野々池周辺散策

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RACERS vol26 KXペリメータフレーム特集 (その1)

2014-04-25 06:30:53 | 二輪事業
  「RACERS vol26」
「RACERS vol26 」誌を読んでみた。調べてみたら2011年8月24日の「RACERS」ブログに、同誌がカワサキの世界耐久マシンを取材した際、撮影場所にあったKXのチャンピオンマシンをみた編集長が何時かは「RACERS」誌にカワサキKXを特集したいと書いてあった。それには「KX、カッコイイなぁ。売れなくったっていい、いつしか必ず『レーサーズ』で特集します。」とある。あれから2年と半年経過して「KX」が「RACERS」誌に特集された。編集長が惹かれたのはKXのフレーム、その後の世界のモトクロッサーフレームの基本骨格となった、"KXのペリメータフレーム"だった。そこで、「RACERS」誌がKXのペリメータフレーム開発に挑んだ人間模様を如何様に掘り下げて記事にするのか楽しみに読み進みながら、思い出した事を書いてみた。

★「編集長がKXペリメータフレーム開発物語を取り上げた理由」
巻頭言で、編集長はペリメータフレームを採用したカワサキKX125デザインの”圧倒的かっこよさ”を「RACERS」特集に選んだ理由として述べている。かつ、他社比較車と対比しながらKXを絶賛し、この”圧倒的かっこよさ”が多くのユーザーを引き付け、例えば当時カワサキKXの最大の競争相手だった、ホンダの技術者でさえ、ホンダのモトクロッサーではなくKXを買ったと書いてある。その理由とは”KXが格好良いから”だったという。それまでのモトクロスフレームとは一線を引いた、言わばモトクロッサーのフレームとはこれだと言う既成概念を一掃してしまう”かっこよさ”がKXにはあった。そのことがホンダの技術者のみならず多くのモトクロスユーザーに注目されたとある。(余談になるが、現役当時、20数年以上前の事だが、アメリカのデイトナかゲインズビルからかの帰国時、ある中継空港で一人便を待っていたら、 カワサキを退職したデザイナーMと偶然あった。ホンダのデザインルームで仕事をしているとのこと。彼はカワサキ在籍時、KXのデザインを担当していたので 非常に親しくしていたが、その彼が言うに、その時たまたま防寒用に羽織っていた革製の米国カワサキレースチームのジャケットをくれという。 ホンダのデザイナーが何故カワサキレーシングのジャケットが欲しいのかと聞くと、曰く「ホンダには隠れカワサキファンが多く、隠れカワサキファンの 会合時,皆に自慢したい」とのことで、帰国後名詞にあった場所に送ったことがある。この時初めて他社の隠れカワサキファンの存在を知った)

★「編集者曰く”かっこいいKX”はどの様に開発され、そしてその性能、戦闘力の高さを如何に証明してきたのか」
ペリメータフレームは'90年モデルKX125と250に始めて量産車として採用されたが、その前年1989年、全日本モトクロス選手権で、カワサキワークスチームはペリメータフレームをワークスマシンに採用した。それはMXレースマシンとしての戦闘力を確認するためだが、岡部、花田、長沼の3ワークスライダー用に搭載した。既に、次年度の量産適用を前提としていたので、是が非でもチャンピオンを獲得し戦闘力の高さを証明する必要もあった。当年のモトクロス選手権は前半125cc6戦、後半250cc6戦としてそれぞれにチャンピオンを競うものだったが、'85、'87、'88年の125ccチャンピオンの岡部選手にペリメータフレームの勝利を託した。岡部選手の評価では「ペリメータフレームの特性は直進性に優れるがコーナリングに改良の余地あり」で、キャスター角等の変更でレース可能レベルまで改良された。更に良い点として「ペリメータフレームの優れた特性としてライディングポションに圧倒的優位性がある」と評価される一方、重量がやや重く125ccのエンジンでは非力さを感じるとの評価もあったと記述されている。残念ながら125ccクラスのチャンピオン獲得はできなかったが、後半250ccではパワーも十分にあったのでペリメータフレームの特性を見事に発揮しチャンピオンを獲得、そしてカワサキは全日本250ccクラスで13年ぶりにクラスタイトルを獲得することになるが、同時にペリメータフレームの優秀性が実戦で始めて認知された瞬間だ。

追加して言えば、今もそうだが、全日本モトクロス選手権には「米国AMAにある、レースマシンは量産車ベースである事」という規則はない。安全の基本事項を満足すれば如何なる仕様でもレース出場可能だ。開発機能を日本に集約していることもあって、当時の日本各社は各社が考える最強マシンを全日本に出場させ、夫々の技術力を誇示していた。従って、各社の考える最高技術の集大成であったモトクロッサーが参加する全日本で勝てるマシンであれば、次年度の量産車として販売しても十分な戦闘力があるマシンと考えられ、結果、開発中のマシンは量産可と説明していたので、全日本レースは落としたくなかった。


★「カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期に何をしたのか」
その後2年間、カワサキは善戦するも全日本チャンピオンを取れず、組織がこのままずるずると勝つ事の意味を忘れてしまう事を恐れた。と言うのは竹沢選手がカワサキで250チャンピオンになったのは1976年、次のチャンピオン獲得は125の岡部選手の1985年、その間の9年間、カワサキはチャンピオンから遠ざかる。この9年間、勝ちたいと言う思いとは裏腹に思いを集大成して勝ちに繋げる意思はやや貧弱で、加えてこれを別に不思議と思わない環境にあった。 その後、岡部選手が4年間チャンピオンを獲得し、組織は勝ち方を覚え、勝つことの意義を確認することができる時期にあったが、岡部選手に続く若手ライダーが育っておらず、このままでは、以前の9年間に戻ること、つまり暗黒の数年を過ごさざるを得ない危機感があった。これは一度でもチャンピオンを維持し続けたチームだけが持つ何とも言い難い焦燥感であった。何としても勝ちたい。そこで熟慮した結論は外人ライダーとの契約だった。全日本選手権に外人ライダーを出場させるのは、別にカワサキが最初ではない。カワサキが外人ライダーと契約した理由はJEFF “Chicken”MATIASEVICH・・・懐かしい写真!に述べている。

カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期だったからこそ、カワサキはモトクロス市場のリーディングカンパニーとして行動を起こすべきと判断した。まず第1に勝てる事、次に高いレベルでマシン開発ができる事、そして競争させることで日本選手の技量を向上させ全日本選手権を活性化させること等である。ただ、懸念された事は勝つためだけにアメリカンを走らせたと単純に捉えられてしまわないとか言うことだが、結果的にそれは杞憂だった。

     カワサキの全日本モトクロス参戦史の中に、アメリカンライダーを起用した時期は、'92~'94年のEddie Warren、'95~'97年のJeff Matiasevichの二名だが、その時期のカワサキの活躍は「RACERS vol26」誌に詳しく書かれている。カワサキKXマシンの事業性が確立し、かつ勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出した時期だ。全日本選手権にアメリカンライダーを採用する是非についての異論は甘んじて受けるが、しかし、これを機に日本人ライダーの技量は確実にUPし、レースも活性化たことは事実で、更に言えば、Eddie Warrenが全日本選手権から引退する最終戦の菅生で、当時のホンダファクトリー東福寺選手が全ライダを代表してEddieに感謝の挨拶をしてくれたことで、カワサキの選択が正解だったことが結果的に証明された。菅生での出来事は予期せぬ事だっただけに感無量の思いがした。また、上記「JEFF “Chicken”MATIASEVICH・・・懐かしい写真!」には、当の Matiasevichが日本でレース参戦していた頃の思い出が綴られている。そこには、彼らは彼らなりに一生懸命レースに没頭していた事、全日本のレース参戦は思い出に残る最高の時期だったと述べている。

一方、全日本選手権は日本人に勝たせるべきだと言う意見もあるらしいと聞いたことがある。が、4月18日の「ダートスポーツ」FB の『砂煙の追憶』には、当時カワサキのワークスライダーで外人ライダーを抑えて何度も肉薄した走りをした、榎本正則選手が含蓄ある発言をしている。それには「彼らにしてみれば全日本で走るのは出稼ぎだったかもしれないが、彼らが思っている以上に結果として多くのものを残してくれたはず。受け継がずに過去のものにするのは、あまりにももったいない。育つものも育たない」と。あれから17年、当時EddieやJeffと共に全日本を戦ったライダーからカワサキの真の意図を改めて聞かされるとは思いもしなかったが、ライダー側からみてもカワサキの決断は正しかったと言うことだろう。別の観点から言えば、憂慮すべきは、毎年開催される「Motocross of Nations(国別モトクロス大会)」でのこと、かって世界の10番前後だったものが、最近では予選通過もままならない全日本の選手、そしてカワサキもまた全日本の最高クラスチャンピオンから遠ざかって久しい現実だということだろう。そう考えると榎本選手の言葉は重い。

いずれにしても、'89~'97年の9年間でカワサキは5度の250ccクラスチャンピオンを獲得し、その間ペリメータフレームと言う全く新しいフレームを搭載したKXが各社が誇る最強マシンが切磋琢磨する全日本で勝ち続けたことは、ペリメータの優秀性を示す証左だ。
また、この事実がオフロードの最大市場である米国でもカワサキモトクロス躍進の原動力へと波及していくことになる。
     「'92年Team Kawasaki USA」
    「向かって左から Jeff Matiasevich、Mike LaRocco、Jeff Ward、Mike Kiedrowski」
本文では、欧州のS・トーテリや米国のR・カーマイクル(RacerXが選ぶ全米史上最高ライダー)達がペリメータフレームKXで大活躍した時代を解説しているが、それより前の時代、'90年代初期におけるKMC(アメリカカワサキ)が誇る「kawasaki MX racing team」の実績抜きに本当のカワサキペリメータは語れない。

**その2に続く**
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