Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

パソコン不具合発生か、たちあがらず

2009年11月30日 21時05分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
これは困った。パソコンがないともはやどうしようもなくお手上げ。
メールはいくつかのウェブメールばかりを使い分けていて、携帯からもその機能のほとんどを使えるが、打ちこみ、閲覧には時間がかかる。しかも添付を閲覧できないのが致命的。
妻のノートブック型パソコンのハードディスクが物理的に寿命がきたようで破損したので、ウィンドウズ7搭載のものを注文。
私のデスクトップは物理的にはまだまだ使用可能なので、思い切ってOSを変えて見る手もある。
その場合セキュリィティソフトも購入となりそう。
このブログ更新も時間がかかってしまう。
明日から師走。慌ただしい師走になってしまった。

妻の怪我

2009年11月26日 23時55分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 23日にゆりかもめを新橋で降りてJR新橋駅に向かおうとしたとき、妻が階段を踏み外し、右膝から崩れ落ちた。翌日整形外科の診断を受けたところ、おさらか骨折とのこと。かなりの量の内出血していた血を抜き、ギブスで固定し「全治一ヶ月」とのこと。
 あまり信用していないが家の近くに整形外科がなく、やむなく診察を受けたもののギブスまではめられてしまうと、もう他の医者にかかるわけにもいかなくなってします。内科や歯科医はかかりつけの医院はあるが、信頼できそうな整形外科というのが近くにない。私の以前の職場の目の前には私のかかりつけの医院があったが‥。
 階段を踏み外した時間帯は午後5時頃。ちょうど暗くなりかけ、街中の電気がつき始めた頃。普段歩いていて車が見難くなる時間帯でもあった。また階段が建物の中の勾配から、建物の外の勾配のゆるい階段に変化しており、客観的には事故は起こりやすい環境ではあった。普段「気をつけなくては」という気持ちはあるものの、怪我をしてみると注意が足りなかったと反省。職場では同僚の振る舞いに注意をしながら、自分や身内には注意が散漫になってしまうものなのかもしれない。

お台場、初体験

2009年11月23日 20時07分40秒 | 山行・旅行・散策
 本日は「ゆりかもめ」に乗ったことがないから乗ってみようということで新橋から乗車。途中の「台場」で下車してフジテレビを見学。ただし入館料をとるということなので、無料の7階の屋上庭園と5階の周回コースを回った。チャンネルにより個性があるとは聞いていたが、フジテレビというのはほぼお笑い番組だけなんだと知った。フジだからしょうもないとはいえ、私のようなめったにテレビを見ない「年寄り」がわざわざ見学するところでもないし、番組でお世話になることもなさそうだと理解した。とても場違いなところにいったようですぐ退散した。
 それから未来館まで歩いて小用。テレコムセンターからまたゆりかもめに乗り、豊洲まで。豊洲から全線引き換えし、一日券800円なり。夕陽が沈む頃夕陽に向かってゆりかもめが進行したので、これはいい眺め。
 ただし祭日の午後で、働いている人も少なく、軽食も最低900円位という始末。マンションも多く見うけたが、洗濯物のほしてあるところは少なく、人の生活の匂いがしなかった。働くにも、生活するにも、遊ぶにもいづれも中途半端な感じ。ゆりかもめの駅にそって、各ビルの二階をつないで歩行者空間としおり、それなりに新しい街のイメージをつくろうとしてしていたとはおもう。これでビルごとの孤立感は少なくなるような工夫は感じた。
 しかし人が住み、働くところというには、あまりにきれいにきっちりとしていると落ち着かなく、不向き。一定の猥雑さと、商品とくに食品の安さ、気軽に人目から避難できる安居酒屋や喫茶店の片隅がほしいもの。
 横浜のみなとみらいも同様だが、都市・街としてまだまだ時間の経過が足りない。住宅地ならばもっと早く人の匂いに満ち溢れるのだろうが、オフィス街というは時間がかなりかかるのだろうか?
 また、この大きなビル群、それぞれビルの中に都市空間(道・公園等)を貪欲にむさぼるように取り込んでいる。しかし限られた空間ゆえに、人が監視の目から逃れて、会社の同僚や会社の論理から逃れて、逃避する場所が存在しないのではないか。これでは働く場所としては不適と思うがどうだろう。決して働きやすい場所には見受けられなかった。
 そんなことを考えながら帰ってきた。

★十一月の軌道はあかし入り日へと

届いた本
 月刊「俳句界12月号」(文学の森)

国立新美術館とサントリー美術館

2009年11月22日 22時17分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日友人より「折口信夫せめて「死者の書」を」といわれ、たった一冊で好き嫌いを論じた傲慢、驕慢を反省して「死者の書・身毒丸」(中公文庫)を購入し読み始めた。光文社文庫の「折口信夫」集は棚になかった。

 さて小雨と寒さの中妻と、まだ行ったことのない新美術館とサントリー美術館へ。六本木駅を降りて新美術館へ向かう。途中八戸ラーメンなる小さなラーメン店に寄る。太麺と豚骨スープ全盛の折り、極細麺と煮干のあっさりスープはなかなかホッとする味。悪くなかった。
 新美術館はTHEハプスブルグと日展。THEハプスブルグは本日の日曜美術館で放映されたこともあり、入場制限をする盛況。日展も広すぎて見る気持ちが共に萎えてしまった。
 黒川紀章氏設計の「周辺の緑地にとけこむ」「周囲の森と共生する建築」の明るく広大な空間を見ようと中を散策。「共生」が設計者の独りよがりと今後もならないことを願うのみ。建築物をよく「周囲の自然と共生」とうたわれるが、私にはどの建築物も「共生」ではなく「周囲を圧して」としか感じていない。ここも例外ではなさそう。
 旧陸軍歩兵第三聯隊、近衛歩兵第五聯隊、近衛歩兵第七聯隊兵舎跡地とのことだが、管内の模型に石炭を運び入れるトロッコとその引込み線が表現されていて妙にリアルであった。軍隊施設の跡地の美術館が再び軍の施設と変貌しないよう祈るのみ。
 3階のレストランでコーヒーを、と覗くと3000円也のランチと1000円のコーヒーに長蛇の列。あきれて退散するが、下の2階、さらに1階のレストランと下がるにつれ値段が安くなる不思議なレイアウトに驚いた。
 地下のミュージアムショップを覗いて(購入無し)から、東京ミッドタウン内のサントリー美術館まで10分もかからない。ここも広大な空間の中に高級そうなブランドショップが並ぶ奥にサントリー美術館。鏑木清方展とのことなのではじめから入場はしなかった。
 ショップ併設の喫茶店で、金沢の加賀麩の老舗「不室屋(ふむろや)」が運営する展覧会限定スイーツの「よもぎ生麩のごましることお茶」を注文。白胡麻を使用したおしるこに、国産よもぎを使用した不室屋特製のよもぎ生麩。甘さも大いに控えめでこれには満足。
 ということで帰宅したが、あのような広い場所、ビルは疲れる。行きつけていればそれほどでもないだろうが‥。現に横浜のみなとみらい地区でも広大な建物の中を歩いてもそれほどの疲労感はない。
 国立新美術館といい、東京ミッドタウンといい、広大な建物が街そのものを内部化して、道路も憩いのスペースも供えるようなものが次から次へと作り上げられる。このように周囲の自然も街も内部化しようとする建築物、自然をも徹底的に人の管理下におこうとする指向が目につきすぎて、私には疲れるをもたらすだけのものに見える。

風邪と柿と干し芋と‥ついでに読書

2009年11月20日 22時32分00秒 | 読書
 この10日間で風邪で4日も寝込んでしまった。ぶり返しの4日間がもっとも辛かったが、不思議なもので直り始めたかな、と思うとみるみる回復してきた。夕べの夜中に目を覚ましたら風邪がサヨナラといって去っていくような気配。「風邪が抜けた」と実感し、そして朝方実にすっきりと目覚めた。10日ぶりの爽快な朝を迎えることが出来た。
 一昨日、番茶に梅干と長ネギとたっぷりのおろし生姜を入れたものを二杯飲んだ。その前の日と夕べは柿を一個半ずつ。柿は大好きなもので出始めた頃からもっと食べて風邪の予防に心がけておけばよかったかと反省している。熱が出ていれば体を冷やす効果とビタミン補給でもっと食べてもよかったが、お茶との相性が悪いようなので一個半にしておいた。
 友人のブログに「柿は柔らかく熟した物が好み。スプーンですくうくらいのものを‥」と書いてあってうれしかった。最近では私の周りはみな、柿は歯ごたえを楽しむという人ばかり。妻は少しやわらかめが好みのようだが。私はスプーンですくうほどのものもいいが、その手前の状態、包丁で切るとつぶれそうなくらいのものをそっと切ってずるずると手を汚しながら、服を汚しながら食するのがいい。せめて実が透き通る程度に熟した物がいい。
 テレビの報道で最近は柿(生も干し柿も)と干し芋を食さない人が老若男女増えているそうだ。なんとももったいない話。干し芋・干し柿は山に携行食・非常食としてよく持っていく。干し芋をα米に入れて芋粥もどきとしてずいぶんと世話になった。 
 風邪の間に多少の読書。折口信夫の「歌の話・宇夫の円寂する時・女流短歌史」(岩波文庫)を読了。初めて折口信夫の著作に目を通した。どうも私にはわかりづらい。私の理解力が足りないのは当然なのだが、「歌の話」を読んでも折口信夫のイメージする歌の本質、芸術の意味が伝わっては来なかった。
 短歌の宿命として「宿命的に纏綿している抒情の匂いの為に、叙事詩となることが出来ない。これでは短歌の寿命も知れて居る。戯曲への歩みよりが、恐らく近代の詩の本筋であろう。叙事詩は当来の詩の本流となるべきものである」との結語のようなものには、とても首肯できない。
 論理ではなく、文体として、思考の流れとして、私の波長に合わない、いやもっと謙虚に、理解する能力が私にはなさそう。当分この方の書に手を伸ばすことはなさそう。

風邪のぶり返し

2009年11月18日 09時00分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先週はかかりつけの診療所が休みだったため、別の病院で受診したところ、一般的な風邪とのことで総合感冒薬をもらった。しかし昨日午後からその症状がぶり返したため、かかりつけの診療所に駆け込んだ。
 別の種類の総合感冒薬をもらった。症状は前回よりもひどくなってきた。強めの薬のような気もする。朝から職場は休まざるをえなかった。
 ひたすら寝ることとする。

皇室の名宝展Ⅱ期

2009年11月15日 00時24分38秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日夕刻国立博物館へ。目的は定家の書と西行の書。
 その前に小野道風、紀貫之、藤原公任、行成、定信、源俊頼の書を見て、流麗な美しさに感銘を受けた。私は書は読めない。まずかなは何を書いてあるかわからないが、その流麗な流れなどは眺めているだけでいい。漢字もところどころ理解できる熟語などが出てくるとうれしい。今回は紀貫之、行成の和漢朗詠集があり、漢字とかなが並んで書かれており、見ていて飽きない。
 特に公任のかな書きは、几帳面と思われるほど丹精な構図におさめられていた。
 西行の書は有名な俊成宛の書状。 定家の字はくせ字として有名だ。はっきりいって理解できる字はどこにもなかった。
 また伏見院・花園院・光厳院などの字もまた端正で美しい。
 一方で反乱で殺される藤原仲麻呂の字の豪放でカナクギ流の下手な字は私には好感がもてる。
 展示の解説に書いてある内容の説明がほしかった。

即位20周年記念特別展という位置づけが私にはとても違和感というか、いやな気がする。このような歴史的遺産が「皇室の財産」とされること自体が釈然としないのだ。
 この際、この強い違和感だけは隠さずに記しておこう。

「ある晴れた日に」Ⅱ

2009年11月14日 22時11分24秒 | 読書
 「私はその時が来るのを長い間のぞんでいた、しかしまさかそのときが来ようとは信じていなかった。すべての美しいものを踏みにじった軍靴、すべての理想を愚弄した権力、すべての自由を圧殺した軍国主義は、突然、悪夢のように消え、崩れ去ってしまった―とそのときの私は思った。これから私は生きはじめるだろう、もし生きるよろこびがあるとすれば、これからそれを知るだろう。私は歌いだしたかった。」
 友人から教えてもらった加藤周一「羊の歌」から、玉音放送を聞いたときの加藤周一氏本人の感想の部分とのこと。
 前回の私の「感想文」は「主人公の思想」=「作者の思想」という単純な思い込みがあった。小説だから当然作者の思想も意見も、主人公だけでなく登場人物に振り分けられて述べられていることは当然。また人間の思想や思いは、単純に1人の人間に体現されるわけでもないのは当たり前。そこら辺の整理がされないまま書き綴った感想は、私の誤読でもあり、誤解を与える感想ともなってしまった。
 それともう一つ補足。その後の歴史を知るものからの批評というのは「後出しじゃんけん」のようになってしまう。このことを前提に書いていることを説明していなかった。それこそ一方的な断罪になってしまう。 
 昨日最後に「私なら、自分の周囲の世界の転換点に立ったとき、了解不能として、たじろぎ・たたずむしかない精神の衝撃として書くのではないだろうか」と書かせてもらった。こういう精神状態の時、周囲の自然や周囲の事物はどのように映るのだろうか。そしてどのような振る舞いを自分はするのだろうか?とだけとりあえず記載しておこう。
 先の文章を教えてくれた友人に心から感謝。

「ある晴れた日に」

2009年11月13日 23時54分25秒 | 読書
加藤周一「ある晴れた日に」(岩波現代文庫)読了
 時間がかかったが、久しぶりに小説を読む。著者30歳の時の作品とのこと。
 どの小説も冒頭は作者が力を込めて書く。この小説も最初の自然描写がいい。最初から二つ目の段落、「4月の落葉松の林は煙るような緑の芽をふきだしている。‥その林とこの春の空とは、見栄に見たことのある風景だと太郎は思う。」この自然の既視感が、8月15日と言う日の世界の転換点を暗示しているとおもう。人は衝撃的な事態に遭遇すると周囲の事象や風景をあらためて見回す。そしてその景色を懐かしいもの、見慣れたものとして再確認しながら、新しい事態に対処しようとする。自らの定点を定めようとするためではないかと思っている。
 小説で自然描写が生き生きとしているものは、読者に周囲の世界と自分のかかわりを再確認するように仕向けてくれる。
 つきに空襲の描写に筆力を感じた。人物造形では、ユキ子の造形が曖昧のように思ったし、ユキ子との関わりが主題となってほしいと思った。ただしいろいろの人物、あき子、美奈子、画家、五十嵐教授、憲兵役の水原、そして関哲哉などの造形をすべて望むのは無理難題の要求ではあるが‥。画家が左翼的な言辞を代弁する終戦の日直後、この左翼的言辞の空周り、上滑りは著者自信が十分それを承知をして語らしているのであろう。戦後左翼の上滑りをキチンと踏まえていると感じた。「画家には昨日も今日も同じ敵があり、今日も明日も同じ戦いがあるようで、それはそれとして一貫しているが、太郎自信の体験、放送を聞いて新しい生命を獲得したような体験とは、何処かくいちがっているような気がする。‥吉川(画家)の方が(主人公より)明るい」。この批判はうなづけるものがある。
 憲兵役の水原は狂言回しの役となっているが、これが登場人物の造形が類型的である不満はある。日本的なファシズムを支えた層の分析まで求めるのは読者の一方的な思いだが、それでももっと分析が必要ではないか、と感じた。もっともそれを戦後の活動の中で追求したのが、加藤周一の仕事だったのかもしれない。
 小説では 画家と憲兵、ともに狂言回しなのかもしれない。そういう構成でもおもしろいかもしれない。
 最後の方で「受難の日の終わった瞬間から、人々は再び変った。戦争の前に戻ったのではないだろか、戦争の間とはちがう。共同の敵が倒れた瞬間から、新しい敵が現れた。‥しかし今では、二人が敵と考えるものは違うはずだし、もしかするとお互いが敵同士であるかもしれないのだ。とにかく、今では、画家も教授も、あき子も、はなればなれの存在に見えるし、それぞれの運命を荷なってそれぞれの道を歩いているように見える」
 この文章があることでこの小説は、戦後のステップを予見した小説といえるのだろう。
 しかしその直後の
「-そうだ、平和はぼくらにとっては未来だ。太郎は、きざになると思ったが、そう口に出していうと、きざには聞こえないようであった。放送を聞き終わってとび出した真昼の世界。いいようのないあの興奮とよろこびとはつづいている。」
が私にはうなづけない何かがある。この違和感は解けない。
 あとがきでは「8月15日の青空と輝く白い雲とを、私は複雑な気持ちで眺めたが‥」とある。小説の書き方として、主人公の造形として「興奮とよろこび」としたのだろうか。あるいは主人公と加藤周一を同一視しすぎたための違和感なのだろうか。
 私なら、自分の周囲の世界の転換点に立ったとき、了解不能として、たじろぎ・たたずむしかない精神の衝撃として書くのではないだろうか、と勝手に思っている。

インフルエンザではなくてホッ

2009年11月12日 20時31分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
本日は風邪でダウン。昨晩22時半頃帰宅したが、水っ洟と頭に鈍痛で風呂も短めで即就寝。これで朝までに熱発したら‥と心配しながらも熟睡。
朝寝覚めてみると、寝汗が出ていた上に、足を大夫ばたつかせて暴れていたようだ。掛け布団が行儀悪く動いていた。私の場合軽く熱があると眠っている間に暴れる癖がある。
朝には水っ洟・熱は回復していたが、喉の痛みと頭の鈍痛で起きられず。木曜のためかかりつけの診療所は休診日。夕方まで寝て頭痛が治まってから、少し遠い開業医まで。診察の結果、心配はないとのこと。
日曜日に歴史博物館に行ったところ、熱っぽい吐息と鼻水を激しく啜り上げる人がいて、どういうわけか私のそばを離れていかない。これはヤバいと思って離れるのだが、いつの間にか近くに来ている。それがうつったのかとも心配したが、2日では症状が出るには間隔が短すぎていることにようやく思い至った。
夕方までベットの中で読書と思ったものの、ひたすら寝ていた。明日は出勤できるだろうか?

人間としての死、生物としての死

2009年11月10日 23時52分23秒 | 読書
 前回藤山直樹の「落語と精神分析5」の引用を忘れた。
 いわく「ほとんど「死にそうだった」人生の一時期を、私は何度か思い出すことができる。でもその時期でも生物としての私は普通に生きており、とくに「死にそう」ではなかった。そのようなとき、私は逆説的にも「死にたくなった」りしたのである。それは生物としての私を殺すことである。」
 「患者たちが死にたいというとき、なぜかと問えば、たいてい彼らは楽になりたいと言う。‥何も考えず、何も煩わしくなく、何も苦しくない。そういう状態を彼らは求めている。彼らは、自分が望んでいるそのような状態が、人間として「死んでいる」状態だと勘違いして、人間として「死ぬ」ために生物としての自分を殺そうとする。だがここには大きな間違いがあるようだ。彼らは人間として「死んでいる状態」を苦しんでいるからこそ、死にたいのである。だから彼らの求めているのは、人間として「死んでいる」上体ではない。‥彼らが望んでいる状態は乳児のような状態、まったく「空白」の状態らしい、と感じるようになった。」
 こういう表現の仕方、読んでみると当然のことのようで、なるほどと思った。私もこなすことが膨大に思えるようなとき、「乳児」のような状態を強く欲するときがある。特に最近そのような状態になる。さっさと「死んでしまいたい」「現役をはやく離れたい」と切に思うときが幾度も襲ってくる。
 そんなとき、この引用部分を思い出すことにしよう。

八角とタミフル

2009年11月09日 01時07分00秒 | 読書
一昨日の読了
「みすず」11月号
中井久夫の「新型インフルエンザ流行への私的準備」と藤山直樹「落語と精神分析5」が印象に残った。しかしタミフルと香辛料の八角の関係はそれとなく聞いてはいたが‥。植物由来の抗ウイルス剤があるとは私としてはあらためて驚き。
新型インフルエンザへの対処、出来る限りの自己防衛は考えてはいるものの、いざ実行となるとわずらわしい。特にあのマスク、やはり症状が出ないとうっとうしいマスクはしたくない。そんなことはいってられないことは承知をしているが。
行政や医療制度に幻想を持たず、自力で‥と格好をつけても始まらないが、報道よりも軽症のうちに治まると聞いてしまってなおさら‥という中だるみのような、弛緩状態が気持ちの上で続いている。

さて、先日の縁側と建物の関係、言葉足らずだったがそのうち再度整理して書いてみようと思っている。中途半端で何となく気になってしょうがない。

久しぶりの横浜西洋館 -庭との距離のとり方-

2009年11月05日 23時40分09秒 | 山行・旅行・散策
 本日は久しぶりに横浜の山手本通りの西洋館を見て歩いた。今から約10年前に友人の西洋館の彩色きり絵に私のつたない文書をつけた小さなパンフを作成したときに、幾度か訪れた。ところがもう記憶がおぼろ。人を案内しながら、記憶力の頼りなさをあらためて実感した。
 特に記憶がもつれたのがブラフ18番館。外交官の家からすぐの案内板を見ても思い出さなかった。建物をみても‥。入り口を入って二階に上がる階段の下の部分を見て思い出した。会談手すりの黒光りするカーブ、これは当時見学に訪れたときたまたま天気がくずれて一時的に強い雨と雷が鳴ったのだった。雷光に手すりがひかり、踏み板の端に置かれたガラスの小さな花器と、かすかな不思議な光のやり取りが印象に残った。外の光に微妙に反応する木目に、「住んでみたい」という思いが湧いてきた。
 日本の家屋とはまた違う感じで、外気や周囲の木々との対話の仕方をしている開港当時の木造の家、一年間この家から外を眺めてみたいと心底思った。
 西洋館といっても、石造りと木造ととても異なる。石造りの建物は外から見るものだ。木造の家は、内部から外を見る視線と、外から周りの景色の中に調和するものとして眺める視線と、両方の視線に耐えている。当然のことながら木造の家は、日本の建築とは違った明るい生活の臭いがする。石造りの家はやはり、内部の人工的な照明の力を借りないと人は利用できないし、くつろぐには石の重みが身に迫ってくる。おどろおどろしい機能性と緊張感を強いてくる。
 木造の家にはもう一つ不思議な感触がある。庭との仕切りの仕方だ。西洋風建物といってもやはり日本的な変容なのだろうか、日本の木造の居住家屋は「縁側」というものを介して庭との心的な距離を保っているが、6角形などのサンルームの構造、それも庭への出入り口を持ったり、窓の下辺の位置を地面に近づけたりしたような工夫(?)があるような気がする。きっとこれまでの西洋の建物よりも庭に出やすく、庭との心的な距離が近づいた構造なのではないだろうか?あくまでも私の思い付きではあるが、こんなアプローチもあるのではないか。
 西洋風の建物には芝生と薔薇、というのが定番だが、このように建物の内部空間と庭との心的な距離が「純粋な西洋の家」(こんな概念があるとして)よりも和風に近くなるとすると、西洋館の庭に似合う花々、木々ももっと和風のものがあうのかもしれない。
 たとえば芝生を思い切り省いたら、あやめや小菊、ヤマブキやレンギョウ、そしてひょっとしたらススキも合うのかも知れない。
 そして晴れた日ではなく、雨の日、特に梅雨の時に内部から眺める庭は、新しい西洋館の魅力に思い至るかもしれない。

木枯らし1号

2009年11月03日 18時48分39秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 ようやく晩秋・初冬らしくなってきた。枯れ葉が舞い、そして今日は朝から雪の富士と、手前に控える丹沢が濃い藍色にすっと立った。夏が過ぎて初めて見る(多分)景色だ。
今日は2万歩のウォーキング。歩きながら久しぶりに

★藍深し山木枯らしに立ち上がる

 友人のブログを見て、そして木枯らしと山を見て、鰤大根を妻に所望した。妻のつくる鰤大根が「正しい」調理法か否かは、私も「正しい」味を知らないので、妻の調理が正しいものと理解している。家庭の味は、夫婦が納得していればどんなものでもそれが「正しい」ことが大切と‥。
冬のお昼は、野菜や揚げを適当に煮込んで饂飩を入れ
て食したいものの、どうもこれは妻は好みではないようで、私がつくらない限り出てこない。
学生の時、大勢で食するときには、簡単なのでしばしば作った。また、昔は選挙事務所の炊き出しとしてよく出たので、私もいくどか腕をふるったが、最近は選挙事務所での食事の提供も規制を受けるようになり、スタッフの食事も「同じ釜の飯、同じ鍋」という間柄ではなくなっている。

 夕食はまでの時間、モーツアルトのファゴットとクラリネットとオーボエの三つの木管協奏曲を順に聴いている。
 私の好きなファゴット、モーツアルトが好きだったクラリネット(私は好きになれない)。モーツアルトの18歳、35歳、20代半ば、と変化が楽しめるCDだ。この演奏のクラリネットは、深みのある豊かな感じがして、私の好みである。

新機軸?

2009年11月02日 00時03分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は生暖かく風の強かった。久しぶりにミニスパともいえる近くの銭湯へ。サウナに4回計34分。ずいぶんとさっぱり。夜にはかなりの雨、まだ降っている。
 昨日の読了
「図書11月号」(岩波書店)
 昨日の読書開始
「歌の話・歌の円寂する時他二編」(折口信夫 岩波文庫)
 恥ずかしながら、折口信夫は始めて読む。

 これまでは触れてこなかったが、おいおいこんなものもアップしていく予定。

【支部大会での代表挨拶】
 代議員の皆さん、ご来賓の皆さん、わが支部の記念すべき結成第20回定期大会に参加していただき、誠にありがとうございます。支部執行委員会から大会開会のご挨拶を申し上げます。
 この大会は20回という節目だけではなく、先の総選挙での民主党中心の政権交代と我が市長交代という歴史的な大きな転換点で迎えたという意味でも、大きな節目であります。これまでの自民党による政権、とりわけ小泉首相によるいわゆる構造改革は、国民にとってのセーフティーネットの破壊や労働組合敵視の政策として全国で吹き荒れました。同様にN前市長はこの小泉流の政治を我がY市政で実践しようとしました。
 自治体財政の危機の真の原因である国全体の財政構造の矛盾や財政危機には敢えて目を向けず、歳出削減だけをめざした財政再建方針は、ごみ収集・高齢者福祉・病院事業・衛生部門・教育・バス事業・水道事業・都市基盤整備事業・安全管理などすべてにわたって市民のセーフティーネットをとことん破壊し続けました。問題が生ずれば職員へすべての責任を押し付けました。そして市役所組織を破壊し疲弊させて辞めてしまいました。
 N市長の初登庁での各局区長を前にした第一声は「私には少なくとも4回の予算編成権と4回の人事権の行使が出来る」「心して対応すること」と述べるとともに、局区長会での自らの入退室時の起立と礼を申し渡しました。こんな時代錯誤と自らを松下幸之助になぞらえたN前市長に面食らって、唯々諾々と従った当時の局区長の限界を私たちは目にしました。
 市議会民主党はN市長歓迎派とN批判派に分裂、前者は民主党籍をもった議員と持たない議員とで「Yみらい」グループを結成し、ネットワークYとともにN与党に変質しました。その後、小泉首相の得意とした御用学者を集めた「審議会」偏重政治により、港湾病院の公設民営化を強引に推し進めたことは記憶に新しい。そのような約束違反の手法で、市民サービスの第一線の仕事に生きがいと誇りを持ってきた市の職員のやる気を奪い続けてきたのです。
 その仕上げが技能職の採用凍結=現業業務は直営になじまない、民間委託にすべきという論理でした。市長に請われて「民営化」の推進役となったNY副市長は、テレビなどで「公務員に現業職員はいらない」「単純労務は民間」と公言し、仕事・職業に対する差別と自らの部下の仕事への無理解をさらし続けて憚りませんでした。
 ごみ収集や道路管理、下水の維持管理などいわゆる3Kといわれる仕事は公務員ばかりでなく民間の労働者も従事しています。昔から「ゴミ屋」「ドブさらい」「土方」などとさげすまれながら、民間の仲間も私たちも、過酷で悪条件下での労働から少しずつその地位を上げてきました。時には自ら「どうせこんな仕事だから」という自らを落とし込めてきた歴史もあります。
 しかし都市基盤整備・市民サービスの最前線で苦労してきた職能であるからこそ、また従事する以上自分にも家族にもその重要性を誇りに日々業務に邁進することに価値を見出してきた私たちに対して、あまりな仕打ちであったと思います。その挙句にスキャンダルや政治資金への疑惑、取り巻きへの便宜供与や組織の私物化などの疑惑が続き、大宣伝を打った開港周年行事イベントが、その内容のお粗末さと不人気により失敗になることが確実となるや、N市長とNY副市長は何の責任も取らず逃亡したのです。彼らは市議会への赤字の説明責任も果たさず、それを委託した先の「民」の責任にして、幕引きは職員に押し付けたことを、市職員も市民も忘れてはなりません。
 この逃亡劇で、N元市長は結果責任を負おうとしない戦後日本でもっとも無責任な政治家だったということを自ら暴露しました。おそらく石原都知事はもとより最近の有名人首長である橋下大阪府知事、河村名古屋市長、森田千葉県知事などすべてこの類の政治思想の持ち主であると思われます。政治主導ではなく、政治「家」主導という「独善的」で政治責任をとろうとしない政治思想こそ、古い自民党的政治とともに葬り去らねばなりません。
「市長が辞めるとわかった瞬間、人事権などは市長の手を離れ、行政は機能しなくなります。こんなことは行政をよく知る人なら当たり前の現実です。とりわけ厳しい現実と向き合い、将来のために諸改革を進めてきたY市役所は、“やれやれ”と一気に緊張感がなくなり、新たな市長登場まで2万 6000人以上の職員が“指示待ち”市役所になるのです」。これは逃亡した直後のN元市長の個人ホームページに掲載された見解です。労働者の思いや組織の現実がまったく理解出来ていない奢った発想です。
 だが彼は辞任直前の職員へのメッセージには「市役所の職員はつくづく優秀であると思いました。例えば、ものの着眼、推進する馬力、コツコツ継続する意志、私自身それらに感謝感激し学ぶことが多くありました」と記していたのです。逆に私たち職員の自負は一貫して「市長が誰であろうと、市民サービスは待ったなし。業務に穴を開けてはならない」であり、組合はその立場を通しました。
 このようなN元市長の外面と内面のギャップは、嘘つきとしか評価のしようがありません。こんな人間が総務省の顧問に就任する予定などと報道されていますが断じて許すことはできない。N与党を標榜した「Yみらい」グループは市長の突然の放り出しについてどの議員もそのホームページで一言も触れることができず、新市長歓迎のみのていたらくです。途中からN批判派になったネットワークYも、Nをお神輿としたことへの自己批判は一言も記しません。そのまま新市長歓迎一色ですから、情けない限りです。
 私どもは労働組合ですから、どんな政権であっても、どんな首長であっても是々非々の立場で臨むことは当然です。どんな政治家にも幻想を持たず、悲観もせず、あくまでも私たちの職場、仕事、労働の現場からの価値判断でもって自らの方針・要求を掲げて闘うことが当たり前です。「政党や政治家の利害に支配されない」、それが日本共産党支配の全労連・Y市従との組織戦争を潜り抜けて確立した私たちの支部の基本です。
 組織の総責任者である市長が、責任を部下である職員に押し付けるやり方は、強く私たちの記憶に残っているだろうし記憶し続けるべきだと思います。N元市長はまざまな施設管理に関する事故に際し、事実経過の確認もせずに、「職員の不作為、職員の責任」といった発言をまずマスコミに発表することを繰り返しました。いづれも裁判に持ち込まれ、職員については無罪、ないし書類送検に相当しないとの判断が出た事例だったのです。
 都市基盤整備、災害対策の第一線に位置する私たちの職場の現業部門の削減は、都市基盤整備の事業全般にとっても大きな損失になることは明らかです。私たちは生き生きとした職場を維持し、誇りと働きがいをもって働き続けるためにも、技能職員の採用再開を何としても果たさなければなりません。
 同時に大幅に削減された人員体制であっても、これまで以上に増大する市民ニーズにこたえて行かなければならないことも事実です。その方策について我が労働組合として全力で当局に要求実現を迫っていきます。やりがいと誇りと自信をもって」働き続けられる職場の構築に向けて、より効率的効果的に現業の仲間の力を引き出す組織をめざして、支部は全力を挙げて問題提起を続けていきます。
 このM市長下での7年半で痛手を受けた市の組織を立て直す立場で、単組全体が力を尽くそうとしています。同時に私たちの労働組合は、新しい世代にバトンを渡していかなければならない時期にも来ています。その意味でも今年は単組も支部も大きな節目の年であります。N市政と真剣に全力を出して対決してきたからこそ受けた痛手も大きいものがあります。これを回復するためにはどうしたらいいか、どういう視点に立って単組を活性化して新しい時代に即応した組織としていくか、同じことがわが支部にも問われていると思います。
 今回、支部より単組の執行委員を送り出しました。支部だけではなく、単組全体の組織にもかかわってもらい、ひるがえって支部の活動に良いインパクトを与えてもらおうということを期待しています。しかしそれを支える支部の執行体制については、残念ながら今回は諸般の事情でこれまでより少ない体制となりました。当初の予定外のことになってしまったわけですが、これから二年間、もう一度執行委員会・支部委員会・現業部会等々の活動の基本に立ち返って再構築しながら、新しい執行体制を展望しなければなりません。
「明るく楽しく元気よく」の合言葉、この7年半は「威勢よく」の意味合いが強い形で運動し、要求を当局に迫ってきました。しかしこれから組織の組み立て直し、職場の再構築をめざすには、足元を見つめ、職場での悩みや苦労を共有することに力点を置いた活動も必要です。先ほど述べましたように、新しい支部のこれからの活動に向け、本大会での実りの多い議論をお願いして開会の挨拶といたします。

【単組大会での議長団就任の挨拶】
 今大会は、特定の政党の支配を押し付けようとした従前の組合から労働運動を作り直そうと単組を再建して20周年という節目の大会です。同時に政権交代で鳩山新内閣が成立し、また我がY市でも新市長が誕生するという大きな転換点で迎える最初の大会でもあります。
 しかし日本全体では働くものの環境の回復はまだまだ道筋も見えていません。私たちの働く職場も7年半にわたりN前市長によってさまざまな形で大きく傷つけられました。この回復はこれからの大きくそして重い課題です。
 様々な抑圧に対して闘ってきた私たちの組合の力を更に進めて、仲間の苦労や悩みを共有し助け合いながら、職場に明るさと活力を取り戻し、そして自信と誇りをもって働き続けることのできる職場を作ろうではないか!
 この一歩を進めるために議長団は、今大会が実り多い議論、それも課題や要求や闘いを共有できるような議論が行われるように、可能な限り努力をします。代議員をはじめ参加者の皆さんのご協力を切にお願いします。