また一人、カワサキファクトリーレース活動の中枢を長く背負い続けた人材がカワサキを去る。
カワサキがモトクロスやロードレース界で低迷していた時代から圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期の輝かしい時代を構築したひとり。'73年にカワサキに入社し、学士ワークスライダーとして活躍、その後車体設計、ライダーコーチ、ワークス監督等を40有余年、モトクロスに関与した期間は20数年、その後ロードレース運営や監督として20数年、最近はアジアロードレース選手権にカワサキを始めて参戦させ、アジアロードレース選手権のチャンピオンを獲得し、アジアにおけるカワサキのプレゼンスを更に高めた功労者でもある。これで、「カワサキレーシングチーム」の1つの歴史が終わったのかもしれない。そんな圧倒的プレゼンスを発揮したカワサキの安井隆志さんがこの8月で引退する予定だ。互いに苦労を背負って戦った昔のごく親しい仲間が集まって、昔を懐かしみ、次のカワサキに期待しつつ、去る17日、懇親の夕べを持った。
ところで、本ブログでは安井さんに関する記事を過去投稿してきた。
その一部を再投稿してみようと思う。
★「
仲間」
安井さんが学士セニアライダーとして全日本モトクロス選手権に参戦した当時のマシンと本人(右)そしてマシン担当の和田さん(左)。
「安井君は、モトクロスの学士ワークスライダーとしてカワサキマシンでレース参戦し、その後、川重に入社した。 入社後一貫してモトクロスやロードレースの開発/レース運営の中枢で活動し、カワサキレースの歴史を実体験した数少ない貴重な人材である。 カワサキが世界のトップを邁進していた時代や他社の後塵を浴びていた時代をともに経験し、つまりカワサキの欠点を最も熟知している。 逆にいえば、どのような戦略そして組織にすればカワサキが勝てるかを肌で知った経験者だ。 世界のモトクロスフレームの基本となった、「ぺりメータフレーム」の開発責任者でもあり、優れた設計者でもある。 現在、ぺりメータフレームは世界のモトクロスマシンフレームの標準設計仕様となっている」
「カワサキが米人Brad Lackeyと契約し世界モトクロス選手権参戦時、入社後間もない時期に、Lackeyの派遣技術者として大変な苦労を経験し、 レースにおける支援体制の重要性、本社の役割のあり方を経験した。 マシンの設計者でありながら、カワサキレーシングチームの監督として全日本選手権を駆け回るソフト活動も上手に展開した」
「’73カワサキワークスライダー安井隆志選手」
元カワサキモトクロスワークスライダーで旧友の立脇さんが懐かしい写真を公開していた。それには説明書きがこう添えてあった。
「『瞬間@1973』、1973年はカワサキにとって、とってもレアな一年でした。
この年のデビュー戦、カワサキファクトリーチームは伝統の赤タンクで登場。
しかし、シーズン半ばになると今や誰もが知っているライムグリーンにカラーチェンジするという大変革の年となりました。
さて、この赤ゼッケン28番のライダーさんはどなたでしょう? ハンマーサスは憧れでした!
さて今年は、モトクロッサーKXシリーズ誕生40周年の記念すべき年。
オーナーの方も、そうじゃない方も、これからオーナーになりたい方も、みんなでお祝いしましょう!」
KXが40周年となったので、昔の仲間が発起人となって、当時を懐かしみ次の世代に幸多かれと、’73当時の担当者から現役まで有志に呼び掛けている。そのコアになるのがワークス活動だが、‘73年のワークスライダーと言えば、竹沢正治、川崎利広の契約ライダーに加え、もう一人社員ワークスライダーとして安井隆志選手の三人だった。
★モトクロスフレームの新しい世界基準「
「KAWASAKI DIRT CHRONICLES」:ペリメータフレーム」
「当時、MXの開発リーダを務めた安井さん:KAWASAKI DIRT CHRONICLES」
「KAWASAKI DIRT CHRONICLES」における安井さん談より転用。
「カワサキにはディスクブレーキやユニトラックサスペンションなど、画期的なメカニズムを他社に先駆けて導入してきた実績もあり、 今度は常識を覆すようなフレームを作りたいと考えていました。モトクロッサーの車体の進化を振り返ってみると、1960年代には150mmだったサスペンションストロークが、 '70年代には250mm、'80年代には300mmを超えるようになり、長さに応じた剛性を得るためにフロントフォークの倒立化が進んでいたことが背景にありました。 自ずと倒立フォークの太いアウターを受け止めるフレームにも高剛性化が求められ、既存のシングルバックボーン構造の鉄フレームに取って代わる何かを探していたのです。 骨格をツインチューブにすれば、将来的に燃料タンクとエアボックスの位置を逆転させ、キャブレターをダウンドラフトにすることも可能だと考えていました」
「
RACERS vol26 KXペリメータフレーム特集 (その1)」
『
編集者曰く”かっこいいKX”はどの様に開発され、そしてその性能、戦闘力の高さを如何に証明してきたのか』
「ペリメータフレームは'90年モデルKX125と250に始めて量産車として採用されたが、その前年1989年、全日本モトクロス選手権で、カワサキワークスチームは ペリメータフレームをワークスマシンに採用した。それはMXレースマシンとしての戦闘力を確認するためだが、岡部、花田、長沼の3ワークスライダー用に搭載した。 既に、次年度の量産適用を前提としていたので、是が非でもチャンピオンを獲得し戦闘力の高さを証明する必要もあった。当年のモトクロス選手権は前半125cc6戦、 後半250cc6戦としてそれぞれにチャンピオンを競うものだったが、'85、'87、'88年の125ccチャンピオンの岡部選手にペリメータフレームの勝利を託した。岡部選手の評価では「ペリメータフレームの特性は直進性に優れるがコーナリングに改良の余地あり」で、キャスター角等の変更でレース可能レベルまで改良された。 更に良い点として「ペリメータフレームの優れた特性としてライディングポションに圧倒的優位性がある」と評価される一方、重量がやや重く125ccのエンジンでは 非力さを感じるとの評価もあったと記述されている。残念ながら125ccクラスのチャンピオン獲得はできなかったが、後半250ccではパワーも十分にあったので ペリメータフレームの特性を見事に発揮しチャンピオンを獲得、そしてカワサキは全日本250ccクラスで13年ぶりにクラスタイトルを獲得することになるが、 同時にペリメータフレームの優秀性が実戦で始めて認知された瞬間だ。」
『
カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期に何をしたのか』
「その後2年間、カワサキは善戦するも全日本チャンピオンを取れず、組織がこのままずるずると勝つ事の意味を忘れてしまう事を恐れた。 と言うのは 竹沢選手がカワサキで250チャンピオンになったのは1976年、次のチャンピオン獲得は125の岡部選手の1985年、その間の9年間、カワサキはチャンピオンから遠ざかる。 この9年間、勝ちたいと言う思いとは裏腹に思いを集大成して勝ちに繋げる意思はやや貧弱で、加えてこれを別に不思議と思わない環境にあった。 その後、 岡部選手が4年間チャンピオンを獲得し、組織は勝ち方を覚え、勝つことの意義を確認することができる時期にあったが、岡部選手に続く若手ライダーが育っておらず、 このままでは、以前の9年間に戻ること、つまり暗黒の数年を過ごさざるを得ない危機感があった。これは一度でもチャンピオンを維持し続けたチームだけが持つ 何とも言い難い焦燥感であった。何としても勝ちたい。そこで熟慮した結論は外人ライダーとの契約だった。全日本選手権に外人ライダーを出場させるのは、 別にカワサキが最初ではない。カワサキが外人ライダーと契約した理由はJEFF Chicken”MATIASEVICH・・・懐かしい写真!に述べている。
カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期だったからこそ、カワサキはモトクロス市場のリーディングカンパニーとして 行動を起こすべきと判断した。まず第1に勝てる事、次に高いレベルでマシン開発ができる事、そして競争させることで日本選手の技量を向上させ全日本選手権を 活性化させること等である。ただ、懸念された事は勝つためだけにアメリカンを走らせたと単純に捉えられてしまわないとか言うことだが、結果的にそれは杞憂だった」
★「
’97年「KAZE」vol.84 鈴鹿8耐特集から ・・・」
「'97鈴鹿8耐、戦況をみる現場責任者の安井さん」
「ロードレース運営にも深く関与し、93年からモトクロス開発陣がロードレース運営や開発も統合して見ることになった時期以来、 ロードレース活動の中心人物でもあり続け、鈴鹿8耐でカワサキが初優勝し、その後もカワサキが8耐の表彰台を守り続けた時代の現場責任者でもある。 カワサキが世界のレース界で最も輝いていた時代を含めて、中心にいた人物だ。 このような人物がカワサキにいて活躍したからこそ、カワサキレースの歴史が守り続けられたと思う」
モトクロスの主任設計やレース監督の絶頂期、請われてロードレース担当となった。
ちょうどロードレースが低迷していた時期だったが、その後ロードレースが技術部に再復帰した際、この時の経験はロードレース復活に大いに役立ったようだ。鈴鹿8耐をロードレース活動の第一に位置づけ、そのための全日本選手権でもあり世界選手権だった。8耐に照準を当てて年間のテスト計画を立案、3か月ごとに見直す等、小まめに計画を周知徹底することで鈴鹿8耐に向けてベクトルを合わせることに一番苦心してきたのは安井さんの業績。その結果、それまで遠い8耐表彰台を表彰台の常連に引きよせたのも安井さんの功績だろう。鈴鹿8耐が近ずくと、同部に所属したモトクロス班はロードレース班に合流し鈴鹿に直行して安井さんの指示に従った。モトクロスもロードレースも寝食を共にして戦う唯一の場が鈴鹿8耐だった。 安井さんは常にその中心にいた。
とかくレースと言うと「結果は」という側面ばかりが目につくが、実際はマシンのハード開発とレース運営を融合させて結果に結び付けるソフト活動が両立しないと巧く機能しない。しかし口で言うのは簡単だが、総員80数名の8耐要員を同じ方向に進めるには、確かな人望がないと皆付いてこない。学士ワークスライダーを経験し有能な設計者としても能力発揮、多くのライダーを指導してチャンピオンを獲得させた監督という経験があるからこそ、皆は協力したのだろうと思っている。後にも先にもこんな人材をカワサキに見たことはないし、これからも出てこないように思う。