Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。体力作り、俳句、山行、美術館・博物館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。

古い自分を拾い集めて歩く

2014年05月31日 22時37分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日のお昼にアップした記事「「魯迅の階段教室」&壱弐参横丁」に寄せられた通りがかり人様のコメントに私は気取って次のようにこたえた。

 学部の二年間ははっきり言って、魂の抜けた抜け殻、息をしているだけの亡霊のようにフラフラほっつき歩いていました。恥ずかしながら生き続けているようで‥。早く抜け出したくて、気の遠くなるように長い二年間をひたすら耐えていました。
 「懐かしい町」を歩く、というのは「自分の恥が埋まっている街」から古い恥を拾い集めて歩くようなものです。これもエネルギーが必要です。
 今も付き合ってくれる当時の友人は、教養部の三年間だけでなく、そんな亡霊のような私の二年間と、それだけでなく卒業後も付き合ってくれた仲間です。

 「恥」というのは別に酔っぱらってまき散らした恥を表現しているわけではない。自分を見失って、自分の外界との関係をうまく処理できなくなっていた当時の不安定な自分を表現してみた言葉である。昔の自分、と言い換えればいいだけかもしれない。
 当時と現在の街を同時に歩くということは、そんな40年前の自分と向き合うことだ。街の風景に埋もれた古い景色の中から自己を見失っていた頃の自分を掘り起こすことである。掘り起こしながら、今の自分を照らし出して見る行為である。
 横浜という土地で40年暮らしても、忘れようにも忘れられなかった仙台での20代前半の自分、しかし細部では記憶は大きくズレている。最近は、そのズレを再確認しながら、最近はこのズレの原因にこだわって反芻し続けてばかりいる。当時と現在の自分を結びつけるまでにはならない。先の見えない堂々巡りを繰り返す自分に苛立ってばかりいる。
 仙台に暮らし始めた初めの3年間、ひたすら社会と自分の濃密な関係を追い求めたと思う。そして崖っぷちに立っている自分にたじろいで、たたずむことになった2年間。誰にでもある20代の屈曲点とかたずけてしまうのは簡単であっても、そこから抜け出すことの困難は、個人、時代、経験、自己史、周囲の状況等々でバリエーションは無限にある。
 そんな出口のない思いをめぐらす街が、私にとっての仙台である。




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「和船の世界」講座終了

2014年05月31日 17時48分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 神奈川大学のエクステンション講座「和船の世界」(昆政明神奈川大学歴史民俗資料学研究科教授)の3回連続講座が終了した。
 昨年度後期の講座も受講した。今回は無料講座ということで、ありがたく拝聴した。とてもわかりやすく、また話も面白い。和船の構造から操船方法、荷船の経済学、船の運航に関わる信仰や民俗学的な側面など多様なアプローチを話してもらえる。とても数回連続講座で終わる内容ではないが、興味深く受講できる。
 できれば、近世の船の流通、特に神奈川湊を中心とした経済的側面、信仰などに絞ってもらえれば私の興味とかなり重なるのだが‥。
 そんな講義が聴けるように、幾度でも受講したいと思わせる話術も大したものである。

 さて、本日はかなり暑かった。仙台では30℃を超えたようだが、横浜も30.3℃となったらしい。ちょうどその頃は講座を聴いていたので助かった。
 梅雨入りはまだ先らしい。今年の梅雨は長いのか、短いのか、わがままなオジサンは、早目に知りたいのである。





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「魯迅の階段教室」&壱弐参横丁

2014年05月31日 12時48分01秒 | 山行・旅行・散策
 5月26日は昼食を松島の五大堂の傍の店でみんなと食べてから、幾人かと一緒に仙台駅まで戻った。

      

 新幹線組とわかれ、ひとりでぶらぶらと片平の東北大キャンパスまで歩いた。北目町通、柳町通を交互に行ったり来たりした。昔の雰囲気を探しながら‥。16時過ぎに片平についてから、ふと「魯迅の階段教室」という案内標識に目が留まった。
 構内の地図で確かめると昔私が学部に入ってから物理の授業を受けていたすぐ隣である。確か金属工場があったすぐ横である。しかしまったく記憶がない。

      

 今の東北大本部の建物の裏手である。さっそく行ってみたが、東北大学出版会の入っている建物の裏手で、良く見えない。写真も取れない。ウロウロしていたら「魯迅の階段教室の見学は16時まで」という広報課の案内が目についた。大学本部の広報課に駆け込んで「外観の写真だけでも取らせてほしい」と頼み込んだところ、本部の建物の裏手から入れてもらい、写真を撮らせてくれた。そしてパンフレットも貰えた。
このパンフレット、現在の東北大のコマーシャルには保留を付けたうえで、とりあえず掲載する。魯迅の紹介について参考にしてもらえば嬉しい。詳しくは魯迅の「藤野先生」を是非読んでいただきたい。
 パンフレットによれば私が在学中は化学科の講義棟として使っていたようだ。こんど化学の同窓生に確かめてみよう。
 それはさておき、写真を撮影した段階でスマホの電池切れて。慌ててドコモショップを探して一番丁に戻り、充電開始。その間に喫茶店でもらったパンフを読んでいたら、「魯迅記念展示室」があるとの情報に気付いた。しかしすでに17時間近。ここは次回訪れたら真っ先に見学に行くことにした。



 23時30分のバスまで時間をつぶすために昔お世話になった懐かしい金港堂書店で「ニュートン」を購入してから、文化横丁と壱弐参(いろは)横丁を散策。昔から何となく文化横丁は高そうな店が多く(実際に入って比べたことはないので誤解ならばゴメンナサイ)、敬遠気味。今回も壱弐参横丁に決めた。飛び込みで入った店は「陽」という店。
 そこのマスターと話をしたり、「ニュートン」を読んだり、むろんお酒を3杯呑んで楽しく過ごした。お通しが最初から3品出てきた。マグロの煮付け、海鼠の酢の物、そしてイワシとカツオのたたき。美味しかった。「綿屋」というお酒が私の口に合ったのだが、一迫のお酒で最近全国的に広がっているらしい。知らなかった。
 18時半から21時まで長居をして、フラフラと仙台駅まで歩き、途中で蕎麦を1枚を食してバス停へ到着。

 魯迅については、一度は書いてみたい。





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顎関節症

2014年05月30日 21時21分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先週突然顎の関節部分が痛くなり、痛みを伴わないと口が開けられなくなった。次第にその痛みがひどくなり、仙台から帰ってからさらに痛みが強まった。水曜の夕方に家の傍の歯科に駆け込んだ。
 診断の結果、顎関節症、との診断をされマウスピース(スプリント)の装着が有効でかつ必要といわれ、型取りを行った。
 確かに中学生の頃から顎の関節がカクカクいうようになり、これまで45年以上それを我慢してきた。昨年には別の歯科医からも「食いしばりが強いようで、舌の左右に噛み跡の線が強く残っている」と云われていた。
 しかし最近は精神的なストレスを感じたりすることもないし、頬杖をつく癖・うつぶせ寝もなく、歯ぎしりなどもないし、むし歯・歯周病もなく、安心しきっていた。
 一昨日に型取りをしていたマウスピースが本日出来上がり、装着した。これは食事中は外すように云われたが、普段は就寝中も装着して居なくてはいけないとのことである。
 しかし装着してみると意外と疲れるもののようだ。歯医者から帰宅して先ほど夕食前まで、装着していたが、次第に疲れて食事15分前にはたまらずに取り出してしまった。
 明日昼前にこのマウスピースの微調整をするために通院することになった。この治療が功を奏してこのまま症状がおさまって欲しい。歯ごたえのあるもの、硬いものが好きな私には、ものを噛めないというのはとても寂しいものだということをあらためて実感した。



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松島訪問

2014年05月30日 17時51分50秒 | 山行・旅行・散策
 阪神淡路大震災の発災したその日に松島を訪れていたことは以前に二度ほど記載したが、それ以来初めてとなる松島訪問であった。私自身はそれ以前に二度ほど訪れているので、4度目ということになる。
 いつ来ても表面上は変わらない。3.11の地震・大津波を経たのだが‥。高さ3メートルほどの津波に襲われたといわれている。事実商店の窓ガラスには「津波はここまで」という表示がされているものもあった。しかしたくましくも、また観光客もかなり多くあるようで、表面上はそのような痕跡は見当たらない。

      

 まずは国の重要文化財である五大堂を訪問するために海沿いを歩いたが、波をかぶってもさすがに松はたくましく、今年の新芽をたくさん出していた。

         

五大堂は1604年の創建。華麗な彫刻を伴った桃山建築の流れを汲むが、当時の彩色はさすがにもう見ることはできない。

         

 瑞巌寺は、伊達氏移封直後に当時の未だ徳川幕府と緊張関係の強いことを反映し、城郭的色彩を帯びて、天台宗の寺を禅宗寺に建替えたもの。
 3.11の津波の時は、参道を約100メートルほど、海岸からは200メートルほど入ったところで津波は止まったようだ。しかしそのために参道に沿って昔から植えられていた松と杉の巨木の森は海水につかり、松は生き延びた者の杉はほとんどが枯れ、現在根元から伐られてしまっている。木がかなりまばらなのはとても寂しいものである。
 五大堂も、山門も地震の揺れでは何の被害もなかったようである。建築水準の高さと同時に、堅牢さは城郭的色彩を証明もしている鵜である。また建て替え工事中の大書院、庫裡等の建物の瓦は取り払った後であったためにすべてそのまま保存されているとのこと。
 瑞巌寺はもともとは9世紀に天台宗寺院として創建されたと伝えられているが、海岸の左岸を削った洞窟に僧坊が設けられるなどの特異な実態があったようだ。

      

 この瑞巌寺の洞窟群と参道を見学後、松島湾内一周。月曜日であったが、ホテルも大勢が泊まっており、観光客でどの船もいっぱいの盛況。水準は震災前に戻っているのであろうか。

      



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横浜大空襲

2014年05月29日 23時17分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は5月29日、今から69年前のこの日、横浜はアメリカ軍の620機の飛行機により空襲を受けた。

 この横浜大空襲は、1945年5月29日、アメリカ軍が当時の横浜市の中心部に行った一般市民を対象に行った無差別爆撃である。B-29爆撃機517機・P-51戦闘機101機による44万発の焼夷弾攻撃で死者・行方不明者あわせて約4000名近い人的被害が出たといわれている。
 この時使用された焼夷弾はM69といわれ、これは密集した木造家屋を焼き払うことを目的とした焼夷弾で、この時に実践データを得るために使用されたという。実験のための無差別攻撃であった。当時の中区・南区・西区・神奈川区に被害が集中した。

 私にはこの爆撃で親族等の被害はなかったが、人的被害もさることながら、都市機能にとっても甚大な被害が出たようだ。残念ながらその被害の象徴的な遺構は、残されていないし、街中には横浜大空襲跡をしめす案内表示もなく、全容は若い世代には伝わっていないきらいがある。
 私は小学校5・6年は横浜の市立小学校、そして中学・高校は私立に通ったが、このことを授業で教わったことはない。今でも教えていないのだろうか。
 このような野蛮で、悲惨な参加をもたらした行為、ならびにこの戦争を回避せずに突入した責任、このような空襲が頻発しているにもかかわらず継続した、当時の政治的指導者の責任を、ともに明らかにしていない。

 不勉強な私に今できることは、このブログにこのことを示すことくらいなのかもしれない。



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本日から始まる講座

2014年05月29日 22時02分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日から始まる講座は「歴史に学ぶベトナム戦争・国家再生そしてポストベトナムのアセアン」と題して、元NHK記者の田中信義氏が講師。私より二回り近く上の世代であろうか。
 取材をとおして見たベトナム戦争、あるいは報道の自由という問題、政治的リーダー論などを本日は語ってくれた。
 二回目以降はベトナム戦争を戦ったベトナムのその後、その戦争の申し子ともいうべきアセアンという組織について言及するとのこと。
 本日の配布された資料に、次のようなベトナム戦争にまつわる年表があった。私は思わずその年表を食い入るように見つめながら、講師の話も耳に入らずしばらく自分の10代の頃の「ベトナム戦争」にまつわる当時の自分を思い出していた。

1954.07   インドシナ休戦協定調停
1962.    アメリカ、南ベトナム援助軍司令部設置
1963.11   南ベトナム、反ゴ・ジンジエムの軍事クーデター
1964.05   アメリカ、北ベトナム爆撃実施計画作成
1964.08   トンキン湾事件
1965.02.07 アメリカ、北爆開始命令
1965.03.08 アメリカ海兵隊ダナン上陸
1968.01.31 テト攻勢
1971.02   南ベトナム軍ラオス侵攻作戦
1973.01.27 パリ和平協定
1975.04.30 サイゴン陥落
1976.06.24 南北ベトナム統一

 1964年のトンキン湾事件の時、私は中学一年生になっていた。その時の新聞のトップ記事を読んだ記憶がある。アメリカという国が自分たちの「正義」のためには何でもしかねない、という不信はすでに私の頭の中に出来上がってはいた。またわざわざベトナムという国の鼻先で軍艦を繰り出すという図々しさが、鼻持ちならなかった。そして北爆が開始され、ベトナムという国に対する肩入れをする新聞の論調に親近感を覚えていた。
 しかしそれ以上の関心はなかった。しかしベトナムで起きていることのニュースは目を通していた。泥沼の戦争という言葉も覚えている。
 高校1年になった1967年頃からのアメリカでのベトナム反戦運動、チェコスロバキアでのドプチェク登場・プラハの春、日本でのベトナム反戦運動などでは自分で率先して新聞に目を通すようになった。1968年のテト攻勢での残忍な死体写真などに衝撃も受け、当時の学生運動、反公害運動、フランス国内の動き、三里塚闘争などに強い関心を持つようになった。
 この頃の自分をしばらく年表に沿って思い出していた。自分の20代を決定的に規定した出来事が並んでいたと思った。
 1973年の相模原補給廠からの戦車輸送に反対運動や、1975年、就職してすぐの研修期間の最終日に聞いた「サイゴン陥落」のニュースと映像は今でも忘れることができない。やっとの思いで就職した自分の人生と重ね合わせて何となく感慨にふけった39年前を、あらためて思い返してみた。

 それから37年の人生もまたそれなりに波乱万丈ではあったが、ベトナム戦争というのは確かに私の人生に大きなインパクトを与えてくれた。
 本日からの講座はジャーナリストという視点からの講座である。私はジャーナリストという立場については気持ちは惹かれることはなかった。そして今のジャーナリズムのあり様には極めて否定的な評価しかないのだが、それでも当時の命がけの取材は人を惹きつける何かがあった。
 センチメンタルとは程遠い、余りにも苦い思いもつのる時代でもあった。だが、自分の出発点を思い出してくれると同時に、すぐさま国家再建に取り組んだベトナムという国の強さをキチンと見つめる視点についても知ることが出来れば嬉しいと思った。




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長谷川等伯の絵

2014年05月29日 12時09分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日は、長谷川等伯の業績と絵について90分の講座を聴いた。いくつかの点で教えてもらった。

 ひとつは、有名な松林図屏風。まず左双の右端、全体でみればほぼ中央に白く描き残す形で山が見える。これは富士山と見て間違いは無いのではないか、ということ。確かに私はこの山について気が付かなかった。富士山ということが間違いなければ、この松林は美保の松原らしい、ということであった。
 そしてこの松林図屏風は狩野派に対する対抗意識が強く出ているという。狩野派の構図は屏風など左右の端に重い重心を持ってきて、構図的に安定するように描くのに、これにはそれがない。右端に松の一群があるが、左端は空間が広がるだけである。構図的には安定しているが、この空白は狩野派では許されないとのこと。これもうなづけると思う。よく考えればこのような構図での安定感というのは不思議である。霧の中の時間的な動きを示して、動的な空間、空間の時間変化をとらえようとしたということなのだろう。

 ふたつ目は、「松に鴉・柳に白鷺図屏風」「古木猿猴図」など動物の親子の親愛を描いたといわれるが、離れてはいるが近くにオスもいることを考えると家族の親愛を意識していると指摘があった。また「竹虎図屏風」の2頭の虎に注目すると、これは雌雄のペアであり、親子に限ったという指摘よりも広く考えた方がいいとのこと。これは私も同感であった。この時期、牧谿を盛んに学んだようだが、中国の山水画が、人間・動物はあくまでも点景として配されるいるだけだが、人間・動物を主題として転換した功績が大きいとの指摘もされた。

 三つ目の指摘は、「楓図壁貼付」の左に描かれた三日月型(あるいは茄子型)の池様のものについて、それが描かれることで奥行きが出ており狩野派とは違う要素ではないか、とも指摘があった。奥行き云々についてもわかるような気がする。今後狩野派のものを見るときにも心してみてみようと思った。




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紫陽花が咲き始めた

2014年05月28日 23時45分30秒 | 俳句関連
   

 先々週だったと思うが、横浜駅から自宅に戻る途中の道路の街路樹の低木として植えられている紫陽花の花が咲き始めたのに気付いた。蕾から少しだけ青い色をつけた花がいくつか咲き始めていた。あれから二週間、ようやく濃い色の紫陽花が目につくようになった。
 この紫陽花は例年とても濃い青の花が咲いて見事である。毎年楽しみにしている。私は青というか、濃い深い紺色の紫陽花が好きである。
 七変化という別名は、咲きはじめは白で次第に色が変化することでつけられた名前だが、これが誤解を生んでいる。色が赤から青、あるいは青から赤に変化するというのではない。あくまでも白から赤、あるいは白から青また紫などの固有の色に変化するのである。
 赤、青の色を決定するのは、土の酸・アルカリによると云われる。酸性の土ならば青や紺に、アルカリ性の土ならば赤や赤紫になると記載されることが多い。
 ひとつの株であってもいろいろな色が咲くのは、同じ土壌でも枝によって色素の発色を変えるアルミニウムイオンの量に差があるためと説明されている。

★兄亡くて夕刊が来る濃紫陽花  正木ゆう子
★ヨハネの首と思ふ紫陽花切りにけり  岡田久彗
★紫陽花の色それぞれに路地住まひ  小林照男
★ははへ父返しあぢさゐ月夜かな  酒井裕子
★紫陽花の人影といふ色加ふ  三井量光
★紫陽花咲きやがて硝子工となりてゆく  塩野谷仁
★あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ  橋本多佳子
★あぢさゐや仕舞のつかぬ昼の酒  乙二





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鹽竈神社と周辺散策

2014年05月28日 22時31分15秒 | 山行・旅行・散策


 25日のお昼頃、東北線塩釜駅で下車後、15分ほど歩いて鹽竈神社参道の階段下に到着。この階段下の信号のところにあるお寿司屋さんで昼食休憩。一森寿司、値段も安価でとてもおいしかった。若い板前さんにはお酒の醸造元の情報や本塩釜駅までの旧道沿いの商店の情報などいろいろ教えてもらった。ついお酒をいただいてしまった。

   

 ここから急な階段を登って本殿にたどり着くのだが、実はこの鹽竈神社は学生の頃に一度来ている。ほとんど周囲の景色やどのような道をたどってきたか記憶にない。仙石線の本塩釜駅歩いて境内にたどり着いたことと、林子平ゆかりの日時計だけは記憶している。

      

 たどりついてすぐに大きな銅と鉄でできた灯篭に圧倒される。伊達藩が蝦夷地警護を命ぜられその凱旋記念に9代藩主が奉納したらしいが、精巧な作りである。日時計は昔と変わらずそのままあったが、あまりの簡単な構造にビックリする。

            

 本殿は新しくきらびやかである。中では結婚式が執り行われていた。
 この鹽竈神社は、同一敷地内に志波彦神社がある。こちらにも寄ったが時間が無く写真は撮っていない。鹽竈神社は陸奥一宮といわれているが、この鹽竈神社は式外社で、志波彦神社が式内社である。昔の岩切、今の仙台市宮城野区岩切にあったらしいが、衰微していたものを明治時代に再建するのに敷地が無く、こちらの敷地に入ったらしい。もともとは鹽竈神社のみがあったところとのことである。
 そして私は地理的にずっと誤解していたのだが、この鹽竈神社名前の割に海から遠いところにあると思い込んでいた。塩釜港からかなり遠いと思っていた。仙台に戻ってから地図を見てみたら、多賀城の外港としてあった「千賀の浦」というのが現塩釜港になり、そこに突き出た岬のようなところがこの鹽竈神社であったとのことが、地図で確かめられた。誤解というか、思い込みというのはなかなかいろいろな情報があっても自分の中で訂正できずにいるものである。今回初めて気が付いた。
 多賀城というのが、海にごく近くに位置していたこと、その港として塩釜という土地があったということ、キチンと記憶しておかなければならない。陸奥という国の海上交通の重要なポイントだったことがようやく理解できた。

   

 実はこの海に近いところというのを実感したのは、志波彦神社から山道のようなつづら折りの旧参道を降りたところから、現在の階段の参道までは100メートルほどなのだが、戻る途中に味噌の醸造元があり、そのわきに3.11の津波の到達点を示す関票が目についた。
 高架の仙石線の下を超えて津波がこの参道のすぐ下まで来たということは、近世の埋め立て等で昔は今より海が内陸に入っていたという情報と合わせると、この神社は先ほども書いた通りかなり海に近かったことになる。
 そして仙石線の本塩釜駅に向かって歩いていくと、ごく小さな登りを超えて塩釜市役所前をとおり本塩釜駅にたどり着く。翌日の地図の情報とあわせて考えてみるとこれが多賀城の外港「千賀の浦」に突き出ていた岬の名残りのような気がした。
 しかし現在の位置から考えると、港の風景が見にくい地点でもあり、かなり内陸に入ったところまで津波が来たように思えてしまう。

      

 そして、旧道を本塩釜駅に向かって歩くと、製塩のための釜を祀ったという釜神社があり、横浜でもよく口にする「浦霞」を醸造している株式会社佐浦、そしてめったに口にできない「阿部勘」「於茂多加」の阿部勘酒造まえを通って本塩釜駅にたどり着いた。
 ここからは本日の集合駅である松島海岸駅まで三つである。





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「蚕の化せし金貨なり…」展

2014年05月28日 19時55分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日は講座終了後に、先日の神奈川県立歴史博物館の「繭と鋼」展に続いて、横浜開港資料館で開催されている「金貨の化せし金貨なり…」展を見に行った。
 この変わった展覧会の題は宮城県の佐野製糸場の唱歌「蚕の化せし金貨」によるものという。国策産業として生糸生産が、養蚕業、製紙業、機械工業、運輸業、電信等の通信業、金融業、輸出業、建築業、染色業、織物業、海運業、造船業、製鉄業、機械工業、印刷業、港湾整備など殖産興業のすそ野の広がりをなしたことを展示している。
 同時に蚕や桑の品種改良、桑の栽培方法の改良などの農業改良にも寄与したことも展示されている。展示されている桑の葉の大きさにはビックリした。
 横浜の商人が富岡製糸場との取引だけでなく岡谷・諏訪、福島等全国的な産地とのつながりを確保していたことや、産地自身のブランド化に向けた努力も紹介されていた。さらに横浜の生糸商が製糸業に進出していく経過、昭和初期の巨大資本化・寡占体制への移行も理解できた。特に福島県二本松市の製糸会社とのつながりなど興味深かった。

 私が興味を惹かれたのは、欧米の技術による機械製糸だけでなく、旧来の座繰り製糸法を大規模化した共同出荷方式や、機械製糸の動力を蒸気ではなく人力でこなした製糸工場の存在など、多様な生産様式が当初は混在していたことなどを知ることができた。

 来月にはシルク博物館での生産され、輸出された製品の展示「世界に羽ばたいたスカーフたち」展を見に行く予定である。



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多賀城跡と陸奥総社宮、東北歴史博物館

2014年05月27日 22時18分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 朝9時53分の仙石線でまずは多賀城へ。仙石線は津波の被害で現在も表記区間はバス代行区間。松島海岸駅の次の高城町駅までと、陸前小野駅から石巻駅までは折り返し運転をしている。
 陸前大塚駅と東名駅は、過去に何回か下車して歩いたところである。それだけに身につまされる。そして東名駅には偶然にも昨年、同窓会で訪れた。プラットホームしか残っていない鉄道跡に愕然としたことを覚えている。



 多賀城駅はなかなか洒落ている。多賀城の政庁にあったと思われる門をイメージしたデザインと思われる。この出口の左側の赤い柱のところに多賀城市の観光案内所があり、多賀城跡のパンフをいくつも置いてあってありがたかった。
 駅前のタクシー乗り場で、陸奥総社宮経由で政庁跡までを依頼。総社宮で10分ほど待ってもらって、2020円。

         

 この総社宮は多賀城政庁には切ってもも切り離せない関係であったと思われる。しかし現在の規模はそれほど大きくな境内とは思えなかった。ここには樹齢600年という杉の大木と、樹齢200年の白木蓮があり、その大きさにはビックリ。

   

 政庁跡からこの宮を通って鹽竈神社までが古来の道であったのではないか、とタクシーの運転手からの情報であった。時間があれば鹽竈神社まで歩きたかったが、時間もないので断念。
 政庁跡には案内の標識が随分立っていた。20年近く前に訪れたときには夏の暑い盛りでゆっくり見るゆとりもなかったが、今回は無料ボランティアの方もおり、見学者も20人近くいた。案内用のチラシももらい、助かった。
 政庁跡は南側の海に向かってなだらかに下っていく道がある。これを下から見上げると結構の高さがあり、政庁跡の門などは人を圧する力がある。また政庁跡から見下ろすと、当時の都邑と思われる地域と遠くに海路を望むようにできているのではないかと直感した。これは後で鹽竈神社を見に行ったとき納得した。今は、三陸自動車道と仙石線、東北線を見下ろすことができる。塩釜市の港も近くに見えたはずだが、霞んでいて見えなかった。
 この案内チラシで、市川橋いうところまで三年前の津波が来たとボランティアの方が教えてくれた。当時は現在よりも海が近くまで迫っていたという印象を強くした。
 外郭南門が復元される予定とのこと。

 なお、案内板による記載では、貞観地震後の建替えも判明したようだ。

   

 また前回も見た、多賀城碑(壺碑(つぼのいしぶみ))にもボランティアガイドがついていた。
 この政庁跡だけでも一辺が約900メートルという広大なもの。下の都邑と合わせるとどのくらいの人がここに居住していたのかと知りたくなった。1万人という数字がガイドから出ていたが、素人判断だが、数万人規模ではないのだろうか。私はこの政庁に上り下りする道に国司の権威、多賀城の繁栄を垣間見たように思った。
 時間があれば、貴船神社・高上神社、多賀神社、荒脛巾(アラハバキ)神社、多賀城廃寺跡なども見てまわりたかったが無理であった。貴船神社があるということは海上交通の安全祈願の神だから、多賀城は海とは切り離せない場所に位置していたことは確かだ。
政庁跡から南北大路のに近い現在の道を降りながら幾度か振り返ったが、当時の様子を思い描くには南門跡の復元が待たれると思った。
 しかし後から気が付いたのだが、南北大路の角に当時陸奥国に漏刻を置いたとされる「漏刻」のモニュメントがあった。これは私はまだイメージが出来ていないので是非見たかった。残念である。すぐそばを駅の方に曲がってしまっていた。
 さらにあやめ園があり、まだ花が残っていたとのこと。これから政庁跡を見たら良かったかもしれなかった。時間も気持ちのゆとりのない見学は禍根ばかりを残してしまう。反省。



      

 東北歴史博物館は大きな建物で、東北線の国府多賀城駅のすぐそば。
 ここでは二つの展示が目についた。ひとつは中尊寺金色堂の内陣柱の復元模型。阿弥陀堂の阿弥陀のある四方に立っている柱。金粉を使った蒔絵、螺鈿細工などその精巧で美しい輝きに目を奪われる。この技術は都からもたらされたものであろうが、どのようなルートで職人が動いたのだろうか。
 もうひとつ目を惹いたのか、移築したという江戸時代の今野家住宅。この冠木門の形状にビックリした。神社の鳥居の形を彷彿とさせてくれる。そして鳥居という言葉が浮かぶと同時に、吉野ヶ里遺跡で見た、村落の入り口にたてられた鳥型の模型を先端に飾った柱を思い出した。鳥型の柱→冠木門→鳥居という連想は、素人の飛躍したものだろうか?

 ここのミュージアムショップで展示品のカタログを探したがいいのが無かった。そして陶器の素敵な猪口があったが、予算オーバーで断念した。



 すぐそばの東北線国府多賀城駅から東北線塩釜駅まで一駅を乗車。国府多賀城駅は今から12年前に新設された駅で無人駅。仙石線の多賀城駅の方が市庁舎なども近くにあり、人の利用は多いようだ。多賀城駅の傍には、多賀城史遊館、多賀城市文化センター(埋蔵文化財調査センター)などもあり、訪れても良かったかもしれない。

 ここまで、駆け足のように2時間半くらいで回った。




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無事横浜に帰着

2014年05月27日 12時10分49秒 | 山行・旅行・散策
 雨の降り続ける東北・関東を通り抜け、無事に6時30分前に横浜駅東口に到着。雨も小降りになっていた。この雨のため速度制限がかかり、定刻より15分近く遅くついた。乗り継ぎがあるわけでないので、私は特に問題はない。

 行きも帰りも夜行バスは空いていた。足も十分伸ばせるし、リクライニングもかなり倒せるので思ったよりは楽であった。
 難を言えば、3列とはいえ狭い車内で、両脇も前面もカーテンがしっかりと締められていて、すぐに消灯となり暗い室内に7時間近く閉じ込められるのは気分的につらい。息苦しさを感ずる。
 便所も後部についていて、きれいに掃除はされているが、その行き来はみんなが寝ていてちょっと気が引ける。往復とも朝4時位に便所を使わせてもらったが、歩きづらい。4列座席での中央通路の方が若干広めだと思う。
 乗客は若い人は男女共いるが、熟年以上は男ばかり。高齢者には体力的につらいのかもしれない。

これだけジッとして朝を迎えると、降車した後に適度に体を動かし、そのあとどうしても風呂に入りたくなる。せめてシャワーを浴びたい。
 仙台についた時は、仙台駅東口から歩いて30分程の国分町2丁目に終日営業のサウナがあり、「3時間コース1080円」ということで2時間半ほどここで仮眠もした。なにより最初に30分の歩行というのが、心地よかった。ただしここは「男性専用」ということで、女性は利用できない。
 横浜駅東口に戻った時は雨のため西口からタクシーを利用したが、西口まで5分以上歩いているうちに血行は良くなったと思う。家についてすぐに風呂に入って体をほぐし2時間ほど横になった。

 今回の旅行では、多賀城跡、鹽竈神社、松島-瑞巌寺、東北大片平キャンパスの「魯迅の階段教室」を訪れた。行く先々で震災の爪痕や痕跡を確かめながら、歴史を辿った。

 第一回目は駆け足で廻った多賀城跡と東北歴史博物館の模様を、可能ならぱ忘れてしまわないよう本日中にアップしたいと思っている。しかし15時から講座がある。それに出席後気力が残っていたらであるが‥。





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美味しいひととき

2014年05月26日 21時19分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
壱弐参(いろは)横丁で日高見、綿屋、橘屋というお酒を一杯ずつ、美味しくいただいた。飛び込みで入ったのは「陽」というお店であった。お通しが小鉢3つで、マグロの煮付け、海鼠の酢の物、そしてイワシとカツオのたたき。これだけで2杯以上はいける。特にイワシとカツオのたたきは優れもの。海鼠も美味しかった。
地味な店構えで、流行っているようにはお世辞でもいえないが、素敵なマスターと楽しい会話ができた。このようなお店にはずっと頑張ってもらいたいものだ。ご主人は私より一回り下の50歳とのことであったが、楽しい会話ができた。感謝!
また是非飲みに行きたい店である。

このお店に行く前に、東北大の片平キャンパスの「魯迅の階段教室」の外観を撮影させてもらった。魯迅は私にとっては忘れることはできない偉大な人である。私の5年の学生時代の最も影響を受けた人だ。

いずれも詳細は後日。



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時間つぶしの極意が欲しい

2014年05月26日 14時48分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
会としては先ほど松島の瑞巖寺前で昼食後をとった後に解散して、仙台駅に
今戻った。

ブログの記事にコメントをいただいたが、帰宅後に返事をいたします<(_ _)>

これから23時30分の時間をどう過ごすか、なやみどころである。
仙台は昼前から小降りの雨、歩き回るのは不向きであるし、美術館・博物館は休館日。

どうしたらいいの、悩みどころ。

(追伸)雨があがっていた。待ちブラを結構中。




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