源氏と平家一門の争いに翻弄され、僅か8歳で海中に消えた悲劇の天皇・安徳天皇。
高倉天皇を父とし、平清盛の娘・徳子を母とする平家所縁の天皇である。平安時代の藤原氏のように、平清盛は天皇の外戚となることで実権を握っていた。
しかし、父の高倉天皇、祖父の平清盛が亡くなると、時勢は源氏方に傾き、後白河法皇は源氏に対して、平家討伐の院宣を出すに至る。安徳天皇も平家一門と共に西へと逃げて行った。
そして元歴2(1185)年、源氏によって関門海峡まで追い詰められた平家は、壇ノ浦の戦いで遂に滅亡の時を迎える。
この時、安徳天皇は祖母の二位尼(時子)と共に御座船に乗っていたが、敗戦が決定的となると、三種の神器の一つである草薙の剣と共に二位尼に抱えられて壇ノ浦の海へと沈んで行った。戦後、源氏は海中をくまなく捜索したが、神剣も、安徳天皇や時子の遺体も見つからなかった。
この話が広まると、いつしか「実は安徳天皇は、密かに生きておられるのでは?」との伝説が囁かれるようになっていった。
*落ち延びて命をつないだ、安徳天皇の足跡
では、安徳天皇はどのようにして生き延びたのだろうか?
伝説によると、その消息は大きく二つに分かれる。
一つは入水前、既に安徳天皇は身代わりと入れ替わっていたというものである。一説には、身代わりとなったのは弟の守貞親王で、安徳天皇とは一歳しか年が違わず顔もよく似ていたと謂われる。
もう一つは、実際に海に飛び込んだが、運よくたすかり、源氏の目を逃れて落ち延びたというものだ。実際、安徳天皇が秘密裏に落ち延びたという話は多く、安徳天皇の御陵墓とされる場所が全国に17か所も伝わっている。而もこのうち5つは、宮内庁によって正式に「安徳天皇御陵墓参考地」に指定されている。
また、平家の落人伝説に関連して、その中には安徳天皇が伴われていたというのもある。例えば、徳島県東祖谷の阿佐家には「平家の赤旗」と謂われる旗が残されている。そして、この赤旗には次のような「物部赤牛の伝説」が伝わっている。
初め、安徳天皇が落ち延びた先は高知県越知町で、平国盛に守られながらここに行宮(仮の御殿)を設けた。しかし、源氏の追手が追って来たのか、安徳天皇一行は、更に行宮を山の中に移したと謂う。ところが、山中では食料が乏しく、平家は大切にしていた五色錦赤旗を東祖谷の阿佐家に譲って食料と交換して、何とか命をつないだのである。しかし、その甲斐も虚しく安徳天皇は23歳で崩御したそうだ。
最後まで安徳天皇の生涯は過酷だったと謂える。
悲劇の生涯を送った幼帝に対する人々の憐憫の情が、こうした生存伝説を生み出したのかも知れない。
日本史ミステリー
語り継がれる「歴史ロマン」あふれる伝説