TSUREDUREエッセー 『10年ぶりの映画館』
昨日(2012年2月27日)は記念すべき日になった。
10年ぶりで映画館にいったのだ。前回行ったのは、5歳になる息子の手を引いて『ドラえもん』を、布施の映画館に観にいったのが最後である。
仕事の多忙さと、発症して6年あまりになる鬱病のため、映画館どころではなかった。
仕事を辞めて、3年目、薬を飲みながらではあるが、なんとかここまで回復した。
発症した直後は、会話も困難であった。無理に喋ろうとすると、ひどい吃音(どもり)になり、汗が出た。休職中は、通院とカウンセリングを除いて外出ができなかった。
家人が出勤、登校すると、家にヒトリボッチ。電話がむしょうに怖かった。
電話というのは、鳴る前に前兆がある。「カチ」っと微かな音がする。これは人の目線に似ている。人がわたしを認識し、話しかける寸前の様子に似ている。いつも。午前8時に、この「カチ」がやってくる。わたしは反射的に、電話線を抜いた。毎日、それの繰り返し。家人が帰ってくる直前に電話線をもとにもどしておくので、ばれることは、しばらくなかった。
ある日、家内が昼間に電話して、通じないことで、電話線を抜いていることがばれてしまった。
結局、この8時の「カチ」は、理由はよく分からないが、電話局の都合で定時に信号を送っているらしいということになった。らしいというのは、別にNTTに確認したわけではない。たまたま家内が休みのとき、8時に「カチ」が鳴って、そのあと呼び出し音がしなかったからである。ほとんど良くなった今、この「カチ」は聞こえなくなった。あるいは幻聴だったのかもしれない。
三年前に退職して、少しずつ回復してきた。本業である芝居を観るために、劇場にもいけるようになった。だから、時々、芝居について駄文を書くようにもなった。しかし映画館には行けなかった。様々な理由付けはできるが説明はできない。
やや結論めいたことが言えるとしたら、芝居と映画は似て非なるモノであるということである。同じホールでも、芝居ならいけるが、映画となると足が向かない。
観客層の違いかもしれない。芝居なら、観客は同じ人種と感じられる。じっさい、劇場に足を運ぶと知り合いによく会った。
「いやあ、大橋君、久しぶりやなあ!」
そう声をかけられることもしばしばであった。
映画は、そうはいかない。まるで無垢の他人に前後左右を固められるのである。
逆に言うと、芝居を観にくる人は、知らない人でも、「芝居に関わっている仲間」という意識が持てるのである。
さらに突き詰めると、芝居の世界というのは、かくも狭いものであるということが言える……のではないだろうか。
わたしにとって、芝居の世界や劇場というのは繭(まゆ)のようなものである。優しく自分をくるんでくれて、「ここではイッチョマエの顔が出来る」という安心感がある。
最近、これを自分にとっても、芝居にとっても危機であると思い始めてきた。狭い世界に充足している自分への危機感。
芝居、特に、わたしのホームグラウンドのような高校演劇が、ひどく内向きな世界になってきてしまっているのではないかという危機感。
で、意を決し、映画館にいった。数年前にできたばかりの八尾のシネマコンプレックス。洒落のようであるが、ここから、わたしのシネマコンプレックスを克服しようと思った。
といっても、自発的なものではない。家内が、そのシネコンの会員になっており、6回観れば1回タダで観られるというクーポン券をくれたのである。日頃は、わたしのことには無頓着そうな家内ではあるが、その程度には気を遣ってくれているようである。
そして、目出度く、10年ぶりの映画館は克服できた。ただし……月曜の朝一番。観客がまばらであることを知った上ではあった。でも、とにかく映画に行ったのである!
あまりに、目出度いので、この駄文になった。
ちなみに観た作品は『三丁目の夕日・3』であった。いいものを観たと思った。
昨日(2012年2月27日)は記念すべき日になった。
10年ぶりで映画館にいったのだ。前回行ったのは、5歳になる息子の手を引いて『ドラえもん』を、布施の映画館に観にいったのが最後である。
仕事の多忙さと、発症して6年あまりになる鬱病のため、映画館どころではなかった。
仕事を辞めて、3年目、薬を飲みながらではあるが、なんとかここまで回復した。
発症した直後は、会話も困難であった。無理に喋ろうとすると、ひどい吃音(どもり)になり、汗が出た。休職中は、通院とカウンセリングを除いて外出ができなかった。
家人が出勤、登校すると、家にヒトリボッチ。電話がむしょうに怖かった。
電話というのは、鳴る前に前兆がある。「カチ」っと微かな音がする。これは人の目線に似ている。人がわたしを認識し、話しかける寸前の様子に似ている。いつも。午前8時に、この「カチ」がやってくる。わたしは反射的に、電話線を抜いた。毎日、それの繰り返し。家人が帰ってくる直前に電話線をもとにもどしておくので、ばれることは、しばらくなかった。
ある日、家内が昼間に電話して、通じないことで、電話線を抜いていることがばれてしまった。
結局、この8時の「カチ」は、理由はよく分からないが、電話局の都合で定時に信号を送っているらしいということになった。らしいというのは、別にNTTに確認したわけではない。たまたま家内が休みのとき、8時に「カチ」が鳴って、そのあと呼び出し音がしなかったからである。ほとんど良くなった今、この「カチ」は聞こえなくなった。あるいは幻聴だったのかもしれない。
三年前に退職して、少しずつ回復してきた。本業である芝居を観るために、劇場にもいけるようになった。だから、時々、芝居について駄文を書くようにもなった。しかし映画館には行けなかった。様々な理由付けはできるが説明はできない。
やや結論めいたことが言えるとしたら、芝居と映画は似て非なるモノであるということである。同じホールでも、芝居ならいけるが、映画となると足が向かない。
観客層の違いかもしれない。芝居なら、観客は同じ人種と感じられる。じっさい、劇場に足を運ぶと知り合いによく会った。
「いやあ、大橋君、久しぶりやなあ!」
そう声をかけられることもしばしばであった。
映画は、そうはいかない。まるで無垢の他人に前後左右を固められるのである。
逆に言うと、芝居を観にくる人は、知らない人でも、「芝居に関わっている仲間」という意識が持てるのである。
さらに突き詰めると、芝居の世界というのは、かくも狭いものであるということが言える……のではないだろうか。
わたしにとって、芝居の世界や劇場というのは繭(まゆ)のようなものである。優しく自分をくるんでくれて、「ここではイッチョマエの顔が出来る」という安心感がある。
最近、これを自分にとっても、芝居にとっても危機であると思い始めてきた。狭い世界に充足している自分への危機感。
芝居、特に、わたしのホームグラウンドのような高校演劇が、ひどく内向きな世界になってきてしまっているのではないかという危機感。
で、意を決し、映画館にいった。数年前にできたばかりの八尾のシネマコンプレックス。洒落のようであるが、ここから、わたしのシネマコンプレックスを克服しようと思った。
といっても、自発的なものではない。家内が、そのシネコンの会員になっており、6回観れば1回タダで観られるというクーポン券をくれたのである。日頃は、わたしのことには無頓着そうな家内ではあるが、その程度には気を遣ってくれているようである。
そして、目出度く、10年ぶりの映画館は克服できた。ただし……月曜の朝一番。観客がまばらであることを知った上ではあった。でも、とにかく映画に行ったのである!
あまりに、目出度いので、この駄文になった。
ちなみに観た作品は『三丁目の夕日・3』であった。いいものを観たと思った。