South Is. Alps
South Is. Alps
Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
Lake Griffin


『グレイラットの殺人』(ハヤカワミステリ文庫)

 
M.W.クレイヴン、2023、『グレイラットの殺人』、ハヤカワミステリ文庫

ポー&ティリーのシリーズ、第4作となる本作品。これまでの作品とおなじく、はじめのうちは関連がわからずやがてポー&ティリーが筋を見出したところでどんでん返し、その後も二転三転を繰り返すといったところは同じで、ペッドで寝る前に読むにはいささか、寝不足を招きかねない作品であった。これまでの作品と同じく、最後の10数ページはベッドではなく、起きているときに最後まで読み通した。

グレイラットというのは陶器製の小さな置物で、2つの事件現場に置かれていた事によっているのだが、背景となっていたのがアフガニスタン紛争におけるアメリカ軍によるイギリス軍の兵員輸送車への誤爆が絡んでいた。はじめのうちは、危険地帯に侵入してアルカイダのテロを受けたとされ、その事実関係が二転三転して事件の真相が深刻化していく。さらには、アフガニスタンなどの骨董品の売買、全滅したイギリス軍の分隊のメンバーの一人が臨時に配属されて、全滅のメンバーになってしまったことなどが次々と明らかにされる。

舞台となっているのはこれまでの作品と同じく、カンブリア地方である。その国際会議施設における世界的な重要メンバーの会議の開催という厳戒態勢の中、次々と事件が起きる。

読み終えて「解説」を読んでいたら、次作以降の案内(2023年には「The Botanist」、2024年春には「TheMercy Chair」が発表されるという)とともに別のシリーズがすでに出版されているそうだが、それが、リー・チャイルド原作の「ジャック・リーチャー」を意識したものだと記されていた。偶然に過ぎないが、ちょうど今日、TVドラマシリーズの「リーチャー:正義のアウトロー」(Amazon Prime、シーズン1〜2)を見終わったところだった。このドラマについては別に記すが、本作のシリーズを読み続けていたから「リーチャー」を視聴しようとおもったのだろうか?

2024-03-25 22:11:25 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『キューレータの殺人』(ハヤカワ文庫)

M.W.クレイヴンの「ポー&ティリー・シリーズ」第3作。
このシリーズはいずれの作品もどんでん返しの連続で面白いのだが、寝本にしている者としてはいささか悩ましい。ほんの少しの部分で新しい展開が出てくるので、本を閉じがたい。実に困った寝本なのだ。もちろん、それを好き好んで選んでシリーズ3冊目まで来たのではあるが。
本作では、ほぼ半分あたりのところで、一件落着のような情報が示される。それが、「Blue whale challenge」である。これは、ネット社会の必然とも言える現象で、つまり、ネットの情報の真偽の判断が困難である(その気になれば、明らかにできるがネットの本質を理解できていなければ、直近の情報を真実と思ってしまいがちといえる)。また、この問題は、不特定多数を対象としているので、確率的に一定の割合のユーザが反応すれば成立してしまい、そういった不確定性が犯罪の首謀者、チャレンジをしかけた人物を隠蔽することになる。主人公のポーとティリーが行き当たったのはこのチャレンジのバリエーションによって彼らが操作していた事件が引き起こされうるということであった。
ところが、突然ポーのもとにメロディー・リーなる左遷されたFBIエージェントから電話がかかる。彼女はワシントンDCでの事件の理解についてについてじょうそうぶと対立して左遷されていた。きっかけになったのはポーの出生に関わる事件であった。彼女が告げるには、ポーが見出した「チャレンジ」類似の事件ではあるがそこには意図的な殺人(あるいはターゲット)が存在する可能性があるのではないか、つまりは、共通の事件で、別の背景があるのではないかということであった。
例によって、本作も旧作と同様にどんでん返しが待っている。しかも、とりあえずは、読者にとって情報が与えられていないどんでん返しと言っておくが、しかし、よく考えてみるといくつかの伏線が置かれていることはわかる。しかし、その飛躍が刺激的に過ぎるのではある。
 

2024-02-26 22:04:58 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『絶滅する「墓」:日本の知られざる弔い』(電子書籍)

昨年末両親の13回忌の法事をした。次は、17回忌のはずだが、それまでに「墓仕舞い」をして法事ではなく会食ぐらいにしたいと現時点では考えている。代々の祭事の継承ができなくなった以上、前の世代のことを次の世代がとりおこない、それで終わるしかないと思って時間がたってしまった。
朝鮮戦争の時の特需で特別ボーナスを得た父は、ちょうど私と入れ替わりに世を去った祖父とそれまでに亡くなっていた祖母の墓を建てようとしたらしい。祖父は愛知県の実家を出て以来いわば転勤族だったから、実家の墓に葬るわけにはいかず、あらたに墓を建てようとしたということのようだ。浄土真宗だったので東大谷の墓苑に一角を手に入れて墓をたてた。
わたしは、両親の死によってそれを承継することになったのだが、私自身離婚と先妻との子どもとの疎遠にくわえて、現在の妻とは子どもがない。順番としては私が墓に入ることになるだろうが、墓に入りたいとも思わないし、だれかがその墓を承継して行くとも思えない。
結論としては「墓仕舞い」の他、考えることができない。せめて、私自身のあとを残すとすれば、大谷祖廟の集合墓に加えてもらう他ないだろう。それは、もちろん、そのことは私のリビングウィルにくわえてあとに残ったものが考えることだろう。
本書は、日本の葬送の歴史を振り返り、地域による違いや先住民(アイヌや琉球)、外国人の事情も含めて現状の詳細が書かれている。特段方向性が示されているわけではないが、現状としては選択肢として葬送の現状の中から選ぶというこになるということなのだろう。
私の経験の中では祖父母や両親の眠る東大谷の墓地、大谷祖廟、祖母の実家の両墓制の墓地、沖縄のそれなど様々な葬送の形を実見し、知識としても持っている。とはいえ、自分自身の死後の望ましい姿を想像できるほど想像力たくましくはない。死後の私にとって自分の意思は働かせようがないと思うので「好きにしろ(どうせ、なるようにしかならないから!)」としか言いようがないと思うのだが。

第1章   私たちにとって「墓」とは何か ──
墓制史が教える日本人の死生観 — 縄文時代から歴史的に墓制の変化を紹介する。
第2章   滅びる土葬、増える土葬 ──土葬の現在 — 
仏教伝来以来火葬が多かったとはいえ、諸般の事情(法律で禁じられていないにも関わらず、衛生の問題や埋墓の位置など)により次第に減りつつあるものの、モスレムなど宗教上の理由により土葬が必要となる現状もある。
第3章   捨てる墓、 詣る墓 ──消えゆく「両墓制」 — 
土葬の場合埋墓と参り墓を分けていたが次第に一つの墓にまとまりつつあり、両墓制の伝統は失われつつある。
第4章   権力と墓 ──生き様を映し出す鏡として —
権力者の墓は大きいかというと時代によって異なる。会社墓などもある。
第5章   独自の意匠をもつ〝北〟と〝南〟の墓 ──奄美、沖縄、アイヌの弔い —
日本の多様性を示すものではあるが、次第に失われつつある。
第6章   生きた証としての墓、証を残さない墓 ── 骨仏 からコンポスト葬まで — 
墓をもたない単身で都市に移住した住民の墓制として、骨仏やマンション形式の墓、更にはコンポスト葬まで多様な墓(作らないことも含めて)が生まれている。

 

2024-02-21 14:47:31 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『地下生菌識別図鑑』(電子版)

生態系のなかの微生物そのものおよびその生態的地位について興味を持って(素人的に)ざっくりした情報を集めているが、本書も一つ。地下生菌とはキノコの仲間で、よく知っている地上に姿をあらわし傘を開いて胞子を飛ばして世代交代するキノコとは生態が異なる菌類のことをいう。
オーストラリアの知人にオーストラリアで自生するトリュフを見つけて(イヌをつかって探る)ビジネスにしようとしている男がいるが、日本でもトリュフがありそうだということが、本書でも明らかになる。ただし、発見したものが食用になるんおかどうか、本書では触れられていないので、おいそれとは口にはできないのだけれど・・・。
日本では松露という地下生菌が古くから知られていて、トリュフもその仲間であるとは知ってはいたが、オーストラリアで知人からその話をきいても、日本にもあるとは思ってはいなかった。


 

2024-02-17 19:24:08 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船 (ハヤカワ文庫JA)(電子版)』

 
日経新聞夕刊の2023年を回顧した書評(12月13日付)で小谷真理が1位に上げていて読んでみることにした。小谷が「ボーイ・ミーツ・ガールのSFロマンス。一見ライトノベル風の体裁と見えるが、実は、量子宇宙論にまつわる、真に骨太なSF」と書いていて、それにつられて早速購入したものの、「ラノベ」の乗りかと思えてしまい、なかなか読み進めることがなかった。

作者の作品は、実は読むのは2冊目であることに途中で気がついた。このブログの下書きの「2015-06-22」の項に作者の『カラマーゾフの妹』があった。読み終えたから「下書き保存」したはずだが、何も書いた形跡がなく、宙に浮いていた。どのような感想を持ったのか、まったく記憶にないので、少し残念なのだが、しょうがないだろう。

パラレルワールドものだが、2つの世界の交錯ぶりが興味深く読めた。主人公の夏紀と登志夫が、ほのかに思いを寄せる幼馴染のようでもあり、実は2つの世界の焦点であるという設定がよかった。それが故に、夏紀は分身を守るために(じつは、自分を守ることにも通じる)自分の属する世界の消滅を選んだのだ。また、設定として、コンピュータ技術や宇宙開発が2つの世界で微妙に大きく異なるというポイントも興味深く読むことができた。どのような、きっかけで、異なる未来につながるかもしれないという、リアリティを感じることができた。

作者も「あとがき」に書いているが、もちろん、Google Mapsをつかって、舞台となった土浦の地名などを検索しながらみたし、「ツェッペリン飛行船」についても、Google検索しながら読んだ。最近の読書は、たとえ、フィクションであっても、現実の地名や史実が登場するほうが楽しく思える。


2024-01-22 22:05:48 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『ストーンサークルの殺人』

 
もとカンブリア警察本部から本庁の重大犯罪調査分析課の警部のワシントン・ポーは、とある事件でミスを犯したと停職と部長刑事に降格を命じられて謹慎中だ。そこに、元の部下で彼の公認になったステファニー・フリン警部がやってきて、連続殺人事件の調査に関わるようにと。カンブリア地方のストーンサークルで硝子体で見つかる老人たち、調査には天才ティリー・ブラッドショーが加わる。コンピュータに明るくデータ解析をくしできる。

連続殺人にはかつて悲惨な事件が隠されていた。施設に預けられていた身寄りの4人の少年が、地方の有力者たちの性欲の餌食になっていたことが明らかになり、このとき少年たちを手に入れた有力者たちのつながりが明らかになる。犯人は誰か、ポーとティリーのコンビは、データを追跡し、ついに明らかにする。これ以上書くのはやめておこう。読んでのお楽しみといったところだ。

わたしは、Prime Videoでハリウッド警察の刑事ハリー・ボッシュのシリーズにハマっていたが、それを彷彿させる。正義感にあふれ、犯人を追い詰めるが、方法はときに選ばない。上司の命令など優先順位が違うのだ。

すでに出版されているシリーズ4冊はすでに入手済みで、2冊目が楽しみだ。

物語は、イギリスのカンブリア地方のストーンサークルや田舎の風景の中で進んでいく。Google MapとGoogle検索をしながら、リアリティを増すのはますます楽しみを増やしてくれるだろう。


2024-01-07 15:22:53 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『復活の日(角川文庫)』(電子版)

 
今年の9月はじめに書きかけて方ってあったのを見つけたので、アップしておこう。

『復活の日』が単行本で出版されたのが1964年8月、わたしは、中学生3年だった。わたしは『SFマガジン』も読んでいたSFファンの一人だったので、もちろん出版されたことを知っていた。しかし、どういうわけか、その後も読んだことはなかったのではないかとおもう。今回、おそらく初めて読んだのではないか。いっぽう、『日本沈没』(1973)は、カッパ・ノベルズで出たし、大学生だったから、たぶん、初版で買って読んだと思う。続編を書く予定だったというが、「第2部」の出版は時間がかかった。2008年6月30日に読後感を書いている(『日本沈没 第2部』)。

好んで読んでいたSF作家は、もちろん小松左京、星新一、筒井康隆で、SFファンの中でも平凡な読者だったろう。小松左京の作品では、わたしは、『日本アパッチ族』とか『明日泥棒』、『ゴエモンの日本日記』が好みだった。子供の頃、大阪環状線の森ノ宮から京橋にかけての大阪城よりのところの廃墟(砲兵工廠跡)が記憶に残っていたので、『日本アパッチ族』にはリアリティがあった。鉄を喰らって生きていた「日本アパッチ族」という設定やスラップスティックな展開は、子供ながらに面白かった。宇宙人ゴエモンのキャラクタもすきだった。むしろ、小松左京のシリアスな筆致の『日本沈没』や『果しなき流れの果に』(たぶん、「SFマガジン」の連載で読んだ)とか、この『復活の日』は、どちらかといえば、あまり好みではなかったのではなかったか。2006年9月8日の『SF魂』の書評に同じようなことを書いている。その中では、『日本アパッチ族』よりも開高健の『日本三文オペラ』のほうが面白かったと書いている。

私の家では、両親が書籍や雑誌などを購入している駅前の書店で、子どもたち(妹と私)にも、つけで購入することを許してもらっていた。別に言われていたわけではなかったと思うのだが、単価の安い文庫や新書、雑誌(「SFマガジン」、「少年サンデー」(1959-))を買っていて、単行本には手を出さなかった。漫画は、近所の友人が「少年マガジン」(1959-)を購入し、交換して読んでいた。単行本で出版された『復活の日』には手を出さなかった理由」、それはひょっよしたら、子供なりの倹約意識がその理由であったかもしれないのだが。

2019年以来のコロナ禍たけなわの頃に、『アンドロメダ病原体』は読んだのに、本書を読まなかったのはなぜかわからない。でもまあ、今回改めて読んでみて、たけなわの頃に読まなくてよかったかも。宇宙で採取されたMM菌から生物兵器として開発されたMM-88と名付けられた「核酸兵器」は偶発的な事故により南極にいた各国の探検隊を除き、「人類絶滅」寸前にまで追い込むのだが、この蔓延の記述は本書の半ば頃だが、おそらく、コロナ禍たけなわの頃に読んでいたら、この部分できっとげんなりして読み進めることができなかったかもしれない。エピソードが多すぎて、テンポが悪すぎると感じた。

本書では後半になると当時の東西冷戦下の核戦略にトピックが展開して、ソ連が開発した中性子爆弾による中性子によってMM-88菌は無毒化され、かろうじて、南米南端へ上陸をはたした生き残った1万人の南極探検隊の一部のエピソードでエピローグを迎える。当時は、生物兵器というよりも、原子核兵器のほうが、インパクトがあったので、エピローグにこっちを持ってきたのだろう。



2023-12-26 16:02:30 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『考える親鸞:「私は間違っている」から始まる思想』

本書は、2021年11月に入手していたのだが、購入した理由は、このあたりから、親鸞や近角常観のことが気になって、調べ物をしていた時期だった。そのピークは、2022年8月のころで、中島岳志の『親鸞と日本主義 (新潮選書)』、近角常観の書簡の整理などをしていた(その理由の一端は、中島の書籍についての書評に書いてある)。

しかし、本書をこの間手にとって、デスクサイドに置いていたものの、読みすすめることはなかった。ふとしたことで読み始めたのは、本書の帯に鶴見俊輔の名を見つけたからである。鶴見俊輔については、先日も『日米交換船』を読了し、現在は『鶴見俊輔伝』を読んでいるところだ。

本書で鶴見が登場するのは、最末尾であるが本書の副題「私は間違っている」は鶴見の言葉であることがわかる。鶴見は子供の頃、母からの暴力を受けていたが、キョウダイで唯一人受けていたのでそれは自分が間違っているから受ける母からの愛であると思っていたという。

本書のタイトルは、宗教者である親鸞の思想をについて述べたり紹介するのではなく、親鸞を手がかりに、親鸞の思想を考えた人々に焦点が当てられることから来ている。明治以降の近代化日本の中で、欧化やキリスト教の影響を受けつつ日本とはなにか日本人とは何かについて考え他人々の考えであり、結果的には近代化の進行の中で親鸞を再読する(再考する)事になっている。

親鸞の残した言葉や行動、「非僧非俗」「悪人正機」「弟子一人も持たず」「絶対他力」「法難」「自然法爾」「I am wrong」などについて考察を加えている。私が気になっているのは、こうした考え方が、明治以降の近代と関連付けられていることだ。というのは、親鸞は中世の殺伐とした世界、殺人や裏切り(其々には正当性がある)に溢れ、生きるために他人の命や財産を奪うといった、ある種呵責ない世界に生きていたはずだ。また、中世的政治権力や平安仏教の権威の中で、叡山を降り、流配されるといった生を全うしたのが親鸞だ。そうした彼自身の生きた歴史を背景なくして語れないと思うのだ。

だから、苦しい世の中に生を受けた人々に、弥陀の本願を信じさえすれば悪人善人を問わず、往生したときにあの世で阿彌陀佛の救済(成仏)が待っていると解いたのだ。この世の中での行いの善悪の判断ではなく、弥陀の本願を信じることが救済の鍵となるのだと。名号を称えることがその証というわけだろう。

とはいえ、明治以降、現代に至る社会にもし親鸞が生きていたら、彼の思考が何を契機としてどのように深まったか、とても興味がある。それゆえ、本書の「考える親鸞」というタイトルが意味を持つのだが。本書に取り上げられた人々(親鸞に準拠して近現代を考えた人々)は、生きていた時代に矛盾を感じ、その生を考察するために呵責ない時代に生きた親鸞に依拠しようとしたに違いない。とはいえ、歴史的な背景や「個人」や人間についての考え方も大きく異なっていたはずだ。とはいえ、可能なら、蘇った今生きる親鸞に聞いてみたいとおもうのだ。

「蘇り親鸞」がもし目の前に現れたとしたら、聞いてみたい。

別のところにも書いたことだが、2011年10月末に亡くなった父と2012年2月初めに亡くなった母は、ともに、毎朝二人で経を読み、名号をしょっちゅう唱えていた。大谷派の寺でのお説法にも通っていたし、お寺さんや檀家の皆さんとも仲良くしていただいていた。しかし、父は入院先でせん妄に陥り(ぶりかえした戦争神経症によるとでも言うべきものだっただろう)、入院中は念仏を唱えることもなかった。いっぽう、母は入院したもののその日のうちに突然に意識を失いこの世を去った。かれらは、毎朝の習慣のようになっていた「南無阿弥陀仏」の名号をすら意識のあるうちに唱えることもなく逝った。

両親は成仏できたかどうか、おそらく、親鸞は何も答えてくれないだろう。というか、自明のことだからだ。弥陀の本願は善人悪人を問わず救済することだと親鸞は述べているのだから当たり前に弥陀の救済を期待できるだろう。人々の信仰は、それがその人々にとっての救済の願いとすれば、それはそれで良い。とはいえ、もちろん、信仰が深ければ成仏できるというわけでもない。じつは、信仰の有無は関係がないとすらいえるはずだ。両親は念仏を唱える暇もなくこの世から去ったが、生前十分に名号を唱え、経を読み、おかげ(かどうかわからないが)をもって、予定通り空に消え去ったのだろう。

両親の没後、私がしたことは、位牌を寺に預け、檀家であることを継続した。また、父が墓を京都の東大谷に新たに建てて(朝鮮戦争のときの好景気でボーナスがいつもより多く支給されその金で建てたという)、そこには祖父母が眠っていた。両親がなくなったので、私は、墓地を承継し両親の遺骨を納骨した。そして、ときには墓参をしている。こうした一連の行為は、じつは私が納得すること以上でも以下でもない。おそらく、親鸞はこうした行動についても「おまえの好きにしろ」といったに違いない。

今の我々からすれば殺伐とした中世に生きた親鸞は、おそらく、人々の心の平安のために、様々語り聞かせたということだったのではないだろうか。人々は彼に問いかける。どのようにすれば成仏できるのかと。彼は聖人(法然)様の言葉に従ったのであって、たとえ聖人に騙されたとしても良い、自分はただ聖人を信じるだけだといったという。聖人は弥陀の本願、信ずるものは死後の世界において成仏できるとのべた。とはいえ、教団をつくり、真理(弥陀の本願)を教え、それに従う人々を生み出すこと(たとえば、浄土真宗中興の祖、蓮如のように)、それは、絶対他力とは矛盾してしまうのではないだろうか。教えとそれに対する従順は「自力そのもの」なのだから。親鸞は弟子一人も持たずといったのは、絶対他力からすれば自明のことであったはずだと考えるのだが、どうだろうか。

 

2023-12-25 15:55:46 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『日没』

 ブンリン(文化文芸倫理向上委員会)に出頭を命じられた「エンタメ」系作家のマッツは、そのまま療養所に収容されてしまう。事情を説明してなんとか脱出しようとするが、理不尽さに激怒したマッツは、所長や医師によって、精神病と診断されて薬漬けの監禁状態に置かれてしまう。元作家であったという職員等によって、なんとか施設から逃れようとするが、その場は崖の上だった。他の収容者がたどった自殺ルートだった。

なんとも救いようのないディストピア小説だが、妙にリアリティがある。日本は一見自由な社会であるかに見えるが、実際には様々な制約がありしかも、たとえば、コロナ禍の中の行動制限についても、自粛が求められるという形での制度外的強制によった。法律でがんじがらめというのも、面倒極まりないものだが、法律でもないのに制約が存在するのもおかしなものだ。政府の規制も、法律ではなく、省令といった形で実施されることも多い。立法府が関与しない強制というのはどんなものか。

本書をよむうちに、ふと頭によぎるディストピアな現実がうかんだ。

2023-12-14 15:51:28 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『順列都市(上)(下)』

グレッグ・イーガンの『順列都市』ようよう読み終えた。ベッドに入って寝る前に読んでいたが、毎晩結構早く寝落ちするので、数ページからせいぜい10ページというのが毎晩のペースだった。

本書の原著が1999年の発表なので、20数年のライムラグがあるけれど、とはいえ、アップツーデートなトピックだと思う。本書は「オートヴァース」という仮想空間の物語で、舞台は2053年というから、やがてはすぐにやってくるタイミングと言う時代設定なのだ。そのころ、すでに人間の記憶などはすべて、ダウンロードできるようになっていてソフトウェア化されている。登場人物たちも、リアルな存在なのかそれとも、ソフトウェアとして「オートヴァース」の中にいるのか、作中の様々な物語の中でも、わかったり分からなったりする。

そうした中で、主人公の一人のマリアはダラムの依頼にもどづき、オートヴァースの中に生命の発生からのシミュレーション宇宙を構築する。進化してきたラーンバート星人は、社会性昆虫様の存在でかれらが、このオートヴァースに干渉を加えて破壊していくのだ。そして、マリアはダラムとともに自分たちの構築したオートヴァース世界に逃れていく。

要約できたかどうか、じつにあやしい。しかし、生成AIがあらわれて、人間と会話を始め、AI搭載兵器が自律的に引き金を引く現代社会にあって、グレッグ・イーガンの描いたこの世界像が奇妙にリアリティを持ち始めているというべきかもしれない。これが、SF作家の創造力の恐ろしさともいえるだろう。
 
 

2023-11-30 13:23:06 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『バウルを探して(完全版)』

 この著者を知ったのは『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』を読んだ体が、さらに本書に手を伸ばしたのは、大学の先輩の村瀬さんの名前が参考文献にあったからでもある。先輩は数年前に他界していて、それほど生前親しくしてもらっていたわけでもないのだが、学生の頃から細く長く、人柄を知っていた。先輩が吟遊詩人のようなグループを追っているという話は聞いていたのだが、残念ながら詳しく話を聞くことはなかった。でも、本書を読んで後悔している。もっと聞いておけばよかったなと。

本書は、国連組織の一つ(国際支援業務に携わっていたというが、支援が必ずしも現地の人々の生活を安定させるばかりか、近代化への道筋をつけてしまって破壊してしまうことに自己矛盾を感じていた)をやめて日本に帰ったとき、バングラデシュのバウルという行者というか歌い手というかを知って、バングラデシュを通訳のアルムさんと写真家の中川さんと旅した10日間ほどを記したものだ。

本書が完全版となっているのは、出版は3回目でこの間、写真家の中川さんがなくなり、その画像を含んだ出版を目指したということらしい。

2023-08-28 19:52:26 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『56日間』

パンデミックの間一体何をしていたんだろう。振り返ってみても、特段のことは書いていない。おそらくは、ロックダウンがなかったから、意外に平和な日常だったのではないか。2月末のオーストラリアとニュージーランドへの出張とか、3月末の北陸への小旅行とか、同僚との飲み会にも行っている(もちろん、ウェブ飲み会もやったが)。くわえて、私ごととしては、転倒して額を縫ったり、三叉神経痛で病院通いをしている。

さて、本作、ロックダウンが行われたアイルランドのダブリンを舞台にしている。作者はこの経験を踏まえて本作の筋書きを思いついたという。時間が前後し、視点が異なる章が連なっていて一見わかりにくいようにも思うが、筋書きとしてはシンプルだ。

少年二人が別の少年を殺害して裁判にかけられて匿名のママ処分が行われた、一人は18歳で退所し、主犯とされたもう一人は残る15年の刑期を悲観してか誕生日に自殺する。自殺した少年の妹が、真実を知ろうと成人となって働いているもう一人の元少年にアプローチし、かえって恋に落ちてしまう。そのタイミングがロックアウトであった。

著者は、今付き合っている恋人同士はこのロックアウトに際して分かれるか、同棲するかを選択しなければならないとの政府筋の発言(ロックダウンの状況下のリアリティ)にヒントを得て、この運命のカップルに同棲を選択させ(フィクション)のだが、元少年はメンタルの問題をかかえていて、強い精神安定剤を一定期間ごとに服用しなければならない。それが、事故を招く。

腐乱死体を通報により発見した警察官のコンビは事件性を疑うが、時間が立っていて、指紋等の物的証拠が消し取られてしまっていてたどることができない。

自殺した元少年の妹は、恋人となった元少年の告白を聞いて、兄は主犯ではなく、目の前の恋人が主犯であったという真実を知ることとなるのだが、だからといって、それが、殺人の動機となって、殺人事件が起こったわけではない。

コロナ禍という未曾有の混乱を踏まえた作品として興味深かったが、しかし、ロックダウン(罰則を伴う社会的接触の禁止、行動制限)を経験しなかった私としては、今ひとつリアリティに欠けていた。もちろん、作品としては面白く読んだのだが。



 

2023-08-22 20:51:52 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『やんごとなき読者』

本書は、エリザベス2世女王が主人公であるというフィクションだ。彼女は女王としての職務を忠実に果たしてきたが本を読むという喜びに触れることがなかったものの、ふとしたきっかけで読書を始めることになった。ある日、バッキンガム宮殿の庭園で愛犬のコーギーたちを散歩させていたところ、愛犬たちが吠えかかったのが宮殿の厨房の入口近くに停車していた移動図書館の車両だった。そこで厨房で働く少年ノーマンとであう。ノーマンはゲイでゲイの小説家を中心に読書しているが、女王に自分の趣味の本も含めて様々な本をすすめる。女王は読書の喜びに目覚め、ノーマンを厨房の使用人から小姓に引き上げ、彼を日常生活の身近な存在とする。彼は女王の執務室近くの廊下の一角に置かれた椅子を職場として女王の依頼により本を収集したり薦めたり、本の内容について女王と話す。

やがて女王は読書ノートに読後の感想を含め様々なことを書き記すようになる。ノーマンはあいにく、女王の個人秘書のサー・ケヴィンのはからい(女王の読書が様々な女王の業務に支障があることを見つけた首相が自身の最高顧問をつうじてサー・ケヴィンにノーマンの追放を助言したから)によって、大学で文学を学んではどうか(女王のはからいであると偽って伝えた)と助言され、ノーマンは女王の前から姿を消した。

読書に目覚めた女王は、やがて、読書は書くことにも通じることを見出す。自身は長い統治の間、様々な出来事を経験し、世界各地を訪問し、各国の首脳はじめ様々な有名人たちと出会ってきたそうした経験をもとに、自身の経験を分析し本に書き残してみたいと思うようになる(必ずしも、小説を書くということではなく)。

わたしは、本書をとても興味深く読んだのだが、読後、解説を読んで少し疑問を深めた。この解説によると、イギリスの上流階級(貴族や王族も含む)たちは、パブリックスクールを出てオックスブリッジを卒業しているというような教養あふれる人々と見えるが、実はそうではないという。少なくとも本書の女王の読書を始める以前の彼女および彼女を取り巻く上流階級の人々は、シェークスピアなどの引用をふくむ様々な教養溢れた会話や行動とは無縁の人々であるという。

じつは、わたしは、イギリスにはトランジットでヒースロー空港で往復で数時間滞在しただけだ。とはいえ、わたしは、オーストラリアやニュージーランドで長く仕事をしてきたので、イギリス出身(もしくは、イギリス連邦出身)の知り合いや友人が少なからずいる。そうした人々との何気ない会話には、ほとほと自分自身の教養の無さに辟易とした経験が少なからずある。私自身、おそらく、世間並みには読書家と言ってよく、しかも、様々なジャンルを渉猟している。加えて、研究者の末席を汚している。研究分野は文学ではないし、過去の文献を踏まえることは当然のこととして学んできたものの、むしろ経験を元にして記述することが、私にとっての主要な「書く」という行為ではあるのだが。

ところが、友人たちとの何気ない会話(研究に関わるものではない)では、ついていけないことに悩んできた。もちろん、知るべき(読んでいるべき)対象がイギリスの教養人とは異なっているから、やむを得ないともいえるということは言うまでものないのだが。したがって、日本のことを話すときには会話の主導権を握る事ができることはいうまでもない。とはいえ、会話はイギリス人およびイギリス連邦人が多数の中に交じるので、当然のことながら、話題の多くは彼らの教養のジャンルに集中することになってしまう。こうした経験を踏まえて、本書の解説を読んでわかったことは、私がオーストラリアやニュージーランドで会話してきた人々は、上流階級の人ではなく中産階級の人々であったということのようだ。

さて、本書が描く女王は、読書に目覚め、あろうことか自身の経験を踏まえて分析し何事かを書き記すことにも目覚めたのだ。「君臨すれど統治せず」というのがイギリスの統治者のモットーとはいうものの、読書を踏まえて経験を分析し書きとどめ、それをもって、為政者に賢明な助言を与える可能性に気がついた女王は、本書の中でも退位後本を執筆することを匂わしている。本書の最後のシーンは、女王の80歳の誕生日を祝う食事会におけるシーンであった。実際には、女王は昨2022年9月に96歳で薨去するまで退位することなく君臨し続けたわけで、本書はあくまでもフィクションとしての地位を保ったことになる。

我が国の政治家や高級官僚たち、彼らは我が国の上流階級(イギリスのそれと匹敵する)と言えるのであろうか。つまり、イギリスの上流階級のような「知的でないことの重要性」を担保されるべき人々なのだろうか。いや、決してそうは思わない。彼らこそは日本的中産階級の上辺の存在として、あくまでも教養を高めるための多様な領域の読書をふまえ、収集した事実や自己の経験を分析する能力を持ち、業務を遂行すべきだと思う。かれらには、本書を読んで読書をしそれを踏まえて上で自身の経験を分析し客観的に(主観的にであってもよいが、独善的ではないことを理解し、それを踏まえて自己分析のできるという意味)事態を認識できる教養をもつべきだといいたい。そうしたかれらには、ぜひ、読書の出発点として本書を読むことを薦めたい。


2023-07-25 20:56:28 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『ブタとサツマイモ:自然の中に生きるしくみ』

本書はパプアニューギニア北部の低地の森林地帯に位置するチェルブメル村と中央高地のウェナニ村でで長期フィールドワークをおこなった人類生態学者のエッセイである。 

2つの村の生態系は異なっていて、チェルブメル村ては熱帯降雨林で焼畑耕作を行っていて焼畑の結果、深い森が開かれて狩猟採集対象のノブタの生活圏が生まれるものの、野菜とサツマイモ・ヤムイモの焼畑耕作はノブタとの競合関係にある。また、メスブタの飼育を行いノブタとの交尾によって子孫を増やす。サゴヤシデンプンの採集をおこない。日常の食事はサゴデンプンやイモ類と野菜である。

一方のウェナニ村では、サツマイモの耕作をおこなっていて、オスメスのブタを飼育する。村の周辺には森はなくサツマイモの畑が広がっている。2つの村に共通な点は、ブタは財産でもあり、婚姻や争いのための支払手段となっている。もちろん、食料でもある。 

著者は、長期フィールドワークを受動的な行為という。それに対して、短期で課題を明確にした調査行もおこなっていて、これは能動的な行為という。受動的な行為とはいえ、長期で暮らすことによって村の人々の暮らしの詳細を捉えることができたという。
 

2023-07-24 13:15:33 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく(電子書籍)』


 長く書くのを忘れていた。

今日、横浜市本郷台の「アースプラザ」でドキュメンタリー映画「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」を見てきて、読了と同時となった。映画のことも、本書のことにも触れているのだが、たまには、こういうスタイルもいいだろう。

この作品は、基本的にはほぼ同名の『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒、集英社インターナショナル、2021)の映画版といっていいだろう。とはいえ、映画の流れは、書籍版とはかならずしも、一致しない。また、映画版には、別の50分の短編があったようだ。終了後のトークショーで、三好監督によれば、おおまかには、短編に後半の猪苗代の「はじまりの美術館」での白鳥さんのオンサイトパフォーマンスの部分が加わっているという。

両作品ともに視覚障害者の白鳥さんが「アートを見に行く」というという点だけに焦点が当てられているわけではなく、おそらく晴眼者にたいする視覚障害者の日常についても伝えようとしている。また、書籍版では、視覚障害者にとっての障害とは何かとか、差別や偏見の問題についても触れられている。

私が両作品に関心を持った理由は、視覚障害者の白鳥さんが他者との共同作業(他者との会話)を通じて、対象(芸術作品)を理解しようとしていると思ったからだ。人間は、見るといっても、視野に入る視覚情報をすべて把握しているわけではない。見えていることと、理解することはことなる。さらには、見えていることを言語化するにしても、言語化する人の認識の焦点によっても異なっているはずだ。晴眼者が見たことを視覚障害者に言語を通して伝えるとしても、視覚障害がどのレベルかや晴眼者が何を伝えようと考えるか、一概にはいえない。とすると、視覚障害者の白鳥さんとのやり取りはどのようなものだろうか。

どのように伝えるのか、どのような言葉をつかえば伝わるのか、また伝える内容は何であるのか、なんとも漠然としている。たとえば、対象(両作品の場合は現代アート)について、晴眼者どうしでもおそらく、見ている対象のどの部分に焦点が当てるかによって、異なる言葉が出てくると思う。

学校教育における美術という科目には、作品を作るだけでなく、美術史や作家について学び、さらには美術館において作品鑑賞を行うというカリキュラムが含まれているはずだ。白鳥さんの行動は、最初は付き合っていた女性が美術館に行こうといった経験があったことをきっかけにしたものだったというがが、様々な障害を持つ人々が美術館において作品鑑賞をするということを可能にするという昨今の流れにも即している。

盲人にもちろん、盲目と言っても個人差が存在する。つまり、生まれてから視覚経験を持たない盲目の人から、白鳥さんのように片目は全盲だがもう片目も弱視だったが20歳ごろまで光が見えていた人のように、途中までは視覚情報を認識していた人、さらには、何らかの理由で途中で全盲となった人(もちろん、それまでの視野認識や全盲となった年齢も関連するだろう)などなど、様々な盲人がいる。そうした人々を十把一絡げにすることはもちろん困難ではある。また、晴眼者であったとしても、「見える」といった視野に入る情報を認識するうことと、「見るということ」は経験などに照らし、注視して記憶に留めるといった行為とは異なるはずだ。

トークショーでは、白鳥さんはこれまでの鑑賞教育と彼がかかわる鑑賞会は違うという。では、美術についての鑑賞教育とは何だったのだろうか。

ここで思い出したのが、昨年の対話型鑑賞教育を目指した?「あいち2022」の一宮での経験だった。わたしは、その時「どう思いますか」を連発したボランティアの女性に腹を立てたのだけれど、ファッシリテータはどのようにすればよいのだろう。映画会終了後でのステージでの白鳥さんによれば、ファッシリテーションなしの鑑賞会がありうるというのだけれど、どうなんだろう。本書を読んだり、映画をみたりすると白鳥さんのキャラクターそのものが参加した人の言葉を引き出しているような気がする。ドキュメンタリー映画の中のかれのいう鑑賞会は、白鳥さんはみなさんの発言を最小限のかかわり、笑う、うなづく、そうそうというという言葉程度のリアクションだが、参加者はそれなりに感想を漏らして、会話になっている。

映画をみて興味深く思ったのは白鳥さんの「読み返さない日記」で、読み返すも何もカメラで取った画像、全盲の彼は見直すことができないわけだ。しかし、これまで40万枚以上も毎日摂り続けているという。かれは、美術鑑賞家であると同時に写真家でもあると自称する。

まあ、結論づける必要はないのだけれど、本書も映画もツッコミどころが多い。とはいえ、目の見えない白鳥さんが美術鑑賞家だったり、写真家だったりするというのは多様な視点、多様な理解をもたらす。とはいえ、このことは、多様性そのものの理解の困難さでもあるとも思えるのだが。



2023-07-15 22:45:25 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ