徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

明日から3月、でも・・・

2020-02-29 22:03:19 | 
 明日から3月。例年なら「春のくまもとお城まつり」など様々なイベントが始まり心ウキウキとなる頃だ。しかし今年は新型コロナウィルスの影響で、ほとんどのイベントが中止または延期となった。早咲きの桜はそろそろ咲き始めるし、下旬には花見の季節もやって来る。だが、今の状態が続けばそれを楽しめるかどうかあやしい。一日も早く終息することを願っているがはたして…


こんなのどかな春の日を迎えられるだろうか。

芸能余話

2020-02-28 20:14:33 | 音楽芸能
 43年前に他界した僕の祖母は寡婦として二人の子どもを育て上げ、苦労が絶えなかったわりには趣味人だった。おそらく裕福な娘時代の名残りなのだろう。ラジオでは落語、浪曲、肥後にわか、歌謡曲など何でも聴いていたし、たまに坪井の芝居小屋にも僕を連れて行った。僕が幼稚園だった昭和25年頃だと思うが、何度か桜町の熊本市公会堂に歌謡ショーを見に連れて行ってくれた。出演者の何人かは憶えているが、かなり記憶があやふやだ。ハッキリ憶えているのは川田晴久とダイナブラザース、渡辺はま子、菅原都々子など。川田晴久が歌謡界の女王・美空ひばりの原型をつくった人だと知るのはずっと後のことだ。渡辺はま子は幼心に色の白い美しい人だなという印象が残っているが、後にクォーターだと知る。菅原都々子は何と言ってもあの独特の歌声が今でも耳に残る。その他にも何人かの歌手を見ているはずなのだが誰だったのか残念ながら確認できない。


熊本市公会堂(熊本市民会館の前身)

     ▼支那の夜 渡辺はま子

渋川玄耳の家

2020-02-27 21:55:38 | 歴史
 わが家の裏から見える瀬戸坂沿いの家が解け更地になった。新しい家が建つのだろうか。ここは実は明治時代のジャーナリストで俳人でもあった渋川玄耳が熊本時代に住んでいた家があったところ。そのことを示す石柱も立っている。



 渋川玄耳は佐賀県の出身で、陸軍法務官として熊本の第六師団に勤務していた頃、夏目漱石を主宰とする俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加していた。漱石が英国留学中は紫溟吟社を支え、機関紙「銀杏」を創刊、熊本の俳句文化の基礎づくりに貢献した。後に、朝日新聞の礎を築いた熊本出身の池辺三山に招かれ社会部長となると、夏目漱石を社員として東京朝日新聞へ招いたり、朝日歌壇の選者に石川啄木を起用したことでも知られる。
玄耳が住んでいた頃の瀬戸坂界隈の雰囲気は遠い昔の話になってしまった。
 玄耳が詠んだ俳句を一句
 「探梅や右は椿の日かげ路」

春の香りをたずねて

2020-02-26 20:56:37 | 熊本
 この前の日曜日、玉名からの帰りはいつもの河内川沿いの道ではなく、久しぶりにみかん畑の中を走る県道熊本玉名線で帰った。天水の集落を抜け、夏目漱石が歩いた草枕の道を過ぎ、しばらく登ると目を奪われるような絶景が続く。玉名平野や干拓地、有明海とその向こうの雲仙。展望できるスポットも数ヶ所整備されている。途中には大河ドラマ「いだてん」のロケが行われたみかん畑の道もある。春の香りを胸いっぱいに吸いながら快適なドライブを楽しんだ。


河内町野出あたりから遠く雲仙を望む


   ▼草の芽(作詞・作曲 初代藤本琇丈)

旗振り通信

2020-02-25 19:04:43 | 歴史
 昨日このブログに玉名の「こんぴらさん」について書いた。するとブログ友の「小父さん」様からいただいたコメントの中に「堂島の米相場の連絡の為の旗振り山って近くには存在しますか?」というおたずねがあった。「旗振り山」というのは、大坂堂島の米相場をいっときも早く伝達するための「旗振り通信」が行われた山のことのようだ。「米飛脚」というのは聞いたことがあるが「旗振り山」は初めて聞いた。
 さっそくネット検索で調べてみると柴田昭彦さんという方が運営する「旗振り通信ものがたり」というサイトに行き当たった。このサイトの中に、大坂堂島を起点とする「旗振り通信」ネットワークの旗振り場となった日本全国の地名や山名が網羅されていた。だが、九州は久留米の耳納山よりも南側、つまり熊本などに旗振り場はない。かつて全国有数の米出荷地であった高瀬の周辺にないのは不思議だ。実際にないのかあるいは未確認ということなのか。もしないとすればその必要がなかったのか。たとえば久留米から「米飛脚」を走らせても数時間で伝達はできる。仮に旗振り通信が行われていたとすれば件の「こんぴらさん」は絶好の場所だったかもしれない。引き続き調べてみたい。
 ところで上記の「旗振り通信ものがたり」に2015年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」の中で、大坂堂島米会所のシーンで「旗振り通信」の様子が再現されたことや、2010年4月に放送された「タイムスクープハンター」では「速報セヨ!旗振り通信」と題して「旗振り通信」の実像に迫ったことが紹介されていた。残念ながら僕はどちらも見ていないので機会があれば見てみたいものだ。

   ▼「あさが来た」の主題歌--365日の紙飛行機

山の中のこんぴらさん

2020-02-23 20:31:03 | 歴史
 今日は所用で玉名の妹夫婦が住む家へ。ここは木葉山に連なる山々へと続く段丘の上。ここに来る時は時間があれば少し登った山中にあるこんぴらさんを参拝することにしている。こんぴらさんは海上安全の神様。かつては菊池川河口の高瀬の津や対岸の丹倍の津、そしてその向こうに広がる有明海を見おろしていたことだろう。鎌倉時代には海外交易が盛んに行われ、中国、朝鮮、東南アジアなどと幅広い交易が行われていたといわれる。江戸時代に入ると菊池川流域で獲れた米が高瀬御蔵に平田舟によって運ばれ、蔵出し俵は「俵ころがし」と呼ばれる石敷の坂をころがして、停泊中の五百石船へと積みこまれ、大坂堂島へ運ばれた。菊池川流域からは年間25万俵が積み出され、「高瀬米」と呼ばれて大阪の米相場の基準となっていたという。その積出しの様子は昨年放送された大河ドラマ「いだてん」の中でも再現されていた。


石積みの階段も崩れかけ古色蒼然とした金刀毘羅宮




大河ドラマ「いだてん」にも登場した高瀬船着場跡


「いだてん」における俵ころがしの場面


「いだてん」で米を運ぶ平田舟に便乗したスヤが降りる場面


「高瀬米」の積出しの様子を唄った「肥後の俵積出し唄」

曲舞(クセマイ)

2020-02-21 20:09:00 | 伝統芸能
 能に「クセ」という部分がある。一曲の中でも見どころ、聞きどころとなる部分である。これは中世の芸能「曲舞(クセマイ)」の謡い方を観阿弥(世阿弥の父)が能の中に取り入れ、能の完成度を高めたものといわれる。一方、「曲舞」は明治維新後、ほとんど滅んでしまったが、唯一、奇跡的に残っているのが福岡県みやま市瀬高町大江の幸若舞である。これは、明治時代末期、国文学者・詩人の高野辰之が「大江幸若舞」を訪ね、芸能史上特筆すべき古典芸能であることを広くPRしたことが、存続の危機から救い今日も国内唯一の幸若舞が残った大きな要因といわれている。現在は国指定の重要無形民俗文化財となっているが、能の「クセ」を見ながら「幸若舞」や滅んでいった中世芸能に思いをはせるのも味わい深いものである。


観世流能「羽衣」のクセ(シテ 観世流能楽師・菊本澄代)水前寺成趣園能楽殿
「〽君が代は 天の羽衣まれに来て」


源義経の最期を描いた幸若舞「高館(たかだち)」大江天満神社境内舞堂(みやま市瀬高町大江)

八景水谷

2020-02-20 22:36:56 | 歴史
 母の入院先に毎日通う道は八景水谷(はけのみや)公園の脇を通る。八景水谷は熊本市の水道を賄う水源地の一つでもあり観光スポットでもある。行き帰りに時々立ち寄るのだが、車が繁く行き交う通りを少し入ると豊かな自然が広がり心が安らぐ。幼稚園や小学校時代は遠足の定番でもあったし、小学校の春の大きな行事「園遊会」もここで行われていた懐かしい想い出の残る場所でもある。
 「八景水谷」の名前の由来は、江戸時代中期、熊本藩主の細川綱利公がここに御茶屋を造り、辺りの景観を近江八景や金沢八景などになぞらえて「八景水谷」と名付けたと伝えられる。もともと「ハケ」と呼ばれていた地名に八景をかけたものといわれる。「ブラタモリ 国分寺編」で「国分寺崖線」のことを地元の人たちは「ハケ」と呼ぶと紹介されたが、それと同じで台地のへりの崖から地下水が湧き出すことを意味していたらしい。また、ここは桜の名所でもあり、もうひと月ほどすると大勢の花見客で賑わうことだろう。


清らかな水辺にはコサギやカモなどの野鳥がやって来る


熊本市の水道を賄う水源地

聖徳太子のはなし。

2020-02-19 19:39:14 | 歴史
 先日の「新説!所JAPAN」(関西テレビ)では謎多き人物・聖徳太子を取り上げていた。さまざまなエピソードの中で興味深かったのは、戦前から七度も選ばれたという紙幣の肖像の話だ。戦後、GHQの最高司令官マッカーサーは、偉人たちの肖像を軍国主義につながるとして認めなかったが、唯一認められたのが聖徳太子。それは聖徳太子の十七条憲法の第一条に書かれた「以和為貴(わをもってとうとしとなす)」。これは平和主義者である聖徳太子を最もよく表している言葉であるとの日本側の説明に納得したからだという。はたしてマッカーサーはこの言葉の意味を正しく理解したのかどうかわからないが、説明者の機知を感じさせるエピソードだ。
 以下は番組を見ながら僕が感じたことである。

 十七条憲法の第二条に「篤敬三宝」(三宝すなわち仏・法・僧を篤く敬うべし)という言葉がある。日本における仏教の基礎を築いたといわれる聖徳太子の言葉だが、戦前の文献にはこの言葉の引用が数多く見えることから、かつては「篤敬」という言葉は日本人に広く使われていたと考えられる。昨年放送された大河ドラマ「いだてん」の中でさかんに使われた熊本弁「とつけむにゃぁ」という言葉の語源がはっきりしないのだが、「篤敬(とっけい)もない」から来ているのではと推測している。「篤敬三宝」を無視した非常識を戒める言葉だったのかもしれない。

 聖徳太子の寵臣だった秦河勝(はだのこうかつ、かわかつ)は能楽の前身である申楽(さるがく)の祖として知られる。室町時代に能を大成させたといわれる世阿弥(ぜあみ)はその伝書「風姿花伝(ふうしかでん)」の中で次のように述べている。
「推古天皇の御代に、聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。」
 河勝の子孫、秦氏安が、村上天皇の時代(10世紀頃)に、河勝伝来の申楽六十六番から三番を選んで「式三番」としたと伝えられる。われわれが能楽を楽しめるのも聖徳太子のおかげとも言えるわけだ。


聖徳太子(元服前14才)
狩野師華(狩野琇鵬先生の奥様) 筆



「式三番」の中の三番叟(狂言師 野村萬斎) 画像クリックで動画再生

花童ゆりあ卒業公演のお知らせ

2020-02-18 19:33:02 | 音楽芸能
 舞踊団花童のリーダー・ゆりあさんが、高校2年の新学期を前に、はつ喜流の名取を許され、
 「はつ喜月蘇女(つきそめ)」を名乗ることになりました。
 これに伴い花童を卒業することになり、下記のとおり卒業公演が行われます。
 多くの花童ファンの皆様にゆりあさんの卒業をお見守りいただきたくご案内申しあげます。
 なお、花童卒業後も、花童とともに舞踊家としての修業を続けていくことになります。
 今後ともご支援のほど何とぞよろしくお願いいたします。

◆ 日 時 日(土)午後1時30分開演
◆ 会 場 高森町色見総合センター(阿蘇郡高森町大字色見1135番地)※下記地図参照
◆ 入場料 無料
◆ 主 催 一般社団法人 舞踊団花童
  ※関連記事


花童ゆりあ 改め はつ喜月蘇女

【 会場周辺地図 】

柳川のさげもん

2020-02-17 21:55:50 | 歴史
 わが家の辺りは明治24年(1891)九州鉄道が熊本まで開通した時、池田駅(現上熊本駅)から熊本市街地へ通じる新道として、京町台地のへりを開削して新坂が通るまで「柳川丁」と呼ばれていた。わが祖母は町名が京町2丁目に変ってからも相変わらず「柳川丁」と呼んでいた。これは旧藩時代、京町台の東端を南北に走る小道を「柳川小路(やながわしゅうじ)」と呼んでいた名残りである。この「柳川小路」という名は、関ヶ原の戦で西軍に与して敗れた柳河立花藩の家臣団を、加藤清正が引き取って住まわせた一角であることに由来する。今では熊本都市バスのバス停名「京町柳川」にその名残りを残すのみである。
 そんなことから僕は幼い頃から「柳川」という名に親しみを感じる。今、柳川では伝統の風習「さげもん」が行われている最中だろう。何度か見に行ったことがあるが、近々また行ってみたいものだ。


北原白秋生家(柳川市沖端町)のさげもん

風雨の中の熊本城マラソン

2020-02-16 18:05:06 | スポーツ一般
 9回目を迎えた熊本城マラソンは、降り続く冷たい雨と強い風というこれまでにない大荒れの天気の中で行われました。さすがに例年より沿道の応援も少ない上、傘が手放せないためいつものような拍手がほとんどなく、掛け声だけの応援となりました。さらに新型コロナウイルスの感染拡大の影響でハイタッチ自粛などもあり、盛り上がりには欠けましたが、厳しい条件の中、選手や運営スタッフそして応援の皆様、本当にお疲れさまでした。


フルマラソン女子の1位、加藤みちるさん(二の丸御門前)


TVカメラマンも風雨に曝され大変!(ゴール直前の埋門前)

夜明けのテレビ

2020-02-15 16:43:59 | テレビ
 尿意をもよおして夜中に目を覚ました。電灯がわりにテレビを点けた。まだ5時前。画面では鈴々舎馬風師匠が古典落語「紙入れ」をやっていた。小用を済ませた後、そういえば「落語 THE MOVIE」でもやったなぁと思いながら、しばらく見ていたが、起きたばかりだからか気分が乗らないのでチャンネルを変えた。馬風師匠は石橋貴明らにいじられていた頃の方が面白かったような気がする。BSプレミアムにチャンネルを回すと、女性シンガーがブルースを歌っていた。1970年の英国の番組のようだ。字幕でストーン・ザ・クロウズというバンドだとわかる。ジャニス・ジョプリンを思い出すようなボーカリストだ。1970年といえば僕は横浜で新人研修を受けていた頃で、さかんに洋楽を聴いていたがこのグループは記憶にない。しかし、ファッションや音楽がいかにも当時の若者文化を思い出させて懐かしかった。


ブラタモリの変遷

2020-02-13 21:51:37 | テレビ
 予想どおりというか予定どおりというか、ブラタモリのアシスタント林田理沙アナが番組卒業となった。後任は札幌局の浅野里香アナが務めるという。6代目のアシスタントということになるが、これまでの5人はブラタモリのアシスタントになる前から知っていた人たちだったのに対し、浅野アナは初見となる。どういうアシスタントぶりを見せてくれるか未知数の楽しみでもある。
 現在放送されているブラタモリは2015年から始まった第4シリーズ。それまでは、街歩きを趣味とするタモリが、古地図を片手に江戸の成り立ちや江戸の文化を探訪するという趣旨の番組だった。それが、2015年の春、「いいとも」(フジ)が終わり、タモリの地方出張が可能になったというわけで、日本全国が対象となった。行ったことのない日本の各地を見せてくれるのは嬉しいのだが、行く先々に専門家が手ぐすね引いて待ち構え、ビッチリ組まれたスケジュールに沿って進行するという、少々窮屈な番組になってしまった。初期の頃の大らかさが懐かしい。


第4シリーズ・パイロット版(2015.1.6)に1本だけ出演の首藤奈知子アナ