蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

日曜日の朝の引きこもり

2016-09-04 | 暮らし
久しぶり、のような気がするブログのアップ。

今、息子の部屋。
彼は一年しかこの部屋を使わず、出て行った。

畳に足を投げ出して座り、背もたれはクロゼットの扉。
スマホタイム。
いつも、わたしは夏の寝室にしている。
窓の開口部が床まで開かれ、ベランダにつながっている。
窓際で畳に敷いた布団に横になると、直に風が入ってきて、気持いい。

部屋を見渡す。
次女の羽根布団と毛布。
押入れにぎゅーぎゅー入れるのが面倒なので夏の間だけ、隣接する息子の部屋に放置している。
この毛布、姑のお下がり。夫には、舅のお下がり。
それぞれの毛布に糸で、舅と姑の名前が縫いつけてある、ありがたい、化学繊維のペア毛布。
洗濯機でいつも洗っているが、多少はヘタるものの、ちっともくたばらないので、延々と使っている。
ロボコップのような、化繊毛布である。
こんなことをするから、いつまでも優雅な生活が送れないのだろう。

ちらと横を見る。
息子の勉強机。小学生の時から使っている。椅子も。
その机の上に、空のグラス。
どうやら、昨日、次女がアイスコーヒーを持ち込んで、なにやらこの机で作業したと見られる。
仕事か、書きものか?
隣接した自分の部屋があるのに、時々使っている様子。
彼女の部屋は余計なものは一切ない、広々すっきり空間。


息子の部屋は、天井がとても高く、大きな窓があるので
気分展開にはよい。
しかも、なぜか和室。これは息子の要望で和室になった。

積まれた布団を前に、一室にいると、優雅な刑務所のような気がしてきた。
一室で暮らすとこんなかんじか。
部屋にあるのは、布団、机と椅子、本棚、扇風機だけ。
下宿もこんな雰囲気?


次女は、いいなあ。
いろんな部屋を使えて。
我々両親とは、あまり家では顔を合わさないし。
ただし、ウィークデーや、繁忙期は仕事に忙殺されて、かわいそう。
(人として、仕事するのは当たり前。
自立するのに、かわいそうなんて言っていたらおかしいけれど)

布団を押入れにちゃんと入れたら、光景は変わってくる、、、、のだけど、まあいいか。
冬までの辛抱。

そうやって、一日一日、貴重な時間を使っている。
すり減っているわけではないが、存分に活かしきっているわけでもない。
まあまあの時間。


一昨日、母のところに行った。
母が言っていた。

「平均より、ほんのすこし下の、慎ましい生活をしなさい。
派手な生活はロクなことがない」

一昨日は、頭はしっかりしていた。
なぜか私が行くと、訓示テイストになったり、アドバイザーになったりする母。
時にはキラリと光る真理が話の中に埋まっているのを発見する。
人が生きて得たセオリー、磨かれた一言に出会うと、私は嬉しくなり、元気をもらう。
人は、(心肺停止して)死ぬまで、(精神は)死なないのだと思う瞬間である。


さて、
今日は、長女一家も含め、一家総出で、姑のところにご機嫌うかがいに参じる。
この人は、まだまだ、ややこしい。

生きる速度は、皆んなそれぞれの個性差がある。