大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校演劇・クラブはつらいよ 夏編三

2012-07-31 06:56:57 | 高校演劇基礎練習
クラブはつらいよ 夏編三

 夏マッサカリ! いかがお過ごしでしょうか? ごくまれに、この時期、地区で発表会をもたれているところもあるが、おおかたのクラブは開店休業。せいぜい合宿をやったり、地区の連盟主催の講習会。熱心なクラブは夏の全国大会を観にいっておられるかもしれない。しかし、自分たちの部活はほとんどやってない……というのが実情ではないだろうか。
 最初に、おことわりしておくが、講習会や合宿を全否定するつもりはない。ただ、合宿にしろ講習会にしろ、「やった!」「参加した!」という精神的な充足感はあっても、即、実力には結びつかないと申し上げておく。
 とくに合宿は、費用対効果の面で問題があるので「やめときなはれ」と、前回申し上げた。正直にみんなでワイワイやりたいのなら、合宿などという大義名分をかかげずに、ただのヴァケ-ションにしてしまったほうがいい。遊ぶときは遊ぶ。そこに国会議員さんの海外視察のような、変な名目はつけないほうがいい。
 講習会に効果がない。と言うと、お叱りを受けるかもしれない。しかし「ほんまに、効果はうすいでっせ!」と言い切ります。講師の先生方は、その道のプロであったり、特別に技能優秀な顧問の先生であったりする。演技、演出、戯曲創作、道具、照明などの分野に分かれてワークショップのかたちで行われることが一般的であろう。講師の先生方は、たしかに熱心に教えてはくださる。そして、ここでコムツカシイ理屈ばかり覚えて、それを自分たちのクラブに持ちかえり、ハンパな理解のまま部活に反映させる。コンクールなどで、やたらと大仰な装置を持ちこんだり、コムツカシイ照明プランをもってきたりする。コンクールは多数の学校が一日に十公演近くやるのである。むつかしいプランや装置は、仕込みやリハに余計な時間と労力をとられるだけで、自他共に無駄で、迷惑なことである。演技、演出については言わずもがな。たった、数時間の講習で「わかった!」となれるほど生やさしいモノではない。わたしも、過去何度か講師をつとめたが、演技、演出、戯曲創作で実をむすんだことはない。 いくども、この「クラブはつらいよ」で触れてきたことであるが、部活は全国的に危機的な状況なのである。人と時間と金がない。演劇部もその例外ではなく。部員が五人以下というクラブがほとんどである。そこに優れているとはいえ、昔の(団塊の世代や、そのジュニアたちが現役であったころ)メソードは通用しない。だから、クラブはつらいのである。だからこそ、そのつらいクラブに合った、部活のメソードこそが、今必要なのである。
 かつて、「演劇をとりまく環境が悪くって」とこぼした、アマチュア演劇の指導者に宇野重吉さん(わかりまへんやろなあ……寺尾明のお父さん。劇団民芸の創設者の一人。二年前に亡くなった「となりのトトロ」の、おばあちゃんの声をやった北林谷江の仲間……わからん人はネットで検索してください)が、こう言いました。「座敷一間ありゃ芝居なんてできるよ」 また実際、新派の大御所、島田省吾さん(緒方拳の師匠。わからない人はネットでどうぞ)は、マンションのリビングで一人芝居をやっておられました。
 なにが言いたいかと言うと、この危機的な、つらいクラブの状況では、原点に立ち返らなければならないということである。演劇の原点とは、すなわち演劇の三要素。役者、脚本、観客の三つ。それゆえに、この「クラブはつらいよ」では、それ以外のことには、あえて触れない。しかし講習会で一つやって欲しいことがある。それは、芝居をやるときのマナーである。コンクールなどで、優秀な成績を残したクラブが案外マナーが悪くヒンシュクをかった例をたくさん見てきた。マナーについては後日余裕があれば触れたいと考えているので、ここではご容赦を。
 この夏休み、私服を着て図書館にいき至福の時間を過ごし雌伏することができているであろうか? 四月からこっち、あなたは、きみは、もう何本、本が読めたであろうか? 何本芝居を観ることができたであろうか? 一度自分の頭の中で中間決算をしてみてはいかがであろうか。夏休みは、自分の頭の中の演劇という部屋の大掃除をやって、クローゼットの中味を増やす時である。

【基礎練習】
今回は年齢や、性別による表現の訓練について考えてみたい。以前から、高校生が、自然に表現できる年齢の幅はプラスマイナス五歳程度だと言ってきた。しかし、そう制約してしまうと、やれる本は、かなり限られてしまう。そこで、わたしとしては反則なのであるが、年齢と性別を超えた演技を少し考えてみたいと思う。
(1)子どもを演じる。子どもといっても、もう幼児は無理……かもしれないが、あえて挑戦してみる。幼児や児童の時期は身体の準備運動期間である。公園や街で見かける子どもをよく観察してほしい。とんだり、はねたり、はたまた無意味に叫んでみたり。笑ってみたり。一見無意味にみえる行動だが、そこには子どもの心理がうらづけとしてあることを見抜いてほしい。
○横断歩道 子どもが四五人駆けてくる。二人渡ったところで、信号が変わる。残った子どもたちは、一瞬たじろいだり、悔しがったりする。渡りきった子どもたちと、横断歩道を隔ててなにか、会話がある。信号と、向こう側の仲間を交互に見る子。フライングしようとする子。それを止める子。そこから、じゃれ合いになったり、ケンカになったりもする。やや長い信号。待ちきれずに「待て!」といわれた子犬のようにチョロチョロし、やがて、信号が変わるやいなや、声をはりあげながら、横断歩道を渡る子どもたち。
 以上の状況を、いろんな設定でやってみる。公園に遊びに行く途中。遠足の日に登校する途中であった。友だちの家に新しく子犬が来たので見に行く途中。先生が入院しているので、そのお見舞いにいく途中。みんなで遊んでいたのが、急に雨が降り始めたので、急いで帰る途中。道路で倒れている人を見つけたんで、急いで大人を呼びにいく途中。などなど、
○ダールマさんが、こーろんだ! むつかしくはない。子どものころ、だれでもやった遊びである。高校生なら、数年前までは、やっていたと思う。そのころの感覚を思い出して、自分の中にうかんでくる無邪気なドキドキやハラハラこみ上げてくる、わけわかんない嬉しさを、ほんのちょっと増幅してやってみよう。喜怒哀楽の表現にブレーキがかかって、なかなか演技に入りこめない役者志望のきみには、いい練習になるだろう。
(2)老人になってみる。 老人になれというと腰(正確には、背中)を曲げる人がいるが、まちがいである。腰は落ちるものである。股関節を軸に骨盤が後ろに傾き、それをおぎなうために、膝が前に出て背中が曲がるのである。これを「腰が落ちた」という。歩くときも、若い人は、足と同時に少しではあるが腰が前に出る。これを少し誇張すると外人さんらしくなり、さらに誇張するとモデルさんの歩き方になる。研究生だったころ、よく「腰で歩け」と言われたが、このことである。老人になると、この「腰」が前に出なくなる。骨盤が動かなくなり、「足で歩く」状態になる。若い人も疲れると、こういう歩き方になる。駅や街で、お年寄りをよく観察しよう。お年寄りといっても、近頃は多様で、一見若い人と変わらない人もいるが、やはりご年配の共通点がある。ほとんど無駄な動きはしないということに気づくと思う。高校生も子どもに較べると、それほどでもないがやはりガサゴソし、感情が、そのまま動きにシャープに反映されていることに気づくと思う。
○横断歩道 老人が四五人やってくる。最初の一人が渡ったときに信号が変わる。残されたうちの一人が「先にいけよ!」というが、渡りきった老人は耳が遠くて聞こえない。そのうち無駄と悟り沈黙になる。空を見上げる者(光が目に入りクシャミになる) じっと信号を見つめる者(ただ、途中でなぜ信号を見つめていたかは忘れてしまう) アメをしゃぶりだす者。嫁などの悪口をつぶやく者。そのうち信号が変わるがしばらくだれも気づかない。ややあって、信号の変わったことに気づき、あわてて横断歩道を渡る。これを、いろんなシュチュエーションでやってみる。
○だ~るまさんが、こ~ろんだ。 子ども編でやった「だるまさんがころんだ」を、老人版でやってみる。詳しくは書かない。きみたちの観察力と想像力でやってみよう。
(3)性別を替えてみよう。本番としてはともかく、基礎練習では、一度やってみてもいいと思う。とくに、あなた、きみが演出をやるのだったら、恥ずかしがらずにやってもらいたい。異性の服装をしただけで「あ、こんなにちがうのか!?」と気づくことが多い。服の打ち合わせが男女では逆である。まるで、右利きの人が左手でご飯を食べるような違和感があるだろう。女の子なら、ズボンをはいてみよう。今の女の子はズボンにはあまり抵抗がないだろう、日常的にはく機会があるから。しかし自分が男と想定して男装してみると感覚が違う。女子校が、ときに女子に男役をやらせることがある。いやらしくはないが、どこか男になりきれず、違和感がのこる。宝塚の男役は、男が見ても男らしい。彼女たちは、宝塚音楽学校のころから、男役、娘役に分けられ、訓練されている。なにも宝塚をやれというわけではないが、一度、戯曲の一部か、わたしのコントのような短いもので試してみるといい。案外むつかしいことや、男役への向き不向きがわかる。男の子も一度スカートをはいてもらいたい。内股が直接接触する感覚に驚くと思う。「女っちゅうのは、こんな感覚で生きとるんか!?」という発見がある。男女共学校なら、『ロミオとジュリエット』の第二幕第二場など男女を入れ替えてやってみるのもお勧めである。机を四つほどくっつけてバルコニーとし、そこに男のジュリエットを立たせ、床をキャピュレット家の庭に見立てて女のロミオをひざまずかせ、世界で最高の愛の語らいをやってみよう。異性を演ずるのは、まさに演技である。地ではできない。「演ずるということ」を、演るほうも、観るほうもイヤでも感じなくてはならない。また、演出する者としては、演出することの意味 を、これまたイヤでも感じなくてはならなくなるだろう。役の入れ替えの効能は他にもあるのだが、紙幅の制限があるので、別の機会に述べることにする。

今月のコント【始まらない授業】
先生(老人) なんだ、みんなどこへいったんだ(教室や、廊下を見わたす)友子(児童) 先生、なにやってんの?
先生 ああ、友子か。他の子たちはどうしたんだ?
友子 ああ、体育の授業の後かたづけやってるよ。
先生 また、中井先生か。どうも今の若い先生は……おっと、先生の悪口じゃ ないよ。
友子 悪口じゃないの?
先生 ああ、中井先生は熱心な先生だ。そう言おうとしたんだよ。
友子 フフ ほんとかなあ?
先生 友子はどうしたんだ、また体育休んだのか?
友子 おなかが痛かったから。ほんとだよ。
先生 いつも体育やすんでるんじゃないか。
友子 そんなことないよ。
先生 先週は頭イタだったな。
友子 ちがうよ、めまいだもん。
先生 ほら、やっぱり休んだんだ。
友子 あ……
先生 ハハハ、友子はうそのつけない子だ。先生は、友子のそういうところが 好きだよ。
友子 ウフフ、先生って、ほめてくれるのうまいね。
先生 本当のことをいってるだけさ。
友子 ほめてくれたから、これあげる。
先生 なんだ、アメチャンか。
友子 ほんとは持ってきちゃいけないんだよね。
先生 そうだよ、でも、これは友子の真心だから(ポケットにしまおうとする)
友子 今食べてくんなきゃ、やだ。
先生 でも、もうすぐ授業だから。
友子 ちっこいアメだから、大丈夫だよ。いざとなったらガリってかめばいい よ。
先生 ハハ、そうだな(アメを食べる)
友子 わたし黒板ふくね。
先生 正確には、ホワイトボードだけどな。
友子 そうだね。でも黒板っていったほうが好きだ。
先生 先生もだよ。やっぱり教室には緑色の黒板でなきゃなあ。
友子 ミドリ色なのに、どうして黒板ていうの?
先生 ああ、昔はほんとうに黒かったからさ。先生が子どものころは、ほんと うに黒板だった。
友子 ああ、ここんとこどうしても消えないよ。
先生 ホワイトボードってやつは時間がたつと消えにくくなるんだ。どうれ、 先生がやってみよう……ううん、こりゃ雑巾で水拭きしなきゃだめだなあ。 友子すまんが、ぬれ雑巾もってきてくれないか。
友子 はいはい。
先生 はいは一回だけ。
友子 はーい(退場)
先生 こりゃ、英語の授業だなあ……まったく、小学校から英語教えるなんて、 文部省はなにを考えてんだか、ええ邪魔なIDカードだ。教師は犬じゃない んだからな、なんでこんな鑑札みたいなもんぶらさげなきゃならないんだ! ほんとに今の若い教師は……体育も、英語も、時間はまもらん、黒板は消さ ん。暇さえあれば、パソコンの前に座っとる。もっと子どもと……どうも歳 かな、疲れやすくて……

     先生机につっぷして、眠る。そこへ友子が、雑巾の入ったバケツを     持ってもどってくる。

友子 先生……寝ちゃった(スカートのポケットから携帯を出す)友子です。 先生、あ、佐藤さんまた会議室にきてます。ええ、眠らせてあります。ヘル プ願います。先生にとっちゃ、いつまでも小学校三年の友子……びっくりし ましたよ、初めてここに配属になったときは……今度、ほんとの黒板置いて もらえるように、所長にかけあっときますね……あ、ヒグラシ。もう夏も終 わりかなあ……林間で先生教えてくれましたよね。ヒグラシが鳴くともう秋 が近いんだって。もう、秋か……

     介護士の亜紀が車いすを押してやってくる。

亜紀 ごくろうさま。
友子 おねがいします。
二人 よっこらしょっ……と!
亜紀 やっぱ、友子ちゃん、移動?
友子 ええ、しかたないです。人が足りないのここだけじゃないし。
亜紀 その小学生のなりも、板に付いてきたのにね。
友子 もう、からかわないでくださいよ。これでも一級の介護士なんですから。亜紀 ケアマネになったら、少し楽になるよ。
友子 ええ、先生の授業が始まったら、考えます。
亜紀 ハハ、佐藤さんも、いい教え子もったもんだ。わたしは、新任の女先生 ってとこでやってみるかな。
友子 先生のことよろしくお願いします。
亜紀 まかしときな。
友子 じゃあ、先生、部屋におつれしにいきます(退場)
亜紀 うん、ここの片づけはやっとくからね……授業が始まったらね。か…… もう少しうまいしゃれ言いなよ。ね、ヒグラシの諸君。君たちが小学生にな って……無理か……ね!

     ヒグラシの鳴き声ひとしきり。幕。
 
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タキさんの押しつけ映画評10・バットマン THE DARK KNIGHT RISES

2012-07-29 10:16:28 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・バットマン THE DARK KNIGHT RISES

この映画評は、友人の映画評論家滝川浩一が、身内に流している映画評ですが、面白さと的確な評なので、本人の了解を得て転載しているものです。

 なんと見応えの有る映画なんでしょう。ちょいと感動的でした。こんな凄い作品が、アメリカじゃ賛否両論だそうで……。
 
 本作は165分の長尺です。途中、冗長に感じる部分があるが、ラスト15分、怒涛のごとく総てが明らかになる。そのカタルシスたるや半端じゃ無い。クリストファー・ノーランは現状世界最高のアクション監督です。冗長に思えた部分は、ラストのカタルシスを得る為に必要なストーリーでした。
 とりあえず、本作のビハインドをしらずとも充分楽しめる内容です、多少忍耐力はいりますが、それと、これも毎度のお約束、本作を見る前に、ぜひとも前二作の復習を、これ必修!…以下、ビハインドの説明です。うざったらしくなるので別に読まんでええですよ。バットマンは色んな意味で、アメリカそのものです。
 前作“DARK KNIGHT”製作時、アメリカはリーマン・ショックとイラクの泥沼化で、世界王の座から滑り落ち、自らの進路を見失っていた。そんなアメリカを背負うように、バットマンは強敵ジョーカーを倒しはしたが、彼の罠を破りきれず、総ての悪意を背負って闇に走り去った。
 現在、アメリカが完全に復活したとはお世辞にも言えない。この現状で、バットマンはいかにして復活してみせるのか、これが興味の第一点。 アメリカが、法治国家の仮面の下に自警国家の本性を、未だに隠し持っているのは何度となく書いている。バットマンは、自警団そのものであるが、ピストルを腰にぶら下げて、自分の身は自分で守った時代のヒーローではない。法の支配を意識せざるを得ないのである。即ち、スーパーマンが、飛ぶ前に飛行許可を求めるようなもので、これが彼のジレンマなのである。
 
 しかも、今回の敵、ベイン(前シリーズ「Mr.フリーズの逆襲」にも登場しているが、これは記憶から抹消して下さい)は、今シリーズ第一話に登場のラーズ・アル・グールの下にいた、言わばバットマンの兄弟子に当たる。ここから、正義と悪の二元論ではなく、悪対悪の構図となる。
 バットマンがいかに正義を振りかざそうとも、その底には個人的な復讐があり、彼が現代の自警団である以上、この構図はバットマン世界を支配している。彼は、この構図の中で自らの正義を証明しなければならない運命を背負ってもいるのである。バットマン世界では、常に善と悪の境目が揺らいでいる、今作では、どこにその境界線を引くのか。これは尽きせぬ興味である。ラスト、ベイン一党とバットマン・ゴッサム警察の間に、大ド突き合い決闘がある、拳闘士の古代でもあるまいに…しかし、これは必要な舞台セット、見れば納得いく仕掛けになっている。
 この辺りから、もつれた糸がほどけ始める。ベインは、なるほど強力な敵ではあるが、前作“ジョーカー”ほどの圧倒的な存在感を持ってはいない、このまま最後までこいつがラスボスなのか? だとすると、本作はつまらん映画に終わるんじゃないのか?
 まぁ、他にも幾つかあるが、この辺にしておこう。こんな、何じゃかんじゃ、も一つ言えば、こんな程度の役にわざわざマリオン・コティアールを使ったんかい?ってな疑問にも、ラスト15分に総て答えが用意されている。このラストは、ある意味「ユージュアル・サスペクツ」以上である。後は、あなたが自分の目で確かめるだけです。この作品が、あなたを100%たのしませてくれる事を信じて疑いません。
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タキさんの押しつけ映画評9・おおかみこどもの雨と雪/メリダとおそろしの森

2012-07-21 19:56:29 | 評論
おおかみこどもの雨と雪/メリダとおそろしの森


 奇しくも、成長と葛藤の物語が二本揃いました。しかも「メリダ~」は、タイトルからも判る通り、女の子が主人公(ピクサーアニメ始まって以来)、 日本じゃ 「ナウシカ」以来、野郎は脇役に追いやられ、ヒロイン中心の系譜が出来上がって久しい。あの「紅の豚」ですら、結局の所、女性の手のひらの上でした。
 こんな点でも日本のアニメは30年以上アメリカに先んじてます、エッヘン…いやまあ、威張る話やおまへんなあ。 両作品は家族の成長を描き、「おおかみこども~」は13年間の、「メリダ~」は2日間の物語です。どちらも感動ストーリーで、極めて良く出来上がっています。但し、ちょいと不満もあります。 
 先に、それに触れるとすると、まず「おおかみこども~」の方は、作画の出来の悪いシーンが有ること、恐らく外注に出されたのだと思われるが、明らかに荒れた画のシーンが有り、集中が切れる。
「メリダ~」の方は、さすがに世界最高のアニメスタジオ、手書き・CG共に欠点無し、メリダのびっくりするような赤毛の質感、重要キャラクターの熊の存在感、等々素晴らしいの一言。
 ただ、「メリダ~」への不満は、これは日本語タイトルの付け方と予告CMの作り方に問題が有るのですが、まず、本作の原題は「BRAVE」 勇敢なっちゅう意味です。「おそろしの森」は大して恐ろしくはありません。昔のスコットランドがバックグラウンドに成っています、イギリスの森は、神秘的ではありますが、ドイツ・東欧の「黒き森」のように恐ろしさをあまり内包しません。不思議なもので、アニメで作るのですから、いくらでもおどろおどろしく作れそうなものですが、これがそうはならないんですなぁ。自分の運命を変えるべく、森の魔法使いに魔法をかけて貰うのですが、その魔法のせいで戦争になりかける、魔法は、かけられて二日目の夜明けを迎えると解けなくなる。さあ、これからどんな大冒険が……ありゃりゃ~こいつは少々期待したのと違う。ふ~ん、そうなるんかいな位のお話…決してつまらない訳ではないが、予告編から想像したのはもっとスペクタクルな冒険なので、ちょいと期待をはずされる。

 粗方の責任は、作品ではなく、CMの作り方にあるのですがね。その点「おおかみこども~」は、家族の13年間を描き、自分の生きるべき道をいかに見出すか、じっくりと語って行く。やがてやってくる選択の時は、物悲しくもあるが、それは一家の問題に止まらず、もっと大きな自然への回帰、もしくは自然自体が自ら失われたものを修復しようとする営みとの出会いとでも言えるシーンに成っています。家族のお話から、もっと大きな世界を垣間見せるのは、宮崎駿のストーリー世界の作り方と同じ、細田守が宮崎駿の後継者だと言われる由縁です。「メリダ~」は、その点、短時間の物語ですが、その分時間が限られサスペンスフルなストーリー構成に成っています。
 いずれも、最大の見せ場を語るとネタバレになるので難しいのですが、日米の、全く違うストーリーながら、出来ればどちらも見て欲しい。この二作は、互いに補完しあっているように思えてなりません。奇しくも同じ日に封切られたのは、何かの「縁」があるような気がします……。
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タキさんの押しつけ演劇評論・三谷幸喜『桜の園』

2012-07-18 07:36:52 | エッセー
タキさんの押しつけ演劇評論・三谷幸喜『桜の園』


 タキさんは、今時、パソコンをやらないIT原始人。わたしはパソコンはやるけども、携帯電話を持たないIT原始人。で、原始人同士でつるんで……いえ、わたしが代理店になって流している演劇評です。


 三谷演出、チェーホフ作「桜の園」見て来ました。
 全く、この芝居はこう演るのが正しいっていう見本みたいな芝居でした。
「桜の園」は悲劇として、連綿と伝わってきたのですが、 とは言え、これら悲劇も、正統歌舞伎と同じく、日本演劇の宝である事に間違いは無く、そこまで否定はしませんが、このままでは観客は減るばかりなのは自明でありました。
 マイナーな舞台で喜劇として演じる事は、これまでもあったのかも知れませんが、今回、三谷幸喜というメジャー中のメジャーが「桜の園」を喜劇として蘇らせたのは、この芝居にとってどれだけ幸せな事であったか、どれだけエポックメイキングな事件であったか、計り知れないものがあるのです。今後、本作を上演するに際して、この演出が、一つの指標になるのは間違い有馬線。
 
 さて、今回の芝居そのものですが、まず、青木さやかにヴォードビルを演じさせて、劇場の空気を和らげておいて、それでも足りず、観劇に対する注意をまずロシア語で流し、通訳文をその後に付ける。曰わく「携帯の電源は切って下さい」云々。ところが、途中で「ピロシキには二種類有ります」なんぞと入りだし、つまり「あなた方がこれから見る芝居は今までのとはチョトチガウヨ」と二重の仕掛けで伝えている。これで劇場は完全に喜劇モード、見事な導入です。
 今回の公演で、三谷幸喜がどれくらい改変したのか、どこまでギャグをかましてあるのかが、観劇の見所でした。照明が入り、そこは、桜の園の屋敷の子供部屋。パリから戻って来る、ラネーフスカヤを待ちわびる人々…第一声が入る…意外や、殆ど原作のままである。
 しかし、これまでの芝居とはセリフのニュアンスが違っている。ギャグなど入れずとも自然に笑いが起こる。一言一句覚えている訳ではないが、これは見慣れた「桜の園」の冒頭シーンに違いない。しかも、驚いた事に、人間関係が一目瞭然に理解出来る。
 ロシア戯曲のネックは人物の名前に馴染みが無く、また、やたらと重々しく演じられる為、セリフに込められた意味がなかなか解らない……ちゅうことは、当然人間関係を理解するまで暫く時間がかかる。この枷が、少なくとも半分無くなっている、これだけでも事件であります。以後、ちょっとしたギャグ的セリフは入るものの、基本、元のテキストのままです。やはり、チェーホフは本作を喜劇として書いたのだと確信しました。

 三谷幸喜のこの芝居の読み解き方は間違っていませんでした。以降、登場する人物たちが、皆さん少しずつズレた人々で、それが明確に示されるので、各人がそれぞれにそこはかとなく可笑しい。
 筆頭は、やはりラネーフスカヤ/浅丘ルリ子、天然と言うより、自然…故に、彼女は自分の立場が解らない、理解する気もない。ただ無邪気に、無防備に、今や大きくうねる社会を渡って行こうとする、そこに彼女の悲劇が有るのだが、浅丘はそれこそ自然体で演じている。まるで、ラネーフスカヤその人が、そこに佇むようである。まさに、絶品。
 次いでは、これも無邪気ではあるが、新しい世界を積極的に生きようとするアーニャ/大和田美帆とトロフィーモフ/藤井隆が初々しい、これまでも藤井を単なる芸人と思った事は無かったが、彼は、この芝居で間違いなく1ランク上に上がった。
 三谷は、何もかもを笑いに変えた訳ではなく、例えば、三幕幕切れ、ロパーヒン/市川しんぺーが「桜の園を買い取ったのは、農奴の倅のこの俺だ!」と叫ぶシーンはそのままにしてある。ただ、ここに至るまでが笑いの連続なので、かえってこのシーンの残酷さが浮き上がる。ロパーヒンが始めから終わりまで、ただ一人状況を正しく捉えている。しかも、善意の人であるのに、全く受け入れられない。市川氏は、この役を極めて誠実に演じたが、この日は少々お疲れだったようで声が飛んでいた。それが力みに繋がったようで、声が正常であれば違う演技だったとおもう。
 これも没落貴族のピーシク/阿南健次、この人、何をやっても飄々と渡って行くのだが、今一乗り切れていなく感じた、或いは旧来のやり方に引きずられているのか? 本人は、そんな事はないと言っているが…
 旧来のやり方に拘りが有りそうなのは、ワーリャ/神野三鈴、しかし、彼女は三谷演出に添おうと努力しているのが良く解る。今後、大化けするとすれば、この人だろう。
 藤木孝/ガーエフは、完全に旧来の演出で演じているのだが、今思うと、これも三谷の計算なのかも知れない。
 江幡高志さんが老召使いフィールスを演じている。私は、この滅び行く旧秩序を体現するこの役が大好きです。誰も居なくなった桜の園に一人取り残され、あきらめたように子供部屋で眠ってしまう老人の姿に涙が止まらなく成るのですが、今回は不思議な事に涙は出ず、ほのかな安らぎを感じました。それだけ、三谷の、この芝居の世界に対する優しい視線が、本作の一番深い部分を見つけていたのだと思います。それはそのまま、チェーホフが自分の生きた時代に向けた視線だったのかな…なぁんて思ったりしとります。
 
 この芝居の、いつの分がディスクになるのか判りませんが、その時には、桜の園の台本を手に、どこにレジが入っているのか、三谷演出を解剖するように見てやろうと、手ぐすね引いて待っておりますです。
「桜の園」を良くご存知の方々へ、本来一幕と終幕が子供部屋で、二幕が庭、三幕広間なんですが、本作は、全て子供部屋で展開します。その分、違和感を持つ向きもおられるかもしれませんが、全く自然な運びに成っていますし、今回その方が良かったように思えます。桜の園の幸せな思い出は、総てこの部屋に由来する訳ですから、かえって象徴的な扱いだとも考えられると思います。
 まだまだ書きたい事はあるのですが、この辺にしておきます。際限が有りませんし、後は、機会があれば、ご自分の目と耳でご確認下さい。長々とお付き合い、ご苦労様でございました。では、また週末に、今週は アニメが二本、乞う!ご期待
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タキさんの押しつけ映画評・8「ヘルタースケルター」

2012-07-16 07:43:30 | 評論
タキさんの押しつけ映画評・8「ヘルタースケルター」

 いやいや、すげぇでんす。見ないでいいよ、じゃなくって「こんな映画は見ちゃいけない!」一本。  いや本間、久し振りでんなぁ、ここまでたった一言で切って捨てられる作品は。いやぁ、ヒデエもんでした。
 原作と監督、どちらにより責任が有るのか(原作は今読んでいるところ。嫌いな絵柄なので進まない)よう判りませんが、設定は古いわ、セリフは臭いわ、……兎に角、薄っぺらい作品で、見ていて苦痛。上映127分が3時間位に感じられ、映画中盤で「まだ終わらんのんかい」とイラつく。
 原作は16年前の連載らしいが……知らんなぁ、こんな漫画。私ゃ自他共に認める漫画読みでんす、どんだけ嫌いな絵柄でもエポックメイキングな作品は大概読んでいるつもりだが、まぁったく知らんなぁ。今、半分位読み終えたが、今作の出来の悪さの半分は原作に責任が有りそうだ。 売れっ子モデルがしゃぶり尽くされ、消耗して行くが、それでも自分の姿(自己を曝す…ではなく、あくまで外面だけ。しかし、姿を曝すのは、いかに取り繕っても、自分の内面を曝す事になることを理解していない)を世界でしか生きて行けない。

 そんな悲惨で虚飾に満ちた女の物語だが…描き方が、全く薄っぺらなステレオタイプ。4~50年前ならいざ知らず、16年前にこんな設定・構築の作品がエポックメイキングであった筈がない。それをまた、なんで今頃、わざわざ映画化してみせるのか、これまった理解不能。あまりにも類型的かつ安っぽいストーリーテリングなので、主人公に共感も、嫌悪感すら感じられない。蜷川監督の写真家としての感覚なのだろう、被写体を美しく見せる事が重要であって、世界(人生)の一部を切り取って、そこから真実を覗かせる事には関心が無さそうである。蜷川実花にとって「これが真実だ」と言うなれば、もうなんにも言えない、問題外である。ステレオタイプなのはストーリーだけではない、衣装のセンスもなんだか古いし、色使いも見ていて苦痛(特に“赤”)…なんとまあ、あんたホンマにファッション写真を撮っているプロ? そういえば、前作「さくらん」も、目に辛い映画でした。
 原色で塗りつぶした映画と言えば、中島哲哉(バコと不思議な絵本/嫌われ松子の生涯)を思い浮かべるが、本作に比べれば目に優しい。
 兎に角、スクリーンの中に、生きている人間が一人もいない、リアルのひとかけらも無い。これをリアルと認める事は、主演・沢尻エリカの内面が、この映画の通りなのだと認める事で…どうでもいいが、そりゃあ あまりにも沢尻エリカに対して残酷な話ってもんでしょ。エリカちゃんの裸は、それなりに綺麗だが、全く“エロ”を感じない、これじゃ全く無意味じゃんか。沢尻エリカの裸を見に来ている観客も居ただろうが、はてさて、堪能したんでしょうかねぇ。
 昔(60年代末)、アメリカ製ホラーポルノに、美容整形医師の妻が顔に傷をおい、それを治す特効薬が、人間の脳下垂体からしか作れないってんで、次々美人を殺しては首を切り取るという駄作がござんしたが、本作はまるっきり同じ範疇の作品でんなぁ。
 
 長々悪口を書いとりますが、結局一言、「見る必要無し」

 どころか「こんな映画は見ちゃいけない」一本。蜷川実花は、このまま行くと、角川春樹と並んで、邦画界の癌になりそうでんなぁ…そう言えば、親父の蜷川ゆきお(漢字忘れた)の演出も、一人よがりな所があるし(所詮、四季で二流の下の役者でしたからねぇ)、こりゃあ、“血”ってもんですかねぇ、やだやだ。
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高校ライトノベル・らいとエッセー『きかんしえん』って、知ってますか?

2012-07-15 19:55:01 | エッセー
『きかんしえん』って、知ってますか?
 
 もう十年以上前になるだろうか、新聞のコラム欄に載っていた。

「きかんしえんの、留意点はなんですか?」若いのが聞いた。
「きかんしえんはだね、主に……」年輩が答えた。
 ある日の山手線の中で、ふと耳に入ってきた会話である。最初は、医者同士の会話だと思った。
 ところが、話しが進むと、どうやら、学校の先生たちの会話であることが知れた。会話の中の単語に「生徒」「答案」などの単語が混ざってきたからである。それにしても「きかんしえん」とは……。
 会話の中頃で気づいた、「きかんしえん」とは「気管支炎」ではなく「机間支援」のことであると。
 社に戻って、教育関係に詳しい同僚に聞くと、こうだった。
「従来の『期間巡視』では、何か見張っている感じがして、拙いので、最近は支援という言葉を使うようだよ」
 
 このような内容であったと記憶している。記者は、教師のつまらない「言葉遊び」にあきれたように書いていたように記憶する。
 当時、現職であったわたしは、「東京は、アホなことやってんねんなあ」と思った。
 版元からのメール待ちの退屈しのぎに、ネットを検索していて、ふと、そのことを思いだし「きかんしえん」の言葉を思い出し……もう少し、詳しく書くと、息子が「ももクロのファンが多いで」と、昨夜言っていたのを思い出したのである。

 昔、某高校の演劇部の面倒を見ているうちに、あまりに芝居がはじけないので、「AKB48」の曲でも入れようかと提案し、イイダシベエのわたしは『ヘビーローテーション』を、振り付けごと覚え、生徒に教えるはめになった。それ以来、パソコンにAKB48の曲を取り込んで、退屈なときや、頭がカラッポでアイデアが浮かばない時に聞いている。ファンというほどではない。未だに高橋みなみを高山みなみと間違える。峰岸みなみは、タカミナといっしょに覚えたが、苗字が時として出てこず、その印象から、自分でもおっしゃっているガチャピンで覚えている程度。
 で、ヘッドフォンで聴いていても、時に口ずさんで、年甲斐もないオッサンファンと、家人にはキモがられている。
『大声ダイヤモンド』を不覚にも口ずさんでいるときに、半分揶揄(やゆ=おちょくった)したように、セガレに言われたのが「最近は『ももクロ』のファンが多いで」になったわけである。
 わたしは、昔懐かしい「のらくろ」のことかと思ったが、セガレは方頬で笑ってこう言った。
「『ももいろクローバーZ』のことや」
 世事にウトイ父は「?????」であった。で、さっそく「ももクロ」を検索。
――週末ヒロイン! これが売りの、なんとなく若き日にバイトでやっていた、仮面ライダーや戦隊もののアクション系着ぐるみショーを思わせる、アイドルユニットであることが知れた。何本か「ももクロ」の映像を見ているうちに、やはり馴染みのAKB48の曲にもどり、youtubeで観ていたのが『大声ダイヤモンド』のPVである。この公式PVは、文化祭の設定になっている。
 で、そこから、現職時代を思い出し、「きかんしえん」にたどり着いたわけである。

 ためしに「机間支援」で検索してみた。わずかに二つだけ残っていた。今では死語になっているようだ。
 大阪では、今も昔も「机間巡視」である。よくドラマで、授業風景で、これをやっているが、わたしは授業中は、ほとんど、やらなかった。理由は明確で、教壇を護るためである。うかつに教壇を離れると、出席簿や閻魔帳を盗まれた。ときに脱走する生徒がいたが、机間にいては、とっさの追跡に間に合わない。ここぞと足をかけられ転倒させられることもある。

「机間巡視」は、主にテスト中に行う。カンニング防止のためである。より正確には抑止のためである。
「これだけ、ガン飛ばしてんねんぞ。カンニングさらすなよ」で、ある。
 教壇に立っているだけでは抑止にはならない。机の間を巡り、主に斜め後ろからの視線が有効である。一通り巡り終えると、最後尾中央で立っている。生徒は、これが一番威圧感を感じるようである。実際は、この位地が息を抜ける場所である。こちらが若いと見くびってカンニングしそうな生徒には真横に貼り付いたりもした。
 教師も歳をとると、それなりに押し出しが効くようになり、そんなことをしなくてもカンニングをされることは無くなった。カンニングする生徒は「カンニングする」オーラを放っている。いわゆる気配でそれと知れる。カンニングの手法は様々であるが、真似をされると困るので、手口は書かない。
 巡視のテクニックだけ、記しておく。観るのは、真横の列ではない。その一列となりである。その方が、生徒の手許がよく見える。くり返すが、抑止のためである。その斜め後ろからの視線が、生徒達には一番痛い。
 また、廊下側 の窓ガラスに映る様子から、ガラスに反射させてガンを飛ばすこともある。たとえ、ガラスに反射させても、気配は感じる。

 ここまで、読まれた方は、「大橋というやつは、なんちゅう陰湿な奴や」と思われるかもしれない。
 しかし、大半の生徒の受け取りようは違う。先生が真剣に試験監督をやってくれていると、安心する。
 カンニングは、周囲の生徒も気配で分かるもので、ぼんやり教卓で頬杖ついている教師よりも信頼される。

 学校に、なにかクレームの電話をされたことがあるだろうか。近頃は教師の応対もかなり改善されてきている。しかし、この慇懃な言葉は要注意である。

「どうも貴重なご意見ありがとうございました」
 
 これは――もう、話しは、これで打ち切り、これ以上は聞きません。という意味である。
 セガレの学校に電話して、何度か、これをカマされた。
「そんな、打ち切りのサインださんといてください」と、粘った。
 粘った理由には、それなりのオモシロイ(今になって言える言葉)エピソードがあるのだが……ここで、版元のメールがやってきた。
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高校演劇・夏期講習会(1)演技

2012-07-09 22:00:25 | 高校演劇基礎練習
高校演劇・夏期講習会(1)演技
 
 
この夏も、全国各地で高校演劇連盟の講習会が開かれる。個人的には、夏の季語になってしまった。

 何度も繰り返すが、演劇の三要素は「戯曲、役者、観客」の三つである。したがって、この三つに絞り込んで、ネット上の夏期講習会をやりたいと思う。

で、初回は演技について
 演技は、水泳に似ていると言ったら驚くだろうか。「ああ、聞いたことがある」という人は勘違い……または、わたしと同じ発想の人である。
 水泳の第一歩は、水に浮くことである。仰向けになって、適度に脱力すると、自然に人間は浮くようにできている。アップアップと沈んでしまうのは、下手に緊張して手足をばたつかせる人である。このことは、割に簡単に理解していただけると思う。
 逆に、水に浮けない人に泳ぎ方を教えるのは無謀であることが分かる。古来「畳の上の水練」と言って、無駄なことの代表的な言い回しである。講習会では、この浮けない人に泳ぎ方を教えているのに等しいものもある。まずは浮くことから話しを進めたい。
 しかし、プロになってウケない芝居をやっていてはいけない……ダジャレは封印する。

☆脱力
 何も、将来プロの役者になって、死人の役がくるときの準備ではない。余談だが、数ある子役養成プロダクションでは、本当に死人の役がきた場合にそなえて、やっているところがあるらしい。

 人というのは、その場、その状況に合った緊張をしている。四月の新学期、たいていの新入生は遠目からでも新入生であることが知れる。これは、新しい環境に馴染めずに余計な緊張をしているからである。
 役者というのは、その場、その人物(時に動物であったりもする。四季の『キャッツ』など、そうであるが、基本的には人間)その状況に合わせた緊張ができなければならない。

 いわば、役者の体と心は、役としての人物を入れる器(うつわ)なのである。普通の人でも、器を持っている。だから、遠くから観ても「ああ、大橋のオッサンや」ということになる。
 勘のいい人なら、もうお分かりだと思うのだが、役者の体(心はあとで)は、どんな役でも入れられるように柔らかくなくてはならない。また優秀な水泳選手は、泳ぐときに無駄に手足をばたつかせ、余計な水しぶきをあげない。だから、まず脱力を学ぼう。
 
 コンニャクになってみる。人間の体の70%は水分だそうである。いわば人のカタチをした革袋の中に、数え方にもよるが230~360の関節があるそうで、もうほとんど水袋と変わりない。
 仰向けに寝て、体の緊張をほぐしていく。ほぐしたつもりでも、なかなかほぐしきれないものである。特に股関節、首の筋肉などは難しい。
 ほぐせたと思ったら介添えが両足首を持って、水袋を揺するようにプルンプルンとゆすってみよう。きちんと脱力できていたら、足から頭の方へプルンと揺すりのエネルギーが抜けていくことが分かる。たいてい、やっている者も、やられている者も、そのおかしさに、ウフフ、アハハになる。で、笑ったとたんに体は液体から固体になって、緊張と脱力した状態の違いが分かる。

☆立ち脱力
 立ったまま、脱力……したら、倒れてしまう。立っているのに必要な緊張だけを残して立ってみる。イメージとしては、リラックスした立ち方。又は、身の丈ほどの草かコンニャクが立っていると想像する。
 で、ここが一番ムツカシイのだが、床が前後にユラっと揺すれたと想像し、その力を足から、腰、腹、胸、首、頭に抜けていくようにやってみる。うまくいくと特大のコンニャクが、プルンと揺すれたように見える。
 
 これで脱力の意味は分かっていただけたかと思う。役を入れる器としての体を柔らかくしておくことである。しかし、脱力の練習は、つまらないので、先に行く。

☆適度な緊張
 人は、日常、その状況に相応しいだけの緊張感をもっている。たとえば歩くという行為だけでも、学校へ行く。それも遅刻しそうになっている。大好きな文化祭の朝、最後の仕上げに急ぎ足になる。友だちとケンカした明くる日。卒業式の日の朝。それぞれに違う。
 バイトの面接にいく。彼(彼女)とのデートに出かける。みんな、緊張の具合が違う。それに相応しい緊張感で歩いてごらん……わたし達が若い頃にやらされて、戸惑い、落ち込んだエチュードである。だから、みなさんには勧めない。

 椅子取りゲームをやってみよう
 人数に一つ足りない椅子を用意して、音楽に合わせて、みんなで、その周りを回る。そして音楽が停まった瞬間、一番身近な椅子に座る。当然一つ足りないので、おもしろい椅子の奪い合いになる。ダルマサンガコロンダでもフル-ツバスケットでもいいのだが、この椅子取りゲームが一番ノリやすい。
 人数が多ければ、ゲ-ムをする側と見る側に分かれるといい。見ている方も、やっている方も楽しく笑いながらできる。
 大事なことは、楽しいことである。そして、なぜ楽しいのかがよく分かること。みんな音楽に合わせながら、椅子に集中し、手早く椅子に腰掛ける人間(回数をこなせば、得意な人間が分かってくる)に意識が集中し、ゲ-ムに相応しいだけの緊張感を正直に、無意識のうちに持っていることである。
 こうやって、相応しい緊張感ということを体感する。

自己紹介
 日本人は、プレゼンテーションの訓練を学校でやらないし、家庭や地域でも、その機会が少なく、自己紹介はヘタクソで苦手である。演劇部でも新入生が入ってきた学年始めに、たいていやるが、演劇部でもヘタクソである。で、やり方を変える。

 もし舞台があったら、舞台の上に、面識のない二人を上げる。
「なにか、二人で芝居を演ってごらん。相談なしに」
 二人は、どうしていいか分からなくなるだろう。どちらかがヤケクソにしゃべり出すか、気まずい沈黙が流れるか。そして、なにより戸惑いの緊張感があることに気づくだろう。集中線は、相手1/3と観客席2/3ぐらいになっている。
「二人で、お互いに知らないことを聞いてごらん」と、水を向ける。そして椅子をそれぞれに与える。
 最初は、名前や、住所、趣味の話しなどで、かみ合わずぎこちないかもしれないが、そのうちに共通の関心が出てきて、話しに熱中するようになってくる。かみ合わないようなら、「学校、どう思う」「このクラブどう」などと、軽く話題を投げ入れてやってもいい。
 二人が、互いに話しに熱中しだすと、集中線が観客席ではなく、相手に向けられていること。不安定な緊張感が無くなり、ときに漫才のようになり、観客席で観ている者も引き込まれ笑い出すことがある。
 このことで、舞台では、状況に合わせた(合った)緊張感が必要であり、それが有効なものであるとき、劇的なオモシロサが出てくることが分かる。

☆無対象縄跳び 
 若い頃、無対象の練習をよくやらされた。「自分の部屋」という、無対象の極地があった。自分の部屋を想像し、その結界だけをバミリ、あとは自分の部屋にいるようにくつろいで、自由にしなさい。というものであった。スタニスラフスキーの時代からの基礎練習で、有効ではあるが、かなりムツカシイし、時間がとられる。発展系に「自分のお風呂」というものもある。無対象で服を脱ぎ、自分が自分の浴室でやっていることを一通りやりなさい。というもので、かなりムツカシイ。
 これらの訓練は、単なる無対象だけではなく、自己解放の意味合いもある。自己解放というのは、役者が、物まねではなく、自分の感情を使って、役の心理を表現するのに欠かせないステップなのだが、有効で安全なメソードは、わたしは、まだ開発できていない。

 で、代わりに、縄跳びをさせている。最低でも6人ぐらいは必要である。2人が大縄跳びのロープを持ち、他のメンバーは、次々に、その無対象の縄跳びの中に入っていく。全員が入れたら、5回ほど、みんなで跳んで、一人ずつ抜けていく。
 不思議なことに、たいていの者が、すぐに出来る。意識を集中しなくても回る縄は、簡単に見ることができ、もし、縄に引っかかった者などがいると、全員が「あ~あ」ということになるからオモシロイ。
 この縄跳びには、適当な緊張感とは何か。無対象演技(役者としての想像力)とは何か。そして、チョッピリ自己解放の要素が入っている。

 おおよそ、緊張が演技にもたらす影響を理解していただけただろうか。椅子取りゲーム、二人の自己紹介、集団縄跳び。みんな、その状況に相応しい緊張感が簡単に感じることができるメソードである。
 もし、芝居の本番中、舞台に猫が現れたら、確実に観客の視線は猫に持って行かれてしまう。
 猫は演技しない。舞台の上に興味のあるものがあったら、完全にそれに注目して近づいていく。それが、ネズミのオモチャであったりすると、猫は本能的に狩りの姿勢をとり、そろりそろそりと接近。そこには無駄な緊張など無く、真剣そのもののハンティングする猫の存在になる。
 このように、きちんとした緊張と集中こそが、観客の目を舞台に向けさせることができる。

☆反応
 舞台で、人を呼び止める場面があったとする。
 かなり、訓練された役者でも、ここでダンドリになってしまうことがある。相手の演技や台詞に止めるだけの力がないのに、止まってしまう。ここに演技としての「ウソ」が始まる。この「ウソ」をやられると観客の興味は、急速に冷めていく。

 具体的な例で示そう。チェ-ホフの名作に『ワーニャ伯父さん』がある。
 劇中第4幕で、ワーニャ伯父さんが、自殺しようとして、医者のアーストロフの鞄からクロロホルムを盗み出す。アーストロフが「返してくれ」と言ってもきかない。そこで、姪のソーニャが、こう迫る。
「伯父さんはいい人ね、あたしたちを、可愛そうだと思って出してちょうだい。我慢してね、伯父さん、我慢してね!」
 この姪の嘆願にワーニャ伯父さんは、引き出しから、クロロホルムを出して、ソーニャに渡す……ことになっていた。
 しかし、ある日、ロシアで、この『ワーニャ伯父さん』が上演されたとき、ワーニャ伯父さんは、そのタイミングになっても、クロロホルムを渡さない。ソーニャ役の若い女優は困ってしまった。
 これ、別に、オッサンの役者が、若い女優をいじめたわけではないのである。ソーニャの嘆願に「ウソ」があったからである。女優は役を超えて「渡して下さい、お願いだから……!」という切ない表情になり、そのときワーニャ伯父さんは、初めて姪の心からの訴えに反応して、クロロホルムを渡した。
 舞台で、行われることは、全て台本に書いてあり、結果は、あらかじめ決まっている。で、役者は、必要で過不足のない緊張感をもって演技に臨まなくなってしまう。「ダンドリ芝居」「引き出し芝居」と言われる、高等な、でもジェスチャーに過ぎない。
 例を、もう一つ。
『ローマの休日』でオードリー・ヘプバーンが、グレゴリー・ペック演ずる新聞記者といっしょに、ローマの名所を見物するところで、有名な「真実の口」のシーンがある。
 オードリーのアン王女が、おそるおそる「真実の口」に手を入れた後「今度は、あなたの番よ」と言う。
 この「真実の口」は、ウソつきが手を入れるとかみ切られるという言い伝えがある。台本では、新聞記者のジョーは、ビビリながらてを差し入れるだけで「あなただって、怖がってたじゃない」と、続くはずだった。
 グレゴリー・ペックは監督と相談し、オードリーには内緒で、手が引き込まれ噛みちぎられるアドリブをかました。オードリーは必死で、ジョーの手を引き抜こうとし。引き抜いた腕から手首が無くなっていることに卒倒しそうになる。そこでジョ-は「ハロー」と言って、袖の中に隠していた手を出す。
「もう、本当に、噛みちぎられたと思ったじゃない!」アン王女は、ジョーの胸を叩く。
 非常に有名なシーンで、ご存じな方も多いと思う。このシーンは、アドリブながら一発でOKが出た。
 つまり、オードリーは、そのときのアン王女の心理で反応したのである。
 無対象の縄跳びで言ったことと共通するものが、ここにはある。

 この話をするとキリがないので、これで一区切りとするが、分かっていただけたであろうか。
 とりあえず、泳ぎ方を教える前に、水に浮くこととはどういうことかということをお話した。

☆感情表現
 さて、水に浮けるものとして話しを進めよう。
 役とは、なんらかの感情・情緒を絶えずしているものである。漢字で「喜・怒・哀・楽」の四文字。技術的アプローチと、メンタルなアプロ-チに分けて話していく。

技術的アプローチ
 感情表現は、大きくは拳を振り上げるような大きなものから、ピクっと頬が引きつる中くらいのもの、微かに顔色が変わる小さなものまで、各種ある。いちいち言及していては、2万字というブログの字数制限を超えてしまうので、かいつまんで説明する。
 人の筋肉は、意思のままに動く随意筋(例えば、手を上げる。首をかしげる)と不随意筋(心臓や内臓の筋肉)そして、訓練次第で動く半随意筋(耳を動かす、ウィンク=欧米人には随意筋であるが、日本人の大半は半随意筋)がある。

 役者の肉体訓練は、体育会系のそれとは違う。丈夫さと柔軟さは、並の人間より少し高めぐらいでいい。随意筋のより高いコントロールと、半随意筋の可動化である。
 
 横隔膜という随意筋がある。胸と腹の境目にある筋肉で、これがなければ呼吸ができない。普段は意識しなくても動いている。思わず横隔膜を動かすのを忘れて死んだ人間はいない。僅かな時間なら停めることもできる。いわゆる「息を止める」ことである。
 横隔膜をケイレンさせることを身につけて欲しい。一発だけのケイレンは「しゃっくり」または瞬間的な笑い「ハッ!」である。このケイレンを持続的にできるようになろう。そう、持続的にケイレンさせれば、笑いになる。「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」で笑えるように訓練しよう。は、は、は、は、とケイレンさせ、次第にその早さを増していく。早い人は半月ほどで笑えるようになる。泣きも、程度によっては横隔膜がケイレンする。いわゆる泣きじゃくりというやつである。「笑い3年、泣き8年」などと役者の中では言われているが、真剣にやれば、そんなにかからない。
 他にも表情筋は鍛えておかなければならない。日本人は一般に笑顔が苦手で、笑ってというと、虫歯の痛みを堪えているような顔になる。鏡を見て、訓練しよう。よく訓練できれば表情筋をケイレンさせることもできる。

メンタルアプロ-チ
 台本に「笑う」演出から「笑え」と指示されて笑っていては、観客が共感できる「笑い」にはならない。
 舞台における喜怒哀楽は、物理的記憶の再現によってなされる……などと書くと、非常にコムツカシイものになってしまう。思い出していただきたい。椅子取りゲームや無対象集団縄跳びが、なぜおもしろかったのか。
 椅子取りゲームにしろ、無対象集団縄跳びにしろ、そこにはインストラクター(演出)の「楽しそうにやって」という指示はない。でも、楽しいのである。
 椅子取りゲームでは、椅子なり、椅子を狙っている仲間の顔なり、今にも停められそうな音楽に意識が集中している。
 無対象集団縄跳びでは、回転する縄に意識が集中し、あるものは縄に飛び込めた成功のイメージが、あるものには、失敗して縄を引っかけてしまうイメージが、その集中から喚起されてくる。だから、失敗しないようにタイミングを計ろうとし、縄が回転するテンポ、リズムに自分を合わせようとする。で、うまくいったらニマニマとなる。失敗すれば集中線がズッコケて笑いになる。けして笑おうとはしていない。
 役者が舞台で集中するのは、次の台詞や、芝居のダンドリではない。役として真実である具体的なモノに集中している。椅子や、縄が、そうであったように。

 具体例を。体育の体育の着替え中に、真剣な話しをしている。その最中、一人のスカートがホックのかけ方が悪く、ストンと落ちる。真剣な話しの最中にスカートが落ちるというアクシデントで笑ってしまう。
 基本的には、無対象集団縄跳びと同じであるが、数段ムツカシイ。
『ローマの休日』の真実の口のように、相手役に内緒でやってみてもいい。スカートは床まで落ちるかもしれないし、反射神経が良い(設定ならば)落ちかけのスカートを、途中で、押さえられるかも知れない。いずれにしても、真剣な雰囲気はこわされ、笑いにつながる。
 このエチュードをやるときは、スカートの下はハーフパンツではいけない。AKB48の子たちのように、ミセパンを穿いていてほしい。ナマパンがいいのだが、高校という枠の中では、そこまでやらなくてもいい。
 で、このエチュードをくり返してみる。くり返すと、スカートが落ちることを予感してしまい、しだいに笑えなくなってくる。演劇とは再現性のある芸術で、同じことを何度も再現できなくてはならない。しだいにダンドリになってしまい、演技として新鮮さが失われていく。前述した『ワーニャ伯父さん』のソーニャが、そうである。ソーニャ役の女優は、ワーニャ伯父さんがクロロホルムを渡してくれることが当たり前になり、「渡して下さい、お願いだから……!」の台詞に真実性が失われてしまったのである。だからベテランのワーニャ伯父さんは、いつものようにはクロロホルムを渡さなかった。

 もう一つ具体例を。彼を自分の部屋に招いて、二人だけのパーティーをやろうとしている。バースディでもいいし、クリスマスでも、婚約記念、彼の何かの成功でも構わない。いそいそと準備をしていると、玄関でチャイム。「彼が来たんだ!」喜んでドアをあけると、彼との共通の友人が立っている。
「彼、○○のことで来られないって。メールじゃ失礼だから、あたしに知らせてくれって……じゃ、あたし、仕事の途中だから」友人は去っていく。
 この後に、いきなり落胆や、怒りの表現をしたら、演出としても、役者としても未熟であるし、芝居はダンドリの説明演技になってしまう。感情が湧いてくる前に、今まで作った料理などのパーティーの準備に意識がいく。「これ、どうしよう」「これって、無駄になった」そう、「これ」に意識が集中される。あとは、役者が設定(意識的にも、無意識的にもやっている)した役の個性で行動する。ゆっくりと片づけ、その途中で涙がこぼれるかもしれない。カッとなって、パーティーの用意をひっくり返すかも知れない。
 大事なことは、いきなり感情に飛びつかないことである。集中するものは、基本的に、具体的なものかも、無対象かもしれないが、舞台の上にしかない。
 感情というのは、物理的な観察や、記憶の想起から湧いてくるものである。高校生の芝居のほとんどは、これができていない。

 水泳に例えて、浮くことが大切と言ってきた。そして泳ぐことに関しては、バタ足程度のことを示してきた。
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タキさんの押しつけ映画評「崖っぷちの男」

2012-07-08 11:23:33 | エッセー
タキさんの押しつけ映画評「崖っぷちの男」

 いやはや、こんな残念な映画も珍しい。
 俳優さんはベリグッド!サスペンスの道具建ても揃っている。……なのに、この不満感はナンダンネン?
 本作はアメリカでも大ズッコケ、2週間、1600万ドル少々でボックスオフィス・ベスト10から消えている。

 ヤンキーの好き嫌いが、その作品の良し悪しを反映しないのは、散々書いてきたのでもう言いませんが、本作の不入りは自業自得! あるいは「ユージュアル・サスペクツ」 「フォーン・ブース」 「インサイド・マン」 なんてな作品と肩を並べていてもおかしくないだけの内容は有る。なのに、何でやねん!
 これはひとえに、「編集の大失敗」 これに尽きます。作戦として想定されたものと、突発かつ偶然のアクシデントのメリハリがついていないので、見ていて「???」 なシーンが多すぎる。何故、この人物が此処までの能力を持っているのか…といった、基本的に観客を納得させる設定が不足している。あんまり説明されても白けるものですが、これでは説得力に欠ける。ストーリーの進行上、ある仕掛けに拠って知り得た情報が有るのですが、相手の行動を引き出すための引っ掛けは解るが、その結果をいかにして知り得たのかが解らない。……等々、ストーリーテリングが雑過ぎる。
 一切、説明抜きで、「ユージュアル・サスペクツ」のように最後の1シーンで全てを氷解させる……「フォーン・ブース」 のように観客に疑問を差し挟む暇が無い位たたみかける、等々すれば、作品の中に面白くなる要素は揃っている。
 要するに、各シーンがバラバラで、有機的に繋がっていないのが最大ネック。 これはあまりにも惜しい、こっちが泣きたい位。 俳優の演技は良いのに、設定アイデアも面白く出来ているのに、こんな不満タラタラな結果に成るのは……編集の失敗以外に無いのですが、これは編集者の腕が半分あるのと、もう一つはプロデューサーが配給会社との交渉をマズっているからです。
 本作は102分の作品ですが、せめて後15分あれば補強出来たはず。私が感じた不満に応えるシーンが撮影されていたのは間違いない。映画の尺を短くした為に入りきらなくなっている。リーマンショック直後、資金ショートの為、中途半端に成ってしまった作品が大量に出回った。「天使と悪魔」「ワルキューレ」 等々。本作の設定のキーポイントの一つがリーマンショックだというのが、とんでもない皮肉に感じられた。演技のクオリティは決して低くないので、全否定はしたくない。
「兎に角 見に行って!」と言えないのが寂しいでござる。 久し振りにエド・ハリスを見ましたが、えらく痩せていました。減量したというより、大病の後、という感じで…何も無きゃいいんですが、大好きな俳優さんなので心配です。
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高校ライトノベル ショ-トファンタジーⅡ『ハッピーコイン』

2012-07-07 09:46:27 | 小説
ショートファンタジーⅡ『ハッピーコイン』 href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/94/ce6b35fa262fa8971d61e55506819851.jpg" border="0">

お弁当のお釣りは三百二十円だった。
十円玉が二個、百円玉が三個。
そのうちの百円玉一個だけがピカピカだった。たった今造幣局から来たみたい。

このお弁当は、はるかの十七年間の東京での最後の買い物だった。
――この百円玉だけ……とっておいてもいいよね。
「はるか、そろそろ電車来るよ!」
「うん、いま行く!」

富士山が見えたころ、最後まで残していた携帯のアドレスから、それを消した。
はるかの幼なじみ、なゆたのアドレスを……
自分のアドレスは、機種変更をして昨日変えた。
新しいアドレスはだれにも教えていない。
だって、もう二度と東京に戻ることはないのだから。
今日からイニシャルが変わる。HGからHBへ。
ハイグレードから波瀾万丈へ……
「なにがおかしいの?」
お弁当を広げながら、お母さんが聞いた。
「ううん、なんでも……」
なんか、ギャグにでもしないと、心が折れてしまいそう。
たった今、未練に残していた幼なじみのアドレスを消したんだ。

若干の服は持ってきた、裸でいるわけにはいかない。
校章を外した制服も持ってきた。
新しい学校の編入試験を受けなければならない。
私服で受けてもいいんだけど、自分が高校生であるということだけは……ことぐらいは残しておきたかった。
イニシャルが変わっても、自分が自分であることの最後の証明なんだから。


編入試験も無事に通り、編入に必要な手続きも今日終わった。
最後の制服を脱いで、壁に掛けてみた。
乃木坂学院高校の、その制服は、はるかの十七年間の人生の抜け殻のようだった。

新しいY高校では、演劇部に入った……入らされた。大阪的な強引さに負けた。
土壇場の意地で仮入部ということにしてある。
クラブの顧問は、大阪のオバチャンを絵に描いたような人。強引だけど嫌みがない。
部員で、クラスメートの由香と仲良くなるのにかかった時間は十五分ほどだった。
手際よく校内を案内してくれて、気がついたら……メアドの交換をやっていた。
「あんた」という二人称を最初から使われたのには戸惑ったけどすぐに慣れた。
タマちゃん先輩とタロくん先輩もいい人。タコ焼きの上手な食べ方を教わった。
大阪は、タコ焼き一つ食べることで人間関係がいっぺんに近くなる。ハンバーガーやド-ナツじゃこうはいかない。駅前のタコ焼き屋さんには、マニュアル化された応対がない。
「ほい、まいど。お、あんた見かけんベッピンさんやな!?」
「あ、昨日転校してきたんです」
「坂東はるかちゃん云うんです。おっちゃん、仲良うしたってな」
「あたりきしゃりき、お近づきのシルシに一個ずつオマケや」
「あ、はるかちゃんの二個多い」
「ばれてもたか。おっちゃんベッピンさんには弱いさかいなあ」
「おっちゃん、商売うまいなあ」
「いや、今日は、おっちゃんのオカンの誕生日やさかいなあ」
「去年は、あたし四月に入って、オカンの命日で二個サービスやったよ?」
「ハハ、オカンは四月生まれの、五月の命日や」
「あの……それ、逆になってますけど」
クスクス笑っている先輩二人。
「ウ……今年は、命日と誕生日テレコやねん」
「テレコ……?」
「ワハハハ!」
狭い店内に、明るく大きな笑い声が満ちた……

自分が持っていた意地が、少しつまらないものに感じられた。
大阪に来て、最初の土曜日は忙しかった。部屋を片づけたり、買い物に行ったり。
たまたま、クラブのコーチが同じ町だと分かった。買い物の途中で出くわしたのだ。
物理的にも精神的にも、距離のとり方が近い。少し面食らったけど、すぐに慣れた。
近所の八幡さまに連れて行ってもらった。
空は、のどかな五月晴れ。
わたしはピカピカの百円玉を、少しためらって、エイヤって感じでお賽銭箱に放り込んだ。


同じころ、なゆたはコンビニで買い物をしていて、お財布を開けた。
見覚えのないピカピカの百円玉がはいっていた。
「あれー、へんだなあ……」
昨日食堂で、お蕎麦を食べようとして、百円玉は使い切ったはずなのに。
ピカピカなのに、なんだか懐かしい百円玉だった。
なゆたは、千代紙の小袋に入れて大切に机の引出にしまった。
ときどき机を開けて、百円玉に「ただ今」とか「元気してる?」とか声を掛ける。


半年がたって、二人それぞれいろんなことがあった。
はるかは、すったもんだの後、お父さんの新しい奥さんとも仲良くなった。
今では「東京のお母さん」なんて云ったりしている。
クリスマスイブの日に、はるかは東京の「実家」を訪れ。その夜は、なゆたの家でパーティーを開き。二人は半年ぶりで再会した。
それからは、ビデオチャットで毎日のように話しをした。
なゆたも同じ乃木高の演劇部だったので、話の種は尽きない。

元日の初詣で、ピカピカの百円玉をお賽銭にした。
はるかと再会できたお礼やら、百円では厚かましいほどの願い事をした。

空には、ぽっかり白い雲がひとつ浮かんでいた……


『イニシエーション・Y高演劇部物語』『なゆた 乃木坂学院高校演劇部物語』より。
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高校ライトノベル・『はるか 真田山学院高校演劇部物語』を書き終えて

2012-07-06 05:57:48 | 小説
はるか 真田山学院高校演劇部物語を書き終えて
大橋むつお

☆事の成り行き 
モンド社の關さんから、マネージメントを含めた高校演劇の入門書を書いてみないか。と、持ち込まれたのが、もう一作年前である。
 この手の「入門書」は、わたしが高校生であった半世紀前から、いろいろあった。しかし、そのことごとくが、テキスト形式の、いわば教科書であり、正直読んで、為にもならないし、楽しくもなかった。

 『高校演劇入門』第一章、学校教育における高校演劇の意味。第一節、高校演劇部の経営の、過去と現状。 こんなもの、誰も読みはしない。私自身、この手の本を何冊も読んで、投げ出したことが何度もある。
 
 そう、本の大事なところは「読んで楽しいことである」 故井上ひさしさんが、事あるごとに言っていた。
「むつかしいことは、面白く。面白いことは、より深く」
 で、おもしろい入門書を書いてみようと思った 。

☆おもしろい入門書
 人間が読んで、おもしろいものは人間のことである。いわば世間話。
 なんとかさんが、彼氏ができた。ふられちゃった。あの先生嫌いだ。駅前においしいタコ焼きやができた。今度どこそこのクラブに入った一年の女子が可愛い。今年の顧問なんかやだ。クラブもしたいけど、バイトもしたい。ええ、あんたとこ時給800円もあるの! こんど成績下がったら、クラブ辞めろって言われた。あの子とは、いっしょにクラブしたくない。
 などなど、高校生活の日常は、ささいなことの積み重なりである。
 この、ささいなことを積み重ねて、たいそうおもしろいものに書き上げたのが小説。それも近頃は「ライトノベル」である。
「ラノベ」の定義はむつかしいが、大昔の言い方では「ジュニア小説」ということになる。
 古くは、二葉亭四迷……ここまで古いと、わけが分からない。筒井康隆の「時をかける少女」 小松左京の「日本沈没」 氷室冴子の「なんとすてきにジャパネスク」 赤川次郎の「三毛猫ホームズシリーズ」などなど。授業中読んでは、先生から注意され。先生になってからは、授業中に隠れて読んでいるのを没収したりした。
 で、いっそう、その小説。ラノベの様式で書いてみようと思った。

☆部活とは人間ドラマ
 不安と期待で、高校に入学。、ちょっとした出来心、あるいは、入学時の硬い決心でクラブに入る。そして三年間、クラブをやりとげるもの。途中で脱落するもの。様々である。
 特に演劇部はマイナーなクラブで、近年入部者が減り、中には、クラブそのものが無くなってしまったところもある。
 で、そこに到までには、これまた、様々な人間ドラマがある。
 わたしは、55歳で教師を辞めてから、それまでの演劇部指導をもとに、真田山学院高校という架空の公立高校の、あまりパッとしない演劇部を設定した。
 そこに、坂東はるかという東京からの転校生を入れてみるところから話しを始めた。
 演劇の中心になるのは、やる側としては、戯曲と役者である。これが、おもしろいか、上手くいくかでクラブが決まる。で、その評価は、コンクールで決まる。
 東京と大阪の文化というか、風俗の違いから、高校生が持っている、進路やバイト、カレやカノジョの問題なども折り込みながら、話しを進めた。
 
 役者が伸びるのには、役者個人の人間的成長抜きでは語れない。坂東はるかという転校生は、親の離婚がもとで、意に反して大阪にやってきた。大人びたふりをして親の離婚を受け入れ、自分なりに新しい環境に馴染もうと努力する。
 表面的には、成り行きで入った演劇部。自分が変わった象徴としてのゲンチャリでのツーリング。しかし、ある日、ハサミでちょん切られたように無くなった家族、東京での生活などは、簡単な思い切りで切り替えられるようなものではない。
 半年にわたる、はるかの転校生活を通して、コンクールという演劇部の目標に向かって変わっていく、集団としての演劇部。その中で、泣き笑いしながら、自分の有りように気づく主人公はるかののドラマ。

 単に、女子高生のドタバタ青春小説と読んでもらってもいいし、読者が演劇部であれば、クラブの基礎練習から、日常のマネジメントまで分かるようにかきあげた。

 出版社の都合で、本になるのは遅れているが、その2年間のうちに、かなりの改稿ができた。
最初は「ホンワカ女子高生HBが本格的に演劇部にとりくむまで」という長ったらしい名前であったが「女子高生HB」に、そして「イニシエーション」そして今回「はるか 真田山学院高校演劇部物語」と改題した。最初のはナガッタラシク、「もしドラ」のモジリともうけとめかねられない。二番目のタイトルは、検索すると、ちょっと恥ずかしくなるようなものが、いっしょに出てくる。実際このタイトルで検索した高校生が「おまえ、なんちゅうサイト観てんねん!」と誤解されたこともある。
 で、「イニシエーション」と改題した。「イニシエーション」の意味は、読んでいただければ分かる。
今回、姉妹作である『まどか 乃木坂学院高校演劇部物語』の出版にあたり、タイトル変更一部改稿した。決定稿のつもりでいるが、どうなることだろう。
 ひょっとしたら、もう一化けするかもしれない。

☆この作品の姉妹版
 作中にも出てくるが、はるかは東京の高校を中退して、大阪のY高校にやってきた。東京には三軒隣りに「まどか」という、一つ年下の幼なじみがいる。はるかに憧れて、はるかと同じ「乃木坂学院高校」に入学、ここは都内でも有数な名門演劇部がある。「真田山学院高校演劇部物語」とは真逆な名門演劇部が壊滅し、一から立て直す物語である。この二作で、演劇部のありようが分かる。そして、なにより、揺らめきながらも、完全燃焼に向かって、こけつまろびつする青春が描かれている。両方合わせてお読みいただければ幸いである。
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タキさんの押しつけ映画評・6『アメージングスパイダーマン&臨場』

2012-07-01 09:19:40 | 評論
タキさんの押しつけ映画評・6

☆アメイジングスパイダーマン
 いやはや、10年前のサム・ライミバージョンが「滓」に見えます(実際、カスでしたけどね アハッ)  以前有った映画シリーズをリセットして新たに作り直すのをリメイクと区別してリブート(再起動)とか申しますが、別にそんなことはどうでもよろし。
 今回、3Dを見るつもりやったんですが、時間の関係で2Dになりました。結果、大正解。スパイダーマンが飛び回るシーンが3Dにうってつけだと思ったのですが、画面を見る限りそう効果的なシーンは有りませんでした。3Dはきれいさっぱり無かった事にしましょう。
 画像が良く出来ているのは当然として、今作はストーリーとキャスティングが抜群です。前シリーズに比べ、今作は初期スパイダーマン原作を充分にリスペクトしており、これこそが原作ファンが本当に見たかったスパイダーマンだと断言出来ます。サム・ライミバージョンを見た時に「なんでこんな半端な話にしてしまう?」と不思議に思ったり、フラストレーションが生じたものですが、今回は大丈夫でした。大体が前シリーズのパンフレットには、その辺の話は皆無(そらそうやろね)でした。
 なら、原作を知らないと楽しめないのかっちゅうとそんな事はゴザンセン。そこいらはストーリーが上手いのと、キャストの格が違います。見事なものでございます。これ以上は止めときます、華丸オススメ!
 バットマンが「私と公の間で悩めるヒーロー」だとすれば、スパイダーマンは「極私的な悩み」の中にいます。その分、スケールの小ささが指摘されたりするのですが、ここで発揮されるのが役者の上手さ、キャラクターの掘り下げと抜群の演技力でリアルワールドを構築しています。
 唯一不満をぶち上げるとすれば、スパイダーマン以外に怪物が目視されているのに、スパイダーマンだけが警察の捕捉目標となる事で、これは原作の設定と同じですが、50年前の原作発表時はそれで良くとも、現在では不自然です。その点バットマンには物語の中に理由が組み込んであるので、まんま受け入れれば良いのですがスパイダーマンにはそれが納得できる工夫がいります。ところが、無いんですなぁ本作には…ここまで作っておいて、なんでこの点だけマヌケなんでしょうねぇ?

☆臨場
どうか最後まで一気に見ていただきたい。ラスト1/3くらいから納得の作品になります。導入部はまぁったくアキマヘン、どないもナリマヘン。実際見ていて「なんでこんなん作ったん?」と?マークが10個程、私の頭上を飛び回っておりました。
 冒頭の殺人現場、リアルの対局にある…っちゅうかまるっきりのウ・ソ…ようまあこんなヒドいシーンが取れたもんで、恐らくは現実に同じシチュエーションの事件が有ったから配慮したのかもしれないが、それはこの映画の意味を半減させる事になる。殺人・事故・災害…実際に遭遇した人々には忘れ去りたい事実である。しかし、映画がそれに配慮してリアルに撮らないならば、その映画は存在の意味が無くなる。悪趣味にそっくり同じに設定する事もないが、見ていて嘘っぱちにしか見えない映画で何が表現できるというのか?
 しかも、本作はテレビシリーズを見ていないと魅力が半減する。シリーズのお約束が判っていないと充分に楽しめない。キャラクターのアクがあまりにも強い為、映画で初めて見ると面食らう。それにしても松下由樹と平山浩行の下手くそ加減は呆然とする。高嶋政伸は359度歪んではまり込んでいるのだが、松下・平山はテレビでの演技すら忘れてヤッツケで演技している、全く度し難い。
 主演の内野・平田満・長塚京三がガップリ組み合う辺りから見応えが出てくるのだが、本作はもっと巧く作れた筈である。脚本・演出に半分ずつ責任があるとおもうが、キャストにも責められる部分がある。松下・平山の救いがたさは別格として…あっもう一人、若村麻由美もド下手で、彼女の演技力の無さは定評あるのになんでキャスティングしますかねぇ。柄本佑がなんでこんなに鈍臭いのかも不明、この人天才なんですけどねぇ…やっぱ監督の責任っすかねぇ。この作りで、最終的に見られる作品に仕上げた内野・平山・長塚のお三方を褒め千切るのが正しい評価だと思います。
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劇団すせん・駅 約束の・・

2012-07-01 07:11:46 | 評論
劇団すせん・駅 約束の・・

 間口4間、奥行き3間ほどのこぢんまりした、平戸間の舞台で、観客席の最前列と舞台との距離は1間ほどしかない。
 舞台と、観客席の結界は、舞台の地ガスリ1枚だけで、テレビのスタジオに似ている。
 セットは奥に「立原」と、ささやかな看板が掛けられた田舎の駅。中央下手寄りに駅の出入り口。壁面は、出入り口を除いて紗幕になっており、裏からの照明で様々な色合いになる。また、時に月が映し出され、狭い舞台空間を叙情的な空間にしている。舞台ばな上手寄りにベンチがある。このベンチと観客席のかぶりつき(最前列)との距離が1間しかない。

 わたしは、芝居を観るときは、上手の最後尾と決めている。観客の反応ごと芝居を観るためである。しかし、その日は道を間違え、小屋に着いたのは、開幕5分前で、最前列の席しか空いておらず、わたしは上手の一番前に座るハメになった。
 本ベルが鳴って、明かりが入ると、ビックリした。ベンチに老人が座っていて、その距離は1間。電車の向かい側のシートほどの距離でしかない。

 このテーマの主題は「待つ」ことの切なさと、人の心の深さにある。深さは、心の傷と言っても、優しさと言ってもいい。

 老人が「待って」いて、数十秒後に駅の出入り口から電車の到着音がして、男がフラリと出てくる。
 肩から画材を入れた鞄を提げ、所在なげにあたりを見渡す。
 特段の目的があって、駅に降り立ったわけではなく、いつしか老人との会話になる。この田舎の駅には、日に何本の列車が停まることもなく、次の列車に乗らなければ、男はその日のうちに帰ることもできないことが、老人との会話で分かり、男は困惑する。男は一応絵を描くという目的を持っている。すぐに帰るわけにもいかず、しぶる老人の家に泊めてもらうことになる……。

 芝居は、明くる日になり、男を追って女がやってくることにつながる。男は私学の美術の教師で、学校に無断で、絵を描きに飛び出して来たことが、同じ職場の体育教師の女と老人の会話から知れる。
 女は、男の無責任さと、弱さをなじるが、男のことを憎からず思っている。女は、村に一軒だけの万屋に泊めてもらい、男の絵の仕上がりに付き合う。

 芝居の途中ベンチの老人の横に、スーツ姿の男が座る。ネクタイをせず、その下の開襟シャツの襟をスーツの襟の上に出していることで、どうやら、昔の人間の幻影であることが知れる。
 良平という、この男の前に和服の若い女が現れ、二人は結婚する仲であると分かり、話しは適度に飛躍して、良平の出征になり、それまでに、良平が国民学校の教師で、子供たちに自由で満足のいく教育ができないことを嘆いたりする。
 出征にあたり、良平は新妻の「しの」と1年の新婚生活しかなかったことや、妻が良平の子どもを身ごもっていることなどが分かり、良平は妻と引き裂かれるように出征していく。
「ボクは生きては帰れないだろう」
 良平は、そう言葉を残して出征していくが、昭和24年に復員すると、皮肉にも行方が分からなくなってしまっていたのは「しの」と、その子どもの方であった。
 以来、良平は、帰らぬ妻子を駅前のベンチで待ち続けている。その良平が老人であることは、比較的容易に知れる。
 男と女は、そんな老人の人生を知り、共感すると共に、「待つ」ことの崇高さと、確かさを知り、互いに通い合わなかった気持ちに気づき、二人の気持ちをより確かなものにしていく。
 男は、最初、村の適当に景色のいいところを描こうとするが、老人の人生を知り、絵のテーマを変える。
 絵は、老人が復員して妻子と再会する穏やかな絵になっているのだが、その絵の中味はラストまで、観客には、明らかにされない。
 絵の中味が分かるのは、老人の葬儀の日である。
 男と女は、老人の人生に共感し、感化されることで結婚に踏み切り、女のお腹には男の子どもが宿っていることが語られる。
 最後に、万屋の婆さんが、ベンチに、その絵を掛け、絵の中味が観客に初めて分かる。
 婆さんが、最後にベンチに語りかける。
「しのさん。これで約束は果たしたからね……」

 あまり、正面から反戦をむき出しに語ったりせずに、「待つ」ことに、やるせなくもピュアな人間の有りようを見せてくれたことに好感が持てた。
 反戦や憲法改正反対を正面から言われることは、もう十年以上前に終わった前世紀でヘキエキしている。演技的には隙間の見える舞台ではあったが、観客の多くは自然に、この「待つ」世界に同化、共感していた。

 ただ、何人かの観客は、途中で居眠りをしていた。
 ドラマが静かな進行であったせいもあるが、演技的な弱さが原因であると、わたしは感じた。
 役者が、人の台詞を受け止めて、それで内的な葛藤や、変化を表現するようには演じられてはいない。

 最初のシーンで、男が駅によそ者として着いたときに、老人は男の登場前(役として、自分の「待つ」を阻害される前に反応し、男が立つはずの場所に目線を送ってしまった。
「ああ、ダンドリ芝居かなあ……」
 ほぼ的中した。役者は台詞は喋るが、相手の台詞を聞いて、やまれずに出てきた台詞ではなく、ダンドリで、他者と関係なく情緒の外形だけを作って表現しているに過ぎない。
 男が、老人に絵を見せたとき。万屋のお婆さんが絵を見たときに心が動いていない。キャンパスには何も描かれていないのではないかと思ったが、ラストで絵を見せられたとき、「ああ、ほんまに描いたあるんや」と思った。きちんと描かれた絵に対しても、このリアクションの弱さである。芝居の中味での葛藤も、同程度であったと申し上げておく。

 細かいことであるが、パンフレットに載っていた「太平洋戦争」の呼称である。「太平洋戦争」とは米軍の呼称であり、正確には「大東亜戦争」である。
 これは単なる、重箱の隅ではない。「太平洋戦争」と言った場合、アジアでの戦争が欠落してしまう。この用語の使い方は重要であると思う。
 また、2000万人を死においやったとあるが、この数字の根拠はどこにあるのだろう。我が国の戦争犠牲者は、国の発表では300万人である。当時「元亀天正の兵器」と軍人自らが言った装備で、2000万人を殺せたのであろうか。
 また、中国やアメリカの普通の認識では、日本軍による犠牲者の数は3000万人というのが並になっている。
 先の大戦を扱う場合、当事者の大半が鬼籍に入っている現状では、かなりしっかりした調査が必要である。分からなければ、分かっている範囲で、作劇するべきであり、井上ひさし氏などは、この枠からはみ出ることは無かった。「父と暮らせば」などを読めば明白である。

 そして、この『駅 約束の・・』には、そんな描写は、ほとんど無い。非常に抑制のきいた、「待つ」ことの叙情的な清らかさと、人としての想いが静かに表現されている。パンフ原稿を演出が見落としたのだろうと思う。

 最前列で観た、勝手な感想であるが、劇団がお持ちになっている、人の想いや優しさを、掌(たなごころ)で慈しむように作っていこうという姿勢は、大変共感が持てた。
 しのと良平の描写が、やや類型的であるので、そこに手を加えられれば、この作品はいっそうの光を放つであることだろう。
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