徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

桜灯籠2024

2024-03-31 12:24:21 | イベント
 本妙寺春の名物行事「桜灯籠(はなとうろう)」も今年で20回を数えた。3日前に来た時、はたして当日満開になるだろうかと心配したソメイヨシノもまるでタイミングを見計らったかのように見事に咲いた。
 熊本地震や新型コロナ感染拡大などで中止や縮小開催などが続いたが、やっと通常開催に戻ったようだ。出店も立ち並び、夕方6時のまつり開始の頃には仁王門から胸突雁木への桜馬場は絶え間なく人波が続いた。
 大本堂前や各塔頭では様々なイベントが行われ、コロナ前の風景が戻った。


賑わう桜馬場


日が暮れると桜と灯籠が幻想的な雰囲気を醸す


大本堂前も竹灯籠とライティングで幻想的な雰囲気


子どもたちも楽しい一夜となったようだ

法皇閣前でライブを行うゴスペルチーム 熊本 cool choir(クマモトクールクワイヤー)

「御馬下の角小屋」番頭の話

2024-03-29 21:40:55 | 歴史
 2008年に放送されたNHK大河ドラマ「篤姫」が今、NHK-BSで再放送されている。現在、篤姫が将軍家定へお輿入れするあたりまで進んでいる。先月、「津々堂のたわごと日録」さんが触れておられたように、このドラマではお輿入れのルートを船旅として描かれているが、実際は陸路ルートだったことがわかっている。
 薩摩藩の参勤ルートは江戸前期には日向細島港から船出する東ルートや川内川河口あたりから船出する西ルートなどの海路もあったようだが、江戸後期にはほとんど陸路を使っていたらしい。薩摩街道を北上すると当然熊本藩を通過することになり、しかも薩摩街道(豊前街道)は熊本城二の丸を通ることになるので、熊本藩士との間で一触即発ということもあり、街道を避けて脇道を使うこともあったようだ。もちろん篤姫のお輿入れの時は熊本藩も最大限の配慮をしたことだろう。熊本城から北へ豊前街道を7㌔弱進んだところに「御馬下の角小屋」という庄屋の屋敷があり、薩摩藩もここを休息所として使っていたが、ここに篤姫のお輿入れのエピソードが残っている。「御馬下の角小屋」で永年番頭を務めた利平の目撃談が、今は資料館となっている屋敷の一角に貼られている。




酒井先生の思い出

2024-03-28 22:06:43 | 友人・知人
 先日まで行われた「春のくまもとお城まつり」などで熊本城二の丸広場に行くことが多いが、西大手門への通路の脇にある「歩兵第十三連隊の跡」記念碑を見る度に9年前に94歳で他界された酒井恭次先生のことを思い出す。酒井先生は僕がブリヂストン時代に最もお世話になった横浜工場の産業医で、亡くなられるまで年賀状のやり取りが続いた。亡くなられる数年前から、年賀状には必ず、戦時中熊本の「西部第十六部隊」に入営された頃の思い出が書かれていた。「西部第十六部隊」というのは、この記念碑の「歩兵第十三連隊」の後身の部隊のことである。よほど懐かしい想い出だったのだろう。
 久留米ご出身の先生は横浜工場勤務が永かった。僕が東京勤務だった30数年前、横浜工場の酒井先生のところへ新医療システムの相談で度々お伺いした。お伺いすると必ず、終業後は横浜の街へ繰り出すのがお決まりだった。行きつけの店へ行くと先生は必ず、財布を店の女将に預けた。精算は女将にまかせて店を出る時、財布を受け取って帰るというのがお決りだった。ある時、2、3軒回った後、カラオケバーに入った。先生は病院に出入りしている製薬会社のプロパーさんを呼び出した。それは、その若い男性のプロパーさんはおそろしく歌が上手い人で、先生は僕にそれを聞かせたかったのだろう。特に松田聖子の「SWEET MEMORIES」や「赤いスイートピー」などは絶品だった。テレビなどで松田聖子の「SWEET MEMORIES」や「赤いスイートピー」を見る度に先生とあの夜のことを想い出す。


歩兵第十三連隊の跡


さくらさくら

2024-03-27 20:00:08 | 季節
 今日は快晴だったので桜の咲き具合を確かめようと本妙寺周辺へ。桜開花宣言はあったものの、まだソメイヨシノはパラパラといった具合だった。今週末には本妙寺参道一帯のまつり「桜灯籠」が行われるがはたしてどの程度開くだろうか。微妙なところだ。
 本妙寺大本堂前の桜の木が大胆に枝落とししてあった。枯死を避けるためか、落枝による事故防止のためか、やむを得ない処置とは思うが、開花を前に残念なことだ。昨年までの美しい光景は望むべくもない。
 柿原桃畑の桃の花はだいぶ咲いた。今週末には満開になるだろう。


本妙寺塔頭・東光院のしだれ桜は今が見ごろ


本妙寺大本堂のしだれ桜も満開


柿原桃畑の桃の花は今週末には満開か


花園中尾地区の四季花壇から阿蘇のけむりを望む


過年度の本妙寺大本堂前参道の桜

2015.3.27 熊本城二の丸広場「春のくまもとお城まつり」より舞踊団花童「さくらさくら」

女子アナの転勤

2024-03-26 19:07:43 | テレビ
 熊本は今日、桜開花宣言があった。春は転勤の季節でもある。NHK熊本放送局のアナウンサー佐藤茉那(さとうまな)さんが広島局に転勤となったそうだ。彼女が熊本に初任配置されたのはたしか2020年6月だったと思う。僕が熊本に帰って以降、熊本局に初任配置された新人女子アナは、渡邊佐和子さん、池田伸子さん、近江友里恵さん、石橋亜紗さん、畠山衣美さんに続いて6人目だった。先輩方よりも1年ほど長い熊本勤務だったと思う。コロナ騒動などが影響したのかもしれない。彼女は着任早々のニュース読みなどもしっかりできていた。例えて大変失礼だが、今、お昼のNHKニュースなどを堂々と担当している池田伸子さんなどは、最初はとても危なっかしくて見ているこちらがハラハラしていた憶えがある。それに比べると佐藤さんは最初から落ち着いていて、物おじしないところは、学生時代、バトントワリングをやっていたせいかなと思ったりしたものだ。ちょっと残念だったのは熊本放送局の千葉城時代は、池田さん、近江さんなど出退勤時の姿を見かけることがあったが、花畑町に移ってからはそんなチャンスもなくなった。
 それはさておき、広島局でも経験を積んでいずれはNHKの看板番組を背負うアナウンサーに育ってほしい。ずっと応援しています!

九州がっ祭2024

2024-03-24 20:22:34 | イベント
 昨夜は3月とは思えない大雨と強烈な雷鳴で何度も目が覚めた。明け方には小降りとなったので午前中に熊本県知事選挙の投票に京陵中学校へ出かけた。漱石記念緑道の早咲きの桜も雨に打たれてうなだれていた。
 午後はいったん雨が止んだので、今日が最終日となった「春のくまもとお城まつり」を見に行った。最終日のプログラムは「九州がっ祭2024」。九州を中心とした各地のYOSAKOIまつりなどが集合したイベントである。YOSAKOI系のまつりは正直あまり興味はなかったのだが、少女たちによる「美勝女隊」(福岡)などはエンタテイメントとして完成度の高いパフォーマンスを見せていた。


雨のしずくを湛えた早咲きの桜


美勝女隊(福岡)


YOSAFUL連合(山口・宇部)

SL人吉 ラストラン

2024-03-23 22:29:10 | イベント
 人で言えば「再雇用」のような形で「SLあそBOY」として、また「SL人吉」として頑張ってきたが、機関車の老朽化、部品調達や技術者の確保が難しくなった等の理由により、明日3月24日を以て「SL人吉」は101年の現役を終えることになり、今日ラストランが行われた。
 釜尾町の井芹川に架かる鶴野橋の上から見送ったが、汽笛を鳴らしながら去って行くSLを見ていると、僕の生きた時代が遠い彼方へ去って行くようで万感胸に迫るものがあった。



 SLの思い出で最も忘れられない一つが、高校1年(1961年)の夏、東京合宿で初めて上京した時、熊本―東京間を「急行阿蘇」で丸1日かかったこと。東京に着いた時はクタクタで顔は煤で真っ黒だった。下の映像は、その東京合宿の後のインターハイで、わが済々黌水球部が連覇し、熊本駅に凱旋した時のもの。(映像は村山憲三氏提供)


式子内親王と藤原定家

2024-03-22 20:45:44 | 歴史
 先日、学習院大文学部を卒業された天皇、皇后両陛下の長女愛子様は、卒業論文に「式子(しょくし)内親王」を取り上げられたとニュースで報じられた。式子内親王とは、後白河天皇の第三皇女で、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた「新古今和歌集」の女性歌人の代表といわれる。不勉強で式子内親王が詠まれた歌を知らないので「新古今和歌集」をパラパラとめくってみた。春の歌の中に次の式子内親王の歌があった。

  いま桜咲きぬと見えてうすぐもり春に霞める世のけしきかな

 愛子様卒業のニュースを聞いて僕がまず連想したのは「定家葛(テイカカズラ)」(下の写真参照)のこと。「定家葛」の名は、式子内親王を愛した藤原定家(ふじわらのていか)が、死後も彼女を忘れられず、ついにテイカカズラに生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説に基づく能「定家」から付けられたという。
 もう3週間もすればわが家の近辺にもテイカカズラがそこらじゅうに白い花を咲かせ甘い香りを漂わせる。テイカカズラは繁茂の勢いが凄い。定家の妄執の強さを感じてしまう。


テイカカズラの花

   ▼能「定家」(シテ:観世清河寿)

桜は まだかいな!

2024-03-21 22:07:21 | 季節
 昨夜は楽しみにしていた「熊本城薪能」が行われたが、尋常じゃない寒さに直前になって見に行くのを断念した。予定どおり行われたらしいが観客の皆さんはさぞや寒かったろう。
 今日は風もおさまって寒さも幾分和らいだので熊本城周辺を歩いた。当初の桜開花予想では今日あたりが開花のはずだったが、一部の早咲きの桜以外はまだ蕾の状態。2、3日後あたりに開花と思われる。毎年3月末土曜日に行われる本妙寺の「桜灯籠(はなとうろう)」は今年は30日に当たるので
絶好の夜桜見物になるかもしれない。


監物台樹木園前の道路から大小天守を望む


KKRホテル熊本玄関前から大小天守を望む


過年度の桜灯籠より

   端唄 夜桜

高浜虚子と祇園の舞妓

2024-03-20 23:04:55 | 文芸
 高浜虚子の「漱石氏と私」には、明治40年の春、京都で夏目漱石と一緒に過ごした祇園の夜などが書かれている。この時、漱石は、第三高等学校の校長を務めていた狩野亨吉宅に逗留し、職業作家として初の作品「虞美人草」を執筆中だった。ちょうどこの頃、漱石を第五高等学校に招いた菅虎雄も狩野宅に逗留していた。狩野は漱石が五高へ招いた人でもあり、五高ゆかりの人物が揃っていたわけだ。虚子は漱石を誘って、都踊りを見に行ったり、祇園の茶屋「一力」で舞妓たちと雑魚寝の一夜を過したりしている。ここに登場する二人の舞妓、十三歳の千賀菊と玉喜久は虚子の「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」にも登場する。千賀菊はなぜか、三千歳という名で登場する。「風流懺法」には舞妓たちが「京の四季」や「相生獅子」などを踊る様子が描かれている。
 この三千歳という舞妓は数年後、一念という比叡山の小法師と出逢い、恋に落ちるのだが、ある客に身請けされてしまう。あきらめきれない一念は三千歳と落ち合い心中行を決行する。しかし、死に場所を求めて入った山中で出逢った炭焼き男の小屋に招かれ、男と一緒に暮らす女の暖かいもてなしに心中を断念するという後日譚がつく。


黒鍬衆とあらしこ

2024-03-19 21:09:19 | 熊本
 日頃ブログを通じてご好誼を賜っている「津々堂のたわごと日録」さんが昨日「黒鍬衆は隠密にては非ず」という記事を掲載された。黒鍬衆と言うのは戦国時代から江戸時代にかけて、専ら土木などの力仕事や汚れ仕事などで武士をサポートしていた軽輩のことだそうである。熊本にもそんな黒鍬衆が住んでいた「黒鍬町」という町があった(下地図参照)。現在は「黒鍬通り」という通り名だけが残っている。
 僕の祖母の生家はこの「黒鍬町」のとなり街で「一番被分(わかされ)町」といった(下地図の赤い点線の辺り)。生前、祖母の口から「黒鍬町」という言葉を何度か聞いたことを憶えている。津々堂さんの記事で「黒鍬町」という町名の由来を初めて知った。
 祖母が嫁いだ先が立田山麓の黒髪村下立田、泰勝寺の隣接地である。わが父が幼い頃、この泰勝寺に住んでいた長岡氏(細川刑部家の一つ)の邸へ、若様の友達として日参していたことは何度もこのブログに書いたが、長岡家には「あらしこ(荒子)」と呼ばれる使用人がいたことが父の備忘録に書かれている。「あらしこ」とは武家の邸で主に力仕事を受け持つ下男のことで、ちょうど「黒鍬衆」の個人版とも言えそうだが、父の記憶では幼い令息や令嬢の見守り役も務めていたらしい。若様と一緒に柿ちぎりをしていて、木登り上手の父が高い木に登っていたところ、巡回して来た「あらしこ」に咎められ、すごすごと降りて来た逸話を父がよく話していたものだ。




白川公園脇の電信柱に残る「被分町」の名残り


3号線から上通へ通じる通り名の一つ「黒鍬通り」


「黒鍬通り」の電信柱に残る「黒鍬町」の名残り

城彩苑13周年誕生記念祭

2024-03-17 18:59:00 | イベント
 桜の馬場・城彩苑は開業後13周年を迎え、誕生記念祭が昨夜来の雨の中行われた。開業直後の東日本大震災により当初は先行きを不安視されていたものだが、徐々に来場者を増やし、熊本城観光になくてはならない人気スポットとなった。特に開業後5年の2016年に起きた熊本地震では熊本城内のほとんどが立入規制となる中、城彩苑が熊本城観光を支えた。今後もその存在価値はますます高くなると思われる。


降り続く雨の中、観光客で賑わう城彩苑


親水空間ステージでは各種イベントが。「ONE PIECE ウィーアー」を踊る舞踊団花童


必由館高校吹奏楽部による演奏


2011年3月5日 城彩苑オープンの日の様子

中村花誠先生と舞踊団花童

2024-03-16 17:20:43 | 伝統芸能
 今朝の熊日新聞・熊本ローカルのページに「舞踊団花童」を主宰する中村花誠先生がクローズアップされていました。これまでも度々メディアに紹介されたことがありますが、花誠先生が熊本で舞踊団を結成されて来年で25年、ご自身の還暦も重なり来年は特別の記念公演を計画されていると聞きます。来年が楽しみです。
 舞踊団花童の前身である「ザ・わらべ」の頃から応援を始めて
14年。このブログでも何度か紹介させていただきましたが、10年前の紹介記事へのリンクを下に張りましたのでご参考まで。



ザ・わらべのこと。 (2014.11.12)

門出の春

2024-03-15 20:27:55 | 季節
 今日は日中20℃にも迫ろうという陽気で、桜のシーズンもすぐそこまで来ていることを感じさせた。熊本城二の丸広場周辺では振袖に袴という和装に着飾った若い女性のグループを何組も見かけた。どこかの大学か専門学校の卒業式帰りのようだ。すれ違う時、よっぽど「卒業おめでとう!」と声をかけようと思ったが、ヘンなオジサンと思われそうで自重した。彼女たちがどんな道へ進んで行くのかわからないが、それぞれの人生に幸多かれと祈りたい。毎年卒業式のシーズンになると聴きたくなる「仰げば尊し(原曲)」を今年も聴いてみた。


仲間で記念撮影をするグループ


護国神社の早咲きの桜


柿原桃畑の花も開き始めた

    Song for the close of school(仰げば尊し)

一期一会

2024-03-14 21:00:47 | 
 京町の熊本地方裁判所に併設されていた京町拘置所は大江に移転し、建物は解体撤去され、更地となっている。ここの前を通る度に思い出すことがある。
 あれは10年前の秋のことだった。僕は京陵中学校での熊本市長選挙の投票を終えて帰る途中、一人の高齢の婦人に出逢った。京陵中学校のテニスコートのフェンス沿いに「すみれ程の小さき人に生まれたし」という夏目漱石の句碑が立っている。その婦人はその句碑を撮影しようとカメラを構えていた。背中のリュックが旅行者を思わせた。通り過ぎて京町本丁の四つ角で信号待ちをしていると、追いついて来たその婦人に「壷川小学校はどちらの方向になりますか?」とたずねられた。僕は婦人の年恰好から壷川小学校まで歩くのは大変かなと思い、「バスで行かれたらどうですか」と答えた。しかし、婦人は「壷川小学校は幼い頃通学していたので歩いて行きたいのです」とおっしゃる。それじゃ途中までご一緒しましょうと歩き始めた。道々、熊本にいたのは戦前の6年間だったこと。京町1丁目に住んでいて壷川小学校に通ったこと。その後、父親の転勤で熊本を離れたことなどを話された。そして「たしか道の左側に刑務所があった」とおっしゃった。京町拘置所のことだとわかったが、既に新坂をだいぶ進んでいたので、今さら観音坂へ回るのは大変だと思い、とにかく新坂を下って壷川小学校を目指すことを勧めて別れた。彼女は丁寧にお礼を述べて去って行った。家に帰り着いた後、彼女にとって懐かしい子供時代の思い出の熊本を訪れるのは、おそらくこれが最後なのだろうと思うと、なぜ、遠回りしてでも通学していた観音坂へ連れて行ってあげなかったのだろうと悔やんだ。そしてなぜか「一期一会」という言葉が頭に浮かんだ。
 「一期一会」とは、茶道の始祖である千利休の教えといわれ「人との出会いや機会は二度と繰り返されることがなく一生で一度きりの出逢いだと思い誠意を尽くすべきである」という意味だそうである。


解体撤去され更地となった京町拘置所跡

   Till We Meet Again - New Orleans Stompers