経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝 川路聖謨(一部付加)

2020-07-29 17:21:07 | Weblog
経済人列伝 川路聖謨(一部付加)

川路聖謨は1801年に生まれ、1867年幕府瓦解に準じて自決した幕臣です。彼を経済人と言っていいのかどうかはともかく、彼は徳川幕府の典型的な経済官僚です。川路の生涯を顧みて、当時の経済官僚は実際何をしていたのか、を見てみましょう。「聖謨」は「トシアキラ」と読みます。この名前は彼が師事した儒者が四書五経の中の文句からとってくれたもので、彼自身も自分の名前の読み方が解らず「トシアキラ」としたそうです。ちなみに彼は猛烈な勉強家で漢詩にも和歌にも習熟していました。
 川路聖謨は豊後国日田代官所で生まれました。現在の大分県日田市です。父親は代官の手代、つまり地方採用の武士です。手代は代官の手伝いという意味ですが、代官と地元の間にあっていろいろと斡旋する仕事ですので、なにかと謝礼が多く、結構裕福な生活でした。4歳時、父親(内藤氏)は決意して江戸に出ます。父親は西丸徒士に採用されます。この職は武士とはいえ、正式の旗本御家人ではなかったようです。父親は聖謨の将来の出世を願って、彼を川路家の養子にします。川路家もたいした家柄ではありません。旗本御家人のなかで役職のない連中が一括されたグル-プ、小普請組に川路家は代々入っていました。言ってみれば小普請組とは無能で出世街道からはずれた連中の溜まり場です。聖謨は猛烈に勉強し、猛烈な就職運動を展開します。聖堂の学問吟味の試験には落ちましたが、勘定所の筆算吟味の試験には合格します。18歳支配勘定出役になります。勘定所への臨時派遣職員です。しかしこれで役職とそして出世への足がかりができました。非常に運のいい話しです。
 21歳支配勘定になります。勘定所の正式職員です。同時に評定所に出向し留役助、2年後留役になります。評定所とは、老中若年寄、三奉行、大目付さらに目付・勘定吟味役で構成され総計役30人前後で、重要議題を審議する機関です。老中若年寄が一存で決定できない場合、この評定を行います。幕府の合議機関あるいはある種の立法機関と言ってもいいでしょう。もちろん最終の裁可は将軍が下します。留役とは記録係のことですが、予審も行います。留役は評定所の実務者、そして実力者でもありました。将軍に拝謁する資格も持ちます。聖謨(トシアキラ)は寺社奉行吟味調役にもなります。勘定所の職員でありながら、評定所や寺社奉行所に出向するにはわけがあります。評定所も寺社奉行所も自前の官僚機構を持ちません。幕府機構が肥大した後期あるいは末期において、自前の官僚機構を持っているのは、目付職をやや例外として、勘定所だけでした。ここでは支配勘定、勘定組頭、勘定吟味役、勘定奉行(その上は勝手掛老中-財政担当大臣))ときちんとした序列、つまり官僚機構があります。町奉行所の実務は与力同心が行います。奉行と与力以下は截然と分けられ、与力から奉行への昇進はありえません。寺社奉行は大名の職で、実務を大名の家臣がとったとしても、正式な発言権はないし、そこから上の幕府の役職につくことは不可能です。
 勘定奉行は町奉行、寺社奉行とならんで幕府行政の実務をとります。勘定奉行の職務は天領からの徴税とそれに伴う訴訟でした。綱吉の代になり、財政が逼迫します。徴税を能率的にするために、勘定吟味役というポジションを作りました。通常四名からなり、徴税実務の監視が主な仕事ですが、奉行を超えて老中じきじきに提案上訴することができました。この勘定吟味役を設置することで、勘定所は官僚的階層性が他のポジションより整備されることになります。時代が進むと、勘定所は幕府行政官の輩出地になります。理由は時代が進むほど、財政の行政における比重が増してくるからです。幕府後期から末期にかけては、幕政の実務に責任を持つ中堅層は、勘定吟味役か目付のどちらかの出身者でした。目付は多くの場合名門旗本、対して勘定吟味役は卑賤あるいは軽微な地位の出身者で占められました。聖謨は後者の典型です。
 支配勘定そして評定所留役になった聖謨(トシアキラ)がした大仕事は、彦根藩領と宮津藩領の間で起こった山境紛議取調です。両藩領の村民が山をめぐってともにその所有権を争います。聖謨は下僚を率いて紛争地に赴き、検地して所有の帰趨を決めます。この時彼は下僚達に、金品を受け取らない、食事は一汁一菜にすることを誓わせ、実行します。
 勘定所所属といえば、その主たる任務は経済関係のことのはずですが、既に述べましたとおり、勘定所は実務官僚の培地ですから、いろいろなところに出向き、そこでの用件を片付けます。仕事の多くは訴訟への対応ですが、時代がら金公事つまり経済問題が多かったようです。聖謨は吟味取調が迅速で精確、未決事件が非常に少ないので評判になりました。有能な官僚としての名を上げてゆきます。
 31歳、勘定組頭格になります。この地位にあった時有名な仙石騒動の調査を行っています。仙石騒動とは但馬国出石藩仙石家のお家騒動です。藩主と同族の国家老仙石左京が自分の子供に藩主の地位を継がせようと策動します。聖謨は間宮林蔵を使って調査し左京を告発しようとします。幕閣内部で動揺がありましたが、将軍家斉の意向で取調べとなり、左京は死罪になり出石藩は減知されます。
 35歳、勘定吟味役になります。異例の昇進です。37歳、五両金の新鋳と一分判金の改鋳を命じられます。38歳、西丸普請の用材伐採の監督として木曽出張を命じられます。木曽の木材は尾張藩のうちでしたが、新任藩主と家臣の間で、用材提供の意志が徹底せず、こういうこみいった事情ゆえに江戸からじきじきに吟味役が出張しました。この時も金品贈与と接待の攻勢に悩みます。39歳、一分銀と通用銀の吹立御用を拝命します。この頃蛮社の獄に巻き込まれかけます。渡辺崋山と親密な交際をしていたからです。
 40歳、佐渡奉行に任命されます。初めての奉行職です。一定の範囲の職務をある程度独立して行える職務です。佐渡金山の管理とあとは佐渡の一般行政を行いました。
 41歳、小普請奉行になります。小普請とは江戸城をはじめとする江戸市内の幕府関係建築物の営繕修理が職務です。今度は金を使う仕事に回ります。勘定所は現在でいう経済産業省の仕事も兼ねていました。仕事の関係上業者との癒着が多く、問題の起こりやすいポジションです。この年1841年天保の改革が始まります。聖謨は水野忠邦の改革に積極的に協力しました。彼は任官して従五位下左衛門尉になります。
 43歳、普請奉行になります。仕事は幕府が行う建築の指導と監督です。前職同様、業者と腐れ縁のできやすい職場です。小普請と普請の奉行に彼が任命されたのは、水野がこのような職場での風紀粛清をねらったからでしょう。
 46歳奈良奉行に転出します。やや左遷じみています。聖謨は奈良に6年間いました。結構楽しかったようです。賭博を取り締まり、年少犯罪の防止対策を講じ、拷問を廃止し、貧民を救済し、囚人に憐れみをかけ、植樹植林に務め、学問を奨励します。裁判は迅速で滞獄は減少しました。聖謨は忠義な幕臣ですが、同時に勤皇の志も篤く、奈良奉行在任中御陵を調べ、「神武御陵考」という本を出版しています。奈良の吏民から慕われました。後年彼が所用で京大阪を通る時奈良(と大阪)の役人や庶民がおしかけ、応接に一苦労します。
 51歳、大阪東町奉行。1852年パリ-来航を予期した老中阿部正弘に呼び返され、勘定奉行に任命されます。翌年ロシア公使プチャ-チンが長崎に来航、聖謨は海防掛に任命され長崎に赴きます。以後安政の大獄まで聖謨は外交そして軍事の面で老中直属の高級官僚として活躍します。
 プチャ-チンとの交渉内容の主たるものは開港と国境画定の二件です。樺太の国境をどこにするかに関しては、結局定まらず、雑居ということになります。ロシアは江戸か大阪近海の二箇所開港を要求します。幕府は、原則として開港には応じるが、準備不足時期尚早と対応します。つまりぶらかして時間をかせごうという腹です。聖謨はこの幕府の方針に従い、硬軟両様の手段を用いて対応します。プチャ-チンと聖謨は個人的には意気投合します。
 55歳、下田取締掛になります。下田にやってきたアメリカ総領事ハリスとの対応の責任者になります。併行して軍事掛に任じられ軍制改革を担当します。品川台場築造を行います。蕃書翻訳御用掛に任じられます。彼は洋学所建造を進言します。これは実現しました。蕃書調所です。禁裏ご造営掛になり、御所の建築の監督をします。この間住吉、堺、西宮の沿岸を巡視します。海防、台場建造のためです。56歳、外国貿易取締掛、57歳勘定奉行勝手方首座、同年米国総領事T・ハリス上府御用掛、金銀貨吹直吹立の総責任者などの要職(というより緊急緊要な職務)に就きます。金銀の吹直は外国との貿易に対処するための貨幣政策です。詳しくは言いませんが、当初日米の貨幣に含まれる銀量が異なるために、日本は相当な銀の損失を蒙りました。この害を防ぐためには銀貨そして金貨の金銀含有量を変えねばなりません。
 1958年58歳、老中堀田正睦に随行して、開国の勅許をいただきに上京します。天皇や公卿の頑迷な保守性のため勅許を得られません。また将軍継嗣問題で聖謨は、一橋慶喜を押す進言をします。ちょうど井伊直弼が大老に就任した直後のことでした。にらまれた聖謨は西丸留守居に左遷されます。典型的な閑職です。5年後の1863年62歳時、再び外国奉行に登用されます。66歳中風の発作を起こし半身不随になります。発作はさらに二回繰り返されます。1868年(明治元年)西郷隆盛と勝海舟が江戸城で会談します。江戸城明け渡しの報を聞いて、同年3月17日拳銃で自決します。享年68歳。
 聖謨(トシアキラ)の性格はどう形容していいか解りません。謹厳なのは事実ですが、この言葉の範囲には収まりません。仕事はてきぱきしますが、頭の切れる才子風のところはありません。官吏としては極めて清潔です。が、この面でつっぱったような風もありません。自己宣伝はしませんが、仕事の面では遠慮はしません。努力家ですが、がちがちしたところはありません。開明的です。拷問に反対します。外国と折衝しなければならなくなった時、60歳前後でオランダ語を学びはじめます。勉強家で読書家、剣術と槍術には熱心で、和歌漢詩をよくします。絵に描いたような能吏ですが、冷たいところがなく、骨太です。剛直ですが、水野忠邦、阿部正弘、堀田正睦などの閣僚には信頼され可愛がられました。官僚を超えた、政治家としての資質もあります。もっともこの可能性は井伊により摘み取られてしまいます。幕臣として忠義を貫きますが、勤皇家でもあります。交友関係は広かった。藤田東湖、渡辺崋山、徳川斉昭、佐久間象山、江川太郎左衛門、佐藤一斎、板倉勝静などなどが有名なところです。なお聖謨は人生で4度結婚しています。最後の妻とは死ぬまで沿いとげます。
 彼が任官したとき、律令制の官名を名乗らなければなりません。聖謨の通称は三右衛門だったので、音が似ている左衛門尉を名乗りました。そういうことに拘泥しない人です。
 挿話をいくつか話してみましょう。聖謨が下田掛を担当しているときに大事件が持ち上がります。吉田寅次郎(松陰)他2名が米国軍艦に行って、米国行きを依頼します。彼らは断られます。身元がわかります。寅次郎は彼の師匠である佐久間象山の指示で出国を企てたことも解ります。本来なら両名とも国禁を犯したのですから、死罪です。二人は国許での謹慎ですみました。この影に佐久間の友人である聖謨の尽力があったと伝えられています。
 川路聖謨は井伊直弼により政治生命を奪われました。彼だけではありません。多くの有能な幕府官僚は一橋慶喜の支持者でした。彼らも政治生命を失います。井伊が倒れて後急速に幕府は衰弱しますが、その原因の一つは有能な実務官僚が払底していたからでもあります。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


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