徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

植物に学ぶ生存戦略3

2020-01-31 21:48:24 | テレビ
 昨夜、何気なくEテレにチャンネルを回したら、一昨年話題になった「植物に学ぶ生存戦略」の新作を放送していた。第3弾ということだそうだ。相変わらず、俳優の山田孝之と「ブラタモリ」で人気の林田理沙アナのシュールなやり取りが可笑しい。植物たちの謎めいた生態を山田孝之が擬人化して説明するのだが、当たっているんだか当たってないんだかよくわからない。それにしても二人の会話の不思議な間、これがなんともいい。楽屋オチみたいなネタばかりの最近のお笑いよりよっぽど面白い。


gooブログ歴15年

2020-01-30 22:40:25 | Web
 この2月で、gooブログ「徒然なか話」を始めてから15年となります。これまで通算184万人ほどの方に訪問していただきました。
 この15年を振り返り、アクセス向上に最も寄与していただいたのは、次のお三方であることはほぼ間違いないと思われます。
 このお三方および訪問していただいた皆様に心より御礼申し上げます。当分は続けて行く所存です。

▼まめ藤さん
 祇園甲部の人気舞妓として活躍の後、2016年に突然引退。昨年、芸妓としてカムバックした。熊本出身ということで仕込さんの頃から応援記事を度々掲載。



▼野林祐実さん
 熊本市桜木中学3年生だった2010年の千葉国体陸上100mで優勝。翌年、九州学院に進み、2年生の2012年、新潟インターハイで100m、200mの2冠に輝いた。



▼ザ・わらべのみなさん
 2000年に中村花誠師により立ち上げられた「ザ・わらべ」は、舞踊および囃子の演奏集団として伝統芸能を通じた熊本の文化発信に努め、九州新幹線全線開業に伴う「くまもとサプライズ」プロジェクトなどにも大いに貢献した。


伊香高校と木之本の思い出

2020-01-29 23:32:13 | 
 FB友のMさんのFacebookに、ある新聞のコラムが紹介されていた。滋賀県長浜市木之本町にある伊香高校が選抜高校野球の21世紀枠出場の一歩手前まで行きながら、惜しくも次点となったことを惜しむ内容だった。伊香高校は僕が彦根に勤務していた頃、度々リクルートに訪れた思い出深い学校。甲子園常連校のように恵まれた環境もなければ傑出した選手を引っ張って来るわけでもない田舎の普通の高校だ。今回は残念な結果となったが、いつかきっとみんなの夢がかなうことを心から応援したい。


 一昨年5月のブログ記事を再掲してみた。

▼想い出の町 ~北国街道・木之本宿~(2018.5.9)
 転勤族で国内各地を転々としたが、特に想い出に残る好きな町がいくつかある。その中で彦根勤務時代の想い出の一つが「木之本町(きのもとちょう)」。現在は長浜市になっているが、僕がいた頃は伊香郡木之本町だった。行った目的は滋賀県立伊香高等学校へのリクルート活動。定期的に進路指導の先生のところへ顔出しして覚えめでたくしておくのが目的だった。木之本へ行く楽しみは何といっても北国街道・木之本宿の名残りが残る古い町並み。車で木之本宿へ入ると心安らぐ思いがしたものだ。木之本地蔵院の前を通り過ぎて、少し北へ進むと山路酒造という四百数十年の歴史を有する老舗の造り酒屋がある。そこの角を右折するのだが、実は伊香高校へ行くにはもう一つ手前の角を右折した方が真っ直ぐ行ける。だが何度行ってもその角を見落とし、山路酒造まで行ってしまうのだ。この山路酒造の角を右折する道は「田上山観音寺(たがみさんかんのんじ)」への参道だったそうで、しばらく進むと「意冨良神社(おほふらじんじゃ)」の境内に突き当たり、その左側に「田上山観音寺」があるが、道なりに進むと本来の伊香高校への道に戻るのである。あの当時は街なかをゆっくり歩いて見て回るということはなかったので、機会があればもう一度訪ねてみたいものだ。


「題名のない音楽会」でおてもやん!?

2020-01-28 20:55:43 | 音楽芸能
 テレビ朝日「題名のない音楽会」(土曜あさ10時、KAB 熊本朝日放送は11時)の次回放送(2月1日土曜日)では、「やのとあがつま 民謡を楽しむ音楽会」と題して、海外でも活躍している二人の日本人アーティスト、矢野顕子と三味線プレーヤーの上妻宏光が新ユニット「やのとあがつま」を結成。歌い継がれてきた「民謡」を新たな音楽として世界に向け発信します。
 なかでも熊本の代表的な民謡「おてもやん」は見もの。熊本春の恒例行事「熊本城坪井川園遊会」における「おてもやん」の映像も挿入されるようです。


さつまいものはなし。

2020-01-27 18:30:43 | 世相
 日本テレビ夕方のニュース・情報番組「news every.」で「品川やきいもテラス」の紹介をしていた。今年が4回目というこの「品川やきいもテラス」は全国から集結した人気やきいも屋さんが、100品目以上の様々なやきいもを出品するのだという。昨年のこのイベントにはなんと5万8000人の来場を記録したそうだ。中には1本1,000円もするやきいもがあったりして、さながらB級グルメだ。
 そんな番組を見ながら、僕は、父が天草の大矢野島(現在の上天草市)の上村小学校に赴任した昭和10年頃の様子を記した備忘録のことを思い出した。父が受け持ったクラスでは、40名ほどの生徒の4分の3が、弁当に「かんちょ(上天草の言葉でさつま芋のこと)」を持ってきていたと記されている。当時は家が貧しいために「口減らし」として子守奉公に出されたり、「からゆきさん」として売られていく少女たちもいた時代、「かんちょ」は貧しく哀しい当時の人々の生活の象徴だったのである。


那須高原の冬

2020-01-25 22:50:55 | 
 テレビで北国の積雪のニュースを見ることが多くなった。30数年前、栃木県の那須にいた頃の冬のことをよく思い出す。最初の冬は車で雪道を走るのが恐かった。当時は冬はスパイクタイヤが使えたし、チェーンも常備していたが、それまで雪道を走った経験はほとんどなかったので無理もない。それでも徐々に慣れて行った。そのうち子どもたちを連れて鶏頂山や那須山にスキーをしに出かけるようになると全く怖さを感じなくなった。
 ある年の冬、那須高原にあった会社保養所から同僚と二人での帰り道、雪の坂道で車を停め、困り果てている様子の親子4人連れに出会った。父親と大学生か高校生の男の子二人が、車の脇にチェーンを拡げたものの、どうしていいのか全く分からずお手上げの状態だった。聞けば、横浜からやって来たが、夏タイヤのままなので、もうこれ以上は無理だと、チェーンの装着を始めたのだという。それはさぞお困りでしょう、というわけで、僕と同僚の二人で代わりにやってあげることにした。実は僕もチェーンを装着したのはそれまでに2、3回しかなかったのだが、この同僚が経験豊富な人で、実に手際よく作業を進め、あっという間に装着が終った。横浜の親子4人は何度も頭を下げながら目的地へ向かって発車した。もし僕一人だったら、おそらく何倍もの時間がかかったに違いないと、走り去る車を見ながら冷や汗をかく思いがした。ニュースを見ながら、そんなことを思い出した。


冬の那須山

東京オリンピックまで半年

2020-01-24 20:34:44 | スポーツ一般
 東京オリンピック2020までちょうど半年となった。56年前の東京オリンピック1964の半年前はどうしていただろうかと、ふと思った。前回のオリンピックは10月10日に始まったので、半年前といえば4月10日。僕は大学に入ったばかりで毎日、水球の練習に明け暮れていた。高校の卒業式も待たず、2月に上京して合宿所に入った。まだ、温水プールなど数えるほどしかない時代、オリンピック対策のために神宮プールにテントを張った仮設温水プールや東大の地下温水プールなどで連日猛練習に励んでいた。僕はオリンピックとは縁遠かったが、チームには日本代表を狙っている先輩もいたので例年よりも早いシーズンインとなっていた。練習はきつかったが、千駄ヶ谷の神宮プールや本郷の東大プールへ通う毎日は楽しかった。半年後に迫ったオリンピックが待ち遠しくてしかたなかったことを思い出す。

梅は咲いたか ~しょんがえ節~

2020-01-23 16:31:56 | 音楽芸能
 護国神社の紅梅が久しぶりの青空のもと可愛らしい花々を咲かせていた。毎年のことながら、つい
「♪ 梅は咲いたか桜はまだかいな」というフレーズが口をついて出る。
 この「梅は咲いたか」という俗曲は「しょんがえ節」という江戸前期から歌われる古謡がもとになったもの。「しょんがえ節」は実に様々な歌詞が作られて親しまれた。明治10年(1877)の西南戦争は熊本県内の各地が主な戦場になったが、こんなエピソードが残っている。
 2月22日に始まった熊本城攻防戦は一ヶ月経っても西郷軍は城の一角さえ崩せず、こう着状態となっていた。一方の熊本鎮台側も籠城が長引き、援軍の到着を待ちわびていたが、兵糧も残り少なくなった3月下旬、熊本鎮台の陣中でこんな唄が流行ったそうだ。

「酒は見てるが煙草はまだかいな、旅団は植木でトテチリシャン、音ばっかりしょんがいな」

 援軍が来る来るというばかりで、砲撃の音はするが一向に姿が見えない状況を「しょんがえ節」に乗せて皮肉った唄だが、司令部からすぐに禁止されたそうだ。


護国神社(熊本市中央区宮内)の紅梅 ~今日の様子~


宍戸錠さんと吉原正喜さん

2020-01-22 21:08:22 | 映画
 宍戸錠さんが亡くなった。小林旭主演「渡り鳥シリーズ」での殺し屋ジョーの宍戸さんはよく観に行ったものだが、訃報を聞いてまず思い出したのは昭和32年(1957)の「川上哲治物語 背番号16」における吉原正喜捕手の役。この映画公開の頃、小学生だった僕は毎日草野球に明け暮れていてこの映画は公開と同時に観に行った覚えがある。当時、高校野球の審判もやっていた父から、熊本工業時代の川上哲治&吉原正喜の話はよく聞かされた。川上さんと一緒に巨人軍に入った時は吉原さんが主で、川上さんはバーター入団のようなものだったとか。戦争でビルマで戦死された話など。本物の吉原さんを見たことがないので、僕は吉原さんと聞くと宍戸錠さんの顔を思い出す。また近いうち本妙寺に行きたいと思っているので、吉原正喜さんの記念碑で宍戸錠さんのご冥福も合わせて祈りたい。


「川上哲治物語 背番号16」で吉原正喜さんに扮した宍戸錠さん


本妙寺・六喜廟の傍にある吉原正喜さんの記念碑

正代関は「武蔵七党」の末裔?

2020-01-21 20:34:42 | 歴史
 熊本出身力士の正代関の今場所の活躍は目を瞠るほどだ。もともと地力のある力士とはいわれていたが、迫力のない立ち合いに、相手にいいようにつけこまれていた感がある。今場所の活躍をきっかけにブレイクしてほしいものだ。
 その正代関は、鎌倉時代中期に武勲を挙げ、肥後国玉名郡野原荘(現在の熊本県荒尾市周辺)の地頭職となった小代氏の子孫ではないかという説がある。
 小代氏は武蔵國小代郷、今の埼玉県東松山市正代の出身で、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国およびその周辺諸国にまで勢力を伸ばしていた「武蔵七党」の一つ、児玉党の構成氏族である。正代関には面白いファミリーヒストリーが埋もれているかもしれない。
 かくいうわが家もどうやら中世に武蔵国からやってきた一族らしい。ひょっとしたら、小代氏に付き従って肥後へやって来たのかも。

大代寅次郎の世界

2020-01-20 20:16:50 | 美術
 小路永こずえさんのFacebookに、現在、山鹿市立博物館において行われている「大代寅次郎展」がシェアされていた。
 大代寅次郎とは、山鹿に生まれ、小中学校の教職に携わるかたわら、山鹿の風景や民俗行事等を水彩画に残し、郷土史家としても活躍した方である。僕は以前、大代さんの心に残る山鹿の明治、大正、昭和の風景を描いた画集「水絵にのこす山鹿」(熊日新聞社刊)を見て感動した。今回の展覧会にもぜひ行ってみたいと思っている。僕が特に好きな絵2枚を大代さんの説明文とともに掲載してみた。

▼菊池川筋 大舟橋場近し
 山鹿に集積された肥後米は、大橋際の米出し場から舟に積まれ、川を下り、高瀬から海路大阪へ運ばれた。菊池川は今日では想像もできない舟運の往還であった。帰りには黒砂糖や昆布などが積まれて、人力で山鹿まで遡行された。三つの瀬を越え大橋も近づくと自然掛声もはずんでくる。さんざめく橋の出迎えの人波には、妻子の顔も見えたに違いない。



▼山鹿ちんこ芝居(少女歌舞伎)
 大正のはじめ、木の香も新しい八千代座の人気芝居の一つに少女歌舞伎があった。人々はこれを「ちんこ芝居」と呼んだ。森峯吉一座の久丸、みどりという可憐な美女スターにあこがれて、町の若い衆がせっせと楽屋通いをしたという。舞台にはまだ電灯はなく、カーバイトの鼻をつくにおいがます席まで充満していた。




肥後のちんこ芝居の伝統を受け継ぐ舞踊団花童

二つの谷汲観音像

2020-01-19 21:18:58 | 美術
 先日、肥後銀行本店「肥後の里山ギャラリー」で行われている「熊本の水と緑の風景展Ⅴ 大阿蘇 ―阿蘇を見つめた熊本の画家たち―」を観に行った。帰りにギャラリー受付で、各地で行われている展覧会のチラシを数枚もらった。それらのチラシの中にとても興味深い展覧会があった。それは、現在、大阪歴史博物館で行われている「押絵『西国三十三所観音霊験記』と生人形」展だった。これらの押絵は明治時代に熊本の女性3人によって制作されたもので、現在は熊本県益城町が所蔵する文化財。この押絵のもとになったのは、熊本出身の生人形師、松本喜三郎の代表作「西国三十三所観音霊験記」。明治時代に東京の浅草、大阪の千日前などで見世物興行され、大人気を博したもの。
 この松本喜三郎の「西国三十三所観音霊験記」の中でも最高傑作といわれているのが「第三十三番美濃谷汲山華厳寺」に登場する谷汲観音。現在、熊本市の浄国寺に残されており、僕はこれまで7、8回は拝観に行った。この生人形と押絵の谷汲観音とを一度見比べてみたい。熊本でもぜひ押絵の展覧会を開催していただきたいものだ。


押絵の谷汲観音像



浄国寺に残る生人形の谷汲観音像

清正公の修羅道

2020-01-18 20:18:59 | 歴史
 家族に付き添い、7、8年ぶりに国立病院熊本を訪れた。待機時間を利用して現在駐車場となっている一帯を久しぶりに歩いてみた。病院正面に向かって右側の小高い丘に看護学校が建っている。ここに看護学校が建設される前、遺跡発掘が行われたが、一度現場を見学に来たことがある。この発掘現場から加藤清正による熊本城築城時、石材などを運んだとみられる修羅道が発見された。現在病院が立つ高台の下をかつて白川が流れており、浸食崖が形成されていた。白川の舟運を利用して運ばれてきた建設資材は、この辺りのどこかで陸揚げされ、浸食崖を切り開いて修羅道が造られたとみられる。牛馬あるいは人力で修羅道に乗った石材等は一路茶臼山に向かって運ばれたのだろう。そんな昔に思いを馳せながらしばらく散策した。


清正の熊本城築城当時、現在の桜の馬場は白川が流れており、舟運により建設資材を運んだ。


この看護学校の辺りを、材木や石を運搬する修羅道が通っていた。


看護学校建設前、くっきりと残る修羅道の跡。写真の下側


熊本城築城前、白川は大蛇行しており、近津(熊本市西区)辺りの石切場から切り出した石材を、
海から白川を遡上して水上運搬し、今の熊本城竹の丸辺りで荷揚げ、茶臼山へ修羅で引き上げたの
ではないか。(富田紘一氏談)



香川県小豆島土庄町に再現された、大坂城築城時、清正らが石を切出し運搬した修羅

ザ・ビートルズ  Eight Days A Week

2020-01-16 19:06:53 | 音楽芸能
 今日のプレミアムシネマ(BSP)は「ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK」だった。2016年にロン・ハワード監督が製作したドキュメンタリーで、1963年から1966年にかけての3年余り世界を駆けめぐったビートルズのコンサート・ツアーをまとめたもの。
 僕はビートルズが特に好きだったというわけではないが、ちょうど高校を卒業して上京し、大学生活を始めた頃の時代背景を思い出す映像と音楽が懐かしかった。当時は音楽はもっぱらラジオで、毎日FEN(Far East Network)を聴いていたが、彼らの音楽がよくかかった。このドキュメンタリー映画のモチーフとなっている「EIGHT DAYS A WEEK」は彼らのナンバーの中で一番好きな曲で、「♪Ain't got nothing but love, girl Eight days a week.」というフレーズをよく口ずさんでいたことを憶えている。
「愛しかないよ!1週間に8日も」