経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝 細川重賢(一部付加)

2020-07-25 16:01:09 | Weblog
経済人列伝  細川重賢(一部付加)

 細川重賢は、藩祖忠利を初代とすれば五代目の肥後熊本藩主です。もっとも家祖藤孝(幽斉)から数えれば7代目に当たります。肥後の細川家はもともと足利幕府の御番衆、つまり旗本でした。藤孝が足利義昭に仕え、さらに織田、豊臣そして徳川と相継ぐ天下人を乗り換え、生き抜いて、関が原の功で藤孝の子忠興の時豊後39万石に襲封されます。三代目忠利は改易された加藤家に代り肥後に入り、熊本を拠点として、肥後一国を治めることになります。以後光尚、綱利、宣紀と続きます。宣紀には5人の男子がいましたが、上の3人は夭折します。5代目藩主は四男の宗孝、五男の重賢は部屋住の身でした。部屋住とは独立して一家を持たず、正式の録を与えられない身分です。普通なら重賢はどこかの大名の養子になるのですが、兄宗孝に嗣子がなく、兄に万一の事があれば、藩主の地位を継ぐいはばスペアとして必要でした。しかし兄に子供ができれば無用の存在、年たけてからでは養子の口はありません。言ってみれば重賢は飼い殺しの存在でした。哀れな立場といっていいでしょう。
 重賢は1720年(享保5年)に生まれています。1747年(延享4年)兄の宗孝が江戸城中で斬殺され、兄の仮養子となっていた重賢が、従四位下左近衛少将越中守として藩主の地位につきます。ちなみに宗孝の殺害は全くの人違いから起こった、細川家としては非常に迷惑な偶発事件でした。どこの藩でも同じですが、熊本藩も財政赤字に苦しみ、農民には苛税、藩士からは半知借上(藩士に与える俸禄の半分を藩が借上げる、実質的には取り上げる)で、武士も農民も貧窮にあえいでいました。農民の逃散は続き、藩の人口は減少してゆきます。藩の首脳部、家老達はどうしていいのか解らなかったのでしょう、その場その場のしのぎに明け暮れ、大阪の鴻池には借財が重なり、どこの商人も細川家だけには金を貸す事は考えられない状況でした。
こんな中重賢はそれまでに描いていた藩政改革を開始します。参勤交代で熊本に入った重賢はまず重役と一門の非礼、重賢を部屋住上がりと軽く見て、正式の拝礼をしない態度を一喝します。藩士全員の総登城を命じ、藩士全員に宣言します。意見書を密封して上申することを勧め、まず下級藩士から救済する事を約束します。それまで藩政を牛耳ってきた6名の重役(家老、ちなみに細川家では他の藩では家老にあたる職務を老中といいます)とその配下の実力者奉行の中に重賢の息のかかったものを入れます。藩政改革は重賢の側近を中心に行われます。側用人竹原勘十郎、観察兼小納戸役堀平太左衛門、監察松野七蔵、儒者秋山玉山が中心メンバ-です。
 なによりも経費削減が急務です。節約が奨励されます。藩組織が簡略化され冗員は省かれます。仕事のない藩士の俸禄は削減されます。出る方を締めてばかりではいけません。入るほうを増やす政策が必要です。なによりも産業振興が模索されました。熊本産の名物が物色され増産を奨励されます。はぜ蠟、樟脳を始めとして、赤酒、水前寺のり、うに、ザボン、朝鮮飴、高瀬飴、山鹿灯篭、肥後こま、高田焼、肥後縞、熊本桶、うちわ、和紙などの産物があります。
 特にはぜは重要視され藩の専売制にされました。それまで一部の特権商人が販売を独占していたのをやめさせ、はぜは藩が買い上げます。集荷と買い取りを藩が独占します。そして藩を通して、一般商人にはぜを売ります。藩が、はぜ売買にのみ通用するはぜ札、を発行してはぜを買い取ります。藩が商人にはぜを売るときは現金を要求します。またはぜ札は現金(幕府発行の金銀銅貨)といつでも交換されるとされました。藩ははぜの売買を独占して利鞘を稼ぎます。またはぜ札の使用で、赤字に苦しむ藩財政に負担をかけることなく、買い取り資金を確保できます。資金は潤沢になります。またはぜ札の発行により、藩内の流通貨幣量は増加し、その分景気を刺激します。藩がはぜ札の交換を約束どおり行う限り、はぜ札は通貨として機能しますから。もっともよほど財政を締めない限り、ついつい札を増刷し、札が現金に比し溢れ、はぜ札の信用は下がります。この辺はやり方次第でしょう。また藩が専売すればどうしても藩の利益を中心に考えるので、買いは安く、売りは高くなり、農民や商人の恨みを買います。はぜから蠟がとれます。蠟は当時一番高級な灯りである蝋燭の原料でした。その意味で普遍的な価値をもつ商品でした。
 藩の組織を簡潔にします。家老達を単なる相談役にして事実上政治への発言権を奪います。すべての権限は、藩主に直属する大奉行に集中させます。大奉行の下に行政官である奉行を定員6名にして設置します。奉行の職務内容を明示します。人事、勘定、普請、城内、船、学校、刑法、屋敷、郡、類族、寺社などです。こうして冗官を除きます。監察機能は大監察に統一し、配下に目付8名と横目10名を配置します。従来からある郡奉行は郡代と改称し大奉行直属にします。改革の焦点である大奉行には掘平太左衛門勝名をあて、大奉行と藩主のみ入れる機密室を設置します。従来の家老重役と大奉行の間には中老をおいて連絡係としますが、当分の間は堀勝名が中老を兼務します。権限は大奉行に完全に集中します。
 刑法が改正されます。従来は死刑と追放の二種の刑罰しかありませんでした。杖刑(鞭打ち)と徒刑(強制労働、懲役)をいれ、刑罰全体を軽くします。徒刑囚には賃金を与え、その半分を貯えさせ、刑期終了時の更正資金にあてさせます。行政と司法を分離しようとします。年貢未納などの経済事件を破廉恥罪と区別します。
 藩士の教育には特に力をいれました。藩校時習館を作り、総裁は名門出身の長岡忠英をあて、実際の教育には秋山玉山を用います。医学と薬学の学校も造りました。再春館といいます。藩営薬草園を設置し種々の薬草を実験的に栽培します。蕃滋園と名づけます。
 武士の帰農も勧めました。本来武士が多すぎるのです。武士の帰農は改革を試みた他の多くの藩も実行しています。
 そして以上の改革計画に基づいて借金返済計画を明示します。新たな借財がどうしても必要であるからです。鴻池に代り、新興商人の長田作兵衛が金主になります。
 重賢襲封の1747年に始まり、治年、斉シゲ(-1807年)と続く三代の君主による藩改革を宝暦の改革と称します。重賢の藩政改革は上杉鷹山や松平定信の改革に影響を与えています。重賢は1985年(天明5年)65歳で死去します。通称は銀台公、彼が部屋住のころいた下屋敷のある芝白金からそういう名称が与えられました。白金とは銀のことです。
 藩政改革の第一号が細川重賢ですが、どの藩でもまた幕府でも財政改革は5代目か6代目の頃から始まります。初代の時に藩を作り、2・3・4代で蓄積を食い潰し、次代の藩主が改革に取り掛かるという段取りです。江戸時代初期、つまり多くの藩が設置された頃、の状況を紙上計算してみましょう。例を極端にして、周防と長門を領有する毛利氏を材料にします。毛利氏は関が原以前120万石でした。一万石で約250人の軍勢をさしださなければいけませんので、毛利氏が抱える全兵員は3万人になります。内1/3が帰農したとします。養わなければならない武士総数は2万人になります。これが30万石に減知された防長二国に押し込まれます。6公4民の取り分として武士層が得る米は18万石、藩と武士個人の取り分を3対7とすれば、平均して武士一家の米収入は6・3石になります。一家4人として一年の米消費量を4石とします。副食を1石と加算すれば5石が一家の食費です。当時のエンゲル係数を80%とすれば、生活費総額は6・25石、なんとか生活できます。家庭菜園や麦などの雑穀を加えれば、飢餓線上というほどのことでもありません。しかし時代の進展とともに、商品(換金)作物が出現し、生活は派手になります。つまりエンゲル係数は低下します。これが武士層貧困化の原因です。農民や町人は生産者ですから換金できる物を持っており貨幣経済の進展についてゆけます。武士が米穀収入に頼っている限り貧困化は避けられません。この状況を背景に藩政改革は始まります。
 藩政改革、藩財政充実の焦点は藩専売制です。これは藩という軍事行政組織が、直に民間の経済行為に参加する企てです。ここで当然、藩と農民商人の間で利益の分配をめぐって対立が起こります。毛利長州藩における天保の一揆などはその代表例です。
 専売制と並んで藩改革で必ずなされる事業が藩校という教育機関の設置です。多くの藩校は1750年以後設置されています。藩自体が商人化し、一部の藩士の帰農を促せば、武士のアイデンティティはぼやけます。為政者支配者指導者としての武士の情操を知育でもって育て護る必要がありました。
 次に述べる上杉鷹山の改革と細川重賢の改革はよく似ています。改革組織の焦点に中級武士をもってきて、中下級武士の賛同で改革を成し遂げようとする点です。人名で言えば、堀勝名とノゾキ戸善政です。
 重賢や鷹山の改革が全面的に成功したとは言い切れません。幕末の横井小楠(熊本)や池田成彬(米沢)の生活を見れば、思い半ばに過ぎます。改革はあくまで崩壊寸前の藩組織の再建、武士層救済を目指してぎりぎりの地点で行われました。人間に利欲というものがある限り、経済は常に運動をします。経済とは変化の連続です。安定した経済などはありえません。

 参考文献  細川重賢  学陽書房
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行



経済人列伝 細川重賢(一部付加)

2020-07-25 15:57:54 | Weblog
経済人列伝  細川重賢(一部付加)

 細川重賢は、藩祖忠利を初代とすれば五代目の肥後熊本藩主です。もっとも家祖藤孝(幽斉)から数えれば7代目に当たります。肥後の細川家はもともと足利幕府の御番衆、つまり旗本でした。藤孝が足利義昭に仕え、さらに織田、豊臣そして徳川と相継ぐ天下人を乗り換え、生き抜いて、関が原の功で藤孝の子忠興の時豊後39万石に襲封されます。三代目忠利は改易された加藤家に代り肥後に入り、熊本を拠点として、肥後一国を治めることになります。以後光尚、綱利、宣紀と続きます。宣紀には5人の男子がいましたが、上の3人は夭折します。5代目藩主は四男の宗孝、五男の重賢は部屋住の身でした。部屋住とは独立して一家を持たず、正式の録を与えられない身分です。普通なら重賢はどこかの大名の養子になるのですが、兄宗孝に嗣子がなく、兄に万一の事があれば、藩主の地位を継ぐいはばスペアとして必要でした。しかし兄に子供ができれば無用の存在、年たけてからでは養子の口はありません。言ってみれば重賢は飼い殺しの存在でした。哀れな立場といっていいでしょう。
 重賢は1720年(享保5年)に生まれています。1747年(延享4年)兄の宗孝が江戸城中で斬殺され、兄の仮養子となっていた重賢が、従四位下左近衛少将越中守として藩主の地位につきます。ちなみに宗孝の殺害は全くの人違いから起こった、細川家としては非常に迷惑な偶発事件でした。どこの藩でも同じですが、熊本藩も財政赤字に苦しみ、農民には苛税、藩士からは半知借上(藩士に与える俸禄の半分を藩が借上げる、実質的には取り上げる)で、武士も農民も貧窮にあえいでいました。農民の逃散は続き、藩の人口は減少してゆきます。藩の首脳部、家老達はどうしていいのか解らなかったのでしょう、その場その場のしのぎに明け暮れ、大阪の鴻池には借財が重なり、どこの商人も細川家だけには金を貸す事は考えられない状況でした。
こんな中重賢はそれまでに描いていた藩政改革を開始します。参勤交代で熊本に入った重賢はまず重役と一門の非礼、重賢を部屋住上がりと軽く見て、正式の拝礼をしない態度を一喝します。藩士全員の総登城を命じ、藩士全員に宣言します。意見書を密封して上申することを勧め、まず下級藩士から救済する事を約束します。それまで藩政を牛耳ってきた6名の重役(家老、ちなみに細川家では他の藩では家老にあたる職務を老中といいます)とその配下の実力者奉行の中に重賢の息のかかったものを入れます。藩政改革は重賢の側近を中心に行われます。側用人竹原勘十郎、観察兼小納戸役堀平太左衛門、監察松野七蔵、儒者秋山玉山が中心メンバ-です。
 なによりも経費削減が急務です。節約が奨励されます。藩組織が簡略化され冗員は省かれます。仕事のない藩士の俸禄は削減されます。出る方を締めてばかりではいけません。入るほうを増やす政策が必要です。なによりも産業振興が模索されました。熊本産の名物が物色され増産を奨励されます。はぜ蠟、樟脳を始めとして、赤酒、水前寺のり、うに、ザボン、朝鮮飴、高瀬飴、山鹿灯篭、肥後こま、高田焼、肥後縞、熊本桶、うちわ、和紙などの産物があります。
 特にはぜは重要視され藩の専売制にされました。それまで一部の特権商人が販売を独占していたのをやめさせ、はぜは藩が買い上げます。集荷と買い取りを藩が独占します。そして藩を通して、一般商人にはぜを売ります。藩が、はぜ売買にのみ通用するはぜ札、を発行してはぜを買い取ります。藩が商人にはぜを売るときは現金を要求します。またはぜ札は現金(幕府発行の金銀銅貨)といつでも交換されるとされました。藩ははぜの売買を独占して利鞘を稼ぎます。またはぜ札の使用で、赤字に苦しむ藩財政に負担をかけることなく、買い取り資金を確保できます。資金は潤沢になります。またはぜ札の発行により、藩内の流通貨幣量は増加し、その分景気を刺激します。藩がはぜ札の交換を約束どおり行う限り、はぜ札は通貨として機能しますから。もっともよほど財政を締めない限り、ついつい札を増刷し、札が現金に比し溢れ、はぜ札の信用は下がります。この辺はやり方次第でしょう。また藩が専売すればどうしても藩の利益を中心に考えるので、買いは安く、売りは高くなり、農民や商人の恨みを買います。はぜから蠟がとれます。蠟は当時一番高級な灯りである蝋燭の原料でした。その意味で普遍的な価値をもつ商品でした。
 藩の組織を簡潔にします。家老達を単なる相談役にして事実上政治への発言権を奪います。すべての権限は、藩主に直属する大奉行に集中させます。大奉行の下に行政官である奉行を定員6名にして設置します。奉行の職務内容を明示します。人事、勘定、普請、城内、船、学校、刑法、屋敷、郡、類族、寺社などです。こうして冗官を除きます。監察機能は大監察に統一し、配下に目付8名と横目10名を配置します。従来からある郡奉行は郡代と改称し大奉行直属にします。改革の焦点である大奉行には掘平太左衛門勝名をあて、大奉行と藩主のみ入れる機密室を設置します。従来の家老重役と大奉行の間には中老をおいて連絡係としますが、当分の間は堀勝名が中老を兼務します。権限は大奉行に完全に集中します。
 刑法が改正されます。従来は死刑と追放の二種の刑罰しかありませんでした。杖刑(鞭打ち)と徒刑(強制労働、懲役)をいれ、刑罰全体を軽くします。徒刑囚には賃金を与え、その半分を貯えさせ、刑期終了時の更正資金にあてさせます。行政と司法を分離しようとします。年貢未納などの経済事件を破廉恥罪と区別します。
 藩士の教育には特に力をいれました。藩校時習館を作り、総裁は名門出身の長岡忠英をあて、実際の教育には秋山玉山を用います。医学と薬学の学校も造りました。再春館といいます。藩営薬草園を設置し種々の薬草を実験的に栽培します。蕃滋園と名づけます。
 武士の帰農も勧めました。本来武士が多すぎるのです。武士の帰農は改革を試みた他の多くの藩も実行しています。
 そして以上の改革計画に基づいて借金返済計画を明示します。新たな借財がどうしても必要であるからです。鴻池に代り、新興商人の長田作兵衛が金主になります。
 重賢襲封の1747年に始まり、治年、斉シゲ(-1807年)と続く三代の君主による藩改革を宝暦の改革と称します。重賢の藩政改革は上杉鷹山や松平定信の改革に影響を与えています。重賢は1985年(天明5年)65歳で死去します。通称は銀台公、彼が部屋住のころいた下屋敷のある芝白金からそういう名称が与えられました。白金とは銀のことです。
 藩政改革の第一号が細川重賢ですが、どの藩でもまた幕府でも財政改革は5代目か6代目の頃から始まります。初代の時に藩を作り、2・3・4代で蓄積を食い潰し、次代の藩主が改革に取り掛かるという段取りです。江戸時代初期、つまり多くの藩が設置された頃、の状況を紙上計算してみましょう。例を極端にして、周防と長門を領有する毛利氏を材料にします。毛利氏は関が原以前120万石でした。一万石で約250人の軍勢をさしださなければいけませんので、毛利氏が抱える全兵員は3万人になります。内1/3が帰農したとします。養わなければならない武士総数は2万人になります。これが30万石に減知された防長二国に押し込まれます。6公4民の取り分として武士層が得る米は18万石、藩と武士個人の取り分を3対7とすれば、平均して武士一家の米収入は6・3石になります。一家4人として一年の米消費量を4石とします。副食を1石と加算すれば5石が一家の食費です。当時のエンゲル係数を80%とすれば、生活費総額は6・25石、なんとか生活できます。家庭菜園や麦などの雑穀を加えれば、飢餓線上というほどのことでもありません。しかし時代の進展とともに、商品(換金)作物が出現し、生活は派手になります。つまりエンゲル係数は低下します。これが武士層貧困化の原因です。農民や町人は生産者ですから換金できる物を持っており貨幣経済の進展についてゆけます。武士が米穀収入に頼っている限り貧困化は避けられません。この状況を背景に藩政改革は始まります。
 藩政改革、藩財政充実の焦点は藩専売制です。これは藩という軍事行政組織が、直に民間の経済行為に参加する企てです。ここで当然、藩と農民商人の間で利益の分配をめぐって対立が起こります。毛利長州藩における天保の一揆などはその代表例です。
 専売制と並んで藩改革で必ずなされる事業が藩校という教育機関の設置です。多くの藩校は1750年以後設置されています。藩自体が商人化し、一部の藩士の帰農を促せば、武士のアイデンティティはぼやけます。為政者支配者指導者としての武士の情操を知育でもって育て護る必要がありました。
 次に述べる上杉鷹山の改革と細川重賢の改革はよく似ています。改革組織の焦点に中級武士をもってきて、中下級武士の賛同で改革を成し遂げようとする点です。人名で言えば、堀勝名とノゾキ戸善政です。
 重賢や鷹山の改革が全面的に成功したとは言い切れません。幕末の横井小楠(熊本)や池田成彬(米沢)の生活を見れば、思い半ばに過ぎます。改革はあくまで崩壊寸前の藩組織の再建、武士層救済を目指してぎりぎりの地点で行われました。人間に利欲というものがある限り、経済は常に運動をします。経済とは変化の連続です。安定した経済などはありえません。

 参考文献  細川重賢  学陽書房
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行



皇室の歴史 点々素描(15)

2020-07-25 13:35:23 | Weblog
      皇室の歴史 点々素描(15)

 白河法皇(天皇、上皇と年代により異なりますが、法皇で統一します)の事績は大きく三つになります。武力と僧兵と醜聞です。院政期には武士団が台頭し政治的実力を発揮し始めます。荘園制が発展するとともにその地の実力者である武士の力は強くなります。大量の武力を用いた戦闘が起こります。その代表が前九年の役(後冷泉天皇の時代)と後三年の役(白河執政期)です。奥羽の戦闘を主導した源氏、源義家は武士の棟梁となり、位階を昇進させます。しかし清和源氏一族は内部闘争で力を失います。代わって台頭してきたのが義家の長男で西国で暴乱を繰り返していた義親を征伐し、更に西国の海賊を掃討して彼らを家人に入れた桓武平氏です。白河法皇は彼らを適宜利用しました。武士の力に頼らなければならなかったのは、先に述べたように荘園と公領の矛盾が激化し、地方の治安さえ武士なしには維持できなかったからです。白河法皇は宮中に武者所とか北面とかいう武装機構を作りました。これには白河法皇の皇統政策も影響しています。彼が強引な事をするので皇族貴族の間には不満は溜まっていました。クーデタ-を恐れていたのです。
 僧兵に関しても荘園と武士に関して述べたのと同様の事が言えます。当時の寺院は大荘園領主でした。自らの権益は自らの力で守ります。寺院の僧侶以下の各員はすべて皆武装でした。僧兵は自己の利害を主張して都に乱入します。この行為を強訴といいます。その数は時として数千を数えます。武士の都における役割の大半は僧兵の乱入阻止でした。特に比叡山延暦寺と南都(奈良)興福寺は僧兵で有名で、たびたび武士と衝突を繰り返しました。ともかく都の周囲をぐるりと寺院が取り巻き僧兵を擁しているのですから、物騒です。後年平氏が都落ちしたのも、究極的には寺院との争闘に敗れたからです。
 醜聞に関しての話はゴマンとあります。肝心な部分のみ書きます。白河法皇は中宮藤原賢子をすごく寵愛していました。この賢子が死去します、それから法皇の性生活は乱れます。法皇の子供はすべて潜在的皇位継承者ですから、記録しなければなりません。法王は仔細を尋ねる側近に「詳しくは解らない」と述べました。そういう次第です。法王は鳥羽天皇(法皇の孫)の中宮であった藤原たま子を偏愛します。たま子がまだ少女であり中宮候補であったころから自分の寝床に入れて可愛がりました。たま子が長ずるに及びこの偏愛は性愛に移行します。鳥羽天皇は未だ幼少で事態が解らないのをいい事に二人は不倫を続けます。女を知り尽くした男によって可愛がられ愛されるのですから、当然たま子も淫乱になったでしょう。鳥羽天皇も長じるに従いうすうす事情は解ります。問題は鳥羽天皇とたま子の間にできた顕仁親王の血縁です。この親王は嫡子であり、また白河法皇の影響もあり即位しました。崇徳天皇です。前後の関係から崇徳天皇は鳥羽天皇の子供でもあり、また白河法皇の孫でもありえます。鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子」といって避けたと、言われます。問題の真偽は解りません。しかし叔父子説の方が有力なようです。この問題は保元の乱の導火線になります。また白河法皇には祇園女御という愛人がいました。この女御(あるいわ彼女の妹)が孕んだまま平忠盛に下げ渡されます。できた男子が平清盛です。この話は事実のようです。そうなると保元の乱は別の意味で、兄弟同士の争いにもなります。崇徳上皇は乱の張本人であり、清盛は反対側武力の中軸だったのですから。
 このようにして「ままならぬものは、加茂の水と、双六のめと山法師」と言った白河法皇は子孫に業縁を残しつつ幸せな一生を終えます。1129年死去、享年76歳、在位14年、実質的執政期は57年の長きに渡ります。長すぎた一生とも言えましょう。
 白河天皇の次代が彼の長子である堀川天皇です。7歳即位、幼帝です。白河法皇はこの皇子を得て、異父弟による皇統を阻止しえたのですが、堀川天皇はその点を除けば影の薄い君主でした。父親の白河法皇の存在があまりにも大きく、天皇は実際の政治に参画できません。堀川天皇は賢明の聞こえが高かったと言われております。晩年は管弦など風流の道に精進しました。28歳で夭折します。天皇の闘病記は藤原長子の「讃岐典司日記」に克明に記されていますが、病気との戦いや死への恐れは強烈鮮明に描かれています。
 次代の天皇が鳥羽天皇です。堀川天皇の皇子で4歳に即位します。在位13年、この間は白河法皇の院政期で天皇には政治への実権はありません。退位して三年後幸いなことに白河法皇が死去します。以後死去するまでの30年間上皇そして法皇として院政をしき政治を領導します。白河法皇の時院政が確立され、上皇・法皇は治天の君と呼ばれるように、実際政治の名実ともの執政者でした。先に申しますと白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四人が実際の院政の主でした。なおこの治天の君の皇族への絶対的影響力は強く、江戸時代に入っても永続されます。
 鳥羽天皇の後宮は複雑でした。先記の通り中宮たま子(待賢門院)には素行上の問題があります。しかし鳥羽上皇は彼女を愛していたようです。ところが鳥羽上皇は院の近臣の娘得子を宮中に入れて女御として寵愛します。彼女を美福門院と言います。上皇の愛情は美福門院に傾きます。鳥羽天皇の次代は白河法皇の意向により崇徳天皇です。崇徳天皇は父親(?)後鳥羽天皇の意向により退位させられ次代は鳥羽天皇と美福門院の間にできた近衛天皇になります。ここで問題が起こります。近衛天皇は崇徳上皇の「皇太子」とされると約束されたのですが、出来上がった正式文書では「皇太弟」となっております。院政をしくには天皇が直系の我が子でないといけません。そのように慣習ができていたのです。これでは崇徳上皇は院政をしけません。詐欺です。この事件は鳥羽上皇の意図からでたのかそれとも美福門院の陰謀なのかは解りません。この事件は当然崇徳上皇の不満を呼び、保元の乱の導火線になってゆきます。崇徳天皇は以後15年雌伏を強いられ近衛天皇がなくなりほぼ同時に鳥羽上皇が亡くなると保元の乱を起こすことになります。崇徳上皇は歌人でもあります。秀歌は多く、「詞歌集」という勅撰和歌集を作っています。「千早ぶる、神代もきかず、竜田川、唐くれないに、水くくるとは」は確か崇徳上皇の歌のはずです。藤原定家の作った小倉百院一首にも選ばれています。もっともこの定家の対応は後に怨霊となった上皇への鎮魂の儀礼であったかもしれません。
 鳥羽上皇の時の政治は白河法皇のそれとあまり変わりはありません。ここで藤原氏(摂関家)に内訌が起こります。藤原忠実は白河法皇の忌憚に触れ宇治に隠棲させられました。鳥羽院政になると忠実は復権します。そこでそれまで関白として政治に参画していた長男の忠通と対立し始めます。忠実は次男頼長を偏愛していました。対立は忠通と頼長の争いになります。両者は摂関の地位と藤原氏の氏の長者(藤原氏の家長ないし族長)の地位をめぐって争います。近衛天皇は病弱で16歳で死去します。鳥羽上皇も後を追うようにして亡くなります。崇徳上皇は自分の皇子重仁親王の即位を期待します。自分の院政が開始できるからです。しかし鳥羽上皇の意図があったのか、皇位は雅仁親王の皇子であり、美福門院の養子でもあった守仁親王(後の二条天皇)にまわってきます。しかし直に天皇にするのではなく中継ぎとして父親の雅仁親王が後白河天皇として建てられます。後白河天皇は中継ぎのはずでしたが即位三年後退位し院政をしき、以後34年間治天の君として政治を執行し保元平治の乱も生き抜き、平氏一門と渡り合い、源頼朝とも丁々発止の駆け引きをして、頼朝から「日本一の大天狗」と言われ1192年鎌倉幕府の成立を見せさせられて死去します。院政の主治天の君として君臨する人はどういうわけか本命でない人が多いのです。本命で院政を開始できたのは鳥羽上皇だけでしょう。
 後白河天皇の即位に不満を抱いた崇徳上皇はやはり台閣から疎外されていた藤原頼長と組み、在京の武力をかき集めて天皇方と戦闘に及びます。天皇方の武力の中心は平清盛そして源義朝でした。武力に勝る天皇方が勝ち、崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦死、上皇方の武士はほぼ全員処刑されました。上皇の起こした戦は国家への反逆とみなされたので厳しい処分になったのです。院政に潜在(顕在と言ってもいいくらいです)していた矛盾は結局武力でしか解決できないことが解りました。武士は自分たちの実力に目覚めさせられます。「愚管抄」で慈円は「これより武家の時代が始まった」と書いています。
 乱後、後白河上皇の側近(乳母の夫)である、少納言入道信西(藤原通憲)が絶大な力を持ちます。彼は事実上全権力を掌握します。保元の乱で上皇方を追い詰め挑発し武士を指揮したのはこの信西入道でした。彼は抜群の秀才(むしろ天才とも言うべきか)でありマキャベリストでした。彼の子供たちもすべて優秀で政治家また宗教家として歴史に名を留めています。この信西に対立した公卿の一団があります。この勢力は藤原信頼を中心とします。これに二条天皇親政派と後白河上皇の院政派の対立がからみ、さらに源平二氏の摩擦もあり、1159年平治の乱が起こります。信西は殺され、源義朝は敗死し、以後院政と天皇親政派の対立は続きます。この状況で「あなたこなたして」つまり両派をうまく使い分けて台頭したのが平清盛と平氏一門でした。
 保元の乱であのような強引な皇統の筋書きをしたのは美福門院でした。彼女は崇徳上皇の復讐を恐れました。また清盛の義母池の禅尼は本来重仁親王の乳母で崇徳方につくのが筋ですが、あえて清盛に天皇方への参戦を勧めました。この禅尼には清盛も終生頭が上がりません。また信西入道の政治力は後白河天皇の乳母である妻に負います。

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