野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

雲仙普賢岳のビール瓶

2017-09-02 06:31:40 | 故郷
昨日(8月31日)のNHKで、「山の頂上になぜ?追跡!ビールを使った極秘作戦」を放送していた。阪神:ヤクルト戦からたまたまチャンネルを合わせると、普賢岳がでて、ここに戦時中のビール瓶が残っていたと言う。阪神どころではないと、その後は戦時中のビール瓶の経緯を見ていた。

NHKの案内を読むと、「長崎・雲仙市で、活火山の雲仙普賢岳上でビール瓶が見つかったという。山頂に到着、岩陰でビール瓶の破片を発見。これらの瓶は第二次世界大戦の頃に作られたものだという。聞けば、この山頂には戦時中に日本陸軍の施設があったという。アメリカ軍の爆撃機を探知するためレーダー基地が設置され、山頂にアンテナ、中腹に兵舎を築き、100人あまりの部隊が駐屯、この部隊がビールを飲んでいたのではという。日本陸軍でビールの関係を探るため防衛省 防衛研究所へ。戦時中にビールが各地に送られた記録を続々と発見した。中には大量のビールが国内のみならず国外へ送られたという記録もあった。(略)このあと、ビールを武器に!?日本陸軍のマル秘作戦が判明。(略)柳楽林市さんに日本陸軍がビール瓶を何に使ったかを聞くと、火炎瓶として敵に投げたという。敵の戦車の一台が突っ込んできた時、負傷兵を介抱していた衛生兵が無意識に消毒用のアルコール瓶を戦車に投げたら、投げた途端に戦車が燃え上がり、その後火炎瓶が広く使われるようになる。(略)ところが、日本陸軍はその後も効果が薄れたはずのビール火炎瓶を使い続けていた。さらに軍では正式に火炎瓶を作っていたという。ノモンハン事件の教訓が活かされず、とにかく戦わなきゃと戦いを強要したのが日本軍だという。沖縄で日本兵と民間人150人がアメリカ軍を迎え撃って戦死した豪で火炎瓶が見つかったという。沖縄戦で家族を亡くした国吉勇さんは、豪で亡くなった人を弔うため遺骨や遺留品を収集してきた。使われることなく原型を留めたビール火炎瓶があった。効果がないとわかっていても、それが活かされない。脳科学的に、1回成功したという情報をみんなが共有し共鳴してしまうと、新しい情報が入ってきても排除してしまう。思い込みでも大勢で共有すること信じてしまうと澤口俊之が話した」とあった。

  本件、気になったのでネット検索すると、「戦時中、普賢岳山頂に極秘レーダー基地 軍人飲んだ? ビール瓶次々 長崎県」と言う記事が西日本新聞にあった。西日本新聞は田舎で読んでいた新聞なので愛着があるが、戦時中飲んだビール瓶が発見されたのは、今年の1月らしい。

私は、戦後の長崎県島原(当時は村)生まれなので、年少時上空を進駐軍のP-38ライトニングが飛ぶ時代を過ごし、雲仙岳の高射砲設置跡(と聞いた)を中学の遠足で教えられた。その現場に足を運んだのは一度ぐらいしか記憶がないので確かではなかったが、調べると、こんなブログ雲仙普賢岳陸軍電探基地があった。「第二次世界大戦中、雲仙はその山岳地形により重要な役割を担うために軍により接収されていた。なかでも、一個中隊程度(200名~300名)の情報通信部隊(監視隊か?)が普賢岳周辺に配置されていた。普賢岳頂上に偵察用電波塔が建設され、その近くに情報を受信する見張り台があり、兵舎は仁田峠にあった。もちろん、当時これらはすべて国家機密であったらしい」と。また、こんな記録「 戦争遺跡・遺構 」もある。高射砲が設置されていたとする記録は見つけられなかったが、無防備な電波塔だけが設置されるはずもないので、高射砲があったのかもしれない。

今回のNHKの主題(山の頂上になぜ?追跡!ビール)は普賢岳のレーダーではなく戦時中のビール瓶の使われ方だが、対ソ戦車攻撃で成功したビール瓶の火炎瓶も戦車に防護柵が設けられたのちは火炎瓶の効果は無くなったにも係らずビール火炎瓶を使い続け、とにかく戦わなきゃと戦いを強要したのが日本軍だと言う事実だ。成功体験が、効果なしとする意見を排除してしまう、戦時中、日本軍中枢にあったとされる精神論や情緒優先論は、前回見たNHKの「インパール戦」とよく似て、極めて悲しい出来事だと思う。

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女房の帰省土産

2017-07-19 06:22:09 | 故郷
連休中、女房は故郷人吉に帰ってきた。
帰省の一番の見応えはと聞くと「曽木の滝」だそうだ。人吉では聞いたことのない名前だったので尋ねると、鹿児島の伊佐市にある滝。人吉から車で鹿児島方面に降りていくと、そんなに時間は掛からないらしい。何せ、この滝が見事で甚く気に入ったらしくブログに載せろと言う。
 「曽木の滝:じゃらんネット」
今回は携帯も忘れデジカメも忘れ、写真を撮ってこなかったと言うので「じゃらんネット」から写真を借りた。
戦国時代の誰それがこの滝を見に来たと言うので、ウキペディアで調べると「島津攻めの帰路、大口筋にて肥後へ向かう途次に豊臣秀吉もその雄大な景観を楽しんだと言われる名瀑。 高さ12m、滝の幅は210mと広く、「東洋のナイアガラ」と称されている・・・」とある。北米のナイアガラなどテレビでしか見たことはないが、何となく風景は似ていると言えなくもない。なにせ、大規模で、見応え充分の滝だそうで、豊臣秀吉や柳原白蓮も訪れたという石碑もあると言う。だけど、実際見たこともないので、多分すごいんだろうなと思いながら、貰ってきた観光案内のパンフレットを眺めた。

それはさておき、種分けが分からず封を開けたままの大きな段ボールに詰め込んで送られてきた人吉土産のなかで、一番は球磨焼酎の「繊月」。神戸周辺では芋や麦焼酎がメインで、中々米焼酎は手に入らず、ましてや米焼酎の本場「球磨焼酎」など、この辺の店頭では見た事がない。鹿児島、宮崎、大分の焼酎はどこでも手に入るが、焼酎の旨さ加減は慣れ親しんだ米焼酎が個人的には一番だと思っているものの、近場で買えない以上、その旨さを説明のしようもなく勿体ない、と何時も思う。更に言えば、「球磨焼酎」と言う地名を冠することを認められている世界的に数少ないブランド酒でありながら、気軽に買えないとなると希少感はあるも日頃の生活にはない。それは良いとしても久し振りに米焼酎が飲める。また、焼酎のミ二ボトルを貰った。現役の頃の欧州出張で、オランダのKLM航空を利用すると陶器入りの甘いリキュール酒をくれた。そのリキュールは半分飲んで半分は封したままの小瓶を、今も出窓に飾っている。今度の焼酎ミニ瓶はパソコンの傍に置くことにして、毎日眺めることにしよう。
     「焼酎のミニボトル」
珍しいお菓子と言えば「黒糖ドーナッツ棒」で、黒棒は好物なのでさっそく食べてみたが、この辺でも売られている黒棒に比べて素直な甘さがあって旨い、これは幾らでも食べれる。他にも「あんたがたどこさ」という豆菓子ほか多数あり。いずれも”くまもん”が付いている珍しい土産のお菓子ばかり。なかでも絶品と思ったのは自家製のラッキョ漬けで、適度な酸っぱさにメリハリもあり旨い。
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錦町

2016-11-19 06:11:17 | 故郷
女房のふるさと、人吉の錦町。錦町役場をフェイスブックの”お気に入り”に登録しているので、日々情報ははよくわかる。
女房は用事があって故郷の錦町に帰省し、先日、神戸に戻ってきたが、つい先日の「錦町役場のフェイスブック」に、
女房の実家から車で5分も掛からない距離にある寺院、「新宮寺」が紹介されていた。ぜひ、当ブログに載せろと言うので投稿。
このお寺は人吉・相良三十三観音札所の一つで、お堂には六観音が祭ってあり、錦町一の紅葉の名所、と聞いた。

「錦町随一の紅葉の名所 『新宮寺』の大銀杏が色づき始めています!
 見頃は今週末から来週前半と思われます。
 ぜひ、足をお運びください!」
  
                  「錦町役場 FB」
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人吉土産

2016-11-11 06:19:45 | 故郷
女房が11月の連休を利用して人吉へ帰郷していた。
その前に、JRおでかけネットの「スーパー早特キップ」なる安いチケットの発売を2週間前からと勘違いして、
まだ時間的に余裕があるからと予約せず放置し、そろそろだとJRのHPをみると、何と予約期間は1ヶ月前から2週間前までとあった。
予約開始日と終了日を勘違いして覚えていた。あわてて、JRを予約すると運が良いと言うか、少し時間をずらすと、空いている。
しかも博多での乗り換えなしの鹿児島行きだから至って便利な早得切符を予約出来た。今度は帰りの切符を予約しようと、念のため
スカイマークのHPを覗いてみると、だいぶ前とは運行時間が大きく変わっている。最安の「いま得」切符は残念ながら売り切れていたが、
前得切符を取れた。以前の神戸⇔鹿児島は4便だったが2便になって希望時間のフライト便が無くなり不便に感じたが、改善された。
こんな事だったら、スカイマークの方がJRの早得切符より安く且つ早くて快適なので、行き帰りもスカイマークにすれば良かった。
日頃の行いの悪さを悲観してみたが、それでも、これでだいぶ節約できた。熊本駅まで迎えに来てくれるし、鹿児島空港まではすぐそば
を通っている高速に乗れば人吉からそんなに時間はかからなったそうだ。

こちら神戸は肌寒かったが、人吉は暖かく過ごし易い天候だったそうで、のんびりできたと言っていた。
久し振りなので人吉市内を回ってみると、人吉駅にSL列車と「ワンピース列車」が停車している。「ワンピース列車」とは、
漫画「ワンピース」の作者が熊本出身だそうで、その人気漫画キャラクターが列車側面に書いてある。
 

女房の実家から少し離れたところに球磨川が流れているが、その球磨川に流れ込む支流に川辺川がある。
一時、川辺川にダムを建造するとかで、地元では賛否が大きく分かれ大混乱した川だが、ダム建設はいまだ着工されず景観は守られている。
夏でも流れる水は冷たく長く手を付けられないほどだが、川辺川はアユの漁場としても名高く、九州各地からと言わずアユ釣りが多いので有名。
 

土産物もたくさんもらって、小さな段ボール箱一個が帰りは大きな段ボール2個に変わった。
熊本でしか入手できない球磨焼酎「繊月」、米焼酎など関西ではなかなか手に入らないので大事に飲むことにしよう。
その他にも、「馬刺しの佃煮」は珍しい。「豆腐の味噌漬け」「豆腐のスモークチーズ」もまた珍しい。
「熊本のふりかけ」なるご飯の友も素直に旨い。孫のたっての願いだった「朝鮮飴」も何十年ぶりに食べてみたが、
片栗粉だらけで、食べるとそこいら中に片栗粉が飛び散るが、昔から味も何にも変わらない。「朝鮮飴」は清正が朝鮮出兵時持参し、
その後製法も門外不出だったそうだが、今は誰でも食べられる。九州土産の定番の「ひよこ饅頭」も「鶴乃子」も昔と変わらず旨い。
 
焼酎と言えば、色々な種類の焼酎を飲んできたが、飲んで胃に収まってしまえば特別の感はなく皆一緒で酔ってしまう。
が、口に含んだ時の味は、原料によって少しだけだが違いは分かる。米焼酎はイモ焼酎同様に匂いがきついとよく言われ家族は敬遠するが、
(とは言っても長年焼酎を飲み続けている当方には、他人が言うほど匂いはきつくないし、むしろほとんど匂わない)、むしろ匂いが強い方が
味もまた良し。日頃飲んでいる麦焼酎に比べ米焼酎の「繊月」は匂いも少々ありきつめだが、その分味も良い。良いものを貰った。
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バクモン 「熊本城」

2016-09-16 06:26:33 | 故郷
  「NHK バクモン 熊本城」
14日、NHK地上波「探検バクモン」が熊本城の今を取り上げていたので、しっかりと見た。
NHKバクモンの出だしは、「4月の大地震で築城400年最大の被害を受けた名城・熊本城。壮大な石垣は50か所が崩落し、立入規制が続く。 復興へ歩み始めた“不屈の城”の今を、爆笑問題が目撃する。爆笑問題が、地震の被害で立ち入り規制中の熊本城へ。 築城400年最大の被害をまのあたりにする。城の代名詞ともいえる壮大な石垣は、50か所が崩落。国の重要文化財13棟も、すべてが被害を受けた。 これまで、地震や風水害にあいながらも、そのつど復興を成し遂げてきた熊本城。今また、少なくとも20年と見込まれる修復の出発点に立っている。 復興のシンボルとして歩み始めた“不屈の城”、そのリアルな今を目撃する」
  
  
  
4月、熊本の大地震で熊本市内外はもちろん、その中枢に位置し熊本の象徴ともいえる熊本城も大被害を受けた。
熊本城は阿蘇と並ぶ熊本の2大シンボルだが、その熊本城のしゃちほこと屋根瓦が落下し、阿蘇の国宝阿蘇神社も崩壊、地震に伴い熊本城域を閉鎖した。一方、熊本城で地震で倒壊しなかった部分の一つに、建物と石垣ともに築城当時の宇土櫓はほぼ無傷のようだ。明治期、西南戦争で天守を含む御殿など主要な建物は焼失(放火らしい)したが、焼失を免れ、当時の姿を残している唯一の建築物「宇土櫓」は400年以上前に建設されたもの。で、今回バクモンの熊本場内の様子を見ると、熊本城そのものの象徴であり、かつ熊本城の熊本城たるを示してきた石垣が軒並み崩壊している。(個人的に各地の城郭数十ヵ所見学してきたが、熊本城が最も優れた城たるに値すると思っている。何故か、熊本城は西南戦争で西郷の猛攻に耐え落ちなかった)

バクモンが放送された前日、同じNHKのクローズアップ現代「名城はなぜ崩れたのか 謎のメカニズムに迫る」が放送された。

その中で、熊本城の石垣が崩壊した推定原因を城郭研究の権威者奈良大学の千田教授がこのように解説している。「石垣というのは、栗石の部分が揺れを吸収する。日本のお城の石垣というのは、「下の石」の上に「上の石」を積んでいくだけで、固めていないんです。ですから、非常に柔らかい、いわゆる「柔構造」の形を取っていて、揺れても少しずつ石垣がわずかに変形して、全体としては大崩れしないという、地震が避けられない地震国の日本に適した石垣を発達させてきましたから、その象徴というのか、最も高い技術に到達した熊本城の石垣が、これほど崩れてしまったというのは大変なショックでありました。(調査行った立場からしても、まさかという?)例えば、一方のヨーロッパの石垣でいうと、石と石との間にモルタルなどを詰めていまして、全体を固めてしまう「剛構造」の石垣でしたから。そういうので見ていきますと、日本の地震に備えた、あれだけの石垣が崩れてしまったっのは大変なことだと思います。また、熊本城の石垣については、清正の石垣は大丈夫だったけれども、それ以外の石垣が壊れたんだというお話もよく聞くんですが、実際、現地を調査してみると、すべての時代の石垣が被害を受けていて、結局、日本のいろいろな耐震の工夫をしていた石垣が耐えられないほどの非常に大きな地震だった、石垣の限界を超えていたと思います」

話は変わって、熊本市は古くから「水の都」とも呼ばれ、水環境に恵まれた都市で、好きな街だ。
政令都市に認定された都市の中で、上水道に使う水の全てを地下水でまかなっているのは全国でも珍しく、湧き水も多い。豊富な水のお陰もあって、熊本市内には緑に囲まれた素晴らしい風景が何処にも見られ、目を洗うほどに奇麗な街なので気にいっている。昔から学生に寛容で多少の事は大目に見てくれる土地柄で、また軍都でもあり、軍所属の車両がメイン通りを通過することも普通にある。

阿蘇を源流とする白川が街の中心を流れる熊本市、市内を蛇行しながら流れる白川には多くの橋が掛かる。加藤清正公の時代から、白川と熊本城を囲む坪井川は治水工事が続けられてきた。国道3号線が通る橋である「長六橋」は建造当時木造で、西南戦争のときは薩摩軍がこの橋を渡り侵攻してきた歴史的な橋。熊本を代表する橋で、今はコンクリート桁橋となっているが、何度も通った。

最近、政令都市になったので、中央区とか北区とかに呼ばれてもピンとこないが、黒髪町とか竜田口と言った方がすぐに場所を特定し易い。旧制五高のあった、熊本大学法学部の裏に昔住んでいて、法学部と工学部の間に阿蘇までに続く57号線が走っている。工学部の裏手すぐに白川が蛇行しながら流れていて、今は白川黒髪緑地となっている場所には草ぼうぼうの空き地があったが堤防の記憶が無い。普段の白川は清流で、竜田口付近で良く釣りをした。紅サシでハヤが良く釣れた。川の中には大きな石がごろごろしていた事を記憶しているが、多分昔の洪水の名残だと思う。しかし、川辺は一面緑で爽やかな気分で過ごせる良い環境である。で、白川と平行して流れる、の周りを流れる坪井川沿いの長塀も崩れているが、坪井川と言えば、遠い昔の事だが、この川に魚が沢山いたので釣り糸を垂らしていると、川魚は一匹もつれなかったが、多くの見物人が集まったのを思いだした。

思いだしついでに、熊本大学から龍田山までに中腹に今話題の「真田丸」に出てくる細川忠興、その妻ガラシャの墓がある。
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ローカル線気まぐれ下車の旅 ”島原鉄道”

2016-02-24 06:20:14 | 故郷
  月曜日の楽しみ、「吉田類の酒場放浪記」がコマーシャルになった時間に、他にチャンネルを合わせると、
BS放送で「聞きこみ!ローカル線気まぐれ下車の旅 島原鉄道」を同じ時間帯に放送していた。で、早速、故郷の島原鉄道を見続けた。たしか以前にも同じ番組で島原鉄道の旅が放送されていたはずだが、今回は旅する俳優さんが異なるようだ。見たのは神代駅から多比良駅に場面が変わり、ディーゼル車が多比良駅に停車する場面からで、この辺りに良く捕れる「多比良がね(タイラガネ)」の紹介があった。
 
非常に旨いので私の好物の一つで、中学生のころは浜で普通に捕って食べていたが、もう30数年前から値段が高くなったと聞いた。「多比良がね」は一種の「ガザミ」と呼ばれるワタリガニのことだが、カニ味噌が一杯詰まって美味い。島原から約20分ぐらい北にある、サッカーで有名な国見高校の「国見町」付近は、昔、多比良町と呼ばれていた。多分、この辺で多く取れたので「多比良がね」と呼ばれているのかなと思っている。夏場に、国見町近辺にいくと「多比良がね」の看板を掲げた料理屋が目につく。カニみそが一杯詰まって美味しく、足先まで身が詰まっていた。昔、遠浅を利用して潮が引いた後の干潟に石組みを築き、次の大潮のときに石組を崩すと、「多比良がね」が巣くっていたので良く獲った。また、大きな石の下に掘った形跡があると、そこには「多比良がね」がいる。その穴に手を突っ込み親指を噛ませて引き出す。噛ませた親指は真っ白に色が変わる程に痛いが「多比良がね」が一匹獲れる、と言う思い出が「多比良がね」にはある。ちなみに、この地方では「カニ」のことを「ガネ」と呼ぶ。

  「黄色の島原鉄道列車」
長崎本線諫早駅から島原半島の島原外港まで走る島原鉄道で、半島の有明海沿いに走る私鉄の単線。
諫早から島原に向かう道中、左手に有明海の遠浅がすぐ目の前に見え、右手が田んぼや畑で、こんな風景が諫早から島原まで続く。島原鉄道は一度倒産し規模を縮小して運営されていると聞いたが、神戸空港から長崎経由や新幹線利用でも、諫早で一度下車し、島原行の、このディーゼル車に乗る。乗客のほとんどは高校生で、爽快に走る鉄道ではなく、ガタゴトと車体を揺らしながらゆっくりと走り、ディーゼル車らしく音も賑やかで、半島の経済力を反映している。テレビの旅番組に取り上げられる程だがら、観光客にとっては物珍しい場所なのだろう。忙しい都会人にとっても時間が止まったようでのんびりとしたい場所の一つかもしれぬ。島原鉄道の終着駅は島原外港だが、その一つ前の駅が島原駅で、駅を降りると直ぐ前に島原城が見える。その島原駅のまた一つ前が三会駅で、そこから私の生家は海沿いに歩いて約15分弱。島原城は天守がない時の方がどっしりとした風格があって見栄えがしたなぁーと今でも思っている。天守を造ってから、どこにもある普通の城になった。
   
      

 

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故郷の写真は楽しい・・長崎ランタンフェスティバル

2016-02-19 06:16:45 | 故郷
今、長崎では、中国の旧正月を祝う行事「春節」に合わせて「長崎ランタンフェスティバル」が開催されている。
FB「Nagasaki365」には、「長崎ランタンフェスティバル」の写真がたくさん投稿されているので、興味深く眺めている。
案内によると、「長崎新地中華街をはじめ、湊公園、中央公園、眼鏡橋周辺、浜市・観光通りアーケードなど長崎市内の中心部に
約15,000個にも及ぶ極彩色のランタン(中国提灯)や、大型オブジェが幻想的に飾られ、街を彩ります。
期間中は毎日各会場で、龍踊り、中国雑技、二胡演奏など中国色豊かなイベントが繰り広げられます」とあった。
この期間中、100万の見物客が長崎を訪れるそうだ。
  「Nagasaki365」
      

私の故郷は長崎県の島原だが、島原と長崎間の真ん中に雲仙普賢岳を挟んでいるので、昔の島原ではテレビの長崎放送は受信できず、
もっぱら熊本放送を見ていた。熊本放送は金峰山にアンテナ基地があり、そこから障害物のない有明海を通じて熊本放送は奇麗に受信できる。
だから、長崎より熊本事情の方が良く知っていたが、長崎市内に親戚がいたので度々訪れていた。
それで長崎と言えば、昔からある有名な伝統的行事「長崎くんち」と「精霊流し」は良く知っているが、
「ランタンフェスティバル」は1994年より長崎市全体でのイベントになったので歴史はまだ浅くよく知らない。
しかし、最近では「くんち」より「ランタンフェスティバル」の方がよく知られているそうで、この季節になるとFBの「Nagasaki365」に
投稿される豪華で奇麗なランタンの写真を眺めながら、これが今の長崎の主流イベントかと懐かしく感じ入っている。
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NHKBS 「英雄たちの選択:激突!島原の乱」の再放送

2015-12-26 06:20:58 | 故郷
2015年12月24日のNHKBS「英雄たちの選択」では「激突!島原の乱 天草四郎vs.松平信綱」を再放送していた。
何度見ても面白いので改めてブログを書こうと思ったが、追加すべき事柄を思いださないので、私も再投稿することにした。


  「NHK 英雄たちの選択」
NHKの番組説明によると、「日本史上最大のキリシタン一揆、島原の乱。今も、原城からは、おびただしい数の人骨が。
 その後の歴史を変えた天草四郎と松平信綱の命がけの対決・島原の乱に迫る。日本史上最大のキリシタン一揆、島原の乱。
 天草四郎のもと蜂起した一揆軍約三万七千人が立て籠もった原城からは、今も、おびただしい数の人骨が。
 幕府側の総指揮官である知恵伊豆こと老中・松平信綱がくりだす数々の奇策とは?信綱の選択肢は、
 キリシタン一揆として根絶やしにするか、あくまで農民一揆と扱い和睦に応じるかであった。
 宗教と政治の対立か?戦国時代の終えんか?幕府の政策を大転換させた島原の乱に迫る」と解説されている。

島原の乱」は関ヶ原の合戦後に発生した未曾有の一揆で、その後の徳川幕府の政策に大きな影響をあたえ、
幕府の執った鎖国政策(鎖国政策是非については多くの異論あり)により、結果的に日本は300有年の平和が続いた。

私は九州を出て、生まれ故郷は島原だと言うと、何故だか天草と混同されることが多く、九州外では島原も天草も一緒にみられているようだった。
実際は、島原は肥前長崎に属し、天草は肥後に属するから全く関係ないけれど、島原の乱発生と同時期、天草地方にもキリシタン一揆が多発し、
これらが一色単にされ「島原・天草の乱」としてまとめられた事で、島原も天草も同じと混同して覚えられていたのかもしれない。
あるいは「島原の乱」の首謀者天草四郎による「天草」の名前の影響があったのだろうが、何れにして島原と天草は言葉も習慣も違う。

番組でも紹介されたように、「島原の乱」後、江戸幕府は「キリシタン禁教令」を発令し、表向きは全面的にキリシタン信仰を否定し
多くの信者を処刑する迫害を行ったが、実際は隠れキリシタンとして生き残っていた。色んな理由をつけて裏では容認していたようだ。
島原地方には、「隠れキリシタン」に纏わる墓は多く存在しており、それは身近にもあった。
例えば、田舎の実家の菩提寺は禅宗曹洞宗の「晴雲寺」だが、ここにもある。
当時、「禁教令」の発令によってキリシタンの捜査や摘発、強制改宗政策が実施され、キリシタンは強制宗門替えを強要されたが、その受け皿の
一つを担当したのが晴雲寺だったらしいと聞いたことがある。だからかどうか別にして、この寺の山門をくぐって右奥に「隠れキリシタンの墓」があり、
裏に回ってみると十字が石に刻んである。法事で寺へ行き度に何度も見たが、今ではガラス箱内に収めてあるそうだ。

もうひとつ、現存していないので記憶の範囲内でしかないが、実家の近くに島原鉄道が走っている。小中学校時、その鉄道傍を歩いて通学していたが、
鉄道沿いに小さい石の地蔵があって、それにも十字が切ってあったと記憶がある。だいぶ前、法事で帰省した際、その話を肴にして兄弟で酒を飲んだが、
鉄道の直ぐ傍に国道が出来た際、無くなってしまったようで、記憶の範囲でしかない。

ところで、島原の乱では一揆軍は37000人、攻める幕府軍は約13万と言われている。あんな狭い所に両軍合わせて約17万人(ウキペディアではそうなっている)
(ちなみに、島原半島の中心、島原市の現在の人口は約4.6万人)が集結したとなると信じがたいが、一揆軍は敗北後全員殺されたので、
その後の島原は実働労働力が不足した。乱制圧後、この地に移住させられたのが四国等からの住民で、移住してきた四国の人たちの食べ物一つに、
ケンミンショーでも紹介された「イギリス」という、今では島原の有名な郷土料理がある。
喰ってもあまり美味し料理では決してないが、遠潮の有明海でとれる海藻を基本に作った料理だ。一度、本ブログでも紹介した事がある。
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沖縄土産

2015-12-11 06:19:14 | 故郷
女房が沖縄旅行から帰ってきた。私への土産は泡盛で「古酒 菊の露」。
泡盛は、記憶では一度だけ飲んだと覚えているが、殆どその味の記憶がない。
沖縄産焼酎ぐらいの見識しかなく楽しみに飲んでみようと思ったが、その前に、
飲み方が良くわからず、泡盛古酒の飲み方なるものを参考にした。
球磨焼酎が猪口を基本にお湯割りが主であるのに対し、沖縄は暑いので水割りがスタンダードとある。
今回の土産「菊の露」は30度の古酒に分類されるもの。泡盛の古酒とは3年以上熟成されたものとあり、
焼酎と同様に寝かせれば寝かせるほどまろやかになるのは同じだそうだ。
            「泡盛 菊の露 V.I.P」
貰ってすぐに、蓋を開けると匂いが少しきつい。もう何十年と焼酎を飲んでいるので、焼酎のもつ独特の臭さには慣れっこになったはずだが
(周りは焼酎を開けると独特の匂いに閉口すると言うが、私は全く臭わない)、そんな鈍感な私でも泡盛は匂い(臭い)が一瞬きつかった。
古酒だから、まずはストレートで飲んでみようと、いつもの焼酎のコップに少しだけ入れて飲んでみるも、40度の球磨焼酎にあったような
濃厚さと言うかねっとり感があまりなく、どちらかと言えばあっさりとした飲み具合がする。これは30度と40度の違いなのかはわからない。
で、何時も飲んでいる25度焼酎と同じようにお湯割りで飲んで見ようと、30度の泡盛をお湯割りしたが、あっさりした飲み味で
焼酎にある甘みを感じない。暫く飲んでみると酔いの回るのが早く感じる。思うに、油っぽい肴をあてに飲むと旨いのかも知れない。

興味ついでに「焼酎と泡盛の違い」というのを調べてみると、泡盛も焼酎も「焼酎乙類」に文類されているので、基本は同じようだ。
しかも球磨焼酎の原材料が日本米で泡盛はタイ米と、米を原料にしているのも似ている。
泡盛と称するには沖縄で生産されたものに限定されるとあり、球磨焼酎が人吉の球磨地方で生産された米焼酎であることと、よく似通っている。
しかし、飲み味は少々異なって、長年の飲み続け見慣れた焼酎の方に自然と手は向いてしまう。


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カステラ

2015-12-04 06:23:07 | 故郷
   「福砂屋のカステラ」
田舎の法事が終わったとのことで、福砂屋のカステラと八女茶セットが送られてきた。ところで、
カステラといえばコマーシャルが浸透したせいか文明堂がカステラ本舗として有名になり、神戸でもどこでも簡単に手に入る。
これはこれで美味しいのだが、長崎県人からすると、長崎カステラの元祖と呼ばれる長崎市の福砂屋のカステラ方が更に上等だと思っている。
カステラそのものは大好きなので、両方とも甲乙付けがたしと言いたいが、しかし、あくまで個人的な主観で言うと、ふくよかで、
ねっとりとした上質感のある味とザラメが美味しいのは福砂屋。故郷での引き出物のカステラは福砂屋製がどちらかと言えば多かった。
福砂屋のカステラを貰えば、田舎では納得するのである。で、福砂屋のカステラの底に付いたザラメは特に旨く、これを最後に舐める。
         「カステラとココア入りの2本セット」

ちなみに、福砂屋のHPには、
「長崎カステラの元祖といわれている。1624年(寛永元年)創業。『カステラ本家』を商標登録している。中国でめでたい動物と言われる蝙蝠を商標とし、
 看板には蝙蝠が使われている。・・・福砂屋のカステラは創業以来手作業による製造を行い、添加物を使用せずに生成している。
 出来上がったカステラは底に角の取れた粗目(ザラメ)糖があり、食べるときに独特の食感を生み出している。長崎カステラといえば、
 東京などでは文明堂が有名になっているが、本場の長崎では、ザラメ入りでしっとりとした福砂屋のカステラを食べるのが、通とされている」と書いてあり、
競争相手の文明堂との比較を書いてあるが、元はと言えば、文明堂(創業1900年)は福砂屋で修行した職人が出て店を作ったものと、
田舎では広く知られているので、今でもカステラと言えば「福砂屋」なのである。

カステラと言えばポルトガル。下記写真は、今年の長崎・諏訪神社の”おくんち”の一場面で、日本の芸者、唐人、南蛮人が舞う。
      
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