徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

涸れた泰勝寺の池

2022-03-31 13:37:42 | 熊本
 先々週、泰勝寺跡(立田自然公園)を訪れた時、泰勝寺の池が涸れているのを見てビックリした。さっそく係員の方に尋ねると、この池は雨水池なので雨が長い間降らないと水位が落ちるのだが、これほど落ちてしまったのは珍しい、とのこと。可哀そうなことに鯉が十数匹死んだそうだ。訪問した数日後に雨が降ったのだが前の水位に戻るのは梅雨の時季まで難しそうだという。
 この池は中村青史先生(元熊大教授)の論文によれば夏目漱石の「草枕」に登場する「鏡が池」のモデルだという。「志保田の嬢様が身を投げた」という話のあの池だ。ここを訪れる度に池のほとりのバンコに座り、「草枕」の一節を思い浮かべていた満々と水を湛える池に一日も早く戻ってもらいたいものだ。 


干上がって池中央のごく一部にわずかな水面が見える泰勝寺の池


満々と水を湛えていた頃の泰勝寺の池(西側から)


泰勝寺の池(北側から)


山本丘人「草枕絵巻」より「水の上のオフェリア(美しき屍)」

細川藤孝公

2022-03-30 21:42:28 | 歴史
 BSPの「英雄たちの選択」で「真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略」をやっていた。1年ほど前に放送された番組の再放送で初回放送の時も見た。
 細川藤孝(幽斎)公は肥後細川家の祖であり文武両道に秀でた人だったそうだが、番組を見ながら、あらためて凄い人だったんだなぁと実感した。室町幕府の足利義輝・義昭両将軍に仕えた後、織田信長、豊臣秀吉に重用され、徳川家康が徳川幕府を開いた時には、武家の在り方をレクチャーし、さらには「古今和歌集」を後世に伝承する古今伝授の役割を担った文化人として天皇家からも大事にされたという人物。細川家は江戸時代、肥後熊本藩藩主として維新まで勤めた。室町時代から今日まで貴顕であり続ける稀有な存在となった細川家の礎を築いたのは藤孝公である。
※右の写真は水前寺成趣園の細川藤孝公像

 これまで行ったことのある藤孝公ゆかりのスポットを振り返ってみた。

▼古今伝授の間

四百年ほど前、京都御所の中に建っていたという藤孝公ゆかりの古今伝授の間。


▼細川藤孝公御廟

泰勝寺跡(立田自然公園:熊本市中央区黒髪4)にある四つ御廟


▼鞠生松原(山口県防府市華浦2)

 天正15年(1587)7月、この鞠生を藤孝公が訪れている。九州平定のために出陣した関白秀吉を福岡・筥崎宮で陣中見舞いした後、瀬戸内を船で帰る途中、山口見物をし、萩往還を通って周防国府(現在の防府)に入っている。この旅の様子は「九州道の記」に次のように記されている。

―― 十日、山口を出で、国府天神へ著きて、まりふの浦近き田しま迄、船のまはるを待ちて休み居たるに、當社の供僧圓楽坊、発句所望ありて、一面なりとも連ぬべしとて興業あり。入相の時分より初まりて、夜半過ぐるほどに百韻満じける。其時船著きたる由注進あり。天神の御計らひとて、衆徒喜ばれける。
 色わけよまつこそ風の手向け草
田しまの港にて、まりふの浦を見るに、網の多く掛け干してあれば、
 真砂地にあみ張り渡しもて遊ぶまりふの浦の風もたえつゝ ――


 乗船する船が田島の港に着くまで鞠生の浦で休んでいたが、防府天満宮の供僧の申し出で連歌の会を催し、夕方から夜半過ぎまで百句を連ねた頃、船がやって来たようだ。幽斎公はやはり相当名高い歌人だったと見え、旅の各地で歌を所望されている。

 今から40年前、2年半暮らした山口県防府市。自宅のすぐそばに鞠生松原があった。この鞠生は昔の海岸線。干拓による新田開発が進められて今では海岸線はずっと南の方に移動したが、その名残りとして松原が残っている。

花見の場所取り

2022-03-29 20:52:23 | 日本文化
 今日は花曇りの一日だったが、明日は回復しそうだから今年最高の花見日和になるかもしれない。熊本城も花見客で賑わうことだろう。ただ、コロナ感染者数が反転増勢の兆しが見られるのが心配だ。
 花見と言えば、社会人になったばかりの年、水前寺公園での会社のお花見会に行ったのが僕の花見初体験だった。酔っぱらった先輩社員同士がケンカをおっぱじめるという一幕もあり、オジサンのイヤな面を見せられた気がしたものだ。それから数年後、東京勤務になってからは、部内の花見は上野のお山と決まっていて、若手社員が午前中から場所取りに行くというのがおきまりだった。その頃、上野の山には「片付け屋」というのが待ち構えていて、後片付けは彼らに一切任せていた。そのかわりシート以外、残り物は酒類も食べ物もすべて置いていくのが決まりだった。東京と熊本では花見の様子もだいぶ違うが、熊本弁で花見の場所取り風景を唄った「とっとっと」は僕の大好きな1曲である。




「とっとっと」(1998) 作詞:佐藤幸一 作曲:今藤珠美 作調:中村寿誠

魚屋町三丁目十三番地 上村元三商店 再び

2022-03-28 22:42:19 | 熊本
 熊本市の中で古町(五福、慶徳校区)は、考古学の富田紘一先生が書かれた「城下町みてある記」にはこう紹介されている。

町割がまるで奈良や京都の町のように南北と東西の道路が碁盤の目のように整然としている。もともと城下町では、敵の侵入に対して見通しが利かないような道筋になっているが、この一帯は加藤清正公の隈本城時代から一貫して町人町だったところで、流通を優先した都市設計になっている。そして、ほぼ正方形の区画の中央には寺院が配置されている。町の名前には呉服町・米屋町・魚屋町などの商品に由来するところ、鍛冶屋町・大工町・細工町など職種に起源を持つのが多いのも特徴。同様な町名は、むかし町人町であった新町や坪井にもあったが、今ではそのまま残っているのは古町だけになっている。

 そんな古町地区の魚屋町3丁目の一角に、永年お世話になっている「上村元三商店」がある。先代の金物卸問屋から、時代の変化とともに変遷を重ね、現在の店主元三さんになってからは出張バーベキューの企画運営や予約制居酒屋、キャンドルショップなどの他、町案内や人力車と実に多彩な事業を展開している。
 6年前の熊本地震で被災した町屋が次々と消えていく中、熊本市と地域が協働で町屋等を保存活用し、城下町の風情を感じられる町並みづくりを行う事業の補助制度を利用してこのほどリノベーション。町屋の雰囲気を残しつつ大胆にリデザイン。和モダンな空間が創出された。
 コロナ騒動もあって2年以上もお伺いしていなかったが、やっと今日、大分からやって来られた栗田さんとともに改装後初めてお伺いすることができた。元三さんにとって生涯最後の創業になるのかもしれない。


写真はやはり提灯に灯が入っていないと絵にならないので元三さんのFBからお借りした。


かつての上村元三商店(2013.5.26の改装時)


   元三さんが大好きな「熊本さわぎ唄」(古町の町名が唄い込まれている)

日うらうら

2022-03-27 18:29:57 | 熊本
 昨日とは打って変わって日うらうらとした春の一日となった。折しも熊本城は桜が見頃となり、二の丸広場ではお城まつりのイベントが行われていることもあって久しぶりの人出の多さだった。まるでコロナは終息したかのようだ。城内各所でウェディングフォトの撮影風景が見られた。


監物台樹木園前


二の丸広場から西大手門への通路


加藤神社


 ちょうど12年前の今日、熊本城長塀前では「熊本城坪井川園遊会」が行われたが、その時の映像の中から「春は嬉しや」を貼付してみた。


弟の一周忌

2022-03-26 20:07:30 | ファミリー
 今日は弟の一周忌。わが家の菩提寺である浄照寺で家族と弟の近しい友人のみの法要を営んだ。
 朝はいつもより早く目覚め、自然と弟の思い出にひたった。幼い頃のキャッチボール、弟が大学受験で上京した時のこと、僕が熊本で就職した後、時々職場へ金の無心に来たこと等々。どれも懐かしい思い出ばかりだ。弟と来世で再会するのもそう遠い日ではないだろう。

光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏



新・二様の石垣

2022-03-25 17:59:08 | 歴史
 昨年11月、加藤神社北側石垣の修復工事で現れた古い石垣のことを当ブログで取り上げました。

石垣の修復(2021年11月27日)



 この石垣のことが、今日の熊本城フェイスブックに紹介されていました。
 【熊本城調査研究センターニュース:新たに発見!?二様の石垣~櫨方三階櫓下石垣~】
 この記事によれば、加藤時代の後、細川時代の整備で二様の石垣が築かれたということです。



※フェイスブックが表示されない場合


「二様の石垣」といえば、本丸御殿下の石垣が広く知られています。

ドブ席からの記録映像

2022-03-24 13:51:54 | 音楽芸能
 これは令和元年5月12日、山鹿市の八千代座で行われた「第2回山鹿をどり」の映像で、熊本県民謡の子守唄2曲を、邦楽界の大御所・本條秀太郎さんが俚奏楽として編曲されたもので自ら演奏もしておられる。舞踊団花童のゆうあ・きみか姉妹が立方をつとめ舞台に花を添えている。
 3年前のこの映像は、花道脇の「花外(はなそと)」とか「ドブ席」と呼ばれる席から写したもので、花道を照らすスポットライトを正面から浴び、花道の立方は後姿しか見えないのでアップするのは憚っていた。
 しかし、本舞台の本條秀太郎さんを始めとする本條流の皆さんがこの演目の主役であり、熊本でこの曲がナマ演奏で見られるのは二度とないかもしれないと思いアップすることにした。

▼俚奏楽「福連木子守歌/五木子守歌」
 唄・三味線:本條秀太郎
   三味線:本條秀五郎(﨑秀五郎)・本條秀英二
   胡 弓:本條秀慈郎




城彩苑11周年スペシャルイベント

2022-03-21 21:22:48 | イベント
 今日は桜の馬場城彩苑の11周年を祝うスペシャルイベントを見に行った。折しも今日を以て熊本県の「まん延防止措置」が解除されたり、昨日熊本市の桜開花宣言があったりしたこともあってか城彩苑は久しぶりに見る混雑ぶり。
 親水空間ステージでは、陸上自衛隊西部方面音楽隊、096K熊本歌劇団、熊本城おもてなし武将隊、舞踊団花童のほか、ひご丸や金蔵くんらのキャラクターも加わり賑やかなステージとなった。


出演者勢ぞろい


舞踊団花童



「くまもと花博」にちなんで

2022-03-20 20:27:32 | イベント
 昨日、始まったばかりの「くまもと花博」の花畑広場会場を見に行った。そぼ降る春雨に見物客もまばらな中、しずくを湛えながら咲く花々が健気に見えた。









 というわけで、花にちなんだ歌を三曲選んでみた。

▼花は咲く
 先日、発生後11年を迎えた東日本大震災の復興支援ソングとして知られる「花は咲く」。鈴木梨央さんと福島県双葉郡大熊町立大野小学校合唱部の皆さんが歌うバージョンを選んでみた。鈴木梨央さんは女優として活躍する現在17歳の高校生。この映像は8歳の頃のもの。



▼花はどこへ行った(Where have all the flowers gone?)
 アメリカのフォークソングの父とも謳われるピート・シーガーが1955年に作った名曲。多くの歌手にカバーされ、ベトナム戦争の当時、反戦歌として歌われた。なお、歌詞にはウクライナ民謡が引用されているといわれる。




▼肥後の花娘
 花博の舞台・熊本にちなんで、大和楽「花姿 ~肥後六花詩集~」より「肥後の花娘」。平成12年、熊本市民会館のリニューアルオープン記念に作られたもの。肥後細川藩では武士の精神修養として花の育成が奨励された。肥後六花とは(椿・芍薬・菖蒲・朝顔・菊・山茶花)を指す。


温泉にまつわるはなし。

2022-03-19 21:48:24 | 
 今夜のブラタモリは「日本の温泉スペシャル 〜世界に誇る日本の温泉のスゴさとは?〜」と題して、これまで放送した各地の温泉編の総まとめのような内容だった。温泉が湧くのに必要な三要素(水・熱源・通り道)の話、火山性温泉・非火山性温泉の話、泉質の違いの理由となぜ日本には様々な泉質の温泉が湧くのかという話、さらには日本の温泉文化がどうやって定着したかなど、これまで何度か聞いてきた温泉の話を整理することができた。

 しかし、温泉を日常的に楽しむのはけっして日本人だけではない。たとえば1964年の東京オリンピックの時、水泳競技の補助スタッフをやっていた僕は東京体育館や代々木体育館のプールで各国の選手と接する機会があった。なかでも当時世界最強を誇っていたハンガリー水球チームは、エースのカルパティらの一挙手一投足に注目していた。彼らは練習が終わった後、温水シャワーを浴びるのがおきまりで、それも10分、20分という長い時間をかけていた。湯舟もあるのだがそちらにはあまり入らない。後で先輩に聞いた話では、ハンガリーは温泉大国で市内の各所に温泉プールがあり、そこを拠点にするクラブチームがしのぎを削ってハンガリー水球の高いレベルを維持しているという。各温泉には水球用のプールもあれば市民がのんびり浸かっていられる広いプール(日本的に言えば大浴場か)もあるという。そんな話を聞くと、長い時間の温水シャワーや狭い浴槽には目もくれない彼らの行動がよく理解できたものだ。

 そんな昔のことも思い出しながらブラタモリを見ていた。温泉編ではおなじみ、松田法子先生のお姿を久しぶりに拝見できたことも嬉しかった。


有馬温泉編

歴史街道ロマン ~熊本城三の丸編~

2022-03-18 21:15:13 | 歴史
 熊本城域の中でも西側の三の丸地区はふだんは観光客が来ることも少なくひっそりとしており、散策には絶好のコースだ。しかし、実はこのエリアには興味深い歴史が数多く刻まれており、個人的にはこのエリアを見て回るのが楽しみとなっている。
 
▼薬師坂
 新町の新一丁目御門の前にあった札の辻を起点とし、薬師坂から藤崎宮前・漆畑・二の丸御屋形前・百間石垣・新堀御門を出て京町へと続く豊前街道は、平安時代、二本木にあった飽田国府から北へ進む官道と重なるという。
 前方左側にモルタル吹き付けを施した崖が見えるが、これは熊本地震後に施工されたASO-4火砕流堆積の崩落防止で、崖の手前を左に進んだところに藤崎八旛宮御旅所と能舞台がある。また、ここは西南戦争の「段山の戦い」の舞台となり、官軍の与倉知実連隊長が被弾し倒れた地点でもある。


薬師坂



▼急坂を登る
 薬師坂はかなりの急坂で、人馬も難儀する風景が見られたことだろう。
 また、藤崎宮があった頃は参道と交差する道だったと考えられる。 


藤崎八旛宮秋季例大祭における薬師坂付近の様子


▼漆畑
 段丘のヘリに沿って進むと漆畑に差し掛かる。その昔、漆の木があったことから漆畑と呼ばれるようになったそうだが、ここには那須野原の殺生石を模したような妖しい砒石の話や「白坂さん」と呼ばれた傾いた不思議な石地蔵の話が伝承されている。


漆畑


▼砂薬師坂
 加藤清正の熊本城築城の際には井芹川の引込水路から資材を陸揚げした河岸に続く坂道として修羅などが往来したことだろう。坂を登ったところで漆畑から来た道と合流していたと思われる。


砂薬師坂


▼二の丸御屋形前
 砂薬師坂を登った後、藤崎宮の門前町でもあった古京町を通るなだらかな坂道。熊本城築城の際も工事用の幹線道路の一つだったことだろう。


二の丸御屋形前

宮城・福島両県の地震情報を聴きながら

2022-03-17 14:47:33 | ニュース
 昨夜午後11時36分、宮城、福島両県で福島県沖を震源とする最大震度6強の地震があった。つい先日、東日本大震災11周年を迎えたばかりのこの時期に再びの大地震。被災者の皆様に心からのお見舞いと不幸にして亡くなられた犠牲者の皆様に哀悼の意を表したい。
 震度6強と聞くとどうしても同じ震度だった6年前の熊本地震を思い出す。熊本もまたいつやってくるかわからない地震に備え、決して気持を風化させないよう、熊本地震直後の数日間のブログ記事を再掲してみた。

▼2016年4月17日
 二晩を車中で明かしたが、昨夜は雨の予報もあり、94歳の母にとってこれ以上は無理と判断し、僕らもさすがに疲れたので、姉婿の親族が経営する保育園の一室に泊めてもらい食事まで提供してもらった。おかげで母もだいぶ元気を取り戻したようで、僕らも睡眠不足はだいぶ解消した。
 ただ、やはり水が出ないのはこんなに不便なものかということを実感した。いまだに余震は続いているが、明日には水道も復旧の見込みだというし、一日も早くふだんの生活に戻りたいものだ。
 今日の午後、車の給油に行ったが、スタンドは軒並み売切れで給油をあきらめ、帰ろうとしたが、今度は道路の大渋滞に巻き込まれた。どうやら、水、食料ほか生活用品を求める人々が売っている店を探し回っているようだ。今までの各地の大地震などで散々同じようなことが発生したはずなのだが、その経験は災害対策のなかに活かされないのだろうか。

▼2016年4月18日
 余震が一向に収まる気配がない。テレビでは政府の非常災害対策本部会議だの、被災者生活支援チームだのと言っているが、どんな立派なことを机の上で決めても、要は被災者のところに迅速に物資なり、施策なりが届かなければ意味がない。
 懐中電灯の電池を買おうと歩いて近くのコンビニを回ってみた。しかし、水と食料品しか売ってなかったり、電池はほとんど売り切れていたり、早々と店を閉めていたりと、結局手に入らなかった。前震から本震、いやもう一段デカいのが来るかもしれないという学者先生もいたりして不安感は募るばかりだ。

▼2016年4月20日
 熊本地震が発生してから6日が経過した。この間、わが家で寝たのは1日だけ。車の中で2泊、親戚宅に3泊。こんな生活はいつまで続けなければならないのだろう。94歳の母のことを考えると、満杯状態の避難所には行けないし、かと言って、崖の上のわが家は夜中の激震の恐怖が抜けない。しばらくは親族に頼るしかなさそうだ。
 インターネット上では虚実とりまぜていろんな情報が飛び交っているが、なんでもかんでも鵜呑みにしないようにしたい。

▼2016年4月22日
 昨夜は1週間ぶりに風呂に入ろうと、家内と二人で合志のユーパレス弁天へ。ところが、風呂の前には長蛇の列。特に女性浴場の方は、1時間以上も並んで待たなければ入れないという。僕も家内もすぐに心が折れて引き返した。しかし、よくよく考えてみると、避難所で暮らしている皆さんは毎日がこんなことの繰り返しなのだろう。あらためて避難所生活の大変さを思い知らされた。
 相変わらず余震は続いている。しばらく落ち着いているなと思っていると必ずドーンと来る。最近は地震速報も出ないことがよくある。体感は震度3ぐらいの衝撃は感じるのだが、速報が出る時と出ない時の違いは何なんだろう。それにしても、緊急地震速報と言うやつ。けたたましいアラームでビックリするが、役に立ったためしがない。鳴った時は既に治まっているか、なんの変化もないこともある。その信頼性は大いに疑問だ。

▼2016年4月26日
 間欠的な余震がとまらない。昨夜も何度も起こされた。わが家は熊本市中央区だが、熊本市西区に近く、最近、西区に余震が多くなったような気がするのが不気味だ。
 今回の熊本地震でつくづく思ったのは、われわれが「科学」とか「科学的」とかよんでいる事の不確かさと頼りなさである。考えてみれば、地球が生まれて46億年。一方、人類はせいぜい25万年。地球の歴史を1メートルの定規で表すと、人間の歴史はうしろの0.05ミリメートルに過ぎない。わずかその程度の経験で得た知識しか持ち得ていないのだ。大きな自然災害が起きるとすぐに「想定外」という言葉を発するが、それは当たり前の話で、地球や自然界のことをわかったつもりになっていることが土台間違っている。

▼2016年4月27日
 今朝のNHKニュースで、昨日、東京新宿で行われた行定勲監督の熊本県PR映画「うつくしいひと」のチャリティ上映会の模様と映画の内容が紹介されていた。これから各地でチャリティ上映が行われる予定だというが、行定監督もまさかこの映画が熊本復興支援の映画になるとは思ってもみなかっただろう。

映画「うつくしいひと」の一場面

新坂の菜の花

2022-03-16 19:43:09 | 熊本
 わが家の前を通る新坂の山側の法面に菜の花が綺麗に咲いている。新坂ができて130年の歴史でおそらく初めての光景だと思われる。
 新坂は明治24年(1891)7月1日、九州鉄道(現JR九州)の高瀬―春日間が開通した時、池田停車場(現上熊本駅)から熊本市内へ馬車を通すために京町台の斜面を開削して造られた道。昭和40年代にこの上にマンションが建てられたが、それまでは群馬の製糸業で財を成した細谷氏の邸宅と庭園があった。僕らの子供の頃、東側の法面は草木で覆われた山の斜面のままの状態だったが、マンションができた時、崩落防止の擁壁が造られた。斜面の上半分は地面のままだったので雑草が生い茂っていたが、近年は除草が定期的に行われていた。菜の花を植えられたのかどうかはわからない。
 この坂は夏目漱石が明治29年4月13日に五高に赴任するため人力車で通り、坂上から初めて熊本市内を眺めた漱石ゆかりの坂として知られ、それを記念するプレートも立てられている。これからもこの坂は変貌していくのだろうが、できることなら季節の花々で行き交う人々を和ませるようになれば嬉しい。




例年、今頃の季節は菜の花も散見されたが、近年は雑草が生い茂っていた。


プレートには漱石ゆかりの坂であることが紹介されている。


漱石来熊120年を記念する「お帰りなさい漱石祭」(2016年4月13日)で人力車で新坂を下る場面の再現

桜の馬場 城彩苑11周年

2022-03-15 19:56:16 | イベント
 2011年3月5日、九州新幹線全線開業に合わせ、熊本城観光の総合案内および交流施設として「桜の馬場 城彩苑」がオープンして今年で11年になります。オープン直後に東日本大震災が発生し、前途多難なスタートでしたが、年々その存在感を増し、今や熊本城観光になくてはならない施設となりました。
 今年も様々な記念イベントが予定されていますが、中でも3月21日(祝)のスペシャルイベントは見ものです。



▼2011年3月5日オープン当日の様子