Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「円山応挙」展から「藤花図屏風」 その2

2016年12月31日 10時54分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   



 鈴木其一(1796-1858)の展覧会が今年サントリー美術館であり、とても感銘を受けた。以前から其一という存在は知っていたが、まとめて鑑賞したのは初めてであった。その展示の中に「藤花図」があり、コメントを記載した。
 円山応挙(1733-95)には昨日触れたように「藤花図屏風」という大作がある。いろいろ「どうして」を連発しながらこの作品を見ていたが、鈴木其一の作品との比較をいつの間にか頭の中で行っていた。二人に接点は無い。応挙の死の翌年に其一は誕生している。しかし其一が応挙の作品を見ていなかったということはないとおもっている。どのような影響を受けたかは知らない。しかしながら両者の違いを見ながら、私の能力を超えているとは思うが、応挙の特徴を浮き上がらせることは出来るかもしれない。すくなくとも理解の端緒を見つけられるかもしれない。
 鈴木其一の「藤花図」は屏風ではなく、1メートルにも及ぶ細長い作品で、藤の房3つをクローズアップし、写実的ながら房の長さを極めて長く描きデザイン性の高い作品である。房は90センチを越え、開花部分もその60センチ近く、未開花部分も30センチを超えている。しかも花は向こう側が見えないほどに密生しており、藤の花の房の理想的な開花状況を描いている。
 それに比べて応挙の「藤花図屏風」は高さが157センチあるが、長いもので75センチくらい、他は30センチから40センチにおさめてある。房の数は左右で60房を超えている。応挙は房に着目したのではなく、樹木全体の旺盛な生命力に注目した描き方である。それが屏風絵に求められた特色でもあろうが‥。
 一番特徴的なことは応挙の藤の花の房は決して理想化された房ではない。密生はしておらず、向こう側が透けて見えるほどにまばらである。実際の藤の房に近い。また開花部分と未開花部分の割合も現実にちかい。其一の藤花図の葉はかなり色が暗く濃く、花の紫を浮き立たせている。応挙の葉の方が現実のうすい藤の葉に似ている。葉は房の上部に遠慮なくかかり、房を少し隠し気味である。
 応挙の藤のデザイン的な部分は幹と蔓である。其一の鶴はデザイン的でもあるが、重力を無視してはいない。
 応挙の「藤花図屏風」は「雲龍図屏風」のような迫力には欠けるが、藤の幹のうねるような形には雲龍図の形を思い浮かべることが出来るかもしれない。
 そして私は、円山応挙展を一巡して思い至った感想は、「円山応挙はクローズアップの画家ではなく、全体を描くことに力点を置いた画家」だと感じた。雲龍図も蕭白の顔を大きくクローズアップしたものに比べると迫力は今ひとつないが、龍の姿態全体を描き切ろうという執念を感じる。藤花図屏風の藤も同じことがいえる。現代はどちらかというとクローズアップによる迫力のインパクトがもてはやされる。全体を俯瞰して「焦点」がどこにあるのか、考えさせるというのも、鑑賞する側の想像力を駆り立てるものが本来はある。
 しかしながら円山応挙の場合、全体を俯瞰する視点で描いたように思われるものの、「鑑賞者の視点を考慮した」構図を採用していないのではないか。屏風や襖絵などの大画面の作品は私の目にした範囲では国宝「雪松図屏風」(1786頃)を除いて。
 こんな風に私には感じられたが、あくまでも私の狭い知見の範囲という限定付きの感想である。


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