Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。体力作り、俳句、山行、美術館・博物館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。

行ってみたい美術展があるが‥

2017年12月06日 20時13分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 11月の始めに今年度末に見たい展覧会をいくつか挙げた。次の11の展覧会であった。

①横浜市歴史博物館   横浜に稲作がやってきた!?         9.16~11.12
②東京国立博物館    運慶                    9.26~11.26
③国立歴史民俗博物館  「1968年」-無数の問いの噴出の時代-  10.11~12.10
④上野の森美術館    怖い絵展                  10.7~12.17
⑤汐留ミュージアム   カンディンスキーとルオーと色の冒険者たち  10.17~12.20
⑥国立西洋美術館    北斎とジャポニズム             10.21~1.28
⑦横浜美術館      石内都 肌理(きめ)と写真         12.9~3.4
            石内都「絶唱、横須賀ストーリー」      12.9~3.4
⑧横浜美術館      シュールレアリズムの美術と写真       12.9~3.4
⑨三菱一号館美術館   ルドン-秘密の花園             2.8~5.20
⑩東京国立近代美術館  没後40年 熊谷守一-生きるよろこび-   12.1~5.21
⑪横浜美術館      ヌードNUDE                 3.24~6.24


 このうち、①~③は見ることができた。④はあまりの混雑なので断念した。当面は④と⑤が気になる。特に④は会期が12月20日までなので、是非訪れたいと思っている。
 明日か明後日、1日中パソコンの前にいるのはつらいので、行ってみたいのだが、仕事の進み具合次第。
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「運慶展」 感想2

2017年12月06日 12時34分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
1.   2.   3.   

4.   5.   6.


 ここに取り上げた画像は、
1.運慶の父である康慶作の四天王立像(1189年、興福寺)から増長天立像
2.運慶作の毘沙門天立像(1186年、願成就院)
3.運慶作の毘沙門天立像(1189年、浄楽寺)
4.運慶一門による四天王立像(13世紀、海住山寺)から多聞天立像
5.同じく増長天立像
6.運慶の子である湛慶作の毘沙門天立像(13世紀、雪蹊寺)
である。
 四天王とは仏教では「須弥山の四方に安置され、中国で武将の形で足もとに邪鬼を踏む菅がが一般的になる。東方に持国天、南方に増長天、西方に広目天、北方に多聞天を配す。北方の多聞天が独尊として信仰されるようになりその場合は毘沙門天と称される」(岩波書店、仏教辞典を要約)。恵比寿神の古形ともいわれる。
 また邪鬼とは、「四天王像に踏まれる鬼。仏法を犯す邪神」という説明や「インド先住民といわれるドラヴィダ人」とか、「はやり病などの災厄の象徴」あるいは「人の心に棲む邪悪なものの象徴」という説明まであった。

 さて、1の康慶による増長天立像の足下の邪鬼を見ると、増長天にもはや立ち直ることも出来ず完敗の体である。しかし表情も姿態も現実味があるような表現である。四天王の威力を見せつける役割として描かれていると感じる。

 2の運慶の毘沙門天立像の足下の邪鬼はふたつ。それぞれ左右の足に踏まれている。図録では表情が今ひとつはっきりしないのが残念であるが、これも1と同じように完全降伏となる直前の体である。遺された力で毘沙門天の持つ宝棒を握っているが、まもなく手を放してしまうように見える。

 2よりわずかだが3年後の、3の毘沙門天立像となると、邪鬼の表情が変化する。これは奈良時代の像への回帰なのか、新境地なのかはわからない。しかし邪鬼の表情は「完敗の表情」であっても余裕がある表情である。右手で顎を支え、どこかふて腐れている。自分がこんな役割をさせられることに不満があるような表情にも見える。頭上で勝ち誇ったような毘沙門天の表情とは対照的に力を抜いて、動と静の対比にすら思える。ただし図像からも推定されるように毘沙門天の材質と邪鬼の材質に差があるように見える。帰宅してから気が着いた。実際に展示室で確かめておけばよかったと思う。解説ではこの邪鬼について「後補」の可能性については言及はない。

 4と5の四天王像は煌びやかな彩色がされている。解説では造像当時の彩色であると記されている。この四天王像の足下の4人(?)の邪鬼は実に面白い。表情も姿態もこれだけで鑑賞したいと思うほどである。眼が生き生きとしている。
 多聞天の邪鬼は温和・柔和な表情で、笑いさえ感じるときもある。増長天の邪鬼は3のように左手で顎を支え、歯を見せている。ここでは図像は略したけれど持国天の邪鬼は両手で顎を支え朽ちはへの字に結んでいる。広目天の邪鬼が一番痛めつけられているものの広目天をにらむような眼にはまだ力が籠っている。
 いづれも出来レースの敗者の役割を押し付けられた不満顔にもみえるし、「この間までは一緒に仏教世界に反発していた仲ではないか」、「あんたが宗旨替えした仏教でも力が正義かい」という皮肉にも見える。「俺様の役割・存在とはいったい何なのか」というような、哲学的に何かを考えている、という見方もできる。
 解説では、「本像はきわめてすぐれた彫技をしめしている。‥運慶一門の手になる可能性が高い」とされている。私は邪鬼の表情からだけの判断だが、かなり優れた統率者の存在を確信している。

 6の息子の湛慶作といわれる毘沙門天立像の邪鬼は図録でははっきりとした表情がわからない。実際に展示場でもう一度確かめたかった像のひとつである。解説では「運慶の量感溢れる力強い造形を整理し、上品にまとめた表現は、湛慶が持つ個性の一つ」と記されている。
 邪鬼の表情はいまひとつわからないが、その姿態は力なく臥せって、顔を両手に載せている。足が切り取られているようなので断定はできないが、両手と胴体の筋肉は力を失っている。邪鬼の表情に重きを置いていないという断定は早計過ぎるだろうか。解説では「後補」について言及がないが、他の湛慶の作品から比べて見劣りがするような気がする。毘沙門天そのものの造形も足が両方とも力がなく、寂しい。同じ湛慶作という千手観音菩薩光背三十三身像の躍動感溢れる造形とは落差を感じた。


邪鬼の表情が、奈良時代の造像の学習の成果なのか、新しい運慶の獲得した境地なのかはわからないが、父の康慶の率いる集団の意思の延長上に運慶が新しく加えたものだということを私は感じた。そして4と5の四天王像というのは、やはり運慶という統率者の大きな関与がないとあそこまで邪鬼の表情にこだわりを見せることは出来ないのではないか。子の湛慶の毘沙門天立像では邪鬼へのこだわりが急速に収縮していくというのは、私の勝手な想像である。
 快慶などとの影響関係などは私はまったくわからないが、いつかそのようなことがわかることがあればまた、興味がかき立てられそうである。

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「運慶展」感想1

2017年12月04日 23時46分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 11月24日、会期末の直前の夜間に「運慶展」を見てきた。チケット売り場では並んではいなかったものの、会場内はかなり混雑。図録や物品販売コーナーでもごった返していた。しかし普段見ることのできない国宝や重要文化財、寺の秘仏とされている仏像を、しかも背面までも見ることができるのはこのような機会しかない。
 特に今回は、父といわれる康慶-運慶-運慶の工房の作品-子の湛慶という流れを追ってみることができた。

 展示は、
第1章:運慶を生んだ系譜-康慶から運慶へ
第2章:運慶の彫刻-その独創性
第3章:運慶風の展開-運慶の息子と周辺の仏師
という構成で、国宝と云われる作品が12点、重要文化財指定の作品が24点が並んでいた。

 解説の始めに「日本で最も著名な仏師・運慶。卓越した造形力で生きているかのような現実感に富んだ仏像を生み出し、輝かしい彫刻の時代をリードしました。本展は、運慶とゆかりの深い興福寺をはじめ各地から名品を集めて、その生涯の事績を通覧します。さらに運慶の父・康慶、実子・湛慶、康弁ら親子3代の作品を揃え、運慶の作風の樹立から次代の継承までをたどります」と開催趣旨が記されている。

 第1章の解説は「運慶の生年は不明ですが、息子・湛慶が承安3年(1173)生まれであること、処女作と見られる円成寺の大日如来坐像を安元元年(1175)に着手していることから、おおよそ1150年頃と考えられます。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像、国宝、天喜元年(1053)の作者である大仏師・定朝から仏師集団は三つの系統に分かれましたが、運慶の父・康慶は興福寺周辺を拠点にした奈良仏師に属していました。院派、円派の保守的な作風に対して、奈良仏師は新たな造形を開発しようとする気概があったようです。ここでは、運慶の父あるいはその師匠の造った像と、若き運慶の作品を展示し、運慶独自の造形がどのように生まれたのか、その源流をご覧いただきます」と記されている。

 第2章の解説は「文治2年(1186)に運慶が造った静岡・願成就院の阿弥陀如来坐像、不動明王および二童子立像、毘沙門天立像の5体には全く新しい独自の造形が見られます。建久8年(1197)頃の高野山金剛峯寺の八大童子立像は入念な玉眼の表現、立体的に表した頭髪と墨描した後れ毛などが写実性に富み、感情までも表現されています。晩年の無著菩薩立像・世親菩薩立像は、圧倒的な存在感と精神的な深みが感じられます。鎌倉時代の人々が仏像に求めたのは、仏が本当に存在するという実感を得たい、ということだったでしょう。運慶はその要求を受け止めて、余すところなく応えたのです」である。

 また第3章では「運慶には6人の息子がおり、いずれも仏師になっています。そのうち、単独で造った作品が残るのは湛慶・康弁・康勝です。ここでは湛慶と康弁の像を展示します。運慶の後継者として13世紀半ばまで慶派仏師を率いた湛慶は多くの作品を残しました。快慶とともに造像したこともあるためか、運慶の重厚な作風より快慶の洗練に近づいています。しかし、京都・高山寺の牡牝一対の鹿や子犬、高知・雪蹊寺の善膩師童子立像などの写実性と繊細な情感表現は、運慶風を継承したものです。康弁作の龍燈鬼立像は力士のようなモデルの存在を思わせる筋肉の表現において、より直接的に運慶とつながっています。このほか、運慶にきわめて近い作風の像を展示します」となっている。

 残念ながらじっくりと鑑賞する、細部まで記憶にとどめるということは混雑の状態や、たった1回だけ入城ではとても困難であった。本当は最低でも3回くらい、しかも人の少ない時にじっくりと時間をかけて見たかったとつくづく思う。
 そして図録も凝っているのだが、どちらかというと仏像を客観的に見せるというよりも、写真としての芸術性の高い作品集として、コントラストも強調されているものとなっている。これは写真集としてはいいのだろう。しかし私自身の感想を記載するのに引用するものとして利用したり、あとから記憶をたどるとなるとちょっとそぐわない感じもする。
 図録に何を求めるか、で評価もむろん違うので一概には断定できないのだが。特に私のように四天王像の下にいる邪気に注目したり、像の指先などに注目して回った人間には、図録ではその細部まで写されていないものが多く、ちょっと残念な気はした。


   
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上野駅傍で一服中

2017年11月22日 19時02分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
運慶展を見終わった。平成館いっぱいの展示に圧倒された。チケットショップでは券を購入できず、不安だったが、チケットはすぐに購入できた。
しかし、展示室は二重、三重の人だかりで作品を下から見上げることはほぼ出来ず、足元をじっくり見ることもかなわなかった。
実際に目の当たりにする時間はある種、至福の時間かもしれない。
今回特にこだわって見たのは、足下の鬼の表情、両足の膝、体の厚み、手首から先。
収穫はあった、と思う。
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「無言館」の自作リーフレット

2017年11月16日 13時09分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 前回「無言館」を訪れたときには、無言館発行のリーフレットないし案内チラシが置いていなかった。
 そのために簡単な解説と無言館の成り立ちなどをA4裏表のリーフレットを時前で作成してみた。美術館などになじみの方にも伝わるように私なりに作ってみたのだが、目的は果たして達成できたか、心もとない。しかし私が取り上げた4作品の内展示してあった3作品の前では、参加者がじっくりと鑑賞してくれていたことは嬉しかった。
 今回訪れたら、無言館と信濃デッサン館の共通のリーフレットを配布していた。取り上げた作品が重なっているというのはとても嬉しい。
 次回も訪れる機会を作って、信濃デッサン館で村山槐多や関根正二の作品をじっくりと見たいと思う。


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無言館再訪

2017年11月15日 10時19分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
無言館、再訪。
今回作ったリーフレットも読んでもらえた。作成して良かった。
デッサン館も駆け足だったが一巡。次回はこちらから見たいと思う。

塩田平の景色も美しかった。

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「1968年」(国立歴史民俗博物館)

2017年11月13日 13時03分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


   

 昨日「1968年-無数の問いの噴出の時代」展(東京国立歴史民俗博物館)へ行ってきた。私の社会への原点は1968年でもある。大学受験をひかえた理系希望の高校2年生であった。ヴェトナム戦争・チェコのプラハの春・反戦闘争・三里塚闘争であり、日大・東大闘争である。そして1970年以降の衝撃は水俣の闘いと沖縄の闘いである。
 1971年以降、仙台の地で遅まきながら全共闘運動というものにこだわり始めた。始めは外側から、次第に内側から直接の体験などをとおして大学での闘争に関わったが、そのかかわりの原点はこれらの闘争である。このかかわりが66歳の今に至るまでの私の社会とのかかわりの起点でもあった。さらにその体験の大きな曲がり角は赤軍派のあさま山荘の事件であり、内ゲバである。良くも悪くも日本の社会が面と向かった事象からは、私は自由ではない。
 だが、あれから半世紀近く、遅れてきた世代とも言われながら直接かかわったものからすると、あの時代の体験や経験は、社会的に記憶のはるか彼方に消え去ろうとしている。アジア太平洋戦争という極めて大きな体験すら、戦後70数年で風化させられようとしている。何らの教訓すら残さずに逆に美化されようとし、戦後70年の出発点が否定される昨今の状況を見ると暗然とする。同時に記憶の風化に抗うこととは何なのかも、また課題である。
 私も4年前に仙台での学生運動の仲間とささやかな「同窓会」を開いた。それぞれの胸の内に澱んだ体験を40年という時間に耐えた目で眺め直してみたかったのだ。しかし同時にそれ以降の4年間という短い月日は、集まった20数名の内の3名が病気で他界するという、記憶の消滅、かかわった存在そのものの消滅という事態になっている。記憶は記憶として各自の旨の中で澱のように沈殿し、そして消えていく。残されるものは、同時代を生きた他者、そして家族のかすかな記憶の中でしか残らないものであることを、あらためて認識した。
 当時のビラや写真や報道やさまざまな残された「モノ」をいくら集めても、あの熱気も苦渋も、葛藤も再現することは不可能である。ただ懐かしむだけならば、それはその体験事態を自ら小ばかにしているともいえる。私は記憶と「モノ」といういわば体験の内と外との落差の大きさにたじろいでしまう。
 しかし同時に、展示された「モノ」や小さな落書きに、胸の奥に澱んだ記憶がスーッと視界が晴れるようなこともある。要はものの見方、観察の仕方、そして追体験の深度を探るということも可能である。あるいはあまり関わらなかった事柄への親近感の増大など、新しい観点も生まれる可能性を否定することはできない。

 そんなことを思いながら会場を巡ってきた。九州大学へのアメリカ軍ジェット戦闘機の墜落事件は、記憶を呼び戻すことができた。確かにあの事件は私の記憶のあまりに奥にあり、忘却しかけていた。
 横浜新貨物船反対運動は私はかかわっていないし、関わりたくなかった。運動への違和感がぬぐい切れなかった。それは何なのかは展示をみてもわからない。思い出す機会があるたびにいつもわからずに再び忘却していく。一方で、相模原補給廠-米軍戦車輸送反対闘争が取り上げられていなかったの不満だったが、すべてを展示することは出来ないのでやむを得ないとは思っている。
 大学闘争については私には当時の熱気が伝わる展示であると同時に、今でも燃焼し尽くせなかったわだかまりと、躊躇し続けた私の思いが複雑によみがえってくる。来年か、再来年再び仙台の地で「同窓会」をしたいとの声もあり、わたしなりのアプローチを考えつづけたいと思う。
 この企画展にはたくさんの同世代、先行世代が集まっていた。旗や手刷りの謄写印刷機などを見て、「懐かしい」という声があちこちから上がっていたが、私はなつかしさではなく、そこに貼り付いている当時の人々の思いが重く伝わり、声が出なかった。例えば謄写版を見て、私は自分が拙い文章を綴ったビラをつくるときの逡巡や羞恥、ビラを受け取るであろう友人たちのことを考えながら徹夜で印刷した苦しさ、しんどさ、出口のない親との葛藤をまず思い出す。本当の体験の深化はそこからしか始まらないというのが、私の思いでもある。
 若い世代も幾組か見かけた。彼らはあの陳列された「モノ」から何を感ずるのであろうか。私の体験をもとめられれば語ることはやぶさかではないが、自ら彼らに語ることの空しさも同時に感じる。若い世代は彼らなりに自ら立ってほしいのだ。まだまだ私には語るだけの力量がない。


   
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国立歴史民俗博物館

2017年11月10日 16時03分58秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
ようやく企画展と、第2から第6までの展示室を見終わった。疲労困憊。
レストランはもう閉店。休憩もできない(~_~;)
川村記念美術館に行く気力も体力も時間も無くなった。
京成佐倉駅前は飲食店が少ないので、これからどうするか思案中。
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本日の講座

2017年11月09日 22時01分50秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日の講座は「古墳時代東国の渡来人と渡来文化」と題して、松戸市立博物館の小林孝秀学芸員の講演。
 東国の渡来人の墓と思われる積石塚や竈・須恵器などの分布から東京湾沿岸の海上交通、横穴式石室の分布から朝鮮半島-関東北部への文化の伝播経路などについて示唆に富む講義であったと思う。
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久しぶりに横浜市歴史博物館

2017年11月09日 20時44分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 横浜市歴史博物館で開催されている企画展「横浜に稲作がやってきた!?」を見てきた。

 ホームページに掲載されている展覧会の概要は、「稲作の開始は、日本の歴史を区切る大きな出来事だと考えられてきました。この展示では、横浜市域において本格的に稲作が始まった時期である弥生時代中期後葉に焦点を当て、土器研究や植物考古学などの最新の研究成果をご紹介します」となっている。

 また展示構成は、次のとおりである。
第Ⅰ部 宮ノ台式土器とその時代
 第1章 弥生時代、はじまる ―宮ノ台式土器の成立まで
 第2章 弥生時代の「ニュータウン」 ―鶴見川流域の宮ノ台式文化
 第3章 見えてきた三殿台遺跡 ―再整理作業の成果
第Ⅱ部 横浜に稲作がやってきた!?
 第4章 黒こげのつぶ、土器のくぼみ ―農耕の証拠をさぐる
 第5章 弥生ライフ ―宮ノ台式期のくらし

 展示の始めには容器型の土偶、最後には人面付き土器が展示されている。どちらも保存状態が良く、印象的な表情をしていた。これを芸術と呼ぶのか、という議論は差し置いて、印象に残る作品であることには違いはない。

   
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バーン=ジョーンズの「受胎告知」

2017年11月08日 23時10分23秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 「芸術新潮」8月号の「新・仁義なき聖書ものがたり」を気分転換にめくっていたら、エドワード・バーン=ジョーンズの「受胎告知」(1876年)が目に入った。はじめて見る作品である。高さ2.5m✖巾1m余の大作である。
 不思議な感じのする遠近法と縦に引き伸ばされた人物像が目をひく。マリアは9等身、天使ガブリエルに至っては11等身近くもある。しかしエル・グレコのように下から見上げることを想定しているわけではないようだ。しかもガブリエルには動きが無く、静かで音の無い世界のような「告知」である。
 通常の受胎告知が読書中のマリアであるが、ここではマリアは水甕の横にいて、虚ろな瞳は何ものも見ていない、あるいは認識していない眼のようだ。これは今は使われていない福音書(ヤコブ原福音書)の記述に、「水汲みに出かけたマリアにどこからか声が響き、天の祝福が天使より告げられたが、マリアは声の主の天使を見ることが出来ず、恐れて戻った」という記述によるという。だが、ここに描かれているのは怖れの眼ではない。声の主を探す眼なのだろうか。
 マリアの戸惑い・驚き・怖れ・不安・受け入れ等々の感情表現が「受胎告知」の大きなテーマである。このバーン=ジョーンズの表現は公認のキリスト教から一歩引いた場面設定の中に、戸惑いと不安を記しているのかもしれない。
 多くの天使ガブリエルがマリアと同一地平近くまで降りてきて、告知するのとも違い、高い位置からの告知である。神の使いとしての「告知」であれば考えられる位置関係でもある。マリアがごく普通の女性として描かれているといえる。近代的な解釈・表現に見えてくる。
 背景のアーチの上部には、蛇の誘惑で果実を口にする場面と楽園追放の人類創生が描かれている。原罪と無原罪という不思議な歴史・関係が暗示されている。
 天使の衣の不思議に重厚さ、あまりに生々しい羽の模様と身体との関係、大理石と木材の不思議な質感、天使のいる場所の樹木の生々しさ、天使とマリアのリアルな足先の描写‥ひとつひとつに注目すると現実離れしていて、全体としておさまっている不思議な構図にも惹かれる。
 
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今年度後期の気になる美術館・博物館

2017年11月07日 13時42分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 気になった美術館・博物館の展示は次のとおり。会期順に並べてみた。

①横浜市歴史博物館   横浜に稲作がやってきた!?         9.16~11.12
②東京国立博物館    運慶                    9.26~11.26
③国立歴史民俗博物館  「1968年」-無数の問いの噴出の時代-  10.11~12.10
④上野の森美術館    怖い絵展                  10.7~12.17
⑤汐留ミュージアム   カンディンスキーとルオーと色の冒険者たち  10.17~12.20
⑥国立西洋美術館    北斎とジャポニズム             10.21~1.28
⑦横浜美術館      石内都 肌理(きめ)と写真         12.9~3.4
            石内都「絶唱、横須賀ストーリー」      12.9~3.4
⑧横浜美術館      シュールレアリズムの美術と写真       12.9~3.4
⑨三菱一号館美術館   ルドン-秘密の花園             2.8~5.20
⑩東京国立近代美術館  没後40年 熊谷守一-生きるよろこび-   12.1~5.21
⑪横浜美術館      ヌード NUDE              3.24~6.24

 会期が迫っているので、①は急ぐ必要がある。③はとても遠いが是非とも行きたい。

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国吉康雄の女性像

2017年11月05日 21時51分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 2004年、東京国立近代美術んかで開催された「国吉康雄展」から女性像を並べてみた。
 この展覧会では実に多くの女性像が展示されていたが、私は特に女性像に着目して感想を述べてはいなかった。このブログにリンクの貼ってある「時には本の話でも‥」【⇒こちら】の東京国立近代美術館の所蔵作品展の感想に刺激を受けて、改めて図録をめくってみた。
 国吉康雄の女性像は顔が非常によく似ている。同一人物を長期間にわたって描いたと思われる。幾つかを並べてみる。モデルは1935年に画家が再婚した女優・ダンサー・モデルのサラ・メゾと思われるが、私自身は断定できていない。

 始めの作品は「カフェ」(1937年、ホイットニー美術館蔵)、次が「私は疲れた」(1938年、ホイットニー美術館像)、3枚目は「夜明けがくる」(1944年、岡山県立美術館蔵)、4枚目が「女は廃墟を歩く」(1945-46年、メナード美術館蔵)。この女性の表情を追ってみると、国吉康雄の社会に対するかかわり方、姿勢が反映されているように思える。
 1930年代の女性像はしたたかに生きてはいるが、どこか退廃的で、投げやりでもあり、生きる意欲というものがあまり感じられない。退廃をそのまま受け入れて、底に身をひたしているような画家の生き方がどこかから匂ってくる。
 1940年代、特に第二次世界大戦となった1940年以降の作品は、国吉のアメリカでの日本人排斥運動を背景として、故郷喪失者としての国吉康雄の内省的な姿勢を示しているように思われる。「夜明けがくる」に描かれた女性からは退廃の匂いは私は嗅げなかった。終戦直後の「女は廃墟を歩く」に至って、実にたくましい生活者としての女性像となっていく。いづれも同じような顔立ちの女性であるが、社会とのかかわりでは受動から能動へ、すべてに受け身から自らが何かをつかみ取ろうとする強固な意志を私は感じ取った。

 この時期、国吉康雄は「ここ数年間の戦争は、わたしのたくさんの作品の背景をなしてきた。なにも戦場を描く必要はない。破壊や生命の喪失、生と死との間の彷徨、そして孤独といった、戦争の暗示を描く」と述べている。
 ここに国吉康雄の祖国批判、そして米国流民主主義なるものの欺瞞をもとらようとする姿勢、社会への強烈な違和感と、それに立ち向かう作者を感じ取ることができるとおもう。しかしこれ以降、国吉康雄は「時代の感情的な二重性を描いている」と述べた仮面をかぶった人物像に移行していく。
 そして美術家組合の会長などにつくが、時代という嵐に飲み込まれたかのように、新たに冷戦といった社会状況の中での苦闘が開始される。残念ながら戦後まもなく1954年、胃がんのため国吉は63歳で没してしまう。
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パウル・クレー「破壊された村」

2017年10月22日 16時46分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 東京国立品大美術館ニュース「現代の眼625」にパウル・クレーの「破壊された村」(1920)を新たにコレクションに加え、その解説が掲載されていた。美術課研究員の三輪健仁氏の文章である。
 掲載されている作品をスキャナーで取り込んでみたが、実際はもう少し淡い色彩で、コントラストは弱い。なかなか印刷されたものに近い復元は出来ていない。
 私にはどこかで見たような既視感のある作品である。どこで見たかは記憶にない。1993年のBunkamuraザ・ミュージアムで開催された「パウル・クレーの芸術」展には出展されていなかった。
 「画面全体を覆う暗い色調、中央の黒い十字架を掲げた教会、右へ、左へ傾いたいくつかの白い建物、そして「破壊された村」という題名など、この作品に戦争の記憶が反映している」との指摘。
 「クレーの制作は‥幾何学的形態を組み合わせたりすることから始まり‥制作がある段階に達したときに、それらの抽象的な形や公正が、具体的なイメージへと「変化」する、その瞬間を捉えようとするのがクレーの造形手法です」
 「この作品においては、たとえば円は、時に「赤い太陽」に成るし、ときに「灯火の消えた蝋燭が載る燭台」に成る。‥矢印は「↓」を向けば、画面の陰鬱な調子を倍加させる否定的運動を示す記号と成る一方で、「↑」を向けばなんと、矢印は枝を増やして生育し、樹木になる。」
 「破壊と創造、過去と未来。画面に現れるさまざまな形や色が、変化のただなかに置かれていることに気づくと、暗い破滅の調子を帯びたこの作品世界のあちこちに、生成の予感がほのかに浮かび上がってきます。」
 またクレーのことばが引用されていた。「この世では私を捉まえることはできない。なぜなら、私は死者たちのもとに、そして未だ生まれていない者たちのもとに棲んでいるのだから」。

 私は、左上の角を中心とした四分の一の円弧上に並ぶ、赤黒い太陽、消えた燭台、黒い樹木に注目した。破壊され生命が失われ、太陽も暗く鈍く光るようになった世界の一番下部に黒く焦げたような樹木、十字架も光を失い黒く焦げたように描かれている。救いの見えない沈鬱な画面の中で赤味(ピンク)の教絵がほのかに燐光のように自ら発光しているうに右上の向かう山の稜線のみに温みを感じた。燭台の皿の青・蝋燭の白と対照的な暖色にほんのわずかな救いを描いたのかと感じた。あるいは「安易な救い」など信じない姿勢を示したのかもしれない。

 パウル・クレーの作品にいつも惹かれる私としては、是非ともこの作品を見に行きたいものである。
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「現代の眼625」

2017年10月22日 13時53分38秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 東京国立近代美術館ニュース「現代の眼625」が家にとどいていたのだが、あわただしさに紛れて開封もしていなかった。表紙の作品は辻清明「信楽大合子 天心」(1970)。目をとおしたのは、
・「辻清明の宇宙について」   森孝一
・「辻清明の収集品」      藤森武
 以上2編は「工芸館開館40周年記念特別展 陶匠 辻清明の世界-明る寂びの美」(2017.9.15~11.23)関連の文章。
 辻清明の文章が引用されている。「(信楽の)荒ぶる山土は強靭な焼きものとなり、あたかも地球の奥深い内部に吹きあげるマグマの強烈な炎に溶融凝固する火成岩のようではないか!と思わせた。そしてまた、人類の原風景の中に想いを馳せたとき、気の遠くなるような『時』の累積に生成された土の塊が私の手から発信し、『天心』のかたまりとなった。内なるものをえぐり取っていく作業の中でも、私はひとつの自分の地底宇宙と、同化していくように思えた。それはとてつもなく激しい窯炎を喚び、火口に吸い込まれた空の嵐が厳然と、黙した土塊と戦いぬいた“かたち”となった。」

・「パウル・クレー《破壊された村》」         三輪健仁
 東京国立近代美術館の新しい収蔵品の紹介から。(別掲)



・「描くべきものを恵萼-中村不折《廓然無聖》」    古舘燎
 これは何とも不思議な作品である。油彩画で、ぱっと見は西洋のキリスト教絵画を思わせる。聖人が世俗的な王の前で奇跡的な何かを起こしかけている場面であってもおかしくない。頭に後光が射している。
 しかし場面は「梁の武帝がね自分は寺を建て、僧を得度し修行させたが、どのような功徳があるかと達磨大師に訪ねたところ、達磨は「功徳無し」と答えた。‥武帝が問うと、達磨は「廓然無聖(かくねんむせい、からりとした虚空のように、聖なるものも何もない状態)」と答えたという。確かに緊張感のある画面ではある。しかしこの文章でも記してあるが、達磨はこちら向きに立っており、武帝を背に立っている。これなどはとても行儀の悪い立ち位置である。
 不折はフランスのアカデミーの歴史画家ローランスに師事しその影響が大きいそうだ。人体表現などは評判がいいようなものの、構図に難があると当時から言われていたとのこと。しかし論者は「達磨の身体が観者側に向けられていることが意図的であるとするならば、「廓然無聖」と説く達磨の眼は、梁の武帝のみならず、当時の画壇、あるいは私たち観者にも向けられているのではないか‥」と記している。
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