蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ともだち

2022-04-28 | 人生
わたしは友達は全員、なぜか男性。
女性の友達がいないのが不思議なところ。
何故なのか、考えてみた。

女性で気が合う人があまりいない。
男性でも別に気が合うわけではないが、男女差があるから違って当たり前、とはじめから覚悟しているため、障害を減らしている。
逆に男女差が面白味を加えている。
女性でも気が合う人はいるのだろうけれど、多少違う面がある場合、頑張って合わせる努力をしない。
男性に対しては、諦めている分、努力ではなく、違いの部分は切り捨てている。

「女性」「男性」と、はじめから決めつけるのは良くない。
性差によるものではない個性差がある。
だが、長い年月のジェンダー意識で植え付けられたものもある。

わたしは典型的な昔タイプの女性である。
ほぼ絶滅種に違いが、昔タイプの人から見ると、古き良き時代の見本みたいなもの。
だが、今の人から見ると、やってられない時代遅れの価値観、感性、考え方。
となると、古い価値観の人とつるむしかないのか。
だが、まだ更に古い価値観の人がいて、価値観は時代と共にスライド、移行していく。

「女性とは合わない」と、勝手に思い込んでいるフシがある。
自分と同じ体温は気持ち悪い場合がある。
同性として、手の内バレバレの面がある。
ちなみに、わたしは性的マイノリティではないストレート(異性愛)である。
少し前まではそれが当たり前で、それ以外が当人も親も肩身が狭い思いをしていたが、時代は移り変わる。
閉ざされた地域の人々は特に古い価値観を持ち続ける。
これは当たり前だ。
新しいものが流入してこないから。

と、話が逸れている。
わたしは昔タイプの人間であるが、今も昔タイプの人々はウヨウヨしている。
(家庭の中にさえ)

わたしが女性が苦手なのは、単なる偏見と、昔の価値観を引きずっているからだ。
わたしと同世代の女性は、ほぼわたしと同じタイプの人もいるし、違う人もいる。
わたしが苦手とする、偏見に基づく女性像は、ペチャクチャどうでもいいことを延々と話す人。
(あ、これ、わたしだ)
話す内容はどうでもいいから、話すこと自体がストレス解消になっている人。
(あ、これ、わたしのブログだ)

自分が勝手に作り上げた、苦手な昔タイプの女性像を、目の前にいる女性の皆さんに押し付けている。
なので、近寄らない。
これはコミュニケーション能力がないというのか?
少し違う。
自分から敬遠している。
なぜ敬遠しているか。
それは、自分が昔タイプの女性だから。
こう書いても客観的にはおわかりいただけないだろう。
(すみません、あえて書きません)

というわけで、わたしは自己開示を自らの意思でしない。
しかし、ブログを長年やっていると自己開示していると同じ。
わたしが超有名人なら分析研究されることもあり得るが、無名人なので、安心して好きなことを書ける。

わたしが一番心地良いと感じるのは、無名な自由人。
誰の束縛も受けず好きなことが出来る。
マークされない気楽さはこの上ない。
(もちろん犯罪や迷惑行為は論外)
まして、リタイアした立場では、肩に載る重いものもない。

そういえば、最近お知り合いになった、あるリタイアした人が暇を持て余していた。
毎日スケジュールを積極的に詰め込んでも、
泊まりがけでもない限り、実質1日3時間だけの拘束?で、あとの時間がフリータイムになって何にもすることがないと言っていた。
その人には拘束時間スパンが長い農業や野菜作りなどを提案したが、きっとオーバーワークになり、隙間時間を埋めるニーズにはマッチしないと思われる。
ちなみに釣りは、全然釣れないからダメなんだそうだ。
明るい人だ。

その人の、積極的余生の過ごし方ノウハウをお聞きした。
うんうん、と頷くことばかり。

そう言えば、話は変わるが、、、
自慢について。
聞かれもしないのに自分から自慢するのはケシカランかどうか。
わたしはブログというSNSで長年ケシカランことをし続けている。
しかし、それは自分のブログ内でやっている。
人の日記に乗り込んで、それまでお付き合いもやり取りも全然ないのにいきなり自分の自慢をされると、引く。
何年も前から長い時間のコミュニケーション経過があるのとないのとでは全く違う。
それに、自慢と感じるか感じないかは、人による。
アタマごなしに「自慢するな!」と思っても、よくよく聞いてみると、自慢だと感じている自分側に原因がある場合もある。
自慢ではないのに自慢だと感じるのは、何?
話す相手を間違えると、自慢に聞こえる。
相手によっては共鳴や共感、絶賛、応援なんてことにもなる。
発信者と受信者の関係性にもよる。

不安のないマイニチサンデーはわたしは限りなく幸せを感じている。
が、人によっては暇を持て余したり、生きがいを感じられなかったりする。
人それぞれの価値観、感性。
わたしは生産性を求めない。
若い人々の役に立たなくてもよい。(役に立てるならそれに越したことはない)
足を引っ張らなければよい。
その中で自分がしたいことをして楽しむ。
したいことがないというのは、それ(なにもしないこと)がしたいことなわけだから、幸せ。
自分の幸せは自分で作らなければならない。
自分の足で立つことが基本。
幸せを維持したければ、自分で立てる足を維持することが、幸せの原点かなと思う。
自分で立てなくなった時は、何も考えず、美しいものでも見て、好きな音楽でも聴いて、静かに暮らしたい。
美味しいアイスクリームでも時たま食べられたらそれでよい。
見えなく聴こえなくなった時は、違う幸せにまた一歩づつ近づいているのかも知れない。

今、出来ることを今することが幸せだと感じる。