『源義経は平氏の滅亡に戦功をたてたが、頼朝からの称賛はなく、二人の関係は悪化した。
頼朝が義経追討を決意した理由は何だったのだろうか』
日本史の英雄の一人、源義経は文治5(1189)年閏4月30日、奥州の衣川館で藤原泰衡の軍勢に襲われ自害した。泰衡に義経を討つよう圧力をかけたのは源頼朝であり、義経は異母兄弟によって追討された。 頼朝が義経を執拗なまでに追いかけて首を取ろうとした原因について、かつては頼朝が義経の名声に嫉妬した、或いは兵法家としての能力に恐れを抱いたからだと言われたことがあった。また、有名な腰越状(義経が、現在の鎌倉市腰越にある満福寺で書いたといわれる頼朝宛ての弁明書)を大江広元が取り次がなかったことが原因だとも言われた。 しかし、これらの説はみな義経の死後、日本国民の間に広まった「判官びいき」によるものとされ、現在では頼朝の義経追討の原因と考える人は少ない。 そこで指摘されて来たのが、頼朝と義経を巧みに操った後白河法皇の存在だ。歴史学者の石井進氏によれば、頼朝と義経の仲に微妙な空気が漂い始めた原因は「後白河法皇とその側近たちの権謀術策にあった、といって過言ではない。自ら独自の武力を持たない法皇にとって、武士たちを互いに対立させ、牽制し合わせながら、彼らを手玉にとって行くのはその伝統的政策なのであった」(石井進著『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社)とされる。 では、具体的に法皇はどのようにして頼朝と義経を手玉にとったのか。また、二人の間に微妙な空気が漂い始めたのはいつのことなのだろうか。その時期について、石井氏は元暦元(1184)年2月の「一ノ谷の戦い」の後から翌年正月の間と見る。 その間の頼朝と義経の動向を見てみよう。同年6月、頼朝は一族の任官を朝廷に申請し、弟の範頼(義経の兄)以下を国司に任官させた。しかし、その中に義経は含まれず、義経に大きな不満が残ったとされる。すると、8月、義経は頼朝の推挙なしで法皇から検非違使・左衛門少将に任官された。義経は任官を拝受したが、それはまさに義経の心を見透かした法皇の妙手だった。その後も法皇の義経に対する厚遇は続き、10月、義経は遂に院内の昇殿が許された。 しかし、この義経の栄達は「鎌倉の頼朝を強く刺激することになった」(石井氏前掲書)。石井氏によれば、頼朝の基本的方針は御家人武士の賞罰の権限を独占することにあるとし、「京都朝廷に対しても、『御家人の勲功は一切、頼朝が調査し、申請したところに従って行賞されたい』旨を強く申し入れてあった」(前掲書)という。 それにも関わらず、義経は頼朝の命令に背いて推挙なしで法皇からの任官を喜んで受けてしまったのだから、「頼朝に対する正面からの挑戦と受け取られたのもやむを得ない」(石井氏前掲書)だろう。
*壇ノ浦の戦い後に亀裂が生じた?
翌年、義経は源氏の総司令官として屋島の戦い・壇ノ浦の戦いに連勝し、平氏を全滅させて京に凱旋した。しかし、待っていたのは戦功に対する頼朝からの称賛ではなく、厳しい追及だった。その内容は、 ①頼朝の推挙なしに朝廷から任官された東国武士の処罰 ②義経に代わって畿内近国の成敗(裁断)を行う「鎌倉殿御使」の派遣 ③宝剣紛失の責任追及 というものであった。 頼朝と義経の仲に亀裂が生じた時期を、この壇ノ浦の戦い後とする説もある。歴史学者の五味文彦氏は「義経への頼朝の心証を決定的に悪くさせたのは、追討活動に際しての義経の『自尊』(自分勝手な成敗)に対する梶原景時からの訴えであった」(五味文彦著『源義経』岩波新書)という。 景時は頼朝の側近であり、景時から讒訴を受けた頼朝は、義経の側に仕えていた田代信綱に使者を派遣い、今後、関東(頼朝)に忠を尽くす武士は義経に従わないよう命じている。 しかし、明治大学教授の上杉和彦氏は「ここに至って、頼朝と義経の対立は決定的になったかに見えるが、しかしながら頼朝は依然として『義経の追討』を考えてはいなかった」(上杉和彦著『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館)という。上杉氏によれば、「義経がそのまま在京を続け、頼朝との敵対関係を持つことなく後白河直属の武士として活動を続けたならば、頼朝は当面そのような義経の立場を容認或いは少なくとも黙認し、その結果、後の義経の運命は大きく変わっていたかも知れない」(前掲書)とされる。 そして上杉氏は、壇ノ浦の合戦で捕らえた平宗盛父子を護送し鎌倉に向かった義経が結局、頼朝に面会できず腰越を去った直後に、「鎌倉に恨みのある者は、私について来い」と言い放ったという『吾妻鏡』の記述に着目し、「これが事実であるならば、この時点で、義経と頼朝の対決は避けられないものとなった」(前掲書)と述べている。
日本史最後の謎 武士が覇権を握った鎌倉・室町時代の謎