徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

Amazing Grace

2021-04-30 20:24:15 | 音楽芸能
 今から40年近く前、僕は東京勤務で毎日、西武国分寺線と中央線を乗り継いで通勤していた。1時間半ほどの通勤時間の間、流行っていたウォークマンで音楽を聴くのが楽しみだった。洋の東西を問わずいろんな音楽を聴いたが、なかでも最も印象深いアーティストの一人がグレン・キャンベル(2017年没)だった。当時人気絶頂のカントリー歌手であり名ギタリストだ。彼のアルバムカセットを繰り返し繰り返し聴いたものだ。彼のヒット曲は「Gentle on My Mind」「Wichita Lineman」「By The Time I Get To Phoenix」「Rhinestone Cowboy」等々、いくつもあるが、僕はこのアルバムに収められていた「Amazing Grace」が大好きだった。今では知らない人はいない讃美歌だが、ほかの誰とも違うカントリー調の歌い方と後半の彼自身のバグパイプ演奏にハマったのである。その時のカセットテープはまだ残っているがもうプレーヤーがない。


少女歌舞伎のアイドルたちはどこへ?

2021-04-29 22:58:30 | 歴史
 開業間もない大正初期の山鹿八千代座で人気を博したという少女歌舞伎(ちんこ芝居)はその後どうなったのか。
 八千代座開業100周年の2010年6月に発行された「広報やまが」に前・山鹿市立博物館館長・木村理郎さんの記念記事が掲載されている。そこには八千代座を華やかに彩った森峯吉一座の少女歌舞伎(ちんこ芝居)のことが書かれている。今日でいう「会いに行けるアイドル」たちを生んだ「ちんこ芝居」がその後どうなったのか、興味が湧いていろいろ調べてみた。木村さんの記事には「大正2年に少女歌舞伎が流行る」と紹介されている。さらに「山鹿熊入の有力者が私財を投じて少女歌舞伎を作られ、熊入、山鹿、来民の美少女ばかりで若い男性のあこがれで、今の宝塚をほうふつさせるものがあった」という地元誌の一文も引用されている。しかし、前述の森峯吉一座の少女歌舞伎との関係がよくわからない。森峯吉という人は佐賀の人のようで一座は各地を巡って公演していたようだ。八千代座年表には「大正4年 森峰吉率いる少女歌舞伎(ちんこ芝居)が流行る。」と記載されている。この森峯吉一座の活動を調べると、日本統治下にあった朝鮮の大正6年(1917)12月30日付朝鮮新聞に龍山開盛座での公演の広告が出ているし、大正7年(1918)1月22日付の朝鮮新聞には仁川歌舞伎座での公演のお知らせが載っている。相当各地を巡っていたことがわかる。ところが、八千代座年表には「大正10年 少女歌舞伎 「山鹿ちんこ座」が誕生」という記載がある。これはどういうことなのか。森峯吉一座とは別の少女歌舞伎一座を立ち上げたということなのか。ひょっとしたらこれが前述の「山鹿熊入の有力者」が私財を投じて作った少女歌舞伎のことなのかもしれない。
 その後、この少女歌舞伎のアイドルたちがどこへ行ったのか、引き続き調べてみたい。

▼左:大正6年(1917)12月30日付朝鮮新聞  右:大正7年(1918)1月22日付朝鮮新聞
 


   ▼2019年5月 八千代座で行われた山鹿をどりから歌舞伎舞踊「胡蝶の精」

柳川小路

2021-04-28 20:52:32 | 歴史
 昨日の宇土小路に続いて今日は、京町本丁と2丁目のうち、旧国道3号線(豊前街道)の東側、かつて柳川小路と呼ばれた地区を歩いた。柳川「しょうじ」とも「こうじ」とも読むが、地元の人たちは「しゅうじ」と呼んだ。この名の由来は、関ヶ原の戦で西軍に与して敗れた柳川城主立花宗茂は、加藤清正に家臣たちの扶養を依頼した。清正は即座に200人にものぼる柳川衆を引き受け、京町に住まわせたので、以来この一帯を柳川小路と称した。関ケ原から20年後、宗茂は柳川城主に復帰し、柳川衆も全員帰参した。地名はそのまま明治に至るまで柳川小路と呼ばれたが明治に入り町名制度により「柳川丁」となった。戦後の町名変更で京町本丁と2丁目に組み入れられ、今では熊本都市バスのバス停名「京町柳川」にその名残りを残すのみである。昭和52年(1977)に他界した祖母はこの周辺のことをずっと「柳川丁」と呼んでいたことを思い出す。


柳川小路の北東部にあたる坂(三年坂とも呼ばれた)


Googleマップで見てみると・・・



1650年頃の京町絵図に表記された柳川小路
赤い矢印が上の写真の撮影ポイント


京町2丁目の一角に表示された案内板


宇土小路

2021-04-27 21:07:52 | 歴史
 日課の散歩もできるだけわが家の近辺だけにすることにした。今日は京町本丁の京陵中学校を中心として歩いて回った。京陵中のグラウンドを駆け回る生徒たちを見ながら、この辺りの歴史に思いを馳せた。京町本丁の西側一帯の旧称を「宇土小路(うとしょうじ)」という。その名の由来は、関ヶ原の戦で宇土の領主小西行長は西軍に与し敗れたが、加藤清正は小西の旧臣たちを召し抱え、この地域に住まわせたので、宇土衆の侍町というところからこの名が付いた。現在の熊大附属小・中学校、京陵中学校、営林局などのある一帯である。京町の東側一帯の旧称「柳川小路」ほどは知られていないのは、路そのものがほとんど残っている「柳川小路」に対し、「宇土小路」は一部しか残っていないからだといわれる。
 明治初期、宇土小路が現在の京陵中学校敷地まで延びていた頃、その一角に住んでいたのが、西南戦争で西郷隆盛に呼応し、熊本隊を率いた池辺吉十郎。旧熊本藩士で維新後、私塾を開いていた。西南戦争で敗れた後、刑死したが、その息子が明治時代、ジャーナリストの先駆けとして活躍した池辺三山。朝日新聞の礎を築いた人で、夏目漱石を朝日新聞に招いたことでも知られる。
 京陵中と附属小・中学校との間の道を歩きながら、ふと思い出した。僕が付属小に通っていた頃、京陵中のグラウンドの北側は土手があって、そこに登れば京陵中の野球部の練習をいつでも見ることができた。あれは旧藩時代に築かれた土塁ではなかったのかと。


毎年正月、京陵中学校グラウンドで行われる壺川校区どんどや



西南戦争当時の京町の地図(ブログ「津々堂のたわごと日録」さんより)

熊本さわぎ唄

2021-04-26 21:38:56 | 音楽芸能
 しばらく外出もできるだけ控えるつもりなので、この期間を利用して、埋もれてしまいそうな過去の映像を、今の自分の感覚で再編集し、光を当ててみたいと思う。

 2010年から2015年の間、熊本城本丸御殿では「春の宴」や「秋夜の宴」などのイベントが盛んに行われていた。当時撮った映像をあらためて見直してみると、まさに豊かな平成文化の薫りを感じさせる。本丸御殿は熊本城築城四百年記念事業として1999年から復元工事が始まり、2007年に完成した。翌2008年4月から一般公開が始まったが、当初は制約が多く腫れ物に触るような公開だった。2010年に入り、さらなる観光振興策として、大広間で伝統芸能を中心としたイベントが行われるようになった。残念ながら2016年の熊本地震で本丸御殿は甚大な被害を受け、復旧の見通しはまだアナウンスされていない。何年後かわからないが、本丸御殿の再建成った時、後世の人々が平成本丸御殿の歴史と文化を感じていただくよすがとなることを願い、映像の再編集、再アップを進めたい。


2012年秋夜の宴のプログラムの一部


この年の秋夜の宴では舞台を本丸御殿大広間から野外の奉行丸に移した特別プログラムが行われた。(今村孝明氏撮影)


6年間にわたる数多の演目の中でも最も印象に残る一つ「熊本さわぎ唄」

新しくなった史跡スポット案内板

2021-04-25 17:28:12 | 熊本
 熊本城内の史跡スポット案内板が更新されたようなので、今日散歩がてら見て回った。今日確認できたのは下記の5ヶ所。案内板が3ヶ所、キャスター付の移動式ボードが2か所だった。
 4月29日から予定されていた「熊本城天守閣復活祭」に向けての更新だったのかもしれない。復活祭は中止となってしまい残念だがとても見やすくなって説明文を読んでみたくなる。また、大勢の観光客の役に立つ日が早くやって来ることを祈りたい。

▼埋門跡(うずみもんあと)


▼監物櫓(けんもつやぐら)


▼西出丸(にしでまる)


▼棒庵坂(ぼうあんざか)


▼磐根橋(いわねばし)

東京オリンピック1964 随想

2021-04-24 19:26:22 | スポーツ一般
 2回目の東京オリンピックはいよいよ風前の灯。無理やりやってもなぁ…。
 それはさておき、1964年の東京オリンピックのささやかな思い出を、当時の好きな曲とともに。

▼風のように走り去ったアベベ
 陸上最終日のマラソンはゴールもほど近い千駄ヶ谷の神宮外苑コース沿道で観戦した。先導の白バイに続いてやって来たアベベは足音もせず風のように軽やかに目の前を走り去った。靴を履いていたことだけは確認した。だいぶ遅れて後に続いたのは円谷幸吉さん。苦しそうな表情を浮かべ背中が丸くなっているように見えた。

▼意外に小さかったヘイズ
 そのマラソンを観戦する人々の中に、陸上男子100㍍の金メダリスト、アメリカのボブ・ヘイズの姿があった。テレビの中で見る彼よりだいぶ小さく見えた。レース前の動物的な精悍な顔つきとは異なり柔和な表情が印象的だった。オリンピック後、プロフットボールに身を投じた彼はダラス・カウボーイズのワイドレシーバーとしてその快速ぶりをいかんなく発揮した。

▼英語が通じない!
 水泳競技のアルバイト係員のかたわら、自分の専門である水球の各国チームが練習する東京体育館や神宮プールへ足繫く通って各国チームの練習を見まくった。ある時、優勝候補の一角だったソ連チームの練習合間に一人の選手に技術的な質問をしてみた。片言の英語で尋ねるのだがこれが全く通じない。結局、身振り手振りでコミュニケーションを図り何とか目的を果たせた。国際的な選手でも英語が通じないことがあるのだと知った。

▼天使の微笑み
 大会期間中のある日、代々木競技場プールからの帰り、渋谷道玄坂の方へ歩いて行った。何の店だったか、女子水泳選手と思しきグループが買物をしていた。ユニフォームを着ていなかったのでどこの国かはわからなかったが、一人の可愛らしい金髪の少女選手が、店の前を通り過ぎようとした僕と目が合い、ニッコリと微笑んだ。ただそれだけなのだが嬉しくて、その場面を今でも思い出す。





檜垣媼(ひがきのおうな)の道

2021-04-23 22:12:48 | 歴史
 熊本県は新型コロナウイルス感染のリスクレベルを最上位の「レベル5」(厳戒警報)に引き上げるという。一方ではJR熊本駅ビルの中に大型商業施設「アミュプラザくまもと」が開業、何という間の悪さ。九州新幹線開業の時の東日本大震災を思い出してしまう。GW中のイベントは中止あるいは延期が次々と。またしばらく巣ごもり生活になればブログの新ネタもなく、旧ネタを再編集してしのぐことになりそうだ。

 そこで今日は、平安時代の閨秀歌人・檜垣媼が厚く信仰した岩戸観音へ日参した道の話を再び取り上げてみた。実はこの道の途中の区間は亡父が昭和6年頃、新任教師として松尾小学校へ毎日通った道でもある。そこで父の備忘録を読み直してみた。何しろ90年前のことである。
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新市街からフォード幌型のバスに揺られて30分、運転手に教えられて松尾村役場入口という標柱のある所に降り立った。辺り一帯は田んぼであり家は一軒もない。行く手300㍍位の山麓に農家が二、三戸点在している。進むこと10分余、集落に差しかかった。しかし校舎らしい建物は見当たらない。里人に聞くと「学校はさらに10分程登ったところ」だと言う。ここからはいよいよ爪先上りの山道である。「えらい辺鄙な学校だな」と言いつつ上りに上る正面には金峰山が峨々として突立っている。右手は急斜面の櫟林、左手は段々畑でその下に谷川のせせらぎが聞こえる。漸く校舎が見えてきた村道から幅1㍍程の通学路に入り10数段の階を上ったところに校舎はあった。松尾小は金峰山の南麓段丘の山懐に位置している。
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 父は松尾小学校までだが、檜垣媼の場合はここからさらに岩戸観音まで4㌔余りの山路を登って行かなくてはならない。しかも、観音様に手向ける功徳水を入れた水桶を担いでだから大変だ。僕はまだ、この檜垣の道の一部しか歩いたことはない。一度はチャレンジしたいと思っているがはたして…。
 余談だが、檜垣媼が藤原純友の乱のあおりを受けて零落し、肥後白川の畔に流れてきたのはまだ30代の頃という説もあり、水桶からこぼしこぼし登ったという「桧垣のこぼし坂」の伝説も随分とイメージの異なったものになる。


これが昔の松尾村役場入口


金峰山を望みながら旧松尾小学校の前を通り過ぎ、ひたすら急坂を登っていく。


「桧垣のこぼし坂」の表示板を過ぎるとやがて丘の上に到達する。


平山の集落が見えてくると岩戸観音まであとひと息。向こうに有明海と島原が。



    2013年4月6日 熊本城本丸御殿  くまもとをどり2013
    作詞・作曲: 杵屋六花登   作調:中村花誠
    立方:城北高等学校ダンス部
    地方:中村花誠と花と誠の会およびサポートメンバー

細川家とワイン

2021-04-22 19:15:16 | 歴史
 先週末、城彩苑わくわく座で観た舞踊団花童の舞台「細川ガラシャ ~玉の一生~」の中で、細川忠興と玉がともにパンとワインを食す場面があった。これはなかなか意味深な場面だぞと思わずニヤリとした。機会があれば中村花誠先生に意図をお聞きしてみたいものだ。
 シチュエーションは二人が織田信長の仲立ちで結婚して間もない勝竜寺城時代か丹後田辺城の時代だと思われる。二人の関係が良好で、玉がまだキリスト教信仰に目覚める前と思われるが、パンとワインはキリストの血と肉体を意味するから、先行きの二人の葛藤を暗示していると言えそうだ。
 室町時代後期に近衛政家が書いた「後法興院記」という日記の中に、「珍蛇(チンタ)」という記述があり、これはポルトガル語の赤ワイン「 Tinto Vinho(チント・ヴィーニョ)」のことだともいわれ、これが日本で初めてワインが記述された文献だという。
 また、キリスト教布教のために日本へやって来たポルトガル人のルイス・フロイスが、京で織田信長に謁見したとき、信長にワインを献上した可能性があり、信長がワインを飲んだ最初の日本人という説もある。信長を敬愛してやまなかった忠興はワインを目にする機会もあっただろうし、飲んだこともあったかもしれない。それが後の豊前国転封後のワインづくりへ繋がったのだろう。ワインづくりは家督を譲った忠利が熊本藩へ移封されるまで続いたという。細川家のワインづくりについては「津々堂のたわごと日録」に詳しく紹介されている。
 なお、ワインのことを初めて「後法興院記」に書いた近衛政家の近衛家だが、現当主の近衛忠煇は細川護熙(第79代内閣総理大臣)の弟。ここにも細川家とワインとの不思議な縁を感じる。


いずれ あやめかカキツバタ

2021-04-21 18:57:43 | 音楽芸能
 立田山湿性植物苑のカキツバタを眺めていたら、ふと北原白秋の詩を思い出した。彼のふる里である水郷柳川の風景を詠った詩の中に「かきつばた」と「のすかい」という詩がある。「のすかい」では「花あやめ」を詠っている。
 「何れアヤメかカキツバタ」ということわざがあるが、「かきつばた」に登場するのは「オンゴ」つまり良家のお嬢様。これに対し「のすかい」は遊女を表す言葉。白秋の心の中では、この二つの花はそういうイメージだったのだろうか。
 ちなみに「のすかい」という言葉は熊本でも使う。「イヤだな」という気持を「ノサン」と言ったり、「ノスコッジャニャア」と言ったりするが、「ノスカイ」というのも同じで、風紀上よろしくないという意味で遊女のことを「ノスカイ」と呼んだ。


立田山湿性植物苑のカキツバタ

【備考】
  オンゴ:良家のお嬢様/ケエツグリ:水鳥のかいつぶりのこと/のすかい:遊女のこと/バンコ:縁台

   茨城県の水郷潮来では、花菖蒲もカキツバタもひっくるめて「あやめ」というらしい。

テイカカズラと「歌舞伎踊」

2021-04-20 22:33:14 | 音楽芸能
 最近、わが家近辺のテイカカズラが異常なほど繁茂している。しかも、いつも5月に入る頃、白い花を咲かせていたのだが、今年は咲き始めが10日以上早かった。今が盛りで近くを通ると甘い香りを漂よわせている。
 テイカカズラという名前は、平安時代末期、式子内親王(しょくしないしんのう)を愛した藤原定家(ふじわらのていか)が、死後も彼女を忘れられず、ついにテイカカズラに生まれ変わって彼女の墓に絡みついたという伝説に基づく能「定家」から付けられたという。
 テイカカズラを見ると必ず、4年前に玄宅寺で見た藤間流の長唄舞踊「歌舞伎踊」を思い出す。「歌舞伎踊」の詞章は、代表的な中世小歌「七つ子」がもとになっているが、この小歌は取り入れられた芸能および流派によって、七つ子、七つになる子、おちゃめのと、吉野初瀬など、さまざまな題名が付けられているが、乳母が愛しい七つ子との離れがたい心情をテイカカズラにたとえて歌っている。
 この長唄「歌舞伎踊」が成立したのは江戸中期だそうだが、あえて「歌舞伎踊」としたのは、江戸初期の阿国歌舞伎でこの小歌が使われていたことを認識していたからかもしれない。




修羅道

2021-04-19 21:26:08 | 歴史
 今日は新緑が見たくて、熊本城内の三の丸周辺を散歩した。砂薬師坂の上でひと休みして辺りを眺めていると、加藤清正の熊本城築城時、井芹川の舟運を利用して運んだ石や木材などの建築資材を、砂薬師坂下の引き込み水路から陸揚げし、坂を登って行く修羅道の様子が目に浮かんだ。重機などがなかった時代、大変だったろうなぁ、昔の人はエラいなぁとつくづく思う。


三の丸に登る砂薬師坂


かつて三の丸の下を井芹川(祓川)が流れていた。微妙な道のカーブは川の痕跡か。


砂薬師坂を登り、さらに二の丸・本丸へと続く修羅道が設けられたのだろう。


築城時にはこんな風景が繰り広げられたであろう。


【参考記事】
 加藤清正公石曳きの段

 下の「平針木遣り音頭」と「伊勢音頭」の2曲はいずれも、慶長15年(1610)の徳川家康による名古屋城の天下普請の際に唄われた木遣り唄がもとになっている。





Feed the birds, tuppence a bag

2021-04-18 22:52:19 | 音楽芸能
 時々考えるのです。「沁みる歌」は何曲あるかなぁと。意外と少ないかもしれないし、多いかもしれない。これからたまにそんな歌たちをブログに記録しておこうと思うのです。
 今回は学生時代に観た映画「メリー・ポピンズ」の中から「Feed the birds」を取り上げてみました。この映画の歌では「チムチムチェリー」などの方が人気はあるようですが、僕はこの歌が一番好き。
 セントポール寺院の階段に一人の小さな老婦人がやって来て、袋に入れたパン屑を2ペンスで売り始めます。

  「鳥に餌を与えて。1袋2ペンスだよ」
  「2ペンス 2ペンス 1袋たったの2ペンスだよ」
  「鳥に餌を与えて」
  そう訴え続ける彼女の頭上は、彼女の鳥たちでいっぱいの空です。

  Feed the birds, tuppence a bag
  Tuppence, tuppence, tuppence a bag
  "Feed the birds," that's what she cries
  While overhead, her birds fill the skies

 この老婦人を演じているのがジョン・フォード監督の映画でおなじみのジェーン・ダーウェル。彼女の遺作となりました。

「two pence」のことを「tuppence(タップンス)」と発音します。この響きが好きです。ジュリー・アンドリュースの歌声はクイーンズ・イングリッシュというのかどうか知らないけれど、優しくて聴き取りやすい。いつ聴いても心に沁みます。


細川ガラシャ ~玉の一生~

2021-04-17 21:00:50 | 音楽芸能
 1年4ヶ月ぶりに城彩苑わくわく座の舞踊団花童の舞台を観る。昨年10月、この舞台でガラシャを演じるはつ喜月蘇女さんと一緒に泰勝寺跡の四つ御廟でガラシャ廟をお詣りしたっきりで、舞台を観に行く機会を逃したり、コロナ休演があったりしていたが、この追加公演でやっと観ることができた。能楽を思わせる場面や洋舞仕立ての場面もあったりしてなかなかスタイリッシュな演出。1時間の上演時間があっという間に過ぎた。月蘇女さんはほとんど出ずっぱりで大変だったと思うが、中村花誠先生の演出意図は尽くされていたのではないかと思う。

































3月の動画視聴ベスト10

2021-04-16 10:22:49 | Web
 YouTubeから4 月のクリエイター向け「マンスリー・ニュースレター」がメールで届いた。その中に「アナリティクスを見る」というボタンがあったのでクリックすると、YouTubeのチャンネル・アナリティクスのページが開いた。アナリティクスというのはアクセス解析サービスのこと。ふだんはあまりアナリティクスを見ることはない。開いたページに先月のチャンネル動画視聴ベスト10が掲載されていた。こんなランキングを見たのは初めてだ。それが下の図なのだが、これを見ると、どんな動画が見られているかがよくわかる。これからの動画投稿の参考にしたい。