徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

没後10年 中村勘三郎

2022-11-30 17:52:11 | 伝統芸能
 明日から早くも師走。今年の一年もあっという間に過ぎ去りそうだ。
 12月5日は十八代目中村勘三郎さんの没後10年。近頃、あらためてその存在が大きかったことを感じる。といってもナマの舞台を見たのは1回しかない。2004年、勘三郎を襲名する前、「五代目中村勘九郎名跡最後の錦秋特別公演」が熊本市民会館で行われた時だった。しかし、勘三郎さんほど、子役時代から大役者となるまで見続けた歌舞伎役者は他にいない。出演された数々の映画やドラマが思い出される。


熊本公演でも演じられた「連獅子」

勘九郎・勘太郎・七之助の親子共演による「連獅子」

 勘三郎さんが残した忘れられない言葉がある。それは常に斬新な視点から歌舞伎に取り組んだ彼の言葉だった。

 「もし、江戸時代にギターやヒップホップがあったら、間違いなく歌舞伎に取り入れているよ。歌舞伎ってそういうものなんだよ」

 大正11年出版の「江戸時代創始期」(西村真次著)という古書に書かれた「歌舞伎踊りの発生」によれば、今日の歌舞伎の原点である出雲阿国が始めたと伝えられる歌舞伎踊りに、既に欧羅巴(ヨーロッパ)の影響が見られると書かれている。
 歌舞伎というのは、「傾き(かぶき)踊り」と呼ばれ、初代中村(猿若)勘三郎が活躍していた草創期から、新しいものを積極的に取り入れる体質があり、そのDNAは今なお受け継がれているということなのだろう。


映画「やじきた道中てれすこ」(2007年)

   ▼テレビドラマの代表作 大河ドラマ「元禄繚乱」(1999年)

阿波の人々の親切にふれた旅(再掲)

2022-11-29 20:11:39 | 日本文化
 昨日に引き続き、何年たっても忘れない記事の第3回。
 14年前の四国旅行の思い出はもう何度も記事にしているが、その中から旅行の7年後に書いた記事を再掲したい。この旅行は、少女詩人海達公子のルーツを訪ねるというのが主な目的だったが、そのほかはほとんどノープラン。家内と二人、思いつくままの気楽な車の旅だった。

旅行を思いつくきっかけとなった「阿波のいただきさん」


 阿波の人々の親切にふれた旅(2015.11.4)

 家内と二人で四国一周ドライブ旅行をしてもう7年過ぎた。この旅行の目的の一つが、天才少女詩人・海達公子のルーツである徳島県美波町を訪ねることだった。どこへどう行けばいいのか皆目見当がつかなかったので、直前に役場に電話をしておたずねしたところ、郷土史研究家の真南卓哉先生という方にアポをとっていただいた。訪問当日、指定された由岐公民館に着くと、真南先生と公民館の担当者の方が資料を準備して待機しておられ、会議室でいろんな興味深い話を聞かせていただいた。どこの馬の骨かわからない僕のために長時間を割いていただいた。その上、後日、準備した資料が不十分だったというお詫びの手紙とともに追加資料まで送っていただいた。
 その時教えていただいたポイントを巡ったのだが、時間が足りず、撮影しそこなった箇所があったので、後日、またまた役場に相談したところ、担当課長のK様がわざわざ現地へ行って撮った写真をメールで送っていただいた。阿波の人々の温かいご親切に一生忘れられない旅となった。

▼由岐駅の郷土資料展示室に展示されていた海人の生活史を示す資料群





 2015年9月5日、東京国立劇場で行われた「第50回本條流三味線 本條會」に出演した舞踊団花童が
「俚奏楽 阿波のうずしお」の中で披露した「阿波踊り」の部分を、同年10月12日の「はつ喜月若 名取披露」(於西光寺)にて再現したもの。

「かっぽれ」が結ぶ縁(再掲)

2022-11-28 20:42:13 | 伝統芸能
 今日は、何年たっても忘れない記事の第2回。
 3年前になりますが、舞踊団花童が踊る「かっぽれ」の映像と音源が静岡県掛川市のお祭りでお役に立ったということがありました。遠く離れた地域との芸能を通じた交流は忘れられない思い出になりました。

「かっぽれ」が結ぶ縁(2019.7.29)

 盆踊りのシーズンになりました。東海地方のある町からこんな依頼が来ました。
-- YouTubeにアップされている舞踊団花童の「かっぽれ」を地区の盆踊りに使いたい。ついては音源を提供いただきたい。--
というものです。ご依頼主は花童の隠れファンのようです。さっそく音源を作成された中村花誠先生にお願いして音源をコピーしていただき、提供することになりました。既にYouTubeの映像を見ながら振りもだいぶ練習されているようです。4年前、細工町の西光寺で行われたはつ喜月若さんの名取披露で撮影した映像が、遠く離れた町の盆踊りでお役に立っていることに不思議な感動を覚えました。

「かっぽれ」が結ぶ縁(その後)(2019.10.17)

 YouTubeにアップされている舞踊団花童の「かっぽれ」を地域の祭りで踊りたいので音源を提供いただきたい、という依頼があったのは7月下旬のことでした。静岡県掛川市のKさんからのご依頼でした。さっそく音源を作成された舞踊団花童の中村花誠先生にお願いして音源をコピーしていただき、Kさん宛て送付したのは8月に入った頃でした。実はその前からYouTubeの映像を見ながら振りの練習を始めておられたようですが、オリジナルの音源が届いてから本格的なグループ練習が始まったようです。「かっぽれ」を披露する本番となる祭りが予定されていたのは10月11・12・13日でしたが、静岡県はちょうど台風19号が通過するコース。祭の開催はおそらく難しいだろうと思っていましたが、なんと踊りを披露する13日には天気に恵まれ、Kさんの伊達方地区の皆さんは3ヶ月にわたり重ねてきた練習の成果を発表できたそうです。その時の映像(下記参照)を拝見しますと、皆さんがよく練習を積まれたことがわかり感動します。こういう形で遠く離れた町との文化交流ができたことは貴重な体験となりました。

《Kさんからのお便り》
 台風19号も通りすぎ、東日本では大きな被害がでていますが静岡県は他県に比べると被害も少なく、11日・12日・13日の三日間のお祭りのうち最終日の13日の踊りを披露するお祭り広場を開催する事ができました。8月から練習を始めて10月までの3ヶ月間本格的な踊りに戸惑い、はじめは皆この踊りの振付を覚えるのに精一杯で曲のスピードに全くついていけませんでした。しかし練習を重ねると少しずつスピードにもついていけるようになり、何とか踊りを踊れるようになりました。今回台風で祭典自体開催が危ぶまれた中、何とか自地区には災害がなっかったので無事に祭典が開催できました。花童さんには及びませんが地区民で精精一杯踊りましたYouTubeに動画をアップロードしたので見てください。今回は本当にありがとうございました。

   ▼縁を結んだ映像
2015年10月、細工町の西光寺で行われたはつ喜月若さんの名取披露における「かっぽれ」

静岡県掛川市伊達方地区の皆さんによる「かっぽれ」練習の成果

黄菊の香り 寄り添えて

2022-11-27 19:16:56 | 日本文化
 そろそろ紅葉の見ごろも終わりかなと思い細川刑部邸に行ってみた。10日ほど前に訪れた時よりも紅葉が進んだ木の一方、既にほとんど落葉した木もありちょっぴり寂しさも感じた。
 長屋門前の肥後菊花壇で、先日はまだあまり開いていなかった「春興殿」という名の黄色い菊が目についた。京都御所の中に「春興殿」という殿舎があるらしいがこの花名の由来がそれなのかどうかは知らない。
 長唄「菊」の「御守殿」の段の一節「黄菊の香り 寄り添えて」という詞章が妙に耳に残っている。肥後菊「春興殿」を眺めているとなぜかその詞章が浮かんできた。「御守殿」というのはもともと徳川将軍家の娘が御三家などに嫁入りした時の呼び名らしいが、この長唄では、武家に行儀見習いに行った大店の娘たちのことを歌っているらしい。可憐な中にも気品を感じさせる「春興殿」はその詞章にピッタリなのかもしれない。


肥後菊「春興殿」



西日本屈指の荒祭り 「裸坊祭」

2022-11-26 21:19:47 | イベント
 昨日は玉名市の梅林天満宮例大祭、そして今日は防府天満宮御神幸祭(裸坊祭)と二日続けて天神さんのお祭りを見ることになった。といっても今日はオンラインライブ配信である。同じく菅公のお祭りながら随分と趣が異なるものだ。

 西日本屈指の荒祭りといわれる防府天満宮の「裸坊祭(はだかぼうまつり)」は千年以上の歴史を有する行事で、大宰府に左遷された菅原道真公が大宰府へ下る途中、勝間の浦に上陸して立ち寄られた際の送迎の古式を伝えたものといわれる。寒空の下、道真公の御霊を乗せた重さ五百㌔の「御網代輿(おあじろこし)」を運ぶ白装束の男衆(裸坊)数千人が「兄弟ワッショイ」のかけ声も勇ましく、勝間の浦の御旅所まで練り歩く。
 僕が防府に勤務していた45年前に、ブリヂストン防府工場として初めて裸坊祭に参加し、事務局として数十人分の用品の準備をしたことなどを懐かしく思い出す。また、御神幸の際、御網代輿を乗せる台車の木製の車輪や神社の石段や路面を傷つけないよう、現在は車輪のトレッド部分を、ブリヂストン熊本工場製のゴムクローラ(農機具用トレッド)で覆っている。そんなご縁もあり、熊本県外の祭りでは最もなじみ深い。
 裸坊の白装束は、縁起物の天神さんの赤い「梅鉢の紋」のスタンプを押してもらう風習がある。いかに多くの梅鉢の紋を押しているかを競い合ったものだ。


御網代輿を運ぶ大車輪


いよいよ御神幸の御発輦


縁起の良い御網代輿に取り付こうと競い合う裸坊たち


梅林天満宮秋季例大祭

2022-11-25 20:58:16 | 伝統芸能
 今日は玉名市の「梅林天満宮例大祭」が行われました。四百年の歴史を持つといわれる「鏑流馬」(熊本県指定重要無形民俗文化財)や、太宰府天満宮の巫女舞や地元の神楽保存会による神楽などが奉納されました。
 今年は妹夫婦の住む地区が節頭区と呼ばれる祭の世話役のため準備が大変だったようです。また、甥は鏑流馬の「仲間(ちゅうげん)」役として他の関係者とともにしきたりの「精進小屋」に入ったり、祭本番では四百㍍の馬場を何往復も駆けなければならなかったりと大変だったようです。


五穀豊穣、万民息災を祈念する天長地久の儀


射手が狙う的の向こうには新幹線が走る


太宰府天満宮の巫女舞


今年は西向きに舞台が設えられ、背景に木葉山に連なる山々が

ワールドカップ随想

2022-11-24 14:11:16 | スポーツ一般
 昨夜の日本vsドイツ戦での日本の逆転勝利で国中が湧き立っているかのようだ。同じように浮かれていてもしょうがないので、ある場面に絞って感じたままを書いてみた。
 それは決勝ゴールとなった浅野選手のゴールシーンである。あのDF板倉選手からの縦パス1本で抜け出した浅野選手がそのままゴールへ結びつけるという、この現代サッカーの時代に何というシンプルなゴールだろうか。しちめんどくさい戦術をあざ笑うかのようなシーンだった。
 このシーンを見ながらある選手を思い出した。それはメキシコ五輪で銅メダルを獲った日本サッカーチームで中盤の名選手だった宮本輝紀さんのことである。彼が所属していた新日本製鐵の日本リーグの試合を見に国立競技場へよく行ったものだが、パスの名手といわれていた宮本選手の縦パスは絶品だった。やわらかいタッチで蹴られたボールは相手ゴールに向かって走り込む味方選手の前でフワリと落ち、逆回転がかかってまるで止まったかのようだった。日本代表の時も釜本邦茂や杉山隆一らにこんなパスをフィードしていた。そんなシーンを髣髴とする昨夜の板倉選手のパスだった。もちろん浅野選手のトラップもうまかったが、おそらくトラップしやすいパスだったのだろう。
 そしてパスを受けた浅野選手はそのままドリブルしてゴールへ突進。名GKノイヤーの脇をかすめてゴールネットに突き刺さった。至近距離でのシュートはGKの顔の横を狙うのは一つのセオリーでもある。僕がやっていた水球も同じなのだが、GKと至近距離でシュートを打つ時はGKの顔の横を狙えと先輩からよく指導を受けたものだ。サッカーも水球もGKはシュートに対して広げた両手を下から上へあげる動作で止めにかかる。従って顔の横に飛んできたボールは間に合わないことが多いのである。昨日のノイヤーの動きを見ても明らかに手が間に合わず顔の横をボールが通過している。
 そんな昔のことも思い出させてくれた昨夜の試合だった。


胸突雁木から紅葉を眺む

2022-11-23 18:02:10 | 熊本
 花園公民館の図書室に本を返却するついでに本妙寺の紅葉を眺めに行った。紅葉、黄葉ともにピークを過ぎたのかそれとも昨夜の雨のせいなのか落葉多し。胸突雁木を登りながらふり返って紅葉を眺めていると、ふと森鴎外の「小倉日記」を思い出した。
 鴎外は小倉の第十二師団軍医部長だった明治32年9月、熊本を訪問し、本妙寺浄池廟に参拝している。この胸突雁木にたどり着くまでの経路や、参道に物乞いやハンセン病患者が多かったことなどを記している。また、大本堂が改修工事中だったことや胸突雁木には三つの道があり、自分は真ん中を通ったことなどが書かれている。登り着いた浄池廟は「香花極めて盛なり」と記されている。鴎外先生、感じるところ多かった参拝だったに違いない。


胸突雁木から本妙寺・大本堂前を眺む

熊本城復旧 15年遅れるんだってよ!

2022-11-22 18:25:10 | 熊本
 熊本地震で被災した熊本城の復旧完了時期が当初の計画から15年遅れ、2052年度になるとの見通しが大西熊本市長からアナウンスされた。なんと完了は今から30年後ということになった。理由は石垣の復旧に想定以上の時間がかかることが判明したからだという。
 そこで疑問。そもそも当初の復旧見通しが甘すぎやしませんか?という点。復旧完了というのは石垣の最後の1個の積み直しが終わる時点である。国重文の制約の中で、今から15年後の2037年に完了というのは難しいのではないかと随分前から思っていた。熊本城域の崩落した石垣を見て回ったら多くの人がそう思うのではないだろうか。
 文句を言ってもしょうがないが、これで生きているうちに復旧が完了する夢は完全に潰え去った。


玉名女子 今年もW金賞!& 笑ってコラえて!に再び登場!

2022-11-21 18:31:21 | テレビ
 昨日、 大阪城ホールで行われた第35回全日本マーチングコンテスト・高等学校以上の部において熊本県の玉名女子高等学校吹奏楽部が金賞を受賞しました。10月に行われた全日本吹奏楽コンクールでの金賞と合せて今年もW金賞という素晴らしい成績を収めました。おめでとうございます!





 また、今週水曜日(23日)放送の「笑ってコラえて!音楽祭!吹奏楽の旅2022」(日テレ系:午後7時より)には玉名女子高が再び登場します。ぜひお楽しみに!

茶室「仰松軒」の内部を鑑賞

2022-11-20 19:37:13 | 日本文化
 所用のついでに泰勝寺跡(立田自然公園)を覗いてみた。ラッキーなことに茶室「仰松軒」が月イチの生け花教室のため開放されていた。ふだんは雨戸が閉められており、なかなか茶室の内部を見ることは出来ない。今日も含め、これまで3回、茶室内部を見る機会があった。前回は3年前、茶事が行われていた時。さらにその8年ほど前は茶室の清掃が行われていた時だった。
 生け花の先生が観光客に丁寧な茶室の説明をしておられたのでしばらくそれを聞いた後、先生としばし茶室談議に花を咲かせた。

「仰松軒」は立田自然公園内にある茶室。もと京都の天龍寺塔頭真乗院に建てられていた細川三斎(忠興)好みのものを大正12年(1923)に復元したもの。茶室の平面は四畳台目(よじょうだいめ)で、茅葺き屋根の前面に土間庇を付け、東の隅に刀掛けが作られている。上り口は入り込んだ土間の奥にある。向かって右手の口を入ると客座になり、正面の口から入ると点前座になる。このように土間によって、客座と点前座が区別されているところに三斎独自の工夫がうかがわれる。(熊本県大百科事典より)






歌枕「鼓ヶ滝」

2022-11-19 20:32:34 | 文芸
 今日、所用で玉名市の母の実家へ行った帰り、いつものように河内川に沿って山越えの道を選んだ。途中、鼓ヶ滝を見降ろしてひと休みしながら、平安時代の女流歌人、檜垣が詠んだとも伝えられる歌を思い出した。

   音にきくつゝみか瀧をうちみれは たゝ山川のなるにそ有ける

「檜垣嫗集」に載せられたこの歌は、実は肥後國司でもあった清原元輔がこの地を訪れた時、一人の法師がこの滝を見て詠んだとして「拾遺和歌集」にも掲載されているが真相はわからない。

 能に「鼓の滝」を主題とした「鼓滝」という作品があり、世阿弥作とも言われるが、摂津国有馬が舞台となっている。その中に古歌として「津の国の鼓の滝をうちみればただ山川のなるにぞありける」という歌が登場し、和歌にも詠まれた名所だという設定になっているが、この歌の元となったのは、「拾遺和歌集」などにも収録されている肥後国の鼓ヶ滝を詠んだ前述の歌と言われている。つまり平安時代に肥後の名所だった鼓ヶ滝を詠んだ歌を借りて、中世に有名な温泉場だった有馬に舞台を置き換えたものだそうだ。
 もし、能「鼓滝」が本当に世阿弥作ならば、能「檜垣」を構想した時、「檜垣嫗集」もしくは「拾遺和歌集」の鼓ヶ滝の歌から別の物語を発想した可能性がある。そんなことを妄想しながらひと時を過ごした。

 滝の南側には「歌詠場」があるという案内板が立っているが、今まで入れる状態ではなかった。できるだけ早く整備してもらいたいものだ。


「鼓ヶ滝」。能「檜垣」の舞台となった岩戸観音とは近い距離にある。

肥後菊

2022-11-18 18:00:00 | 日本文化
 今日から紅葉時期の旧細川刑部邸一部公開が始まりさっそく見に行った。まずは紅葉状況を確認するためには昼間見なければ話にならない。ライトアップで綺麗に見えても昼見たらガッカリなんてことがよくある。紅葉は見ごろまでもう少しといった状況。
 毎年、この時期に長屋門前で肥後菊の展示も行われている。熊本地震前までは竹の丸の肥後菊花壇をよく見に行ったものだが、地震後入れなくなっているのが残念。


肥後菊


 今から約240年余前、宝暦年間(1751~1760)に当時の肥後藩主細川重賢(細川家8代)が、藩民の精神教育と品性の向上を図る目的で栽培を奨励したことに始まります。
 肥後菊は、花壇に直植えし、その仕立て方には独特なものがあります。後列に丈の高い大輪、中列に中間の高さの中輪、前列に小輪を配し、花壇全体の調和美を鑑賞するものです。
 このほか花色を紅、白、黄の三色を基調に、平弁と管弁とを交互に植える等の規則があります。
 花期は11月中旬から12月上旬で肥後菊は嵯峨、伊勢ぎくに並び、日本古典ぎくの代表とされています。(展示説明板より)


異母姉(再掲)

2022-11-17 22:47:42 | ファミリー
 gooブログを始めて約18年、投稿記事数は5000本を超えていると思われるが、その中には何年たっても忘れない記事が何本かある。たまにはそんな記事を再掲してみたいと思う。今日は2013年11月29日の「異母姉」。

 母には一人の異母姉がいた。母がその人の存在を知ったのは高等女学校に上がってからだという。祖父が若い頃、一度結婚に失敗し、子供までもうけていたことに母は少なからぬショックを受けたらしい。僕にとっては伯母にあたるその人がどういう家庭でどんな風に育ったのか母は今でもよく知らないという。その人が母を突然訪ねて来たのは、お互いに嫁いだ後のことである。その人は自分の異母妹や異母弟のことをずっと気にかけていたらしい。戦後間もない、食べる物もろくにない頃、その人はわが家を突然訪ねて来た。母はその人を家に入れなかった。それは姑(僕の祖母)が士族の家に育った厳格な人だったこともあるだろう。しかし、そのことは伯母にとって終生心の傷として残っていたという。実は伯母の嫁ぎ先は裕福な家だった。食うや食わずの生活をしているであろう妹を心配し、少しでも援助してやりたいとの思いからやって来たのだった。伯母の家は二本木で遊郭を経営していた。母と伯母とのわだかまりが氷解した後、何度か二本木を訪ねて行った。行く度に当時はなかなか食べられないようなご馳走でもてなされ、衣類などの提供を受けた。まだ幼かった僕も遊郭の座敷にちょこんと座って待っていたことを憶えている。現金なもので、厳格だった僕の祖母も何の抵抗もなく二本木について行くようになった。昭和33年の売春防止法施行後、伯母の家は解体業などに商売替えをし成功した。その後も伯母を訪問する度に母が手ぶらで帰ることはなかった。伯母が病に倒れてから母はよく見舞いに行った。伯母はしゃべれなくなっていたが、母の顔を見ると涙を流して喜んだ。その伯母も昨年亡くなり、今は古町のある寺の一角に眠っている。


After You've Gone(君去りし後)

2022-11-16 19:47:38 | 音楽芸能
 相変わらず、毎日一度は田村麻紀子さんのクラリネット演奏を聴いている。これまでYouTubeで30曲近く聴いたと思うが、今のところ一番好きな曲が「After You've Gone」だ。緩急の付け方がたまらない。
 そもそもこの「After You've Gone」とはどんな曲なのか調べてみた。1918年にマリオン・ハリスというアメリカの女性歌手が初めてリリースしたポップスとあった。歌詞を読んでみると、ただただ恋人が去った後の寂しさや悲しみを切々と謳い上げているようだ。
 この1918年(大正7年)という年は、第一次世界大戦が終わりに近づきつつあったが、アメリカはこのヨーロッパの戦争に参戦し12万人を超える戦死者を出していた。この歌にはそんな時代背景が影響していたのかもしれない。その後、この曲は数多の歌手や演奏者によってカバーされ、ジャズにポップスにロックにとアレンジされた。

        ▼マリオン・ハリスのオリジナルバージョン


   ▼田村麻紀子 Lead "P Time Selection"