大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校ライトノベル・あのころの自分・5『ミカン箱一杯だけの世界』

2015-05-04 12:36:44 | 私小説

あのころの自分・5
『ミカン箱一杯だけの世界』
         



 針仕事をする母の傍で、畳のヘリを線路に見立てて三十円ほどの玩具の電車で遊んでいました。

 三畳に六畳、五軒並びの長屋の南から二つ目が、物心ついたころのわたしの家でした。
 家には一畳半の玄関の三和土(たたき)と二畳分ほどの縁側がついていました。
 でも、いつも母が針仕事している六畳の部屋が、わたしのコクーンでした。

 母が針仕事している二畳分ほどは聖域で、わたしの電車は、そこへ行きつくと手前の畳のヘリのジャンクションで曲がります。そんなことを半日ほどやって、飽きたら新聞の広告の裏などに拙い絵を描いて遊んでいました。
 日がな一日、そんなことをしていた記憶があるので、おそらく幼稚園にあがる前の四歳くらいの記憶です。まだテレビもなく、上皇陛下は若い皇太子で独身であられました。

 臨時工であった父は朝鮮戦争後の不景気で人員整理され、別の工場で以前より安い給料で働いていました。あ、わたしが生まれた昭和二十八年ごろのことです。明くる二十九年からは神武景気になり、父は再び臨時工の身分で元の会社にもどりました。
 で、人員整理した会社が済まないと思ったのか、組合が強かったのか、父と母は神崎川のほとりのボロアパートから、新築の社宅に越してきました。
 わたしは、まだ生後三か月ほどだったそうで、一番古い記憶が、母の傍らの六畳一間でした。

 もはや戦後ではない……と言われましたが。日本はまだまだ貧しく、例えば舗装道路は、家から五百メートルほど離れた市電の通りまで行かなければありませんでした。

 母の針仕事は、二万に届かない父の月給を補うための内職でした。和裁用の黒い裁縫箱、ささやかな貝殻のカケラが塗りこめてあり、幼いわたしには威厳に満ちた魔法の箱のように思えました。

 二段の大きい引き出し。その上に中くらいと小さな引き出し、上の蓋を開けると指ぬきやチャコ、糸切狭に針山。他に、わたしにはわからない和裁の細々とした道具が入っていました。
 右だったかの隅には、二寸ほどの引き起こし式のタワーがついていました。和裁に疎いわたしには、その名称は分かりませんが、幼いわたしには「母ちゃんのタワー」でした。

 タワーからは子どもの手ほどの金属製の洗濯ばさみのようなものが付いていて、それで反物の端を挟み、よく切れる洋裁ばさみで、小気味よく生地を断っていました。生地を断つ前は、器用に手で一尺ずつ尺をとり、細かいところは鯨尺で寸をとっていたように思います。

 母は、ラジオを点けながら内職をやっていました。田畑義男、春日一郎、笠置シヅ子、美空ひばりの歌が聞こえたり、ダイマル・ラケットの漫才などをやっていたように思います。
 ラジオに合わせて、母が時にラジオに合わせて鼻歌で和したり、漫才に笑ったりすると、とても幸せでした。ときたま母と目が合って、二人とも笑っていたりすると、しびれるぐらい幸せでした。

 父は大正十四年の生まれではありましたが、第二丙種ぐらいだったようで、兵隊にはとられませんでした。幼い時の病気で人より手足が短く、身長は四尺半ほどしかなく、工場での仕事も辛いようで、風呂やから帰って来ると背中や肩にサロンパスを貼っていました。背中の真ん中が貼りにくく、ときどき母や姉が貼っていました。わたしもやってみたかったおですが、セロハンからうまく剥がせずにダメにしてしまうことがあったので、やらせてはもらえません。

 社宅の長屋で兵役の経験が無いのは父一人だけでした。工場では辛いことも多かったのでしょう。たいてい帰宅するときには眉間にしわを寄せ、なにやら人への呪詛めいたことをブツブツ言っていました。

 父は、我が家のブラックホールでした。

 だから、昼間、母の内職の傍で遊んでいたことが、とても幸せ……だったことに気づいたのは、母の葬儀を済ませて丸二年がたった最近です。

 わたしにも母の裁縫箱に匹敵する箱がありました。

 小さなミカン箱です。そこには四歳のわたしの全財産が入っていました。30円の電車の玩具。多分よそのお家からもらったお下がりの玩具。そして僅かばかりの絵本。サクマドロップの空き缶に入っていた数十個のビー玉。
 いま思えば玩具とも言えないようなガラクタが宝物で、小さなミカン箱は宝箱でした。

 少し大きくなってから、ミカン箱には、もう一つの意味が付け加わりました。

 わたしの上には三つ上の姉がいて、さらにその一つ上に、生まれて三十分だけ生きていた兄がいました。兄の話は小学生ぐらいで聞いたように思います。

 兄は、七カ月に満たない早産でした。いまの時代なら未熟児として生きていたでしょう。

 でも、そのころは手の施しようがありません。産婆さんは死産として処理しました。生まれてから死んだのでは戸籍を作らなければならず、葬式も出さなければなりません。貧しい両親にそんな余裕はありませんでした。

 で、子犬ほどの大きさの兄は、おくるみに包まれ、哺乳瓶一本のミルクだけ添えられミカン箱の棺に入れられ、神崎川の河川敷に埋められました。

 ミカン箱一杯だけの世界。わたしには、この二つの意味があるという話でした。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校ライトノベル・あのころの自分・4『女子トイレの張り番』

2015-01-10 15:39:44 | 私小説
あのころの自分・4
『女子トイレの張り番』



 怪しいと思った。

 人は行動を起こすとき、その目的や意欲によって、その場にふさわしいテンポと程よい緊張感を持っているものである。
 その時、女子トイレに駆け込んだ三人は、いくら女子トイレ入り口の扉が(個室ではなく)外されていたとしても僅かに余計な緊張感とテンポの速さであった。
 扉を外した女子トイレは、洗面のあたりに三人、個室から水音をさせながら出てきた者が一人、映画のガヤ(その他大勢の賑やかなシーン)なら黒澤明でも合格点をくれそうな下町の公立高校女生徒の自然な風景の中にいた。
 あとから駈け込んで来た女生徒三人は、微妙に自然さから外れていた。

 案の定、奥の個室から薄い煙が立ち上った。そこからは勢いである。

 歩いても数秒で行ける個室まで、ダッシュした。
「おい、開けろ! 上から煙出てるのん、まるわかりやぞ!」
「ちょ、ちょっと待ってえな……!」
 衣擦れの音などせずに、急いで水を流す音がした……。

 そのころ、男子トイレでの喫煙が下火になり、女子トイレでの喫煙が増え出し、生活指導の女の先生にトイレの張り番をしてもらっていた。そして見張りやすく、かつ学校の意志を示すために、喫煙が多い女子トイレの扉を撤去した。

 それでも女子の喫煙は減らなかった。そこで、学年生指の男性教師が女性の先生といっしょに着くことになった。

「あ、あたしただトイレに入ってただけやで」
 もう目が泳いでいた。
「嘘つけ、煙が見えた……このまま生指まで来い!」
「あたし、タバコなんか喫うてへんから」
「何回タバコの現場おさえてきた思てんねん。お前ら生まれる前からタバコの張り番やってんねんぞ」
 
 わたしは、担任をやりながら生指をやるという、やや非常な配置を何度かやった。
 生指には、男相手の荒事と、女子同士のもめ事や、いじめや不登校に関わる和事があった(他にも生活指導室常駐という駐在の仕事もある)わたしは和事が生指の仕事の半分以上だった。
 それが、女子トイレとはいえ、一歩間違えればセクハラになりそうな女子トイレの張り番。これで喫われては校内喫煙に歯止めがきかない。
 運よく生指の部屋に生指部長がいたので、女性の先生と三人で問い詰めた。
「先生が煙出るとこ見てはんねんぞ……様子もおかしい、正直に言えや、俺らも忙しいんじゃ、手間とらすな!」

 数分のやりとりで、その生徒は、わたしの顔を見て(わたしの確信ぶりを確認して)タバコとライターを出した。

 男子トイレは、三か月間昼休みの喫煙タイム(食後五分後くらい)25分間トイレの中で張り込むことで抑止した。午前中は遅刻や早退者、授業妨害でひっぱられてきた生徒の相手。たまに空き時間があると欠席生徒の家に電話をしたり、近場なら家庭訪問。
 要領が悪いのだろう、そんなことばかりやっていた。昔と違って担任学年の教科を持つので、毎年、世界史・現社・日本史・政経を交代で教えていた。生徒はお金を出して教科書を買っているので、毎年教科書に合わせてノートを作り変えていた。
 四十歳ごろには焦りがあった。こんな調子では、将来進学校に転勤したときには間に合わない。

 杞憂であった。三十年の教師生活で、進学校にいくことはなかった。

 卒業式の日、くだんのトイレ女子が三人で、生指にやってきた。
「先生、あのとき三人とも個室でタバコ喫うててんで!」
「ほんまか、分からんかったわ!」

 本当は分かっていた。しかし現認した煙は一人分。三人を一人で検挙する力量もなかった。あげた生徒も他の二人については一言も言わなかった。生指部長も同様である。
 女生徒三人は揶揄ではなく、懐かしい思い出として白状しにきたのである。

 女子トイレを男性教師が張り番。今ならセクハラと言われる。懐かしい思い出。


『ノラ バーチャルからの旅立ち』ノラ バーチャルからの旅立ちクララ ハイジを待ちながら星に願いをすみれの花さくころの4編入り(税込1080円)
『はるか ワケあり転校生の7ヵ月』     (税込み799円=本体740円+税)
 ラノベの形を借りた高校演劇入門書! 転校生が苦難を乗り越えていっぱしの演劇部員になるまでをドラマにしました。店頭では売切れはじめています。ネット通販で少し残っています。タイトルをコピーして検索してください。また、星雲書房に直接注文していただくのが確実かと思います。


『まどか 乃木坂学院高校演劇部物語』    
    

 青雲書房より発売中。大橋むつおの最新小説と戯曲集! 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

 ラノベとして読んでアハハと笑い、ホロリと泣いて、気が付けば演劇部のマネジメントが身に付く! 著者、大橋むつおの高校演劇45年の経験からうまれた、分類不可能な新型高校演劇入門ノベルシリーズと戯曲!

 ネット通販ではアマゾン(完売)や楽天があります。青雲書房に直接ご注文頂ければ下記の定価でお求めいただけます。

 青雲書房直接お申し込みは、下記のお電話かウェブでどうぞ。送料無料。送金は着荷後、同封の〒振替え用紙をご利用ください。

お申込の際は住所・お名前・電話番号をお忘れなく。

青雲書房。 mail:seiun39@k5.dion.ne.jp ℡:03-6677-4351


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校ライトノベル・あのころの自分・3『多数決で決まる担任』

2014-12-22 16:46:09 | 私小説
あのころの自分・3
『多数決で決まる担任』



「それでは決を取ります。大橋先生に担任になっていただきたい方、挙手ねがいます……多数。よって大橋先生よろしく」

 これが、職員会議の議長の発言で、たった数分で、私の担任が決定した。
 多分、担任を逃れたいための言い訳にしか聞いてもらえなかったのだろう。
 私は四十代後半から、ずっと行き届かぬ介護の連続だった。

 母がおかしくなったのは、七十代のなかばごろであった。大腿骨折の入院から始まった。病院と自宅の区別がつかなくなり、病室のロッカーを部屋のドアと思い込み、しきりに父を呼んでいた。時には私が息子と分からず「先生」と言ったりした。

――ああ、始まった――

 痛みと虚脱感を伴った認識のはじまりだった。
「いや、入院による一時的なこんらんですよ」
 医者は、こともなげに、そう言った。
「うちの病院は完全看護ですから、息子さんは帰ってください」
 看護婦さんに、そう言われた。一抹の不安を残して八尾の自宅に帰った。遅い夕食を終えようとしたら、病院から電話がかかってきた。
「お母さんが、暴れはって手が付けられません。今から病院にきてください!」
 一時間四十五分かけて病院に行く。

「遅かったですね」

 半ばなじるように、看護婦さんに言われた。
「八尾からきてるもんで」
「うそ……車なんでしょ?」
「教員免許では、車は運転できませんから、電車の乗継です」
 せめてもの皮肉に、看護婦さんは無関心をもって応えた。
 一晩、錯乱する母の横で過ごし、あくる朝、病院から学校に出勤した。
 父は、大正十四年生まれながら、あの戦争で徴兵にもかからなかったほどに体が弱い。父にはなにも期待できない。

 だから、担任を打診されたときは、教師生活で初めて断った。

 それから、なんの事情聴取もなく、年度末の職員会議に出ると、担任候補者のプリントにわたしの名前があった。
「せめて、事情聴取せえよ」
 思わず声になってしまった。プリントをよくみると、どう見ても健康体の某先生が外れていた。あとでご本人から聞くと「医者に言うて、診断書だしたら外してくれよった」であった。どうやら、書類がモノを言う学校であったようだ。

 案の定、五月の中間テスト空けに母が脳内出血で倒れたと父から午前五時に電話があった。「すぐに救急車呼んで!」そう言って、私は始発電車で実家に向かった。一時間四十分かけて実家につくと、父は、まだ救急車を呼べずにオロオロしていた。母は半ば意識が無く、動物のような声を上げていた。すぐに救急車を呼び、入院に必要なものと服用している薬を確保する。

「なんで、もっと早く救急車呼ばへんかったんですか!」

 医者からなじられたが、何を言っても言い訳にきこえるだろうと「すみません」だけを言っておいた。
「介護休暇取らせてください」
 介護と看護の合間を縫って職場へ。中間テストの結果だけ入力を済ませて、校長に頼んだ。校長は困惑の表情だった。
 体育祭の直前で、三者懇談を半月後に控えていた。担任が抜けていい時期ではない。
――だから、でけへんて言うたんです!――
 喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。

 三か月の介護休暇を終わって、職場に復帰。廊下ですれ違った運営委員の一人が、こう言った。
「あんた、ほんまにしんどかってんな」
 笑顔で言うな。と、思った。

 二年後、また担任に指名され、また、職員会議の多数決で決められた。今回も、なんの事情聴取もなかった。

 五月に、また母が入院。介護休暇をとった。帰ったクラスはメチャクチャだった。保護者との関係がこじれてる。復帰一番に教頭から言われたのは、ねぎらいではなく、これをなんとかしろということであった。その足で家庭訪問に行った。お母ちゃんと膝詰で相談し、なんとか信頼の「し」の字ほどを取り戻す。

 その年の秋、自分自身鬱病を発症。休職、復職を繰り返し、五十五歳で早期退職せざるを得なくなった。

 この間、言ってはなんだけど、面白い話もある。また、稿を改めて。


『ノラ バーチャルからの旅立ち』ノラ バーチャルからの旅立ちクララ ハイジを待ちながら星に願いをすみれの花さくころの4編入り(税込1080円)
『はるか ワケあり転校生の7ヵ月』     (税込み799円=本体740円+税)
 店頭では売切れはじめています。ネット通販で少し残っています。タイトルをコピーして検索してください。また、星雲書房に直接注文していただくのが確実かと思います。


『まどか 乃木坂学院高校演劇部物語』    
    

 青雲書房より発売中。大橋むつおの最新小説と戯曲集! 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

 ラノベとして読んでアハハと笑い、ホロリと泣いて、気が付けば演劇部のマネジメントが身に付く! 著者、大橋むつおの高校演劇45年の経験からうまれた、分類不可能な新型高校演劇入門ノベルシリーズと戯曲!

 ネット通販ではアマゾン(完売)や楽天があります。青雲書房に直接ご注文頂ければ下記の定価でお求めいただけます。

 青雲書房直接お申し込みは、下記のお電話かウェブでどうぞ。送料無料。送金は着荷後、同封の〒振替え用紙をご利用ください。

お申込の際は住所・お名前・電話番号をお忘れなく。

青雲書房。 mail:seiun39@k5.dion.ne.jp ℡:03-6677-4351


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校ライトノベル・あのころの自分・2『笑顔という自分の見せ方』

2014-12-19 17:35:52 | 私小説
あのころの自分・2
『笑顔という自分の見せ方』



 何度か書いてきたが、私は首切り教師だった。

 13回担任をやったが、三年生を持ったのは3度だけで、残りの10回は一年生が7回、二年生が3回で、圧倒的に一年生の担任が多かった。特に好き好んで一年生の担任を希望したわけではないが、担任選考委員会で指名されたときは全て一年か二年だった。

 勤務校は、いわゆる困難校ばかりで、ひどい学校は240人入学し、卒業時には100人も残っていない。

 六割以上が退学していき、そのほとんどが一年生である。一年生の担任の使命は、いかに問題なく自主退学させるかということである。一番まずいのは留年させることである。
 留年生の90%以上が、その後退学する。留年すれば、ダブリと言われ、多くの場合留年生同士群れて、他の生徒の邪魔をしたり、悪影響を与えたりする。だから留年生を大量に出す担任は迷惑がられた。学校のためにならないばかりではなく、本人のためにもならない。

 13年間で100人前後の生徒を自主退学させたが、留年させた生徒は一人もいない。別に自慢話ではない。

 私自身、高校時代からのスコブルつきの劣等生で、二年生を二回やり、修学旅行に二回行った。留年生の弱さや脆さは自分のこととしても、よく分かっている。
 
 高校に入学した時(私が)担任に言われたことばは、こうであった。
「自分らは、大手前、市岡によう入らんかった奴らや……」
 このあとに、頑張れば関西大学ぐらいはいけるという、慰めというか励ましの言葉がくる。公立大学には行けとも言わない。入学早々自信を喪失させられた。

 私は、一年生を持った時の最初の話は「犯罪以外なら、なんでもできる。どんな夢でも見ろ。君らの人生は一日に例えたら、まだ日の出前や!」これを、とびきりの笑顔で言う。生徒自身最低の学校に来たと思っている。まずは軽く自信の種を植え付ける。同時に、二年生になれそうにない生徒を見極める。で、四月いっぱいかけて個人面談をやる。この時も、たいてい話の終わりには笑顔でいる。

 教師がやってはいけないことは、いろいろあるが、その一つが笑顔で叱ることである。生徒は教師が本気で叱っていないと思う。結果、担任を軽くみてしまう。教師は、どこかで嫌われたくない(生徒に)と思って、目線も合わさず、笑顔でことを済ませてしまう。そして、学年末には、無責任に留年させてしまう。

 退学させるときは深い笑顔で接する。退学への伏線は数か月前から張ってあるが、原級留置が決定した生徒は、決定したその日のうちに家庭訪問し、本人と保護者に伝える。10人以上出ることもあるので、短時間で済ます。落ちた場合の選択肢と落ちる可能性は、、保護者にも生徒本人にも伝えてあるので、げたを預けて帰る。たいてい、その場で自主退学を決意してもらえる。この時に「人生、これで終わるわけではない」と、深いところで笑顔でいる。

 もう何度も書いてきたことなので、本題に入る。

 高校生のころ、大阪府高等学校演劇連盟の前身である大阪府高等学校演劇研究会の副会長をやっていた。簡単に言えば、大阪の高校演劇の事務的なまとめ役で、今の連盟の常任委員長にあたる。これを、当時は生徒がやっていたのだから、時代を感じる。
 会長は、対外的な問題があるので四天王寺高校の校長先生がやっておられた。
 実質的なお目付け役は四天王寺の藤木先生がおやりになり、藤木先生と会長の校長先生とのパイプ役は、校長先生の息子で教頭先生のS・T先生がおやりになっていた。だからS・T先生とは、数回お目にかかっている。

 現職の教師になり、家庭訪問のハシゴの途中、四天王寺の亀の池で汗を拭いていた。すると、かなたの塔頭から、四天王寺の偉いお坊さん二人が出てくるのが分かった。
 そのお一人のお坊さんの視線を感じた。それも笑顔の視線である。まさか私に向けられた視線であるとは思わず、ボーっとしていたが、すぐにその笑顔がS・T先生であることが分かった。

 仏教に和顔施(わがんせ)という言葉がある。人に対しては、まず笑顔でいようという、宗派を超えた仏教スマイルである。

 S・T先生は、そのころは四天王寺の管主をやっておられた。
 教師として半端な笑顔しかできない私は、ただボーっとして会釈も返せなかった。

 何かの偶然で覚えていただいたのかも知れないが、あの笑顔には負けたと思った。

 つい先年、後輩の私学の先生に言われた。
「大橋さんは、目が笑うてへんからなあ」

 同じことは、徳川家康も言われているが、むろん、私には家康にあった凄味もない。
 半端な笑顔のまま、どうやら今は……気味悪がられているような気がする。修業がたりないようだ。


『ノラ バーチャルからの旅立ち』ノラ バーチャルからの旅立ちクララ ハイジを待ちながら星に願いをすみれの花さくころの4編入り(税込1080円)
『はるか ワケあり転校生の7ヵ月』     (税込み799円=本体740円+税)
 店頭では売切れはじめています。ネット通販で少し残っています。タイトルをコピーして検索してください。また、星雲書房に直接注文していただくのが確実かと思います。


『まどか 乃木坂学院高校演劇部物語』    
    

 青雲書房より発売中。大橋むつおの最新小説と戯曲集! 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

 ラノベとして読んでアハハと笑い、ホロリと泣いて、気が付けば演劇部のマネジメントが身に付く! 著者、大橋むつおの高校演劇45年の経験からうまれた、分類不可能な新型高校演劇入門ノベルシリーズと戯曲!

 ネット通販ではアマゾン(完売)や楽天があります。青雲書房に直接ご注文頂ければ下記の定価でお求めいただけます。

 青雲書房直接お申し込みは、下記のお電話かウェブでどうぞ。送料無料。送金は着荷後、同封の〒振替え用紙をご利用ください。

お申込の際は住所・お名前・電話番号をお忘れなく。

青雲書房。 mail:seiun39@k5.dion.ne.jp ℡:03-6677-4351


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校ライトノベル・あのころの自分・1『ひょっとして、もしかしたら……』

2014-12-15 14:48:11 | 私小説
あのころの自分・1
『ひょっとして、もしかしたら……』



 還暦を過ぎて一年半、来し方行く末を、ほんの少し考えてみる気になった。

 ほとんど3/4を終わろうとしている人生を振り返って、ひょっとして、もしかしたら……というようなことが何度もあった。
 いわば人生のジャンクションで、そんなことを気に留めながら徒然なるまま……という手垢のついた言葉で始めてみようと思う。

 もう、十分に手垢にまみれた人生なんだから。

 幼稚園から、高校まで徒歩圏内の学校ですましてきた。
 私の年頃なら、中学校までは、これで当たり前である。
 大阪市の旭区で育った私はT小学校K中学校を「ちょっと変わったムッチャン」として過ごしてきた。成績は48人ほどのクラスで、だいたい20番台。まあ、真ん中の生徒であった。当時K中学とは公園一つ隔てたA高校が人気があった。
 当時の学区で言うと、市岡、大手前の次くらいの準進学校で、K中学では人気があった。なんといっても歩いて通える。地元でもお行儀のいい学校で通っていた。そして、友達のかなりの数が希望していた。
 要は、大きな変化を望まず、幼稚園からずっと続いてきた地縁的な温もりの中にいたかったのである。

 しかし、A高校は10段階評価で7ぐらいはある学校で、真ん中の成績であった私には、いささか敷居が高かった。

 でも十四の歳まで、なんとかなってきた気楽さで私立との併願を条件に担任の先生が受験をしぶしぶ許可してくださった。
 後年教師になってから自覚したが、とてもA高校を受験できる成績では無かった。担任の先生は、よほど無謀だと思ったのだろう。学校別受験者の成績順位表まで見せてくださった。むろん学校の部外秘の資料で、生徒には見せてはいけない個人情報であった。

「な、大橋。A高校の希望者は150人もおるねん。これが一覧表や」
 そう言って、先生はプリント4枚閉じの資料を開いた。
「一番が、某。10段階の10や。以下ずーっと名前が続いてるやろ……成績順や」
 二枚目の下の方に赤線が引いてあった。
「ここから下のやつは受けても落ちるやつや。大橋は……」
 そう言いながら、先生は三枚目を飛ばして四枚目を開いた。私の名前は、なんと四枚目の一番最後にあった。

 いま、心の底を探っても、その時の感覚が思い出せない。

「受けます」
 とだけ答えた。
 受験会場の雰囲気は、なんとなく覚えている。たいていの人は、こういう時には「まわりがみんな自分よりも賢そうに見える」のだそうだが、そういう感覚は、鈍感な私には無かった。ただ現実に周りの受験生の大半は、私よりも学力が高い。その認識はあった。

 あのころの私は、どこか自分は特別だと思うようなところがあった。むろん、時には「こんなダメなやつはいない」という自虐的な気持ちもあり、その躁鬱の振子は今でも振れている。受験した時は、かなりの躁状態であったのかもしれない。

 で、結果は合格であった。

 私よりも先に友達が見に行き結果を担任に報告していた。友達は自分の合格よりも先に、こう言った。
「先生、大橋通ってましたよ!」
「ほんまか!?」
 後日談によると、先生は椅子に座ったまま30センチもとびあがり、職員室は寂として声も無かったそうである。

 逆の子がいた。受験者の上位に位置し、合格間違いなしと言われた子が落ちた。勝負は時の運というが、後年現場の教師になって思った。
――あれは、間違いだったのではないだろうか?――
 公立高校は、長い間、受験終了後すぐに採点をやり、二回人を替えて採点や点数の合計ミスがないかどうかをチェックする。午後三時ぐらいから始めて、六時半ぐらいには終了する。
 あくる日一日かけて、入試担当の教師が集計し、合否ギリギリの者については、解答用紙のチックからやり直す。

 一見念がいっているように見えるが、けして低くない確率で採点、計算ミスが出る。

 今は、それを防ぐために、受験当日の採点はやらずに、あくる日、丸一日をかけて採点する。それでもミスが起こっている。
 こういう書き方をすると、現場の教師が無能に見えるが、けしてそんなことはない。
 あえて書くと、問題が悪い。配点が微妙すぎ、記述問題など、採点者の裁量で数点の開きが出ることもある。例えば、ある年「アフリカ大陸の地図を描け」という問題が出たことがある。アフリカは人間の横顔をしており、五大陸の中では一番描きやすい。
 しかし、採点には条件が付いていた「アラビア半島との結合が描けていること」この一点で配点が大きく異なる。
 ほぼ完全に描けていても、アラビア半島との結合が不明であれば、点数がかなり低くなる。逆に、石ころみたいな地図を描いていても、アラビア半島との結合らしきものが描けていれば満点である。国語の作文に至っては、この地図の比では無い。

 何がいいたいかというと、私は間違って入ってしまったのではないかと、退職した今でも感じている。落ちた子は間違って落ちたのではないかと。

 で、A高校に入ってしまったことで、私の人生のレールが大きなところで決まってしまった。

 今の公立高校の入試システムは大幅に改善され、ミスはほとんどなくなった。と聞いている。


『ノラ バーチャルからの旅立ち』ノラ バーチャルからの旅立ちクララ ハイジを待ちながら星に願いをすみれの花さくころの4編入り(税込1080円)
『はるか ワケあり転校生の7ヵ月』     (税込み799円=本体740円+税)
 店頭では売切れはじめています。ネット通販で少し残っています。タイトルをコピーして検索してください。また、星雲書房に直接注文していただくのが確実かと思います。


『まどか 乃木坂学院高校演劇部物語』    
    

 青雲書房より発売中。大橋むつおの最新小説と戯曲集! 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

 ラノベとして読んでアハハと笑い、ホロリと泣いて、気が付けば演劇部のマネジメントが身に付く! 著者、大橋むつおの高校演劇45年の経験からうまれた、分類不可能な新型高校演劇入門ノベルシリーズと戯曲!

 ネット通販ではアマゾン(完売)や楽天があります。青雲書房に直接ご注文頂ければ下記の定価でお求めいただけます。

 青雲書房直接お申し込みは、下記のお電話かウェブでどうぞ。送料無料。送金は着荷後、同封の〒振替え用紙をご利用ください。

お申込の際は住所・お名前・電話番号をお忘れなく。

青雲書房。 mail:seiun39@k5.dion.ne.jp ℡:03-6677-4351


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする