3年前の日本選手権女子三段跳びのチャンピオン・中尾有沙さんが、練習中の事故で脊髄を損傷し車いす生活を余儀なくされて2年半。もう一度トラックに立ちたいの一心で、半年間のリハビリを乗り越え、車いす陸上の選手としてパラリンピックを目指している。事故の直後から中尾さんに密着取材を続けているKKT(熊本県民テレビ)が、今日、「現場発!」というドキュメンタリー番組で、その後の中尾さんをリポートした。まだまだ、パラリンピック選手のレベルには届かないが、大学時代の陸上部の2年後輩の男性と結婚もし、多くの人たちに支えられながら、常に前を向き、笑顔を絶やさず挑戦を続ける彼女の姿に心を打たれる。「不便だけど不幸じゃない」の言葉が心にしみた。
上江津湖の清流
YouTubeのマイチャンネルの中で、最も視聴回数が多い動画の一つが、今から6年前にアップした「江津湖音頭」です。最近、この動画を視聴していただいたユーザーの方から下記のような質問を受けましたので、そのQ&Aをご参考まで。
Q:1名だけ、桶ではなく笹を持って踊ってますが、これって、どんな意味があるのでしょうか?
A:水前寺の豊かな湧水が流れ出て江津湖となりますが、かつては近隣の住民にとって、水辺は野菜を洗ったり、洗濯をしたり、子どもたちは水遊びをしたりという生活には欠かせない場所でした。
この舞踊はそんな時代のある日の光景を描いたものだと思います。子供が持つ笹は、古来より子供の健康と成長を願う縁起物として神事などにも使われていますので、そんな気持も込めているのではないでしょうか。
Q:花童の皆様は本曲の様に黒留袖を着て踊る場合が多いみたいですね。一般的には既婚女性の第一礼装とされる黒留袖を小学生~高校生の娘さんが着る事の意味とか理由は?
A:花誠先生に確認したことはありませんが、私は次のように理解しています。花童はプロではありませんが、幼い3、4歳の頃から、舞台へ上がる時は大人と同じプロの心構えで臨むよう厳しくしつけられています。それを形として表しているのが黒留だと思います。黒留はメンバーの制服のようなもので、特別な演出(衣装、小道具、化粧など)の時以外は黒留を着ることになっているようです。
「出水神社薪能」を見るため水前寺成趣園能楽殿へと急ぐ浴衣姿の女性二人。
今年の上半期、能を観る機会は3月の熊本地震義捐能(2018.3.31 水前寺成趣園能楽殿)しかなかったが、来月からは毎月観ることができそうだ。
7月28日(土) 狩野琇鵬三回忌追善能 大濠公園能楽堂
8月 4日(土) 出水神社薪能 水前寺成趣園能楽殿
9月16日(日) 藤崎八旛宮例大祭・御旅所奉納能
10月 6日(土) 薪能「新作能 沖宮」 水前寺成趣園能楽殿
8月 4日(土) 出水神社薪能 水前寺成趣園能楽殿
9月16日(日) 藤崎八旛宮例大祭・御旅所奉納能
10月 6日(土) 薪能「新作能 沖宮」 水前寺成趣園能楽殿
※その他、熊本城薪能は日程未定
今日27日は毎年恒例、藤崎宮段山御旅所での「新町大祓」。ここ4年ほど続けて参拝しているが、雨が降らなかったのは初めてのような気がする。午後4時に始まった時には一般の参拝者は4、5人ほどしかいなかったが、神職から指導を受けながら、人形祓え、参拝の後、お祓いを受け、最後にお神酒をいただく。
今年も、近くの藤崎台童園の子らと一緒に茅の輪くぐりをやった。みんな本当に可愛い。
今年も、近くの藤崎台童園の子らと一緒に茅の輪くぐりをやった。みんな本当に可愛い。
昨日のRKKの情報番組「WELCOME!」では、「熊本の茶の湯・肥後古流」について江越哲也がリポートしていた。要点のみ下記まとめてみた。
利休七哲の一人、細川三斎(忠興)の「利休の作法を変えてはならぬ」という遺訓を守り、「利休の茶の精神と手前」を今に伝える肥後古流。肥後古流は信長や秀吉に点てていた時のまゝの作法が残っている。肥後古流宗家小堀家は現在、十三代小堀俊夫氏が当主を務める。茶の湯は個人の創意工夫を重んじ、時代とともにそれぞれ進化・変化して来た。しかし、肥後古流は「利休の茶の精神と手前」を頑なに守ってきた。
その細川三斎が残した設計図をもとに大正12年(1923)に復元されたのが、立田自然公園(泰勝寺跡)内に建てられている茶室「仰松軒(こうしょうけん)」。もと京都の天龍寺塔頭真乗院に建てられていた三斎好みのものを復元したもの。躙り口はなく、上り口は入り込んだ土間の奥にあり、向かって右手の口を入ると客座になり、正面の口から入ると点前座になるという独特の造り。
最近の研究では、利休は切腹しておらず、九州へ逃れて三斎に匿われていたという新説もあるらしい。
利休七哲の一人、細川三斎(忠興)の「利休の作法を変えてはならぬ」という遺訓を守り、「利休の茶の精神と手前」を今に伝える肥後古流。肥後古流は信長や秀吉に点てていた時のまゝの作法が残っている。肥後古流宗家小堀家は現在、十三代小堀俊夫氏が当主を務める。茶の湯は個人の創意工夫を重んじ、時代とともにそれぞれ進化・変化して来た。しかし、肥後古流は「利休の茶の精神と手前」を頑なに守ってきた。
その細川三斎が残した設計図をもとに大正12年(1923)に復元されたのが、立田自然公園(泰勝寺跡)内に建てられている茶室「仰松軒(こうしょうけん)」。もと京都の天龍寺塔頭真乗院に建てられていた三斎好みのものを復元したもの。躙り口はなく、上り口は入り込んだ土間の奥にあり、向かって右手の口を入ると客座になり、正面の口から入ると点前座になるという独特の造り。
最近の研究では、利休は切腹しておらず、九州へ逃れて三斎に匿われていたという新説もあるらしい。
先週土曜日、熊本県立美術館で行われたセミナー「ガラシャイメージの形成と展開」を聴きに行った。これは、8月4日から同美術館で開催される「特別展 細川ガラシャ」の前説とでもいうべきイベント。講師は同美術館学芸員の山田貴司さん。山田さんはNHKBSプレミアムの番組「英雄の選択」などへの出演をご覧になった方も多いだろう。
講演は、同美術館永青文庫展示室開設10周年記念行事として、なぜ「細川ガラシャ」の特別展をやるのかという趣旨の説明から入った。ガラシャ自身は熊本とは直接的な関係はないけれど、細川家の歴史を語るうえで欠くべからざる人物であり、彼女に関する史料の多くが細川家に残っているということ。しかし、熊本に残るガラシャゆかりの品々や関連文化財等は熊本でもほとんど知られていないこと等々の説明があった。
その後、文献や関係史料に記されるガラシャの生涯の話。時代背景やそれに伴う人々の意識の変化とともに、「節女」「烈女」というガラシャのイメージが、明治以降、キリシタンのイメージが強くなるなど変遷してきたこと。特に多くの人が関心を持つ、ガラシャ最期の場面に関する諸説などについて話を進められ、とても興味深かった。
7年ほど前、同美術館で「ガラシャと細川家の女性たち」という展覧会が行われた。僕も含め観客のほとんどがお目当てはガラシャ夫人だったにもかかわらず、期待したほどガラシャ夫人をイメージできるような展示もなかったのでガッカリした憶えがある。今回こそはきっと満足させてくれるだろう。
2016年7月14日放送の「英雄の選択 加藤清正・熊本築城」に出演の山田貴司さん(右から二人目)
講演は、同美術館永青文庫展示室開設10周年記念行事として、なぜ「細川ガラシャ」の特別展をやるのかという趣旨の説明から入った。ガラシャ自身は熊本とは直接的な関係はないけれど、細川家の歴史を語るうえで欠くべからざる人物であり、彼女に関する史料の多くが細川家に残っているということ。しかし、熊本に残るガラシャゆかりの品々や関連文化財等は熊本でもほとんど知られていないこと等々の説明があった。
その後、文献や関係史料に記されるガラシャの生涯の話。時代背景やそれに伴う人々の意識の変化とともに、「節女」「烈女」というガラシャのイメージが、明治以降、キリシタンのイメージが強くなるなど変遷してきたこと。特に多くの人が関心を持つ、ガラシャ最期の場面に関する諸説などについて話を進められ、とても興味深かった。
7年ほど前、同美術館で「ガラシャと細川家の女性たち」という展覧会が行われた。僕も含め観客のほとんどがお目当てはガラシャ夫人だったにもかかわらず、期待したほどガラシャ夫人をイメージできるような展示もなかったのでガッカリした憶えがある。今回こそはきっと満足させてくれるだろう。
2016年7月14日放送の「英雄の選択 加藤清正・熊本築城」に出演の山田貴司さん(右から二人目)
今日、二の丸公園を通り抜けて県立美術館へ行った。公園入口の戌亥櫓の前あたりに、関西方面からやって来たと思しき中年男性4、5人のグループが戌亥櫓を眺めながら、遠慮のない大声で話していた。なお、青文字は僕の心の声です。
「これ、あれやろ!テレビでやってた一本足の!」
(違いますッ!あれは飯田丸の方です!)
「まだ何もやってへんねや!観光客に見せるためか!金もらわんといかんしな!」
(何もかにもいっぺんにはやれないんですッ!戦後の傷痍軍人じゃあるまいし、わざと傷ついた状態を見せて喜捨をもらおうなんて考えてませんッ!)
そんな風に考える観光客もいるんだと認識を新たにした。市当局にもぜひ知ってもらいたいものだ。
熊本市内を見おろす本妙寺のシンボル的存在である仁王門。建てられたのが大正9年(1920)なので、再来年の東京オリンピックの年には100周年を迎える。ところが2年前の熊本地震で損壊し、いまだ復旧の見通しも立っていないようだ。地震以来、ずっと立入禁止となったままだ。来月に迫った今年の頓写会も迂回路を通ることになるが、仁王門の下を人の波が行き交う光景を再び見ることができるのはいつの日のことだろう。
▼仁王門が建つ前、黒門と呼ばれた境内への入口があり、その先に桜馬場が続いていた。
▼仁王門が建てられて間もない頃の様子を写した絵はがき。
門前町として栄えた花園町はいつも多くの参拝客で賑わったという。
▼熊本地震以来、いまだに立入禁止となったまま。
▼3年前の頓写会の賑わい
▼仁王門が建つ前、黒門と呼ばれた境内への入口があり、その先に桜馬場が続いていた。
▼仁王門が建てられて間もない頃の様子を写した絵はがき。
門前町として栄えた花園町はいつも多くの参拝客で賑わったという。
▼熊本地震以来、いまだに立入禁止となったまま。
▼3年前の頓写会の賑わい
2年前の熊本地震で石垣が崩れ、傾いていた元太鼓櫓(もとたいこやぐら)が、一昨日の大雨で崩壊したというニュースを聞いて、今朝現地を見て来た。復旧工事の優先度も低かったし、そのうち崩壊するのではないかと思っていたが、思いのほか早かった。
この櫓は平成15年(2003)に戌亥櫓(いぬいやぐら)などと一緒に復元されたもので、明治初期、時の熊本鎮台司令だった桐野利秋(中村半次郎)の指示により破却されていた。従って、僕らの年代にもあまり馴染みがない。むしろ、昭和35年の熊本国体の頃、テニスやバレーボールのコートとして使われていた奉行丸の観客席の一部だったイメージが強い。
この元太鼓櫓を含む西出丸一帯を破却した桐野利秋は、皮肉なことに明治10年の西南戦争では、西郷隆盛の右腕として熊本鎮台(熊本城)を攻めることになる。ところが知り尽くしているはずの熊本城を攻め落とせず、転戦の後、鹿児島で戦死した。
そんなことを考えていたら、9年ほど前、鹿児島出身の俳優・榎木孝明さんが、中村半次郎の半生を描いた映画「半次郎」を製作するというので、当時、くまもとフィルムコミッションに登録していた僕は、熊本地方裁判所で行われたロケのセッティングにボランティアとして参加したことを思い出した。
朝からテレビ各社の取材クルーがやってきていた。
今年3月23日の様子
この櫓は平成15年(2003)に戌亥櫓(いぬいやぐら)などと一緒に復元されたもので、明治初期、時の熊本鎮台司令だった桐野利秋(中村半次郎)の指示により破却されていた。従って、僕らの年代にもあまり馴染みがない。むしろ、昭和35年の熊本国体の頃、テニスやバレーボールのコートとして使われていた奉行丸の観客席の一部だったイメージが強い。
この元太鼓櫓を含む西出丸一帯を破却した桐野利秋は、皮肉なことに明治10年の西南戦争では、西郷隆盛の右腕として熊本鎮台(熊本城)を攻めることになる。ところが知り尽くしているはずの熊本城を攻め落とせず、転戦の後、鹿児島で戦死した。
そんなことを考えていたら、9年ほど前、鹿児島出身の俳優・榎木孝明さんが、中村半次郎の半生を描いた映画「半次郎」を製作するというので、当時、くまもとフィルムコミッションに登録していた僕は、熊本地方裁判所で行われたロケのセッティングにボランティアとして参加したことを思い出した。
朝からテレビ各社の取材クルーがやってきていた。
今年3月23日の様子
熊本城の跡にあり、かつて武家屋敷が建っていた国の合同庁舎跡地や新町地区の高麗門・御成道跡などが、国の特別史跡として追加で指定される見通しとなった。
また、NHK熊本局およびJT支店跡も熊本市が購入し、熊本城復元整備や観光振興に活用する方向であることから、今後、特別史跡の追加申請もありうると思われる。
▼桜の馬場地区(合庁跡、城彩苑他)
▼高麗門・御成道跡
▼NHK熊本局およびJT支店跡
また、NHK熊本局およびJT支店跡も熊本市が購入し、熊本城復元整備や観光振興に活用する方向であることから、今後、特別史跡の追加申請もありうると思われる。
▼桜の馬場地区(合庁跡、城彩苑他)
▼高麗門・御成道跡
▼NHK熊本局およびJT支店跡
先週の木曜日、家内と一緒に立田山に登った。帰りに麓の泰勝寺跡(立田自然公園)に立ち寄り、四つ御廟にお参りした。四つ御廟というのは、肥後細川家初代藤孝(幽斎)公、その室光寿院、二代忠興公、その室秀林院(玉、ガラシャ)の四人の御霊を祭った御廟のこと。僕は年に3、4回はお参りしているが、家内は四つ御廟にお参りするのは初めてでいろいろ感じるところがあったらしい。
2020年大河ドラマは、明智光秀を主人公とする「麒麟がくる」に決まった。光秀の娘である玉(細川ガラシャ)を主人公とするドラマを期待していた僕にとってはちょっと微妙な決定となった。
8月4日から熊本県立美術館本館で開催される「細川ガラシャ」展に期待することにしよう。
四つ御廟
苔生した門
細川ガラシャ(玉子)廟
▼細川ガラシャ展
2020年大河ドラマは、明智光秀を主人公とする「麒麟がくる」に決まった。光秀の娘である玉(細川ガラシャ)を主人公とするドラマを期待していた僕にとってはちょっと微妙な決定となった。
8月4日から熊本県立美術館本館で開催される「細川ガラシャ」展に期待することにしよう。
四つ御廟
苔生した門
細川ガラシャ(玉子)廟
▼細川ガラシャ展
熊本城の崩落した石垣の石を眺めて、いつも思うのは「この石はいったいどこからやってきたのだろう?」ということ。今日、家内と一緒に初めて花岡山を歩いて登った。車ではもう何度も登っているのだが、山腹の墓場を通り抜ける山道は、車の道とはまた違った花岡山の風景が見えた。登りながら「この山から築城用の安山岩を切り出した清正公はどこをどうやって茶臼山まで運んだのだろう?」とずっと考えていた。木馬道を修羅で引っ張ればなんとか麓までは降ろせるだろう。そこからさらに白川の畔まで引っ張ったのだろうか。熊本城築城以前、茶臼山の麓を流れていたといわれる白川の河運を使って今の桜の馬場あたりまで運んだのだろう。そうすれば国立病院熊本の附属看護学校あたりの発掘調査で発見された修羅道の遺跡とつながるのである。
石切り出しや運搬の陣頭指揮を取った清正が休息したという「加藤清正腰掛石」
清正が切り出そうとして山上の狐から止められたという伝説の「八枚石」
清正を守護する二匹の狐のうち兄の「清藤稲荷大明神」の鳥居
こんな修羅を使って石を運搬したのだろうか。
石切り出しや運搬の陣頭指揮を取った清正が休息したという「加藤清正腰掛石」
清正が切り出そうとして山上の狐から止められたという伝説の「八枚石」
清正を守護する二匹の狐のうち兄の「清藤稲荷大明神」の鳥居
こんな修羅を使って石を運搬したのだろうか。
熊本市役所14F展望ロビーから見た今日の熊本城。大天守の復旧工事は順調に進んでいるようだ。
それにつけても気になるのは、その手前の本丸御殿のこと。まだ復旧計画の情報は入って来ない。先日、名古屋城の本丸御殿が復元され、一般公開が始まったというニュースを目にした。
熊本城本丸御殿が復元されたのはもう10年前のことになる。熊本城観光の目玉として多くの観光客を集めていた。僕は復元直後に見学した後、2010年からは、大広間で行なわれる春の宴、秋夜の宴などのイベントを見に行くのが楽しみとなった。本丸御殿にはこれまでおそらく30~40回は登ったことになるだろう。
こうしたイベントが再び開かれるのはいったい何年後のことだろう。もう僕らの世代は見ることは出来ないかもしれない。寂しい限りだが、本丸御殿で華やかなイベントが行なわれる日が一日も早くやって来ることを祈りたい。
昭君の間
2013年4月6日 熊本城本丸御殿・大広間 春のくまもとお城まつり
演奏 Viento
踊り 花柳伯龍・ザ・わらべほか
囃子 中村花誠・中村弌誠ほか
演奏 Viento
踊り 花柳伯龍・ザ・わらべほか
囃子 中村花誠・中村弌誠ほか
わが家の菩提寺の住職の話でも「寺離れ」が進み、お寺の経営は大変だという話は以前にもブログに書いたことがある。お寺も手をこまねいているわけにはいかないので、手を替え品を替えて様々な生き残り策を講じているようだ。今夜のRKK熊本放送の看板番組「週刊山崎くん」では、「お寺へ行こう!」と題して、ユニークな呼び込み作戦を展開しているお寺を紹介していた。「お寺でヨガ教室」(大慈禅寺)、「お寺de落語」(香福寺)、「寺カフェ」(光柳院 寺カフェ椿)、「OTELIKE」(妙国寺)など。
わが身を振り返ってみると、菩提寺に足を運ぶことはめったにないが、結構その他のお寺へ行く頻度は高いことに気が付いた。
体力づくりのため最近また登り始めた本妙寺(浄池廟)
本妙寺・加藤清正公銅像
毎月実施される玄宅寺での花童舞踊会
谷汲観音様のご尊顔を拝するため、度々足を運んでいる浄国寺
わが身を振り返ってみると、菩提寺に足を運ぶことはめったにないが、結構その他のお寺へ行く頻度は高いことに気が付いた。
体力づくりのため最近また登り始めた本妙寺(浄池廟)
本妙寺・加藤清正公銅像
毎月実施される玄宅寺での花童舞踊会
谷汲観音様のご尊顔を拝するため、度々足を運んでいる浄国寺