徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

母の退院

2024-01-31 21:55:30 | ファミリー


 母が5週間ぶりに退院した。年末から正月をほとんど寝たきりで辛かったろう。あと2週間で102歳を迎える。病院から車に乗せて帰り道、坪井川沿いの八景水谷の脇を通った。ここは母が幼稚園に勤めていた頃、園児を連れて遠足や園遊会で度々訪れた思い出の地。八景水谷は桜の名所でもある。「桜の季節ももうすぐだね」と語りかけると、母は「桜を見られるだろうか」とつぶやいた。3月下旬、八景水谷の桜が満開になったら何としても母を連れて来ようと思った。


桜の季節の八景水谷

旅の衣は篠懸の… ~長唄 勧進帳~

2024-01-30 21:59:46 | 古典芸能
 「勧進帳」というのは、能「安宅」を元にした歌舞伎の演目。僕が「勧進帳」の物語に接したのは、黒澤明監督の映画「虎の尾を踏む男達」が最初だった。テレビで能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」を観たのは、それよりずっと後のことで、「勧進帳」と聞くとまず思い出すのは映画「虎の尾を踏む男達」のこと。「旅の衣は篠懸の、旅の衣は篠懸の・・・」という有名な謡が、ミュージカル風の男性コーラスで始まるオープニングや「虎の尾を踏み、毒蛇の口を遁れたる心地して・・・」と安宅の関を後にして、強力のエノケンが「飛び六法」で消えて行くエンディングなどが忘れられない。
 あらすじは、源義経一行が源頼朝の追及を逃れ、山伏姿に身をやつして奥州への逃避行の途中、加賀国の「安宅」の関を通過しようとして関守の富樫との間で繰り広げる攻防を描いたもの。中でも武蔵坊弁慶が富樫に迫られて白紙の勧進帳を読み上げる場面が有名だ。
 弁慶役の大河内傳次郎、森雅之、志村喬らの山伏、富樫の藤田進、そして映画版で創造されたキャラクターである強力の榎本健一など、名優たちが織りなすサスペンス劇は今でも忘れられない。終戦の昭和20年(1945)にこんな映画が製作されたというのも驚きだ。またこの映画の撮影中には進駐軍関係者の見学が多かったらしく、ある時、そんな米軍関係者の中に黒澤監督が敬愛してやまないジョン・フォード監督が含まれていたらしいが、肝心の黒澤監督は俯瞰撮影のためクレーンの上にいて気づかなかったというエピソードも残されている。


映画「虎の尾を踏む男達」の一場面

 さて、下の写真は一昨日行われた「第57回熊本県邦楽協会演奏会」での「長唄 勧進帳」の様子。毎年、見事な演奏を見せていただく蓑里会の杵屋五司郎さん。卓越した唄と立三味線の技が最も引き立つのがこの「勧進帳」だろうと思う。もう一度映像でゆっくり楽しみたい。


ハーン訳「銚子大漁節」のナゾ(2)

2024-01-29 22:53:15 | 音楽芸能
 昨年5月29日のブログに「ハーン訳『銚子大漁節』のナゾ」という記事を書いた。これは以前から疑問に思っていたラフカディオ・ハーン著「日本の古い歌(Old Japanese Songs)」の中に紹介された「銚子大漁節」に関するものだった。ハーンは銚子を訪れた形跡はないというのにどうやって「銚子大漁節」を採集したのだろうかという疑問だった。問い合わせた銚子市観光商工課の文化財担当者からの返事には、「ハーンが銚子に滞在した記録はない」というハーンの孫・小泉時氏の談話が残っているので間違いない。それではどうやって採集したかというと、明治33年にハーンが「日本の古い歌」に載せた大漁節は「十とせ」を欠いており、その2年前、明治31年に出版された大和田健樹著「日本歌謡類聚」に収録された大漁節も「十とせ」を欠いていることから、ハーンは「日本歌謡類聚」をもとに翻訳したのではないか、とのことだった。
 その後、この「日本の古い歌」を何度か読み込んだが、ハーンは日本の古い歌に見られる「数え唄」のパターンに興味を抱き、「一つとせ一番船へ積み込んで」や「二つとせ二葉の冲から外川まで」といった「数と最初のフレーズとの符合」を、手毬歌なども紹介しながら指摘している。
 つまりこういう日本の歌の作り方に興味があったのであって、銚子という土地そのものに興味を抱いたわけではなかったのではないか。だからあえて「漁師の歌(SONG OF FISHERMAN)」というタイトルにしたのではないか。したがってフィールドワークをする必要もなく、「日本の古い歌」を翻訳した松江以来の愛弟子・大谷正信あたりに資料を集めさせたのではないかと思われる。
 蛇足だが「銚子大漁節」が作られたのは鰯の異常な大漁の元治元年(1864)とわかっているので、ハーンが「日本の古い歌」を著した明治33年まで36年しか経っていない。それほど古い歌ではない。



10番の歌詞が欠けているハーンの英訳詩

新春邦楽聴き初め

2024-01-28 18:28:53 | 音楽芸能
 今日は午後から「第57回熊本県邦楽協会演奏会」に行く。昨年は都合で行けなかったが、今年のプログラムは次のとおりで例年にも増して充実した内容だった。
 今年初めてのナマ演奏による邦楽を聞いた。やはり音楽はナマで聞くのが一番。映像はとりあえず
トリの「長唄 花見踊り」をアップした。

1.長唄 鶴亀・・・・・・・・・・・・・・・蓑里会・うらら会・花と誠の会
2.都山流尺八本曲 平和の山河・・・・・・・都山流尺八楽会熊本県支部
3.俚奏楽 民謡七福神(舞踊付)・・・・・・秀美会
4.三曲 夕顔・・・・・・・・・・・・・・・琴古流尺八楽若菜会
5.肥後琵琶 六根清浄祓い・正月祝唄・・・・肥後琵琶の会
6.長唄 勧進帳・・・・・・・・・・・・・・蓑里会
7.三曲 茶湯音頭・・・・・・・・・・・・・都山流尺八楽会熊本県支部
8.端唄 梅は咲いたか・からかさ・春雨・・・椿会
9.琴古流尺八本曲 三谷菅垣・・・・・・・・琴古流尺八楽若菜会
10.長唄 花見踊り(舞踊付)・・・・・・・・蓑里会・うらら会・花と誠の会


徳川宗春のゆめのあと と「伊勢音頭」

2024-01-26 21:08:55 | 歴史
 自分がYouTubeにアップした動画が意外なところに貼り付けられているのを発見すると、嬉しさとともに「なんで?」と訝しむ気持が相半ばする。
 そんな例の一つが「徳川宗春の実像」と題するサイトのブログに貼られた「伊勢音頭」の映像である。このサイトの主宰者はどなたかわからないが、おそらく名古屋の方なのだろう。
 徳川宗春といえば徳川吉宗のライバルと目された大名ということは「暴れん坊将軍」程度の知識しかない僕でもわかっているが、このサイトを走り読みさせていただくと、徳川御三家筆頭の7代尾張藩主となった宗春が、吉宗の緊縮財政政策に対し、地域活性化のため積極財政政策をとったそうだ。そして、宗春は新地を開いて設置した三つの遊郭(西小路遊廓・富士見原遊廓・葛町遊廓)に公許を与えた。そのうちの西小路遊郭は伊勢古市から来た経営者や遊女が主体だったらしい。いきおい伊勢色が強い遊里となったが、「伊勢は~」で始まる伊勢河崎の「河崎音頭」がヒットし「伊勢音頭」と呼ばれるようになったという。そんなわけで、西小路遊廓と「伊勢音頭」は切っても切れない関係になったというわけ。


フィレ・ガンボってナニ?

2024-01-25 16:30:38 | 音楽芸能
 久しく聞いていないカントリーミュージックが聞きたくなって、まずはカントリーといえばこの人、ハンク・ウィリアムズの曲をYouTubeで探しながら聞き始めた。「Your Cheatin' Heart」「Hey Good Lookin'」「Jambalaya」etc.
 学生時代、先輩がよくギターを掻き鳴らしながら歌っていた姿を思い出す。どの曲も歌詞の一部だけを今でも憶えているが、なかでも「Jambalaya」は、曲のタイトルが歌詞の中に出てくる一節が妙に印象に残っている。
 「Jambalaya and a crawfish pie and fillet gumbo」
の部分である。これはアメリカ・ルイジアナ州のケイジャン料理(クレオール料理)の名前を並べたものだそうだ。
 まず「ジャンバラヤ」というのはスペイン料理のパエリヤがもとになった炊き込みご飯様のもの。「クローフィッシュ・パイ」とはザリガニのパイのこと。そして「フィレ・ガンボ」というのはヒレ肉のスープ(上の写真)だという。「ガンボ」というのはオクラのことで、スープの中にオクラのとろみを生かして煮込んであるらしい。
 ちなみに「ガンボ」というのはラフカディオ・ハーンの著作の一つで、クレオールの俚諺集「ゴンボ・ゼーブス」の「ゴンボ」と同じ言葉。
 今日はハンク・ウィリアムズ以外のアーティストによる「Jambalaya」も聞いてみたが、その中から下の3曲を貼り付けてみた。

※ケイジャン:祖先が北米東部のアカディア地方に入植したフランス人の直系で、その後、ルイジアナ州南部に永住した人々。
※クレオール:西インド諸島、中南米などで生まれ育ったヨーロッパ人。特にスペイン人、フランス人をいう。


オリジナルのハンク・ウィリアムズの「Jambalaya」(1952)

学生時代によく聞いたブレンダ・リーの「Jambalaya」(1956)

ニューオリンズ・ストンパーズの「Jambalaya」

菊池川ノスタルジー

2024-01-23 22:54:52 | 

大浜橋から菊池川河口方向を望む。

 玉名市大浜町の母の生家には年に5,6回は訪れる。玉名駅を過ぎて車を走らせていると小浜で菊池川右岸の道に入る。この道を走っていると高瀬駅(現玉名駅)から母に手を引かれ、てくてく歩いた幼い頃を思い出す。
 しばらく菊池川を眺めながら走っていると必ず思い出すのが海達公子の「川口」という詩である。この詩に歌われているのが菊池川だとはひと言も書いていない。しかし、公子は高瀬高女時代、親友で同級生の規工川澄さんの岱明町の家に度々遊びに行き、小浜から大浜まで小舟で川下りを楽しんだと書き残している。川口というのはおそらく菊池川河口のことだと思われる。澄さんの甥で海達公子研究の第一人者として永年活躍された規工川佑輔先生も7年前に他界され、今となってはそれを証明する人は誰もいない。


かつて玉名市小浜の菊池川右岸に「一本榎」と呼ばれていた大木があった。

節季候(せきぞろ)

2024-01-22 20:55:01 | 音楽芸能
 しばらくテレビドラマは見ていなかったのだが、最近面白いなと思ったドラマが、NHK-BSの「あきない世傳 金と銀」という時代劇である。
 摂津(今の大阪)の貧しい元武士の家に育った娘・幸が天満の呉服屋「五鈴屋」に女衆として奉公に入る。商売の面白さに目覚めた幸は人一倍努力し、商才を発揮し始める。やがてその商才を認められ、四代目主人の後添として御寮さんとなる。放蕩の限りを尽くし不慮の事故で早世した四代目を継いだ五代目主人にも請われて御寮さんとなる。さて様々な困難を乗り越え、幸が「五鈴屋」の発展にどう腕を振るっていくか、という物語。
 先日の第6回では、永年の商習慣だった年1回師走の売掛金回収を3月、5月、7月、9月、12月の五節季に変えるというエピソードがあった。見ながら徳島県民謡「節季候(せきぞろ)」のことを思い出した。「せきぞろ」というのは毎年師走になると「節季候う!」と声をかけながら商家などにやって来る門付け芸人たちのことだ。なるほど、そういうことだったのか。師走になると市中の金が回り始める。そのおこぼれを頂戴しようと声高に「節季候う!」とやって来ていたのだ。

徳島県民謡「節季候(せきぞろ)」


「節季候」を端唄化した「せつほんかいな」(唄と三味線:﨑秀五郎)
 

白梅が咲き始めるころ

2024-01-20 21:22:17 | 

 わが家の白梅が咲き始めていたので今年は開花が早いのかなと思い、過年度の写真を調べてみたら、この時期に既に咲き始めている年もあった。平年並みなのかもしれない。
 昨日から宮崎にいる長男が仕事の合間を縫ってやって来た。今年は正月に帰れなかったし、祖母の見舞いもしたかったのだろう。今日の午後、彼を母の入院している病院へ連れて行った。コロナやインフルエンザが増勢にあるため、面会が再び厳しくなり、病室へ入室できるのは1日に一人だけ、しかも10分限りということで、長男だけが見舞いをして僕はロビーで待っていた。母も僕たち家族もちょっとつらいな。



 帰宅してから、見に行くことができなかった「大江幸若舞」(毎年1月20日開催)のライブ配信を見て過ごした。全部見ると4時間以上かかるので、とりあえず今日は「高館(たかだち)」だけを見た。
【高館】(みやま市の資料より)
 源義経の最後の地となる衣川を見下ろす「高館」を舞台とした合戦絵巻。川を背にし高館を死守する義経一党の獅子奮迅の戦い ぶり や義経の最後を物悲しく描く物語 。

 とあるが、今日演じられたのは義経主従が奥州の高館で討手の軍勢を待ちうけながら開いた宴のさなかに、鈴木三郎が熊野より到着し、翌日の合戦で鈴木・亀井兄弟ともに奮戦して果てる前段の義経とのやりとりのくだりだったと思う。内容について特に説明はなかったので断片的に聴き取れた詞章から判断したもの。

長唄 勧進帳

2024-01-19 21:30:56 | 古典芸能
 母の入院生活は当分続きそうなので、しばらく遠出はあきらめざるをえない。今月は久留米の「久留米座能」やみやまの「大江幸若舞」など楽しみな公演があったのだが今年は断念することにした。そのかわりと言ってはなんだが、近場の熊本市国際交流会館で28日に行われる「第57回熊本県邦楽協会演奏会」はなんとか見たいと思う。
 10演目のどれも見たいのだが、なかでも蓑里会の「長唄 勧進帳」は見ものである。杵屋五司郎さんの立三味線はいつ聞いても絶品。超一流の三味線の響きを楽しみたい。

 この映像は2016年の「第51回 熊本県邦楽協会演奏会」で演奏された蓑里会の「長唄 勧進帳 ~滝流しの合方の部分~」

俗説「檜垣のこぼし坂」

2024-01-18 20:44:21 | 歴史
 昨日の熊日新聞ローカル版の連載コラム「坂道を上れば」に「桧垣のこぼし坂」が取り上げられていた。内容的には既知のことがほとんどだったが、10数年前の蓮台寺訪問をきっかけに、檜垣媼の功徳の道のことを調べ始め、現地訪問や資料調べなどを通じて得た知識をブログに随時載せてきた。そこで一度これまでの概要をまとめてみることにした。

 一昨年、熊本市で行われた「第4回アジア・太平洋水サミット」で、天皇陛下がオンライン講演をされ、平安時代の閨秀歌人である檜垣嫗の歌
 年ふれば我が黒髪も白河のみづはくむまで老いにけるかな
を「水の都くまもと」のたとえに引かれた。
 檜垣媼は白川の畔、今の蓮台寺辺りに結んでいた草庵から、篤く信仰する岩戸観音へ閼伽の水を供えるため、水桶を担いで四里の道を日参したと伝えられている。その道の最大の難所が後世に「檜垣のこぼし坂」と呼ばれた山道である。高齢の檜垣媼の足もとがふらつき、水桶の水をこぼしこぼし登ったので誰が言ったか「檜垣のこぼし坂」と呼ばれたという。檜垣媼は室町時代に世阿弥が創作した能「桧垣」のモデルとなったが、世阿弥の能では百歳に及ぶと思しき老女として登場するので、こぼし坂の話もさもありなんと思われるのだが、日本古代中世文学の研究家である妹尾好信教授(広島大学)によれば、「後撰集」に選ばれたこの歌は、旧知の藤原興範と再会した時、挨拶として詠まれた当意即妙の歌なのであって、決して実際に彼女が「みずはぐむ」老女であったわけではなく、女盛りを過ぎた年齢になったことを誇張して言ったまでで、実際の年齢は三十代かせいぜい四十歳くらいだったのではないかという説を唱えている。檜垣媼が藤原純友の乱のあおりを受けて零落し、肥後白川の畔に流れてきたのはまだ三十代の頃という説もあり、水桶からこぼしこぼし登ったという「檜垣のこぼし坂」の伝説にも疑問符が付く。しかも、檜垣媼は後年、岩戸観音近くの「山下庵」に移り住んだとも伝えられている。
 また、異説もあって、その昔、この坂を登ったところに寺があり、その寺の小法師(こぼし)さんがよくその坂を上り下りしていたので「こぼし坂」と呼んだという俗説もある。
 歴史上の人物には後世の人々によって創造された話が伝説となっていることも多いが、それもまた歴史のロマンと言えるのかもしれない。
※上の写真は蓮台寺に伝わる檜垣媼像


金峰山を望みながら旧松尾東小学校の前を通り過ぎ、ひたすら急坂を登っていく。


上松尾の集落を通り抜け


みかん畑の中を登って行くと


「桧垣のこぼし坂」の標柱が立てられた地点に着く。


標柱の辺りには山水が湧いているが、かつてここには小さな泉があった。


標柱には「桧垣のこぼし坂」の由来が書かれている。




   ▼創作舞踊「檜垣水汲みをどり」

熊本の風景今昔 ~厩橋(うまやばし)~

2024-01-17 19:07:20 | 歴史
 かつて熊本城の内堀として、また物流の大動脈として城下の経済や生活を支えた坪井川。この坪井川には多くの橋が架けられていますが、中でも今日最も渡る人や車が多い橋の一つが厩橋(うまやばし)ではないかと思います。熊本藩主の住まい「御花畑屋敷」の馬場や厩(馬小屋)の目の前にあったためこう呼ばれるようになりました。
 下の2枚の写真の間には150年の時の隔たりがありますが、時代の流れを感じさせます。


明治初期に冨重利平が撮影した厩橋


現在の厩橋


 この絵図は熊本大学付属図書館が寄託された永青文庫資料のうちの一つで、明治時代初期に赤星閑意によって描かれた「熊本城東面図」。東側上空からの鳥瞰図となっている。流れている川は、江戸時代に内堀としても使われていた坪井川。二つの橋が架かっているが、左側が厩橋(うまやばし)で手前の廓状になったところに厩(馬小屋)があったのでこの名が付いた。現在の厩橋と位置は変わらないので厩のところに現在の熊本市役所が建っていることになる。従ってその外側の広い道が今の電車通り。厩橋を渡ったところが須戸口門で、竹の丸へ通じている。右側の橋は藪ノ内橋(やぶのうちばし)で現在高橋公園の谷干城像があるあたりに架かっていた。川が右に曲がった奥に見える橋が下馬橋(げばばし)で、現在の行幸橋とほぼ同じところにあった。その左側に見えるのが広大な藩主の御花畑屋敷である。川の左岸には船着場があり、水運による物流が盛んに行われていた。天守閣の後ろにそびえる最も高い山が金峰山である。

   ▼厩橋で踊る(2015.2.1 熊本城稲荷神社初午大祭 舞踊団花童)

熊本自転車節がバズった日

2024-01-15 23:20:24 | 音楽芸能
 この頃になると必ず思い出すのは、5年前、ブログ記事の「熊本自転車節」がバズった日のこと。記事も埋め込んだ動画も2011年に投稿したもので、その時すでに8年も経っていた。にもかかわらず、このブログにはありえない、見る見るアクセス件数が増える状態が続いた。
 原因は大河ドラマ「いだてん」でヒロイン役の綾瀬はるかが劇中この唄を歌ったからだった。このドラマの第2回(2019.1.13)に彼女が自転車に乗りこの唄を歌いながら登場。以降数回にわたって歌った。その影響は絶大だった。彼女が演じた春野スヤさんは実際この唄をよく口ずさんでいたらしい。
 テレビ番組の影響は大きく、視聴者が番組の中の歌などを検索することによって、ブログやYouTube動画へのアクセスが急増することは時々あるが、この「熊本自転車節」の時ほどのバズり方は初めてだった。


金栗四三(中村勘九郎)が上京する汽車を追いかけて綾瀬はるかが自転車で爆走するシーン




大江幸若舞

2024-01-14 20:52:29 | 伝統芸能
 毎年1月20日は福岡県みやま市瀬高町大江に日本で唯一残る幸若舞「大江幸若舞」が、大江天満神社で行われる日です。
 幸若舞とは室町時代前期、越前の桃井直詮(幼名幸若丸)によって始められたという中世芸能・曲舞(くせまい)の一種です。いくつかの流派が生まれましたが、明治維新後、そのほとんどが途絶えました。唯一、筑後の大江村に伝わった「大頭流幸若舞」が辛うじて今日まで残っています。


大江幸若舞が行われる大江天満神社


由緒を記した石碑


 今年も家庭の事情で見に行けませんが、昨年の映像がYouTubeにアップされていますので、これで雰囲気を味わいたいと思います。毎年5曲ほど演じられ、毎年少しずつ曲目は変わりますが、人気の「敦盛」などは必ず入っているようです。小学生・青年・壮年など幅広い世代が出演しているのも見どころです。

▼映像に収められた内容(2023年1月20日開催)

一 浜出
  別名「蓬莱山」。梶原景季が左衛門司を賜わり、祝宴を催し、第一日は蓬莱山を作って、これに酒を盛り、第三日には、江の島詣でとて浜に出、船に舞台を設け、景季が太鼓役で管弦歌舞を演じたことを書いたもので、祝言曲とされる。

二 日本紀
  古事記・日本書紀から引用され作詞されたもの。いざなぎ・いざなみの尊の国生みの神話を仏教の世界観から大日如来を中心としたマンダラにたとえ、日本国の成立ちを説明したお話。

三 安宅
  歌舞伎「勧進帳」「安宅の関」の名で一般的によく知られている場面です。鎌倉殿の追及から逃れ、京を追われた義経主従は山伏姿に変装し、奥州へと落ち延びていく。現在の石川県にある安宅の関の一場面のお話。

四 敦盛
  源平合戦のひとつ「一ノ谷の戦い」捕えられた若き「平敦盛」を討ち取らざるを得なかった源氏方の熊谷直実が後年出家し、世の無常を感じた様子を描いた物語。織田信長が「桶狭間の戦い」の前に軍を鼓舞するために舞ったとされる。

五 高館
  源義経主従が奥州の高館で源頼朝の軍勢を待ち受けながら開いた宴のさなかに熊野より鈴木三郎が到着する。鈴木三郎は、たずさえた鎧の由来を物語り、これを弟の亀井六郎に譲って翌日の合戦では兄弟共に奮戦して果てる。高館を死守する義経一党の獅子奮迅の戦いぶりや義経の最期をもの悲しく書いた物語。


春隣(はるとなり)

2024-01-13 19:13:15 | 季節
 午後、入院中の母を見舞いに行く。経過は順調のようだ。入院した当初はCCUだったが、その後病室を三度変わり、現在は東側が開けた4人部屋。病窓からは熊本城数寄屋丸や本丸御殿、そして熊本市役所の上層階部分などが見える。

  病窓の 向こうに古城 春隣

 本丸御殿中庭やその右側の熊本市役所ビルを眺めていると、12年前の春、本丸御殿中庭で行われた「桜の宴」の風景が目に浮かんだ。今思えば、あの時の風景は二度と見られないものだったのかもしれない。
 帰りに護国神社の梅の花を見に行った。早咲きの梅はもう花開いていた。

2012.4.7 熊本城本丸御殿中庭 ~桜の宴~ ザ・わらべ「肥後の花娘」※右後方に市役所ビル


護国神社の早咲きの梅の花