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ブログを使用しての種々の論考

詩368 雑感12

2012年08月07日 09時47分50秒 | 政治論
 かつて70年代頃所謂政治的な「過激派」というと、純粋理念追及の結論としての暴力革命としてリアルに国家転覆を図る行為の実践グループと目されてきた、と思われる。
 蒼ざめた馬のような「テロリズム」の醒めきった一人一殺メカニズムとは異なり、そこには多少の「過剰な温熱」を表出する風情があったらしい。ところが時の権力者にしてみれば、この手合いはどうみても己の勢力基盤を損ねる可能性を持つ、どういうわけか厄介な「庶民の味方」なのであった。
 そして「過激派」は正義の味方になりながら(この場合当然ながら政府は悪なのだ)同時に「悪霊」の世界を演出してみせたことになっている。それは「内ゲバ」と称された集団リンチだが、言わばどこの集合体にも必ずありうる、人間性の一断面の、極端な閉鎖的条件に基づく化学反応とでもいうしかない不可避の悲劇には違いないのであり、もしこの悲劇を解消しようというなら、あらゆる自己批判が不可能になるだろうと、一応は言える(自己と他者を差別しないとすれば)。
 現今「脱原発デモ」と称して、ほぼ不作為に繰り広げられている市民行動は、自発的自生、自然発生に近い集団であり、そこに一定の画然たる主導的運動理論はないものと理解する。
 この現象の対象は、大震災・大津波・原発事故に対する政府の対応や消費税の増税、あるいはオスプレイ配備容認姿勢など、市民の代表たる国会議員たちの執る非市民的国政そのものであり、その意味は旧態然たる「官僚主導」と化けた現政権に「政治主導」の意志を喚起させんという止み難い情念の発露ということになろう。
 野田首相が原発再稼働是認主義者なのは、8月6日広島で発した「原発0%時の課題検証指示」にも表れているが、これを市民デモの一定の成果ととるか、は今後の政府の対応に注目するしかないとして、恐らくは結局一時のそれらしい「フリ」ということになるわけだ。
 官僚の事務的機械的ニヒリズムに対抗し、これを粉砕し市民感覚を政治感覚上に取り返すには、「大虚」というニヒリズムの理論的構築になる「小虚」の包括以外はあるまい。
 しかし三島由紀夫のその現実的表出は「天皇」であった。これを、彼のあの憤死的絶望的自死から、ひとつの限界の表出とみることもできるが、実は意外に根深い問題性を孕んでいる。
 あの戦争に関し「現人神」の時にあってさえ天皇親政でなく、祭りの神輿もしくは「事後承諾」による嫌々ながらの決済という実質であったと、史料的には読めるが、一方、天皇という一人格が、その恵まれた環境と待遇によって見事に絶対的善良ともいうべき人間性を形成したと仮定して、神がかりというのでなく、現実に彼が果たしてあの軍部の暴走を食い止め、また対米開戦を回避し、2つの原爆から市民を守護し得たであろうかという考証は、現に象徴天皇として確実に存在する現今天皇制においては必須の課題として残っている。
 市民の対極(その出自から生育環境含め)としての天皇を見据えることで、間接民主主義の、露わになった弊害、国家があるいは政府が例えばオスプレイを拒否し得ない安保条約の破棄や、原発の有り得ない再稼働を断念させることや、消費税増税に関する熟議の可能性を探ることなど、一般市民コンセンサスを担保するバランスシートとして機能せしめることはできないか。
 2大政党制とは二律背反的効果のためにあるのであり、この場合対極する二つのアイデアideaの熟議的止揚が政治成果であるはずだ。大虚は革命である。簡単な話、「官僚主導」を「政治主導」に変更することであり、維新藩閥政府以来連綿としてあった官僚国家実質を根っこから断ち切ることでしかこの国は出直せない。しかも「出直し」であり新生ではない。(中断)