Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。体力作り、俳句、山行、美術館・博物館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。

ベートーベン「バイオリン協奏曲」

2015年04月30日 22時20分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 4月最後の日であることとはまったく関係は無いのだが、気分はベートーベンのバイオリン協奏曲。ベートーベンのバイオリン協奏曲はどういうわけか9枚もCDを持っている。だが、このブログでいつも記載しているとおり私のお気に入りはヨゼフ・スークのバイオリン、フランツ・コンヴィチュニー指揮、チェコフィルハーモニー管弦楽団の1962年4月の録音盤である。この曲で最初に購入し聴いたレコードだからすっかり刷り込まれているのかもしれないが、他と比べてバイオリンの音の美しさがことさらに美しい。また最初のティンパニーの4連打で始まる音が他とは比べものにならない絶妙のリズムで聴こえる。
 最初にレコードで購入した時はチェコの田園風景の写真がとても気に入っていた。レコードを聴かなくなってCDに買い替えたがこの写真ではなくなっていてとても残念であった。しかもレコードの方は引っ越しに紛れて紛失してしまっていた。
 ちなみに私の頭の整理のために他の8枚のCDを録音順に列挙すると、
★ダヴィド・オイストラフ(Vln)、アンドレイ・クリュイタンス(指揮)、フランス国立放送局管弦楽団、1958年(録音)
★アルテュール・グリュミオー(Vln)、アルチェオ・ガブリエラ(指揮)、ニューフィルハーモニア管弦楽団、1966年7月(録音)
★ヨゼフ・スーク(Vln)、エードリアン・ボールト(指揮)、ニューフィルハーモニア管弦楽団、1970年4月(録音)
★ヘンリック・シェリング(Vln)、ハイティンク(指揮)、アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団、1973年4月(録音)
★ギドン・クレメル(Vln)、ネヴィル・マリナー(指揮)、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ、1980年12月(録音)
★シュロモ・ミンツ(Vln)、ジュゼッペ・シノーポリ(指揮)、フィルハーモニア管弦楽団、1986年9月(録音)
★イツァーク・パールマン(Vln)、ダニエル・バレンボイム(指揮)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、1986年11月(録音)
★チョン・キョン・ファ(Vln)、クラウス・テンシュテット(指揮)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、1989年9月(録音)
であった。このうち同じスークの1970年録音のものは残念ながら誰のカデンツァかわからないのだが、私の好みではない。
 この9枚の内、今聴いているスーク、コンヴィチュニーの組合せのものがもっとも聴いている。次にグリュミオーのもの、3番目にシェリングのものである。

 しかしお気に入りのもの以外の8枚をいつどこで購入したか、覚えていない。
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「若冲と蕪村」展後期展示(その1)

2015年04月30日 20時56分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日の午後は当初東横線日吉駅から家までウォーキングをしようかと考えていたが、日吉で所用を済ませた後、二人でサントリー美術館に行くことにした。リクエストがきっかけであったが、足もだいぶくたびれているようなのでさっさと予定を変えた。軟弱路線にすぐに路線変更するあたり、若さが足りなくなっている証左かもしれない。

 サントリー美術館はとても混雑していた。前回4月10日に行った時よりも最前列で見るには倍以上の時間がかかっていた。私は二回目なので、前期展示で気に入った作品を後ろの列から覗き込むようにして見て回った。後期展示で初めて目にするものも列の後ろから、ただし時間をかけてかつ単眼鏡を使いながら見てきた。

 今回(4/14)に取り上げた伊藤若冲の「石峰寺図」を再度取り上げてみたい。前回は図録で見たのを、前期展示の五百羅漢図と同時に「見た」つもりになってしまって取り上げたが、これは後期展示の誤りであった。



 さてこの「石峰寺図」は実際に目にして、図録で見るよりも強く印象に残ったのが絵の上方に描かれている稲妻型の道である。水平の強い2本の線とその間にある稲妻型の2本の斜の平行線、これは日本の絵画では珍しい強い直線ではなかろうか。西洋の絵画で描かれる建物の線にでも見られるようだが、それよりも強い印象である。さらにその稲妻型の道の下にも三角形の橋が架かっているが、これもまた直線による幾何学的な紋様を意識的に描いていると思える。左端の上下にある橋もまた直線を主とした幾何学的な美しさを強調しているようだ。この絵の他の要素が曲線で柔らかく描いていることを考慮するととても目立つ直線の要素ではないだろうか。とても気になった個所である。何かお手本があるものなのだろうか。
 さらにこの絵の中で不思議に思えたのは、右手前の十数名ほどの集団が水の上に浮いていることである。他の人物はみんな陸にいる。何とも不思議な光景である。仏典にある何らかの逸話に起因するのか、私にはその知識は無いが、若冲がどのような意図でこの一団の人物を描いたか、知りたいと思う。



 また1760年代に描かれた若冲の「双鶴・霊亀図」は若冲流のデフォルメと想像力の不思議な取り合わせを感じた。これは前回見ることができたが、取り上げるのを忘れていた。若冲という画家は、細密画で名を馳せているが、水墨画によるデフォルメの面白さと、想像力豊かな描写にも脱帽である。どちらかというとこの方が若冲らしさが見え隠れしているのではないだろうか。

 次回以降後期展示を見ての感想を少しずつアップしていきたい。

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明日の予定

2015年04月29日 23時26分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一寝入りして今しがた眼が覚めた。メーデー会場までの往復も歩いて、本日は24000歩。昨日は26000歩、一昨日も24000歩を超えていた。その上気温が高かったので3日続けてこれだけ歩くとさすがに疲れがたまる。
 いつものとおり野球帽をかぶって、半袖で会場に出向いたが、ズボンは半ズボンではなくジーパンであった。下半身がかなり暑く感じた。明日以降は半ズボンでもいいかもしれない。

 明日は所用で日吉まで往復。帰りは歩いて帰る予定にしているので、京と同じく25000歩ほどになると思われる。汗だくになるほどのウォーキングではないが、それでも1時間で7000歩、時速約4.5キロのペースは保ちたい。
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夏はすぐ傍に

2015年04月29日 21時00分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は横浜の臨港パークで連合神奈川のメーデーに参加。さいわいにかんかん照りではなく曇り空で助かった。しかも半袖で十分間に合った。
 12時30分過ぎに終了後は野毛に繰り出して、私は2軒ハシゴした。のむほどに話が盛り上がるのは何処の飲み会も、何時の飲み会でも同じ。楽しく飲むことが出来る、というのがかつての職場の付き合いの良いところである。ところが、最近の職場は官民を問わずこれがうまく機能しているとはとても思えない。うまく機能しない時は労働組合の役員が間に立って丸く収めるという芸当をやってのけていた時期もあるが、それすら上手く機能しなくなっているようだ。
 職場があまりにギスギスしているようだし、愚痴を言えばそのまま管理職に筒抜けになるという緊張感が飲み屋でもあると民間経験の長い組合員から聞かされたことがある。しかも公務職場でも次第に似てきていると指摘された。同じ職場の仲間同士がお互いに足の引っ張り合いに精を出している、という。こんな話を聞くと、仕事の後のビール1杯すらが味気ないものに思えてしまう。

 曇り空で陽にはやけなかったけなかったと思っていたが、手のひらはかなり日焼けしていた。これでは顔もだいぶ日焼けしているはずだ。
 この時期いつも同じような感想を持つことに気付いた。そしていつの間にか夏の陽射しにすっかり馴れてしまう。もう夏はすぐ傍にいるようだ。
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連休の過ごし方

2015年04月28日 20時32分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年の連休の過ごし方が固まってきた。
 明日29日は連合のメーデー。朝から横浜の臨港パークに集まり、午後は夕方まで間違いなく集まった仲間と、現役の組合員も交えて野毛あたりでひと時を過ごす。
 4月30日ないし5月1日の午後は「若冲と蕪村」展の後期展示を見に行きたい。

  

 5月3日はメーデーと同じ臨港パークで開催される「憲法集会」にやはり組合の退職者会の取組みとして参加することになった。午後からの集会で夜は29日と同じく野毛で過ごすことになることは間違いがない。



 5月4日か5日には神奈川県立近代美術館葉山で開催されている「再びの出会い 日韓近代美術家のまなざし」を妻と見に行くことにした。多分連休とはいえ、ここはそれほどの混雑になるとは思えない。
 その他の日については今のところ決めてはいない。ただし汐留パナソニックミュージアムには行ってみたい。
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ブラームスの交響曲第4番

2015年04月28日 18時42分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は横浜では25.4℃と今年の最高気温を記録したらしい。平年気温よりも4.7℃高いとのことである。本日はさすがに我慢できなくて半袖のポロシャツを押し入れから出してきた。この気温のもと、街中を往復2万歩あまり歩いた。
 所用で関内の市役所へ団地の管理組合の関係で書類を提出してきた。徒歩で往復、途中で内科と眼科に出向いて連休中に無くなってしまう薬を処方してもらった。緑内障の点眼薬が相変らず高い。診察と約1か月半の薬で合わせておよそ5700円。金銭的につらいものがある。
 久しぶりの市役所であるので、現役時代の所属の局に出向いた。退職後4年を迎えて当然にも、組合との窓口となる交渉担当の管理職もすでに2回目の異動となっていたが、昔の担当職員が管理職として戻ってきていた。向こうから声を掛けてくれるというのも嬉しいもので、名刺交換をさせてもらった。退職者会としては特に交渉をすることはもう無いのだが、現役時代に苦労してくれた担当者が組合の交渉窓口としているというのは何となく心強いものがある。

 帰宅後は気分はブラームスの交響曲、ということで第4番をカラヤン指揮、ベルリンフィルの演奏で聴いている。録音は1988年。
 第1楽章の3度の下降と上昇を交互に繰り返す主題の出だしは不思議だ。長閑に始まるがいつの間にか緊張感が高まり、神経を少し逆なでするように強奏となっていく。この緊張感が弱奏となっても継続する。ブラームスならでは仕上がりにまずは脱帽してしまう。弦楽器と管楽器が混然となって複雑に音を編んでいく。この最初の楽章の冒頭からメロディーと和声とリズムに身を任せることを強いられてしまう。心地よい強いられ方をさせられる。緊張感がいつの間にか懐かしい音の絨毯になって室内に静かに広がっていく。
 そして第2楽章、第3楽章を聞かないことには私の一番好きたい第4楽章に連なっていかないのが不思議である。第4楽章だけ聴くという選択がどうしても出来ない。第4楽章を準備する第3楽章という華やかな楽章もまた聞きごたえがあるが、バイオリンの活躍に比べてチェロの活躍が少ないのが、私のささやかなる不満である。
 ブラームスの曲というのは、指揮者や演奏家にとっては冒険の出来る曲ではない、と聞いたことがある。特に指揮者にとっては自分なりの表現と云ったものが出し難いのだそうだ。そのような言い方が妥当なのか、私にはわからないがそんな言葉に囚われながらこの40年、ブラームスの曲を聴き続けてきた。
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田端文士村散策(その2)

2015年04月27日 21時50分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 この寺の前の斜面の等高線に沿った道が赤紙仁王通りといわれる。この道に沿って歩くと、途中から道路が拡幅されている。左側は古い家並みだが、右側は新しい区画になって新しい家が立ち並んでいる。大きな造成が行われたようだが、道路は残っている。
 この赤紙仁王通りと並行して現在谷田川通りがある。たぶんここは昔は谷田川が流れており、この川沿いに萩原朔太郎、小林秀雄、竹久夢二、小杉放庵、田河水泡などの住んだところが並んでいる。また最初に室生犀星が住んだところでもある。残念ながらここの標識は撮影を忘れてしまった。川を渡った先の不忍通りの面して佐多稲子の住んだ家があった。

   

谷田川通りから赤紙仁王通りにもどりポプラ坂を登るのだが、この坂が不思議な光景である。坂を上っていくと右側は新しい住宅、それも高級な一戸建てが並んでいる。しかし反対の左側は古い木造やモルタル造りの一軒家や二階建てのアパートが並ぶ。左右で50年の時代差を感じる不思議な坂道である。
 この坂を登りきったところに保育園があり、ポプラ倶楽部跡である。テニスに打ち興じた「文士」たちの姿が思い浮かべられる。このあたりには板谷波山の工房跡・窯があったらしい。

      

 ここから少し離れたところに引っ越しを田端の付近で6回も行った室生犀星がいちばん長く住んだ家の跡がある。なお、室生犀星が田端で4番目に住んだ家のすぐ隣には片山潜が澄んでいた家があった。今は更地で駐車場になっていた。

         

 この室生犀星の旧居跡から八幡坂を逆に下ると、八幡神社と大龍寺がある。ここには正岡子規と板谷波山のお墓がある。
16時まではお墓の散策が許されるということで中に入らせてもらった。

   

 板谷波山の墓は入口の正面に派手に建っている。墓石には妻の名もあり、なかなか好ましい。そして正岡子規の墓は奥まったところにこじんまりと建っている。それも子規の生涯を最後まで看取った妹の八重の墓と並んでつつましやかである。細い竹の茂みが背後にあり、静かに兄妹で眠っているという雰囲気が漂っている。
 この後は坂をのぼり返し、田端高台どおりという武蔵野台地の平坦面にできた道を東に歩くとすぐに「文士村記念館」の建物に戻ることができ、そこから3分もしないで田端駅に出る。
 朝にアップした記事で書き漏らしたが、中野重治はこの田端駅で逮捕されたのだそうである。

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田端文士村散策(その1)

2015年04月27日 09時39分12秒 | 山行・旅行・散策


 山手線が武蔵野台地の突端を上野駅付近から崖沿いに北上して、この田端駅から西に切り込んで、武蔵野台地を切通し道のように進んでいく。田端駅から武蔵野台地上に出ると南に土地全体がかなり急坂で下っていく。
 戦前は東京湾に臨む低地を見下ろすことのできる眺望のいいところだったのではないだろうか。坂道が多く、行き来は大変だったかもしれない。古い街並みが残っており、微地形に沿った上り下りやカーブが多い道が複雑に行き交っている。私も歩いていて方向がわかりづらくなるところもあった。
 文士が住んでいた個所は崖上から崖下にいたる斜面に沿って分布している。芥川龍之介や板谷波山、中野重治などは斜面の上の方、萩原朔太郎、堀辰雄、佐多稲子、竹久夢二、田河水泡、小林秀雄などは不忍通りに近い斜面の下の方、引っ越し魔のような室生犀星は次第に斜面の上の方に移動していく。なかなか面白い分布である。

 まず最初に訪れたのが平塚らいてうと中野重治の住んでいたところ。ここは何も標識も無いが道路は当時のまま残っており、家のあったところは想定できる。できれば標識などがあると嬉しいが、今住んでいる方の承諾など難しい課題もあると思われる。芥川の家とは目と鼻の先である。芥川の家よりは眺望が良かったのではないか。

   

 次はすぐ近くの芥川龍之介の住んでいたところ。三角地の頂点に小さいが立派な標識が建っている。その敷地にはマンションが建っておりまったく面影はない。芥川は新婚当時は鎌倉に新居を整えるも1年位でこの田端に戻ってきている。しかし室生犀星、中野重治、窪川鶴次郎などが田端に集まり、「金沢人脈」を作ることになる。

   

 芥川龍之介の住んだ跡地から与楽寺坂をくだり、途中を右折すると、芥川が通った下島勲の病院がある。ここは標識も何もなくて、動坂を越えると東覚寺という「赤紙仁王尊」をまつる不思議な寺に出る。

   

 赤い紙が全身に貼られているのが2体の金剛力士阿吽象である。参詣者の病気の個所と同じところに赤紙を貼ると平癒するとの信仰が広がった。江戸期から由緒はあったらしいが、明治期から盛んになって、全身がおおわれるようになったらしい。

      

この寺の横には田端八幡神社がある。斜面の上に社殿があり、中野重治の家のすぐ傍に出る。
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辺野古問題を直視し、沖縄の人たちとの連帯を強めよう(世界平和アピール7人委員会)

2015年04月27日 01時57分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
世界平和アピール七人委員会(武者小路公秀、土山秀夫、大石芳野、小沼通二、池内了、池辺晋一郎、高村薫)が2015年4月22付けで以下のアピールを発表した。
(http://worldpeace7.jp/?p=695)

 沖縄県名護市の辺野古の海を埋め立てて米軍基地を新設しようという日米政府の計画に、大多数の沖縄県民が一致して反対の意志を繰り返し明白にしている。それにもかかわらず現在、事態は大きな困難を迎えている。
 2014年1月の名護市長選挙、11月の沖縄県知事選挙、12月の衆議院議員選挙の沖縄の結果を見れば、どれも辺野古の基地問題が最大の争点だったが、圧倒的多数で当選したのは、すべて「オール沖縄」で一致した辺野古基地反対派の候補だった。
 先週の4月17日には、昨年(2014年)12月10日の翁長雄志沖縄県知事の就任以来 かたくなに面会を断ってきた安倍晋三首相が初めて知事と面会した。首相は「率直に意見を交換したい」といいながら、辺野古移転をなぜ普天間基地の唯一の代替案と考えているかの根拠は一切説明せず、知事が賛成できない具体的理由を丁寧に述べてもそれに対して何ら反論もせず、「辺野古が唯一の解決策だ」と繰り返すばかりだった。
 日本政府は、沖縄が置かれている現状に目を向けることなく、民意に耳を傾けることもなく、日米官僚が1997年につくった辺野古移設案にしがみついているとしか思えない。
 安倍政権は、憲法違反の集団的自衛権行使の法制化を目指して与党間であいまいな抜け道のある合意をまとめ、国会の野党の意見を無視し、主権者である国民の存在を無視し、国際的既成事実づくりを狙って非民主的な行動を重ねている。沖縄の米軍基地についても、このような非民主的行動を重ねる事態が続けば、残念ながら日本の周辺国とも、米国自身とも、安定した友好関係を築き上げることはできない。

 現在の事態を憂慮しているのは沖縄県民だけではない。地方公共団体は、中央政府の意向を無批判に実施するための組織ではない。実際、政府の意に沿わないとして沖縄県の意見を無視し続けている政府の行動を危惧し、地方自治の尊重を求める意見書を、長野県白馬村議会(満場一致)、愛知県岩倉市議会(賛成多数)などが地方自治法に基づいて日本政府に提出している。私たちも民意に基づく知事の意見を政府が一切無視するのは民主主義の根本の否定だと考える。
 私たち世界平和アピール七人委員会も2011年10月25日と2014年1月17日のアピールで、歴史を踏まえ、将来を目指して、辺野古に米軍基地を建設してはならないと意見を述べてきた。

 沖縄防衛局が海上工事に關係して海底に投下した20〜45トンのコンクリートブロックは、沖縄県が権限に基づいて2014年8月に許可した岩礁破壊の範囲を大きく超えており、サンゴを破壊しているとして、翁長知事は2015年3月23日に、海底面変更作業を7日以内に停止するように指示した。これに対し林芳正農林水産相は30日、翁長知事の指示を無効とする「執行停止」の決定書を沖縄県と沖縄防衛局に送った。これも、自然環境破壊の有無と無関係に、問答無用とする強権的な決定であり、現内閣の体質を表している。
 現在、辺野古の新基地建設に向けた海上工事の強行に対して、沖縄県民は、名護市と国頭郡宜野座村にまたがる在日米軍海兵隊のキャンプ・シュワブのゲート前で座り込みを続け、海上ではカヤックでボーリング反対を訴え続けている。私たちは、沖縄県民の抗議行動の徹底した非暴力主義に強い敬意を払うものである。一方、米軍、警察、海上保安庁が暴力的嫌がらせと排除を続け、けが人や逮捕者がでていることは、日本国憲法第21条に規定された基本的権利である表現の自由の侵害であることが明らかであり、強く抗議する。

 普天間基地について、19年前の1996年に、当時の橋本竜太郎首相とモンデール駐日米大使が5年から7年以内に全面返還をめざすことに合意したのは、現在の日本政府自身も認めている大きな危険性を抱えているためであった。今後事故は起きないだろうという根拠のない楽観論に頼ることなく、辺野古に代替え基地が作れるか否かを条件にすることなく、直ちに普天間基地の閉鎖を実施しなければならない。軍事基地の縮小・廃止は、国際緊張の緩和に必ず役に立つことを歴史が示している。

 琉球は、15世紀から19世紀まで独立国として存在し、琉米修好条約(1854年7月11日)、琉仏修好条約(1855年11月24日)、琉蘭修好条約(1859年7月6日)を締結していた。それを1609年には薩摩藩が琉球侵攻をおこない、1879年に明治政府が武力を背景にしたいわゆる琉球処分によって日本に編入したのだった。
 国土の僅か0.6%の沖縄に在日米軍基地の74%が存在する異常な差別を直視し、沖縄の基地増設は止めなければならない。そしてジュゴンと珊瑚とウミガメの住む美しい辺野古の海の自然の破壊を止めさせなければならない。

 世界平和アピール七人委員会は、日本政府が沖縄県民の「平和に生存する権利」を無視し強権的な手段をもちいていることに強く抗議し、あらためて沖縄県民への連帯を強めるよう本土の人々に訴える。
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田端文士村記念館

2015年04月26日 20時37分56秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 昨日「田端文士村記念館」を訪れた。以前にそのような記念館があるらしいということは聞いていたが、実際に足を向けたのは初めてである。
 北区という土地柄が横浜から見るとあまり縁がない事もあり、田端駅で下車したのも初めてではないかと思う。
 昨日はこの記念館を訪れるとともに、パンフレットにも記載されている散策マップに沿って約1時間歩いてみた。この散策の模様は別途アップする予定。
 まず立派な建物にビックリ。といってもこの記念館のスペースは駅から見て地上1回部分を占めているだけである。広い展示スペースと数多くの展示品を期待していくと残念ながらがっかりする。
 この記念館、展示というよりもさまざまイベントや講演を通じて、「文士村」という歴史の一断面を浮き上がらせていると思えばいいと思った。なかなか楽しいイベント、取組みが行われている。
 展示を見て教えられる、というあり方から地域と歴史のある時間を体感するきっかけとなる施設、という風に理解するのが賢明なのであろう。一度館内を見て回ってわかった気分になる博物館とは違うものだという了解が必要かもしれない。
 私は芥川龍之介、室生犀星、中野重治、佐多稲子、平塚らいてう、板谷波山という名に大いに惹かれた。芥川龍之介、室生犀星、中野重治は著書も若い頃からかなり読んできた。佐多稲子は名前も交流範囲もそれなりにわかるが、なんとしたことかまだ読んだことがない。平塚らいてうも同様である。
 佐多稲子の「夏の栞」は昔から読んでみようと思っていて果たせないでいる。いつかは読みたいものである。
 板谷波山は陶芸家であり、作品をいくつか写真で見ただけである。交友範囲も思想も知らない。ある先輩から購入を勧められたことがあるが、到底購入できる値ではなかった。それ以来忘れられない名前のひとつとなっている。いつかは少し勉強してみたいと思っている。

      

 講演会や散策等のスケジュールを手に入れてきた。この中では高橋源一郎氏の講演会、板谷波山の映画上映会は、他の日程と調整の上、可能ならば申し込んでみたい。
 空襲によって焼かれた田端文士村を扱う「田端文士芸術村の終焉-戦後70年を迎えて」の講演会を申し込みたかったが、他の予定がすでに入っており、残念ながら断念。関連展示は9月までなので再度訪れてみたい。 
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ほぼ何もしない日曜日となりそう

2015年04月26日 16時31分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 いい天気なれども、混雑を予想してどこにも行かず。最近はどうも身辺雑記的なブログになってきているようで、ここはひとつ何か気の利いたエッセイでも書きたいものだと思っているが、何も出てこない。

 朝から日吉駅界隈での所用を済ませて、昼食時の生ビールがいけなかったのか無性に眠い。
 水曜日のメーデーの交通費の準備をして、本日の作業は終了。こののちは昼寝と若干のウォーキングということにしたい。風が強いので、それを言いわけにウォーキングを止めて、夕方から焼酎タイムとするのもいいかもしれない。


 ここまで記載したところで、「田端文士村」の報告を忘れていたことに気がついた。夜までには頭をすっきりさせたいものである。
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田端文士村周辺散策と東京ステーションギャラリー訪問

2015年04月25日 23時43分57秒 | 山行・旅行・散策
 連休が近くなったこともあり、二人で相談してまずは普段なじみのない東京都北区に行ってみようということになった。上野東京ラインに妻はまだ乗ったことがない。思い立ったらすぐにということで、朝のうちに慌てて北区の観光案内をネットで探した。

 とりあえず出てきたのが、田端界隈の文士村の散策と「田端文士村記念館」。板谷波山、芥川龍之介、萩原朔太郎、室生犀星、中野重治、佐多稲子などの旧宅、そして正岡子規の墓などが載っている。
 時間があれば十条駅周辺の富士神社や商店街の散策、王子の「紙の博物館」に行ってみようという計画を立てた。王子の飛鳥山公園や渋沢記念館、王子神社などは以前に訪れたので、王子周辺は最後に回る予定にした。
 結局、田端駅で下車して昼食休憩後に、文士村周辺の散策と記念館で15時となってしまったので、他の予定は断念。妻の要望で王子駅まで足を伸ばして葛餅の石鍋商店へ。さらに、家に帰る途中、先ほどアップした東京駅ステーションギャラリーで「ピカソと20世紀美術展」を見ることが出来た。夕食は大森駅で下車して、居酒屋で済ませた。

 田端文士村記念館と周辺散策については後日アップ予定。

 他にも北区で訪れてみたいところはいろいろある。連休中にもう一度くらい散策に行ってみたい。北区にあるという都内で現在唯一の日本酒の醸造元を尋ねたいのだが、許してもらえるだろうか。

 田端周辺を歩いていると、少しだけだが雨がぽつりと来たり、風が強くなり冷えてきて心配した。しかし何とか天気は崩れずにすんだ。ただし統一地方選挙の最終日ということで賑やかに宣伝カーが往来しており、残念ではあった。
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「ピカソと20世紀美術」(東京ステーションギャラリー)

2015年04月25日 22時51分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 東京ステーションギャラリーを久しぶりに訪れた。
 目的は「ピカソと20世紀美術-北陸新幹線開業記念 富山県立近代美術館コレクションから」。入場料が1000円というのも入りやすい値段設定である。
 ピカソへ影響を与えた画家、ピカソが影響を与えた画家ないし潮流というものに着目し、その絵柄をいつも大きく変えたピカソの主な結節点ごとにセクションをまとめて展示している。
 展示は「1.ピカソが開いた20世紀美術」「2-1.ダダ」「2-2.シュルリアリスム」「3-1.戦後の展開 ヨーロッパ」「3-2.戦後の展開 アメリカ」「拡張する表現と多様化の波」という6つのセクションに分かれている。ピカソの作品があるのは「1」の9点だけであるが、少ないとは感じなかった。それだけ周囲の画家や潮流の作品が充実していたといえる。

 ピカソの作品では「貧しき食卓」(2004)、「ギターのある静物」(1912)、「肘かけ椅子の女」(1923)、「黄色い背景の女」(1937)、「座る女」(1960)などいづれもなじみのある作品ばかりが並んでいた。が、どの作品も感銘を受ける作品ばかりであった。「黄色い背景の女」ははじめて直接見る機会となったが、艶めかしさにドキッとした。
 ピカソ以外のの画家の作品も充実しており、カンディンスキーの詩画集「響き」(1911)より、ブラックの「バス」(1911)、ルオーの「ミセレーレ」(1922-23)より、クレーの「名誉棄損」(1934)、レジェ「サーカス」(1950)より、マン・レイ「桃」(1972)、ミロ「パイプを吸う男」(1925)、エルンスト「森と太陽」(1927)、デルヴォー「夜の汽車」(1947)、タピエス「小さな木とひも」(1973)など。
 特にタピエス「小さな木とひも」はとても懐かしく見ることが出来た。どこで見たのか思い出せないが、印象に残っていた作品である。またエルンスト「森と太陽」は初めて見た。エルンストはこれまではよく理解できなかったのだが、この作品は気に入った。チラシの裏面の5の作品である。森の質感、太陽の存在感、いづれも眼を離すことが出来なかった。抽象画などはわかりにくいということが言われる。だが作品そのものが細部とは無関係にそのまま私の頭の中に侵入して、居座ってしまうという作品がある。「森と太陽」はそんな作品のひとつであると思う。

 しかしセクション3-2「戦後の復興 アメリカ」と、セクション4.「拡張する表現と多様化の波」は私の感心からは遠い作品ばかりであった。

 図録は1600円、また気に入ったポストカードを購入しようとしたが5種類ほどしかなく、いつものことながら私の欲しいものはカードとはなっていない。図録もポストカードもいづれも残念ながら断念した。

   

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「若冲と蕪村」の後期展示めざして

2015年04月24日 21時57分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 今週は本日の講座以外に特に予定が無く、2月以降では久しぶりに仕事に追われる日ではなかった。親に頼まれたさまざまな雑用はあったが、あわただしくこなさなくてはいけないものではなかった。29日を除いて2日までは特に予定は入っていない。
 「若冲と蕪村」は5月10日までだったので、この期間に行くことにした。連休間際でしかも会期末なので混雑が予想されるが、それでも是非見に行きたい。
 若冲の「隠元・玉蜀黍図」「鳥禽図」「旭日白鶴図」「花鳥蔬菜図」、蕪村の「夜色楼台図」「晩秋遊鹿図」「峨眉露頂図」「富嶽列松図」などが後期展示となっている。
 再度1300円+交通費というのは厳しいものがあるが、許してもらうしかない。
 
 さて、昨日ズボンを二本購入した。この時期から梅雨明けまでに穿くズボンがきつくなって捌けなくなった。また薄い生地のジーパンがすり切れてしまって廃棄処分とせざるを得なくなった。今回購入したのは木綿地のズボンである。10月以降も着用できる。梅雨が明ければ9月いっぱいはほとんど半ズボンで過ごすことが出来る。
 できれば夏の間に多少は減量して、購入したズボンが緩々になるくらいにしたいものである。
 そして頭には昨日から再び野球帽をかぶることにした。一昨日理容室に行って髪を短くしたら、直射日光が皮膚に直に強く当たるように感じた。そして頭のてっぺんが日焼けしそうに思われた。寂しい気もするが、取りあえずやむを得ない。髪の毛が今の状況になってから、何とか現状維持を貫いているとは思っている。他人がどう判断するかはわからないが‥。
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生き方の折り合いということ

2015年04月24日 20時15分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日も本日も、朝から汗ばむような気温であった。午前中は源平盛衰記の講座を受講。講座終了後組合の会館まで歩き、昼食と所用を済ませてから今度は自宅まで歩いて帰った。途中15時過ぎからは雲が多くなり風も強まり、いつの間にか強風注意報が発令されていた。現在も外で風が唸っている。
 一昨年から関わった団地の管理組合の業務のお手伝い、同じく一昨年からの退職者会の業務など、年が明けてから何かと慌ただしくなり、いつの間にか年度末を越え、もうゴールデンウィークを迎えてしまった。
 年度末だったから、また統一地方選挙だったから、慌ただしかったというだけのあわただしさならば、そろそろ落ち着いてくるころかもしれない。だが、はたしてそのようになるのだろうか。ちょっと心配である。
 少なくとも労働組合の退職者会の活動は5月の以降、これまで以上に忙しくなることが確定している。私の人生の選択と40年の経過からは逃れることのできないことではある。毎月6千円を超える組合費を払っていた現役の頃の8千人の活動量と、年間3千円の退職者会の1500人の活動量では、金額と組織人数から言えば128分の1以下のはずである。そうでなければ退職者会そのものが赤字で立ち行かなくなる。ところがどっこい、みんな元気が溢れており、到底そのようなおとなしい活動量ではない。
 さまざまな取り組みに対して想定よりも多くの参加者があり(現役の組合員よりも多い!)、その分組織として負担する交通費などの実費や広報活動など配布文書の質も量も多くなり、活動費はどんどん膨らむ。組織としては願ったりかなったりという活気あふれる組織であるが、経営する執行部の側はひやひやものである。かといって執行部が手抜きをするとすぐに叱られる。
 現役時代にそれだけ密度の濃い付き合いをしてきたことの反映であるから、嬉しい限りである。
四半世紀前の労働組合の組織戦争、分裂・再建という苦労を経て、ごく普通の組合員が図らずも鍛えられて培った意地は、中田宏というトンでも市長と最後まで非和解的に対決し続けて職域を最大限守ったという自負にまでつながっている。だから職場に違いがあり、お互いに顔を知らなくても、同じ時間を過ごし同じ空気を吸ったという連帯感は、そう簡単には切れることはないといえる。
多分私にとっては忘れ去り、捨て去ることは出来ない組織である。
 今自分がやりたいことと、やらざるを得ないことの折り合い、けじめのつけ方は結局のところ悩みながらこなすしかないようだ。
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