Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆平家の滅亡と運命を共にした 悲劇の幼帝・安徳天皇は、波の下の都に沈んでいなかった!?

2019-01-31 04:04:28 | Weblog

源氏と平家一門の争いに翻弄され、僅か8歳で海中に消えた悲劇の天皇・安徳天皇。
高倉天皇を父とし、平清盛の娘・徳子を母とする平家所縁の天皇である。平安時代の藤原氏のように、平清盛は天皇の外戚となることで実権を握っていた。
しかし、父の高倉天皇、祖父の平清盛が亡くなると、時勢は源氏方に傾き、後白河法皇は源氏に対して、平家討伐の院宣を出すに至る。安徳天皇も平家一門と共に西へと逃げて行った。
そして元歴2(1185)年、源氏によって関門海峡まで追い詰められた平家は、壇ノ浦の戦いで遂に滅亡の時を迎える。
この時、安徳天皇は祖母の二位尼(時子)と共に御座船に乗っていたが、敗戦が決定的となると、三種の神器の一つである草薙の剣と共に二位尼に抱えられて壇ノ浦の海へと沈んで行った。戦後、源氏は海中をくまなく捜索したが、神剣も、安徳天皇や時子の遺体も見つからなかった。
この話が広まると、いつしか「実は安徳天皇は、密かに生きておられるのでは?」との伝説が囁かれるようになっていった。

*落ち延びて命をつないだ、安徳天皇の足跡
 では、安徳天皇はどのようにして生き延びたのだろうか?
伝説によると、その消息は大きく二つに分かれる。
一つは入水前、既に安徳天皇は身代わりと入れ替わっていたというものである。一説には、身代わりとなったのは弟の守貞親王で、安徳天皇とは一歳しか年が違わず顔もよく似ていたと謂われる。
もう一つは、実際に海に飛び込んだが、運よくたすかり、源氏の目を逃れて落ち延びたというものだ。実際、安徳天皇が秘密裏に落ち延びたという話は多く、安徳天皇の御陵墓とされる場所が全国に17か所も伝わっている。而もこのうち5つは、宮内庁によって正式に「安徳天皇御陵墓参考地」に指定されている。
また、平家の落人伝説に関連して、その中には安徳天皇が伴われていたというのもある。例えば、徳島県東祖谷の阿佐家には「平家の赤旗」と謂われる旗が残されている。そして、この赤旗には次のような「物部赤牛の伝説」が伝わっている。
初め、安徳天皇が落ち延びた先は高知県越知町で、平国盛に守られながらここに行宮(仮の御殿)を設けた。しかし、源氏の追手が追って来たのか、安徳天皇一行は、更に行宮を山の中に移したと謂う。ところが、山中では食料が乏しく、平家は大切にしていた五色錦赤旗を東祖谷の阿佐家に譲って食料と交換して、何とか命をつないだのである。しかし、その甲斐も虚しく安徳天皇は23歳で崩御したそうだ。
最後まで安徳天皇の生涯は過酷だったと謂える。
悲劇の生涯を送った幼帝に対する人々の憐憫の情が、こうした生存伝説を生み出したのかも知れない。

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◆壇ノ浦の海に消えた一門 今なお続く奇習が伝える、平家の落人の秘密

2019-01-30 04:28:36 | Weblog

元暦2(1185)年の壇ノ浦の戦いで壊滅した平家の侍たちが、源氏方の追捕を逃れて隠れ住んでいるという平家の落人伝説は、岩手県陸前高田市小友町の蛇ヶ崎や、宮崎県の椎葉村、熊本県の五家荘など、全国各地に残っており、その数は百以上と謂われている。
こうした伝説が残るのは主に山間部や海岸地帯、離島などの僻地である。その為、名族の系譜に村を連ねることで、土地の人々が日々の辛い暮らしの支えとする為に生まれたととの説もあるが、落人村ならではと思える独持の風習が残っている地もあり、もしかしたらと思わせる。
その一つの例が、栃木県の湯西川の落人の里では、端午の節句でも、決して鯉のぼりを立てないというもの。というのも、次のような言い伝えがあるからだ。湯西川の落人は、かつては湯西川ではなく鶏頂山に住んでいた。この時、男の子の赤ちゃんが産まれた。ヒッソリとした生活の中での慶事である。喜んだ親が鯉のぼりを立てたところ、それが追手の源氏に見つかってしまい、命からがら逃走して、なんとか湯西川へ落ち着いたのだと謂う。或いは、平家に同情して、彼らを助けた人々もいたようだ。例えば、三重県伊勢市矢持町の久昌寺には、ここに逃げ延びて来たという平知盛とその子孫を慰霊する五重塔が残されており、寺の近くにある洞窟には、住民の協力で落人たちの家族が匿われていたと謂われる。
平知盛は清盛の四男で、知将として知られる。壇ノ浦の戦いに際して勝敗が決すると、「見るべき程のことをば見つ。今はただ自害せん」と言い残し、錨を抱えて海中に沈んだとされる人物である。
また同じ三重県の志摩市と鳥羽市の市境にある福寿寺には、平家の旗とされる、赤地に二匹のアゲハ蝶が描かれた旗が大切に残されている。どのような経緯で寺に保管されていたのかは定かではないが、寺が落人たちを哀れと思い、彼らを支援したのではないかと推測できる。

*平家一門が生み出した「芸能」が今も伝わる
 一方、縁も所縁も無い見知らぬ土地へ逃げて来た平家の方でも、地元の住民に溶け込もうと努力したと考えられる。
その一例が、平清盛の嫡男である平重盛の次男・資盛に纏わる落人伝説である。彼は壇ノ浦の敗戦後、安徳天皇を伴って九州東岸を南下。志布志湾の大泊を経て、種子島、鬼界ヶ島、奄美群島などにその足跡を伝えている。
特に奄美群島の一つ加計呂麻島に伝わる「諸鈍シバヤ」は、ユニークな面をつけ、陣笠風の笠を被り、囃子と三味線の音楽に合わせて踊る芸能で、国の重要無形民俗文化財に指定されている。これは、加計呂麻島まで逃げて来た平資盛一行が、地元の人々と交流を深めようと始めたものと伝えられ、踊りだけでなく即興的な狂言や人形劇なども含む完成度の高い芸能となっている。平家一門は、全国に確かな足跡を残して、歴史の中に姿を消して行ったのである。

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◆それは本当に「先制攻撃」だったのか 「真珠湾攻撃」をアメリカは予測していた?

2019-01-28 04:33:19 | Weblog






1941年12月7日7時52分(現地時間)、日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊の基地が置かれたハワイ、オアフ島の真珠湾を奇襲攻撃した。
当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、多くの軍艦と軍用機が破壊された日本軍による真珠湾攻撃に対し、「歴史に残る不名誉な日」だと怒りの言葉を述べ、翌日、日本に対し宣戦布告をしたのである。

*当時の大統領ルーズベルトが隠していた「本心」
 こうしてアメリカは日本との太平洋戦争開戦によって、第二次世界大戦に参戦し、連合国軍の主力となって行くのだが、そもそも真珠湾攻撃が起こる前の時期のアメリカでは、イギリスの要請を受けてルーズベルトが参戦を強く望んでいたものの、世論では大西洋を隔てたヨーロッパで起きている戦争には介入すべきでないという風潮が強かった。それが真珠湾攻撃によって世論が一転し、参戦を後押しする民衆の声が一気に高まったのである。つまり、日本の先制攻撃がアメリカ参戦の切欠を作ったと云えるわけだが、実はルーズベルトは事前に日本が真珠湾を攻撃することを知っていたのに、世論を参戦へと動かす為に、それを回避する行動をとらなかったと云う説がある。

*陸軍長官が日記に記していた「黒過ぎる会話」
 それどころか、わざと日本を挑発し、先制攻撃をさせようと仕掛けたフシまである。実際、陸軍長官のヘンリー・スティムソンの日記には、真珠湾攻撃の10日前に、ルーズベルトと「米国を大きな危険に晒すことなく、日本から攻撃されるように仕向けるにはどうすればよいか」といった会話があったことが記されている。その他にも、日本に先制攻撃をさせたがっていたことを裏付ける書類や個人の回想録が数多く存在しているのだ。
民主国家であるが故に、世論や議会の動きを無視して動くことができないアメリカ。もしかしたら、ルーズベルトは世論を動かす為に、わざと日本に最初の一発を撃たせたのかも知れない。

*米西戦争の切欠も謎が残っている
 アメリカが戦争を始める際、先制攻撃を受けた例は意外に多い。1898年4月に始まったアメリカ対スペインの米西戦争は、1898年2月15日に、キューバのハバナ港に停泊していたアメリカの戦艦メイン号が突如爆発し、260人が死亡する事件が起きたことが切欠だった。
メイン号は、1895年に起きた独立戦争以来、混乱状態にあるキューバで、アメリカ人の保護を目的としてハバナ港に停泊していたのだ。この爆発は間もなくスペインの機雷攻撃によるものと断定され、アメリカ世論はスペインに対する批判で沸騰。スペインとの戦争へと突き進んで行ったのだが、実はメイン号が機雷で爆発したと云う証拠はない。
1911年にアメリカ政府はメイン号を引き上げて原因調査を行ない、機雷による爆発だったと結論を出したが、1976年、この事件を再調査していた海軍関係者が、「燃料用石炭の自然発火だった」と云う説を公表した。更に詳しい調査を行なえば真実は判明したのだろうが、アメリカはメイン号を再び海に沈めてしまったので、今も原因は謎のままとなっている。

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             その事件は仕組まれていた? 黒過ぎる「陰謀」のミステリー


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◆平泉に散った悲劇の武将 源義経、大陸へ渡る! その「北上ルート」を検証

2019-01-27 04:28:25 | Weblog

源義経は、源氏の棟梁たる兄頼朝のもとに参じて平家打倒に尽力し、天才的な戦術で遂に平家を滅ぼした名将である。
しかし、後に兄に追われて平泉に逃れ、衣川にて自害に追い込まれた悲劇の武将でもある。
そうした悲劇性ゆえか多くの謎に彩られている義経だが、最大のミステリーといえば彼の生存伝説である。而も、北上して大陸に渡り、果てはモンゴルのチンギス・ハンとなりモンゴル高原を統一したというロマン溢れる北行伝説なのである。
チンギス・ハンの前半生もほとんどが謎に包まれている為、その時に源義経として過ごしていたと考えれば辻褄は合うのだが、義経の後身がモンゴル人のチンギス・ハンだと言うのはあまりにも話が飛び過ぎているのではなかろうか。
先ずは義経の最期を振り返ってみよう。
兄に追われた義経は奥州の藤原秀衡を頼って東北へと逃げ込んだ。その領地平泉に潜伏するが、秀衡の死後、その子・泰衡は鎌倉幕府からの圧力に屈し、義経の居館を攻撃。
義経は妻子と共に自刀したと伝えられる。
ところが文治5(1189)年閏4月30日に討たれた義経の首が、鎌倉に届いたのは5月22日。つまり1か月近くをかけて、而も初夏の気温の高い時期に鎌倉へ送られて来たわけで、これでは、首が傷んで判別など出来ようはずもない。そこから替え玉説が浮上したのだ。
江戸時代の学者・新井白石は、首が腐敗して判別が難しくなるようわざと日数をかけて鎌倉へ送ったと推測している。
更に、江戸末期に来日したシーボルトが、義経=チンギス・ハン説を提唱した。

*義経の北上した道から上がる真実
 いつしか東北各地には義経とその主従の動向に纏わる伝説が、実しやかに伝えられるようになる。ただし、ここまでなら、身分の高い人物が各地を流浪して逸話を残したという話の一つに過ぎない。しかし、義経に限っては、岩手の弁慶屋敷跡、青森の義経寺、義経が持て成しに感謝して風呂の姓を与えたという岩手の風呂家など、岩手から青森、北海道にかけて義経所縁の名所が数多く残されている。
而もこれらの伝説の地を辿って行くと、束稲山を越えて、遠野、釜石、宮古、久慈、八戸と北上し、津軽半島から船で北海道へ渡るという一本のルートが出来上がるのだ。こうした例はかなり珍しい。
而も大陸側にもその足跡が残されていた。
義経は竜飛岬、若しくは北海道から大陸へ渡ったとされるが、現在のロシア領のナホトカには源氏の紋、笹竜胆に酷似する紋章があしらわれた400年以上前の建物が発見されている。
更にウラジオストックの東北にあるスーチャンでは、「昔、日本の武将がこの地に城を築き、後に中国に攻め入り大王になった」という伝説もあるという。
義経はナホトカからウラジオストック、そしてモンゴル高原へと進み、チンギス・ハンとして歴史の表舞台に再登場したのではなかろうか。
ただしチンギス・ハンが部族を統一したのは文治5(1189)年、義経が衣川で自害したとされる年でもある。
その為年代が合わないという意見もあるが、もしその一年前に既に平泉を脱出していたとすれば、義経ならば大陸で遊牧民となり天才的な軍略で部族を早急にまとめ上げることが出来たかも知れない。
源平期に散った天才武将に纏わるロマンは尽きない。

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◆冷血エリートの秘密組織 『スカル・アンド・ボーンズ』

2019-01-24 04:17:18 | Weblog

*人種差別をもとにした秘密組織
 インターネットで「世界の支配者」と検索をかけてみてほしい。すると、ロスチャイルドやロックフェラーといった名前がヒットするはずだ。どちらも世界の大企業を傘下に置く巨大財閥であり、世界を牛耳る闇の権力者であると説明されているものが多い。
だが、アメリカには彼らをも支配する闇の権力者がいるという。それこそが、クロスした2本の大腿骨とその上に置かれた頭蓋骨、そして「322」の文字というエンブレムを持つ最も邪悪な組織、スカル・アンド・ボーンズである。
スカル・アンド・ボーンズは19世紀にアメリカのコネチカット州にあるイェール大学で結成された秘密結社で、アメリカ政財界に巨大なネットワークを構築している組織である。
この組織の出身者はアメリカの政界、メジャー企業、有名大学、CIA(アメリカ中央情報局)などで大きな影響を与えてきた。そして現在でも一部の例外を除いてWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)だけが入会できることになっていて、根底には強烈な人種差別主義がある。創設から現在までのメンバーは約3000人で、存命しているのは800人といわれる。その中には世界の誰もが知る人物も名を連ねている。
たとえば、第43代アメリカ大統領のジョージ・W・ブッシュ、そしてその父と祖父、2004年の大統領選に出馬したジョン・ケリーも出身者であることが判明している。

*入会できるのは冷血なエリートのみ
 スカル・アンド・ボーンズは年間の入会者が15名と決められており、選考基準はアメリカの由緒正しい名家の子息でエリートであること、そして選ばれない者には些かの感情を持たない真の冷血性を持った人間であることが条件である。
キャンパスで肩を叩かれ、この通称「ドクロ団」に入らないかと勧誘されれば、末は有名大学の学長か大統領か.....。
とにかく、将来の心配は一切なくなるといわれている。何故なら、このスカル・アンド・ボーンズの出身者こそ、20世紀の世界を操作してきたといっても過言ではないのだ。

*目的は新世界の秩序を作ること
 スカル・アンド・ボーンズを創設したのは、麻薬貿易会社ラッセル社の一族であるウィリアム・ハンチントン・ラッセルである。ラッセルは1831~32年にドイツに留学し、そこでヘーゲル哲学に出会った。
「世界が安定すれば破壊して新しい秩序を創造する。創造には破壊が必要だ」
ラッセルは、ヘーゲル哲学を通じてこのような理論を導き出した。そして、伝説の秘密結社イルミナティに感銘を受け、それを模してイェール大学で学生による秘密組織を立ち上げたのだ。シンボルマークの「322」の文字は、ドイツの秘密結社の第322番支部を意味しているともいわれている。組織の初期の会員は17世紀にアメリカに移住したピューリタンの末裔、つまり英国の貴族らだった。
次に、18~19世紀に莫大な富を手にした財閥の子息が加わっている。ラッセル自身も名門一族の出身者だが、その富は麻薬取引と奴隷貿易で手にした、謂わば「黒い貴族」だったのだ。ラッセルの仲間たちは互いに協力し合いながら、アメリカの政財界や教育界にメンバーを引き上げ、権力の座をスカル・アンド・ボーンズのOBで固めてきた。何故なら、彼らの最大の目標が世界秩序の再編であり、世界統一政府の実現にあるからだ。その為には、世界大戦はもちろん凶悪なテロリストを操ることさえ厭わない。世界を彼らの理想とする民主主義に塗り固める為のシナリオは着々と実現されているのだ。


スカル・アンド・ボーンズのメンバーたち 中央の机の上にはその名に相応しい骨が置かれている


設立者のウィリアム・ハンチントン・ラッセル


スカル・アンド・ボーンズのシンボルマークが入った書類 1920年の代表メンバーのリストが書かれている






                   本当に恐ろしい地下組織 独自の信念を持つ組織


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◆ありかを知った者には何かが起きる!? ナチスに略奪されたエカテリーナ宮殿の「琥珀の間」の行方

2019-01-23 04:14:05 | Weblog

 第二次世界大戦中、ナチスドイツは、ヨーロッパ中の財宝を略奪した。
その数は、ナチスが政権を握っていた1933年から1945年の間に、絵画や彫刻、タペストリー、その他の美術品だけで60万点にも及ぶという。ドイツの降伏後、そのうちの多くが元の所有者へ返還されたが、今だ発見されていない美術品は10万点にも上ると推測されている。

*ケー二ヒスぺルク城から忽然と消えた「琥珀の間」
 その返還されていない美術品の中で、最も経済的・歴史的・文化的に価値が高いと謂われているのが、旧ソ連のレニングラード(現・サンクトペテルブルグ)近郊に建つエカテリーナ宮殿から奪った「琥珀の間」だ。
この部屋は元々プロイセン王国のフリードリヒ一世、フリードリヒ・ヴィルヘルム一世と父子二代の国王の下で制作されていたが、1716年、ロシア帝国のピョートル一世の願いを受けて、未完成のままロシアへと寄贈された。その後、ロシアでも建設が進められ、完成したのは1770年のこと。既にピョートル一世は没し、エカテリーナ二世の時代となっていた。
完成した琥珀の間は、琥珀をふんだんに用いて作られた祝典応接室で、壁面だけでも6㌧の琥珀が使われており、価値は時価約400億円とも謂われている。
やがて1941年6月、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したドイツ軍は、9月にエカテリーナ宮殿を占領。「琥珀の間」を解体してドイツへ持ち帰り、翌年、ドイツ東部のケー二ヒスベルク城の一室に再現した。
しかし、ドイツ軍はレニングラードの占領に失敗。更に1943年1月にスターリングラードの戦いに敗れると、翌年にはソ連軍の攻勢を受けて開戦前の国境線まで押し戻された。更に、アメリカ軍の本格参戦を受けたドイツ軍が西部戦線でも米英の攻勢を受けて劣勢に立たされると、ソ連軍は1945年4月9日、「琥珀の間」が置かれているケー二ヒスベルク城を占領した。
この時、ソ連軍はすぐさま「琥珀の間」を奪還しようと捜索を開始したが、部屋の形跡こそあったものの、琥珀や部屋を飾る調度品どころか、「琥珀の間」自体がそっくり姿を消していたのだ。

*「琥珀の間」の行方を知る人物が次々に変死
 以来、「琥珀の間」は発見されることなく現在に至る。而も、その行方を知っていると考えられる人々に、不可解な出来事が続出しているのだ。
先ず、ケー二ヒスベルク城の博物館長だったアルフォレート・ローデは、ソ連の尋問に対し「琥珀の間は燃えた」と答えていたのだが、再度の尋問を前に急死。
更に、莫大な略奪美術品を私物化したとされるナチス党員で、ローデとも接触があったプロイセン大管区長官エーリッヒ・コッホは、「私のコレクションがあるところに、『琥珀の間』は存在する」と謎めいた言葉を残して、1968年にポーランドの刑務所でこの世を去った。
1987年8月には、西ドイツ政府の支援を受けて、「琥珀の間」の調査にあたっていたゲオルク・シュタインという人物が、バイエルン州の森の中で裸の遺体で発見された。腹が切り裂かれ、近くにはナイフと外科用メスが落ちていたという。その死の直前、シュタインは親しかった東ドイツのパウル・エンケ中佐に電話し、近く記者会見すると興奮した様子で語っていたという証言がある。しかし、記者会見の直前に変死を遂げ、エンケ中佐もその年のうちに急死してしまうのだ。シュタインの死は自殺として処理されたが、何者かに殺害された可能性も捨て切れない。エンケ中佐の死因も、病気だとか、路上で倒れて急死したとか諸説あり、はっきりしていない。
1997年には「琥珀の間」に飾られていたモザイク画を売り出した人物が出現。その人物は自らを「ミスターX」と名乗り、決して名前を明かそうとはしなかった。
急死する以前、エンケ中佐は、シュタインの死は殺人事件だとし、「実行犯は恐らく、財宝を我が物にしようとするナチスの残党だ」と信じていたという話もある。
「琥珀の間」については、多くのトレジャーハンターが今も捜索を続けているが、今だに手掛かりすら見つかっていない。

*画像 1931年に撮影された当時の琥珀の間

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                  「あの歴史上の大人物」が隠していたミステリー


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椿(対馬の姫) Camellia japonica You’re a flame in my heart

2019-01-22 05:14:20 | Weblog

 


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◆西南戦争で政府軍に敗れ、自害 幕末の英雄・西郷隆盛ーーー死後も囁かれた不気味な噂

2019-01-21 04:27:44 | Weblog

西郷隆盛は、明治維新の立役者の一人である。
しかし、明治6(1873)年、明治政府内で征韓論を唱えて政争に敗れ下家すると、明治10(1877)年、故郷の鹿児島で設立した私学校の生徒たちを率いて西南戦争を起こした。結果は政府軍に惨敗。熊本城の戦いに敗れて以降、撤退を繰り返して故郷の鹿児島へと至り、同地の城山で自害した。これが西郷隆盛の最期とされる。
ところが、西郷の自害によって西南戦争が終結した後も「西郷は生きている」という噂が絶えず、彼の生存を信ずる者も多かった。というのも、回収された西郷の遺体の確認があまりにも不完全なものであったからだ。
西郷は自らの最期を悟った時、別府晋介に命じて首を落とさせたと謂われる。
介錯後、その首は土中に埋められた。
後に政府軍が土中から掘り起こしたものの、最後まで西郷に付き従った者がみんな戦死してしまった為、彼の自害を目にした者が居らず、西郷の首と断定することができなかった。
而も西郷を撮影した写真が一枚も無い為、その顔を知る者は限られていた。このように西郷の自害後の身元確認は、甚だ怪しかったといえる。

*大津事件を引き起こした西郷生存説
 こうした不確定要素が、突飛な西郷伝説を生み出す。
西南戦争以後、西郷生存説は巷で囁かれていたが、何と西郷が外国へ逃亡したとの説が大流行したのである。
朝鮮半島へ渡った、インドで身を隠しているなど、様々な憶測が乱れ飛ぶ中、取り分け実しやかに囁かれたのがロシアへの逃亡説だった。
この説が俄かに現実味を帯びて来たのが、明治24(1891)年のロシア皇太子ニコライの来日であった。
連日のように、「生き延びた西郷が、ニコライと共に日本にやって来る」「西郷はロシアの軍艦に乗ってやって来る」と話題になった。また、西郷は明治19(1886)年に消息を絶った軍艦「畝傍(うねび)」を引き連れて来るともいわれた。
そんな折、ニコライ来日中に起きたのが大津事件である。
これは、琵琶湖を周遊していたニコライが大津市(滋賀県)を通った時、警備の任に就いていた巡査・津田三蔵に斬りつけられ、重症を負った事件である。外交問題に発展し兼ねない大事件だったが、明治天皇自ら見舞いに駆けつけたこともあり大事には至らなかった。
津田は西南戦争での武勲により勲章を授与されていた人物だった。彼は、万一、ロシアに逃亡した西郷がニコライと共に来日すれば、この勲章が取り上げられると考え、それを阻止する為にニコライを狙ったと供述したという。
しかし、その後も、日本に西郷が姿を現すことはなかった。

(画像・『西南珍聞 俗称西郷星之図 (梅堂国政画)』
西南戦争後、火星の接近に伴い、星の中に西郷の姿を見たという噂が流布し、『西郷星』と呼ばれた)

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山茶花(Sasanqua) Camellia sasanqua 困難に打ち克つ ひたむきさ

2019-01-19 16:18:43 | Weblog

山茶花は江戸時代に長崎・出島のオランダ商館からヨーロッパに伝わり、
和名がそのまま学名(Camellia sasanqua)となりました。


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菜根譚 前集29項

2019-01-15 04:14:48 | Weblog


サイネリア(青)Pericallis ×hybrida 悩み多き恋

 

憂勤是美徳、太苦則無以適性怡情。
澹泊是高風、太枯則無以済人利物。

憂勤は是れ美徳なるも、太だ苦しまば、則ち以って性に適い怡ばしむること無し。
澹泊は是れ高風なるも、太だ枯るれば、則ち以て人を済い物を利すること無し。


『苦労も枯淡も度を越さず』
種々の状況を考慮し苦労して仕事に務めることは、それは善い行いであるが、
しかし限度を越えて苦労し過ぎると、その人の本性を楽しくし、
心情を喜ばせることができなくなる。
これに対して、心がさっぱりして無欲であることは、それは高尚な心であるが、
しかし限度を越えて枯淡になり過ぎると、
世の人を救ったり役に立ったりすることができなくなる。


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キリストの血脈を守る 『シオン修道会』

2019-01-13 17:44:09 | Weblog

◆有名人が数多く所属した組織
 ダン・ブラウンの小説「ダ・ヴィンチ・コード」の大ヒットによってその名を広く知られるようになったシオン修道会。会が設立したのは遥か昔の1099年まで遡る。
フランス国立図書館に保管された「秘密文書」という名の文書には歴代総長の名前が記されているが、この顔ぶれがスゴイ。
ダ・ヴィンチ、ニュートン、ドビュッシー、ジャン・コクトーなど、あらゆる分野の有名人が名を連ねているのだ。だが、メンバーは会員であることも活動内容も、絶対に口にしてはいけなかった。実は、この組織は歴史やキリスト教の教えを根底からひっくり返してしまうほど、大きな秘密を抱えていたのである。

◆キリスト教にとって都合の悪い秘密
 シオン修道会が守っていたのは財宝などではない。
もっと世間に衝撃を与えるものーーー、それはキリストの血筋だ。キリストは弟子だったマグダラのマリアと夫婦関係にあり、子供までいた。而も、マリアはキリストの遺骨を持っていたとも謂われている。
キリストは独身を貫いたとか、復活した後は天に昇ったので遺体は存在しないと教える教会にしてみれば、これは見逃すことのできないスキャンダルである。子供の存在がバレたら母子共々消されてしまうことは疑いのないことだった。それを恐れたシオン修道会は親子をかくまった。親子の安全を考えれば、自分たちの存在も隠し通さなければならなかったのだ。そうしてキリストの血筋は守り続けられ、やがてその子孫がフランスのメロヴィング朝を開いたと謂われている。歴史の教科書ではメロヴィング朝は7世紀に滅んだことになっている。しかし、シオン修道会によれば、子供だけはコッソリと救出されて現代にまでその血筋が受け継がれていると謂う。
それがシオン修道会27代目総長だったピエール・プランタールである。

◆いまだ残る秘密文書の謎
 ところが、現代ではシオン修道会の存在自体を疑う声が多い。というのも、自らをメロヴィング朝の子孫だと名乗り、総長の座まで務めたプランタールが、秘密文書は仲間たちとでっち上げた偽物と告白したのだ。
ただ、シオン修道会が全く架空の存在だったとも言い切れない謎めいた事件が起きている。或る時、1人の男が頭部を切断されて殺された。彼はレオ・シドロフという人物の鞄を運んでいたはずなのだが、鞄は見つからなかった。秘密文書にはこの一件が「レオ・シドロフの革鞄」として記されている。
記述によれば、鞄には1600~1800年にかけてのレンヌ=ル=シャトーに関する重要文書が入っていたそうだ。
レンヌ=ル=シャトーとは南仏の村のことで、シオン修道会と深い関わりがある。この村のソ二エール司祭が教会の修復をした時、柱の中からキリストの血筋が生き残っていることを示した文書を発見したと伝えられているのだ。
「レオ・シドロフの革鞄」には、新聞記事だけでは知り得ないほど殺人事件の内容が詳しく書かれていた。身近な関係者でなければ入手できないような情報が満載なのだ。それに加えて、シドロフの死後、彼の娘のもとには父親が何か文書を残していないかという問い合わせも多くあったという。
果たして、シドロフはシオン修道会についての重要な情報を握っていたのか。彼の鞄に入っていた文書が誰かの手に渡ることを恐れた人物、或いは組織が運び屋を抹殺して鞄を持ち去ったのだろうか。こうした一連の不可解な出来事は、シオン修道会が存在しなければ説明がつかないとも言えるのである。


ダ・ヴィンチ画「最後の晩餐」で中央のキリストの左隣に描かれているのは、一般的には使徒ヨハネと言われているが、実はマグダラのマリアだという説もある


羊皮紙が入っていたという石柱の前に立つソ二エール司祭


レンヌ=ル=シャトーにはマグダラのマリア教会がある





                     本当に恐ろしい地下組織 独自の信念を持つ組織


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花月(金のなる木・Dollar plant) Crassula ovata 幸運を招く 不老長寿

2019-01-03 15:59:40 | Weblog

 


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