経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝 馬越恭平(一部付加)

2020-07-05 15:20:04 | Weblog
経済人列伝 馬越恭平(一部付加)

 ビール王と言われた人物です。戦前大日本ビ-ル(麦酒)という会社がありました。市場の7割以上を占有した、巨大な独占企業です。この会社の総帥が馬越恭平です。私は素人の直感として、この大日本ビ-ルという会社の形成には、なんとなくうさんくささを感じます。そういう観点から恭平の事業を見てまいりましょう。
 恭平は1844年(弘化1年)に備中国(岡山県)後月郡木之子村で生まれました。祖先は河野氏でしたが、伊予馬越の領主通元は、海を越えて備中に渡り、そこに住して馬越の姓を名乗り代々豪農として近隣に威をふるってきました。隣村まで人の土地を踏まなくても行けた、と言われます。父親は村医でしたが、家業は振るわず、土地は他人の手に渡り、困窮したと伝記にはあります。
 1856年(安政3年)13歳、恭平は親戚の播磨屋伝兵衛に連れられて大阪に行きます。そこで儒者後藤松陰の学僕として、仕えます。学僕とは、学費が払えない者に、仕事の手伝いをさせながら、学ぶ機会を与える制度(?)です。アメリカにも当時似たような制度がありました。School-boyと言います。両者とも実態は召使でした。恭平は師匠の態度に不満を持ち、学者の道を断念し、鴻池の丁稚として3年間働きます。ここで商人のあり方、商人としての智恵才覚を学びました。20歳の時、播磨屋伝兵衛の養子になります。播磨屋は幕府や諸藩への諸種誤用達(必要な財貨を調達)と公事宿を営んでいました。公事宿とは、大阪近隣の住民が訴訟の用で大阪に来た時、宿を貸し、同時に訴訟の手続きを援助代行する、現代でいえば弁護士・司法書士と旅館を兼ねたような機構です。公事宿は恭平にとって商売経営の裏表を知るいい機会になったと思います。伝記ではつまびらかにはしていませんが、幕末の長州征討で幕府軍の軍需物資調達と軍事費融資で巨大な利益を得たようです。数万両の資産はあったようです。伝兵衛には子供がないのですから、私ならこの辺でのんびりした人生を送りたいところです。
 明治になって益田孝が大阪にやってきます。岡田平蔵、五代友厚と協同で設立した大阪分析所(金銀貨の金銀含有量を測定して証明書を与える会社)視察のためです。恭平は益田を知ります。恭平の兄が益田の知人でした。益田から東京の事を聞き、また西国立志編(当時のベストセラ-の一つ、原点は英語)を読み発奮します。養父の伝兵衛に、東京行きのことを頼むと、断られます。伝兵衛は恭平に身近に居て欲しいのです。すったもんだで、家族の了解を得て、養子縁組を解消して明治6年、ほぼ無一文で上京します。この間造幣寮の夜学に通い英語を学びます。かなりなブロ-クンですが、会話ができるようになります。
 東京では先取会社に入ります。この会社は井上馨が下野した時、岡田正蔵、益田孝、藤田伝三郎達と共に、設立した(東京と大阪に)会社です。仕事は、大蔵省委託の内地米買い付けおよびその輸出、と三池炭鉱(政府所有)の石炭買い付け(多分輸出も)です。つまり先取会社は政府の租税(租米)の調達の代理機関でした。井上の政府への影響力と、政府組織の未熟さから出現した、儲かって当然の、利権そのものと言ってもいい、半公的半私的な機構です。これが将来三井物産として巨大な商社となる、企業の濫觴です。この時益田の月給は250円、恭平のそれは4円60銭でした。100円で米が、ほぼ100石買えた時代です。明治9年井上が再び政府に入り、先取会社は三井組の貨物方と合併し、三井物産になります。資本金は10万円、社長は益田孝、仕事は先取会社とほぼ同じです。恭平の月給は35円になり、売買方を務めます。まあ今で言えば、営業部長のような職です。恭平は給料に不満があったようで、益田が、何か良い掘り出し物はないか、と恭平に聞いたとき、月給35円の馬越がそれだ、と答えました。不満と言うより、自分の商才によほど自信があったのでしょう。
 1877年(明治10年)西南戦争が起こります。三菱(当時はまだ岩崎家)は運輸で儲けましたが、三井、大倉、藤田組は軍需物資調達で大儲けしました。この辺の事情を恭平は後に次のように語っています。西南戦争はまるで福の神が飛び込んで来たようなものだった。あの時三井物産が6/10、大倉組が2/10、藤田組が2/10の割で政府御用を一手に承ったので、三井の純利益は一ヵ年で50万円であった、と。資本金が10万円だったことを再度申し述べて起きます。正直企業にとって、戦争ほど儲かるものはありません。日本の資本主義は、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次大戦とともに成長してゆきます。ある意味では、幕末維新の戦争も日本の工業が壊滅したといわれる太平洋戦争も、同様かも知れません。イノヴェ-ションの機会を与えたのですから。戦争が企業にとって最大のビジネスチャンスである事は日本に限りませんが。
 1880年(明治13年)横浜支店長になりしばらくして元締役を兼任します。横浜支店長時代の仕事で特記すべき事は、連合生糸荷預所の設置です。生糸は最大の輸出品でした。しかし日本の商人は外国貿易の慣習に疎く、特に為替の変動で外商にいいようにあしらわれ、損をしても泣き寝入りの場合が多かったのです。この場合外商とは必ずしも欧米の商人とは限りません。むしろ華人が買弁資本として仲に立ち、日本の商人を鴨にしていた、とも言われています。恭平はこの不合理に対して敢然と立ち、生糸商人の連合体を作り、外商と交渉します。つまり供給側を握ってしまいます。外商達は憤慨して、両者の間で駆け引きが行われます。結局米大使が仲に入って、調停が成り立ちます。以後前ほどの不都合はなくなりました。連合を成立させ、生糸の輸出による収益を像加させた事は、恭平の名を高めます。彼は横浜商法会議所設置にも貢献し、その筆頭理事になります。
 恭平という人は自信家で強気の人でした。幾多の逸話がこの時代にはあります。岩下清周が生意気な口をきいたので、算盤で殴りつけ、怒った岩下が短刀をもって、謝罪を要求した事件もあります。石光真臣に為替売買の損得を尋ねます。石光は赤字であると答えます。恭平は、いや黒字のはずだ、と主張し、石光が証拠として突きつけた、帳簿に恭平は墨を塗ります。怒った石光は、神聖な帳簿を侮辱したといい、恭平に謝罪を要求します。ある時磯清五郎が生糸の取引を自信をもって勧めます。大規模な取引でした。恭平は失敗したら、腹を切るか、と尋ね、磯は切ると約束します。取引は失敗でした。恭平はまさかと思いつつ、腹を切れ、と言います。磯は懐にしのばせていた短刀をいきなり腹につきたてます。恭平はあわてて止めます。この三つの事件は恭平の性格をよく表していますが、共通点はすべての事件で彼が素直に謝罪している事です。
 明治17年買い方専務に、24年専務委員に、26年三井物産の常務理事に任命されます。この間25年、恭平の生涯の仕事となる、日本ビ-ルの委員にもなっています。
 1896年(明治29年)52歳、三井物産を辞職し、日本ビ-ルの経営に本格的に取り組みます。日本ビ-ルは明治20年、桂次郎が創設しました。恵比寿ビ-ルと名をうって、ビ-ルを製造していました。なかなかビ-ルが売れず、それに放漫な経営が重なって、破産寸前でした。会社建て直しのために、恭平が推薦されて、社長になります。恭平がした主要な事は三つあります。まず減資です。45万円の資本金を30万円に減らします。株主に犠牲を求めます。次が冗員冗費の節約です。つまり解雇です。第三番目が、創設以来技術指導を仰ぎ、同時に輸出の仲介もしてもらっていた、ドイツ人ラスペが経営する商会との絶縁です。為替相場の変動を利用して、ぼろい儲けを得ていたラスペ商会をしばらく見張っていて、しっぽを出したところで、即断交です。また雇っていたドイツ人技師がいいかげんなので、解雇し別のドイツ人を採用します。外国商社を監視し不正を許さない、というのは横浜以来、恭平が得意とするところです。顕官貴紳に攻勢をかけてビ-ルを勧め、それを宣伝材料にします。ビ―ルは衛生上良い、と宣伝し、医大教授や病院長そして陸海軍軍医、1300名を集めて工場見学を催します。もっともビ-ルが衛生上良いというのは、まあ現在では嘘に近い宣伝です。もう一つ特記すべきことは、恭平が銀座にビアホ-ルを作ったことです。東京の目抜き、ど真ん中にビアホ-ル、大宣伝です。
1905年(明治39年)、札幌、日本、大阪の三つのビ-ル会社が合体し、大日本ビ-ルが創立されます。社長は恭平です。やがて大阪名古屋に勢力を持つ、日本ビ-ル鉱泉をも吸収します。こうして大日本ビ-ルは全国のシェアの70%以上を占有します。三社の合併に、サッポロも大阪もあまり積極的ではなかったように見えます。音頭をとり指導したのは、日本ンビ-ル、つまり恭平です。大きなビール会社でアウトサイダ-として残っていたのは、キリンビ-ルだけ、キリンビ-ルは英独の資本で作られ、やがて日本人の経営に移行しますが、最初から最後まで、合併を拒否して独自の道を進みます。大日本ビ-ル創設以後の約30年、恭平は社長を務めます。この間ビ-ル生産と販売は順調で不況にもめげず、会社は成長してゆきます。少なくとも私が参照した伝記には、そういうふうに書いてあります。だから恭平の事績にしてもおもしろい事はほとんどありません。選挙にでたり、貴族院議員に任命されたり、成功者が晩年たどる通常の道です。彼は多くの会社の役員を兼ねました。非常に多いので掲載は省略します。1933年(昭和8年)死去、享年90歳でした。なお大日本ビ-ルは戦後解体され、現在の朝日ビ-ルと札幌ビ-ルに別れます。日本ビ-ルという名称は無くなります。キリン、アサヒ、サッポロの三社が、大手ビ-ルメイカ-として市場をほぼ独占しています。
 恭平の凄腕は商人としての駆け引きと展望を見る才能にあるのでしょう。彼は鴻池で商人の智恵才覚を学び、公事宿で商売の表裏を知ります。そして当時大阪在住の商人としては極めて珍しく、英語を学びます。剛腹で強気、更に多分に任侠的気概もありました。この体験が如実に発揮されたのが、横浜での連合生糸預所の設置です。そしてこの件が彼の名を全国版にします。三井の常務理事という栄光を持って、日本ビ-ルに移り成功します。
 私にはなぜ三つのあるいは四つのビ-ル会社が合併しなければならないのか、解らないのです。ビ-ルの販路は順調に伸びていました。成長産業です。それが日露戦争を期に、国策のような形で合併が強行されます。私にはそうとしか思えません。ここで日本ビ-ル
と三井物産の氏素性が問題になります。日本ビ-ルは桂次郎の経営する会社ですが、彼の兄は後に首相となる桂太郎、長州閥の総帥です。また物産は先取会社という井上馨の利権団体から生まれました。つまり恭平が歩んだ道の基礎にはなんらかの形で、利権めいたものが潜在しているように思えます。無理な合併もこの延長上にあるのでしょうか?

 参考文献  馬越恭平翁伝  馬越恭平翁伝記編集会

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


日本史短評  秩禄処分(武士の俸給返上)

2020-07-05 13:21:10 | Weblog
日本史短評  秩禄処分(武士の俸給返上)

 廃藩置県という政策の骨幹は土地の二大支柱である徴税と行政の中央集権化です。しかし新政府は膨大な無駄な給付を抱えていました。それは武士への禄米です。まともにこの禄米を武士たちに支払うと、政府の支出の半額を軽く超えてしまいます。これでは新政府は何もできません。ただ旧幕時代にすでに家臣の俸禄は事実上、上薄下厚で圧縮されていました。下級藩士の減額は少なく、上級藩士のそれはきつくされていました。例えば9000石の禄米は250石くらいになり、10石の禄米はほぼ10石でした。更に廃藩置県の4年前に解体され静岡県に移った徳川家の処分、特に俸禄給付の先例があります。ですから廃藩置県の前後から禄米給付の減額ないし解消は新政府部内では必至とされていました。
 ここで武士の俸禄給付について若干の説明が必要です。まず領有権と所有権の区別が重要です。藩主藩士は、領有権は持っていましたが、所有権は持っていません。領有権とは、その領土の治安を維持し、領民の生活を保証する義務であり権利です。対して所有権は一定の財産(ここでは土地が大部分ですが)を売買する権利です。江戸時代の末期になると質地小作という形で土地は事実上売買され、農民は所有権をすでに持っていました。この事は二宮尊徳の人生を見ても解ります。所有権は売買できます。しかし領有権は売買できません。私は若干の土地財産を持っていますがいつでも時価で売れます。現在の政府は自民党の安倍政権であり、この政権が日本を統治しているのですが、だと言って政府が日本国の領土を勝手に売る事はできません。武士の秩禄はこの領有権への見返り給付です。繰り返しますが武士がその俸禄を頂戴する根拠は治安の維持にあります。しかし対国内に対してはともかく、対外的には武士の武力は無力です。そのことの証明が黒船以来幕府崩壊までの十数年間です。この経験を通じて武士は対外的に無力であることを自覚し、自らの存在意義に疑問を抱きます。庶民からは武士は無為徒食・座食(座っっているだけでただで飯を食う)の徒と非難されます。アメリカ流に言えば、参政権なきところに納税の義務なし、ということでしょうか。
 新政府は廃藩置県と併行して禄米給付を消滅させようとします。特に大蔵省に結集した井上馨や大隈重信などの意見は急進的でした。廃藩置県が明治4年そして同5年には岩倉使節団が欧米見学に派遣されます。秩禄処分は留守政府の任務になりました。また明治6年には徴兵令が発布され国民皆兵の原則が主張されます。武士は要らないといっているような法令制定です。主唱者は大村益次郎そして大村の死後それを受け継いだ山縣有朋です。この山縣は山城屋和助事件(汚職です)で政治生命を断ち切られるところでしたが、国民皆兵従って秩禄処分に理解のある西郷隆盛により庇護され、後に明治の軍閥の首領になります。余談ですが西南戦争で西郷の武士団を破ったのが、この山縣指揮する庶民兵ですから皮肉なものです。そして留学組が帰ってきたら明六政変(征韓論)のごたごたです。
 明六政変以後政治は政治家としての大久保利通、政策家としての大隈重信主導で秩禄処分(当然合わせて地租改正)は行われました。まず俸禄償還(反対給付としての金禄公債の付与)そして俸禄への課税が為されました。俸禄償還は自由意思で行われます。そして明治9年に俸禄償還は強制になります。最終的な政府決定は5ヵ年分(金緑7万円以上)、から14年分(金緑25円未満)となっております。もちろん俸禄は圧縮されて計算され、上薄下厚です。また金禄公債は出された直後の数年間は売買貸禁止にされています。経済に弱い士族が金融行為により財産を失わないための配慮です。以上の計算によりますと、大半を占める下士層に与えられる7分利付公債は一人分平均年415円で、一日に直すと29円5銭でした。当時の大工職人の日当が45銭、土方のそれが24銭です。こうして武士たちの俸禄は暫時消滅して行きます。
 政府は士族の授産救済に動きます。第一が帰農です。全国の山林原野を安く払い下げそこを開墾して農業を営ませます。これはあまり成功していません。帰商は「武士の商法」という言葉があるくらい失敗の連続でした。しかし明治政府はそれ自体の維持のためにエリ-ト層を必要とします。官吏、士官、警察、教師などなどです。また新興の企業も職員を必要とします。この点では圧倒的な教養を蓄積し識字率(それも難しい字が読める)の高い士族は有利でした。彼らは新たなエリ-ト層になります。海軍の秋山真之や小説家菊池寛の生涯が良い見本です。ある統計によりますと旧士族の30%以上が武士の職分から発展した安定した生活を営んでいたと言われます。
 不平士族の叛乱はあったものの秩禄処分はほぼ平穏理に行われました。日本に来た欧米人は秩禄処分と廃藩置県は暴挙だと言いました。フランスでは納税の公平を試みた議会で、旧勢力の抵抗が激しく結局革命になり8000人がギロチンに消え、内戦外戦で数十万人が死にました。なぜ日本ではこのような壮挙が比較的平穏に行われたのか?そこには武士道というものがあります。武士は領民の生活を安堵させてのみその存在意義があるという「職分意識」を強く持っていました。この責任感をして武士たちに改革を受け入れさせたと言えます。またすでに述べたように江戸時代末期までに日本の社会は資本主義化しており、それに基づく幕藩経営には武士たちは藩政幕政改革で経験済みであったことも重要です。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行