Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。体力作り、俳句、山行、美術館・博物館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。

年の最後の日に‥

2014年12月31日 12時16分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日大晦日。私の部屋の本箱はいまだ最終整理が出来ないが、取りあえず本日の作業は終了。あとは追々(といいつつ何時になるかはまったく不明)と片付けることにする。机の上はきれいになっている。
 「大晦日と云えど単なるカレンダーが変わるという以外、時の経過点でしかない」と言ってしまうこともできるが、それでは人生の区切りも、繰り返しにかかる意識の更新もできない。年中行事の内の年末・年始くらいは気分を新たにする意味でも、身の回りの整理、過去の反省や来年の抱負を頭の隅で考えるのも悪くない。
 そんな時間をこれから3日間ほどは持つことも大切であろう。


 さて本年も一年、私のブログに目をとおしていただきありがとうございます。
 親族の不幸が年末にあり、この国の戦後の習いにしたがい、賀状は遠慮しました。「寒中見舞い」という形式で正月明けにはご挨拶状を投函する予定です。

 またブログやツイッター上で親しくコメントを交わしてもらっている皆様にはこの場で御礼申し上げて年末のご挨拶と致します。
 そして皆様方の来年のご活躍・ご多幸をお祈り申し上げます。

 また来年、引き続きこのブログのお目とおし、よろしくお願いいたします。
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「ホドラー展」の感想 その3

2014年12月31日 11時16分20秒 | 読書
 いくつか理解できなかった点を最後に列挙してみる。
 「感情Ⅲ」を除いて女性像の不思議。



 「恍惚とした女性」(1910)では動きが不思議である。リズミカルな動きとは遠い。ゆっくりとした動きで行われる太極拳の動きを切り取ったようなポーズである。他の単身の女性像も含めて、この不思議な動きがホドラーの特徴でもあるのだが、人体のリズミカル動きとは相容れない動きに違和感がある。



 この違和感は「昼Ⅲ」(1900-1910)などの女性像にも見られる。「感情Ⅲ」では動きやポーズに違和感はなかったが「春Ⅲ」やこの「昼Ⅲ」などこのポーズの意味するところが分からなかった。背景の自然描写の丹念さから推測すると自然との交感、自然の受容などという理解もできるのかもしれないが、それにしては不自然なポーズである。自然の享受、自然との交感ならば人体は本来もつ自然なポーズであるはずだ、というのは私の思い過ごしなのだろうか。

         

 この人体の動きに対する違和感は、スイス紙幣の図柄にもなったという「草を苅る人」「木を伐る人」(共に1910)にも言える。
 こんなポーズでは木を伐ることはできない。こんなポーズでは草は刈れない。実際の紙幣では木を伐る人は地面に向かって斧を振り下ろすように修正している。こちらの方が少しは自然である。草を刈る人も実際の紙幣では鎌のように振り回している。しかしどちらにしても膝を曲げずこんな腰高は腰を痛める。

 人体の動きに対するホドラーの感覚は私の身体感覚とはだいぶかけ離れているという違和感が展覧会の会場の最後まで付きまとった。今もそれは変わらない。



 もうひとつの違和感は、公共的な建築物への壁画である。これはスイス国内ではとても尊重されているということである。またスイスの歴史や国家形成の根拠など私には理解できないていないことばかりであるので、軽々にはいえない。
 だがここに掲げた「全員一致」(1912)の壁画など舞踊や群舞といったリズム、身体表現の「全員一致」の怖さが私には先行して脳裏に焼き付いている。これが議会室の壁面にある怖さにまず着目してしまう。
 さまざまにニュアンスの差を認めつつ大枠で意見集約を積み重ねる努力が私は民主主であると理解している。



 このような壁画をつくる傍らで、ホドラーは最晩年には「無限へのまなざし」(1916)を作成している。この壁画のような大作は群舞の様子を描いているが、「感情Ⅲ」の4人の女性像のようにそれぞれの女性は独立している。ここに左右の人と動きが共鳴していていようでもあり、そうでもないような不思議な様である。意識と動きの交わることのないパラレルという不思議な関係を暗喩しているようである。講座でも指摘されていたが、この5人の女性たちの手はつながっていない。ホドラーが関心を寄せた実際の群舞では手は繋がっているそうである。
 意識も身体も繋がっていなくとも、リズムにより交感・時間の共有が無意識にも行われる不思議な空間を表現している。これなどは私は惹かれる主題のひとつである。
 この絵と先の「全員一致」のとても深い断絶が私にはあるように思える。

 ホドラーという画家は、不思議な人体表現と人々の「共感」については両極端に乖離した作品の存在を有している。
 風景画、孤独と死の影を纏いつかせる人物像など気に入った作品と同時に違和感も同時に目についた画家であった。

         
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明日は大晦日

2014年12月30日 23時18分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 例年のとおり大晦日といっても大した感慨もなく新年を迎えることが多い私である。今年もそのような流れになりそうだ。

 さて、ホドラー展の第2回目をどうゆら書き終わった。明日第3回目を何とかアップして年内の宿題を終わらせたら、気持ちよく正月を迎えられそうである。これが今年の大晦日の感慨といったところか。

 本日は夕方からウォーキングに出かけ、往復で1万8千歩ほど歩いた。その他も合わせて2万3千歩ほど。これだとかなり草臥れる。理想は目標の2万2千歩の1万歩(7キロ)ほどをウォーキングのスピードで全力で、この季節でもウィンドブレーカー1枚で汗をたっぷりかいて歩きたい。残りの1万歩(6.5キロ)は薄手のコート1枚程度で汗をうっすらかくくらいの速さで、買い物や講座に出かけるための早目のタウンウォークでこなすのがいい。残りの2~3千歩は買い物や建物の中での歩行で費やされる歩数である。この割合ならばあまり疲れることもなく、毎日でも続けられる。
 しかし講座などが無い日は結局全部ウォーキングでこなすことになる。もっともこの時はいつもに増して爽快な気分になれる。
 さらに本日は久しぶりにウォーキングの途中2キロほどを軽く走ってみた。太ももと脹脛の筋肉に負担がかかっているようなので無理はしなかったが、これから春にかけて少しずつ走ることを復活させていきたい。
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バッハ「管弦楽組曲」全4曲

2014年12月30日 22時01分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日に引き続きバッハを聞いている。本日は管弦楽組曲全4曲。トン・コープマン指揮、アムステルダム・バロック管弦楽団。第2番のためにフルート奏者にウィルベルト・ハーツェルツェトを迎えている。
 どの曲もどこかで大体が聞いたような気分になる。バッハらしい華麗で多様な曲想が次から次に湧いて出てくるように奏でられる。この曲を聴いてクラシック音楽に嵌った、という友人もいる。それほどポピュラーで耳に心地よい曲である。毒にフルート協奏曲のような第2番に愛着のある人も多い。私はブランデンブルグ協奏曲がクラシック音楽を自覚的に愛好するようになった最初の曲であるが、その次が、ヴィヴァルディの四季と、高校の時に友人に教わったこの曲である。
 私は第3番の第2楽章の「エア」が好みである。第1バイオリンの長い旋律が美しい。

      
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「ホドラー展」の感想 その2

2014年12月30日 15時00分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ホドラーの描く風景画は、ごく初期の習作時代のものを除いてとても魅力的である。この風景画には3つの流れがあるように思える。

 

 21日の「その1」でも掲載した2枚の絵をはじめとしてここに掲げた「小さなプラタナス」(1890)など1885年以降1900年代くらいまでの風景画である。明るく初期印象派風の作品であるが、樹木が生命の象徴として孤独の影を背負って立っている。自然の中の孤高の樹木、といっても樹高の高い自然に対して屹立している樹木ではない。孤立感が強い。
 一方で明るい空、太陽に輝く幹、秋の黄葉のような鮮やかな色合いから、ホッと一息つきたくなるような風景としてとらえることもできる。
 冬へ向かう樹木の生と死を思い浮かべると同時にその前の一瞬の鮮やかさに注目して見る見方も当然ある。ホドラーの指向はどちらだったのだろうか。他の2点から私は前者を考えたが‥。
 しかしこれらの絵には物の質量感があまり感じられない。

   

 1910年代後半から現われる峻厳なアルプの山のいただきを描いた一連の作品は厚塗りで、しかも岩の重量感、質感にこだわった作品である。そしてセザンヌの岩の表現をさらに推し進め、リズム感のある岩の面が躍動感を見せてくれる。このリズム感によって自然に生命感が宿っているようにも思える。
 私の好みでは後光のような、窓枠効果にこだわったような白い雲に違和感がある。しかしそれを凌駕して、緑と茶の岩肌と白い雪の面に惹かれる。特にユングフラウを描いた「ミューレンから見たユンクフラウ」(1914)に惹かれる。



 「シャンベリーの渓流」(1916)もこの流れの一連の作品であろう。沢の岩と黄葉して日に映える森の木々の連なりへの着眼が私の好みである。解説によれば、「屍のような岩は死の象徴であり、一方で勢いよく流れる水は生の象徴である。渓流はまさに生と死が拮抗するドラマティックな舞台であり、そこにホドラーは自らの思想を見出した」とある。
 そういえばこれまでの絵も含めて「生と死の拮抗」という観点からの絵の鑑賞も成り立つかもしれない。

   

 次の流れは2番目の質感が前面に出た風景画がひとつの山の頂や渓流に的を絞った作品であるのとは対照的に、山並みの遠景、それも湖の向こうに見える風景画の流れである。山よりも湖の広さが主題のような作品群である。
 はじめにかかけだのが「シェーブルから見たレマン湖」(1905)の作品。次が「トゥーン湖とシュトックホルン山脈」(1910)などの作品である。絵の具の塗りは薄く、淡いぼかしたような色調である。グラデーションが微妙な遠近感を表現している。
 これらの作品群は湖に移る山並みや雲の上下の対象が構図のポイントになる。パラレルというよりも線対称=シンメトリーな関係に着眼している。これは若い頃からすでに表れている傾向でもある。同時に山並みのリズミカルな頂きの連続=稜線の躍動感を感じる。
 しかし山の頂きや岩などの質感にはこだわりが見えない。画家の指向の一側面ということなのだろうか。ここでも前者の雲の徳地陽ある描写は、様式化、デザイン化された形態だがこれは私には違和感がある。
 この流れの風景画は1910年代の前半に集中しているようだが、最晩年の1916から死の1918年にかけて美しい太陽光を背景として色彩豊かに、さらに質感も添えてこの風景画が再現する。画家がもっとも描きたかった風景画のあり様なのかもしれない。



 「白鳥のいるレマン湖とモンブラン」(1918)は湖には山の影は描かれていないが、代りに白鳥が「感情3」の女性像のようにリズミカルな配置で描かれている。夕景が朝の景色かはわからないが太陽の橙色の光線が美しい。また山のどっしりとした量感が何とも美しい。版画を思い浮かべたり、ムンクの絵を思い出したりもしたが、やはりホドラー独特の絵である。
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夜から再び雨

2014年12月30日 00時51分07秒 | 天気と自然災害
 結局夜になり弱いけれども雨がまた降りだした。雨の音がしないので、22時過ぎに軽くウォーキングをしようと支度をして外に出たが、断念。パソコンの前でボーッとしていたらそのまま眠ってしまった。今はもう雨もやんではいるようだが、この時間はウォーキングをする時間ではない。
 いつの間にかはや30日。関東地方では明日は陽射しがもどるらしい。

 昨日は朝から、アンドロイドのスマホからツイッターにログインできない状態がつづいた。午後3時過ぎにようやくログインできた。この不具合は私だけではなく、いろいろな方に出現したようだ。
 幸いパソコンからのログインは通常通り問題は起きなかった。しかし運営の方からは何の連絡もない。このような状態がたびたび起きるて、対応が目に見えないと、信頼をなくすと思う。
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ブラームス「交響曲第4番」

2014年12月29日 19時15分42秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 世の中は年末にはベートーベンの交響曲第9番「合唱付き」が定番となっている。私もこの第9番の交響曲は好きである。聞くたびにベートーベンらしい躍動感とオーケストレーションと、不即不離という言葉がぴったりの合唱と管弦楽の融合に新鮮な気分を味わえる。名曲と云われる要素は十分に備えている。
 しかしへそ曲がりの私は年末にクラシック音楽、それも交響曲を聴く機会があるとブラームスの交響曲第4番か、チャイコフスキーの交響曲第5番をおもに聴いている。特にブラームスの第4番は私にとっては何か締め括りのようなニュアンスで迫ってくる。
 緻密な構成とオーケストレーションだけでなく、それを支えているのがブラームスの音楽から感じる抒情性である。抒情性と構成力、この調和がブラームスの魅力である。こんな曖昧な感想を連ねるのはあまり好きではないが、好みというのはどこから攻められても「好みだから」といって開き直ることが出来る便利な言葉である。たとえ論理破綻していたとしても、好・憎悪といった感情はどうしても拭い去ることのできない、ある意味最後の一線だと思う。
 ということで先ほどから夕食までの時間はブラームスの交響曲第4番を5月に取り上げたカラヤン指揮のCDで聞いている。終楽章の冒頭の金管を中心とした咆哮にも近い和音が寒い中を歩いてきた身には心に沁みていく。こんなにも変化にとんだ変奏曲というものに聞くたびに驚く。

 本日は実に寒い日であった。12時過ぎに家を出て横浜まで歩いたが、厚いダウンのコートを着ていたのに体が温まらなかった。家電量販店や本屋を散策し、人混みに疲れてコーヒーを1杯。往復約1万2千歩。毎日の目標まであと1万歩だが、本日は寝る前にウォーキング出かけられるだろうか。酔っぱらってしまって気力が失せるのがもっとも怖い。

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雪は回避できたが寒い

2014年12月29日 11時37分40秒 | 天気と自然災害
 年末になって雪の予報が出ていたが、横浜市内は雨となった。現役の頃の私の職場では、通常ならば年末年始の休みになっているのに、雪の予報が出ていれば出勤となる。雪の量にもよるが、横浜で5センチも積雪になるようならばほぼ全員が出勤対象になる。
 この時期、もう出身地や親の住んでいるところに里帰りが始まっているので、出勤者の確保に苦労するときもある。特に作業に従事する職員がそろわない時はつらいものがある。業者も人手の確保に苦労する。雪をはじめ自然災害の対処には人手の確保が復旧の根幹である。
 またゴミの収集も年末もギリギリまで行われるが、雪ならば収集に大きな支障を来す。
 ということで私には雪というのは、都会の中でもロマンティックなものというより、白い魔物のようなものでもある。雪の多い地域でも過疎が進んでいれば、ますますその負の側面が住民を苦しめる。

 今年は偏西風の蛇行の影響で、太平洋岸を低気圧が北上することが多く、太平洋岸でも降雪の場合が多いらしい。

 午前中は冷たい雨がやまないので、出かける予定は先延ばししている。昨日の年内最後の日曜日、の横浜駅周辺は買い物客であふれていた。喫茶店も満席。落ち着かないが、家に閉じこもっているのも嫌である。雨がやんだら出かけることにしたい。足を動かしたい。
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バッハ「無伴奏バイオリンパルティータ1、2、3」

2014年12月28日 20時02分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 パルティータというのは「組曲」の意味らしい。この曲集ではパルティータは様々な種類の舞曲を集めて一曲としている。
 第1番は4つ、第2番は5つ、第3番は7つの舞曲からなる。
 通常はソナタ第1番、パルティータ第1番‥というようにソナタとパルティータを交互にひいていくのだが、この1961年録音のグリュミオーのCDはソナタとパルティータとを別々のCDにおさめている。
 通常の並べ方と違う根拠は何なのか、演奏家の意図はどこになるのか、解説には記されていない。
 このパルティータは第2番の5曲目シャコンヌが有名であるが、私のもっとも好きな曲は第3番の第1曲の前奏曲。華麗で、変化に富んでいる。そして長い曲を一気に突き抜けるように弾きこなす名人芸に圧倒される。

 この曲と前回の無伴奏バイオリンソナタは他の演奏家のCDも聴きたいとこの曲をかけるたびに思うのだが、実現はしそうもない。
 このソナタとパルティータはベートーベンのバイオリン協奏曲(スーク)やショパンの夜想曲(ルビンシュティン)、モーツアルとのレクイエムなどとともに、私がもっとも聴いているCDに含まれると思う。ブラームスの曲は割とまんべんなく聞いているので、時に突出して幾度も聞いている曲というのが、今は思い浮かばない。チェロソナタや交響曲第4番、バイオリン協奏曲は回数は多い方とはおもうが‥。

   
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「川瀬巴水」追記

2014年12月28日 17時49分05秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 先の記事はちょっと言葉が足りなかったかもしれない。「私は点景として小さく描かれた人物、背を向けた人物、顔を隠した人物が川瀬巴水の作品を際立たせていると思う」と書いたが、描かれた人物は作品の中で重要な位置を占めている、と思う。風景に大きな膨らみをもたらしていると思う。点景としての人物が描かれていないと作品は生きてこない。それこそ背中が顔を描く以上にいろいろなことを語っている。
 私は「描く」という行為がとても苦手なので自信は無いが、顔を描くことで風景が際立つ画家もいるだろうし、巴水という画家のように顔の表情を描かずに背中を描くことで人物も風景もともに生きてくる画家もいるとおもう。逆にいうと肖像画や人物が正面を向いている川瀬巴水の作品は私には違和感が強い。
 これは作る人と見る側の私のそれぞれの特別な目によるものなのかもしれない。共感するということの不思議な現象だと思うし、好き・嫌い、気に入る・気に入らない、惹かれる・ピンとこない、という分かれ目のひとつの契機だと思っている。
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「川瀬巴水」(日曜美術館にて再放送)

2014年12月28日 12時14分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本年開催する最後の忘年会が昨晩終わり、気分はやっと年末。東京駅八重洲口は大勢の人で溢れていた。
 最後に八重洲地下街の中にあるラーメン店で味噌ラーメンを食べた。私のいつものパターンはコンビニの昆布おにぎりとウーロン茶なのだが、久しぶりにラーメンを食べた。たまにはいいかもしれない。



 本日の朝はゆっくりと起きた。9時になってNHKの日曜美術館で「川瀬巴水」の三年の再放送をしているのが聞こえ、慌てて起き出した。関東大震災での被災を背景とした川瀬巴水の作品紹介はなかなかいい。映画監督の大林宣彦氏の語り口も理解できた(と思う)。川瀬巴水の作品に繰り返し描かれる水、雨、雪、そして月やほのかな灯(ガス灯、電灯)。これと関東大震災の被災体験を結びつけながら作品を見ていくと、さらに人のぬくもりと郷愁を感じる。震災の具体的な場面は描かれていないが、かえって雄弁にその後の世界が語ってくれる。
 描かれた人物は点景ないし後ろ向きなのだが、月やほのかな温もりのある灯によって、人の営みを感じることが出来る。風景画だけではない豊かな世界を感じる。私は点景として小さく描かれた人物、背を向けた人物、顔を隠した人物が川瀬巴水の作品を際立たせていると思う。

 午前中はN氏の葬儀の会計報告書の作成で時間を費やした。葬儀の準備に追われながら、必要にかられて収入別の会計書類を作っていた。が、これでは他の方にはわかりづらい。一元化したものに作り替えた。コピー&ペーストを繰り返して新たな表を作成したのに、金額が合わなくて慌てた。30分ほどかかって2項目の重複を見つけてようやく解決。少々慌てた。
 光熱水費の内、水道代は昨日振込みを済ませた。光熱水費等の残り(ガス代・新聞代・携帯電話代)の請求が1月になる模様なので届き次第振り込む予定にしている。問題は居住していた部屋の改装費請求がどのようになるのか、ひやひやしている。基本は敷金で清算してもらうしかないのだが、どうなることやら。大家と不動産会社のやり取りを待つしかない。何といっても残る金額はわずかしかない。さまざまな作業を行ってくれた方と安い居酒屋で慰労会をする時の補助が出せればいいのだが、心配である。無いものは払えない。
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江戸甘味噌

2014年12月27日 14時12分40秒 | 読書
   

 お昼前に家から歩いて40分ほどのところにある日本味噌株式会社(かねじょうみそ)の直売に行ってきた。訪れたのは今回で3回目。購入したのは「江戸甘味噌」「柚子味噌」「蕎麦味噌」「青唐辛子味噌」「柚子ポン酢」その他。普段使う味噌はまだ冷蔵庫にそれなりにあるので今回はパス。
 購入したものを見る限りお酒の友を購入したようなもの。新鮮な野菜があれば当面はこれだけで酒の肴には不自由しなくて済みそうだ。
 ことに江戸甘味噌はなかなかいい。胡瓜や根菜につけるととても美味しい。日本酒に限らずいろいろなお酒にあうと思う。すっかり気に入ってしまった。
 塩分は極めて少なく6%とのことである。これは「東京都ふるさと認証商品」認定と記されている。東京都味噌工業協同組合の登録商標とも記されている。
 みそ汁だけでなく、どじょう汁・豚汁・鯖の味噌煮、シジミ汁・モツ煮など動物質の素材に適しているとのことである。今度鯖の味噌煮に浸かってみようと思う。
 夕方からは今年最後の忘年会で東京駅八重洲口まで出かけることになっている。
 昨年の忘年会や今年のオーロラツアー以来顔を合わせたり、メールのやり取りが頻繁になった学生時代の仲間である。東京近辺に在住の人間に呼びかけて実施した。
 その一人のおすすめの店ということで予約した。しかし友人が訪れたのは大分前のことらしい。オーナーが代わっているとの情報もあり、当時のままの雰囲気やメニューとは違うことも予想されるが、お酒や料理よりも会話重点の忘年会である。
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バッハ「無伴奏バイオリンソナタ1、2、3」

2014年12月26日 21時45分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 このバッハの「無伴奏バイオリンソナタ&バルティータ」を聞いた時の驚きは忘れられない。当時ヘンデルのバイオリンソナタを習っていて、バイオリンソナタとはこういうものなのか、と思っていた。何かの拍子にこのレコードを購入してスピーカーから流れてくるバイオリンの音の豊穣さ、厚み、華麗さは、ヘンデルにはないものであった。
 バッハという名前を知ってはいたが、私の薄らいでしまった記憶では当時購入したレコードも、2枚組でこのCDと同じくアルテュール・グリュミオーだったと記憶している。私のバッハ体験の始めであった。
 このCDの情報によると録音が1960年11月、そして1961年3月と7月。アナログのマスターテープを利用したデジタル録音ということらしい。こんなにも厚味のある音になるのにはビックリした。1980年代の半ばに購入し直した気がする。それ以来随分聴かせてもらった。
グリュミオーのバイオリン聞いていると、弦が弓の面に吸い付いたような粘っこい音質だと思う。存分に楽器がなっている。重音は時として乱暴ともいえるくらいに弦に弓をぶつけたように音が出てくる。が続く音は粘っこくそしてよく響く。

   
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部屋の大掃除

2014年12月26日 12時38分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 世の習慣に倣って、本日は自分の部屋の大掃除を午前中に行ってみた。日頃から自分の部屋はあまり掃除をしていない。普段掃除器をかける床は目につくところだけ。パソコン台の下や机の下は埃がたまっている。電気の配線が絡まっているので台や机を動かすのが億劫になってしまう。
 朝から机の上に積み上げられた資料や本などを仕舞い込み、机・パソコン台を動かして掃除器で埃を吸い込み、雑巾がけ。だいぶきれいになった。ついでに本箱も多少再整理してみた。
 自分の部屋以外は長年妻に任せっぱなし。寝室・居間・台所・便所・風呂場・洗面所・ベランダ・物置・押し入れ・クローゼット・玄関とすっかり綺麗にしてくれる。私は力のいることだけ手伝う。
 今では下手に私が手を出すと調度品の方が私に復讐を始める。何処に何があったのか、わからなくなってしまうのである。私の部屋以外の秩序はすべて妻の判断によっている。置かれている調度品もすべて妻の指示に従って静かに穏やかにおさまっている。
 こうなってははっきりいって我が家の主はあくまでも妻である。いくら主夫になろうとしても私にはとても出来ない。このおさめ方には太刀打ちできない。
 午後からは明日の忘年会に向けた簡単な資料作りでもしようかと考えている。多少のウオーキングもしたい。ホドラー展の感想のその2は年内には仕上げないといけない。
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メンデルスゾーン「無言歌集」

2014年12月25日 21時29分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 メンデルスゾーンは前回かなりくさしてしまったが、例外がある。無言歌である。20歳の頃の1830年から死の二年前の1845年まで生涯この無言歌を作り続けてきた。自由な形式で脳裏に浮かぶイメージを即興詩のように書き溜めて作った曲のような気がする。形にとらわれないということでは、生身のメンデルスゾーンをそれとなく伺いたくなる曲ばかりである。
 田部京子はシューベルトの演奏で有名である。しかしこのメンデルスゾーンの無言歌もなかなかいい。50曲以上あるという無言歌から半分近い25曲を選んでいる。田部京子の演奏はこれ見よがしの技巧を前面に立てた演奏とは程遠い。メロディーラインが明確である。
 メンデルスゾーンという作曲家、室内楽曲も管弦楽曲もあるが、このピアノ独奏用の曲の方が私にはいい印象を与えてくれる。
 田部京子はこの無言歌を全曲録音していないのだろうか。あればうれしい。

   
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