大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校演劇・クラブはつらいよ 夏編三

2012-07-31 06:56:57 | 高校演劇基礎練習
クラブはつらいよ 夏編三

 夏マッサカリ! いかがお過ごしでしょうか? ごくまれに、この時期、地区で発表会をもたれているところもあるが、おおかたのクラブは開店休業。せいぜい合宿をやったり、地区の連盟主催の講習会。熱心なクラブは夏の全国大会を観にいっておられるかもしれない。しかし、自分たちの部活はほとんどやってない……というのが実情ではないだろうか。
 最初に、おことわりしておくが、講習会や合宿を全否定するつもりはない。ただ、合宿にしろ講習会にしろ、「やった!」「参加した!」という精神的な充足感はあっても、即、実力には結びつかないと申し上げておく。
 とくに合宿は、費用対効果の面で問題があるので「やめときなはれ」と、前回申し上げた。正直にみんなでワイワイやりたいのなら、合宿などという大義名分をかかげずに、ただのヴァケ-ションにしてしまったほうがいい。遊ぶときは遊ぶ。そこに国会議員さんの海外視察のような、変な名目はつけないほうがいい。
 講習会に効果がない。と言うと、お叱りを受けるかもしれない。しかし「ほんまに、効果はうすいでっせ!」と言い切ります。講師の先生方は、その道のプロであったり、特別に技能優秀な顧問の先生であったりする。演技、演出、戯曲創作、道具、照明などの分野に分かれてワークショップのかたちで行われることが一般的であろう。講師の先生方は、たしかに熱心に教えてはくださる。そして、ここでコムツカシイ理屈ばかり覚えて、それを自分たちのクラブに持ちかえり、ハンパな理解のまま部活に反映させる。コンクールなどで、やたらと大仰な装置を持ちこんだり、コムツカシイ照明プランをもってきたりする。コンクールは多数の学校が一日に十公演近くやるのである。むつかしいプランや装置は、仕込みやリハに余計な時間と労力をとられるだけで、自他共に無駄で、迷惑なことである。演技、演出については言わずもがな。たった、数時間の講習で「わかった!」となれるほど生やさしいモノではない。わたしも、過去何度か講師をつとめたが、演技、演出、戯曲創作で実をむすんだことはない。 いくども、この「クラブはつらいよ」で触れてきたことであるが、部活は全国的に危機的な状況なのである。人と時間と金がない。演劇部もその例外ではなく。部員が五人以下というクラブがほとんどである。そこに優れているとはいえ、昔の(団塊の世代や、そのジュニアたちが現役であったころ)メソードは通用しない。だから、クラブはつらいのである。だからこそ、そのつらいクラブに合った、部活のメソードこそが、今必要なのである。
 かつて、「演劇をとりまく環境が悪くって」とこぼした、アマチュア演劇の指導者に宇野重吉さん(わかりまへんやろなあ……寺尾明のお父さん。劇団民芸の創設者の一人。二年前に亡くなった「となりのトトロ」の、おばあちゃんの声をやった北林谷江の仲間……わからん人はネットで検索してください)が、こう言いました。「座敷一間ありゃ芝居なんてできるよ」 また実際、新派の大御所、島田省吾さん(緒方拳の師匠。わからない人はネットでどうぞ)は、マンションのリビングで一人芝居をやっておられました。
 なにが言いたいかと言うと、この危機的な、つらいクラブの状況では、原点に立ち返らなければならないということである。演劇の原点とは、すなわち演劇の三要素。役者、脚本、観客の三つ。それゆえに、この「クラブはつらいよ」では、それ以外のことには、あえて触れない。しかし講習会で一つやって欲しいことがある。それは、芝居をやるときのマナーである。コンクールなどで、優秀な成績を残したクラブが案外マナーが悪くヒンシュクをかった例をたくさん見てきた。マナーについては後日余裕があれば触れたいと考えているので、ここではご容赦を。
 この夏休み、私服を着て図書館にいき至福の時間を過ごし雌伏することができているであろうか? 四月からこっち、あなたは、きみは、もう何本、本が読めたであろうか? 何本芝居を観ることができたであろうか? 一度自分の頭の中で中間決算をしてみてはいかがであろうか。夏休みは、自分の頭の中の演劇という部屋の大掃除をやって、クローゼットの中味を増やす時である。

【基礎練習】
今回は年齢や、性別による表現の訓練について考えてみたい。以前から、高校生が、自然に表現できる年齢の幅はプラスマイナス五歳程度だと言ってきた。しかし、そう制約してしまうと、やれる本は、かなり限られてしまう。そこで、わたしとしては反則なのであるが、年齢と性別を超えた演技を少し考えてみたいと思う。
(1)子どもを演じる。子どもといっても、もう幼児は無理……かもしれないが、あえて挑戦してみる。幼児や児童の時期は身体の準備運動期間である。公園や街で見かける子どもをよく観察してほしい。とんだり、はねたり、はたまた無意味に叫んでみたり。笑ってみたり。一見無意味にみえる行動だが、そこには子どもの心理がうらづけとしてあることを見抜いてほしい。
○横断歩道 子どもが四五人駆けてくる。二人渡ったところで、信号が変わる。残った子どもたちは、一瞬たじろいだり、悔しがったりする。渡りきった子どもたちと、横断歩道を隔ててなにか、会話がある。信号と、向こう側の仲間を交互に見る子。フライングしようとする子。それを止める子。そこから、じゃれ合いになったり、ケンカになったりもする。やや長い信号。待ちきれずに「待て!」といわれた子犬のようにチョロチョロし、やがて、信号が変わるやいなや、声をはりあげながら、横断歩道を渡る子どもたち。
 以上の状況を、いろんな設定でやってみる。公園に遊びに行く途中。遠足の日に登校する途中であった。友だちの家に新しく子犬が来たので見に行く途中。先生が入院しているので、そのお見舞いにいく途中。みんなで遊んでいたのが、急に雨が降り始めたので、急いで帰る途中。道路で倒れている人を見つけたんで、急いで大人を呼びにいく途中。などなど、
○ダールマさんが、こーろんだ! むつかしくはない。子どものころ、だれでもやった遊びである。高校生なら、数年前までは、やっていたと思う。そのころの感覚を思い出して、自分の中にうかんでくる無邪気なドキドキやハラハラこみ上げてくる、わけわかんない嬉しさを、ほんのちょっと増幅してやってみよう。喜怒哀楽の表現にブレーキがかかって、なかなか演技に入りこめない役者志望のきみには、いい練習になるだろう。
(2)老人になってみる。 老人になれというと腰(正確には、背中)を曲げる人がいるが、まちがいである。腰は落ちるものである。股関節を軸に骨盤が後ろに傾き、それをおぎなうために、膝が前に出て背中が曲がるのである。これを「腰が落ちた」という。歩くときも、若い人は、足と同時に少しではあるが腰が前に出る。これを少し誇張すると外人さんらしくなり、さらに誇張するとモデルさんの歩き方になる。研究生だったころ、よく「腰で歩け」と言われたが、このことである。老人になると、この「腰」が前に出なくなる。骨盤が動かなくなり、「足で歩く」状態になる。若い人も疲れると、こういう歩き方になる。駅や街で、お年寄りをよく観察しよう。お年寄りといっても、近頃は多様で、一見若い人と変わらない人もいるが、やはりご年配の共通点がある。ほとんど無駄な動きはしないということに気づくと思う。高校生も子どもに較べると、それほどでもないがやはりガサゴソし、感情が、そのまま動きにシャープに反映されていることに気づくと思う。
○横断歩道 老人が四五人やってくる。最初の一人が渡ったときに信号が変わる。残されたうちの一人が「先にいけよ!」というが、渡りきった老人は耳が遠くて聞こえない。そのうち無駄と悟り沈黙になる。空を見上げる者(光が目に入りクシャミになる) じっと信号を見つめる者(ただ、途中でなぜ信号を見つめていたかは忘れてしまう) アメをしゃぶりだす者。嫁などの悪口をつぶやく者。そのうち信号が変わるがしばらくだれも気づかない。ややあって、信号の変わったことに気づき、あわてて横断歩道を渡る。これを、いろんなシュチュエーションでやってみる。
○だ~るまさんが、こ~ろんだ。 子ども編でやった「だるまさんがころんだ」を、老人版でやってみる。詳しくは書かない。きみたちの観察力と想像力でやってみよう。
(3)性別を替えてみよう。本番としてはともかく、基礎練習では、一度やってみてもいいと思う。とくに、あなた、きみが演出をやるのだったら、恥ずかしがらずにやってもらいたい。異性の服装をしただけで「あ、こんなにちがうのか!?」と気づくことが多い。服の打ち合わせが男女では逆である。まるで、右利きの人が左手でご飯を食べるような違和感があるだろう。女の子なら、ズボンをはいてみよう。今の女の子はズボンにはあまり抵抗がないだろう、日常的にはく機会があるから。しかし自分が男と想定して男装してみると感覚が違う。女子校が、ときに女子に男役をやらせることがある。いやらしくはないが、どこか男になりきれず、違和感がのこる。宝塚の男役は、男が見ても男らしい。彼女たちは、宝塚音楽学校のころから、男役、娘役に分けられ、訓練されている。なにも宝塚をやれというわけではないが、一度、戯曲の一部か、わたしのコントのような短いもので試してみるといい。案外むつかしいことや、男役への向き不向きがわかる。男の子も一度スカートをはいてもらいたい。内股が直接接触する感覚に驚くと思う。「女っちゅうのは、こんな感覚で生きとるんか!?」という発見がある。男女共学校なら、『ロミオとジュリエット』の第二幕第二場など男女を入れ替えてやってみるのもお勧めである。机を四つほどくっつけてバルコニーとし、そこに男のジュリエットを立たせ、床をキャピュレット家の庭に見立てて女のロミオをひざまずかせ、世界で最高の愛の語らいをやってみよう。異性を演ずるのは、まさに演技である。地ではできない。「演ずるということ」を、演るほうも、観るほうもイヤでも感じなくてはならない。また、演出する者としては、演出することの意味 を、これまたイヤでも感じなくてはならなくなるだろう。役の入れ替えの効能は他にもあるのだが、紙幅の制限があるので、別の機会に述べることにする。

今月のコント【始まらない授業】
先生(老人) なんだ、みんなどこへいったんだ(教室や、廊下を見わたす)友子(児童) 先生、なにやってんの?
先生 ああ、友子か。他の子たちはどうしたんだ?
友子 ああ、体育の授業の後かたづけやってるよ。
先生 また、中井先生か。どうも今の若い先生は……おっと、先生の悪口じゃ ないよ。
友子 悪口じゃないの?
先生 ああ、中井先生は熱心な先生だ。そう言おうとしたんだよ。
友子 フフ ほんとかなあ?
先生 友子はどうしたんだ、また体育休んだのか?
友子 おなかが痛かったから。ほんとだよ。
先生 いつも体育やすんでるんじゃないか。
友子 そんなことないよ。
先生 先週は頭イタだったな。
友子 ちがうよ、めまいだもん。
先生 ほら、やっぱり休んだんだ。
友子 あ……
先生 ハハハ、友子はうそのつけない子だ。先生は、友子のそういうところが 好きだよ。
友子 ウフフ、先生って、ほめてくれるのうまいね。
先生 本当のことをいってるだけさ。
友子 ほめてくれたから、これあげる。
先生 なんだ、アメチャンか。
友子 ほんとは持ってきちゃいけないんだよね。
先生 そうだよ、でも、これは友子の真心だから(ポケットにしまおうとする)
友子 今食べてくんなきゃ、やだ。
先生 でも、もうすぐ授業だから。
友子 ちっこいアメだから、大丈夫だよ。いざとなったらガリってかめばいい よ。
先生 ハハ、そうだな(アメを食べる)
友子 わたし黒板ふくね。
先生 正確には、ホワイトボードだけどな。
友子 そうだね。でも黒板っていったほうが好きだ。
先生 先生もだよ。やっぱり教室には緑色の黒板でなきゃなあ。
友子 ミドリ色なのに、どうして黒板ていうの?
先生 ああ、昔はほんとうに黒かったからさ。先生が子どものころは、ほんと うに黒板だった。
友子 ああ、ここんとこどうしても消えないよ。
先生 ホワイトボードってやつは時間がたつと消えにくくなるんだ。どうれ、 先生がやってみよう……ううん、こりゃ雑巾で水拭きしなきゃだめだなあ。 友子すまんが、ぬれ雑巾もってきてくれないか。
友子 はいはい。
先生 はいは一回だけ。
友子 はーい(退場)
先生 こりゃ、英語の授業だなあ……まったく、小学校から英語教えるなんて、 文部省はなにを考えてんだか、ええ邪魔なIDカードだ。教師は犬じゃない んだからな、なんでこんな鑑札みたいなもんぶらさげなきゃならないんだ! ほんとに今の若い教師は……体育も、英語も、時間はまもらん、黒板は消さ ん。暇さえあれば、パソコンの前に座っとる。もっと子どもと……どうも歳 かな、疲れやすくて……

     先生机につっぷして、眠る。そこへ友子が、雑巾の入ったバケツを     持ってもどってくる。

友子 先生……寝ちゃった(スカートのポケットから携帯を出す)友子です。 先生、あ、佐藤さんまた会議室にきてます。ええ、眠らせてあります。ヘル プ願います。先生にとっちゃ、いつまでも小学校三年の友子……びっくりし ましたよ、初めてここに配属になったときは……今度、ほんとの黒板置いて もらえるように、所長にかけあっときますね……あ、ヒグラシ。もう夏も終 わりかなあ……林間で先生教えてくれましたよね。ヒグラシが鳴くともう秋 が近いんだって。もう、秋か……

     介護士の亜紀が車いすを押してやってくる。

亜紀 ごくろうさま。
友子 おねがいします。
二人 よっこらしょっ……と!
亜紀 やっぱ、友子ちゃん、移動?
友子 ええ、しかたないです。人が足りないのここだけじゃないし。
亜紀 その小学生のなりも、板に付いてきたのにね。
友子 もう、からかわないでくださいよ。これでも一級の介護士なんですから。亜紀 ケアマネになったら、少し楽になるよ。
友子 ええ、先生の授業が始まったら、考えます。
亜紀 ハハ、佐藤さんも、いい教え子もったもんだ。わたしは、新任の女先生 ってとこでやってみるかな。
友子 先生のことよろしくお願いします。
亜紀 まかしときな。
友子 じゃあ、先生、部屋におつれしにいきます(退場)
亜紀 うん、ここの片づけはやっとくからね……授業が始まったらね。か…… もう少しうまいしゃれ言いなよ。ね、ヒグラシの諸君。君たちが小学生にな って……無理か……ね!

     ヒグラシの鳴き声ひとしきり。幕。
 
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タキさんの押しつけ映画評10・バットマン THE DARK KNIGHT RISES

2012-07-29 10:16:28 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・バットマン THE DARK KNIGHT RISES

この映画評は、友人の映画評論家滝川浩一が、身内に流している映画評ですが、面白さと的確な評なので、本人の了解を得て転載しているものです。

 なんと見応えの有る映画なんでしょう。ちょいと感動的でした。こんな凄い作品が、アメリカじゃ賛否両論だそうで……。
 
 本作は165分の長尺です。途中、冗長に感じる部分があるが、ラスト15分、怒涛のごとく総てが明らかになる。そのカタルシスたるや半端じゃ無い。クリストファー・ノーランは現状世界最高のアクション監督です。冗長に思えた部分は、ラストのカタルシスを得る為に必要なストーリーでした。
 とりあえず、本作のビハインドをしらずとも充分楽しめる内容です、多少忍耐力はいりますが、それと、これも毎度のお約束、本作を見る前に、ぜひとも前二作の復習を、これ必修!…以下、ビハインドの説明です。うざったらしくなるので別に読まんでええですよ。バットマンは色んな意味で、アメリカそのものです。
 前作“DARK KNIGHT”製作時、アメリカはリーマン・ショックとイラクの泥沼化で、世界王の座から滑り落ち、自らの進路を見失っていた。そんなアメリカを背負うように、バットマンは強敵ジョーカーを倒しはしたが、彼の罠を破りきれず、総ての悪意を背負って闇に走り去った。
 現在、アメリカが完全に復活したとはお世辞にも言えない。この現状で、バットマンはいかにして復活してみせるのか、これが興味の第一点。 アメリカが、法治国家の仮面の下に自警国家の本性を、未だに隠し持っているのは何度となく書いている。バットマンは、自警団そのものであるが、ピストルを腰にぶら下げて、自分の身は自分で守った時代のヒーローではない。法の支配を意識せざるを得ないのである。即ち、スーパーマンが、飛ぶ前に飛行許可を求めるようなもので、これが彼のジレンマなのである。
 
 しかも、今回の敵、ベイン(前シリーズ「Mr.フリーズの逆襲」にも登場しているが、これは記憶から抹消して下さい)は、今シリーズ第一話に登場のラーズ・アル・グールの下にいた、言わばバットマンの兄弟子に当たる。ここから、正義と悪の二元論ではなく、悪対悪の構図となる。
 バットマンがいかに正義を振りかざそうとも、その底には個人的な復讐があり、彼が現代の自警団である以上、この構図はバットマン世界を支配している。彼は、この構図の中で自らの正義を証明しなければならない運命を背負ってもいるのである。バットマン世界では、常に善と悪の境目が揺らいでいる、今作では、どこにその境界線を引くのか。これは尽きせぬ興味である。ラスト、ベイン一党とバットマン・ゴッサム警察の間に、大ド突き合い決闘がある、拳闘士の古代でもあるまいに…しかし、これは必要な舞台セット、見れば納得いく仕掛けになっている。
 この辺りから、もつれた糸がほどけ始める。ベインは、なるほど強力な敵ではあるが、前作“ジョーカー”ほどの圧倒的な存在感を持ってはいない、このまま最後までこいつがラスボスなのか? だとすると、本作はつまらん映画に終わるんじゃないのか?
 まぁ、他にも幾つかあるが、この辺にしておこう。こんな、何じゃかんじゃ、も一つ言えば、こんな程度の役にわざわざマリオン・コティアールを使ったんかい?ってな疑問にも、ラスト15分に総て答えが用意されている。このラストは、ある意味「ユージュアル・サスペクツ」以上である。後は、あなたが自分の目で確かめるだけです。この作品が、あなたを100%たのしませてくれる事を信じて疑いません。
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高校演劇・ベジタリアンさんからの便り・2

2012-07-29 10:02:11 | エッセー
ベジタリアンさんからの便り・2

 いつも、熱心に拙文を読んでくださるベジタリアンさんから、お便りをいただきました。今回は、はっきりとご自分のご意見をお書きになっておられます。まずお読みください。


 続けて失礼します。しばらく演劇の話題が次々と入ってくるので、出来るだけ先生と意見交換をしていきたいと思っています。

 さて、今回もHPF公演の話です。先生は『シレンとラギ』という作品をご存知でしょうか?今年の春頃に藤原竜也さん主演で舞台が行われました。
 その『シレンとラギ』が今日、高校演劇という形で上演されました。上演校は、おそらく先生もご存じの学校さんです。府大会の常連校さんでもあります。
 私自身もすごく興味のあるお芝居でしたので、観に行ってきました。終わった後の拍手も一体感があって上手くお客様を惹きつけていると感じました。
 ただ、いくつか疑問やちょっと「考えてほしいな。」といったような部分もいくつかありました。以下はその内容です。

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1.台本
 今回の台本で上演をすることに関しては顧問の先生もまた生徒さん方本人もやる気満々だったそうです。(パンフレットより)
 ただ、高校生という枠組みでみると少々、物足りなさを感じます。
 高校演劇と大学演劇を比較すると、高校演劇はとにかく「終電ぎりぎりまでやる」等の無茶はしないということが原則で成り立っていて健康的であること、テーマがシンプルで観客に親切であることが挙げられます。
 一方で、大学演劇は高校生に比べて生きた年数が長いため、芝居の内容が濃い。ということです。
 今回のHPF公演でも経験値の薄さが出てしまったように感じました。簡単にいうと台本の内容が身の丈に合っていないのです。特にそれが顕著に出るのが「ラブシーン」です。
 『シレンとラギ』や野田秀樹の『カノン』は書き手が大人です。よって、そこに出てくる恋愛はどちらかというと「大人目線」になります。
「高校生」の恋愛はどちらかというと、『ウォーターボーイズ』や『H2』といった甘酸っぱいものを思い浮かべてしまいます。(あくまで私個人の意見ですが。)
 今回の芝居も切ないラブシーンが出てきましたが、何か物足りなさを感じてしまいました。
 先生は既成の台本を推薦されているかと思います。ただ、やりたいという熱いハートだけではうまくいかないこともあります。仮に既成をやるのであれば、「自分の身の丈にあっているか?理解をするにはどうしたらいいか?」ということを冷静に判断したり、ブレーン・ストーミングをして考えていくべきだと感じました。

2.お客様目線
 これは前説やカーテンコール等で気になったのですが、お客様にいかに「マナーを守って」且つ「大切にするか」を考えているかでその学校の雰囲気は決まると思います。
 HPFを観ていてもそれを感じさせられました。ある学校では前説を入れずにお芝居をスタートさせてしまったので、フラッシュ撮影を平気でする人や終了着後に場内で大声を出したりするお客様もいらっしゃいました。
 今日の公演においても、170人ぐらいですし詰め状態。足やお尻が痛い状態で、カーテンコールを長くやってしまいました。もちろんスタッフさんのお礼を言うのは大切ですが、「はっ…早く…足が(T_T)」という状態でした。しかも終了後に場内アナウンスを上演校さんが流したのでスタッフさんの場内整理の指示が聞こえない始末でした。
 高1の時のHPF公演ではノーカットで『キル』を2時間35分も観たことがありました。まさかこんなに長くなるとは思ってもおらず、後半は時間が気になって芝居に集中できなかった思い出があります。(帰宅後は家族にガッツリと怒られました。)
 こんなふうに、自己満足で終わってはいけません。お客様の状態を考えて省くところは省かなければ、と思いました。感謝の気持ちは十分に伝わっていると思います。
---------^
 と、以上が私の今のところの感想です。
 多くの皆さんは、「演劇は芸術だ。」という考え方をすると思います。しかし私は演劇には他の要素があると認識しております。

 それは、社会や会社経営においてのスキルアップだと思っています。

 企業って大きく分けると
 1.企画 2.製作 3.流通 4.営業

 この4つの動きで経営をしています。
 演劇も一緒です。作って終わりではないですよね。宣伝をしたり、受付でお客様の対応をしたり、各公演に向けて目標を掲げたり、とどうです?会社の理念に似ていませんか?演劇と他の芸術の違うところは会社のように一から企画(作品)を決めて進めていくところです。
 もちろん舞台を成功させるためには、お客さまの声は不可欠です。2.の「お客様目線」の内容のことは極力避けるべきなのです。
 よって、私は高校演劇は「単なる芸術」だけではなく「キャリア教育の材料」になると考えています。
 これでコメントを終わります。長文乱文室呈しました。


追伸
 万が一この文章を掲載する場合、ブログでいう、「炎上」の原因となる発言が含まれているかもしれません。入念には確認をしたのですが、もしそれでも不適切な箇所がある場合は文章に手を加えていただいても構いません。


高校生が、取り上げる芝居
 基本的に自由だと思っています。ただ、ベジタリアンさんがおっしゃるように「身の丈」にあっていることが条件です。『シレンとラギ』は、劇団新感線が、この六月にやった新作ですね。南北朝時代に舞台を置いた愛と罪悪感が相克する一大ロマンの世界です。

 新感線は、若い頃、わたし達と同じ貸し稽古場で稽古していた大阪の劇団なので(わたしは、やたら剣劇や、声のでかい劇団としか覚えていませんが、仲間の劇団員が、新感線であると教えてくれました)感慨ひとしおであります。南河内といい、新感線、太陽族といい、みんな活躍の舞台を東京にもっていって、寂しいかぎりです。

 新感線の芝居は、わたしも好きです。第一級のインチキ臭さで、それに徹して、見事に自分たちの世界にしています。しかし13000円の入場料は高いですね。
 新感線のパワーと、物語の展開力、表現力は、高校生には無理だと思います。やってみたいという気持ちは分かりますが、ゲンチャの免許しか持っていない高校生がGTの車を運転するようなものです。しかし、よく上演許可が出ましたね。これに取り組んだ意気込みは評価して良いんじゃないかと思います。

 とにかく、現物の舞台を観ておりませんので、一般論でしか述べられないことをお許しください。
友人の劇団に、劇団往来があります。そこの鈴木君がいつも言っている言葉に「演劇はカーニバル」というのがあります。わたしもそうだと思います。広い意味で面白ければよく、芸術であるかどうかは結果としてついてくるものだと思います。その点、この学校はカーニバルにしたことには成功したんでしょうね。
 しかし、カーニバルにもルールがあります。岸和田のだんじりは、激しいもので、時に死傷者が出るますが、よく「時には」ですんでいると思います。そこには暗黙のルールがあるのでしょう。どこそこの角は「危ないよって」これくらいの間隔は空けなあかん。とか、間違っても観衆が、興奮のあまり、だんじりによじ登ったり、などということはありません。

 昔、赤テント、黒テントなどのすし詰めの芝居がありましたが、ぎゅ-ぎゅ-になりながらも、劇団員の場内係りの人たちには心遣いがありました。観客も、きちんとマナーを(100%とは言いませんが)守っていました。
 フラッシュ撮影など、もってのほかですね。アナログの時代でも、高感度のフィルムで、フラッシュは焚かないのは常識でした。そして、たとえ閉幕後といえど、小屋を出るまでは声高に喋ることなど論外です。
 おそらく、観客は、芝居慣れしていない部員のオトモダチが主流で、文化祭のノリになってしまったのでしょう。おそらく悪気はないと思います。ただ、OHPは一般にも開かれた公演(だと思っていますが)なので、主催者側も、開演前、終演後のマナーについての「お願い」があってしかるべきだったでしょう。
 けっきょく、身内のカーニバル意識から抜け切れていない、マネジメントの拙さからくるものだと思います。ベジタリアンさんがおっしゃるところの1.企画 2.製作 3.流通 4.営業(ひっくるめてマネジメント)が頭からなく、自分たちの、狭い身内というファンの中でカーニバルとして演ってしまった結果だと思います。
 OHPは、一度だけ観にいきましたが、ベジタリアンさんと同じ「感銘」を受けて、二度と観に行っておりません。

「ラブシーン」について。わたしは高校生を指導していたときには、演らせませんでした。
 理由は二つです。

①高校生の演技で欠けているモノは、一般的に「自己解放」と「役の肉体化」です。
 「自己解放」とは、自分の感情(心)を使って喜怒哀楽を表現することです。高校生の大半は、それらしく演じているだけです。「それらしく」が通用する部活は演劇部ぐらいのものでしょう。流行の軽音やダンス部、今たけなわの高校野球など、「そのもの」=「本物」になってやっています。だから、大人の鑑賞、観戦に耐えうるのです。「それらしい」モノマネが通用するのは、オトモダチの中だけです。だからマスとしての高校演劇の観客は増えません。OHPは全体として、どれくらいの観客動員が出来ているのでしょうか、わたしは1000あるかどうかと思っていますが、ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。とても演劇運動と言える数字ではないと感じています。なぜ伸びないのか、アケスケに言えば「面白くない」からです。面白ければ、「AKB48]「ももクロ」とまではいかなくても、社会現象にはなると思います。ダンス部などは、この社会現象のレベルに達しています。
 その原因を、すごくオオザッパに言えば「自己解放」です。舞台の上できちんとしたコミュニケーションが出来ていません。台詞も説明的なので、見終わっても、舞台でなにが起こったのか分からずじまいというところが多くあります。
「ラブシーン」は究極のコミュニケーションと言っていいでしょう。「自己解放」が出来なければ、やれるものではありません。分かり易く言うと、水に浮けない者は、泳ぐことができないことと同じです。

「役の肉体化」とは、「自己解放」が出来た上で、やれることです。
 人間は、行動にも喜怒哀楽にしても、自分のカタチを持っています。役者は、役の、そのカタチを発見し、その役のカタチで演技します。水泳に例えると、浮くことが出来て、初めて、平泳ぎや、バタフライなどのカタチができるのです。

②「ラブシーン」は、本気と勘違いしやすい。きちんと役を形象化すればするほど、役として愛しているのか、本当に愛しているのか区別がつかなくなります。
 例えば抱き合うシーンがあったとします。高校生の男女が抱き合うのは、演技とは言え、かなり自己解放ができないと、やれるもんではありません。そして、本当に愛し合っている男女が抱き合う場合、上半身ではなく、下半身が密着します。演出的には、観客に見えやすいように、二人を少し観客の方に開かせます。しかし下半身が密着することに変わりはありません。で、抱き合えば、多くの場合キスシーンになってしまいます。で、かなり訓練された役者でも、若いと、この役と、自分の感情の区別がつきません。
 そして、なにより、高校生の男女に下半身が密着し、キスシーンに及ぶような演出は、日本ではできません。

自己満足の自家発電 
 ソーラーパネルの自家発電が、流行っています。あれ、発電して、余った電気は、電気会社が買い取ってくれます。これを「買電」といいます。で、買い取ってくれる電気の単価は、売られる電気よりも高く設定されています。ですので、日本中が、この「買電」をやったら、電力会社は潰れてしまいます。

 高校演劇が、これに似ていると言ったら、お叱りをうけるかもしれません。
 どう見ても、5の出来でしかないのに、観客は10の反応をしていることが、高校演劇では、よくあります。「買電」と同じです。5の発電しかできていないのに10の買価で買い取ることに似ています。
 だから、ひょっこり、たまたま覗いた大人はタマゲ、アキレテ二度と観に来なくなります。親友の映画評論家に昨年、一昨年と本選を観てもらいました。彼は、「今年はいけへんぞ!」 これが答えです。
 ベジタリアンさんの感覚は、多くの経験を積まれ、しだいに大人の目になってきていると拝察します。だからOHPをご覧になっても、親和的な温もりと、嫌悪感が同時にくるのでしょう。

 高校演劇を見る目が、甘いことは審査にも現れています。審査員は表面だってはけなしません。でも、現実は違います。現役のころ、審査員室で「あれだけ、誉めといたら納得しよるでしょ」と言って、某校を落とした審査員がいました。特定の学校だけ熱心に観て、他の学校では居眠りしていた審査員がいました。台本が乱暴で、社会的にも問題があるのに指摘しなかった審査員がいました。かわいそうに、その学校はそれでいいと思い上位の大会に出場、実行委員長の先生は始末書の原案を考えていました。また、ある学校は、既成の曲を替え歌にして、上位の大会で「著作権者の許可を得ていないでしょう」 その一言で、審査の対象外にされました。下位(と言っても、府県大会)の審査員は見逃していました。全国大会で審査員が「その芝居は、某劇団の演出、演技そのままのコピーです」と、これも審査対象外になりました。わたしが、コンクールの審査を信用しないのは、こういうことをヤマほど見聞きしてきたからです。全国大会の審査員を見ても、ときに「なんで、この人が審査員?」という人がいます。審査基準を持っていただきたい、と締めくくります。

 高校野球並、あるいは最近流行のダンス部程度の厳しさを、演るほうも、審査する側も持っていただきたいと思います。そうすれば、観客は、おのずから付いてくると思います。


  
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高校演劇・「ハイスクールOMS戯曲賞」に願うこと

2012-07-28 08:40:06 | エッセー
「ハイスクールOMS戯曲賞」に願うこと

 この度、大阪ガスの肝いりで、「ハイスクールOMS戯曲賞」が創設されました。
大阪府高等学校演劇連盟の先生方と「OMS戯曲賞」関係者の方々の、工夫とご努力に敬意を表します。高校演劇の外部からの戯曲募集はあまりありません。また「OMS戯曲賞」は、関西でも権威のある戯曲賞で、その冠を戴した戯曲賞の創設はまことに意義深いものがあります。

 ただ、二つの心配事があります

☆創作戯曲の地盤が育っていない
 大阪の高校演劇は、「創作劇を大事にし、それを誇りとする」ところであります。ただ、その実態は、ほとんど、コンクール前の間に合わせの未熟な作品で、その多くは、顧みられることもなく、使い捨てにされ、大阪における高校演劇の不振の原因の一つになってきました。
 わたしは、繰り返し、長期的展望の中で、書き手を育てることの重要性、また、創作劇の使い捨てに異を唱えてきました。今回の「OMS戯曲賞」は、連盟と、「OMS戯曲賞主催者」のみなさんの、情熱から生まれたことで、ここにいたるまでの、ご苦労は察してあまりあります。
 ただ、この戯曲賞の創設をもって自足してはいけないと危惧いたします。
 OMSさんにオンブするだけではなく、連盟自身が、創作に当たっての工夫と努力があって、実を結ぶものだと思います。
 夏の講習会で「劇作のワークショップ」があります。この時期の講習は、実質、短期間での劇作を奨励しているようなものです。
 アカラサマな言い方をすれば「こんな簡単、短期間で脚本が書けるんだ」という、間違ったメッセージを発信しつづけているようなもので、その結果は(わたし個人の見るところ)本選においてさえ、まともな本が出てこない状況を作り出しています。そして、高校演劇人口、観客数の漸減に歯止めがききません。
 「OMS戯曲賞」の創設で自足することなく、確実な書き手をそだてる努力、工夫をしていただき、創作戯曲の地盤固めの努力を並行してやっていただきたい、と思います。
 そのためには、単年度の創作だけではなく、過去の作品を見なおした改稿、改作の奨励。これが創作劇を大事にすることの基本であると信じます。

☆OMS戯曲賞に願うこと
 甘やかさないでいただきたいの一言です。水準に達しない作品であれば、「該当作品なし」の権威の高さを持っていただきたいのです。「OMS戯曲賞」という看板だけで、受賞者は「たいしたもんだ」と錯覚します。
 「OMS戯曲賞」の高い目をもって作品を見てやっていただきたいと思います。相対評価ではいけないと思います。絶対評価をもって審査に臨んでいただきたいと思います。甘い相対評価で、その実質を伴わない作品を選び、数回の募集で終わってしまった戯曲賞が過去にはいくらもありました。
 長い目で、高校演劇を育て、「OMS戯曲賞」がその役割をはたされるのには、そういう「目の高さ」が必要だと思います。
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高校演劇・「ハイスクールOMS戯曲賞」の創設に思う

2012-07-28 06:35:31 | エッセー
「ハイスクールOMS戯曲賞」の創設と「第1回ハイスクールOMS戯曲賞」の公募について
 下記のような、戯曲募集がされるようです。大阪の高校演劇に、企業が関心を持った、良い企画だと思いましたので、大阪ガスの生活情報から転載させていただきました。いままでの身内の評価では、なく。外部から「演劇」として評価される良い機会であります。応募期間を、もう少し前倒ししたほうが良いと思いますが、
こういう取り組みが、演劇の根幹である、戯曲を育て、大阪の高校演劇の低迷から、抜け出すことを期待します。願わくば、10年、20年の長いスパンで続けられることをねがいます。

大阪ガス株式会社(社長:尾崎 裕)は、大阪ガスグループの事業活動の基盤となる地域社会の活性化と発展、環境の保全を目的にスポーツ・文化活動、環境教育の実施などの社会貢献活動に取り組んでいます。そのひとつとして、関西の文化活動の振興を目的として「OMS戯曲賞」を主催しています。このたび、次代の劇作家育成の一環として、高校生を対象にした「ハイスクールOMS戯曲賞」を新たに創設し、8月1日より公募を開始します。

 「OMS戯曲賞」は、当社が昭和60年に開設した複合文化施設「扇町ミュージアムスクエア(以下、OMS)」の10周年記念事業として、次代を担う新しい劇作家の発掘と、既に評価を得ている劇作家に活躍の場を提供することを目的に平成6年に創設されました。OMSは平成15年に閉館しましたが、「OMS戯曲賞」は継続して実施され、毎年60~80件程度の応募を頂き、今年で19回目を迎えます。
 昨年は、その関西演劇文化への貢献を評価され、公益社団法人企業メセナ協議会さまから「メセナアワード2011 演劇ともしび賞」※1を受賞しました。

 今回、関西の劇作家育成の裾野をさらに拡げ、新しい劇作家の発掘および、大学生や社会人になっても戯曲を書き続けるモチベーションの向上を目的に高校生を対象とした「ハイスクールOMS戯曲賞」を設立します。
 当社は、このような取り組みを通じて、劇作家の育成や支援を行い、関西の演劇文化を振興させ、地域社会の活性化と発展に貢献していきます。
 
※1

「メセナアワード2011」は、平成23年4月から5月末にかけて全国で公募が行われ、88の企業・団体から94件の応募がありました。これらの応募案件について外部の専門家からなる委員会により選考が行われた結果、6件の活動が「メセナ大賞部門」に選出され、賞が贈られることとなりました。当社は、「OMS戯曲賞による関西の演劇支援」の活動が評価され、『演劇ともしび賞』を受賞しました。

▲ページトップ
○「ハイスクールOMS戯曲賞」の詳細について
1.応募期間
平成24年8月1日(水)~11月30日(金)※ 当日消印有効

 2.対象作品
 大阪府内の高校等に在学、または大阪府内に在住する高校生による創作(オリジナル)戯曲作品※2で、平成24年4月から11月までに実際に演劇コンクール、HPF※3、北摂高校演劇フェスティバル、文化祭などで上演された作品。
※2 演劇部作等の複数名による合作も対象とする。

※3 HPF(Highschool Play Festival)について

自由な舞台表現の場として、高等学校のクラブ活動の枠にとらわれない、フェスティバル形式の大阪府内の高校生のための演劇祭。平成2年にスタートし、毎年30校程度が参加。今年で23回目。大阪府内の劇場を発表の場とし、劇場スタッフによるワークショップなどを併催し、高校生と専門演劇人の交流の場を設けている。

3.応募資格

高校、盲学校、ろう学校、養護学校の高等部、高等専門学校(1年~3年)在学中の生徒

4.入選発表および表彰

平成25年1月下旬(予定)

5.賞項目および賞品

優秀賞(図書カード 3万円)1名

佳作 (図書カード 1万円)1名

6.選考委員(敬称略)

 林 慎一郎(極東退屈道場  第18回OMS戯曲賞大賞受賞作家)

 稲田 真理(伏兵コード   第18回OMS戯曲賞佳作受賞作家)

7.主催 大阪ガス株式会社

8、協力 大阪府高等学校演劇連盟 HPF実行委員会

9.応募先
大阪ガス株式会社 近畿圏部 社会貢献推進室
〒541-0046
大阪市中央区平野町4-1-2
TEL: 06-6205-4723
FAX:06-6231-0403
mail:socialhp@osakagas.co.jp

以上

■お問合せ先:大阪ガス株式会社 近畿圏部 社会貢献推進室 :電話06 (6205) 4723







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高校演劇・ベジタリアンさんからの便り

2012-07-25 20:54:38 | エッセー
ベジタリアンさんからの便り

久々にベジタリアンさんから、長いお便りをいただきました。まずご覧下さい。

大橋先生、お久しぶりです。しばらくの間、いい情報がなかったのでいい書き込みがあまりできませんでしたが、今回は久しぶりに書き込みをさせていただきます。

 現在、大阪ではハイスクール・プレイ・フェスティバル(通称:HPF)を開催中です。昨日も観に行ってまいりました。

 今回、紹介させていただく高校は、M高校です。
「えっ?どこ?その高校。」とお思いでしょう。
 大阪の真北。コンクールの地区ではB地区に当たります。同じ地区の高校としては、追手門学院等が挙げられます。
 M高校演劇部は創部五年目とまだまだ新しい部活です。しかし実力を着々とつけ、一昨年と去年に地区大会で優秀賞と鰻登りに実力をつけてきています。
 私はそM高校の出身ではありませんが、演劇フェス等でよく彼らのお世話をしていて、実の後輩のようにかわいがっていました。
 さて、そのM高校さんの芝居がどんな感じだったか、を書き込みます。(あまり文章は上手くないのですが。)

タイトル:ヒwritrr「(*・ω・)」
~引いたり押したりスライドさせたり~
まえがき 
 主人公、桐原朱音は正真正銘の「アホ」。勉強もできないし、将来についてもぼんやりとしているし、何と言っても特技がない。
 そんな彼女は仲間から外れていることを気にしないそぶりを見せているが、本当は辛かった。そんな彼女の唯一のストレスがノートに書き込みをすることだった。


 朱音は友人の咲良とおしゃべりをしている。咲良は傍らで勉強。勉強をしない朱音に咲良は、将来のために勉強するように諭すが、聞く耳を持たない。
「朱音って、常識ないよね。しかも恥知らず。」と言う。朱音は気丈に振る舞う。咲良が去った途端、朱音の周辺に変化が起きる。
 朱音が目を覚ますと、そこは謎の部屋だった。しかも朱音はその部屋から出られなかった。扉は、引いたり押したりスライドさせてもびくともしない。
 部屋に関してはその人の意思があれば出られるはずだ、という。
 そのへやで朱音は博斗と出会う。こうして朱音と博斗の奇妙な生活が始まったのだった。


 朱音と博斗は部屋からの脱出手段を考えるが出てこない。むしろ部屋に謎の少女や朱音のノートに宿る精霊が飛び出してくるわで、カオスな状態。そして朱音は相変わらずノートに何かをつけている。
 そんな中、朱音たちの高校の委員長と副委員長がとんでもないことを企んでいた。それは朱音たちのいる部屋を取り壊すこと。
 そのことを知った、謎の少女とノートの精霊、ルーカとリズは作戦をねり、朱音と博斗の二人に実行させる。


 作戦決行。しかし失敗。博斗は戦い続けるが、朱音は戦わない。
「私が言いたいことは、もうほかの人が言ってくれてるから…。」
 そんな朱音を博斗はどなる。彼は朱音のためにこの部屋を守っていたのだ。
 博斗の激に朱音は攻撃をしてくる委員長たちに対して、自分の思いを沢山記したノートでたたく。


 委員長たちを撃破し、何とか部屋は守られた。
 実はこの部屋は保健室。朱音は保健室登校をしていたのだ。
 朱音は自分で自分の意見を言うことの大切さを実感し、もといた教室へ戻ろうとする決心をする。
 こうして朱音は元いた教室へ戻っていった。


 …と。昨日の記憶なので曖昧な個所も多いと思いますが、あらすじです。
 プロの書き手である、大橋先生からすれば、けちょんけちょんにされそうな話ですが、私はこの話、そして彼らの演技が大好きです。理由は二つあります。

<演技>
 彼らの演技は潔さがあります。劇中でも戦闘シーンや劇中に三年生が進路の相談でくるシーンでも「家政学科」の説明で、『家政婦のミタ』を演じてみたりと一見アホらしく見えるものでも、彼女たちは立ち向かっていきます。その恥を捨てて演じる強いハートに惹かれました。

<台本>
 私は台本制作にはそんなに詳しくありませんが、今年HPF公演を見ている中で一番出来がいいです。
 この台本のテーマは「自分の殻を破る」ということです。箕面高校の前に三本ほど他の高校の公演を観ました。そのなかには箕面高校と同じテーマで上演をしていた学校さんもありましたが、重すぎで楽しめませんでした。笑いをとるために入れたギャグも無意味でした。
 それにたいして、この高校さんはギャグも取り入れていましたが、退屈にさせることもありません。ギャグの内容のテーマと一致していました。
 たとえどんなにテーマがしっかりしていても、うまく発信できるようになっていなかったら無意味なんです。退屈なだけなんです。

<タイトル>
 タイトルの「ヒwriter」は「心を開く」「扉を開く」「ノートを開く」と様々な意味が込められています。芝居を観た後ではっとなりました。

結び
 今の先生が高校生の創作台本に関していくつか問題を挙げていました。私なりに昨日のお芝居を見て気づかされたことを載せてみました。

・どんなにしっかりとしたテーマでも上手く発信できなければ意味がない。

・こわばらずに「アホ」になってみよう。

 こんなところです。

--------
 最後に
 どうですか?彼女たちは緻密さをもっと磨けば大谷高校に匹敵するだけの力はつけてくるだろうと私は確信しています。彼女たちは本当に「自由人」です。
 先生も是非、まだ知らない高校さんの姿を観に来てはいかがでしょうか?

※学校名は、該当校の承諾を得ておりませんので、仮名とさせていただきました。

みずみずしいアンテナ
ベジタリアンさんのお便りは、いいですね。高校演劇を見る目に愛情があります。アンテナがみずみずしい証拠です。還暦前のオジサンとしては羨ましく思います。

太宰治が、大昔、こんなことを言っていました「青春とは、否定をいたく好むもの」 たしか戦後間もなくの随筆にあった言葉だと思います。そんな世代的クセが、この歳になっても抜けません。
ベジタリアンさんのような暖かい人と、わたしのように、いささか否定=わたしは、決定的な問題が無い限り全面否定はしません。アマチュア演劇やプロの芝居の劇評をみてもらっても、お分かり頂けると思うのですが。
高校演劇も、よく読んで頂ければ、誉めるところは誉めているのですが、どうも、あまり誉めているようには見ていただけません。不徳の致すところであります。

WGの問題
WCではありません。GW(ゴールデンウィーク)のデングリガエシでもありません。WGとは二つのGです。

☆原則のG
演劇の原則は、観客・戯曲・役者の三つです。中でも戯曲が一番大事だと思っています。だから戯曲に対しての評が辛くなります。戯曲というのは、再演を重ねて練り込まれ、淘汰され、名作が残ります。高校演劇の創作劇は、ほぼ使い捨てです。だから練り込まれることがありません。良い作品を他校が上演することも、まずありません。「大阪は創作劇が多いことが誇りである」という先生がいらっしゃいます。現実的には戯曲の粗製濫造を勧めているようなものです。ベジタリアンさんが指導や応援されている学校が、創作劇を練り込まれ、高校演劇史に残るような本を残されることを期待します。
戯曲についての名言。別役実さんが言われた「中景の芝居」 現実から遠く離れた、SFやゲームのRPGのような芝居を遠景の芝居と言います。日常生活をまるまる写し取ってきたような芝居を近景の芝居と言います。別役さんは、一見近景のように見せて非現実的なものを投げ入れてきます。例えば、ありふれた電柱に首つり用のロープがかかっていたりします。ウンコを我慢する男が出てきて「この瞬間、生きてると……思える」など。ちなみに(……)は便意を堪えている間です。
あと、好きなのは司馬遼太郎さんが井上ひさしさんに向けた言葉「あなたは、本当と本当の間に、実にうまいウソをつく」 そう、戯曲なんて、本質はウソなんです。観客は、そのウソを楽しみに来ます。
そして、井上ひさしさんの言葉「むつかしいことを面白く、面白いことをより深く」という言葉も好きです。たぶんベジタリアンさんもご存じでしょう、大阪のM高校が「父と暮らせば」で絶賛されたことがあります。残念なことに、この芝居で娘の役を見事に演じた女生徒は亡くなられましたが、今でも、高校演劇の世界では伝説になっています。

高校演劇の役者は、水に浮けない水泳部に似ています。泳ぎ方は知っているのですが、残念ながら水に浮けません。昔から「畳の上の水練」という言葉がありますが、そういうことです。でも中には、ウケル芝居(カケコトバです)が出来る子もいます。古くは四天王寺の秋野さん、「父と暮らせば」の彼女、大谷高校の子達。他にも、わたしの知らないところで、そういう原石のような高校生がいるかもしれませんね。

☆現実のG
残念ながら、高校演劇は漸減、ひいき目に見ても停滞の状況です。ネットで冠に「高校」を付けて検索すればすぐに分かります。大阪は274の高校がありますが、演劇部が存在している学校は半分に満ちません。以前大沢ケイトさんが、自ら足を運ばれた高校は、演劇名門校でしたが、部員が少なく、芝居の出来は良かったのに観客席は寂しかったようです。そして、付け加えられていました。「軽音、吹奏楽は百人を超える」
そう、今の高校生の自己表現は、吹奏楽、軽音、そして近年ダンス部が急速に人気を得ています。こういう現実を認めなければならないと思います。
ヒントですが、ある演劇部が「舞台芸術部」と改称したところがあります。かつて、アマチュア演劇の国際大会に出たとき、最優秀をさらっていったのは、アメリカの「歌芝居」でした。台詞はほとんど無く、ストーリーも半分分かりませんが、エモーションとして伝わってくるものは、一流のエンタメでした。新しい高校演劇の在り方が問われている時代ではあると思います。
そして、新しいものは、否定するにしても既存の古い高校演劇、スタンダードな高校演劇を知らなければなりません。少なくとも演劇は知っていなければなりません。わたしは劇団新感線と、三谷幸喜の喜劇「桜の園」に注目(わくわく)しています。

☆もう一つのG
これは元気のGです。こればかりは、ベジタリアンさんにかないません。高校演劇という坂の上に、ポッカリと白い雲を見ている人は必要なのです。
わたしは現職であったころ、生徒の長所を見て接するように心がけていました。ヤンチャクレともオモネルのではなく、気持ちが通じていました。ある時の定期考査で、解答用紙を間違えて入れたことがありました。政治経済の問題に現代社会の解答用紙を入れてしまい、考査実施直後にわかり、急遽差し替えたことがあります。教師としては、あってはならないことでした、各教室を回って解答用紙を替え「申し訳ありません」と頭を下げました。その日の考査後、廊下でヤンチャクレに言われました「セン、今日は男下げたな」 このヤンチャクレは、教師である前に「男=人間」としてわたしを見ていました。
 お分かりいただけるでしょうか。高校演劇にもベジタリアンさんのようなアネゴが必要だと思います。どうか、坂の上の白い雲を見て、それを指し示しながら、道を歩んでください。わたしは、そうするのには老いすぎました。ある意味でいらないことまで見えてしまいます。だから「いらんこと言い」でやっていきます。
ベジタリアンさん、そして、ベジタリアンさんのような人にめんどうを見てもらっている演劇部に素敵な未来があることを願っています。
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高校ライトノベル・らいと古典・わたしの徒然草53『仁和寺の法師つづき』

2012-07-25 07:42:48 | エッセー
わたしの徒然草53『仁和寺の法師つづき』


徒然草 第五十三段

 これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎を取りて、頭に被きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞い出でたるに、満座興に入る事限りなし。

仁和寺とは、京都市右京区御室にある、真言宗御室派の総本山。遅咲きの八重桜などが有名で、よくドラマのロケにも使われている。あまり知られていないが世界文化遺産だったりする。
この仁和寺の法師の話は前段のほうが有名であるが、この段も面白い。
仁和寺のお稚児さんが目出度く正規のお坊さんになれるので、知り合いの仁和寺の坊主たちが集まって祝賀会を開いた。そのうち酔っぱらった坊主が、足鼎(三つ足の鍋みたいなの)を頭に被って踊り出した。当時のお稚児さんというのは、かわいいもので、坊主たちは、しばしば女の子のように、そういう対象にした。この坊主もそんなお稚児さんの気をひきたかったのかもしれない。
で、酔いが覚めて、その鼎を外そうとしても、顎や鼻が引っかかって外れなかった。むりやり引っこ抜くと、鼻ももげて、傷だらけになったという笑い話。
しかし、よく考えると、鼎というのは口が広く、底の浅いものなのである。なんたって鍋のようなモノである。被っても鼻のあたりまでくるぐらいのもので、口が広いので、被って抜けないということはあり得ない。

要は、坊主の与太話なのである。針小棒大というか、宴会で坊主がハメを外して鼎を被った話が大きくなっただけのもの。今風に言えば都市伝説。

こんな都市伝説がある。
前世紀の末、まだ携帯電話が普及していなかったころの話である。あるタレントAさんが車でテレビ局に向かう途中、渋滞に巻き込まれてしまった。とても本番には間に合いそうにない。そこで、車を降りて、公衆電話で放送局に電話をした。
「ごめん、道路が渋滞でさ、ちょっと間に合わないよ……」
渋滞と言っても、車の流れは少しずつ動いている。後続の車からクラクションを鳴らされ、このタレントさんは、早口で事情だけを話して、車にもどった。
で、この早口がアダとなった。電話を受けたテレビ局のオネエサンは、彼の早口と、興奮が憑りうつってしまい、担当のADに内線で、こう伝えた。
「Aさん、交通渋滞で間に合いません!」
で、これが、伝言ゲームのようにディレクターの耳に入るころには、こうなった。
「Aさん、交通事故で重体で……」
と、なってしまった。
警察に問い合わせたり、代役の手配、報道部では「Aさん、交通事故で重体!」のニュース原稿まで用意した。
で、大騒ぎの真っ最中、当の本人がひょっこりスタジオに姿を現し、みんなびっくりしたり、笑ったり。マネージャーも連れずに、名前のあるタレントが一人で放送局にくることなど、まず考えられず。これは仁和寺の法師の話と同列であろう。

こんな話もある。
ある高校生が夏休みに免許をとり、うれしくなって親父の車を借りて街に出た。携帯で仲間を呼び、同乗者が増えた。五人になったところで困ってしまった。運転している高校生を入れると六人になり、乗り切れない。そこで、一人は車のトランクに入った。体の硬いやつで、みんなに手伝ってもらって、やっとトランクに収まった。
これを近くで見ていた人が勘違いした。
――あ、拉致されてる!
で、その人は警察に通報した。パトカー五台と、ヘリコプターまで出動するという大騒ぎになってしまった。一時は、府警本部の記者クラブまで話がいき、夕方のトップニュースになるところであった。
幸い、免許取り立てのヘナチョコ運転、すぐにパトカーに捕まり、ことの真相が明らかになった。
明くる日、担任の教師共々警察にお詫びに行って、お灸を据えられただけで、メデタシメデタシ。
これ、都市伝説ではない。わたしが教師だったころ、実際に見聞したことである。
しかし、これを読んだあなたが、だれかに話し、そのだれかさんが、また他のだれかさんに話すころには、いろんな尾ひれが付いて、立派な都市伝説になっているであろう。
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タキさんの押しつけ映画評9・おおかみこどもの雨と雪/メリダとおそろしの森

2012-07-21 19:56:29 | 評論
おおかみこどもの雨と雪/メリダとおそろしの森


 奇しくも、成長と葛藤の物語が二本揃いました。しかも「メリダ~」は、タイトルからも判る通り、女の子が主人公(ピクサーアニメ始まって以来)、 日本じゃ 「ナウシカ」以来、野郎は脇役に追いやられ、ヒロイン中心の系譜が出来上がって久しい。あの「紅の豚」ですら、結局の所、女性の手のひらの上でした。
 こんな点でも日本のアニメは30年以上アメリカに先んじてます、エッヘン…いやまあ、威張る話やおまへんなあ。 両作品は家族の成長を描き、「おおかみこども~」は13年間の、「メリダ~」は2日間の物語です。どちらも感動ストーリーで、極めて良く出来上がっています。但し、ちょいと不満もあります。 
 先に、それに触れるとすると、まず「おおかみこども~」の方は、作画の出来の悪いシーンが有ること、恐らく外注に出されたのだと思われるが、明らかに荒れた画のシーンが有り、集中が切れる。
「メリダ~」の方は、さすがに世界最高のアニメスタジオ、手書き・CG共に欠点無し、メリダのびっくりするような赤毛の質感、重要キャラクターの熊の存在感、等々素晴らしいの一言。
 ただ、「メリダ~」への不満は、これは日本語タイトルの付け方と予告CMの作り方に問題が有るのですが、まず、本作の原題は「BRAVE」 勇敢なっちゅう意味です。「おそろしの森」は大して恐ろしくはありません。昔のスコットランドがバックグラウンドに成っています、イギリスの森は、神秘的ではありますが、ドイツ・東欧の「黒き森」のように恐ろしさをあまり内包しません。不思議なもので、アニメで作るのですから、いくらでもおどろおどろしく作れそうなものですが、これがそうはならないんですなぁ。自分の運命を変えるべく、森の魔法使いに魔法をかけて貰うのですが、その魔法のせいで戦争になりかける、魔法は、かけられて二日目の夜明けを迎えると解けなくなる。さあ、これからどんな大冒険が……ありゃりゃ~こいつは少々期待したのと違う。ふ~ん、そうなるんかいな位のお話…決してつまらない訳ではないが、予告編から想像したのはもっとスペクタクルな冒険なので、ちょいと期待をはずされる。

 粗方の責任は、作品ではなく、CMの作り方にあるのですがね。その点「おおかみこども~」は、家族の13年間を描き、自分の生きるべき道をいかに見出すか、じっくりと語って行く。やがてやってくる選択の時は、物悲しくもあるが、それは一家の問題に止まらず、もっと大きな自然への回帰、もしくは自然自体が自ら失われたものを修復しようとする営みとの出会いとでも言えるシーンに成っています。家族のお話から、もっと大きな世界を垣間見せるのは、宮崎駿のストーリー世界の作り方と同じ、細田守が宮崎駿の後継者だと言われる由縁です。「メリダ~」は、その点、短時間の物語ですが、その分時間が限られサスペンスフルなストーリー構成に成っています。
 いずれも、最大の見せ場を語るとネタバレになるので難しいのですが、日米の、全く違うストーリーながら、出来ればどちらも見て欲しい。この二作は、互いに補完しあっているように思えてなりません。奇しくも同じ日に封切られたのは、何かの「縁」があるような気がします……。
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タキさんの押しつけ演劇評論・三谷幸喜『桜の園』

2012-07-18 07:36:52 | エッセー
タキさんの押しつけ演劇評論・三谷幸喜『桜の園』


 タキさんは、今時、パソコンをやらないIT原始人。わたしはパソコンはやるけども、携帯電話を持たないIT原始人。で、原始人同士でつるんで……いえ、わたしが代理店になって流している演劇評です。


 三谷演出、チェーホフ作「桜の園」見て来ました。
 全く、この芝居はこう演るのが正しいっていう見本みたいな芝居でした。
「桜の園」は悲劇として、連綿と伝わってきたのですが、 とは言え、これら悲劇も、正統歌舞伎と同じく、日本演劇の宝である事に間違いは無く、そこまで否定はしませんが、このままでは観客は減るばかりなのは自明でありました。
 マイナーな舞台で喜劇として演じる事は、これまでもあったのかも知れませんが、今回、三谷幸喜というメジャー中のメジャーが「桜の園」を喜劇として蘇らせたのは、この芝居にとってどれだけ幸せな事であったか、どれだけエポックメイキングな事件であったか、計り知れないものがあるのです。今後、本作を上演するに際して、この演出が、一つの指標になるのは間違い有馬線。
 
 さて、今回の芝居そのものですが、まず、青木さやかにヴォードビルを演じさせて、劇場の空気を和らげておいて、それでも足りず、観劇に対する注意をまずロシア語で流し、通訳文をその後に付ける。曰わく「携帯の電源は切って下さい」云々。ところが、途中で「ピロシキには二種類有ります」なんぞと入りだし、つまり「あなた方がこれから見る芝居は今までのとはチョトチガウヨ」と二重の仕掛けで伝えている。これで劇場は完全に喜劇モード、見事な導入です。
 今回の公演で、三谷幸喜がどれくらい改変したのか、どこまでギャグをかましてあるのかが、観劇の見所でした。照明が入り、そこは、桜の園の屋敷の子供部屋。パリから戻って来る、ラネーフスカヤを待ちわびる人々…第一声が入る…意外や、殆ど原作のままである。
 しかし、これまでの芝居とはセリフのニュアンスが違っている。ギャグなど入れずとも自然に笑いが起こる。一言一句覚えている訳ではないが、これは見慣れた「桜の園」の冒頭シーンに違いない。しかも、驚いた事に、人間関係が一目瞭然に理解出来る。
 ロシア戯曲のネックは人物の名前に馴染みが無く、また、やたらと重々しく演じられる為、セリフに込められた意味がなかなか解らない……ちゅうことは、当然人間関係を理解するまで暫く時間がかかる。この枷が、少なくとも半分無くなっている、これだけでも事件であります。以後、ちょっとしたギャグ的セリフは入るものの、基本、元のテキストのままです。やはり、チェーホフは本作を喜劇として書いたのだと確信しました。

 三谷幸喜のこの芝居の読み解き方は間違っていませんでした。以降、登場する人物たちが、皆さん少しずつズレた人々で、それが明確に示されるので、各人がそれぞれにそこはかとなく可笑しい。
 筆頭は、やはりラネーフスカヤ/浅丘ルリ子、天然と言うより、自然…故に、彼女は自分の立場が解らない、理解する気もない。ただ無邪気に、無防備に、今や大きくうねる社会を渡って行こうとする、そこに彼女の悲劇が有るのだが、浅丘はそれこそ自然体で演じている。まるで、ラネーフスカヤその人が、そこに佇むようである。まさに、絶品。
 次いでは、これも無邪気ではあるが、新しい世界を積極的に生きようとするアーニャ/大和田美帆とトロフィーモフ/藤井隆が初々しい、これまでも藤井を単なる芸人と思った事は無かったが、彼は、この芝居で間違いなく1ランク上に上がった。
 三谷は、何もかもを笑いに変えた訳ではなく、例えば、三幕幕切れ、ロパーヒン/市川しんぺーが「桜の園を買い取ったのは、農奴の倅のこの俺だ!」と叫ぶシーンはそのままにしてある。ただ、ここに至るまでが笑いの連続なので、かえってこのシーンの残酷さが浮き上がる。ロパーヒンが始めから終わりまで、ただ一人状況を正しく捉えている。しかも、善意の人であるのに、全く受け入れられない。市川氏は、この役を極めて誠実に演じたが、この日は少々お疲れだったようで声が飛んでいた。それが力みに繋がったようで、声が正常であれば違う演技だったとおもう。
 これも没落貴族のピーシク/阿南健次、この人、何をやっても飄々と渡って行くのだが、今一乗り切れていなく感じた、或いは旧来のやり方に引きずられているのか? 本人は、そんな事はないと言っているが…
 旧来のやり方に拘りが有りそうなのは、ワーリャ/神野三鈴、しかし、彼女は三谷演出に添おうと努力しているのが良く解る。今後、大化けするとすれば、この人だろう。
 藤木孝/ガーエフは、完全に旧来の演出で演じているのだが、今思うと、これも三谷の計算なのかも知れない。
 江幡高志さんが老召使いフィールスを演じている。私は、この滅び行く旧秩序を体現するこの役が大好きです。誰も居なくなった桜の園に一人取り残され、あきらめたように子供部屋で眠ってしまう老人の姿に涙が止まらなく成るのですが、今回は不思議な事に涙は出ず、ほのかな安らぎを感じました。それだけ、三谷の、この芝居の世界に対する優しい視線が、本作の一番深い部分を見つけていたのだと思います。それはそのまま、チェーホフが自分の生きた時代に向けた視線だったのかな…なぁんて思ったりしとります。
 
 この芝居の、いつの分がディスクになるのか判りませんが、その時には、桜の園の台本を手に、どこにレジが入っているのか、三谷演出を解剖するように見てやろうと、手ぐすね引いて待っておりますです。
「桜の園」を良くご存知の方々へ、本来一幕と終幕が子供部屋で、二幕が庭、三幕広間なんですが、本作は、全て子供部屋で展開します。その分、違和感を持つ向きもおられるかもしれませんが、全く自然な運びに成っていますし、今回その方が良かったように思えます。桜の園の幸せな思い出は、総てこの部屋に由来する訳ですから、かえって象徴的な扱いだとも考えられると思います。
 まだまだ書きたい事はあるのですが、この辺にしておきます。際限が有りませんし、後は、機会があれば、ご自分の目と耳でご確認下さい。長々とお付き合い、ご苦労様でございました。では、また週末に、今週は アニメが二本、乞う!ご期待
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高校ライトノベル・らいと古典『わたしの徒然草・52』

2012-07-17 13:36:33 | エッセー
わたしの徒然草52『仁和寺の法師』

徒然草 第五十二段

 仁和寺にある法師、年寄るまで岩清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりかと心得て帰りにけり。
 さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしに過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。


 徒然草と言えば、仁和寺の法師と言われるぐらいに有名な段で、教科書で習う『徒然草』には、ほとんどと言っていいほど、この五十二段が出てくる。

 京都の仁和寺の坊さんが、かねてから都の南方にある石清水八幡にお参りに行きたいと思っていたが、ようやく念願を果たした。
 で、この坊さん、兼好法師のオッチャンにこう言った。
「いや、兼好さん、わたしはお参りしたんですけどね。なんやら、その奥の山の方まで行かはる人が大勢いたはったんですけどね。わたしは石清水さんをお参りすることが、目的やったさかいに、その山の上までは行きませんでしたわ」
 これ、わたしのようなボンクラに例えれば、パリのシテ(中之島)に行って、自由の女神のミニチュアを発見し、言うであろう感想に似ている。
「フランス人はミミッチイなあ、こんな小さい自由の女神作って喜んどる」
 実は、自由の女神というのは、こっちが本物。
 アメリカが独立百周年の千八百七十六年に、お祝いに巨大な自由の女神像を送ることになり、そのために作った原形。日本的に言えばご本尊。アメリカのニューヨークにあるものはこれをもとに拡大して作られたものであり。いわば巨大な写し(レプリカ)なのである。それを日本人は、こう思う。
「日本にあるパチンコ屋のモニュメントの方が大きいし、カッコいい!」
 ことのついでに申し上げておくが、アメリカの独立二百周年記念に日本は「平和の女神像をプレゼントしたい!」と、アメリカに申し入れ、断られている。一国の安全保障をアメリカ頼みにしている脳天気な日本ら、憲法九条の権化のような女神像を頂くなど、アメリカ人には笑止千万だったのだろう。
あの誇り高いフランスが作り、プライドの高いアメリカが大感激して頂戴し、アメリカの玄関先であるニューヨーク港に飾っているのは、アメリカの独立革命とフランス革命が密接に関係していて、世界中の市民革命のお手本になっているからである。まあ、本題に戻ろう。
 仁和寺の坊さんは石清水の麓の寺社を見て、それを石清水八幡だと思いこんだのである。
 石清水八幡というのは、その山の上にこそあったのである。
 何事につけ、経験のある先達(経験のあるガイド)というのは必要なものだなあ……という感想が、この段のテーマである。

 わたしは、この段には○と×の両方の感想がある。

 ○から。日本人は、大きな意味で先達から学んだ。いやDNAとして刷り込まれた弥生時代からの百姓根性である。米作りは、田植えや治水、稲刈りなど、集団としての秩序感覚が無ければできない。この秩序感覚は、古くは戦後の奇跡的な復興と経済成長。近くは阪神大震災、東日本大震災で見せた日本人の力や忍耐力に現れている。こんな状況でパニックや暴動を、ほとんど起こさないのは日本人の美徳である。

 ×は、日本人の一部の先達たちのお粗末さである。
 日本の学校の授業では、江戸時代や明治時代を否定的な傾向で教える。
 江戸時代は、幕藩体制と士農工商の身分制度の中で、大勢の民衆が高い年貢を巻き上げられ、塗炭の苦しみを味わっていたと教えられる。
 明治時代は、薩長の藩閥政治により、殖産興業、軍事大国化が推し進められた絶対主義の時代と教えられる。こんなに自分たちの国を否定的に教える国も珍しい。
 だから、学校で真面目に勉強した者ほど、日本を否定的に見たがる。一時そういうトッチャンボウヤを総理大臣にいただき、今の日本は進退ままならぬ状況にある。
 日清、日露の戦争と大東亜戦争を同列に評価してしまう。唯物史観だけで説明がつくほど日本も世界も単純ではない。また、大東亜戦争時の日本と、ドイツのファシズムはよく見れば違いがある。日本はホロコーストなどは、やらなかった。ヒットラーのような独裁者もいなかった。ただ大東亜戦争を引き起こした軍人や軍事官僚は、日清、日露の戦争をやってのけた先達からは、なにも学んではいなかった。日清、日露の戦争は、世界に日本が、どう写っているか、そして、自分の国の兵隊の数と懐具合を冷静に見ながら戦われた。そして戦わなければ日本の存亡にかかわる戦いであった。
 大東亜戦争を引き起こした人々は、神国日本としか思っておらず、神がかった思い上がりだけで、あの戦争を始めてしまった。

 身近な話になる。高校演劇である。榊原政常という大先達がおられた『しんしゃく源氏物語』などの名作を残され、その作品のいくつかは半世紀以上の時間を超えて、また、高校演劇の枠を超えて上演され続けている。その榊原先生が半世紀前の機関誌『演劇創造』に書かれている。
「近頃の創作劇は、台詞が一人称で、ひどく痩せてきている」
 この状況が今でも続いている。その証拠に、高校演劇のコンクールなどはひどく観客が少なく、ネットで検索しても、その件数は他の部活のそれを大きく下回る。地域によって程度の差はあるが、どこも似たような状況である。

 先達の方々が全て正しいと思うのも、無視するのも共に間違いであると思う。どうであろうか兼好のオッチャン?
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タキさんの押しつけ映画評・8「ヘルタースケルター」

2012-07-16 07:43:30 | 評論
タキさんの押しつけ映画評・8「ヘルタースケルター」

 いやいや、すげぇでんす。見ないでいいよ、じゃなくって「こんな映画は見ちゃいけない!」一本。  いや本間、久し振りでんなぁ、ここまでたった一言で切って捨てられる作品は。いやぁ、ヒデエもんでした。
 原作と監督、どちらにより責任が有るのか(原作は今読んでいるところ。嫌いな絵柄なので進まない)よう判りませんが、設定は古いわ、セリフは臭いわ、……兎に角、薄っぺらい作品で、見ていて苦痛。上映127分が3時間位に感じられ、映画中盤で「まだ終わらんのんかい」とイラつく。
 原作は16年前の連載らしいが……知らんなぁ、こんな漫画。私ゃ自他共に認める漫画読みでんす、どんだけ嫌いな絵柄でもエポックメイキングな作品は大概読んでいるつもりだが、まぁったく知らんなぁ。今、半分位読み終えたが、今作の出来の悪さの半分は原作に責任が有りそうだ。 売れっ子モデルがしゃぶり尽くされ、消耗して行くが、それでも自分の姿(自己を曝す…ではなく、あくまで外面だけ。しかし、姿を曝すのは、いかに取り繕っても、自分の内面を曝す事になることを理解していない)を世界でしか生きて行けない。

 そんな悲惨で虚飾に満ちた女の物語だが…描き方が、全く薄っぺらなステレオタイプ。4~50年前ならいざ知らず、16年前にこんな設定・構築の作品がエポックメイキングであった筈がない。それをまた、なんで今頃、わざわざ映画化してみせるのか、これまった理解不能。あまりにも類型的かつ安っぽいストーリーテリングなので、主人公に共感も、嫌悪感すら感じられない。蜷川監督の写真家としての感覚なのだろう、被写体を美しく見せる事が重要であって、世界(人生)の一部を切り取って、そこから真実を覗かせる事には関心が無さそうである。蜷川実花にとって「これが真実だ」と言うなれば、もうなんにも言えない、問題外である。ステレオタイプなのはストーリーだけではない、衣装のセンスもなんだか古いし、色使いも見ていて苦痛(特に“赤”)…なんとまあ、あんたホンマにファッション写真を撮っているプロ? そういえば、前作「さくらん」も、目に辛い映画でした。
 原色で塗りつぶした映画と言えば、中島哲哉(バコと不思議な絵本/嫌われ松子の生涯)を思い浮かべるが、本作に比べれば目に優しい。
 兎に角、スクリーンの中に、生きている人間が一人もいない、リアルのひとかけらも無い。これをリアルと認める事は、主演・沢尻エリカの内面が、この映画の通りなのだと認める事で…どうでもいいが、そりゃあ あまりにも沢尻エリカに対して残酷な話ってもんでしょ。エリカちゃんの裸は、それなりに綺麗だが、全く“エロ”を感じない、これじゃ全く無意味じゃんか。沢尻エリカの裸を見に来ている観客も居ただろうが、はてさて、堪能したんでしょうかねぇ。
 昔(60年代末)、アメリカ製ホラーポルノに、美容整形医師の妻が顔に傷をおい、それを治す特効薬が、人間の脳下垂体からしか作れないってんで、次々美人を殺しては首を切り取るという駄作がござんしたが、本作はまるっきり同じ範疇の作品でんなぁ。
 
 長々悪口を書いとりますが、結局一言、「見る必要無し」

 どころか「こんな映画は見ちゃいけない」一本。蜷川実花は、このまま行くと、角川春樹と並んで、邦画界の癌になりそうでんなぁ…そう言えば、親父の蜷川ゆきお(漢字忘れた)の演出も、一人よがりな所があるし(所詮、四季で二流の下の役者でしたからねぇ)、こりゃあ、“血”ってもんですかねぇ、やだやだ。
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高校ライトノベル・らいとエッセー『きかんしえん』って、知ってますか?

2012-07-15 19:55:01 | エッセー
『きかんしえん』って、知ってますか?
 
 もう十年以上前になるだろうか、新聞のコラム欄に載っていた。

「きかんしえんの、留意点はなんですか?」若いのが聞いた。
「きかんしえんはだね、主に……」年輩が答えた。
 ある日の山手線の中で、ふと耳に入ってきた会話である。最初は、医者同士の会話だと思った。
 ところが、話しが進むと、どうやら、学校の先生たちの会話であることが知れた。会話の中の単語に「生徒」「答案」などの単語が混ざってきたからである。それにしても「きかんしえん」とは……。
 会話の中頃で気づいた、「きかんしえん」とは「気管支炎」ではなく「机間支援」のことであると。
 社に戻って、教育関係に詳しい同僚に聞くと、こうだった。
「従来の『期間巡視』では、何か見張っている感じがして、拙いので、最近は支援という言葉を使うようだよ」
 
 このような内容であったと記憶している。記者は、教師のつまらない「言葉遊び」にあきれたように書いていたように記憶する。
 当時、現職であったわたしは、「東京は、アホなことやってんねんなあ」と思った。
 版元からのメール待ちの退屈しのぎに、ネットを検索していて、ふと、そのことを思いだし「きかんしえん」の言葉を思い出し……もう少し、詳しく書くと、息子が「ももクロのファンが多いで」と、昨夜言っていたのを思い出したのである。

 昔、某高校の演劇部の面倒を見ているうちに、あまりに芝居がはじけないので、「AKB48」の曲でも入れようかと提案し、イイダシベエのわたしは『ヘビーローテーション』を、振り付けごと覚え、生徒に教えるはめになった。それ以来、パソコンにAKB48の曲を取り込んで、退屈なときや、頭がカラッポでアイデアが浮かばない時に聞いている。ファンというほどではない。未だに高橋みなみを高山みなみと間違える。峰岸みなみは、タカミナといっしょに覚えたが、苗字が時として出てこず、その印象から、自分でもおっしゃっているガチャピンで覚えている程度。
 で、ヘッドフォンで聴いていても、時に口ずさんで、年甲斐もないオッサンファンと、家人にはキモがられている。
『大声ダイヤモンド』を不覚にも口ずさんでいるときに、半分揶揄(やゆ=おちょくった)したように、セガレに言われたのが「最近は『ももクロ』のファンが多いで」になったわけである。
 わたしは、昔懐かしい「のらくろ」のことかと思ったが、セガレは方頬で笑ってこう言った。
「『ももいろクローバーZ』のことや」
 世事にウトイ父は「?????」であった。で、さっそく「ももクロ」を検索。
――週末ヒロイン! これが売りの、なんとなく若き日にバイトでやっていた、仮面ライダーや戦隊もののアクション系着ぐるみショーを思わせる、アイドルユニットであることが知れた。何本か「ももクロ」の映像を見ているうちに、やはり馴染みのAKB48の曲にもどり、youtubeで観ていたのが『大声ダイヤモンド』のPVである。この公式PVは、文化祭の設定になっている。
 で、そこから、現職時代を思い出し、「きかんしえん」にたどり着いたわけである。

 ためしに「机間支援」で検索してみた。わずかに二つだけ残っていた。今では死語になっているようだ。
 大阪では、今も昔も「机間巡視」である。よくドラマで、授業風景で、これをやっているが、わたしは授業中は、ほとんど、やらなかった。理由は明確で、教壇を護るためである。うかつに教壇を離れると、出席簿や閻魔帳を盗まれた。ときに脱走する生徒がいたが、机間にいては、とっさの追跡に間に合わない。ここぞと足をかけられ転倒させられることもある。

「机間巡視」は、主にテスト中に行う。カンニング防止のためである。より正確には抑止のためである。
「これだけ、ガン飛ばしてんねんぞ。カンニングさらすなよ」で、ある。
 教壇に立っているだけでは抑止にはならない。机の間を巡り、主に斜め後ろからの視線が有効である。一通り巡り終えると、最後尾中央で立っている。生徒は、これが一番威圧感を感じるようである。実際は、この位地が息を抜ける場所である。こちらが若いと見くびってカンニングしそうな生徒には真横に貼り付いたりもした。
 教師も歳をとると、それなりに押し出しが効くようになり、そんなことをしなくてもカンニングをされることは無くなった。カンニングする生徒は「カンニングする」オーラを放っている。いわゆる気配でそれと知れる。カンニングの手法は様々であるが、真似をされると困るので、手口は書かない。
 巡視のテクニックだけ、記しておく。観るのは、真横の列ではない。その一列となりである。その方が、生徒の手許がよく見える。くり返すが、抑止のためである。その斜め後ろからの視線が、生徒達には一番痛い。
 また、廊下側 の窓ガラスに映る様子から、ガラスに反射させてガンを飛ばすこともある。たとえ、ガラスに反射させても、気配は感じる。

 ここまで、読まれた方は、「大橋というやつは、なんちゅう陰湿な奴や」と思われるかもしれない。
 しかし、大半の生徒の受け取りようは違う。先生が真剣に試験監督をやってくれていると、安心する。
 カンニングは、周囲の生徒も気配で分かるもので、ぼんやり教卓で頬杖ついている教師よりも信頼される。

 学校に、なにかクレームの電話をされたことがあるだろうか。近頃は教師の応対もかなり改善されてきている。しかし、この慇懃な言葉は要注意である。

「どうも貴重なご意見ありがとうございました」
 
 これは――もう、話しは、これで打ち切り、これ以上は聞きません。という意味である。
 セガレの学校に電話して、何度か、これをカマされた。
「そんな、打ち切りのサインださんといてください」と、粘った。
 粘った理由には、それなりのオモシロイ(今になって言える言葉)エピソードがあるのだが……ここで、版元のメールがやってきた。
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高校演劇・夏期講習会(1)演技

2012-07-09 22:00:25 | 高校演劇基礎練習
高校演劇・夏期講習会(1)演技
 
 
この夏も、全国各地で高校演劇連盟の講習会が開かれる。個人的には、夏の季語になってしまった。

 何度も繰り返すが、演劇の三要素は「戯曲、役者、観客」の三つである。したがって、この三つに絞り込んで、ネット上の夏期講習会をやりたいと思う。

で、初回は演技について
 演技は、水泳に似ていると言ったら驚くだろうか。「ああ、聞いたことがある」という人は勘違い……または、わたしと同じ発想の人である。
 水泳の第一歩は、水に浮くことである。仰向けになって、適度に脱力すると、自然に人間は浮くようにできている。アップアップと沈んでしまうのは、下手に緊張して手足をばたつかせる人である。このことは、割に簡単に理解していただけると思う。
 逆に、水に浮けない人に泳ぎ方を教えるのは無謀であることが分かる。古来「畳の上の水練」と言って、無駄なことの代表的な言い回しである。講習会では、この浮けない人に泳ぎ方を教えているのに等しいものもある。まずは浮くことから話しを進めたい。
 しかし、プロになってウケない芝居をやっていてはいけない……ダジャレは封印する。

☆脱力
 何も、将来プロの役者になって、死人の役がくるときの準備ではない。余談だが、数ある子役養成プロダクションでは、本当に死人の役がきた場合にそなえて、やっているところがあるらしい。

 人というのは、その場、その状況に合った緊張をしている。四月の新学期、たいていの新入生は遠目からでも新入生であることが知れる。これは、新しい環境に馴染めずに余計な緊張をしているからである。
 役者というのは、その場、その人物(時に動物であったりもする。四季の『キャッツ』など、そうであるが、基本的には人間)その状況に合わせた緊張ができなければならない。

 いわば、役者の体と心は、役としての人物を入れる器(うつわ)なのである。普通の人でも、器を持っている。だから、遠くから観ても「ああ、大橋のオッサンや」ということになる。
 勘のいい人なら、もうお分かりだと思うのだが、役者の体(心はあとで)は、どんな役でも入れられるように柔らかくなくてはならない。また優秀な水泳選手は、泳ぐときに無駄に手足をばたつかせ、余計な水しぶきをあげない。だから、まず脱力を学ぼう。
 
 コンニャクになってみる。人間の体の70%は水分だそうである。いわば人のカタチをした革袋の中に、数え方にもよるが230~360の関節があるそうで、もうほとんど水袋と変わりない。
 仰向けに寝て、体の緊張をほぐしていく。ほぐしたつもりでも、なかなかほぐしきれないものである。特に股関節、首の筋肉などは難しい。
 ほぐせたと思ったら介添えが両足首を持って、水袋を揺するようにプルンプルンとゆすってみよう。きちんと脱力できていたら、足から頭の方へプルンと揺すりのエネルギーが抜けていくことが分かる。たいてい、やっている者も、やられている者も、そのおかしさに、ウフフ、アハハになる。で、笑ったとたんに体は液体から固体になって、緊張と脱力した状態の違いが分かる。

☆立ち脱力
 立ったまま、脱力……したら、倒れてしまう。立っているのに必要な緊張だけを残して立ってみる。イメージとしては、リラックスした立ち方。又は、身の丈ほどの草かコンニャクが立っていると想像する。
 で、ここが一番ムツカシイのだが、床が前後にユラっと揺すれたと想像し、その力を足から、腰、腹、胸、首、頭に抜けていくようにやってみる。うまくいくと特大のコンニャクが、プルンと揺すれたように見える。
 
 これで脱力の意味は分かっていただけたかと思う。役を入れる器としての体を柔らかくしておくことである。しかし、脱力の練習は、つまらないので、先に行く。

☆適度な緊張
 人は、日常、その状況に相応しいだけの緊張感をもっている。たとえば歩くという行為だけでも、学校へ行く。それも遅刻しそうになっている。大好きな文化祭の朝、最後の仕上げに急ぎ足になる。友だちとケンカした明くる日。卒業式の日の朝。それぞれに違う。
 バイトの面接にいく。彼(彼女)とのデートに出かける。みんな、緊張の具合が違う。それに相応しい緊張感で歩いてごらん……わたし達が若い頃にやらされて、戸惑い、落ち込んだエチュードである。だから、みなさんには勧めない。

 椅子取りゲームをやってみよう
 人数に一つ足りない椅子を用意して、音楽に合わせて、みんなで、その周りを回る。そして音楽が停まった瞬間、一番身近な椅子に座る。当然一つ足りないので、おもしろい椅子の奪い合いになる。ダルマサンガコロンダでもフル-ツバスケットでもいいのだが、この椅子取りゲームが一番ノリやすい。
 人数が多ければ、ゲ-ムをする側と見る側に分かれるといい。見ている方も、やっている方も楽しく笑いながらできる。
 大事なことは、楽しいことである。そして、なぜ楽しいのかがよく分かること。みんな音楽に合わせながら、椅子に集中し、手早く椅子に腰掛ける人間(回数をこなせば、得意な人間が分かってくる)に意識が集中し、ゲ-ムに相応しいだけの緊張感を正直に、無意識のうちに持っていることである。
 こうやって、相応しい緊張感ということを体感する。

自己紹介
 日本人は、プレゼンテーションの訓練を学校でやらないし、家庭や地域でも、その機会が少なく、自己紹介はヘタクソで苦手である。演劇部でも新入生が入ってきた学年始めに、たいていやるが、演劇部でもヘタクソである。で、やり方を変える。

 もし舞台があったら、舞台の上に、面識のない二人を上げる。
「なにか、二人で芝居を演ってごらん。相談なしに」
 二人は、どうしていいか分からなくなるだろう。どちらかがヤケクソにしゃべり出すか、気まずい沈黙が流れるか。そして、なにより戸惑いの緊張感があることに気づくだろう。集中線は、相手1/3と観客席2/3ぐらいになっている。
「二人で、お互いに知らないことを聞いてごらん」と、水を向ける。そして椅子をそれぞれに与える。
 最初は、名前や、住所、趣味の話しなどで、かみ合わずぎこちないかもしれないが、そのうちに共通の関心が出てきて、話しに熱中するようになってくる。かみ合わないようなら、「学校、どう思う」「このクラブどう」などと、軽く話題を投げ入れてやってもいい。
 二人が、互いに話しに熱中しだすと、集中線が観客席ではなく、相手に向けられていること。不安定な緊張感が無くなり、ときに漫才のようになり、観客席で観ている者も引き込まれ笑い出すことがある。
 このことで、舞台では、状況に合わせた(合った)緊張感が必要であり、それが有効なものであるとき、劇的なオモシロサが出てくることが分かる。

☆無対象縄跳び 
 若い頃、無対象の練習をよくやらされた。「自分の部屋」という、無対象の極地があった。自分の部屋を想像し、その結界だけをバミリ、あとは自分の部屋にいるようにくつろいで、自由にしなさい。というものであった。スタニスラフスキーの時代からの基礎練習で、有効ではあるが、かなりムツカシイし、時間がとられる。発展系に「自分のお風呂」というものもある。無対象で服を脱ぎ、自分が自分の浴室でやっていることを一通りやりなさい。というもので、かなりムツカシイ。
 これらの訓練は、単なる無対象だけではなく、自己解放の意味合いもある。自己解放というのは、役者が、物まねではなく、自分の感情を使って、役の心理を表現するのに欠かせないステップなのだが、有効で安全なメソードは、わたしは、まだ開発できていない。

 で、代わりに、縄跳びをさせている。最低でも6人ぐらいは必要である。2人が大縄跳びのロープを持ち、他のメンバーは、次々に、その無対象の縄跳びの中に入っていく。全員が入れたら、5回ほど、みんなで跳んで、一人ずつ抜けていく。
 不思議なことに、たいていの者が、すぐに出来る。意識を集中しなくても回る縄は、簡単に見ることができ、もし、縄に引っかかった者などがいると、全員が「あ~あ」ということになるからオモシロイ。
 この縄跳びには、適当な緊張感とは何か。無対象演技(役者としての想像力)とは何か。そして、チョッピリ自己解放の要素が入っている。

 おおよそ、緊張が演技にもたらす影響を理解していただけただろうか。椅子取りゲーム、二人の自己紹介、集団縄跳び。みんな、その状況に相応しい緊張感が簡単に感じることができるメソードである。
 もし、芝居の本番中、舞台に猫が現れたら、確実に観客の視線は猫に持って行かれてしまう。
 猫は演技しない。舞台の上に興味のあるものがあったら、完全にそれに注目して近づいていく。それが、ネズミのオモチャであったりすると、猫は本能的に狩りの姿勢をとり、そろりそろそりと接近。そこには無駄な緊張など無く、真剣そのもののハンティングする猫の存在になる。
 このように、きちんとした緊張と集中こそが、観客の目を舞台に向けさせることができる。

☆反応
 舞台で、人を呼び止める場面があったとする。
 かなり、訓練された役者でも、ここでダンドリになってしまうことがある。相手の演技や台詞に止めるだけの力がないのに、止まってしまう。ここに演技としての「ウソ」が始まる。この「ウソ」をやられると観客の興味は、急速に冷めていく。

 具体的な例で示そう。チェ-ホフの名作に『ワーニャ伯父さん』がある。
 劇中第4幕で、ワーニャ伯父さんが、自殺しようとして、医者のアーストロフの鞄からクロロホルムを盗み出す。アーストロフが「返してくれ」と言ってもきかない。そこで、姪のソーニャが、こう迫る。
「伯父さんはいい人ね、あたしたちを、可愛そうだと思って出してちょうだい。我慢してね、伯父さん、我慢してね!」
 この姪の嘆願にワーニャ伯父さんは、引き出しから、クロロホルムを出して、ソーニャに渡す……ことになっていた。
 しかし、ある日、ロシアで、この『ワーニャ伯父さん』が上演されたとき、ワーニャ伯父さんは、そのタイミングになっても、クロロホルムを渡さない。ソーニャ役の若い女優は困ってしまった。
 これ、別に、オッサンの役者が、若い女優をいじめたわけではないのである。ソーニャの嘆願に「ウソ」があったからである。女優は役を超えて「渡して下さい、お願いだから……!」という切ない表情になり、そのときワーニャ伯父さんは、初めて姪の心からの訴えに反応して、クロロホルムを渡した。
 舞台で、行われることは、全て台本に書いてあり、結果は、あらかじめ決まっている。で、役者は、必要で過不足のない緊張感をもって演技に臨まなくなってしまう。「ダンドリ芝居」「引き出し芝居」と言われる、高等な、でもジェスチャーに過ぎない。
 例を、もう一つ。
『ローマの休日』でオードリー・ヘプバーンが、グレゴリー・ペック演ずる新聞記者といっしょに、ローマの名所を見物するところで、有名な「真実の口」のシーンがある。
 オードリーのアン王女が、おそるおそる「真実の口」に手を入れた後「今度は、あなたの番よ」と言う。
 この「真実の口」は、ウソつきが手を入れるとかみ切られるという言い伝えがある。台本では、新聞記者のジョーは、ビビリながらてを差し入れるだけで「あなただって、怖がってたじゃない」と、続くはずだった。
 グレゴリー・ペックは監督と相談し、オードリーには内緒で、手が引き込まれ噛みちぎられるアドリブをかました。オードリーは必死で、ジョーの手を引き抜こうとし。引き抜いた腕から手首が無くなっていることに卒倒しそうになる。そこでジョ-は「ハロー」と言って、袖の中に隠していた手を出す。
「もう、本当に、噛みちぎられたと思ったじゃない!」アン王女は、ジョーの胸を叩く。
 非常に有名なシーンで、ご存じな方も多いと思う。このシーンは、アドリブながら一発でOKが出た。
 つまり、オードリーは、そのときのアン王女の心理で反応したのである。
 無対象の縄跳びで言ったことと共通するものが、ここにはある。

 この話をするとキリがないので、これで一区切りとするが、分かっていただけたであろうか。
 とりあえず、泳ぎ方を教える前に、水に浮くこととはどういうことかということをお話した。

☆感情表現
 さて、水に浮けるものとして話しを進めよう。
 役とは、なんらかの感情・情緒を絶えずしているものである。漢字で「喜・怒・哀・楽」の四文字。技術的アプローチと、メンタルなアプロ-チに分けて話していく。

技術的アプローチ
 感情表現は、大きくは拳を振り上げるような大きなものから、ピクっと頬が引きつる中くらいのもの、微かに顔色が変わる小さなものまで、各種ある。いちいち言及していては、2万字というブログの字数制限を超えてしまうので、かいつまんで説明する。
 人の筋肉は、意思のままに動く随意筋(例えば、手を上げる。首をかしげる)と不随意筋(心臓や内臓の筋肉)そして、訓練次第で動く半随意筋(耳を動かす、ウィンク=欧米人には随意筋であるが、日本人の大半は半随意筋)がある。

 役者の肉体訓練は、体育会系のそれとは違う。丈夫さと柔軟さは、並の人間より少し高めぐらいでいい。随意筋のより高いコントロールと、半随意筋の可動化である。
 
 横隔膜という随意筋がある。胸と腹の境目にある筋肉で、これがなければ呼吸ができない。普段は意識しなくても動いている。思わず横隔膜を動かすのを忘れて死んだ人間はいない。僅かな時間なら停めることもできる。いわゆる「息を止める」ことである。
 横隔膜をケイレンさせることを身につけて欲しい。一発だけのケイレンは「しゃっくり」または瞬間的な笑い「ハッ!」である。このケイレンを持続的にできるようになろう。そう、持続的にケイレンさせれば、笑いになる。「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」で笑えるように訓練しよう。は、は、は、は、とケイレンさせ、次第にその早さを増していく。早い人は半月ほどで笑えるようになる。泣きも、程度によっては横隔膜がケイレンする。いわゆる泣きじゃくりというやつである。「笑い3年、泣き8年」などと役者の中では言われているが、真剣にやれば、そんなにかからない。
 他にも表情筋は鍛えておかなければならない。日本人は一般に笑顔が苦手で、笑ってというと、虫歯の痛みを堪えているような顔になる。鏡を見て、訓練しよう。よく訓練できれば表情筋をケイレンさせることもできる。

メンタルアプロ-チ
 台本に「笑う」演出から「笑え」と指示されて笑っていては、観客が共感できる「笑い」にはならない。
 舞台における喜怒哀楽は、物理的記憶の再現によってなされる……などと書くと、非常にコムツカシイものになってしまう。思い出していただきたい。椅子取りゲームや無対象集団縄跳びが、なぜおもしろかったのか。
 椅子取りゲームにしろ、無対象集団縄跳びにしろ、そこにはインストラクター(演出)の「楽しそうにやって」という指示はない。でも、楽しいのである。
 椅子取りゲームでは、椅子なり、椅子を狙っている仲間の顔なり、今にも停められそうな音楽に意識が集中している。
 無対象集団縄跳びでは、回転する縄に意識が集中し、あるものは縄に飛び込めた成功のイメージが、あるものには、失敗して縄を引っかけてしまうイメージが、その集中から喚起されてくる。だから、失敗しないようにタイミングを計ろうとし、縄が回転するテンポ、リズムに自分を合わせようとする。で、うまくいったらニマニマとなる。失敗すれば集中線がズッコケて笑いになる。けして笑おうとはしていない。
 役者が舞台で集中するのは、次の台詞や、芝居のダンドリではない。役として真実である具体的なモノに集中している。椅子や、縄が、そうであったように。

 具体例を。体育の体育の着替え中に、真剣な話しをしている。その最中、一人のスカートがホックのかけ方が悪く、ストンと落ちる。真剣な話しの最中にスカートが落ちるというアクシデントで笑ってしまう。
 基本的には、無対象集団縄跳びと同じであるが、数段ムツカシイ。
『ローマの休日』の真実の口のように、相手役に内緒でやってみてもいい。スカートは床まで落ちるかもしれないし、反射神経が良い(設定ならば)落ちかけのスカートを、途中で、押さえられるかも知れない。いずれにしても、真剣な雰囲気はこわされ、笑いにつながる。
 このエチュードをやるときは、スカートの下はハーフパンツではいけない。AKB48の子たちのように、ミセパンを穿いていてほしい。ナマパンがいいのだが、高校という枠の中では、そこまでやらなくてもいい。
 で、このエチュードをくり返してみる。くり返すと、スカートが落ちることを予感してしまい、しだいに笑えなくなってくる。演劇とは再現性のある芸術で、同じことを何度も再現できなくてはならない。しだいにダンドリになってしまい、演技として新鮮さが失われていく。前述した『ワーニャ伯父さん』のソーニャが、そうである。ソーニャ役の女優は、ワーニャ伯父さんがクロロホルムを渡してくれることが当たり前になり、「渡して下さい、お願いだから……!」の台詞に真実性が失われてしまったのである。だからベテランのワーニャ伯父さんは、いつものようにはクロロホルムを渡さなかった。

 もう一つ具体例を。彼を自分の部屋に招いて、二人だけのパーティーをやろうとしている。バースディでもいいし、クリスマスでも、婚約記念、彼の何かの成功でも構わない。いそいそと準備をしていると、玄関でチャイム。「彼が来たんだ!」喜んでドアをあけると、彼との共通の友人が立っている。
「彼、○○のことで来られないって。メールじゃ失礼だから、あたしに知らせてくれって……じゃ、あたし、仕事の途中だから」友人は去っていく。
 この後に、いきなり落胆や、怒りの表現をしたら、演出としても、役者としても未熟であるし、芝居はダンドリの説明演技になってしまう。感情が湧いてくる前に、今まで作った料理などのパーティーの準備に意識がいく。「これ、どうしよう」「これって、無駄になった」そう、「これ」に意識が集中される。あとは、役者が設定(意識的にも、無意識的にもやっている)した役の個性で行動する。ゆっくりと片づけ、その途中で涙がこぼれるかもしれない。カッとなって、パーティーの用意をひっくり返すかも知れない。
 大事なことは、いきなり感情に飛びつかないことである。集中するものは、基本的に、具体的なものかも、無対象かもしれないが、舞台の上にしかない。
 感情というのは、物理的な観察や、記憶の想起から湧いてくるものである。高校生の芝居のほとんどは、これができていない。

 水泳に例えて、浮くことが大切と言ってきた。そして泳ぐことに関しては、バタ足程度のことを示してきた。
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高校ライトノベル・らいと古典『わたしの徒然草・51』

2012-07-09 06:04:13 | エッセー
わたしの徒然草51『万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり』

 徒然草 第五十一段

亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を作らせられけり。多くの銭を給ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、いたずらに立てりけり。
さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせた りけるが、思ふように廻りて、水を汲み入るる事めでたかりけり。
万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。

後嵯峨上皇が、嵯峨野に亀山殿を造営した時。庭の池にを大井川から水を引こうと計画して、大井の百姓を集め大井川に水車を作らせた。時間と金をかけたがうまくいかず、宇治の百姓たちにやらせたら、上手くいった。やっぱ、世の中、餅屋は餅屋だなあ!

そういう話、というか、それだけの話である。
当時から、石垣は、比叡山麓の穴太(あのう) 水車は、宇治の百姓衆が上手いとされていた。で、宇治のオッサンらは上手い! プロは偉い!

これだけでは話が続かない。面白くもない。
で、ヘソマガリのわたしは、違う局面から話してみようと思う。

プロは、自分の常識からしかものが考えられない。時として素人の閃きや直感の方がすぐれているという話である。
世界中の軍艦には、固有の名前よりもデッカくナンバーが、書かれている。あれはアメリカ海軍が十九世紀に考案したものである。それ以前の世界中の海軍というのは、プロの集団と決まっており、船の名前など、遠くからでも、そのカタチが判別できなければならないとされ、ボースン(水夫長)や、士官は、敵味方の区別無く、世界中の主だった主力艦艇のカタチと名前、おおよその性能は知っていた。まあ、そのころ大海軍を持っている国はしれたもので、主力艦艇と言っても、百ほどでしかない。
当時のアメリカの海軍は、世界的に見ても二流で、このことは、アメリカ海軍自身がよく知っていた。そこで、バカでも自分の国の船ぐらいは一目で分かるようにしてやろうと、船の舳先に大きな数字を書いたのである。成り立ての水兵でも、その番号と手許のマニュアル本を見れば、たちどころに船の名前が分かるようにしたのである。
では、敵の船はどうしたかというと、小さな模型を作った。それを見せて、水兵たちに覚えさせた。第二次大戦中、これをプラスチックで大量に作り、海軍の全艦艇に持たせてやった。戦後、これが民間でも流行り、これがプラモデルの元になる。
火星ロケットを打ち上げるとき、火星まで行くことは簡単なのだが、探査衛星を火星に無事軟着陸させることが非常に難しかった。姿勢制御や速度調整など、当時のコンピューターでは困難なことが多く、また開発費もかさむ。そこでNASAは思い切ってヤワラカ頭の若者(一般公募者も入っていたような気がする)たちに任せた。
若者達は、ハナから軟着陸を考えていなかった。探査衛星が火星の地表近くまで来ると、衛星の周りにくっつけた風船が一斉に膨らみ、ショックを吸収するようにした。地球で飛行機から投下実験するとものの見事に成功した。
今は、世界中の自動車に付いているが、衝突したときにダッシュボードから風船が瞬時に出てきて、ショックを吸収する仕掛けは「車はぶつかるもの」という素人の発想から生まれたものである。

学校は、システムや規則の博物館である。
わたしがヒヨッコのころ、女生徒たちは体育の時間は下着同然のピチピチの短パンであった。たまに体育の授業前に女生徒を呼び出し、その格好で職員室に入ってこられると目のやり場に困ったものである。
むろん、女生徒自身からも不満が出ていた。
「せめて、体育祭の時ぐらいは、ジャージの下を穿かせて欲しい」
至極真っ当な要求が出てきた。わたしは、生徒の声を代弁して体育科の主任に掛け合いに行ったことがある。
「他教科のことに口だしするな」
それが答えであった。世紀末を境に、この下着同然の短パンはハーフパンツに替わった。

宿泊学習というものが流行ったことがある。連休前に新入生を一拍で遠くに連れて行き、生徒としての規律などを覚えさせる。さらには、新しい学校への帰属意識を高め、愛校精神の涵養を図ろうというアナクロな精神主義まであった。
この行事、下見や、会議、準備のため三月から、学校の三分の一以上の教師が、延べ数千時間の仕事の時間をとられるのである。で、思い通りの実績はあがらなかった。
ベテランのコワモテの担任のクラスは、これで締まる。しかし、わたしのようなハンチクな担任だと、この行事で生徒に乗り越えられてしまい、その後の学級経営は非常にむつかしくなる。簡単に言えば「うちの担任は、この程度」と、瀬踏みされてしまうのである。
職員会議で毎年、この宿泊行事の廃止を訴えた。
「教育効果というものは、すぐには表れない。若い人はすぐに手を抜くことばかり考える」と叱られた。
四年がかりで組織票を固め、やっと廃止したが、ベテランのコワモテからは睨まれた。
「大橋、ようもやってくれたのう……」
我々、ハンチクな担任達は、その代わり、しつこいほどに面談、懇談、家庭訪問をくり返した。これはという生徒の家には四月一日から、夜討ち朝駆けの家庭訪問。そうやって生徒本人や保護者と人間的な関係を作ってしまうのである。いじめられそうな子がいると、ボスクラスの何人かと、廊下やトイレ、階段の踊り場でナニゲニ声を掛けておく。
「あいつ、人間関係ヘタでなあ、なんか気に食わんことあるかもしれんけど、よろしゅう頼むわ。おまえやからこそ声かけてん」
これで、いじめの芽を摘んできた。
これらは全て、自分の技量に自信のないハンチク教師だから思いついたことである。
今回は、珍しく兼好のオッチャンに逆らってみた。ま、たまにはいいだろう。


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タキさんの押しつけ映画評「崖っぷちの男」

2012-07-08 11:23:33 | エッセー
タキさんの押しつけ映画評「崖っぷちの男」

 いやはや、こんな残念な映画も珍しい。
 俳優さんはベリグッド!サスペンスの道具建ても揃っている。……なのに、この不満感はナンダンネン?
 本作はアメリカでも大ズッコケ、2週間、1600万ドル少々でボックスオフィス・ベスト10から消えている。

 ヤンキーの好き嫌いが、その作品の良し悪しを反映しないのは、散々書いてきたのでもう言いませんが、本作の不入りは自業自得! あるいは「ユージュアル・サスペクツ」 「フォーン・ブース」 「インサイド・マン」 なんてな作品と肩を並べていてもおかしくないだけの内容は有る。なのに、何でやねん!
 これはひとえに、「編集の大失敗」 これに尽きます。作戦として想定されたものと、突発かつ偶然のアクシデントのメリハリがついていないので、見ていて「???」 なシーンが多すぎる。何故、この人物が此処までの能力を持っているのか…といった、基本的に観客を納得させる設定が不足している。あんまり説明されても白けるものですが、これでは説得力に欠ける。ストーリーの進行上、ある仕掛けに拠って知り得た情報が有るのですが、相手の行動を引き出すための引っ掛けは解るが、その結果をいかにして知り得たのかが解らない。……等々、ストーリーテリングが雑過ぎる。
 一切、説明抜きで、「ユージュアル・サスペクツ」のように最後の1シーンで全てを氷解させる……「フォーン・ブース」 のように観客に疑問を差し挟む暇が無い位たたみかける、等々すれば、作品の中に面白くなる要素は揃っている。
 要するに、各シーンがバラバラで、有機的に繋がっていないのが最大ネック。 これはあまりにも惜しい、こっちが泣きたい位。 俳優の演技は良いのに、設定アイデアも面白く出来ているのに、こんな不満タラタラな結果に成るのは……編集の失敗以外に無いのですが、これは編集者の腕が半分あるのと、もう一つはプロデューサーが配給会社との交渉をマズっているからです。
 本作は102分の作品ですが、せめて後15分あれば補強出来たはず。私が感じた不満に応えるシーンが撮影されていたのは間違いない。映画の尺を短くした為に入りきらなくなっている。リーマンショック直後、資金ショートの為、中途半端に成ってしまった作品が大量に出回った。「天使と悪魔」「ワルキューレ」 等々。本作の設定のキーポイントの一つがリーマンショックだというのが、とんでもない皮肉に感じられた。演技のクオリティは決して低くないので、全否定はしたくない。
「兎に角 見に行って!」と言えないのが寂しいでござる。 久し振りにエド・ハリスを見ましたが、えらく痩せていました。減量したというより、大病の後、という感じで…何も無きゃいいんですが、大好きな俳優さんなので心配です。
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