである。

法皇は、お告げで言われた川の底を調べさせた。
すると、果して本当にそのようなドクロが見つかったのである。そこでドクロと柳の木を引き上げさせると、
そのドクロ観音像の頭部に納め、柳の木を梁にして三十三間堂を建立した。
すると、あれほど法皇を苦しめていた頭痛がピタリと治まったという。

今も、三十三間堂の観音像にお参りすると、頭痛平癒の御利益があるとされている。
また、毎年1月には、正月に汲んだ初水を霊木の柳の枝で参拝者に注いで祈る「柳のお加持」という法要が行なわれている。これも、後白河法皇の頭痛が止んだことにあやかる頭痛封じの法要である。
     


                        日本史ミステリー
                          激動の瞬間ーーー光と影が入り交じる伝説




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集26項

2023-09-03 12:15:50 | Weblog



隠逸林中無栄辱、道義路上無炎涼。

隠逸の林中には栄辱無く、道義の路上には炎涼無し。


「恥辱や人情の変化のない生き方」
俗世間を離れた自然の生活の中には、栄誉や恥辱などというものはなく、
また、俗世間にあっても、道理や正義などに基づいている生活には、
熱くなったり冷たくなったりする様な人情の変化はない。


 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする