徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

叔母の旅立ち

2024-04-26 20:21:19 | ファミリー
 御殿場の叔母が旅立った。いつ見てもニコニコしている叔母だった。まだ80を過ぎたばかりと思っていたのにあっけない最期だった。叔父(母の弟)は若い頃からずっと御殿場の自衛隊にいたので御殿場で知り合って結婚した。もう60年近くも前になるが、僕は大学生で川崎に住んでいたので、唯一の花婿側親族として結婚式に出席した。初めて叔母を見た時、玉名の叔母(叔父の姉)の若い頃にそっくりだなと思った。叔父にそのことを言ったら、「そうかなぁ」と首をひねっていたが、叔父は無意識に姉上に似た人を選んでいたのかもしれない。僕は学生時代や東京勤務時代に何度も御殿場の叔父の家を訪れた。東京を離れてからは行く機会がなくなった。叔母が健在なうちにもう一度行きたかった。今頃叔母は早世した長女と再会していることだろう。今でも時々、叔父の結婚式で初めて御殿場へ行った時、東横線、東海道線、御殿場線と乗り継いで行った旅のことを懐かしく思い出す。
 叔母への感謝と愛を込めて。


御殿場から見る富士山 FUJIYAMA DAYS. http://shikinofuji.com/さんより

庭の山椒の木

2024-04-24 20:58:29 | 
 家内と庭の山椒の木の実を摘んだ。葉の中にうっかり手を突っ込むとトゲが刺さるので用心には用心を重ねて実を摘もうとするのだが、やっぱり時々刺さって痛い。古い山椒の木はトゲがなくなるとも聞くが(人間と同じか)、やはりトゲがあったほうが若々しい感じがする。家内が作る「ちりめん山椒」が楽しみだ。
 「庭の山椒の木・・・」と聞くと、必ず思い出すのが宮崎県民謡「ひえつき節」の歌詞問題だ。下の動画を公開してしばらく経った頃、冒頭の歌詞「庭の山椒の木」というのは間違いで、「山茱恪(さんしゅゆ)の木」が正しいというご指摘を数件いただいた。これは一種のフェイク情報で、この唄の発祥地・椎葉村の担当課が「さんしゅうと唄うのは地元の方言で山椒が正しい」というメッセージを発信されてから鎮静化したが、一時は舞踊の指導的立場の方まで「山茱恪」説を唱えておられたと聞く。フェイク情報というのはこうして広まって行くんだなぁと認識させられた経験だった。






自己表現欲求とパソコン

2024-04-23 20:37:25 | PC
 長嶺でパソコン教室を開いていた頃、習いに来ていたMさんが久しぶりにやって来た。いつものように西原村産のさつまいもを抱えていた。全国の品評会でも上位にランクされるというさつまいもで、甘くて美味、本当にありがたい。
 今日の来意は、しばらく離れていたパソコンを再開したい。ついては新しいパソコンを購入したいのでアドバイスをということであった。彼が初めて習いに来たのは2000年頃で、ちょうど国を挙げて「IT革命」などと喧伝している最中だった。彼は当時1級建築士として多忙な頃だったが、CADなど新しい技術には少々乗り遅れ気味だった。パソコンを基礎から学びたいということでExcelやWordなどを教えたと記憶している。それから10数年後、体を悪くして彼は仕事から退いた。そして70歳を過ぎた今、もう一度パソコンで何かやれないだろうかと思い立ったらしい。
 これといった趣味もお持ちでないようで、おそらく年齢的なこともあって「自己表現欲求」が湧いて来たのではないかと思う。また後日、古いパソコンを持って再訪問するそうなので、新しいパソコンに買い替えるかどうかはさておき、目的を明確化し、彼の生きがいにつながるようなアドバイスをしたいと思っている。


熊本城二の丸の老木と点検・手入れをする人たち

山形愛羽選手 今シーズンも快調!

2024-04-22 21:15:36 | スポーツ一般
 日本グランプリシリーズ2024第2戦「吉岡隆徳記念出雲陸上競技大会」が4月13・14日、島根県出雲市で行われた。今春、熊本中央高校を卒業し、福岡大学に進学した女子短距離のホープ山形愛羽選手が期待通りの走りを見せ、100mのA決勝で3位と活躍した。予選では11秒46の自己新を記録、彼女の念願だった11秒4台に突入した。予選決勝を通じ、兒玉芽生や君嶋愛梨沙らのトップランナーに一歩も引けをとらなかった。これからさらに彼女の特長であるピッチ走法と後半の加速を磨いて行けばパリ五輪のリレーメンバーも夢ではないと思う。今年の山形選手から目が離せない。




鏡子夫人の証言

2024-04-21 22:06:24 | 文芸
 漱石夫人の夏目鏡子さんが口述し、娘婿の松岡譲さんが筆録した「漱石の思い出」を読んでいると、関係者しか知り得ない漱石作品の「behind the scenes」を見るようでなかなか興味深い。
 その中の一つ、「草枕」の一節、画工が「那古井の宿」の浴場に入っている時、湯煙の中に「那美さん」が手拭いを下げて湯壺へ降りてくる場面についての鏡子夫人の証言が面白い。
 小説の登場人物は画工と那美さんの二人だけだが、実際には漱石と同行した山川信次郎の二人が浴槽に入っているところへ裸で入って来た前田の姉さん(那美さんのモデル)がびっくりしてあわてて逃げ出したが、実は別の女中さんも裸になりかけていたというのが真相のようだ。また、漱石と山川信次郎は、名士を迎えるために造られたというこの前田家別邸で一番上等の「三番の部屋」に逗留したが、家の人たちはみな「三番のご夫婦さん」と呼んでいたそうで、二人の関係性がうかがわれる。


「三番の部屋」と呼ばれた漱石が逗留した部屋

 小説にはこう描かれている。


松岡映丘筆「草枕絵巻・湯煙の女」


浴槽

雨に濡れたカキツバタ

2024-04-20 21:10:16 | 日本文化
 そろそろ時季かなと思い、小雨の中、立田山湿性植物苑のカキツバタを見に行った。今年もきれいな本紫(ほんむらさき)の花を咲かせていた。
 カキツバタは「燕子花」と「杜若」の二つの漢字表記があるが、「燕子花」はカキツバタが、ツバメが翼を広げた形に似ていることが由来だという。たしかに今日、花びらに雨粒を湛えたカキツバタを見ていて「なるほどな」と思った。一方の「杜若」はもともと別の植物でカキツバタに似ていたため混同されたものだという。
 カキツバタの語源については諸説あるようで、それはまた別の機会のネタにしたい。

 カキツバタと言えば古今和歌集に収められた在原業平の折句の歌が有名だが、業平は平安前期9世紀の人。その時代には既にカキツバタという呼び名が一般化していたと思われる。 
ら衣 つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞ思ふ
(唐衣着つつ慣れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ)



立田山湿性植物苑のカキツバタ

 「潮来あやめ踊り」で知られる茨城県の潮来では、水辺植物である花菖蒲とカキツバタをひっくるめて「あやめ」というらしい。

テイカカズラとアメノウズメ

2024-04-19 21:28:43 | 季節
 新坂を歩いて下って行くと、テイカカズラの甘い香りが漂ってくる。季節はもはや初夏。
 「定家葛(テイカカズラ)」の名は、式子内親王を愛した藤原定家(ふじわらのていか)が、死後も彼女を忘れられず、ついにテイカカズラに生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説に基づく能「定家」から付けられたという。
 そのテイカカズラの古名が「真拆の葛(マサキノカヅラ)」。
 2023年度前期の朝ドラ、植物学者の牧野富太郎をモデルにした「らんまん」はまだ記憶に新しいが、牧野博士の自叙伝には次のような一節がある。

――かの『古今集』の歌の「深山には霰降るらし外山なるまさきのかづら色づきにけり」にあるマサキノカズラも、今日八丈島等に昔ながらのその方言が残っていたればこそそれがテイカカズラである事が判った。それ迄はこのマサキノカズラをツルマサキだと間違えていた。このツルマサキには敢て紅葉は出来ぬが、テイカカズラには濃赤色の紅葉がその緑葉間に交り生ずる。――

 マサキノカズラと言えば日本神話に、アメノウズメが天岩戸の前で踊った時に頭にまとったのがマサキノカズラだという。古事記には次のように書かれている。

――天手力男神、戸の掖(わき)に隠れ立ちて、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、手次(たすき)に天の香山の天の日影を繋繫けて、天の真折を縵と為して、手草に天の香山の小竹の葉を結ひて、天の岩屋の戸にうけを伏せて、踏みとどろこし、神懸かり為て、胸乳を掛き出だし、裳の緒をほとに忍し垂れき。爾くして高天原動みて、八百万神、共に咲ふ。――

 繁茂力の強さから木々や柱などに遠慮会釈なしに絡みついて来るテイカカズラを「うざったい」存在と思っていたが、なかなかどうして由緒正しい植物のようだ。


テイカカズラ

ブログ開設から7000日

2024-04-18 20:46:32 | 
 ブログ編集画面の左上の隅に「ブログ開設から7001日」と表示されていることに気付いた。昨日が7000日だったわけだ。2005年2月にブログを立ち上げて20年目に入った。この間にはいろんな思い出深いブログネタがあったが、その中から今回は2つを取り上げてみた。

馬頭琴コンサート開催
 2007年3月、熊本市国際交流会館ホールで馬頭琴のコンサートを開いた。中国・内モンゴル自治区の緑化事業に取り組んでいるNPO法人どんぐりモンゴリの主催で、同自治区出身の馬頭琴奏者リポーさんを招き、内モンゴルの民俗芸能を熊本市民に紹介し、緑化事業への協力をお願いする目的で企画されたもの。実質的な主催者である同法人熊本支部代表の梅林強さんから依頼を受けた僕が総合プロデュースの役割を務めさせていただいた。会社員時代に何度かブリヂストン吹奏楽団の市民コンサートを開いた経験が生きた。この写真は、当時の幸山熊本市長を表敬訪問し、リポーさんと市長を囲んで関係者が一堂に会した時の1枚。事前のPR活動も効いて会場は立ち見が出るほどの盛況だった。




スライドショー「海達公子」試写会開催
 2008年7月、玉名の料亭はなつばき(現在は閉店)で、スライドショー「海達公子」の試写会を開催した。当時僕は「評伝 海達公子」の著者・規工川祐輔先生にご好誼を賜っていたが、大正から昭和初期に天才少女詩人と謳われた海達公子の生涯をスライド化したいと思い、先生のご指導を受けながら1本のスライドにまとめた。そのお披露目をしたいと友人知人に声をかけ10名の方にご参加いただいた。情報提供した熊日新聞も記者が取材に訪れた。松田真美さんの生ナレーションが素晴らしく、皆さんに感動していただいた。当日、特別ゲストとして、海達公子の親友で、唯一の生き証人だった岩本澄さんにも出席いただいた。その岩本澄さんも規工川祐輔先生も既に鬼籍に入られ、この日の催しも遠い日の思い出になりつつある。


山路を登りながら、こう考えた。~草枕の世界~

2024-04-17 21:08:42 | 文芸
 「山路を登りながら、こう考えた。」
 これは漱石の「草枕」冒頭の有名な一節である。そしてこの山路というのは鎌研坂(かまとぎざか)のことといわれている。熊本市島崎の岳林寺辺りから金峰山に登る最初の険しい山道でもある。
 先月末日に行われた本妙寺桜灯籠を見に行った時、参道の一角で米屋を営む中学時代の親友の家を訪ねた。と言っても親友は11年前に既に他界している。僕がまだ「草枕」のことなど何も知らなかった中学時代、その親友と毎週のように登った山道だ。今日では自動車道が並行しているが、当時は「けもの道」のような山道が一本あるだけ。お互いに母親が作ってくれた弁当をリュックに詰め、一路金峰山を目指した。二人とも大の映画好き。道中は互いに知っている限りのまめ知識を披露し合うのである。当時は西部劇の全盛期で、話題は見た西部劇のストーリーや好きなスターの話ばかり。話に夢中で険しい鎌研坂もあっという間に峠の茶屋へ着いたものだ。2年ほど前、昔を思い出して鎌研坂を登ってみようと竹林に分け入ったのだが、あまりの過酷さに早々に断念した。
 漱石が小天温泉を目指してここを登った時は五高の同僚、山川信次郎が一緒だったようだが二人の間に会話はあったのだろうか。
※上の写真は「草枕の道」の起点となっている岳林寺
映像は鎌研坂で撮影したものです。

慶長十二年 丁未(ひのとひつじ)の條

2024-04-15 18:48:07 | 歴史
 今日4月15日は出雲阿国の忌日である「阿国忌」(生没年不詳)とされている。
 慶長15年(1610)春、加藤清正は八幡の國(出雲阿国)を肥後に招き、鹽屋町三丁目(現中央区新町2丁目)の武者溜りで歌舞伎を興行したことが「續撰清正記」」に書かれている。しかしこれ以外の史料がなく詳細は分からない。何か未知のことでも書かれていないかと思い、「国立国会図書館デジタルコレクション」の中の「江戸年代記(明治42年出版)」を調べてみた。すると「慶長十二年・丁未(ひのとひつじ)」の2月に面白い記述を発見した。そこには次の2項目が並記されていたのである。
  • 二月細川幽斎室町家の儀式三巻を上る
  • 同月観世金春勧進能興行出雲阿国歌舞伎興行
 まず最初の項目は肥後細川家の礎である細川幽斎が徳川家康に重用されていたことを示すもの。この時には既に家康は将軍職を嫡男の秀忠に譲り、駿府を大御所として移っていたが、家康の要請で幽斎がまとめた「室町家式」は武家の伝統、儀式、作法を記したマニュアルで、中世の武家の儀礼を江戸幕府に継承させ、スムーズに政治を主導させる橋渡しの役割を果たした。そのマニュアル3巻を仕上げて納めたのがこの時だったのである。※上の写真は細川幽斎銅像(水前寺成趣園)
 2番目は、この年江戸城天守閣が落成、京で人気の出雲阿国を江戸へ招き、江戸城本丸・西の丸にある観世・金春の能舞台で、女歌舞伎がお披露目された。その後、亜流の芸能者が陸続と江戸へ下り、いわゆる江戸歌舞伎の歴史が始まった。

 これを読みながら細川幽斎と出雲阿国が同じ時代だったことをあらためて認識した。
 ちなみに、京都市北区にある臨済宗大徳寺の塔頭高桐院は細川忠興によって創建された細川家の菩提寺の一つであるが、ここには忠興とガラシャ夫人の墓塔などとともに出雲阿国の墓があり、すぐ傍には阿国の恋人とも夫ともいわれる名古屋山三郎の墓もある。

日本舞踊協会公演「阿国歌舞伎夢華」より

熊本地震から8年

2024-04-14 20:48:02 | 熊本
 今日で熊本地震の前震からちょうど8年。2日後の本震ももちろん凄かったが、前震もほとんど同程度の揺れで生まれて初めて経験する激震だったのでより印象深い。本震時はある程度の覚悟ができていたように思う。前震は夜9時を過ぎていたので翌朝になって初めて被災状況を知ることになったが、わが家から最初に目に入った惨状が下の写真。瀬戸坂を挟んで向かい側に建つF氏宅。西南戦争時の弾痕が残るというこの家は、この辺りでは珍しい「むくり屋根の家」として地元で知られた旧家である。南側が崖になっていて見事な石垣が積み上げてあったのだが、地震によって無残に崩落してしまった。
 8年経った現在の状況と写真を2枚並べてみた。


熊本地震直後のF氏宅(むくり屋根の家)


8年経った今日現在のF氏宅

 自分自身の中でも熊本地震の記憶が風化しつつあることは否めないが、この記念すべき日に当たり、当時のブログを読み返し、記憶を新たにしたいと思う。

≪2016年4月17日の記事≫
 二晩を車中で明かしたが、昨夜は雨の予報もあり、94歳の母にとってこれ以上は無理と判断し、僕らもさすがに疲れたので、姉婿の親族が経営する保育園の一室に泊めてもらい食事まで提供してもらった。おかげで母もだいぶ元気を取り戻したようで、僕らも睡眠不足はだいぶ解消した。
 ただ、やはり水が出ないのはこんなに不便なものかということを実感した。いまだに余震は続いているが、明日には水道も復旧の見込みだというし、一日も早くふだんの生活に戻りたいものだ。
 今日の午後、車の給油に行ったが、スタンドは軒並み売切れで給油をあきらめ、帰ろうとしたが、今度は道路の大渋滞に巻き込まれた。どうやら、水、食料ほか生活用品を求める人々が売っている店を探し回っているようだ。今までの各地の大地震などで散々同じようなことが発生したはずなのだが、その経験は災害対策のなかに活かされないのだろうか。

 下の歌「ふるさと」は嵐の熊本地震復興応援メッセージソングとしても歌われた。
 作詞は熊本県天草出身の小山薫堂さん。
作詞:小山薫堂 作曲:youth case

金栗記念陸上2024

2024-04-13 20:46:14 | スポーツ一般
 今日は「金栗記念選抜陸上中長距離大会2024」を見に行った。いよいよオリンピックイヤーの陸上シーズンが始まった。
 何と言っても注目は女子中長距離の日本記録保持者である田中希実選手。今日は800mと1500mの2種目に出場した。しかしまだ調整段階のようで2種目とも2位に終わった。これから7月下旬のパリ五輪に照準を合わせ、徐々に仕上げて行くのだろう。
 いつもながら陸上界のスターが登場するとあって、彼女の出場種目の時間が近づくと、スタート招集所前には多くのメディアが集結し注目度の高さをうかがわせた。今年の彼女の活躍に期待したい。


先頭を走る田中希実選手(800m)


田中希実選手の出番が近づくと多くのメディアが集結(1500m)

御衣黄桜と気象予報士

2024-04-12 20:39:55 | 季節
 熊本城三の丸の御衣黄桜が咲き始めたのを確認してから10日経つので、その後の開き具合を見に行った。ほぼ満開となった御衣黄桜を眺めていると僕以外誰もいないその木の下へ若い男性が歩いて近づいて来た。にこやかな表情で「よく見に来られるんですか?」と声をかけられたので、「えゝよく来ますよ」と答えた。御衣黄桜と鬱金(ウコン)桜は紛らわしいですねなどと、しばらく桜談義をしながら、桜の写真を撮っていると、本人の方から「私はKAB(熊本朝日放送)の夕方のニュースで天気予報をやっています」とおっしゃる。そういえば時々見るKABの夕方ニュースで見たことがあるような気がした。「季節情報の取材ですか?」とたずねると、「そうなんです。今日の夕方に使う予定です」
 帰ってからKABのサイトで確認したら、KAB夕方のニュース情報番組「くまもとLive touch」は毎週月~金の放送。彼は気象予報士の増田叡史さんだとわかった。さっそく今日の番組に目を凝らしていると彼が撮った「御衣黄桜」や「鬱金桜」がきれいに写っていた。


御衣黄桜

土手券 ~町芸者の歴史~

2024-04-11 22:51:56 | 音楽芸能
 「土手券」と呼ばれた町芸者のことをこれまで何度か記事にしてきたが、きちんと残しておかないと歴史の彼方に消えてしまうように思えたので加筆修正をしてまとめてみた。


坪井川・庚申橋付近

 父が小学六年生の頃、祖母と二人で街を歩いていると向う側からやってきた七十歳前後と思しき老女が急に立ち止まり、「お人違いかもしれませんが阿部さんのお嬢さんではありませんか?」。祖母も一瞬驚いたが、それからなんと1時間にもおよぶ立ち話が続いたという。酒盛りのこと、火事のことなど話題は尽きない様子だったが、その老女は阿部家の酒宴の時によく呼んだ町芸者で「土手券」と呼ばれていたそうである。祖母がまだ娘だった頃、曽祖父が大江村の村長をやっていて、酒宴を開くことも多かったらしく、その時によく呼んだ町芸者が「土手券」と呼ばれて人気があったという。その名の由来は彼女たちは「流長院」の脇を流れる坪井川にかかる「庚申橋」のたもとの土手沿いに住んでいたことから「土手券」と呼ばれるようになったらしい。「券」とは「券番(検番)」のこと。明治から昭和初期にかけて熊本のお座敷文化を支えたのである。
 「熊本県大百科事典」によれば
――明治初期、寺原町(現壺川1丁目)に始まった町芸者は同町土手付近に住んでいたことから「土手券」と総称し、全盛時は市内各所に散在し、数々の人気芸者も生み、手軽で便利なことから一時隆盛を極めたが、これは「やとな」(雇い女の略。臨時に雇う仲居の女)の前身というべきものであろう。――
と説明されている。
 また、昭和4年に発行された松川二郎著「全國花街めぐり」によれば、当時熊本には、熊本券番(塩屋町):101名 旭券番(練兵町):90名 二本木遊廓:60名(娼妓650名)の芸妓がおり、その他町芸者(土手券)という芸者とやとなの中間の存在があると書かれている。
 当時は坪井川の舟運が盛んだったので町芸者も普通に舟を操っていたらしい。地区の祭では坪井川に舟を浮かべ、舟上では土手券たちが音曲を奏でて賑わったという。「土手券」は昭和前期には消滅したと考えられ、その存在を知る人はもうほとんどいないので彼女たちがどんな芸を披露していたか知る由もないが、曽祖父の家で盛んに宴会が行われていたのは明治40年前後と考えられ、明治30年代前半に永田イネによって作られた「おてもやん」はかなり普及していたと考えられる。それはこの唄が明治40年に出版された紀行文「五足の靴」の中で二人の町芸者によって唄われることでもわかる。そして、その数年後に流行ったのが「自転車節」。熊本では「おてもやん」人気にあやかったのか、熊本弁の歌詞を付け加え、花柳界では「おても時雨」と呼んだ。おてもやんが山の向こうに住む恋人「彦しゃん」になかなか逢えない悲哀を唄うので「時雨(しぐれ)」と名付けたのだろう。この「おてもやん」と「おても時雨」は一対の唄として「土手券」たちによって唄われ、お座敷では人気を博したと思われる。




花も花なれ 人も人なれ

2024-04-10 17:30:53 | ニュース
 不適切発言で辞任に追い込まれた静岡県の川勝平太知事が、辞める心境を問われて「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」という細川ガラシャの辞世の句を引用したと報道された。
 川勝知事の言葉選びの感覚には首をかしげたくなる。職業差別とも受け取れる発言はもちろんのこと、自己都合退職で巨額の退職金をもらう人が、ガラシャ辞世の句を引用してもらいたくない。

 先日、泰勝寺跡(立田自然公園)に立ち寄って細川ガラシャ廟にもお参りしたばかりだが、あらためて細川ガラシャについて。

 泰勝寺跡の細川ガラシャ廟には次のように説明されている。
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 ガラシャは明智光秀の娘で、本名を玉子という。織田信長の仲立ちで細川忠興の妻となったのは天正六年(1578)のことであったが、同十年本能寺の変で父光秀が主人の信長を殺したため、玉子は離別され味土野の山中に幽閉された。その後、豊臣秀吉の許しで復縁し、同十五年にキリスト教の信者となり、ガラシャの洗礼名を授けられた。
 慶長五年(1600)忠興が上杉征伐に従軍中、豊臣方では諸侯の婦人達を人質として大阪城内に入れようとした。玉子はその要求を拒み「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」の辞世を残して玉造邸に火を放たせ、三十八歳の生涯を終えた。
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細川ガラシャ廟(泰勝寺跡:立田自然公園)


ガラシャ夫人が最期の時まで身に着けていたクルス(実物)

本能寺の変の後、一時幽閉された味土野(京丹後市)

玉名女子高等学校吹奏楽部が演奏する細川ガラシャ讃歌「華の伽羅奢~花も花なれ 人も人なれ~」