大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校演劇・創作劇のいたしかた(^:^)%

2017-06-22 06:33:07 | 演劇作法
高校演劇・創作劇のいたしかた(^:^)%


1・ドラマの構造を知ろう!
 わたしの居る大阪は、異常に創作劇が多いところです。大阪府高校演劇連盟のコンクール出場校の90%以上が創作劇です。
 わたしは、これに警鐘を鳴らし続けてきました。コンクールの最優秀の学校でも、表現はともかく本が書けていません。もう、根負けしたところがわたしにもあります。
 で、それならば、いっそ、創作劇の書き方を折に触れて書いてみようと思いました。

まず本を読もう!
 野球を観たことも無い人は野球はできません。ちなみに、わたしは未だに野球のルールが分かりません。それと同じ事で、戯曲(脚本)を読んだことの無い人が、本を書くのは、わたしが野球をやるようなものです……でも、戯曲というのは、小説などと違って、基本的に台詞だけで出来ています。読むのが辛いですよね。そこで代案を考えました。

映画を観よう!
 DVDでけっこうです。ドラマの構造を、これで勉強しましょう。
 お勧めの映画を紹介しておきます。『スウィングガールズ』『三丁目の夕日』です。『三丁目の夕日』は1~3まであります。できたら、3本とも観た方がいいのですが、第一作だけでもけっこうです。
 ドラマというものは、起承転結でできています。例えば以下のようです。

 ――サザエさんがお風呂に入っています。
 ――母親のフネさんの「お風呂に指輪落っことしたから探して」という声。
 ――「しかたないなあ」と、サザエさん。「ん、これかな?」と風呂の底で何かを発見、引き上げます。
 ――指輪と思ったものは、指輪ではなく湯船の栓に付いているリングで、お湯が流れ出し裸のサザエさんが真っ赤になって、チャンチャン!

 この構造を、作品から読み取って下さい。『スウィングガールズ』の場合、上野樹里の鈴木友子が、夏休みに数学の補習を受けているところから始まります。
 退屈していると、グラウンドにバス。吹奏楽部員達が野球部の応援に行きます。補習がイヤでたまらない友子は、そんな吹奏楽のバスを見て、ため息。
「いいよなあ、吹奏楽は……」
 バスが出た直後、にお弁当屋さんが、遅れて吹奏楽のお弁当を持ってきます。
 バスは出た後なので、お弁当屋のオジサンは困ってしまいます。そこで、友子は思いつきます。お弁当を弁当屋さんに代わって届けてやれば、補習をサボレます。
 で、「先生、お弁当屋さん困ってますよ」と、提案、見事に、補習をサボルことに成功します。

 この中に、起承転結の構造があることが分かると思います。そして、この部分が、この映画の前半の起に当たります。で、ここで工夫があります。友子たちが、お弁当屋さんの代わりにお弁当を届ける必然性がいります。作者は、ここで、お弁当屋さんが、お通夜の仕出しの配達が入っていて、自分では届けられないという状況を用意しています。
 そして、竹中直人が演ずる補習の先生も、補習するのがイヤで、その話にのってしまうことになっています。

 このように、ドラマというのは、小さな起承転結があり、それが全体の起になり、承に、転に、結になっているものなのです。まず、その構造を頭に入れてください。

2・アイデア帳をつけよう
 無から有は生まれません。
――さあ、ドラマを書くぞ! という段階で、頭の中がカラッポでは、芝居は書けません。書いたとしても、ひどくウスッペラでご都合主義で、むりやりツジツマをあわせたものしか書けません。
 審査員は、こういうとき、こう言います。
「言いたいことは分かるんだけど……」という枕詞を付けて、「あそこは、あーで、こーで、惜しかった」で、創作脚本賞など出してお茶を濁します。高校演劇の審査というのは相対評価で、必ず最優秀と創作脚本賞、個人演技賞などを一定の割合で出さなければならないのです。だから、もらった方は「やったー!」という気になるし、観ているほうは「ああいうのが良いんだ!」と、未熟なものをサクセススタイルと思いこんでしまいます。これが、高校演劇の凋落に拍車をかけています。その証拠に全国大会でも観客席は満席になることがありません。
 
 演説はこれくらいにして本題に。
 アイデア帳というのは大したものじゃないんです。面白いと思ったことは、その場でメモをとるようにしましょう。
 わたしのアイデア帳の一部を紹介します。ほんとは企業秘密なんですが、もう使用済みのものや、だれでも思いつきそうなものを列挙していきます。
 最近は、歌手もアナウンサーさえも鼻濁音に無頓着『鼻濁音殺人事件』 
 警察では人相着衣のことを「人着にあっては、どうのこうの」という専門用語を使う。 
「ここではきものを脱ぐ」履き物を脱ぐやつと、着物を脱ぐやつが現れるなあ。 
「わたし、自分の名前嫌いなんです」「なんで?」「だって、イニシャルHGですよ」「それがどないしたん?」「だって、HGはハードゲイでしょ」 よく聞くと、親の離婚でHGになってしまったようだ。 
 いつも7階までエレベーターで上がってきて、一階分だけ階段を使っている子がいる。まだ、子どもなので、8階のボタンに手が届かない。
 海上自衛隊では毎週金曜日にはカレーライスを食べる。なぜか? 海の上にいると曜日感覚がなくなるから。 
 なぜ、横書きの日本語は左から右に書くのか。戦前は右から左が原則。だけど歓楽街にいくと左から右もあった。なぜか? 戦時中、南洋庁という植民地支配のための役所が、植民地の人たちが日本語を覚えやすくするために、通達を出して、戦後の閣議で追認した。だから日の丸なんかよりずっと軍国主義の遺産。でも、だれも何も言わない。どうして? ちなみに「大阪府庁」の看板は、いまだに右から左だ。
 スクランブル交差点、国防婦人会、ノーパン喫茶、こういうものは大阪で始まったものが多い。
 東京では、エスカレーターの右側を開ける。大阪は左側。境目は名古屋あたりか?
「山手線」を「やまてせん」とよぶのは地方出身者。江戸っ子は「やまのてせん」と言う。
 大阪でいう「レーコ」は東京では通じない。アイスコーヒーのこと。
 冷たいものを口にして頭が痛くなることを「アイスクリーム頭痛」という。これ、れっきとした専門用語。 最近の、大阪の女子高生は、自分のことを「オレ」という。東京では「ボク少女」と言うそうな。
 AKB48のタカミナの家に泊まった、あるメンバーはタカミナのパンツを借りて返さない、と、テレビでタカミナがぼやいていた。
 ヘビーローテーション、フライングゲット、みなネーミングがいい。両方とも放送局や、ダクショの専門用語。秋元康のアイデア帳もたいしたもの。
 校内で10万円のお金を盗まれた子がいたっけ。クラス全員拘束して調べたけど、今の学校は持ち物検査も出来ない。「ごめん。学校は警察ちゃうから、これ以上は調べられへん……」「……先生、ありがとう」その子は無言で涙目になって礼を言う。「警察に被害届出してもええねんで」言いながら冷や冷やもの。「うん」と言われれば、警察が捜査に乗り出す。学校としては困る……それを察したのか「もういい」と、彼女。10万円は、その子の家の、家賃やら、水道代やら、その子が、学校の帰りに振り込むことになっていた。学校で盗難は多いが、金額的にも内容的にも許せない。もう一度「ごめんな」と言う。彼女の目が涙で溢れる。衝動的に俺に抱きつこうとする。ここは素直にハグしてやるべきだ! しかし、先月、似たようなことでセクハラを取られ、戒告になった同僚のことが頭に浮かび、一瞬の逡巡。彼女はすぐに、それを察し、身をひいた。寂しいことだった。 
「でんでれりゅば、出てくるばってん。でんでられんけん出てこんけん、出てこられんけん、こん。こん」パッソという車のCM。「でんでれりゅうば」は長崎の手遊び。大阪には「ちゃちゃ壺、ちゃ壺、ちゃ壺にゃ蓋がない」というのがある。それよりも難しい。でも無邪気で、リズムがいい。調べてみると、長崎の遊郭のお女郎さんの話しがもとだとか「出られるものなら出ていくんだけど、出られないから、出て行かない。来ないよ、来ないよ」になる。
 名古屋では、自転車のことを「ケッタ」という。ケッタイな話し、ちなみに、大阪の「チャリンコ」は東京では通用しない。ただの「チャリ」である。
 『上からマリコ』というAKBの曲が、ちょっとヒット。これ少しひねったら『上からアリコ』いけるかも(今、このタイトルで、ネットで連載中)

 並べあげるとキリはない。それに、未使用のアイデアは書けません。

3・本書きは失恋しよう
 世の中には、モテるやつと、モテないやつがいます。作家はモテないほうがよろしい。
 モテないやつは失恋の連続です。自然とモテない人の話や、失恋に敏感になります。
 わたしは失恋の連続の人生でした。そういう人間が『ロミオとジュリエット』を読むと、あることに気づきます。台詞の中だけですが、ロミオはジュリエットを好きになったとき、ロザライン(ロザリンドの訳もあり)という、恋人がいました。どの程度の仲かは、わかりませんが、ロミオはかなり彼女の店に通ったようです。ロザラインは、なかなか良い返事をしてくれません。そこで出会ったのがジュリエットなのです。
 女の子の心理としては分かりますよね。「好きだ」と言われて、簡単に「わたしも」とは、なかなか言えません。ロミオはジュリエットが一目惚れするような、イケメンです。ロザラインも憎からず思っていたはずです。しかし、シェ-クスピアのオッサンは、彼女については、その後、一言も語りません。わたしは、このロザラインにひどく同情しました。そして『ロミオにフラレたロザライン』という本ができあがりました。
 
 作家は、弱い心、弱い立場に敏感であったほうがいいようです。
 太宰治。名前ぐらいは知ってますよね、『走れメロス』で有名です。友人セリヌンティウスを助けるために、メロスはひたすら走ります。ときに気持ちがくじけそうになりますが、見事に完走して、処刑される寸前のセリヌンティウスを助けます。
 この作品は、友情、約束の大切さという間違ったテーマで、教科書に載せられていました。太宰が書きたかったのは「待たせる者の苦悩」なのです。
 このメロスの話には、裏話があります。太宰が友人たちを連れて、旅館に連泊して遊び倒します。ある日オカミから「とりあえず、昨日までの料金を支払って欲しい」と、言われます。しかし、だれもお金を持っていません。そこで太宰は、友人たちに宣言します。
「ぼくが、一足さきに東京へ帰って、お金を都合しよう。みんな、ボクを信じて待っていてくれ!」
 で、太宰は、それっきりドロン。友人たちは非常な苦労をし恥をかいて東京に戻ってきます。
「太宰、おまえは、ひどい奴だ!」と、罵られます。
「君らに、待たせる者の苦悩が分かってたまるか!」これが太宰の返事でした。
 その気持ちを正当化するために(と、わたしは思っています)書かれたのが『走れメロス』なのです。
 戦時中、空襲警報が鳴って、太宰は家族といっしょに防空壕に非難します。幼い娘さんがグズるので、太宰は『カチカチ山』の絵本を読んでやります。『カチカチ山』では、タヌキが悪者で、田畑を荒らすので捕まえられ、タヌキ汁にされかけます。それを助けてくれたオバアサンをだまして怪我をさせて逃げたことになっています。で、ウサギさんが義侠心から、正義の味方になってタヌキを泥船に乗せて、溺れ死にさせてしまいます。ところが、太宰の娘さんは、こう言いました。
「タヌキさん、かわいそう……」
「どうして?」太宰は聞きました。
「敵討ちはいいけど、ウサギさん、やりすぎ」
 タヌキは、カチカチ山で、背中に大やけどをさせられ、そのあとはヤケドの薬とウサギに騙されて、カラシをヤケドに塗りつけられます。そして、お馴染みの泥船に乗せられて殺されてしまいます。敵討ちにしては、ウサギのやりようは執拗で残酷です。で、太宰は思い至ります。
「この執拗さと残酷さは、ティーンの女性特有のものだ!」
 わたしも、この太宰の説には大いにうなづけます。そういう経験は豊富ですから。
 そうして太宰は『お伽草子』の一つとして『カチカチ山』を書きます。ウサギはティーンの女の子。タヌキは中年のオッサン。このオッサンタヌキが、美少女ウサギに惚れます。タヌキはウサギの気持ちを引こうと涙ぐましい努力をします。ウサギはただウザイだけ。で、さまざまな意地悪をし、最後に泥船に乗せます。溺れるタヌキに、ウサギは船の櫨(オールのようなもの)で、タヌキにトドメをさします。タヌキは最後に叫びます。
「惚れたが悪いか……!」
 ウサギは、額の汗をぬぐい。
「ほ、ひどい汗」
 こういう視点が作品を生みます。

4・シンデレラと白雪姫
 作家の目の話しの続きです。『シンデレラ』は比較的に素直に喜んでハッピーエンドを受け入れられます。
『白雪姫』は、そうはいきません。白雪姫は悪い后によって、毒リンゴを食べて仮死状態になります。で、白馬の王子さまが現れて、白雪姫にキスをして、姫を助け、メデタシメデタシになります。
 しかし、(ひねくれた)大人の目から見れば、王子さまの、この行為は大変なことなのです。姫を助けたということは、姫の味方となり、悪い后の国と戦争をやらなければならず、始めた戦争には勝たねばならず、勝ったからには、新しい領土を平穏に統治せねばならず、当然まわりの国々は、大きくなった王子さまの国を警戒します。地域の政治的、軍事的バランスが崩れるからです。そんなことをなにも考えずに白雪姫にキスをするのは、あまりに軽率です。だから、王子さまは苦悩するはずなのです。白雪姫はクチビル一センチまで近づきながらキスをしてくれない王子さまに焦れる(じれる)はずです。ここにドラマが始まります。わたしは、ここに赤ずきんちゃんを登場させ、『ステルスドラゴンとグリムの森』という話を書きました。
 一言で言えば、人とは違う視点でモノを見ることが大切ということです。

5・気持ちや状況を説明してはいけない
 時々芝居に語り手を置く場合があります。ナレーター、狂言回し、MCなどと言い方やスタイルは様々ですが、要は説明役です。
 
 昔々、あるところにオジイサンとオバアサンがいました……という類の説明をします。はなはだしいときは、影マイクで済ますときもあります。語り手を置く場合は、かなり語り手に力がなければできません。
 だって、そうでしょう。授業中どれだけ先生の話を聞いていますか? 全校集会で、校長先生や、生活指導の先生がいくら喋っても、ほとんど聞いていませんね。

 舞台も同じです。オジイサンとオバアサンは説明しなくても登場すれば分かります。モンタギュー家とキャピュレット家が対立していることは、説明しなくとも、両家の若者たちにケンカをさせればすぐに分かります。だから、『ロミオとジュリエット』の芝居は、このケンカから始まります。冒頭にちょっとした説明役が出てきますが、これはシェ-クスピアの時代の芝居の約束事のようなものです。マイクも照明設備も無い時代です。
「さあ、これからお芝居を始めますよ。みなさんお静かに」
 この程度の意味しかありません。これ無しで芝居を始めたら、ざわついている観客席は静まらず、いきなりケンカのシーンなど始めたら、観客はほんとうにケンカが始まってしまったと思いかねません。そのためで、語る内容も、原稿用紙で一枚分ぐらいしかありません。
 まずは、語り手を置くのは、あまりいい方法では無いと申し上げておきます。

 役者にも、あまり説明的な台詞を喋らせてはいけません。あくまでも人間の葛藤として描かなければなりません。
 有名な『ロミオとジュリエット』の第二幕、第一場、キャピュレット家の庭園。バルコニーと庭に別れて、ロミオとジュリエットが、互いの思いを語るシーンがあります。原稿用紙で八枚ほどあります。
 この場の主題は「愛しています」なのですが、6000字あまりのこのシーンに「愛しています」は一度も出てきません。どうして愛する相手がカタキの家の人間なのか、という嘆き。それを超えても愛したい! 愛している! ということを言葉を尽くして語らせあいます。互いの言葉が、互いの恋心を高めるしかけになっています。そして、愛の語らいの場は、キャピュレット家の庭なのです。ロミオは、そのカタキのモンタギュー家の若様なのです。見つかればただでは済みません。その状況への気遣いと、一瞬でも長く二人で居たい気持ちの葛藤に満ちています。で、このシーンの主題は「愛しています」の、六文字なのです。シェ-クスピアは、それを字数にして千倍にして、しかも飽きさせません。本屋さんで、このシーンだけでいいですから立ち読みしてください。シェ-クスピアのスゴミを分かるのには一番いいシーンです。

6・特殊をもって普遍とするなかれ
 ちょっと難しいタイトルなので、例をもって説明な替えたいと思います。
 なんだか、対立していた者たちが、最後に和解して互いのいたらなっかったことや、間違っていたことを理解するカタルシス(心的浄化)を描きたいとします。そのために特殊な状況を作り出す手法です。
 イジメのために生徒が自殺します。遺書が残されました。加害者と思われる生徒たちの名前が書いてあります。そして、その親たちが学校に呼ばれ、事情を聞かれます。死んだ子の遺書も見せられます。
「うちの子が、そんなイジメをする側にまわることなんて、あり得ない!」
 親たちは、そう信じようとして、集められた他の親たちの子どものせいだと言い合います。
 次に、死んだ子が弱かったんだ、死ぬなんて当てつけがましい。とまで言い出します。しかし、しだいに真相が明らかになり、自分たちの子が死んだ子を追いつめたことを悟ります。そして、死んだ子に申し訳ない気持ちで一杯になり、自分たちこそ、子供たちに向き合っていなかったことに気づき、互いに和解し、死んだ子のの冥福を祈ります。
 わたしは、こういう芝居の書き方は「演劇的な殺人」だと思い、そういう書き方をしないことを戒めとしております。
 こういう本を書く人は、最初に和解などのカタルシスが書きたいのです。そのために現実的ではない状況を作り出してしまいます。
 イジメが原因で自殺にいたることは、ごくまれです。まれであるからこそ、マスコミは取り上げます。わたしは三十年教師をやって、六人の生徒の死に出くわしました。全員が交通事故です。高校生の死因で一番多いのは交通事故なんです。ありふれているので、マスコミはほとんど取り上げません。しかし、肉親にしてみれば、自分の子どもの死に違いはありません。
 わたしも、イジメや不登校を題材にして二本ほど書きましたが、子どもは死なせていません。死なずに耐えているのが普通なのです。中には、去年までイジメられていたのが、今年になるとイジメる側にまわることもあります。これは難しくいうと、集団の中で生きていくための人間関係の持ち方のネガとポジなのです。
 もし、かりに、本当にイジメのための自殺があり、そのことを芝居にしたいことがあったとしましょう。実際数は少ないですが、存在することです。
 現実に起こった出来事を素材にする場合は、かなり厳密なフィールドワークが必要です。自分が作家としてカタルシスを描きたい。作家として賞賛されたい。そういう気持ちで、現実に起こった出来事を素材にするのは、その出来事の関係者、当事者の方々への冒涜になります。
 現実の出来事を扱う場合、当事者、特に被害に遭われた方々への深いシンパシー(共感です。同情ではありません)を持たなければなりません。シンパシーの無い作品は、観れば分かります。シンパシーを持っている作品も分かります。井上ひさしさんの『父と暮らせば』 村上春樹さんの『アンダーグラウンド』など、その典型です。

7・とりあえずのまとめ
 本の書き方を述べるというのは、「どうやったらカレやカノジョを口説けるか」を、相談相手の顔を見ないで、答をいうようなものです。カレやカノジョへの告白の仕方というのは、誰が、誰に、どんな状況で告白するのかで千差万別です。
 芝居も、誰が、どんな役者を使って、誰に観せるのか、どんな上演目的か、そして何を書きたいのか、どこで上演するのかなどで、書き方は変わってきます。
 もし、コンクールで優勝を勝ち取りたいなら。あ、べつに皮肉じゃありません。コンクールは競技会です。優勝を目指してあたりまえです。わたしは、この姿勢を積極的に支持します。
 等身大の高校生の生活を描いてみましょう。テーマは「友情」ぐらいがいいでしょう。他に「友だち以上、恋人未満」「進路、正直実感湧きません。不安はあるけど」「約束」「先輩の心から見える高校生活」「これってイジメ?」「女子高生にとってのイケメンとは!?」「男子高校生にとってイケテル彼女とは!?」この逆もいいですね。「男子高校生にとってイケメンとは?」「女子高生にとってイケテル彼女とは!?」「ウザイ先生との距離の取り方、そこから見えてくる高校の現状(今またはNOW)」ちょっと考えただけで、これくらいのものがすぐに出てきます。審査員うけ……これも悪い意味じゃありません。審査や、審査員の傾向を知って作戦を練ることは、他のジャンルでは、ほとんど当たり前です。

 念のため、これは高校演劇に審査基準がないことへの遠まわしな批判です。

 では、どうやったら、等身大の高校生が書けるのでしょうか?
 簡単です。ネットで、上に書いたテーマ、むろん他のことでもけっこうです。検索してみてください。ヒントや情報は山ほどあります。審査員は基本的に、現場の高校生を知りません。自分自身のフィルターがかかっています。マスコミのそれであったり、観客として見ている高校生です。そこに照準をあてましょう。
 もし、もう一歩踏み込んで、借り物ではない感性で本を書きたいのなら、自分で調べましょう。生活指導や進路指導、保健室の先生に「うちの生徒の特徴とか、問題はなんでしょう?」と聞いてみてください。普段君たちが思いもしなかった自分たちの姿を教えてもらえます。

 わたしが、コーチをしていた学校で、生徒が、こんな叱られ方をしていました。
「分かってもいてへんのに、すぐに『はい』ていうな!」
「はい!」と、生徒の返事。
「それや、それが、あかんのや!」
「は、はい……」
 まるで漫才でした。ここからドラマが書けるなあと思いました。

8・最後に、やっぱり……
 本当に、アンチョコではなく本を書きたい人は、戯曲を50本、自分たちより上手いお芝居を10本は見てください。他のブログでも書きましたが、故藤本義一という、大阪を代表する作家の方は、「先生、芝居を一本書いてもらえませんか」と、頼まれ、こう言いました。
「ちょっと待ってください。勉強してから書きます」
 そう言って、藤本さんは100本の戯曲を読んでから、書くことを始めました。
 充電しない電池は放電できない。当たり前の話です。

 司馬遼太郎という偉い作家がいらっしゃいました。ご生前、東京の劇団から戯曲を依頼され、二本だけ書かれました。それ以後は一本もお書きになっていません。
 太宰治も「演劇界に原爆を落としてやる!」という意気込みで戯曲を書きましたが、やはり二本です。
 さほどに、本気で取り組むと、ムツカシイものなのです。それを承知の上で、戯曲を書く人が現れるのを待っております。
 ちなみに、わたしは20歳から書き始め、延べ150本ほどの作品があります。
「大橋さん。代表作とか自信作はなんですか?」
 そう聞かれたら、こう答えます。
「次に書く本」

後書き
 一応、これでおしまいです。あんまりゴチャゴチャ書いては、かえって分からなくなります。後日、書き足したほうがいい、書き直した方がいいということが出てきたら、手を加えます。では、腰を据えていい本を書いてください。
 もし、4月以降にこのブログを読んだ人は、今年度の創作は断念したほうがいいと、思います。台詞を並べただけでは戯曲ではありません。ただのプロットです。自分で読み、みんなで読み、実際演技として立体化して、何度も手を加えなければなりません。慣れていても、本書きに3ヶ月。稽古も最低3ヶ月はかかります。
 コンクールには、少し間に合いません。そういう人は来年のコンクールを目標に勉強してください。
「そんなあ~」
 という人は、部室の中から先輩たちが演った本を引っぱり出してください。一度は観客や、審査員の目をくぐっています。むろん、そのときの記録や改稿した分が残っていなければ意味がありませんが。一度探してみてはどうでしょう。

      〈完〉
 

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大橋むつおの劇評・劇評・劇団往来 第47回公演『リサの瞳の中に』 

2017-06-11 18:48:14 | 評論
大橋むつおの劇評
劇団往来 第47回公演『リサの瞳の中に』

 
 第41回大阪春の演劇まつり参加作品
 
 2017年 6月8日~11日

 作:ジェームス・リーチ 訳:小澤僥謳 演出:鈴木健之亮  小屋:大阪ビジネスパーク円形ホール



 乃木さんの漫談というかベシャリ、なんとも心地いですね。

 軽妙なオトボケで、とても暖かく、この人が出てくると、役者が出てきて芝居を始めるよりもお客さんの心を掴んでしまいます。
 往来の芝居を観はじめたン十年前からお歳を召しません。昔からいい味の初老のオッサンです。
 ベシャリの中でお母さんが92歳になられたとかおっしゃっていました。亡くなったオカンと同い年ですので、乃木さんは同世代だと拝察いたしました。一度乃木さんの漫談だけのイベントがあってもいいのではないかと思いました。

 その乃木さん、劇の冒頭でポーターの役で出てきます。心地よく舞台の芝居に入らせてくださいます。

 
 芝居は10人のモブが現れ「わたしは何者?」という問いかけと「わたしは~」というアンサーで始まります。

 モブたちの次に、クレメンス家。クレメント夫人と息子のディヴィッドの会話になります。
 どうやら、ディヴィッドには精神的な疾患があることが分かります。自分のカラの中に閉じこもり、人が自分の身体の接触することをひどく嫌がります。クレメント夫人は、ディヴィッドを全寮制の治療施設にいれようと決心しているのです。
 心身ともに触れられれば破裂しそうな自分をなだめながら母に従い、16歳のディヴィッドは治療施設への旅に出ます。
 旅の第一歩、駅頭で親子の荷物を運ぶポーターが乃木さんであります。

 治療施設には、要冷蔵さんの所長・エンスフィールド以下の医師や先生たち、10人余りのハイティーンの入所者たちがいます。
 入所者たちは冒頭のモブたちです。
 子どもの設定の役もあったのかもしれませんが、役者さんたちが二十歳前後のフレッシュな人たちなので、そう納得しました。

 いろんな精神的な障害を持つ入所者の中で、自閉症で二つの人格を持つリサという女の子が居ました。

 日ごろは満足に言葉を発しない人格が支配していて、立ち居振る舞いはほとんど幼女のごとしです。
 日ごろのコミニケーションは切れ切れの単語とスケッチブックに書く言葉で済ましています。

 初めは溶け込めないディヴィッドですが、悲喜こもごもの事件や葛藤の中、しだいに施設の中で自分の場所を見つけていきます。
 
 両親の無理解で、いったん自宅に連れ戻されますが、自分の意志で脱走して施設に戻ります。
 戻ったことで、施設と施設の仲間たちが自分にとって大事なものであることを自覚します。
 そして、それまでは関わろうとしなかった入所者たちにも進んで関わろうとし、将来は精神科の医者になろうとまで前向きになる。
 しかし、その前向きの中でリサを傷つけてしまい、リサは施設を飛び出してしまう。

 ディヴィッドは強い責任を感じて、施設のみんなと捜索に出る。
 そして暴漢に襲われ危機一髪のリサを助けることができた。
 
 人に触れられるとパニックになるディヴィッドでしたが、ラスト近くでは自分からリサに手を差し延ばせるところまで回復します。
 リサも、言葉を喋れる自分を取り戻し、差し出されたディヴィッドの手をとることが出来ました。

 サルサの明るいリズムの中大団円を迎え、乃木さんの漫談で、その後ディヴィッドは精神科の医者になったことが伝えられます。
 観客は、ほっこり心が温まりニコニコと観劇後のアンケートを書くことになりました。

 さて、この舞台の優れているところはミザンセーヌだと思いました。

 ミザンセーヌとは、舞台に置かれた道具や人物の配置ですが、特に人物の配置です。
 登場人物は総数24人(25だったかもしれません)で、全員が舞台に出ているのはフィナーレぐらいなのですが、施設内のシーンですと、たいがい10人以上舞台に存在しています。
 舞台上の人物が、しっかり自分の位置を占めています。観ていて不自然さや外連味が無く、役者の皆さんも、ちゃんと自分の位置を納得して存在しています。簡単そうですが、役者を自然に舞台に存在させられているのは演出の力量だと思います。
 若い役者さんが多く、まだ伸びしろの大きな方が何人もいらっしゃいますが、まだまだ表現が伸ばせる位置に存在しています。
 このメンバーで、この先上演の機会があるとしたら、さらに伸びていく舞台だと思いました。

 若い役者さんがノビノビ演じ、ベテランが脇を固めているのはいいものですね。
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