Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「晴れ男」健在

2024年02月29日 21時25分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日19時近くに帰宅しようとしたら、ポツリポツリと雨。予報通りの時間に降り始めた。出かけるときに傘を持たずに出かけてしまった。近くのバス停で気がついたが、バスの時間も迫っていたので家に取りに帰るのは断念した。さいわい、ほとんど濡れることなくバスを利用して帰宅できた。家について一服しているうちに本降りとなった。
 現役時代は「雨男」、山では「嵐を呼ぶ男」と言われたり、自称したりしていた。退職後は「晴れ男」になっている。本日も本降りを避けられたのは「晴れ男」の威力だと思うことにした。

 家についてみると、退職者会ニュースの2校が届いていた。じっくりとチェックした結果、いくつか気になるところがある。明日また修正ができるか、聞いてみることにした。あまり細かいことは気にしたくないので、簡単に修正できる範囲でお願いしてみる。

 明日の夕方は整形外科で、両ひざにヒアルロン酸注射の予定。そろそろ様子見で注射の間隔を隔週からひと月おきくらいにする選択もあるようだ。医師と相談してみたい。

 


昨日から「楽天の日々」(古井由吉)

2024年02月29日 09時53分55秒 | 読書



 昨日は、フラワー緑道をのんびりと歩いてから、横浜駅傍のいつもの喫茶店で読書タイム。古井由吉「楽天の日々」(草思社文庫)の最初の5編に目を通した。
 1970年代初頭には長編をいくつか続けて読んだが、その後いつの間にか読まなくなっていた。ほぼ50年ぶりに読むエッセイである。読み続けるのはなかなか難しい文体であるが、今回はエッセイに挑戦である。
 著者独特の文体と思考と思われる個所をいくつか取り上げてみたい。同意・不同意とは別である。

詩をつくるのは興に乗りさえすればまだしもたやすいことだが、さてつくり終えて詩中の一字に心足らわふところがある、これを直すほうがはるかにむずかしい、というような意味のことをたしか清の時代の文学者が書いているのを、永井荷風が日記の中で引いている。さらに曰く、その場で直そうと苦心しても直るものではない、何日も経って、そのことを忘れた頃になり、あるべき文字がおのずと心に浮かぶ、と。・・・・しかし考えてみればかりにこだわりを放下して、文章のおのずと直るのを待つとしても、自分にはその日が来るものだろうか、と疑った。また、ひとつの文字が心に足らわふとは、詩がすでに完璧の域に入っていて、最後の文字を待って張りつめているということではないか。この文の緊張こそがやがて言葉を呼ぶ。」(「夜の楽しみ」)

虚無が物やら形象やらの狂乱反乱を呼ぶとは、虚無が寂滅へ通じるこちらと感じ方がずいぶん違うものだと驚いた。しかしそうでもないか。(島崎藤村「夜明け前」の主人公)青山半蔵の身辺にも、一新によって伝統が壊されて自身の理念も破れかけた時に、化物が跳梁し始めたではないか、と思い直した。混沌の恐怖もまた根は揺るがしがたい単調の相のものであるらしい。これは若年にも老年にも共通することか。」(「病み上がりのおさらい」)

時代がさらに進むにつれて、宗教的な超越の心に支えられることはすくなくなっても、写実はいよいよきびしくなって行ったようだ。近代の反写実や超現実も写実の過激化の結果、あるいは過激化そのものではないのか。極限からまた極限への展開ともいえる。限界に至るそのたびに、写実は厳格になるほどに、その移すべき「実」を解体していくという矛盾域に入る。・・・解体の先に不毛と虚無を見た過激な詩人もいた。絶望がかすかな希望へ通ずるらしい。現実の始まり、つまり「始めの言葉」を待つようなのだ。時代の危機にふれて写実がけわしくなるということも東西の歴史にくりかえされてきたことなのだろう。東日本大地震大津波の惨事の後から、千何百年昔にも東北に今回の規模に劣らぬ大地震大津波のあったことが指摘された。貞観年間のことだという。・・・・ふっと貞観の仏たちの相貌が浮かんだ。写真集をひらけば、烈しい形相の仏たちがあり、峻厳に静まった仏たちがあり、一見柔和な仏たちもあるが、いずれもその面立は深くけわしく、写実が現実らしさを越えそうな境まで彫りこまれている。」(「写実ということの底知れなさ」)

 なかなかすぐには理解できない文章が並ぶ。理解できるまでに時間がかかる。根気よくこの本全体を読み切るということはできないかもしれない。
 少しでも共感できるところがあれば、また読み続けることができると思うが、それを期待してしばらくは頁をめくりつづけたい。


本日もフラワー緑道をブラブラ

2024年02月28日 19時47分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 良い天気につられて、本日もフラワー緑道をプラプラとのんびり歩いてみた。
 カワヅザクラの新しい葉が少しずつ大きくなっている。花だけの時期を過ぎ、葉桜を楽しむ時期になってきた。
 私が思っているよりもカワヅザクラというのは花の持ちが良いようだ。花弁はまだほとんど散っていない。そして新しい緑の葉にも惹かれた。
 すぐそばにあるヨコハマヒザクラはまだまだ蕾が硬く、開花の素振りさえない。

 陽射しに誘われてか、フラワー緑道を散歩する人が多くなった。介護施設の入所者と思われる高齢者が職員らしき人とユックリと歩いてサクラを鑑賞していた。
 植物はこれからどんどんと変化し、さまざまな色を醸し出してくれる。
 


読了「美術の愉しみ方」

2024年02月28日 18時18分03秒 | 読書

   

 昨日「美術の愉しみ方 「好きを見つける」から「判る判らない」まで」(山梨俊夫、中公新書)を読み終えた。

自らの内的対話で作品をつくる作家たちの創造行為は、どちらかと言えば閉鎖的で、内向的である。もちろん作品を通して作家の思考は外に向かって常に発信を続ける。それが根幹であることにかわりはない。けれど自己意識へのこだわりを捨て、人々との直接的なつながりや反応に自分の表現や想像の実体を見出していく方向が回さ託された。そのことが美術の変質の大きな原因となっている。そういう方向に美術全般が舵を切ったわけではない。・・美術の範囲が広がった。人は誰でも創造性をもっており、芸術家になれる。ただし(彼等は)私たちが思い描く芸術作品を作る人ではない。自分創造性を発揮して社会に参加していくことを意味する。」(第6章)

 長々と引用したが、私は現代美術への視点として作者の「普遍性への断念」と感じている。「普遍性」をそもそも信じていない作者がいて、孤立感が制御不能にまで肥大化している。だから鑑賞者や見学者の参加を求めて、普遍性の代償、孤立感の解消に向かわざるを得ないのではないか。ここに自覚的な作者が、新しい時代を切り開く準備をしていると思いたい。そういう私の視点とどういう風にこの作者の指摘が絡まっているのか、考えてみたい。

画家であるからこそ、自分の方法に安定を得ていて、それを搔き乱す新しい方法は認めがたくなる。その波紋は、美術を見る側にも広がり、安定した慣習を破る新しい絵は評価されにくく、冷遇される。」(第7章)

(マルセル・デュシャンの《泉》は)美術作品を創作するひつような手業を拒否している。これが美術となるのは、・・・美術の場に置かれているから美術作品になる。美術なのかどうかは、作品自体の外観や形状からだけで決まるのではない。それがどういう場にあり、どう扱われているかに大きく左右される。作者はそれを逆手に取って、美術でないものを美術にしてしまうのである。その仕掛けそのものが、美術なのである。展覧会に出品されている、美術館の展示室に置かれる、画集に出ている。そういう美術のための場が、美術作品を作っている。」(第7章)

肝要なのは、柔らかい中心軸を持つことである。自分の基準に縋りつくのではなく、右往左往を愉しみながらゆったりした構えを持つことが、判らないと感じた美術を近しいものに変えていく。」(第7章) 


今年はうるう年だった

2024年02月28日 12時08分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 朝いちばんで、退職者会ニュースの作成・印刷をお願いしている印刷所から初校が送信された。数か所の訂正をお願いして、2校待ち。予定通りの日程でこなしてくれており、とてもありがたい。
 本日は風もおさまり、予報通り穏やかな陽射しがうれしい。強風注意報も解除された。窓から見る限り風はとても弱い。この二日間の強風とは打って変わって静かな日である。

 本日は予定は空白。妻は私の親と買い物に出かけた。一人で昼食後、のんびりと出かけてみる。

 ふと、あらためて再認識。今年はうるう年、2月は明日29日までであった。昨年末スケジュール帳を作成したときは29日まできちんと作成していたものの、その後は意識していなかった。

 


二日続けて強風注意報

2024年02月27日 21時17分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は、最大瞬間風速は19.5mの北風。昨日とほぼ同じ強さである。強風・波浪注意報が解除されていない。本日は朝出かけるとき帽子を押さえながらバス停まで歩いた。マスクも防寒を兼ねてしっかりとつけて歩いた。強い風の影響で鉄道にも遅延などが発生したらしい。
 帰り際は風はおさまっていた。しかし先ほどから再び強い風の音がするようになった。なお、最高気温は12℃とほぼ例年並みの気温だったが、とても寒く感じた。

 明日は、風は少しおさまり、最高気温も少し高くなるようだ。穏やかな日となってもらいたい。明日の予定は今のところは空白。

 本日読み終わった「美術の愉しみ方」(山梨俊夫)の覚書は明日にアップ予定。本日はそろそろ眠くなってきた。酔いは醒めかかっているものの、瞼が閉じかかってきた。

 


カラオケ取材終了

2024年02月27日 20時31分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 某組合の会議室を借りたカラオケの一次会(複数の退職者会の合同)が終了し、会場を後にした。一次会の会場では、日本酒半合とビール1杯で10人の歌い手がマイクを握るたびにカメラマン役。毎年のことであるが、結構な運動量である。
 その後、私の属する退職者会の面々は二次会に繰り出した。当初は居酒屋にいくのかと思っていたら、一人1曲では歌い足りなかったとみえて、二次会はカラオケ店へ。10人がカラオケ店で2時間半はたっぷりと歌った。
 私はいつものように歌うことはなく、静かにハイボールを4杯ほど飲みながら半分は寝ていた。

 二次会の清算も終わり、私は横浜駅近くのいつもの喫茶店で、夕食代わりにサンドイッチとコーヒーのメニューで30分ほどの読書タイム。酔ってはいたが、目が冴えて、うたた寝はしなかった。

 


カラオケにお付き合い

2024年02月26日 22時59分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日はカラオケにお付き合い。私は歌わないが、取材ということでカメラを持って参加。カラオケそのものが好きではないが、「仕事」の一環である。私は歌うことは絶対にない。歌われる歌で好きな曲もあるので、聞いてはいるが・・・。カメラマン役とお酒を飲む役は引き受けている。
 終了後はまた打ち上げで、夕方から会場の近くの居酒屋に繰り出す。カラオケ開催時よりも打ち上げの宴会のほうが少人数ながら賑やかである。

 昔は職場の仲間と行くと強引に歌うように強要されたり、宴会芸の披露を求められたりしてとても嫌な思いばかりさせられた。入ったばかりの時は逃げ回っていたが、そのうち明確に「ノン」と宣言するようになって定年までそれを通した。
 労働組合の退職者会のカラオケは歌いたい者だけが歌う、ということを原則にしているのを確認したので、取材ということでカメラマンとして参加している。

 カラオケや宴会芸の強要、囃し立てというのは、本当に嫌な慣習である。これが「日本ならではの、他国に誇るべき慣習」なのだと、就職したてのころ50代の先輩に説教されたことがある。
 歌や芸がないほどお酒と料理は美味しくなる。こんな「偏屈」がいたっていいではないか、と「無芸大食」と宣言して、40年近く開き直って生きて来た。 

 


カワヅザクラの葉が眩しい

2024年02月26日 21時17分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 フラワー緑道のカワヅザクラは葉っぱが出てきた。眩しい新緑と紅い花弁の配合がいい。葉の緑がもう少し濃くなると、あっという間に花が後景に追いやられてしまう。

 ここ数日が見頃であろう。地面には少しばかり花弁が散り始めていた。
 多くの人が通り過ぎるときにスマホをかざしてシャッター音を鳴らしていた。
 写真で見ると陽射しがてあって暖かそうであるが、本日・明日は北風が強く冷たい。本日は最大瞬間風速が21mにもなった。どんな影響を与えるだろうか。

 ヨコハマヒザクラはまだまだ蕾が硬く、いつ咲くとも想像できない。しかしほころび始めるとあっという間に開いてしまう。


頑張りすぎたか

2024年02月26日 20時41分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は奮起(?)して、神奈川大学の生協書籍部と横浜駅での所用と買い物、休憩を兼ねた読書タイムそしてかかりつけ医の内科と薬局に寄るという体力勝負の1日をこなした。横浜駅に向かう途中でバスを降り、少しだけ散り始めたカワヅザクラも見てきた。
 少し欲張りすぎてだいぶお疲れモード。喫茶店での読書タイムも30分程度にした。帰宅してみると歩数計は1万2千歩越え。明日、膝が痛み出すか心配になってきた。

 生協で注文しようとした本は3冊とも棚にあり、支払いはまだ先だと思いこんでいた。予定外に散在してしまった。
 購入したのは、①「日経サイエンス4月号」、②「風俗画入門」(辻惟雄、講談社学術文庫)、③「都市空間の怪異」(宮田登、角川ソフィア文庫)の3冊。

 ①は、先月3月号を購入しようとしたが、特集とはいっても4頁だけのものだったので、今月号まで待った。今月号は18頁あり、読みでがある。私が理解できるか、心配はある。
 ②は、1986年の本の文庫化で、2月に発行されたばかり。
 ③は、2001年の本の文庫化で、1月に発行されたばかり。

 読書のテンポを少しばかりあげないといけない。

 


早起きが苦手

2024年02月25日 22時23分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日は最高気温は13℃となっているものの、北風が8mと強いとの予報。湿度によっても違いがあるらしいし、一概には言えないが、セオリー通りに単純計算では体温温度は5℃となってしまう。
 一応、神奈川大学の生協で本を注文の上、横浜駅近くのいつもの喫茶店で読書タイムとするか、いつものかかりつけの内科で降圧剤の処方をしてもらってから、喫茶店に寄るか。気分次第、天候次第と言ったところ。
 生協と病院では方向が違うし、情けないことに、早起きは苦手。3個所を一日でこなすのは最初から考慮の外である。睡眠時間は7時間から7時間半なので、寝すぎているわけではない、と思う。


怖い体験

2024年02月25日 19時57分52秒 | 思いつき・エッセイ・・・

   

 横浜駅界隈の商業ビルは混雑していた。しかし有隣堂などはだいぶゆとりはあった。昨日は有隣堂もとても混雑していて、レジには20人ほども並んでいたこともあり、購入しようとした本は明日以降、神奈川大学の生協に注文することにした。
 本日もレジには並んでいたものの、昨日ほどではなかった。しかし本日は持ち合わせがなく、断念。1割引のほうが私にはありがたいことも確かである。

 さて、本日は怖い目に合った。地下街の便所から出ようとしたら、扉を勢いよくあけて、入って来た人がいた。出ようとしていた私を「邪魔」と言いながら手で押しのけて、入ってきた。危なく便所の中で転びそうになり、壁に手をついて持ちこたえた。「危ないよ」とひとこと言ったが、聞こえたのかはっきりしない。私よりかなり高齢な人なので、一応「泣き寝入り」とした。
 その人は、特に切羽詰まって焦っていた様子はなく、中で並んで待っていた。エレベーターや電車などと同じく、狭いところから広いところに出る人のほうを優先しないと、中で人が詰まってしまう。どうも便所についてはこの道理は通用しないようで、いつも出入りの時には気を付けいてるが、回避しようがない場合もある。
 特に膝を痛めてからは恐々とドアの前に立つことにしている。便所の中で転ばなくて助かった。

 


冷たい雨

2024年02月25日 17時06分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日とは違って冷たい雨が終日降っている。明け方には雪かもしれないという予報は横浜では外れた。8時半ころから雨が降り始めた。
 それでも頼まれた買い物のために、横浜駅のスーパーへ。2品頼まれたもののうち、1品のみ調達できた。
 横浜駅の地下街は人混みがすごかった。3連休の最終日、旅行から帰った来たタイミングであったのか、あるいは遠出を諦めて、横浜駅界隈での食事・買い物に切り替えたためか。行き帰りのバスも地下鉄もはがら空きであったので、車で横浜駅まで来た人が多いと思えた。

 免許も車も持たない私は、傘持参の徒歩と公共交通のみの生活を続けている。年をとってみると、不器用な私にとって、横浜界隈ではそれで充分便利で、安全で、健康的である。旅行にもまったく支障はない。ただし公共交通の便や通勤・買い物に支障がある地域には住めそうもない。
 仕事柄、免許が必要とは言われたが、さいわい職場の仲間の理解があり、定年まで免許を取得せずに何とか業務をこなすことが出来た。

 昨日見たカワヅザクラやシャクナゲがどうなっているか、見たかったが、頼まれた買い物を急いで持ち帰る必要もあり、断念。
 明日は明け方以降は晴れるようなので、その時にでも再訪することにした。

      


「美術の愉しみ方」その3

2024年02月24日 21時49分27秒 | 読書

 本日は「美術の愉しみ方」(山梨俊夫)の第4章「比べる」の後半を読み終え、第5章「敷居をまたぐ」全体、そして第6章「参加する」を1/4程読み終えた。



 アングルとセザンヌの二人の画家の肖像画を比べながら、
ふたりの個性の差とともに、美術の変質も見ることもできる。描き方の違いにあるだけではなくて、物の見方、絵にするために何を抜き出せばいいかについての考えと一体となった絵画思想の隔たりが元になっている。絵同士のどこかどう違うかを見分け、それを言葉にする作業は、絵をめぐる冒険なのである。」(第4章)

(日本の仏教とイスラムを比べると)絵師の視点のあり方、解放と秘匿という対照的な聖所の扱いに、それぞれの宗教性が表われる。四方へ広がる絵図、四方から閉じていく絵、それらを対比すると、絵を描く人間の視点で異なる絵の構造の差から、宗教文化の違いが浮かび上がってくる。」(第4章)

 第5章の前半、美術館の学芸員にまつわる諸エピソードは想像していたとおりの苦労話が綴られ、とてもおもしろく読むことが出来た。同時に普遍的な職場のあり様にも通じるものがあり、興味深かった。引用は省略。
 ここは美術館の学芸員、館長を経験した著者ならではの章だと思う。そして私が興味をひかれた箇所である。

   


フラワー緑道のカワヅザクラ

2024年02月24日 19時24分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 久しぶりに日光を浴びながらフラワー緑道を歩いた。散ってしまったかと心配したカワヅザクラはちょうど見ごろ、まだ散り始めてはいなかった。水仙も咲いて、春が始まっていた。ヨコハマヒザクラはまだ蕾は硬く、色付いてすらいない。
 びっくりしたのはシャクヤクに蕾がたくさんついていたことと、いくつかはすでに開花していたこと。
 本日は「平家物語」(新潮日本古典集成)3冊を手に入れ、サクラも見、横浜駅近くのいつもの喫茶店で読書タイムも確保し、膝の痛みもなく快適なウォーキングを愉しみ、満足な日であった。ただし横浜駅界隈の人通りはとても多かった。