野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

なるほど

2011-08-31 10:03:48 | 二輪事業
Yomiuri online に「ヤマハ発、国内専用250cc以上の二輪開発中止」とあった。

 「ヤマハ発動機が、排気量250cc以上の普通・大型二輪の新たな国内専用車の開発を中止したことが26日、分かった。
  国内市場の低迷で、開発コストの回収が難しくなったと判断した。
  250cc以上の国内専用車の開発を打ち切るバイク大手はヤマハ発が初めて。
  今後は国内と欧米向けを共通化して開発・販売する。
  国内で人気の高い「SR400」や「セロー250」など、現行の国内専用車の生産・販売や改良は当面続ける。
  円高で輸出の採算が悪化し、排気量250cc以上の二輪車を生産する本社工場(静岡県磐田市)の10年の生産台数は17万9000台にとどまり、
  採算ラインの20万台を下回ったことから、新たな国内専用車の開発打ち切りを決めた。
  仕向け地別に分かれていた開発体制を一本化し、車種を共通化すれば、開発費の圧縮や、生産設備の効率的な利用が見込めるとしている」
                                                  (2011年8月27日 読売新聞)

一方、ヤマハ(発)の今期上期の国内販売は、台数ベースで昨年の51千台から55千台に増加したが売上ベースでは200億から188億に減少した。
また、二輪売上に占める国内向比率は4.1%、北米比率は4.3%であり、先進国向を集計すると20.4%と報告されている(ヤマハ発HPより)。

昔からのSR400やセローがメインの国内市場を、ヤマハはあえて重要視しないと明言したので、ヤマハロイヤリティの高い販売店の対応は大変だろう。

国内専用車の開発中止の意味は、国内二輪市場が小さいマーケット過ぎないことを改めて証明した事であり、
魅力ある中国、インド、インドネシア、ブラジルを中心に、東南アジアを加えた新興国に軸足を移した事がより明確になった。

ヤマハは国内生産体制の見直し等を含む構造改革に既に着手しており、一台でも多く販売できるマーケットに向けて資源を集中するのだろう。
世界スーパーバイク選手権からの唐突な撤退表明は理解に苦しむ報道であったが、当面の収益確保に苦心している様子は伺える。

そして、2011年連結純利益を確保し配当を再開するのであろう。



なるほど・・・・・。

二輪レースの世界で、ヤマハが過って取った戦法と良く似ているように感じた。


                                                   

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「RACERS」 ブログの中から

2011-08-30 06:27:24 | モータースポーツ
 「RACERS ブログ」に、懐かしいマシンと昔お世話になったメンバーが登場していたので、使わせてもらった。
昔のチャンピオンマシンや仕事を一緒にしたメンバーが写真に採用されることほど嬉しいことはない。
雑誌「RACERS]の次回号は昔のカワサキロードレーサーを取上げる予定とある。

で、「RACERS ブログ」に、徳野政樹さんとのインタビューがほんの少しだけ記述されていた。
カワサキからホンダへ移籍した、元テストライダーの徳野政樹さんがホンダとカワサキの違いを表現している。

それは、こうだ。
『カワサキっていうメーカーは、あらゆる意味でホンダとは対極だー。
 「どこが?」ってことは、次号の『レーサーズ』をご覧ください。
 どっちが良い、悪い、じゃあないですよ! 念のため。
 その辺の話をちょっと徳野さんの言葉で紹介すると、
 「ホンダは論理的、でもカワサキはなんちゅうかね……、
 ま、おもしろいとこやったね(笑)。そこがカワサキのいいところや」って、
 全く説明になってないんですが、何となく理解できます、徳野さん!』

「論理的」の意味についての定説はないが、普通に考えると、「筋道の通った思考」や「分析/総合/比較/等の概念的思考」だと思う。
その対極だから、「情緒的」や「直感的」と一般的に解釈されるのだが。

編集長によると、ホンダは論理的だが、カワサキはその対極にあるという。
通常、企業活動は論理的に行われるものだが。・・・まぁ、雑誌の文脈で解釈するしかないか。

「RACERS]はロードレーサを取上げる雑誌と思っていたが、カワサキのモトクロッサーも取上げてくれるらしい。
KXのチャンピオンマシン特集を出版してくれたら面白い。
これも期待しておこう。




モトクロッサーは、左から'89全日本MXでタイトルを獲った岡部篤史さんのKX250SR、
ゼッケン3番は'96世界MXでタイトルを獲ったセバスチャン・トーテリのKX125SR、
一番右は'01AMAスーパークロスとナショナルのダブルタイトルを獲ったリッキー・カーマイケルのKX250SRです。
KX、カッコイイなぁ。
売れなくったっていい、いつしか必ず『レーサーズ』で特集します。・・(編集者)





カワサキ広報の吉田 誠さんと山内 徹さん。
撮影車両の面倒を見ていただいた太田耕太郎さん(バルカン全般のテストライダーで、なぜかZRX1100を2台持ってる)と
亀山泰昌さん(4輪バギー“TERYX”のテストライダーで、モトクロス国際A級)・・(編集者)



ところで、記念写真の工場服を着用している4人の「カワサキマン」は良く知っている。
何れも元気そうでにこやかな顔つきなので、嬉しいな。 安心した。

吉田誠さんは元チームグリーン(MX)の監督で、チームグリーン組織を本来の姿に戻してくれた功労者だ。
ライダーの信望もあつく、レースで訪れる各地の販売店の印象も良かった。
ワークスのチームカワサキとのコミニケーションも良く取ってくれていたので、信頼できるナイスガイだ。
KAZEも担当していて、当時の苦労話をよくしてくれた。

山内徹さんは元チーフデザイナーで、KXやKDXのデザインも担当してくれた。
オフロード車のデザインポイントを良く理解していたので安心して任せられた。

テストライダーの亀山さんとはATVの開発で一緒だった、国際A級MXライダー。
彼が入社した時から知っている。

テストライダーの太田さんはクルーザ系を担当していた。
矢田部のテストコースでは良く一緒になった。

何れもナイスガイばかりだ。

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たかじんのそこまで言って委員会 (8月28日)

2011-08-29 09:30:22 | その他
麻生&安倍元総理が出演した、8月28日の「たかじんのそこまで言って委員会」は分かり易かった。
「たかじんのそこまで言って委員会」は、時間があるときは観ることにしている。
日曜の同じ時間帯に全日本ロードレース選手権が菅生で開催されていたので、この日はテレビやパソコンを見る時間が多かった。
この番組で、津川雅彦氏が発言した内容は中々のものだ。

「いま素敵な議論をお聞きしていたが、これだけの議論をする価値が民主党にはない。
 テコがテコにならず、瓦礫にしかなっていない。どんな素晴らしい政策も説得力がない限りダメ。
 その説得力の第一の力は何かと言われれば、僕は「人徳」「品格」「気品」だと思う。
 総理がそういうものを持っていることが必要だ」

「例えば、菅が避難所に行って、「あんた、黙って帰るのか」と指を指されて一般の方に怒鳴られていたが、天皇陛下には誰も指をささない。
 これは品、気品が全てを物語るので、そこから出てくる言葉でないと人はもう騙されない。
 だから説得力、徳力、品格を持った総理がまず出てくるべきだと思う」


今の民主党は、60年代末期の全共闘時代を生きた人たちが主流派を占めており、考えている内容や手段も当時と何ら変わっていないようだ。
当時流行った「内ゲバ」の延長上に見える。
市民活動の延長上での政治活動が内閣の主流を占めることには自ずと限界があった。

「一度はやらせてみたら」、と投票した結果がこうだ。
今頃投票したことを悔やんではみても、如何ともしょうがない。
何が正解で、何が問題かを、民主党政権になって良く理解できた。

麻生元総理が言っていた。
「自民党が50年掛って出来なかったことが、民主党は2年でできた。自民党がよかったという事を」

また、元米国国務省のケビン・メアさんが発言している。
「現在の日本政府や官僚は、何も決断できない。
 日本はコンセンサス社会だから、皆の合意がないと物事が決められない。
 指導力の欠如は現代政治の問題で、日本の伝統的文化ではない」


混乱した内情を此処まで露骨に暴露された政府や総理大臣は、過去なかった。
確かに、麻生元総理や安部元総理も批判の対象になってはいたが、民主党ほど見るに堪えないことなかった。
自民党は、もっと情報を発信し丁寧な説明が必要だったのだ。


小泉、竹中路線は色々批判もあるが、日本の景気も回復し株価も上昇した時代だった。
何れにしても、日本の経済力を復活させねばどうしようもあるまい。


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夏の野々池に咲いた花

2011-08-28 06:25:35 | 野々池周辺
8月も終わり頃になると、空の青さがくっきりとしてくる。
野々池貯水池周りをウォーキングしていると、夾竹桃の花は相変わらず咲いているが、その他に花らしいものは見当たらない。
草も少しづつ枯れ始めて、草刈りも始まった。
そこで、野々池貯水池から降りて周辺を歩いてみると、黄色い花とススキの穂を見つけた。
オオハンゴンソウに似ているが、オオハンゴンソウは花の中央の部分が半球状に盛り上がっているのに、この花は盛り上がっていないところが違う。
何の花かな。

周辺の稲穂もズッシリとついているようだ。
幼稚園児が6月に植えていた稲も大きくなった。


  
野々池周辺に降りてみると、黄色い花をみつけた。
野々池側からは見つけること出来ないが、周辺に降りてみて花を見つけた。
青い空の色によく似合う。






すぐ近くにススキの穂もでてきた。
秋が近づいている。



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ハーレーでなければダメなんですか

2011-08-26 06:50:07 | 二輪事業
 「 Harley-Davidson USA HPより」
ハーレーは2006年まで21年間売上を伸ばし続けた。2007年からはアメリカ国内の売上減少によりトータルでの売上は減少しているが、アメリカ本土以外の地域では、売上は依然として堅調に推移しているようだ。今、世界でもっとも収益性の高い二輪メーカはハーレーダビッドソンだ。今期、ホンダ二輪の第一四半期の営業利益率は13.6%、ヤマハ二輪の上期営業利益率は5.1%、スズキ二輪の第一四半期の営業利益率は0.4%で前年度より好転、カワサキの第一四半期の営業利益率は0.5%で前年度よりわずかに悪化、ハーレーダビッドソンの第一四半期の営業利益率は14.2%を確保し前年度より大幅に好転(各社のHPより)。日本各社の収益源が東南アジアに移ったのに対し、ハーレーダビッドソンのすごさは、世界各国で好調で、しかも米国販売台数は前年度比+26%と、まさに先進国での二輪販売はハーレーダビッドソンの一人舞台と言ってよい。

そこで、ハーレー好調理由の一端を、公表されているハーレーダビッドソンの販売戦略やアナリストの分析から探してみた。

『ハーレーダビッドソン米国本社: ミッションステートメント』
 ■私たちは、選ばれたマーケットセグメントの中のモーターサイクリストたちをはじめとする多くの人々に対して、
  ハーレーダビッドソンブランドの名にふさわしい充実したモーターサイクルラインアップと豊富な商品群および
  質の高いサービスを提供してゆくことによって、モーターサイクルライフの充実という夢をかなえてゆきます。
  
『ハーレーダビッドソンジャパン(HDJ)』の販売戦略
 ■ハーレーの3BEAUTIES戦略
  *SMALL IS BEAUTY    
  *SIMPLE IS BEAUTY   
  *DIFFERRENT IS BEAUTY 
 ■ハレーダビッドソン「心」の10の楽しみ
  ◆ハーレーのキャッチフレーズ
  「心」・・・感性へ訴求・顧客視点
  「個」・・・One to One 
  「原点回帰」よりハーレーらしく
  ◆ハーレーダビッドソン「心」の10の楽しみ
  「乗る」・・果てしなき道、冒険への旅立ち
  「出会う」・ハーレーのある所仲間は集う
  「装う」・・自由と誇りを身に付けて
  「創る」・・世界でたった一台の分身
  「愛でる」・私の安らぎ、愛車との語らい
  「知る」・・好きだから、極めたい
  「選ぶ」・・夢を満たす選択
  「競う」・・レースは他人事だった、ハーレーに乗るまでは
  「海外交流」夢は海の向こうまでも
  「満足」・・ハーレーに勝るもの無し
 ■元HDJ代表取締役の奥井さんのコメント
  *我々のやってきたことは極めて常識的なもので、その範囲を超える新奇の発明に類するものも、
   ましてや革命的なものはない。   強調しておきたいのは「まず挑戦ありき」の姿勢をとってきたことは全くないという点。
  *CRM(カスタマーリレーショナルマネジメント)の実現」ということで、「絆づくり」。
  *小さな超一流企業をめざして実践した。
   ・悩んでも仕方のないことを悩まない
   ・比較からモノを考えない
   ・挑まない、同じことをやらない
   ・価格で売らずに価値で売る
   ・経営の原点である顧客満足で勝負する

『ハーレイに関するアナリスト分析』
 ハーレーの成功事例についてのアナリスト達の分析から面白い分析をピックアップしてみた。

 ■ハーレーのとった戦略は結果的には素晴らしい。それでは、なぜ結果的に明確な違いを伴う戦略になってしまったのだろうか。
  高性能を追求した日本車の成功により、伝統的であるハーレー独自のポジションが「創発」されてしまった。
  ハーレー乗りはオートバイに機能や品質の高さを求めたりしない。
  
 ■ハーレーの特異なところは、古すぎるところが帰って新しく、本物なんだよ。

 ■世の中変化しているのだから自社も変化するのが当然で、変化しなければ時代に取り残されてしまう。
  世の中変化しているのだから変化しないことが変化することになる、というのはパラドックスであり「安定の理論」が働くのは
  むしろ例外と考えた方がよい。
  全面的な「安定の理論」が働く会社になるか否かは時代が決めることであり、現時点(その時点)では予測不能。
  成功は意図的に創られることもあるが、、偶然に創られることもある。

 ■米国におけるホンダの成功や、創業1903年のオートバイメーカーの老舗ハーレーダビッドソンの復活は「塞翁が馬」という
  中国の格言を連想させる。
  成功の原因が失敗の原因となり、その失敗の原因が今度は成功の原因となることもあるので企業間競争は予測不能なところがある。

 ■ハーレーは製品だけではなくライフスタイルを売った。売ったのはハーレーのある生活である。
 ■「ライフスタイルを売る」と言う販売戦略はハーレー独自のものではない。
  オリジナルはファッション・ブランドのラルフローレンである。
  ラルフローレンが1960年代後半に世に出て来た時、彼は斬新な販売戦略をとった。
  衣類だけを売るのではなく「ラルフローレンのある生活」を多くの消費者に提示したのである。
  所ジョージも指摘していたがアメリカのブランドは「製品だけではなく背景を売らないと売れない」のである。

 ■50CCの二輪車の市場は縮小しており、これは世界的な潮流である。
  移動手段としての二輪車は、豊かさに伴って4輪車にシフトして行く。
  しかし、ハーレーダビッドソンのある素晴らしい生活、楽しみ方という事を売るライフスタイル・マーケティングであれば、
  市場に大きな可能性がある。

 ■アメリカでそれほどクルーザーが支持されている理由はたくさんある。
  例えば、いまのクルーザーの基本的なデザインは、1920年代にはすでに完成していた。
  Indianやハーレー・ダビッドソンの手による製品群は、第二次世界大戦ごろまで世界的な影響力をもち、多くの模倣を生み出す。
  それから時代は変わっても、現在に至るまで一貫してあのスタイルの製品を提供してきたメーカーがアメリカに常に存在してきた
  こと。それが理由の一つ。
 ■広大な土地柄、地平線まで続く直線道路はめずらしくなく、直線道路を長距離走行するとなれば、クルーザーかツアラーが有利と
  いうことになる。  バイクの機能と国土が適合的というのも、理由の一つ。

 ■より重要なのは、ライフスタイル。
  クルーザー乗りのスタイルは、Tシャツに革ベスト、ジェットヘルにサングラス。
  このスタイルは、1960年代に非合法活動で悪名をとどろかせたバイカー集団Hells Angelsで一般的だったもの。
  時代は変わって、Hells Angelsもほとんど非合法活動をしなくなったが、そのスタイルにまつわるワルっぽいイメージだけは
  今に息づいている。
  さまざまな規制に管理された日常を抜け出し、自由を謳歌したいというとき、このちょいワルなスタイルが一つの手がかりに
  なるということだろう。
  男も女も、クルーザー乗りはみょうに体格がいい。
  マッチョがクルーザーを選ぶのか、クルーザーに乗るためにマッチョになったのか。

 ■非日常として旅を求めるアメリカの心性を指摘しなければならない。
  バイクを使って日常を抜け出すとなかで、特に長距離の旅に出ることに対して、
  「フロンティア・スピリットの実践」「自由を求めての挑戦」といった特有の意味づけがあるようだ。
  そして、アメリカで長旅に出るとなれば、やはりクルーザーかツアラーだ。

 ■ハーレー・ダビッドソンは1981年に再生して以来、さまざまな経営戦略を展開し、つねに好調な販売を維持し続けてきた。
  その手法の一つが、バイクを売るだけでなく、バイクの楽しみ方を紹介するというマーケティング方法。
  バイクを通じて、アメリカのライフスタイルを、そしてアメリカの夢を売る。

 ■「アメリカのバイクといえばクルーザー」という環境を作り上げ、市場を形成し、人々の消費意欲を掻き立てる好循環が成立して
  いる。


 
こうして見ると、ハーレーダビッドソン米国本社の「 ミッションステートメント」の特異点は、「質の高いサービスを提供してゆくことによって、モーターサイクルライフの充実という夢をかなえてゆきます」と、二輪を中心に置いている事ではないだろうか。日本企業の「総花的なミッションスタートメント」に対し、ハーレーは「モーターサイクルライフの充実という夢をかなえる」と明確にしている。しかも、二輪ライフの充実という文言の意味するところは大きいと思う。しかし具体的な戦略となると、HDJの販売戦略は日本メーカ各社が取っている販売戦略と格段に違うところは見当たらない。またHDJが力説している顧客と接点をみても、日本のメーカが取っているものと程度の差はあれ、格段に優れたプログラムではなさそうだ。奥井元社長がコメントしているように、極めて常識的な手法を取っているだけのように思われてくる。例えば、ツイッターのフォロー数をみても、カワサキが6,021人に対しハーレーは490人で圧倒的に少ない事からもわかる。

それでは、何が日本の二輪メーカと違うんだ。

趣味性の高い乗り物は製品単体だけでなく、魅力的な背景から売らないと駄目だと言う事ぐらいは誰でもわかる。
特に日本は非常に成熟した二輪マーケットであり、もはや単なるブランドでは売れない事ぐらいもわかる。
日本の二輪企業は「ブランド・アイデンティティ」と言うのが非常に曖昧である。
日本車と言うのは性能を追求することが至上命題であり、常に新しい機構を採用することで進化を遂げてきたからである。
伝統を守ることよりも技術革新に重きを置いていた。

この事が、ハーレーダビッドソンとの対比においての、絶対的な差異なんだろう。
ハーレーはハーレーが持っている背景に大きな要素があるのだろう。

今も昔もハーレーこそ強いアメリカ、豊かなアメリカの象徴なのである。
今のハーレーは決して低性能ではないがその性能もテクノロジーではなくアメ車と同じように大排気量にモノを言わせている感は否めない。テクノロジーや信頼性、経済性や費用対効果に関しては当然、日本製のオートバイには叶わなかった。日本の二輪メーカーもハーレーの市場に食い込むべく80年代からアメリカンVツインのオートバイを続々投入したが、日本製アメリカンが如何にその完成度が高かろうと安かろうと「本物」ではなかったし、また、日本製アメリカンはオートバイのスタイルを売ることはできてもハーレーのもつアメリカの背景や泥臭い匂いまでは売ることはできなかった。ハーレーにはアメリカの歴史や強大なアメリカの背景があるが、シャドウやドラッグスター等に大きな背景はなかった。繰り返しになるが、ハーレーには「本物の匂いがする」が、シャドウやドラッグスターには「本物の匂いがしない」と、ユーザーが嗅ぎ分けたのだろう。

もうひとつ考えてみた。
それは、「ハーレーは無法者ライダーから、歳をとりつつある社会的地位にあるRich Urban Bikerにターゲットを変えた」とある。無頼者達の象徴的存在として、ハーレー本体の意図とは裏腹に不逞の薫りをもつバイカーカルチャーをハーレーは上手く利用した。アウトロー達に歩み寄った。Rich Urban Bikerのもつ心の奥に入り込んだ。そして、更に多くの真のアウトローやエセバイカー達を惹きつけていく戦略をとったのではないか。それは、大きく力強いというハーレー特有のマシンをもって休日に仲間が集うシーンを造りだし、強いアメリカの象徴であるマッチョ的な魅力を惹きつけていく。アメリカ煙草メーカB&Wの「ラッキーストライク」のイメージそのものだ。

以前のブログで、佐藤優はアメリカを「西部劇の保安官とドラエモンのジャイン」と表現したが、強いアメリカの象徴とアウトローへの憧れの二面性をもつハーレーは、アメリカそのものだろう。人間の本質にある今の自分と変りたい欲望、それを上手にできる手段をハーレーはもっていた。アメリカでのハーレー顧客の多くは保守的なユーザーが多いことも頷ける。つまり、ハーレーには「バットマン」と「ジョーカー」が混在しているのではないか。少なくとも、明るい感を漂わす日本のアメリカンVツインには、それを感じることが出来ない。

経営講座に良く活用されるHDJの戦略がよかったのではなく、ハーレーが持つ独特の背景を上手く活用しただけなんだと思えてくる。


「2012 Harley-Davidson 」



「ブランドの必然性」、これが求められている。
これに明確な答えが出せなかったら、景気が悪くなった日本や欧米では二輪など売れないかもしれない。

日本は技術志向の強い二輪を生産・開発するのが得意だ。
されば、景気回復が遅れている世界状況の中では、技術志向の強いバイクにブランドの必然性を構築していかないと、
早晩、欧米においては日本製二輪は凋落の道をたどることになる。
二輪は、自動車と同じ様な、安全性、静粛性や快適性、あるいは燃費等の追求しても限界がある。
確かに排ガス規制や騒音規制の施行によって馬力やスピードなど絶対性能の追求は難しくなった。

先進国ではもはや多くのユーザーは絶対性能の追及を望んでいないのかもしれないし、
最低限の性能があれば、スタイリングでありテイストであり経済性を求めていると言う声もあるが、果して本当だろうか。
そして歴史或るメーカーは自社のオリジナリティつまりブランド・アイデンティティを大切にしている。
これがないと他社の製品と差異化が図れないからである。

されば、日本の二輪メーカが得意とする技術志向を前面に押し出す事をブランド・アイデンティティとするのであれば、
もっと強烈なパワーを叩き出す性能をもった二輪車を世に問う必要がある・・・BMWやAudiのように。
あるいは、技術志向を最も具現化した二輪に「本物」の烙印を押せる背景を造成したらよい。
次の時代には、危険な不逞の薫りをもつバイカーカルチャーをもった二輪を市場は求めているという前提が必要だが。

一方、ヤマハやホンダは、欧米の景気が悪くなると、新興国へ販売のシフトを移し資源を投入し開発と販売を強化した。
変り身の軽さ、レスポンスの良さ、これが投資家に評価される要因だと思う。
欧米の景気が回復すれば、再度欧米に資源を移すことぐらい簡単な事だ。
だから、ホンダやヤマハは、ハーレーやドガッティのようなブランドの強力さは無くても、巨大二輪企業として君臨し高い収益を誇る。
これがヤマハやホンダのブランドだから、ハーレーやドガッティのような特異なブランド・アイデンティティを作る必然性がない。

 
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Ron Lechien と KX500 (1988 Motocross des Nations )

2011-08-25 09:29:33 | モータースポーツ
今日(25日)の 「Racer X online」に興味ある記事があった。

Ron Lechien が「1988年Motocross des Nations」でのKX500について語っている。
この年の米国代表は、Rick Johnson、 Jeff Ward、 Ron Lechien の3選手で、今考えても史上最強の選手だと思う。
3選手のうち、Jeff Ward と Ron Lechien  がカワサキ、Rick Johnson がホンダだ。



なぜ、この写真が気になったかと言うと、3選手ともカワサキと深い関係があったこと。
そして、KX500だ。



Ron Lechienはインタビューの中で、次の様に答えている。

「 I rode the 500 well and RJ wanted to ride the 250。 So Wardy went to the 125s、he was a smaller guy。
  The bikes in ’88 were good。 I think our 500 was better than the Honda、 to be honest」

そしてまた、1988 Kawasaki KX500 の印象についての質問に答えている。

「Yeah、 it was my bike from the nationals。 We shipped all of our bikes over there, which is a big help、I was comfortable with it。
  Like I said、 I think we had the best bike in the class。 It was great」

ここまで、Ron Lechien がKX500を評価してくれていたとは思いもしなかったので、ビックリした。

世界中のモトクロス選手権で戦ってきたが、KX500程苦労したマシンはない。
2サイクル500cc単気筒のパワーをコントロールできる選手は、世界中探しても5指もいない時代だ。
だから、ライダーがコントロール出来るエンジン特性に如何に仕上げるかが難しかった。

パワーを出すのはそんなに難しい事ではないが、パワー特性、いやトルク特性をスムーズに纏め上げるのだが、
制御機構が無い時代に、シリンダー、エキゾートパイプと気化器で、有り余るエンジンパワーをコントローラブルな特性に纏めるのが難しかった。

500ccのエンジン担当は、設計者や実験者とも大変苦労していた。
125や250が非常に高い評価を受ける傍で、スムーズなエンジン特性を求めて、たいへん苦労してテストを繰り返す毎日だった。
日本で、比較評価する競争マシンはホンダのCR500だったが、このマシンの評価が極めて高かっただけに、KX500のエンジンには深い思い入れがある。
そのCR500よりも、Ron Lechien はKX500を評価してくれていた事になる。

昨年冬のモトクロスOB会で、設計担当の山本君と昔話をしたが、KX500のコンロッドを今でも大事に持っているそうだ。

ボブ・ハナーやR.ジョンソンも話もあるが、別の機会にしよう。
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失敗の本質

2011-08-24 06:47:32 | その他

 「失敗の本質」

戦争や歴史に関する本が好きなこともあり、購入したり、図書館で借りたりして読んでいる。
中でも、「失敗の本質」は、米軍の組織行動と日本軍の組織行動とを比較しながら、旧日本軍組織敗戦の本質を分析し纏めた良書である。
何時読んでも分析力には感心する。

だいぶ前の事だが、原発事故を発生させた東電組織を旧日本軍組織に照らし合わせて、池田信夫さんが実に分かり易くブログに解説していたものを思い出した。

『本書は防衛大の教官と野中郁次郎氏が日本軍の組織としての欠陥を分析した、戦略論の古典である。
 その特徴を戦争と今回の原発事故を対比して紹介すると、

 1.「戦力の逐次投入」:戦略目的が曖昧なため戦線の優先順位が決まらず、兵力を小出しにして全滅する。
   ・・・最初から海水を注入すれば炉内の圧力上昇を防げたかもしれないのに、1日遅れでベントを始め、水素爆発してから海水注入を始める。

 2.「短期決戦のスタンドプレーを好む指揮官」:太平洋戦争は「敵を一撃でたたけば戦意喪失して降伏する」という主観的な見通しで開戦した。
   ・・・原発事故の起きた翌日に首相が発電所に乗り込んで、ベントが6時間遅れた。

 3.「補給を無視した人海戦術」:太平洋戦争の「戦死者」300万人のほぼ半分が餓死だった。
   ・・・原発の作業員は1日2食の簡易食糧で水もろくに飲めず、夜は雑魚寝。

 4.「縦割りで属人的な組織」:子飼いの部下ばかり集めて意思決定がタコツボ化し、「空気」が支配するため、総指揮官の暴走を止められない。
   ・・・「統合連絡本部」をつくるまで4日もかかり、各省ごとに対策本部が6つも乱立。東電にどなり込む首相を誰も止められない。

 5.「情報の軽視」:第二次大戦で使われた日本軍の暗号は、ほとんど米軍に解読されていた。
   ・・・東電と保安院と官房長官がバラバラに記者会見して一貫性のない情報を流し、首相の演説にはまったく中身がない。

 6.「大和魂偏重でバランスを欠いた作戦」:インパールのように客観的に不可能な作戦を「勇敢」な将校が主張すると、上司が引っ張られて戦力を消耗する。
   ・・・使用ずみ核燃料にヘリコプターで放水する無駄な作戦を「何でもいいからやれ」と官邸が命令し、かえって国民を不安にする。

  残念ながら、民主党政権は日本軍の劣悪な「遺伝子」を受け継いでいるようにみえる。
  類似は他にもあるが、きりがないので有名な言葉で結論としよう:

 「戦術の失敗は戦闘で補うことはできず、戦略の失敗は戦術で補うことはできない」(p.291)』


東電は国が決めた原発設計基準を順守していると報道されており、それが正しければ東電には落ち度は無い。
だが一方、報道されている内容からすると、国家基準そのものにも曖昧さがあったようだ。
そして、三陸海岸の貞観地震等をふくめ数度に及ぶ地震発生は事実として存在しているので、東電の設定した設計基準値は低く、責任を問われて当然だと思う。
機械物である限り、原発の事故発生は予想されることなので、どれだけを予測値として設定し対応しておくかである。
東電の事故調査・検証委員長である失敗学の権威者畑村先生が、どのような調査結論を出すのか注視している。


「失敗の本質」では、各戦闘敗退の理由として物量の乏しさや技術的に立ち遅れていたという日本軍の特色もあるが、
日本軍の戦略策定における原則的な考え方や組織上の問題点等が一番の問題だったと分析している。
そして、この本で指摘された項目は、何も東電に限定された欠陥ではなく、殆どの現在の日本企業にもあてはまる傾向のようだ。

欧米諸国が領土や植民地獲得に血眼になって戦争を繰り返す中で経済を発展させ機械を工夫していた時代に、日本は江戸時代の鎖国政策の延長上にあって、
貧しくとも平和で文化的な生活を営んでいた。この文化を形成する環境の違いが基本的に両者にはあり、そのマインドは現在までも継続している。

「失敗の本質」でも指摘されていることであるが、米軍は戦争を通じて合理的に勝利する方法を学び(例えばタスクフォースは真珠湾奇襲から米軍が考案した)、
能力主義に徹した人事等を採用したのに比べ、日本軍は情緒的な判断やその場の空気をどちらかと言えば優先したとある。
そして、日本軍の組織行動は現在の企業行動と何ら変わることはなく継続されている。
例えば、サラリーマンにとって最重要関心事である人事が、実際は好き嫌いを優先して決められている企業が多いのも事実であることなど、
宋文洲がツイッターの中で指摘した「企業の人事も同じだが、好き嫌いを我慢して事で評価しないと猿と同じ」となってくる。


もうひとつ、「失敗の本質」で指摘された、クラウゼヴィッツ『戦争論』の「目的はパり、目標はフランス軍」は、我々が非常に陥りやすい事象でもある。
つまり「目的」は、「敵国首都パリ=敵中枢の占領」であり、それを達成するための「目標」は、「前面にいる敵フランス軍の殲滅」ということである。
時々、「あまりにも目標達成に拘るばかりに、目標が目的になってしまう事」があったり、「真なる目的がないのに、標語として定められた目標だけが一人歩きする事」がある。

企業の中には「業界No1の技術力」を目指し鼓舞するところを見かける場合がある。
業界No.1に拘るばかり、「業界No.1」が目的となってしまい、業界No.1になるために回収出来ないほどの資金を投入して体力を消耗させる事態に陥り易い。

もっと細かい事例として、戦闘と対比して考えられる二輪や自動車のレースに例えてみよう。

本来最高クラス選手権に勝つ事が目的で、そのために下位の選手権参戦によってマシン開発することが目標であったものが、
下位選手権に勝つことに集中してしまい、最高クラス選手権規則とはかけ離れたマシン開発に修正されることがある。あるいは、
ライダーを優勝させるレース参戦かマシン開発を優先させる参戦かがよく分からないままにレース参戦するなどは目的と目標が混在化した「二重の目的」であり、
「目的はパり、目標はフランス軍」を逸脱した拙い戦略で、気がつかないうちに往々にして陥り易い。


日本軍が多分に情緒や空気が支配する雰囲気の中で結論じみた事に陥っていた事について言えば、
例えばチャンピオンになった選手やそれに近いが勝てなくなった選手の処遇がある。
チャンピオンになった選手を優遇する事に議論を挟むことはないが、優遇することを優先することでチャンピンを逃してしまう遇を犯し易い。
欧米のチームであれば、勝てなくなった選手を交代させる事は極めて合理的な判断だが、日本人だと情緒を優先し周りもそれに呼応してしまう。
レースも一つの戦闘であるから、勝つことに冷徹に、あくまで合理的な判断を優先すべきで情緒的思考を考慮すべきではない。

もう一点、「失敗の本質」の中で指摘された「ゼロ戦」、「ゼロ戦」の戦闘能力は世界最強水準であることに疑いはない。
「失敗の本質」では、「ゼロ戦」は日本の技術陣の独創というよりか、
それまでに開発された固有技術を極限まで追求することによって生まれたイノベーションであると分析され評価されている。

この分析は、戦時中に纏められた冨塚清著の「航空発動機」にも通じ、
「制空権獲得という国家の生存目的に追求がある以上、最大の目的は「必勝」の追求である。
 具体的にいえば、公知の性能工夫の向上を図り、質を落とすことなく多量に生産すること。
 従って、新規の発明・考案の採用は十分なる実証による確認を得ずに採用すべきでは無い」とある。

この事象は、レースマシンの開発にも通じ、レースに勝利するためと称して新規の発明や考案を優先して走ることを諫めている。

その「ゼロ戦」も、量産体制で生み出された米軍の「ヘルキャット」の二機編成に、多大な資金を投入して育成したパイロットと機体を消耗させてしまった。
戦争は消耗戦であるので、大きな経済的バックアップ(資金力)がないと全面戦争(全面競争)などすべきではない。

更に加えるなら、技術には兵器体系というハードウェアのみならず、組織が蓄積した知識・技能等のソフトウェアの体系の構築が必要と指摘している。
組織の知識・技能は、軍事組織でいえば、組織が蓄積してきた戦闘に関するノウハウと言っても良い。
組織としての行動は個人間の相互作用から生まれてくるとある。

この指摘から言えば、戦いのなかで蓄積された人的・物的な知識・技能の伝承が最も必要なレース運営組織は経験的に企業グループ内で実質運営されるべきであり、
レース運営を外部団体に委託すること等は組織技術ソフトウェアの蓄積から言えば絶対に避けるべき事であろう。
往々にして、マシンの開発まではするが、実際の戦いの場であるレース運営を外部委託し、勝てない理由を相互に非難する事例を雑誌等でよく見受ける。

 
考えてみると、真珠湾や東南アジアの首都や石油を抑えても、東南アジアはアメリカの首都ではないから致命傷にはならない。
資金力に優り物量を豊富に繰り出すアメリカが反転に転じ日本本土を空襲する時点で、日本の負けが確認できた。
日本軍の失敗の本質は、人口で二倍、生産力では数十倍という英米に、全面戦争を挑んだことが全てで、他のいかなる理由も枝葉末節にすぎないと、結論として思える。

日露戦争では、日本はロシアの首都を攻撃すること無しに勝利したが、明石源一郎や高橋是清の工作が功を奏した事や国際世論を日本に味方させた事等も重なり、
ロシアの戦意を挫折させたことが主因だと考えられている。
日露戦争の勝因を読むと太平洋戦争時における旧日本軍の劣化は否めない。
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バットマン 「ダークナイト」

2011-08-22 06:42:41 | 映画


NHKの「シネマ堂」が「ダークナイト」を是非見るべきだと力説していたので、DVDを借りてきた。
バットマンシリーズを沢山見たわけでも無いので、シリーズの繋がりなど不明であるが、「ダークナイト」をみた印象は、これは面白い。
単純なヒーロー映画ではなかった。
善悪の立場を少し変えた映画は、ヒーロー主体の映画よりか展開が面白い。

この映画を見て、佐藤優と田原総一郎の共著「第三次世界大戦 新・帝国主義でこうなる」の中で、佐藤優が述べていたことを思い出した。
正確な記述内容までは記憶していないが、意味とするところは、こうだ。
『アメリカを端的に表現すれば、「西部劇の保安官」とドラえもんの「ジャイン」を併せ持ったものだ。
 何時も正義を振りかざす保安官と駄々をこねる意地悪ガキのジャインが一体と混在しているのが、アメリカの実態。
 今のアメリカに、「保安官のアメリカ」か、「ジャインのアメリカ」か、どちらかが出ているのかを見極めながら、アメリカとは向き合う必要がある』

バットマンとアメリカは同じ人物なのだ。

バットマンが犯罪を摘発すればするほど、マフィアの犯罪は凶悪化し、ついにはマフィアにすら忌み嫌われていたジョーカーを雇い、そのジョーカーは毎日市民を殺す。
バットマンは手段を選ばずマフィアを追い詰め、マフィアはバットマンに徹底的に追われるから、バットマンを殺そうとジョーカーを雇う。
ジョーカーはそれをいいことに、市民を巻き添えにして殺人ショーを展開する。

バットマンが強引な摘発方法に走れば走るほど、犯罪者も過激な方法に訴える。
犯罪はエスカレートし、巻き添えで死ぬ市民が増える。

バットマンの苦悩は、自分の良かれと思ってする行動が逆に犯罪者を刺激し、犯罪が凶悪化するという悪循環にある。
犯罪が先か、バットマンが先か。

バットマンの正義はなんだ。
バットマンはゴッサム・シティに蔓延る悪を退治することだがら、バットマンの取った行動はバットマンにとって「正義」そのものだ。
「正義」と称する力によって、「悪」の力に対抗する。

こうした戦いの結果、バットマンの正義とする力が勝利し、平和が訪れるはずだと信じて戦う。
つまり、「正義」という信念と具体的な「力」によってしか、「平和」は勝ちとり得ない。

一般的に、法事国家であれば犯罪は警察や検察組織の担当だから、バットマンの存在そのものを認めることは国家が法的機能を放棄したことになる。
バットマンの役割は、国家の法的機能である警察組織機能を飛び越した「超法規的力」も必要だと言う認識が国家組織にあるのだろう。
ゴッダム・シティには、バットマンは必要なんだ。

バットマンの「正義」は、「超法規的力」によって合法であろうが非合法であろうが、バットマンはどんな手段でも取ることができることにある。
警察や検察が捜査をするには、法律による制約があるが、バットマンのように法律に縛られない存在はとても便利だ。
やはり、法事国家と言えど、バットマンは必要悪として存在せざるを得ない。

一方、興味をそそられたのは、如何にも正義漢の塊のような人物でも、状況の変化によっては正義の下に隠れた「悪」に、いとも簡単に変ってしまうという事実だ。
バットマンだって、何時そうならないとは保障できない。

人間の本質は基本的に何等変らないので、バットマンのとる行動の根底にある論理や世界観には感じるところが多い。

バットマンを、世界最強の国、世界の警察を自負しているアメリカに置き換えてみると、アメリカが基本的に持っている、彼らの行動の正当性を垣間見ることができる。
バットマン対「ジョーカー」は、アメリカ対「悪の枢軸」や「悪のテロ組織」に簡単に置き換えることができる。
つまり、パワーゲームだ。

果たして、アメリカはその巨大な軍事力をもって、力ずくでテロ組織を壊滅させることができるだろうか。
アメリカがテロ組織によって疲弊させられている様を、ただ冷笑的に見ていればいいという話でもない。

アメリカがアフガニスタンのタリバン政権を倒したことにより、自由を享受し、抑圧的な政策から解放された現地の人々がいたことは事実だろうし、
アメリカの軍事行動が独善的だと非難しても、その軍事行動を待たなければ、アフガニスタンの状況を前進させられないことも事実だろう。

戦争とバットマンのもたらす結果は同じだ。
バットマンだけではゴッサム・シティに平和をもたらすことはできないように、アメリカの戦争だけではイラクやアフガニスタンに明日への力をもたらすことはできないかもしれない。

しかし、テロとの戦いは軍事力だけでは無いと言いつつ、結果的には世界はアメリカを非難しつつもアメリカの圧倒的なパワーを永遠に必要とするだろう。
ゴッサム・シティがバットマンを非難しつつ、バットマンの圧倒的な力を必要としているように。
ビンラディン暗殺にかけて実行したアメリカの正義には、その集中力には、唯ただ感心するしかない。




バットマンのなかで、ググッとくる場面とセリフは、繰り返しになるがこうだ。

『映画の中で、ジョーカーがバットマンに向かって哄笑しながら、「俺もお前も世間から見れば化け物じゃないか」と繰りかえし、
 バットマンが勝手に私設自警員として、奇怪な覆面衣装に身を固め、法律を無視して正義の味方を気取る矛盾を突いてくる。
 そして悩むバットマンをあざ笑いながら、「お前が正体を晒すまで、俺は毎日、市民を一人ずつ殺していくぞ」と言って、本当に罪のない市民を殺し始める』

ダークナイトは面白かった。

しかし、アメリカはもっと強く成らねばならないのではないか。

「産経ニュース 正論ー西尾幹二」には、アメリカ建国以来の植民地願望が記載されている。
メキシコからの土地割譲、武力よるハワイ割譲、フィリッピンや日本を武力によって占領し、その後中国を飛び越えて西に向った戦争目的が記述してある。
「西へ向かうアメリカの熱病は近年、中国を飛び越え、アフガニスタンから中東イスラム圏にまで到達し、ドルの急落を招き、遂に大国としての黄昏(たそがれ)を迎えつつある。
 真珠湾攻撃は、70年間かけて一定の効果をあげたのである。」

だけど、米ドルの急落で真珠湾攻撃の成果があったと喜ぶほど、日本は強くないのが現実だ。

米国債のランク格下げには本当にがっかりした。

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植木の剪定

2011-08-20 06:36:26 | 
毎年、盆前までには終えていた植木の剪定を、時間の余裕があるせいか盆前までには着手しなかった。
それに、この暑さなので、ズルズルと先延ばしていた。
でも、「盆前にはすっきり」という言葉の長年の習慣もあって、先日剪定した。

玄関の「バべ」と「ヒイラギ」、庭の「バベ」の3本の剪定作業は大仕事だ。
バベもヒイラギも高いので、職人が持っている脚立が必要なのだが、手持ちの2mの脚立で何とか作業している。
加えて、「梅の木」を2本、「杏」を一本、「棒ガシ」を2本剪定したが、これは低木なので簡単。

昔から、田舎の親戚の大工さんや川沿いにあった木の剪定を職人が手入れするのを遅くまで見ていた。

剪定作業は好きな仕事である。
剪定の何が好きかと言うと、剪定バサミでサクッサクッと葉が切れる感触が堪らないのだ。
結局、終了するのに2日掛りとなったが、これですっきりした。

だけど、正月前には再度剪定する。
年に2回の作業だが、楽しいので苦にならない。
いつもは、昼間に酒などは飲まないが、剪定した時はビールを飲む。

ところで、剪定作業には専用の剪定バサミを使っている。
かなり前に、大小の剪定バサミ2本と裾調整バサミを三木特産金物センターで購入した。
同じ店でダイヤモンド砥石も一緒に買ったので、砥ぎながら剪定している。
3、4年に一度、三木特産金物センターで砥いでもらうが、これでまた良く切れるようになる。
高枝バサミの2本と合わせ、計5本をフル稼働させて剪定する。


エンジン付きヘッジトリマーで剪定した経験もあるが、思ったほど奇麗に刈れない。
やっぱり、剪定するには剪定バサミに優るものは無い。


剪定後の玄関側バベの木



剪定前後の玄関側のバベの木 ・・・ 高所の剪定が難しい。




剪定前後の庭のバベの木
剪定前は伸びた枝に隠れて本体が判らない程だったが、剪定するとスッキリした。



剪定前後のヒイラギ



エンジン付きヘッジトリマーを借りて剪定したことがあるが、現在は使用していない。
確かに、剪定作業は早いのだが、問題がある。
一つは、トリマーの重量が重いこと。休み休みしないと腕があがってしまう。
二番目は、ヒイラギのように葉がしっかりして厚めの植木にはOKだが、バベの木を剪定すると、葉が刃の間に挟りギザギザに切れて奇麗に剪定できない。
重量の軽い電動ヘッジトリマーも使用した事があるが、パワーが足りないので切れ味が極端に悪い。葉に刻んだ跡が残り、見た目が非常にわるい

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野々池でのマナー

2011-08-18 06:45:51 | 野々池周辺
野々池にある水道部からのアナウンスは、約30分毎に放送されているので覚えてしまった。
「水道部からお願いします。当敷地内にて、煙草のポイ捨て、犬の糞等の苦情が多発していますので、マナーをまもって頂きますよう、よろしくお願いします」

野々池貯水池は明石市の水源として管理されているのと当時に、市民の憩いの場所としても周辺が整備されており利用者にとっては好評である。
明石市管理の公共物なので、野々池貯水池を利用している人達は明石市水道部が要望するマナーを少なくとも守って行動すべきだ。

野々池を散歩するなり、ジョギングするなり、利用する場合のマナーについて、野々池貯水池の看板から撮ってみた。
それにしても、多種多用のマナー看板がある。
これまでの苦情蓄積のなせる結果であろうが、でも、今は一部の人を除いてマナーは可也良好だと思う。

唯一、例外の注意すべきマナー違反は、散歩中の「犬の鎖外し」。
犬の鎖外しの散歩、これはマナー違反と言うより危険と言う認識がないのか、確信犯に近いので性質が悪い。
愛犬を全面信頼しての散歩であろうが、これがとんでもない危険性を伴っている。
鎖を外された犬は遊んでいる積りだろうけど、小さい子供を見つけるとじゃれ付く。
じゃれ付かれた小さい子供は恐怖を感じて逃げると、尚更犬が追いかける。
終いは、子供を怪我させてしまう。

犬の鎖を外して散歩中の人に注意している人もいるが、すると、逆上して注意した人に噛みつく。愛犬より性質が悪い。
これは、怪我するまで治らないかもしれない。
だから、「鎖を外しての散歩はやめましょう」の看板が一番多い。
怪我すると、禁止事項が増えるのは日本の行政だから、犬好きは要注意事項だと思うのだが。
一方、マナーの良い犬好きが99.9%で、殆どがそう人だ。
殆どの犬好きはビニール持参が常識で、どちらが主人様か判らないほどだ。


















防犯カメラとマイクが設置されている。
水道部の担当者に聞くと、カメラで殆ど全域が見えるそうだ。









昔のマナー違反は、犬の糞の放置だったことがわかる。
今は、犬の糞の放置違反は、まず見かけない。












今、マナー啓蒙看板で一番多く設置してあるのが、「犬の鎖外し散歩の禁止」
野々池貯水池の入口には必ず設置され、広場にも必ずある。


















今年は、「健康のため、水を飲みましょう」の垂れ幕のみだが、昨年の猛暑時は、広場にミストが設置され涼しかった。
だから、野々池貯水池での熱中症の発生は聞いた事がない。
明石市水道部の、野々池貯水池への愛着を感じる。
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